「加持さぁ〜ん!!」

廊下を歩いていた加持は後から掛けられた黄色い声に振り返った。 と、同時に鈍重な―――あくまで飛び付いた本人にとっては軽い―――衝撃を受けてよろめく。
気管にダメージを受けて盛大に咳き込み、眼に涙を浮かべつつも加持は 飛び付いた相手の顔を確認するといつもの笑みを浮かべた。

「よぉアスカ。久し振りだな。」
「も〜加持さんってば。ぜんっぜん会いに来てくれないんだもん。
ネルフに来たって加持さんの部屋、いつも空っぽだし。」
「はは、悪いな。最近忙しくってな。」

俺の職場は外回りだし。
そう言って加持はよれよれのカッターシャツをまくり上げた。

「たまにはデートでもしましょうよ〜。」
「そいつはお姫様からのありがたい申し出だな。
だけど遠慮しとくよ。」

怖い彼氏が睨んでるからな、と言いながら加持は顎でアスカの背後を差す。

「ひどいですよ、加持さん。僕はそこまで嫉妬深くありませんよ。」

釣られてアスカが振り向くと同時に、半分不貞腐れた声で返事が返される。

「いやぁ、どうかな?」
「相手がアスカですからね。他の人に取られたくないっていうのはありますけど、 加持さんが相手なら、まあ僕も諦めがつきますよ。」
「ホントかい?」
「……スイマセン、嘘吐きました。」

土下座。一瞬で。
笑い合うシンジと加持。後ろではレイもわずかに微笑んで二人のやり取りを見ていた。
だが加持の胸の中に居るアスカの顔は足元のシンジに向かったまま、少しも緩む事は無かった。

「流石に後ろから刺されるのはゴメンだからな。
お姫様はシンジ君にお返しするよ。」

アスカの背中を押し、加持はシンジに向かってアスカを促す。 そして三人に背を向けると、軽く手を挙げてまた廊下を歩き出した。

「悪いな。これからまた仕事なんだ。」
「あ、はい。スミマセン、お仕事の邪魔しちゃって。」

シンジが頭を下げると加持は笑みを浮かべてエレベーターへと足を進めた。

「二人とも、仲良くな。」
「え?」

加持の言葉に思わずシンジが聞き返す。
だがその声が加持に届く事は無かった。
固く閉ざされたエレベーターの扉。 無機質なそれがシンジには、加持が自分を拒絶した様に思えた。


エレベーターに乗り込んだ加持は、二人に向けていた笑みを隠し、視線を鋭く変化させた。
適当な階数のボタンを押し、そして両手をポケットに突っ込むと、右手をわずかに動かす。 だがその動作は至って自然で、ポケットのふくらみは全く変化しない。
下降する鋼鉄の箱。やけにアナログな階数表示がカチ、カチとレトロな音を立てる。
胸ポケットからタバコを取り出し、火を点けた。
一度紫煙を吐き出すと、加持は一枚のカードを取り出した。
NERVと白字で印字された、深紅のカード。 NERVに所属している者ならば誰でも持っているそれだが、裏には必ず貼り付けられている加持の写真は無い。

加持が階数ボタンの下にあるカバーを開けると、カードリーダーが現れる。 それにカードを通し、埋め込まれたモニターに映し出された文字が赤から緑へと変わり、 先ほど加持が押したボタンに灯っていた灯りが消える。

加速するエレベーター。 急加速に伴う慣性力を感じて、加持は足に力を込める。
カタタタタ、と奇妙な音を立てて目まぐるしく回転する表示板。 聞き慣れないその音に、加持は背中を震わせた。

やがてゼロに速度は収束していく。
加速時とは逆の浮遊感を感じながらも、エレベーターが止まり、扉が開くと加持は 足を地にしっかりとつける様に一歩踏み出した。

エレベーターの光が漆黒の廊下を照らし出す。 だが扉が完全に閉じると闇だけが世界を支配し、 しかしそれも一瞬の事で、細い廊下の両脇の壁の下部に取り付けられた ライトが灯る。
それはまるで加持を奥へと誘う様で、それでいて加持はそれが何か罠であるかの様に思えた。

―――大丈夫。ばれてはいないはずだ。

頭の中で自分が行った手順を確認し、加持は再び歩を進める。
音も無く歩き続ける加持。 気配を消し、念を入れて周囲の警戒を怠る事無く前へと進んだ。
そして数分経つ事無く現れる一つの扉。 上部に取り付けられたプレートを薄暗いライトが照らし出す。 それを見て加持は、緊張からか乾いた唇を舐める。 その顔には小さな笑みが浮かんでいた。

―――人工進化研究室第三分娩室。ここに何があるというのか。

開かれる。禁断の扉が。
エレベーター内で使ったのとは別のカードを取り出すと、加持は同じ様にカードリーダーにカードを走らせる。
小さく音を立て、文字がClosedからOpenに切り替わり、ロックが外れる音が響いた。
ギギギ、と軋んで扉がゆっくりと開かれていく。開けられていく。
巡礼者を祝うかの様な漏れ出る淡い光が、加持の顔を照らし出した。


















第弐拾壱話 置き去られた、記憶













「ふ〜ん、じゃあ二人ともお互いの行動とか筒抜けなんだ。」
「ええ、だから迂闊に変な事出来ないんですよね。」

自分で作った晩飯に箸を伸ばしながら、僕はミサトさんに応えた。 眼の前には大皿に盛られた肉野菜炒め。ミサトさんの作れというリクエストに応えて しぶしぶながらも適当に作ったんだけど、その割には我ながらよく出来てる。 腹が減ってたのも相まって、意識はどちらかとミサトさんの質問よりもご飯の方に傾いてたり。

「ふふ〜ん、変な事って何かな〜?」
「少なくともミサトさんが考えてる様な事じゃないとだけ答えておきます。」

いい大人がにやけて聞く事ですか、ミサトさん。 第一、今は食事中ですよ?

「え〜いいじゃない。ノリが悪いわね。
あ、まだアルコールが足りないんでしょ?折角の久しぶりの家族揃っての夕飯なんだから、 ほらほら、シンジ君も飲んで飲んで。レイもどう?」
「……綾波さんにまで勧めないでください。
それに、そろそろミサトさんもお腹の事気にした方がいいんじゃないですか?」
「……どういう事かしら?シンジ君?」
「そのまんまの意味です。」
「言ってくれるわ「あ、綾波さん。料理するの久々だったんだけど、どうかな?大丈夫?」
「……問題無いわ。十分美味しい。」

それを聞いて僕はホッと胸を撫で下ろした。ミサトさんの文句は無視。
何せ気が付いたら病院のベッドで寝てたし、日付はいつの間にか一月も経ってるし、 まるっきり浦島太郎気分で、なのに退院した日に速攻で飯を作れと家主はのたまいやがるし、 おまけに綾波さんまで居るし。 僕の退院祝いのはずなのに準備は全部僕だし。くそう、たまには自分で作れよ。 ……とは言えない悲しさ。ミサトさんに下手に手料理作らせたら、また病院に逆走しないといけない可能性大だし、 何が出てくるかも分かんないし。
だからこれ位のチクリは許してもらおう。

「何よ、シンジ君のイジワル……」 「はいはい、ごめんなさいごめんなさい。だからいい大人がいじけないでください。」
「ダメ。誠意が足りない。立ち直れません。」

この大人は……最近ミサトさんキャラ変わってますよ?
ああ、隣で綾波さんも妙に生暖かい目で見てるし。てか僕の所為ですか!?ああそうですか。

「で、僕はどうすればいいんですか?」
「そうねぇ……
シン君だっけ?に会わせてくれたら許してあげるわ。」
「シンに、ですか?」

どうも僕が眠ってる間にシンがずっと僕の代わりに外に出てたらしくて、 ミサトさんには知られてるって話だったと思うんだけど……

「あれ、ミサトさん会ったこと無いんですか?」
「そうなのよ。話には聞いては居るんだけどね。だから、ね?」

まあそれでミサトさんの機嫌が直るならいいけど。 別に機嫌なんて最初から損ねて無いだろうけどね。

「頼んでみますけど、そんなに嬉しいですか?」
「そりゃもう!
だって……家族が正式に増えるんだもの。」

そう言って、ミサトさんは嬉しそうに微笑んだ。
家族。その言葉がじんわりと僕のココロに染み込んでいく。
こうやってミサトさんと暮らし始めて約半年。その時、こんな気持ちになれるなんて、予想していただろうか。
別にミサトさんに好きも嫌いも無くて、ただ住めというから一緒に住んでいただけ。

「……さて、こうやって話すのは初めてだな。葛城さん。」
「ええ、そうね。改めてよろしくね、シン君。」

だけど今、こうして冗談を言い合って笑い合ってる。 隣には綾波さんが居て、アスカが居て、たまにだけど皆とこうして一つの食卓を囲めてる。

「綾波も、よろしく。」
「……よろしく。」

一度目は失って、二度目は自分から捨てた。 三度目は、今度こそは失いたくない。

「でも突然変わるのね。変わった瞬間が全然分かんなかったわ。」
「ああ、シンジの奴がボーっとしてたからな。勝手に出てこさせてもらった。」

ん?あれ!?いつの間に僕がこっち側に!?

(ようやく気付いたか。)

ま、いいか。新しい家族のお披露目だし。
あ、でもアスカが居ないや。ご飯は要らないって言ってたけど、どうしたんだろう?

「ん?ああ、そうだな。
葛城さん、アスカはどうしたんですか?」

今日はここに皆揃ってるから分かるように、特にテストも何も無い。
流石にアスカの予定を全部は知らないけど、さっきまで部屋にいたと思うんだけど……

「あ〜、アスカね。
ほら、あの子は今日はアレの日だから。」

あ〜…なるほど。それならしょうがないか。
さっきネルフで会った時は元気そうだったから、今晩は久しぶりにゆっくり話そうと思ったんだけど、 残念。 なら今日は……

「ミサトさんで我慢するのか?」
『……それは無理があるかも。』 「だろうな。」
「……会話の流れは分かんないけど、なぜか不快になるのは気のせいかしら?」

む?鋭いな。流石ミサトさん。という訳でシン、言い訳よろしく。

「気にするな。きっと気のせいだ。」
「アンタ達やっぱり似た者同士だわ。」









    a nuisance―――














カラン。 手の中のグラスが澄んだ音を立てる。
薄暗い部屋の中でゲンドウはウイスキーの入ったグラスを傾け、中の氷がもう一度音を立てた。
ゲンドウは琥珀色の液体をじっと見つめる。透明な液体がゲンドウの顔を映し出すが、 揺れる液面は歪んだ返事をゲンドウに差し戻す。 それを飲み干す様に、ゲンドウはグラスを大きく傾け、大きな溜息を吐いた。

「今日も泊まるのか?」
「ああ。」

帰りの支度をしていた冬月が尋ね、それにゲンドウは背を向けたままいつも通り短く答えた。
外に向けられたソファに深く腰掛け、外からブラインド越しに漏れてくる灯りにわずかに目を細める。 ずれたサングラスを掛け直し、深く溜息を吐いて手の中の一枚をテーブルに戻した。

「やれやれ……」

腰を叩きながら冬月がグラスと氷を抱えてゲンドウの横に座る。 その姿をゲンドウは珍しい物を見る様な眼で見て、それを感じ取った冬月は思わず苦笑いを浮かべた。

「俺だってたまには飲みたくもなる。久々に仕事が落ち着いたからな。」
「老人に夜更かしは毒だ。」
「これだけ扱き使っておいて何を……」

冬月としては色々とゲンドウに言いたい事があったが、それをウイスキーと一緒に流し込む。 液体が喉を焼き、胃に落ちていくのを感じながら不満を吐息と共に吐き出すと、 先ほどまでゲンドウが持っていた書類を手に取った。

「これは……ああ、赤木君の報告書か。」
「ああ……
シンジがユイに会ったらしい。」

ゲンドウのその言葉に、冬月は口をつけかけていたグラスをテーブルに置いてゲンドウに問い直す。

「本当か?赤木博士は、覚えて無いみたいだと言っていたが……」
「はっきりとは覚えて無いらしいがな。
シンジは会った気がすると言っただけだ。」
「そうか……」

夢か幻か分からない、信憑性の欠片も無い話。
冬月とてゲンドウの目的は重々承知の上で、しかし自分と目的は異なる。 それでもかつての教え子の存在を―――例えもう二度と会えないとしても――― 確認できたのは冬月にとっても嬉しかった。

(もう少しコイツも嬉しそうにすれば良いものを……)

自分にとっても嬉しいのだから、ゲンドウにとっては喜びはどれ程のものか。
心中は容易に察する事が出来たが、それを口にしはしない。 ゲンドウが滅多に飲まないアルコールを飲んでいる理由を知る事が出来たのだから。

「ならば俺も今日は泊まるか。」
「……付き合う必要はないぞ。」
「なに。不器用な男一人で飲んでもつまらないだろうからな。 それにたまにはお前と飲むのもいいだろう。」
「……物好きな奴だな。」
「お前とユイ君には負けるよ。」

違いない。
小さく笑みを浮かべて呟くと、ゲンドウは再びグラスを傾けた。







1996年 





京都大学構内 








校舎の中を一人の男が歩いていた。 体格はやや大柄。短い髪に日に焼けた浅黒い肌を持ち、右肩にだけバックパックを掛けて手には次の授業の 為に買った真新しいノートを抱えていた。
男が歩く廊下には冬を目前にしては暖かい、柔らかい光が差し込んでいて男の他には 多くの生徒達が歩きながら談笑していた。

ゲンドウは眼を細め、わずかに羨ましそうに見る。 彼らの姿が何とはなしに目が入っただけで、彼には特に他意は無かった。
だが一グループの男女達がゲンドウとすれ違うその直前、ゲンドウのその視線に気付くと それまでのおしゃべりを止め、わずかに目を逸らしてやや急ぎ足に通り過ぎて行った。

その様子を見送りながらゲンドウは苦笑いを浮かべた。
彼にとってはこの様な事は特に珍しい事では無かった。 180を超える長身に加え、強面の顔。更には生来の無愛想で親しい友人は皆無に等しく、歩く時は常に一人。 奨学金は貰っているものの十分な額でも無く、学費を稼ぐ為に種類を問わずバイトに勤しんだ結果 肌は焼け、頬は痩せこけてそれがゲンドウの視線をより厳しいものに見せかけていた。
それが元で、彼にその気は無くともケンカを吹っかけたと誤解された事もある。

それでも彼は何も思わなかった。
彼にとってはそれが普通。 幼い頃に両親と死別し、親戚の家をたらい回しにされ、その先々で 疎外されて生きてきた。
そんな彼にとって生きがいは勉強だった。 孤独なこれまでの人生の中で、勉強だけは彼を裏切らなかった。 生来の頭の良さに加え、勉強しかする事が無い環境もそれにプラスした。 最早ゲンドウにとって学校は勉強する場では無く、次第に興味を失っていった。
ゲンドウは中学卒業と同時に家を出て、高校にも通わず働き、安い木造アパートの一室で独学で勉強を続けた。
一日の大半を仕事に取られ、勉強する時間も満足に取れないながらも 大検を受け、日本最難関の大学にも合格した。

だがそれは同時に彼のこれまでの人生を如実に物語るものでもあった。
誰にも愛される事なく、常に独り。 疎まれてもその逆は無い。 誰を好きになるでもなく、自分を好きになる事も無い。
自分が愛されるなど信じられず、また誰かを愛せるなど、愛というものを信じられない自分が出来るとも思えない。
愛想なんて物は振りまけるほど器用で無い事も自覚しているし、そもそもやり方さえ分からない。
きっとこれからも独りで生きていくのだろう。勉強は好きだがそれで孤独な生活が変わるわけでも無い。 死ぬまで独りで、死ぬ時でさえも誰にも看取られる事は無い。
苦笑いは自嘲の笑みに変わる。
彼は全てを諦めていた。



「きゃっ!!」

背中に衝撃。そして悲鳴とドサドサという何かが崩れる音。
振り返ると一人の女性が紙束の雪の中で尻持ちをついていた。
周囲は同情の視線を送るが、それだけで通り過ぎていく。 手伝おうという者は誰一人としていない。
女性は座り込んだまま呆然と廊下に散らばった紙束を見ていたが、 やがて我に返ると大きく溜息を吐いた。

「やっちゃった……」

呟きと共に力無く一枚ずつ紙を集め始める。 それを見てゲンドウは、何事かボソボソと話し始めた周囲を一睨みすると、 しゃがみ込んで集めるのを手伝い始める。

「ごめんなさい。ぶつかった上に手伝ってもらって……」
「いい。」

ぶっきらぼうにしか言葉を発せない自分に嫌悪しながらも、 黙々と集める。
「あら、貴方は……」

気付いたか。
内心でそうぼやいたゲンドウはその場を早く離れようと動かす手を速める。
彼女の事をゲンドウは知っていた。彼の取っている授業に必ずと言っていいほど先に来て座っていて、 他の学生が内職や睡眠を貪る中、彼女はいつも真面目に授業を聞いていた。
だがそれが何だというのだ。彼女は他の人と違うとでも? 有り得ない。彼女もきっとそうだ。相手が私だと気付けばすぐに離れていくに決まっている。
一面に散らばった書類も二人で集めればすぐに片付いてしまう。 その間、ゲンドウは一度も彼女の見る事は無かった。
最後の一枚を拾い終えて彼女に渡すと、立ち去ろうと踵を返す。

「待って。」

だが彼女はゲンドウを呼び止めた。
何を言われるのやら。吐き出しそうになる溜息を堪えてゲンドウは振り向く。

「ありがとうございました。おかげで助かりました。」
「大した事では無い。」

では失礼する。
短く述べると今度こそ去ろうと一歩踏み出す。 が、またしても呼び止められる。

「あの……よろしかったらお話しできませんか?折角同じ授業を受けているのですし、 ずっとお話してみたかったんです。」

彼女の申し出に、ゲンドウは驚きと共に顔を上げた。
初めて正面から見つめた彼女―――碇ユイの顔は綺麗な笑顔だった。



1996年初冬。彼らは出会った。






1997年 







「いかがでしょうか、冬月先生?」

名前を呼ばれて冬月は視線を手にあったレポートから正面の女性に移した。

「ふむ。二、三疑問が残るが、素晴らしいレポートだと思うよ。
読みながら私も久々にワクワクさせてもらったよ。」

冬月の賛辞に、ユイはホッと胸を撫で下ろすと笑顔を浮かべた。

「そう言って頂けて嬉しいですわ。ゲンドウさんと二人で必死で作り上げた結果ですもの。」
「そうか。そう言えば君達は付き合っているんだったね。」

それまで笑みを浮かべていた冬月だったが、ゲンドウの名が出るとわずかに表情を歪ませる。 そしてそれをユイに見せない様に視線を再びレポートに落とした。
だがその変化はユイに対しては隠す事は出来ない。 ユイも笑顔を悲しげに変化させ、視線を自分の足元に落とす。

「冬月先生もあまり快く思われていないのですね……」
「あまりいい噂は聞かないからね。 まあ、私が知っているのは彼が無愛想な男だという事だけだが。」

冬月は元々人付き合いが良い方では無い。 積極的に学生と絡もうとはしないし、助教授でありながら教授連中とも あまり関わろうとしない為、双方からの評判は―――特に教授達からは―――良くない。
それでも黙っていても噂話というものは自然と耳に入ってくるし、 その中にはユイとゲンドウの噂もかなり含まれていた。 そしてその噂が決して好ましい内容では無い事も冬月は知っている。 が、余計悲しませる事もあるまいと冬月はそれ以上は言う事は無かった。

「皆知らないだけですよ、先生。あの人は本当は凄く優しい人なんです。
ただあの人はそれの表現の仕方を知らないんです。」
「そうかね。ま、君が良いなら私がとやかく言う事では無いが。」
「冬月先生も一度会ってみて下さい。とても可愛い人ですよ。」
「人は見かけによらないとよく言うが……」

可愛い人、という評価はどうかと冬月は思わないでも無いが、 それ以上は口をつぐんだ。
周りがどう言おうが、本人達が幸せならそれで良い。
将来的には分からないが。

「そういえば、ここを卒業した後はどうするのかね?
ここに残るのもいいし、君ならどの研究所でも引く手数多だろう。」
「そんな事はないですよ。
でも、先生。他にも選択肢があるんじゃありません?」

その言葉に冬月は怪訝な顔を浮かべるが、対照的にユイは恥ずかしそうに 頬を染めるとそっと左手を顔の高さまで上げた。

「家庭に入ろうかとも思ってるんです。
と言ってももう入っちゃってるんですけどね。」

嬉しそうに笑うユイを他所に、 冬月は今度こそ言葉を失った。







ある日の晩、研究室からの帰り道に彼女は突然プロポーズを口にした。

「私と……結婚して頂けませんか?」

寝耳に水とはこの様な事を言うのだろう。 大抵の事には驚かない自信があったが、この時は流石に私も驚いた事は覚えている。


大人しい見かけどおりに普段は物静かなユイだったが、 時に眼を見張る様な行動力を示した。 それらの中には随分と間の抜けた行動もあったのには閉口するが。
思い起こしてみれば、特筆すべき様な出来事があった時はいつも彼女の方からだった。 初めて出会った日は彼女がぶつかって来た。 付き合い始めも彼女の方から。デートも彼女がセッティングしたし、 初めて男女の中になったのも彼女が求めてきたからだった。
全てをユイに任せていたというのは自分でも少々恥ずかしい。 世間一般の評価からしてもそうだろう。
だが私は何をすればよいか、全く分からなかった。
言い訳をさせてもらえば、そもそも愛だの恋だの、そういったものに一切関係のない、無縁な生活をしてきた。 学生時代に学園のアイドルやグラビアに心を躍らせる事も無く、 友情さえ知らない。全てを凍りつかせて過ごしてきた。
心に去来するは絶望と無力感だけ。 だからこそ、ユイと付き合っている時は全てが新鮮に感じられたとも言えるのだが。

「ダメ、でしょうか……」

驚きで固まっていたが、ユイの不安げな、すがる様な声で私はようやく我に返った。
揺れる彼女の瞳が胸を締め付ける。やめてくれ。そんな眼で私を見つめないでくれ。

「ダメでは無いが……」

自分でも歯切れの悪いものだと思う。 しかし私には自信が無かった。
何度も言う様に私には愛情というものが分からない。 だがユイと居る時にいつも感じる、何とも言えない暖かさ。 そしてユイを手放したくない、彼女を失いたくないという狂おしい程の独占欲。 もしこれを愛というのならば、私は間違いなく彼女を愛している。
しかし、私がユイに愛されているのか。 その自信がどうしても持てない。
彼女は恐らく私を愛してくれている。 常にそれはユイから感じるし、他の人から感じる蔑みや侮辱、同情の類さえユイには無い様に私には思える。 それでも、それでも私は信じられなかった。 私が人から愛される。それは果たして許されるのか。 信じてもいいのか。私が気付いてないだけで、実はユイはそんな私を見て嗤っているのでは無いか。 そんな恐ろしい考えさえ浮かんで来てしまう。
だからか、私の口からはすぐには答えは出なかった。

「しかし……ご両親は何と言っている?」
「……親は居ません。」
「……すまない。」

固い表情でユイは答え、私は謝る以外の答えを持たない。
いいんですよ、とユイは笑顔を浮かべて手を振り、二、三歩前に出ると彼女は話し始めた。

「両親は私が高校生の時に亡くなりました。 事故だったらしいのですが、詳しくは知りません。あっという間にお葬式まで終わって、 私が両親と対面したのはもう骨になった後でした……」

意外な話、というのが私の本音だった。本来なら彼女の境遇に同情したりするのだろうが、 残念ながら私にはそんな感情は持ち合わせていない。
それはともかくとして、私とは正反対の生い立ちをしていそうな彼女の見た目からは こういう背景は予想していなかった。 育ちも良さそうで、誰にでも親切で見た目に囚われず、頭もいい。 きっとお嬢様で、ご両親に愛されて育ったのだろうというのは容易に想像できた。
だからこそ意外で、それでいて私にも彼女の気持ちが理解できる。
彼女は寂しいのだ。
それまでずっと両親の愛に囲まれて生きてきて、突然それを失ったのだ。 失われた心の隙間。彼女はそれを埋める何かを私に求めているのだろうか。

「なら、ご両親が亡くなられてからはどうしていたんだ? お爺さんとか……」
「祖父母は私が生まれた時にはすでに亡くなられていたようです。
今はその祖父の友人の方が私の後見人となって頂いてます。」
「そうか……」

天涯孤独。私と同じ。 同じ者同士が惹きあう。無意識に。
だからこそ私は彼女を愛し、彼女も私を欲してくれるのか。

「しかし……私には君を幸せに出来る自信が無い。
君はとても出来た人だ。私にはもったいない。」
「ゲンドウさん……」
「勘違いしないでほしい。
その……何だ、私は誰かを好きになった事が無い。
だが私は君に感謝しているんだ。誰かと居てこんなにも嬉しくなれたのは初めてだった……
でも……ダメだと思う。お互い傷を舐め合うだけではきっと……」

口下手なりにも出来るだけ彼女を傷つけない様、私は言葉を選んだ話したつもりだ。 無論そこにおかしなところなど無い。
だがユイは私の顔を見るとクスクスと笑い始めた。
……何かおかしな事でも言っただろうか?

「ごめんなさい。つい……」

彼女が笑っている間、私は取り残された様で、所在なさげに立っているだけだった。
一しきり笑った後、彼女は呼吸を落ち着けるように深呼吸をし、笑顔を浮かべて私に向かって口を開いた。

「ゲンドウさん。 私達は確かにゲンドウさんの言う通り、お互いを慰め合ってるだけなのかもしれません。
残念ですけど、ゲンドウさんの言葉は全て的を得ていると思います。」
「ああ……」
「ですけどゲンドウさん。
幸せはゲンドウさんが与えるものではないんです。私が与えるものでもありません。
幸せは……きっと二人で探していくものだと、私はそう思います。」
「ユイ……」
「正直に言いますと、私はまだ両親の死のショックから立ち直れてないんだと思います。 その辛さを紛らわす為に、私はゲンドウさんを求めてるのかもしれません。
確かにあれは不幸でした。どうして。そう思わずには居られませんでした。
でも私は生きている。なら私は幸せになりたい。
私達が一緒に過ごす事で、その為に辛い事があるかもしれません。 将来傷つけ合って、一緒にならなければ良かった。そう思う時が来るかもしれません。
それでも私は最後は笑って幸せだったと言いたいんです。ゲンドウさん、貴方と……」

言葉が無かった。彼女がここまで私を求めてくれて嬉しかった。 私の眼を見つめて微笑む彼女の言葉を聞きながら何度頷こうと思ったか。 何度はい、と答えて彼女を抱きしめようという衝動に駆られた事か。
それでも私の足は動かない。手は彼女に届かない。 喉は震えない。
こんなにも彼女は、私が求めていたモノをくれるかもしれない人は近くに居るのに。

「ゲンドウさん。」

俯いた私に声が掛けられる。
ここまで言われても踏ん切りのつかない私にとうとう愛想を尽かしたのだろうか。 嗤っているのだろうか。それもいい。その方が私にはお似合いだ。
自重の笑みを浮かべて顔を上げると、そこには対照的に柔らかい笑みを浮かべたユイが立っていた。

「私は……貴方を裏切りません。」

(ああ……)

私はその言葉を待っていたのか。
両親には置いて行かれ、そのまま失った。
次々と変わる家を訪れる度に今度こそは、と期待して、そして全てにおいて裏切られてきた。
私は怖かった。
彼女がいつしか、去って行ってしまうのが。私を捨てて行ってしまうのが。
また独りになるのがこの上なく恐ろしかっただけだった。

震える足を動かして彼女に近づく。彼女も近づく。 凍り付いた腕が、体が、ココロが溶けていく。


私達はこの日、互いの半身となった。










キール、と名乗る老人と出会ったのはそれから数日後の事だった。







NEON GENESIS EVANGELION 
Re-Program



EPISODE 21




I'm on your side.











2000年 









「そんな……正気ですか?」
「無論正気だとも。碇、これは避けられぬ試練なのだよ。人類が生き残る為のな。」

私は自分の耳に入って来た言葉に思わず耳を疑った。 それほどこの老人が言った内容は強烈であり、恐ろしい事でもあった。
眼の前のキール老は何事も無いかの様に椅子に座っていて、だがその顔に浮かぶ無表情の中に私は彼の苦悩を見て取れた。

「人類……我ら人はこの星を、地球(ガイア)を 傷つけ過ぎた。欲望のままにな。
これは我々に下された罰なのかもしれぬ……」
「しかしそうではないかもしれません。せめて……」

彼らに教えてやってほしい。
そう続けようとしたが、キールは言葉を遮る様に椅子を回転させて私に背を向けた。

「無駄だ、碇。ゼーレ(トップ)は彼らを生贄にする。 彼らもそんな事は有り得ないと一笑に伏したよ。」
「何故……」
「彼らにとっては彼ら自身で出した結論こそが真実なのだよ。
理想の中でしか生きられない悲しい生き物だ。」

まるで自らに言い聞かせるかのように語るキール。私はそれ以上の反論を持ち得なかった。


葛城博士の事は私も知っていた。主に嘲笑の対象として。
遺伝子の螺旋構造そのものがエネルギーを生み出し得るという葛城博士の提唱したS2理論。 その中で彼は人類の新たなエネルギー源として、無限に取り出せると主張した。
だが物理を習った高校生でも分かる様に、この世の法則としてエネルギー総量は一定であり、 無限に取り出せるはずも無い。
無論これを学会で発表した葛城博士はあらゆる学会の場で嘲笑の的となった。 事実、私でさえも彼の論文を読んだ時は一笑に伏したものだった。
彼は研究所の職を失い、生物学者としての地位も名誉も全て失った。
しかし、彼に手は差し伸べられた。
ゼーレ。
ドイツ語で魂を意味するその組織はかの昔から世界を裏から操ってきた。
そして彼らは葛城博士に目をつけた。 自分達が所有する裏死海文書。そこに書かれていたモノを確認する為に。
彼が藁にもすがる思いで取ったその手は悪魔のものだったのかもしれない。



南極大陸で20世紀末に発見された巨大生物。
氷の大陸のはるか地下深くで発見されたそれは、完全に活動を止めていたにも関わらず今にも動きだしそうな 圧倒的な存在感を持って佇んでいた。
アダムと名付けられたそれの発見の報は国連を通じてすぐさまゼーレに伝えられ、 全ての情報をストップさせた状態で調査隊が組まれた。 当然ながら葛城博士もそのメンバーに選ばれた。
彼は歓喜していた。
彼の目の前には、かつて嗤われた自らの理論の証明を可能にするかもしれない存在があり、 そして彼にはその自信があったのだろう。 私は、笑みを浮かべて傍らで父親にしがみついている彼の娘を撫でる様を、ただ見つめるだけしか無かった。
彼の娘―――ミサトちゃんといったか―――は不安げな顔で、 父親である葛城博士を見上げた。父親に似たのか、何処となく葛城博士の面影がある。
その顔を見て不意に私はシンジを思い出した。シンジは幸いにしてユイに似ている。 きっと幸せになってくれるだろう。

今の私には妻が居て2歳になったばかりの息子が居る。 その幸せを一時の想いで潰してしまう事は出来ない。
そして私も、今の生活を手放したくはない。
ゼーレに逆らうのが得策でない事は明らかで、結局は私は我が身の可愛さに彼らを見捨てたのだ。



彼らがその命を散らしたのは、私が南極を離れて3日後の事で、 その報は日本を地震が襲ったとの報告と合わせて行われた。










「ひどいわね……」

ユイは目の前に広がる街並を見て改めて呟いた。
数日前に日本のほぼ全土を襲った、かつてない規模の大地震。 街は崩れ、あちこちから火の手が上がり、やがて多くの人を飲み込んだ。
ユイ達は家が新築であったことと、場所が住宅密集地からやや離れた所だったため最悪の事態は免れたが、 初めて街の様子を目の当たりにした時、ユイは言葉を失った。
崩れた家。燃え盛る火炎。逃げ惑う人々と瓦礫の山から助け出そうとする人の 叫び声が耳を震わせ、風に乗って何かが焦げる匂いがユイの鼻孔を突く。 腕の中のシンジはその光景が恐ろしいのか、ユイの胸に顔を押し付け、 しゃくりあげて泣いていた。

それから数日。水や食料を受け取る為に日に一度は街だった場所へユイは シンジを伴って行っていたが、 この全てが壊れた街を見る度に己の無力さに打ちのめされていた。
幸いなのは、この国が地震という災害に悲しくも慣れてしまっている事か。
街は無くなってしまったに等しいが、人々は特別パニックを起こす事無く、 今は落ち着きを取り戻していて、シンジを連れて動かなければならないユイにはそれがありがたかった。

「ママ、あれなーに?」

ユイに手を引かれ、危ない足取りながらも一緒に歩いていたシンジだったが、 端に寄せられた瓦礫のそばに何かを見つけ、ユイの手を振り払ってそこに走って行った。

「あっ!こら、シンジ!!」

瓦礫は単に端に寄せられただけで、いつ崩れだすかも分からない。 一瞬シンジの行動にヒヤッとし、シンジにわずかに遅れてユイも駆け寄るとすぐさまシンジを抱き上げる。

「一人で動いちゃダメでしょ!」

ユイはシンジの眼を見ると、強い口調で叱りつける。 シンジはビクッと体を震わせると、うな垂れてユイの服をギュッと掴んだ。

「ゴメンなさい……」
「怪我はしてない?そう、良かったわ。
それで、何を見つけたの?」

ユイが尋ねると、シンジは落ち込んだ顔からぱあっと笑顔を浮かべて、嬉しそうに掌の中の物を見せた。

「へぇ……」

ユイは思わず感嘆の声を上げた。
シンジの手の中にあったのは紅く輝く綺麗な球。 埃にまみれて表面はわずかにくすんではいるが、ほのかな光を発するそれはユイを吸い込みそうな程に 透き通っていた。

「きれいでしょー?」
「ホント綺麗ね。良かったわね。」
「うん!!」

満面の笑みで元気よく返事をするシンジ。 そして「お父さんに見せるんだ」と言って半ズボンのポケットにそれを仕舞った。

「お父さん無事かしら……」

かろうじて再び入る様になったテレビでは基本的に地震の話でもちきりであったが、 その中で南極での爆発事故のニュースも流れていた。
南極の調査にはゲンドウも参加していた。予定では事故の日にはすでに南極を離れているはずだが、 ユイの中で不安は尽きない。
予定を変更して、まだ滞在してたのでは無いか。もしくは中継先で足止めを食っているのだろうか。 病気はしてないか。怪我はしてないか。 考えれば考えるほど背筋を凍らせる想像がムクムクと頭をもたげてくる。

「ユイ!!」

うつむき気味で歩いてたユイに、叫ぶ声が届く。
良く知る声に、ユイは先程までの不安が吹き飛ぶのを感じ、シンジと共に笑顔を浮かべてゲンドウを迎えた。

「ゲンドウさん……」
「無事だったか!?怪我とかは無いか!?」
「ええ、私もシンジも元気ですよ。」
「そうか……」

良かった、とゲンドウは胸を撫で下ろし、ユイをそっと抱きしめる。
ユイも安心したのか、穏やかな笑顔を浮かべてゲンドウに身を任せ、 腕の中のシンジは少し苦しそうながらも、手をもぞもぞさせてゲンドウを見上げていた。

「ゲンドウさんも帰ってきた事だし、一度お家に帰りましょうか、シンジ。」
「うん!
あっ!えっとね。」

ユイの腕の中でシンジは自分のポケットをまさぐる。
シンジが何をしようとしているのかユイは気付き、しばらく黙って待っていたが シンジは全部のポケットを探し終えると、先ほどの笑顔が嘘の様に落ち込む。

「落としちゃった……」
「あら……」
「どうしたのか?」
「シンジはお父さんに見せたいものがあったのよね?」
「うん……」

項垂れるシンジ。 だがその頭に大きな手が乗せられた。

「そうか。残念だったな……」
「うん……」

そしてゲンドウはユイの腕からシンジを抱きかかえると、肩車をして歩きだした。
突然の事にシンジは驚きの表情を浮かべるが、普段とは違った風景に暗かった顔が 感嘆に染まった。

「また何か見つけたらパパに見せてくれな。」
「うん!!」

シンジを肩に乗せながら、家に帰る道中ゲンドウはシンジと親子の会話を楽しむ。
時にはユイを交えての談笑は、荒れ果てた街並みとは対照的な光景で、 だがゲンドウにはそれが気にならなかった。
愛する妻と息子に囲まれた生活。 それはゲンドウの手の入れた日常。決して手放せないモノ。
しばらくぶりの家族との会話は、南極でのゲンドウのやるせなさを取り去っていった。








2004年 









「調べさせてもらったよ。 あの時、南極で何があったのか……」
「そうですか……
冬月先生には出来れば関わって頂きたくなかったのですが……」

夏の日差しが眩しい午後。空高く上がった太陽は容赦無く二人を焦がし、 深緑の木々の隙間を風が駆け抜けて一時の清涼を与えてくれる。
眩い光は目の前に広がる芦ノ湖の湖面で反射し、冬月は細い眼を更に細める。

「私はこの数年間、医者の真似事をして過ごしてきた。 あの地震以来衛生状態は悪く、どこもかしこも医師不足だからね。
そして死に行く人をたくさん見てきたよ。
経済は壊滅で治安は最悪。ほんの数年前の日本の姿は何処にも無く、 悪意の中で人々は傷ついていた。
世界さえ呪ったよ。」

冬月の独白。その表情を見ない様に、 ユイは一歩引いた位置でそれを聞いていた。

「ほとんどの人は気付いていないが、あの日、何かが南極であった事は明確だ。 世間で言われている巨大隕石の衝突なんかではなく、ね。
出世にも興味無くぼんやりと過ごしてきた私だが、南極のそれと日本の地震。それらを無関係だと思う程 ふぬけてはいないつもりだ。」
「先生は昔から勘が鋭いですね。」
「……調べるのは容易では無かったがね。
南極での爆発事故。あれが人為的に引き起こされたと知った時は 生まれて初めて怒りで体が震えたよ。」
「ゲンドウさんには……?」
「彼は南極に居て、その数日前に帰国。何も知らない、と言うには無理があり過ぎると思わんかね?」
「それで、あの人は何と?」

ユイは傍らのシンジの手を握りしめる。
だが、ユイは分かっていた。ゲンドウが冬月にどう応えるかなど。

「別に。否定も弁解もしなかったよ。」

分かっていた事だが、それでもユイは落胆を抑える事が出来なかった。
あの事故から、いや、あの事件から、というべきだろうか。 四年が経ち、今でこそ落ち着いているが、帰国した当初、ゲンドウの心は荒れ果てていた。
毎晩思い詰めた表情でウイスキーの入ったグラスを睨みつけ、 何かを抑え込む様に一息にあおって床に就く。 決して深酒はせず、ユイが尋ねても「何もない」と答えるだけ。 全てを自分の内だけに抱え込む様は、傍から見ていて辛かった。
日々憔悴していく様子に、何とかユイは聞き出して、それ以来落ち着いているが、 未だに―――いや、恐らく一生―――心の内にずっしりと溜め込んでいる のはユイも気付いていた。
だからこそ決してゲンドウに責は無くとも、責められたら自分の罪として受け止めてしまう。
その不器用さに、ユイは気付かれぬ様歯噛みした。

「だが、代わりにあれを見せられたよ。」
「あれ、ですか?」
「ああ。ここの地下深くで作られている、確かエヴァ、とか言ったか。
君も関わっているんだろう?」

そこで冬月はようやく振り返った。 だが湖面で反射する光で、ユイからはその表情はよく見えなかった。

「それで、どうなさるおつもりですか?」
「その時に奴から聞かされたよ。約10年後、この世界で何が起こるか。
正直眉唾物だと思わないでも無いがね。だがそれにしては動く金が大き過ぎる。 ならばその話は本当なのだろう?
彼らを許すわけにはいかないが、かと言って他に方法があったかと問われれば難しいところだ。 私にできる事は、彼らの死を、そしてあの災害で亡くなった人々の死を無駄にしない事なんだろうな。」

体ごと向き直り、そこで初めてユイは冬月の表情を見て取る事が出来た。
振り返った冬月はユイを見つめる。だがユイからは、その目が何処か遠くを眺めている様にも見えた。

「と言うのは建前でね。口では何と言おうが結局私は君らの中に加わりたいらしい。
あれを見せられて、それでお預けと言うのは酷な話だ。
あれほど義憤に駆られていたというのにな……」

全く、現金な男だ。
そう言って冬月は自嘲の笑みを浮かべた。

「冬月先生には出来れば関わってもらいたくなかったのですが……」
「なに、これも自分で選んだ道だ。だからユイ君、君がそんな顔をする必要はない。」

冬月は自分の浮かべていた表情に気付いたのか、 自嘲を消すと今度こそ柔らかな笑みを浮かべて、ユイの肩を叩き、しゃがみこんで隣のシンジの頭を撫でる。

「ユイ君が居て、ナオコ君も居る。それだけでも十分楽しそうだよ。 それに聞けば何年か後には娘のリツコ君もゲヒルンに入るという話じゃ無いか。
自分勝手な考え方だが、私は好きな事が出来て、そして人類は危機を乗り越えて新たなステップへと 進む事が出来る。
この子達、次世代の子供達に良い未来を築いていけたら……」

一しきり頭を撫で、立ち上がって冬月は再び湖面へと体を向ける。 陽は傾き、青かった空が燈に染まりゆく様を、冬月はじっと眺めていた。

「そうなったら、どれほど良いだろうな……」

冬月のその呟きはそこの見えない芦ノ湖へと消えていった。







全ては順調だった。
2015年に来る、人類の存亡を賭けた戦い。 その準備は決して着々と、とは言えなかったが概ね順調で、 私自身も順風満帆な時期を過ごしていた。
ゲヒルンの実質的な責任者の地位を任され、 私生活では小学生になろうというシンジと私には過ぎた妻に囲まれて、 はっきり言えば幸せだった。
過去においてこれほど心穏やかな―――無論懸念は巣食っていたが――― 時期は無かった。
優しい、優しい時間。世界はこんなにも優しさに満ちていて、 時々、辛い。だがその辛ささえも受け入れる気持ちになっていた。
ずっとこんな時間が続けば。せめて使徒が来る2015年までは。

そう思っていた。
そう、信じていた。
いや……信じたかったのかもしれない。だが悪夢と言う名の現実は容赦無く私達に襲いかかってきた。









「ホントに良いのかね、ユイ君……」
「ええ、構いませんわ。」

固い表情で尋ねる冬月とは対照的に、スピーカーからはユイの落ち着いた声が聞こえる。 だが声だけでユイの姿は見えず、ここには居ないと分かっていてもつい私はユイの姿を 探してしまった。 連れてきたシンジも私と同じ様にユイを探してキョロキョロし、頬が緩む。

完成自体はまだまだ遠い未来のエヴァ。 だがそれも時間と金を掛けるだけで形にはなるだろう。目処は立っている。
それよりも重大な問題は唯一にして最大。制御系だった。
あの地震の日、地下で発見された新たな生命体リリス。 人類の母とも言えるそれはその活動を停止しながらも未だに生きていた。 あの南極のアダムと共に。
我々人類は使徒に対抗するべき攻撃手段も防衛手段も持たない。 そしてそれは―――もし裏死海文書の記述が確かならば――― 少なくとも10年でどうにか出来るものでも無かった。
現時点で考え得る対抗手段。それはリリスをコピーする事。
細胞を取り出して培養する事で、時間を掛ければ使徒に対抗する力を得る事は出来る。 しかし、どうやってコントロールするか。その術を持っていない。

作られたエヴァは―――未だに私は荒唐無稽な話だと思っているのだが――― 魂とも言えるモノを持っていた。
意志を持ったエヴァは、外部からの制御を受け付けない。
元々外部制御では緊急反応性に問題が残る。ならばパイロットが乗り込んで制御すればいい。 だがエヴァそのものが生命体である為、その手法が見つからない。
閉塞感に支配された私達だったが、それを打ち破ったのはユイだった。
パイロットの人間とエヴァの間でA10と呼ばれる神経を接続し、魂をシンクロさせて制御する。
無茶な方法だと思う。だが現時点で一番実現可能性が高く、その方向性で決まり、 私は妻であるユイの事を誇らしく思った。

時が経ち、いざ実験、という段になり誰が被験者になるかという話になった。
そして手を挙げたのは……ユイだった。
提唱者である自分が被験者になるのは当然だ。
過去にこの様な実験が行われた事は無く、その危険性は一切不明。 故にユイが被験者になるのはある意味当然であり、そして私もユイならばそうするだろうと予測すべきだった。



彼女は一切こちらの説得に耳を貸さなかった。
危険だ、君に万一の事があったら今後どうするんだ、シンジの事を考えてほしい。
未だ実験の計画すら練られていない段階でさえ最悪のイメージが私に覆いかぶさり、私は彼女を失う恐怖に駆られ、 説得は段々と、我ながら子供の駄々の様になっていって最後には彼女に泣きついてしまった。

「大丈夫ですよ、ゲンドウさん。約束したじゃないですか。」

貴方を裏切らない、と。
ユイはそう言いながら、幼子をあやすかの様に私の頭を撫でる。
途端に私は落ち着きを取り戻し、恥ずかしさに顔を染めた。 気恥かしく、ユイの顔を見れない。 それでも横目でそっと様子を伺うと、ユイはただ笑っていた。
その笑みが何を意味していたのか、未だに分からない。 自分の研究に自信があったからなのか、それとも全てを知っていて、 それでいて受け入れていたのか。
いずれにせよ、私はそれ以上彼女を説得する事は出来なかった。
胸に一抹の不安を残したままで。







強化ガラス越しに彼女の入ったプラグを見る。 ただ一つのデータも取り漏らすまいとあらゆる所にコードが取り付けられ、 今や遅しと実験のスタートを待っている。 何の変哲も無い実験風景。 だが私にはそのコードの一つ一つが彼女を縛りつける鎖にも見えた。



そして、それは現実のものとなった。
今でも鮮明に思い出せる。
鳴り響くアラーム。人々の怒声、悲鳴。紅く明滅する赤色灯に異常を示すあらゆるデータ類。
プラグは激しく振動し、ギシギシと音を立てる。
その様はユイの苦しみを表しているかの様で、私のココロを容赦無く締め付けていた。

いつまでも続くかに思われた異常事態。だがそれも不意に終わった。
アラームも、研究員の怒号も収まり、代わって私の耳を打ちつけたのは 単調な信号音だった。
被験者の状態を表すデータ。通常であれば何らかしらの波を描いているはずのそれは、今は一本の直線。
私は最初、それはただ単に計器が故障しただけだと思った。思い込もうとした。
そんな自分の期待を裏付けるべく、そばに居た研究員にハッチを開けるよう指示した。
早くユイを助け出さなければ。
それだけを繰り返しながらただプラグを見上げるシンジの横を駆け抜け、ユイに触れようとプラグの中に私は手を伸ばした。



ユイは居なかった。




ユイが死に、世間の明るみになってから世間は私を激しく批判した。
人体実験、研究第一主義、妻殺し。
冬月は何かと私をかばってくれていたが、私は反論する気は無かった。
人体実験である事は事実で、安全面の考慮が足りなかった私の責任。 結果私は妻を失い、心の寄る辺を失くしてしまった。
その事が何より私を苦しめた。私を責めた。 彼女は私を信じてくれて、最後まで私の事を考えてくれていた。
裏切られたとは思わない。私が彼女を裏切ったのだ。
あの時、私が止めるべきだったのだ。彼女の性格は十分承知していた。 ならば落ち着いていれば何か彼女を止める術を思いついたに違いなかった。
全ては私の責任。

不意に感じる右手の重み。
そっちに目を向ければシンジが私の手を引っ張っていた。

「お父さん……」

不安げな顔で私をじっと見つめる。
ああ、そうだ。
私にはまだシンジが居る。ユイが存在した証。ユイ自身はもう居ない。 だがその証はまだ残っている。
しかし私に子育てなど出来るのだろうか。
不安を押し殺しながら、私はシンジに手を伸ばした。

「お母さんは……最初から居なかったんだよね?」

手が止まる。
シンジは……笑っていた。
笑顔を浮かべ、なのに泣き出しそうで、辛そうなのに笑っていた。
信じたくない。でも事実は嘘を吐けない。
それはもっと齢を重ねた、いくつもの複雑な思いを内に抱えた者の顔で、 とても小学生になる前の子供が浮かべる表情では無く、 我が子ながら私は背筋に戦慄が走るのを感じた。
私は思わずシンジに伸びていた手を引っ込め、漏れ出らんとする声を抑えようと手を口にやった。
そこで気付いた。
手にわずかに当る歯。開かれた口。そして触れる暖かい涙。
私は笑っていた。泣きながら笑っていた。 どうして良いか分からず、頭ではどう考えようと私自身が自分の感情を理解できていなかったのだ。

もう一度シンジの顔を見る。ユイに似ていると思っていたシンジの顔は、その実、私の血を色濃く受け継いでいた。
私は恐怖した。
決してお世辞にも恵まれていたとは言えない私の幼少時代。 このままではシンジは私の様になってしまうのではないか。



私はシンジを置いて家を出た。
私は、禁を犯した。






2015年 










扉が開く。
音を立てて広がっていく空間。隙間から溢れだす眩い光。 聖者を祝福するかの様に加持を照らし出す。
だがそれは泥だった。粘度の高い泥の光は加持の足を捕えて離さない。

「これは……」

怖気が加持を支配する。
仕事柄汚い事もやってきた。人を殺し、殺されかけもした。 人の暗部を何度も見てきた。だがこれはそれとは質が違う。
ゆっくりと室内へと足を踏み入れる。 意識は全て眼前の水槽に注がれ、それ以外に注意を払えない。
おろそかになった足元が床に置かれていた箱に当り音を立てる。
そして、燈色の液体の中で漂っていた同じ顔の何かが一斉に加持の方を振り向いた。

加持は自らの心の臓が一瞬活動を止めたのを自覚した。 メデューサに魅入られたみたいに体が硬直する。
だがそれも本当に一瞬の事。 次の瞬間には大量の汗と同時に荒い息を加持は吐き出した。

「ゼーレと言いネルフと言い……」

一体何をしようというのか?
人類補完計画。その名前は明らかになった。その目的も。
しかし、その方法論が全く掴めず、また目的も漠然としていて、 まるで悪質な詐欺団体が大層なお題目を唱えているとしか思えない。
リリス。そしてアダム。襲い来る使徒。
補完計画とそれらを繋げる物がこの部屋にあるのではないか。
それを探すべく、加持は更に奥へと足を進め、そして一番奥にもう一つの扉を見つけた。

加持は慎重にその扉に手を掛ける。
そして、もう一つの禁断の扉は開かれた。

そこにあるのは、今しがた加持が居た部屋に比べ少々狭いながらも同じレイアウト。 だがその水槽に浮かぶモノは違った。

「なんて事だ……」

もしかすると今、外で生活しているのは……
慌てて部屋を飛び出す加持。しかし一発の銃声が部屋に響いた。

「ぐっ……!!」

しくじった。
腹に激しい熱を感じながらも加持は足を動かし、転がる様にして部屋から飛び出し、暗い廊下を駆けだしていった。
その加持を追う事もせず、銃声の主は小さな声で呟いた。

「ダメよ……ダメなのよ、加持君……」








ミサトの携帯が鳴る。
無機質な電子音がポケットの中で響き、だがその持ち主はそばに居ない。 存在を主張する音も、ダイニングの笑い声でかき消されて持ち主には届かない。
コール音は途切れ、留守を告げるメッセージが流れる。
発信音の後に、電話主からの声が聞こえ始める。

「ミサト、俺だ……」

時間にしてわずか10秒足らず。
短いメッセージを残して、電話は途切れた。


















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