a nuisance―――
規則正しく心電図が音を奏でる。
そしてそれに合わせる様にして、ベッドからは規則正しく、穏やかな呼吸音が聞こえてきた。
十五畳ほどもある広い部屋で、レイはただ一人眠っていた。
清潔な包帯が顔の右半分を覆い隠し、その隙間から蒼銀の髪が覗く。
ベッド脇には誰も居らず、そばのチェストには何も置かれていない。
他の部屋と同様、真白に統一された無個性な部屋。
その病室の景色にレイは溶け込んでいた。
やがて一定のリズムを刻んでいた呼吸がわずかに乱れ、
綺麗に整ったレイの眉頭にしわが寄る。
「ん……」
身をよじり、次いでまぶたが開かれて紅い瞳が現れる。
目覚めたレイはしばらく呆けた様に天井を見つめていた。
そして首だけを捻って部屋を見渡し、ここが病室だと分かると顔を正面に戻して眼を閉じ、深く溜息を吐いた。
何故自分がここに居るのか。
レイは記憶を探る。確か、ライフルの弾が使徒の眼を貫いたはずだ。
そしてアスカがナイフを突き出して……
「……!!」
そこまで思い出してレイは突如ベッドから身を起こした。
が、すぐに落ち着くと、再びベッドへと体を倒す。
(いつも通りなのね……)
自分がこうしてまだ生きて、こうしてのんびり寝ていられる。
ならばアスカが使徒をきちんと倒したという事なのだろう。
そう思い、レイは安心してまぶたを閉じた。
アスカの出したナイフはゼルエルを貫く事は無かった。
当てが外れて動きが止まった弐号機に向かってゼルエルの鋭い刃が振り下ろされ、弐号機を貫くものと思われた。
しかし、腕が弐号機に届く直前、零号機が弐号機を弾き飛ばした。
弐号機が地面を削り、ゼルエルの腕は弐号機の代わりにレイの顔を切り裂く。
そこでレイの記憶は途絶えていた。
(また使徒を倒せなかった……)
自分は役に立てているのか。自分が居る意味はあるのか。
レイの中で疑問が湧き起こる。
(でも……)
アスカを助けられた事だけは誇らしかった。
トウジの時は出来なかった事が、今度は出来た。
なら、きっと私はここに居てもいいはず。
眼を開き、右手をそっと自分の右目に当てる。
包帯が巻かれてはいて、ざらついた感触だけが伝わる。
レイは、その手の下でどこかが痛んだような気がした。
第弐拾話 偽りの温もりの中で
「ついに第九の使徒までを倒した。」
しわがれた声が暗闇に静かに響く。
05とナンバリングされたモノリスが最初に現れると、
それに呼応するように、01から05と漆黒の板に血の様にくすんだ紅で書かれた
モノリスが姿を露わにする。
「裏死海文書に書かれた最強の使徒。力はその名に違わぬものだった。」
「左様。兵装ビルに零号機、弐号機の両エヴァンゲリオン。
被害は甚大だよ。」
「どれだけの金を我々を失ったか。見当もつかん。」
先の使徒戦について、次々に苛立ちを口々にする。
「それでも使徒は倒しました。」
「君の息子によってな。それも圧倒的な力の差だったようだな。」
スポットライトが当てられ、ゲンドウが姿を現して反論をするが、モノリスの一人が皮肉気に
返事をする。
だがゲンドウはいつも通りに表情を変える事無く報告を続けた。
「被害額も全体で見れば許容範囲内です。問題ありません。」
「だが我々の懐も無限ではないのだよ、碇君。」
「聞けば初号機パイロットを解任していたというでは無いか。我々への報告も無く。」
「君の最近の行動は、いささか度が過ぎるのではないかね?」
批判がゲンドウへと向かい、ゲンドウの他はモノリスにも関わらず、ゲンドウは重苦しい視線を感じていた。
冷汗がゆっくりとゲンドウの背中を伝う。
しかしそれをゲンドウは億尾にも出さずに応える。
「初号機パイロットの健康を優先させました。使徒が襲来した為報告が遅れました。」
「ふん。君も息子の事が心配か。」
一人が鼻で笑い、嘲る。
それでもゲンドウは変わらない。少なくとも表面上は。
重苦しい雰囲気も、常に周りが自分を蹴落としたがり、
欠点、失点を探している事も知っている。
だがそれはゲンドウに取って幼い頃からの日常であった。
そして反応すればするほど相手を喜ばせる事も知っていた。
だからゲンドウは黙って耐えた。
嘲笑が広がり、他の者が追従しようとしたところで、01がそれを遮って口を開いた。
「何事にもイレギュラーはある。」
途端、場は静まり返り、キールの次の言葉を待った。
「今回は被害は予定額を大幅に越え、独断でのパイロット解任。
皆の言う通り目に余る行動があるのは事実だ。」
そこでキールは一旦言葉を切った。
ゲンドウは眼を閉じ、黙して続きを待つ。
「だが我々の目的は補完計画であって、計画自体に遅れは見られない。
碇、次は無いと思え。」
「はい。」
「しかし……」
ゲンドウは口元を隠したまま返事をする。
場の一人がキールの判断に異を唱えようとするが、そこでゲンドウの手元の電話が鳴る。
「冬月、会議中だぞ。
……分かった。」
手短に話し、電話を切ると体勢を元に戻し、全員の方に向き直る。
「初号機のコアに異常が見つかったようです。
報告はまた後日。」
ゲンドウは手元のスイッチを操作し、会議の場からゲンドウのホログラフが消えた。
そしてゲンドウの姿が消えたのを確認したところで、先ほど異を唱えかけたモノリスが
再び口を開く。
「……よろしいのですか?」
「奴の代わりが出来る者など居らん。
奴でなければここまで計画を進める事は出来なかった。」
「だがそれも限界では?」
別のモノリスがしわがれた声を出す。
「そうだな。いつまでも奴の席が安泰と思ってもらっては困る。」
「左様。あの使徒をあっさり倒した初号機パイロットの力も、残り少ない襲来を考えれば脅威だよ。」
「碇、そして初号機パイロット……
二人は力を持ち過ぎた。
最早我々にとっては害以外成す事はあるまい。」
どす黒い悪意に固まった言葉達。
それをキールは黙って聞いていた。
キールは初めからゼーレという存在に期待などしていなかった。
場に居る者は誰もが計画の事を心配するセリフを醜く歪んだ唇から、くすんだ喉から吐き出す。
だが、ゼーレという組織全体を見渡して、どれだけの人間が
人類補完計画の理念を理解し、信じているか。
長く組織のトップに君臨してきたキールにはそれがよく理解出来ていた。
目的は違えど、計画を理解し、共感しているのは今や自分を含めて二人。
歳は親子ほど離れていれど、かけがえのない同志。
しかし目的の異なる二人は今、別れ道に近づいていた。
キールは姿の見えないモノリスに感謝しつつ、深い溜息を吐いた。
そして年齢を感じさせない重厚な声で空気を震わせた。
「寄り代は予定通りの者で行う。
初号機パイロットに関しては鈴に動いてもらおう。」
レイが目を覚ましたのと時をほぼ同じくして、シンは目覚めた。
心電図も何も無い、白のみに彩られた空間。
その中でゆっくりとシンは目を開いた。
色あせた世界。柔らかながらも全てを白く染める蛍光灯がわずかに瞳を焼く。
久々に感じる眩しさに目を細めて、二、三度シンは瞬きをした。
「……大丈夫?」
不意に上から声が掛けられた。
シンはぼんやりと霞がかった頭でその声の主を認めると、
頭を何度か横に振って頭を覚醒させる。
「ああ……」
適当に返事をしながら病室のベッドから体を起こし、部屋を見渡す。
ぼやけた頭はまだうまく働いてくれない。
「アンタ、まる二日ずっと寝てたんだからね。
医者は何も異常は無いって言うんだけど、中々起きないから心配したわよ。」
「……そっか。ゴメン、ありがとう。心配掛けたね。」
とりあえずシンは笑顔を浮かべてアスカに礼を言った。
何故自分が表に出ているのか。何故自分が病院のベッドの上に居るのか。
状況がうまく掴めなかったが、自分が外に出ている以上シンジの真似をしなければならない。
そう思って出来るだけ口調を柔らかくしてみたが、上手く取り繕えただろうか。
疑問に思ったシンはチラ、とアスカの表情をうかがってみたが、
アスカは顔を背けていて、はっきりとは見えなかった。
どうして表情を隠す様な真似をしているのか。
疑問に思ったが、シンはその疑問をすぐに頭の隅に追いやった。
今のシンにとってそんな事はどうでもよく、アスカと何か問題があればそれは
シンジとアスカの問題であり、シンの範ちゅうでは無い。
シンはそれよりも先ほどの疑問と、恐らくはそれに関係があるであろう、何処からか発生する焦燥感の方が大切であった。
シンジと意識を共有するようになってそれなりの時間が経つが、今まで一度たりとも
シンが表に現れて目覚めた事など無い。
ある程度強引にはシンの方から肉体の支配を奪う事はあったが、シンの方から意識せずして
体を所有した事は初めてだった。
内心の焦りを押し隠し、シンはシンジに呼びかける。
だが、そこでシンは思い出した。
そして、その記憶がシンの体を震わせた。
(何故俺が外に
出ていられる……?)
シンジが気付かない、四人目の存在。
最初それは、常に意識下に居るシンでさえも気付かない程小さな存在だった。
いつ生まれたのか、それさえも分からない。
だがそれは日々その意識を肥大させ、ついには体の支配権を得るほどにまでなった。
危険。何の根拠も証拠も無い、ただの直感。
しかしその直感に動かされてシンは、シンジに教える事無く、リコに存在だけを伝えて
抑え込みに動いた。
初めは抑え込みながらシンジと意識を共有する事は出来た。
ところが次第にシンでも肥大を抑える事が出来なくなり、終いには全力を以てあたらなければ困難な程になっていた。
にもかかわらず、今、シンは意識を外に向ける事が出来ている。
これが何を意味するのか。
(何処だ……?)
何処に奴は居る。奴と、シンジは。
シンは目を閉じて自分の内を探る。
今シン自身が居る光の当たる場所から外れると、暗く、もやが広がっていてはっきりとは見えない。
それでもシンはという存在の中を全神経を集中させ、顔をシンの方に戻したアスカが訝しげな表情を浮かべても
気付かない程深く自分の海の中に潜っていった。
時間にしてほんの数十秒。シンは見つけた。
暗い空間の中でも一際黒い、ぽっかりと開いた空洞。
探していたモノは見つからなかったが、何かの手掛かりにならないかとそれに手を伸ばした。
「あああああっ……!!」
瞬間、ベッドの上でシンの体を跳ね上がった。
眼を大きく限界まで見開き、うめく声が静まり返っていた病室を震わせた。
「く…うううぅぅぅ……」
それは無だった。
切り取られて、その先には何も無く、その空間に触れた途端、シンの中を虚無が支配していった。
全てが流れ出し、失われていく感覚。
実際にはシン自身が失ったモノは何も無い。
だが”碇シンジ”総体として失くしてしまったモノ、
その大きさをシンは自覚してしまった。
全身から汗が吹き出し、震える体を押さえつける様に自分の両腕を抱きしめる。
失われたカケラ。
シンジとシン、リコとそしてもう一人。
自身を構成する半分を失った寂しさに、シンは涙が止まらなかった。
嗚咽が漏れ、心が震える。
一度気付いてしまうと、もうどうしようも無かった。
何も出来ず、うつむいて堪えるだけ。
強く握りしめた両手の爪が二の腕の皮膚を破り、綺麗に選択された病人服を紅く染めた。
「ど、どうしたのよ!?やっぱどっか痛いの!?
あ!誰か呼んで……」
急変したシンの様子に、そばの椅子に座っていたアスカは慌てて立ち上がり、
枕元のナースコールに手を伸ばした。
だがその白い手もシンの腕によって遮られた。
体をくの字に折り曲げ、全身を小刻みに震わせながらも、アスカを掴む右手は手形を腕に残すほど強く握られていた。
アスカは鋭く走った痛みに一瞬顔をしかめたが、
伏せられたその顔から漏れ聞こえる、しゃくりあげる聞き覚えのある甲高い声に
アスカの表情が変わった。
リコの眼から零れ落ちた雫がシーツに染み込んでいく。
アスカはリコに向かって腕を伸ばす。
おずおずとリコの頬にアスカの手が近づいていく。
戸惑うかの様にゆっくりと白い指は頬へと達する。
だが、その手が触れる事は無かった。
リコに触れる事も無く、またその手を振り払う事も無く、
椅子に腰掛ける事も出来ずに、アスカはその場に立ち尽くしていた。
やがて嗚咽が収まり、激しい息切れの声が聞こえ始める。
「はあっ、はあっ……!」
それも次第に収まっていき、そして病室に再び静寂が訪れた。
呼吸が完全に整うと、シンは掴んでいたアスカの腕をゆっくりと話した。
「……悪かったな。」
顔をわずかに赤らめて頭をガシガシと音が出るほどかくと、シンは窓の外へと顔を向けた。
むっつりとした表情で、照れ隠しでアスカから顔を背けたシンだったが、
アスカは不安気にシンの横顔を見詰めた。
「何が…あったの……?」
アスカは質問を口にする。
だがシンはそれに答えず、黙って窓の外を見続けた。
「教えなさいよ……!」
先ほど見せたシンの姿。
初めて見るその姿に不安に駆られ、アスカは語気を強める。
シンは迷っていた。
このまま誤魔化すべきか、それとも真実を告げるべきか。
仮に真実を告げたとして、アスカにどのような影響を与えてしまうか。
シンジとアスカの関係が今どのようになっているのか、最近の二人の様子をシンは知らなかった。
それでも何かしらの影響を与えてしまうのは避けたかった。
今を誤魔化し、どうにかして全てを元に戻して何事も無かったかの様にシンジを過ごさせるか、
もしくは全てをアスカに伝えるべきなのか。
シンは決断出来ず、いたずらに時間を延ばしてしまっていた。
静かな病室に、アスカの苛立たしげに足を踏み鳴らす音が響く。
コツコツという音がシンの耳に届き、気まずさと決断出来ない自らの優柔不断さに
情けなさがこみ上げ、アスカの顔を見れないでいた。
やがてアスカの足音が止まる。
一度天井を見上げると、大きく溜息を吐き、そして口を開いた。
「質問を変えるわ。
アンタ……誰よ?」
その瞬間、シンの眼が驚きに見開かれる。
アスカの方は、そんなシンの様子にも表情を変えず、厳しい顔のまま―――
瞳の奥は不安に揺れていたが―――シンの眼を見ていた。
「知っていたのか……?」
「ええ、リコには会ったことあるわ。いつも泣いてたけど。」
(あいつ……誰かにばれたらすぐ教えろって言っただろうが……!)
内心でリコに対して毒づくと、
先ほどのアスカと同じ様に深い溜息をシンは吐いた。
「まさかとは思ったけど……
全部で何人居るの?」
「……四人だ。」
「そう……」
そう返事をして、アスカはシンから視線を外した。
だがすぐにシンに向き直ると、再度問うた。
「アンタ、名前は?」
「シンだ。恐らくシンジを除いて一番古い人格だと思う。」
「そう。
それでもう一回聞くわ。さっきは何があったのよ?
どうせ多重人格に関わる事だったから答えられなかったんでしょ?アタシが知ってるかどうか分からなかったから。」
「そう…だな……」
もう一度頭をかき、シンは目を閉じて考える。
アスカは今度は黙ってシンの返事を待った。
時間にしてほんの数秒。
シンは目を開け、アスカの顔を見つめると、質問の答えを返した。
「赤木博士を呼んで来てくれないか?」
―――fade away
ここは……どこだ?
気が付けば、僕はどういう訳か浮かんでいた。
水の中に居る訳でも無くて、いや、正確に言えば本当に浮かんでるかどうかも分からない。
ただ感覚として浮かんでる様な気がするだけだ。
周りは柔らかい光に溢れてて、眼に見える範囲には物は何も無い。
見た事も聞いた事も無い場所。そして僕はたった一人。
右も左も分からないのに、僕にしては珍しく心細くも何とも無かった。
それが不思議ではあったけど、そんな疑問はどうでも良かった。
暖かい陽だまりの中にたゆたってて、そこに居るだけで気持ち良くて、
瞬きをするだけで僕を眠りの中に連れ去ってしまう。
そんな気さえしてきた。
目を閉じて僕は漂う。
自分を何処までも広げ、心地良さの海に溺れて自由と解放を全身で味わう。
責任も何も背負う事無く、気持ちの良い孤独。
その事実だけで僕は、嬉しかった。
「……?」
ここでは僕は一人だ。それは根拠なんて無くて、だけどもそれが真実だと言う確信があった。
けれど、背後から僕は視線を感じて振り返ると、そこには一つの影があった。
「君は……」
誰、と問おうとして僕は口をつぐんだ。
誰だなんて、そんなの愚問だ。
ここには僕しか居ない。ならそこに居るのも僕でしか無いはずだ。
ぼやけた輪郭が次第にはっきりしてきて、そして出てきたのはやっぱり僕だった。
見た目は僕で、なのに僕は彼との間にずれを感じる。
僕は彼で彼は僕。ずっと昔から僕は彼と居た様な気がするのに、今は他人の様な気がしてきた。
彼は何も言わない。
僕が喜んでみせる。彼も一緒に喜ぶ。僕が泣いてみせる。彼も泣いてみせる。
僕が笑う。彼も笑う。
ほら、やっぱり彼は僕だ。
不意に彼が手を差し出した。
顔を見ると、彼は僕の顔をしてにっこりと笑っていた。
その顔を認識した途端、それまで心地良かった僕の背筋に寒気が走る。
寒い。気持ち悪い。これ以上見たくない。
なのに、なのに僕は目を離せなかった。
そして一人でに―――その実は僕の意志の下でだけれど―――僕の手は彼の差し出した手へと伸びていった。
頭と体が別々に動く。
彼の笑顔に引き寄せられるように伸びた手だったけど、
その手が届くほんの少し前、彼の姿はかき消えた。
僕の手は解放されて、体に満ちていた緊張が解ける。
そして、それと同時に僕自身も何かを失った。
「あ…れ……?」
涙が止まらない。
次から次へと両の瞳から零れ落ちて、何処ともなく落ちて行って、そして終には消え去った。
「どう…して……」
止まらない。いくら拭っても、いくら目を擦っても温もりを持った雫は止まってくれない。
分かってる。これは「寂しい」だ。知ってる。
知ってるけど、こんな感覚は知らない。
僕が知ってるのはこんな「寂しい」じゃない。
こんな……苦しくて、辛いものじゃ無かった。寂しさに泣くなんて、今まで無かった。
寂しさはいつも僕と一緒にあった。
学校でも、家でもいつも一人。周りに人が溢れてても、友達が居ても、誰かと話してても僕は一人だった。
いつも一人。寂しいといつも感じてた。
だけど、こんな寂しさは感じた事無い。
ココロが……折れる。
「そ…か……」
これが本当の「寂しい」なんだ。
今まで知らなかった、本物の、感情。
一人だと思ってた。だけど一人じゃ無かった。
僕にはずっとシンが居た。こっちに来てからはアスカが居た。
綾波さんが居た。ミサトさんが居た。だから忘れてた。知らなかった。
「ここは……何処なんだ?」
早く、皆のところに。帰りたい。還りたい。カエリタイ。
いつの間にか足は地に着いて、心地良かったはずの空気は
重々しく、どろどろと体にまとわりついてた。
震える足に力を込め、立ち上がる。
そして、涙に濡れた顔を上げると、そこには見覚えのない女性が居た。
「シンジ……」
NEON GENESIS EVANGELION
Re-Program
EPISODE 20
Feel Lonely
「……信じられないわね。」
アスカに連れて来られ、シンから話を聞いたリツコだったが、わずかな黙考の後、否定する。
だがその口調からは信じられないというよりも、信じたく無いとの感情がにじみ出ていた。
シンから聞かされた話。
アスカは力無く椅子に座って顔をうつむかせていた。
「俺だって信じられない。何せ、ずっと意識の深い所に居た所為で外もほとんど見えて無かった。
記憶さえ曖昧だ。
だが最後にシンジがエヴァに乗った事から考えるとそれが一番確率が高い。」
「私はまず貴方がシンジ君じゃ無いのが信じられないのだけど……」
「それに関しては信じてもらう他無いな。」
シンはリツコから、ベッドの反対側に座っているアスカに視線を移す。
声を掛けられたアスカは、青白い顔を上げた。
そしてシンが期待しているであろう言葉を無表情で口にする。
「コイツが多重人格である事は間違いないわ。
コイツじゃないけど他の子に会った事はあるわ。」
「リコか……」
「私も会えるかしら?」
リツコがシンに尋ねるが、シンは黙って首を横に振った。
「難しいだろうな。
ついさっき出てきたばっかりで、しかも初対面の人が居る所ではな。」
「そう…残念ね。」
私も会いたかったのだけど。
少し残念そうにリツコは呟いたが、気を取り直して話を進める。
「貴方の事は信じるとして……
それで、今貴方の中には何人が残ってるのかしら?」
「俺とリコだけだ。シンジと……」
言いながらシンはリツコの顔を見た。
鋭い視線がシンから寄せられ、リツコはアスカに気付かれない様そっとシンから目を逸らした。
「……後もう一人は恐らく、初号機の中だろうな。」
「ねえ……」
シンの話を聞いてから、初めてアスカが自分から話し掛ける。
「ホントに……シンジは居ないの?」
「ああ、それは間違い無いな。
俺はずっとシンジの意識下に居た。十年以上な。
その所為か、シンジと違って俺は自分の内を探る事が出来るんだ。
だが……」
そこで一度区切り、目を閉じて深く息を吸い込む。
先ほどの空白を思い出し、ともすれば震えそうな体を抑え込んで、再び話し始めた。
「だが、何処にもシンジは居なかった。
何処にも……
有ったのは、ただの虚無だけだった。」
「そう……」
「精神だけが融合するなど、俺も信じられない。
だが、もし形而上学で考えられるような”魂”が本当にあるとすれば、
有り得ない話でも無いとは思うんだが……
赤木博士はどう思う?」
「そうね。
あの時、シンジ君はアスカとレイがやられてるのを見て、云わば一種の心神喪失状態だったと考えられるわ。
魂が精神のあり方を規定しているとするなら精神が魂に影響を及ぼす事もあり得る。
シンジ君がもし、自分の存在を見失ったとしたら、自我境界線を失って
L.C.Lに溶け出した可能性はあるわね。」
「そんなの……どうしようも無いじゃない……」
うめくようにアスカは声を出す。
話を聞けば聞くほど、状況は絶望的に思えた。
何よ、魂って。人格だけ液体に溶けるって何よ。
アスカは声に出さずに吐き捨てた。
「百歩譲ってリツコの言う事を信じるわ。
でもシンジが溶けたっていうL.C.Lはもう捨ててしまってんのよ?
どうするって言うのよ!?」
「……」
「……いや。」
アスカの叫ぶ様な問い掛けに反論出来ず、リツコは黙り込んでしまうが、
それをシンが否定する。
「赤木博士。もし…もしもだが、シンジの魂がエヴァに取り込まれた、という事は有り得ないのか?」
「それは……」
シンの質問にリツコは戸惑う。
そしてシンの目を見て、その意図をうかがった。
何処まで知っているのか。
まだ出会って間もないシンジと同じ姿の碇シン。
その人となりを探るが、シンの表情からは特別何か意図は見えず、
リツコは諦めて答えを返す。
「そうね。有り得なくは無いわ。
少なくとも検討の価値はあると思うわ。」
すぐに検討してみる。
そう言ってリツコは席を立って出口へと向かった。
だがドアの取っ手に手をかけたところで、シンが呼び止める。
「赤木博士……過去にも似たような事が?」
「……ええ、あったわ。エヴァの開発中にね。」
振り返らずにドアを開き、一歩病室から踏み出したところで、今度は、ああ、とリツコの方からシンに尋ねる。
「貴方の事、皆に教えてもいいかしら?」
「出来れば遠慮してもらいたいな。俺の存在が公になるのは、後々シンジが戻って来た時にまずい。
葛城さんには構わない。どうせ隠せ通せそうにないだろうからな。
いずれにせよ、実行に移されるまではここに籠っている。」
どうせここは関係者しか来ないしな、とシンは皮肉気に笑う。
そうね、とリツコも笑って返して一言付け加えた。
「司令とレイにも伝えておくわね。」
「……勝手にしろ。」
吐き捨てる様に、だが苦笑いしながらシンが返事をすると
それじゃ、と手だけをヒラヒラさせてリツコは去っていった。
残された二人だったが、シンは軽く溜息を吐くとまた窓の外をぼんやりと見遣る。
これからの見通しが立ち、またリツコも明るく去った事で病室の
空気も軽いものになった事で幾分アスカの気持ちも軽くなる。
だが、チクリ、とわずかな痛みを伴った不安はアスカの中でくすぶっており、
アスカは小さなそれさえも取り去ろうと、口を開いた。
「ねえ、過去にも似た様な事があったって?」
「ん?ああ、ちょっとそれらしい事をいつか聞いた気がしたから聞いてみただけだ。」
そう告げるとシンは体を横にしてベッドに潜り込む。
「久々に表に出て疲れた。しばらく眠るから帰っていいぞ。」
目を閉じ、アスカに背を向けるシン。
そのまま動かなくなったシンに、アスカは立ち上がるとドアへとゆっくり歩を進める。
だがドアの取っ手に手が掛かったところでその動きを止めた。
「……その時の結果がどうなったか、アンタは知ってんの?」
「……ああ。」
布団の中で微動だにしないまま、シンの声だけがアスカの耳に届く。
その声は先程まで変わらない。
しかし、アスカは短い返事の中に、何処か硬質なものを感じ取った。
「失敗だった。」
―――fade away
誰だ、この人は?
それが僕の正直な第一感想だった。
見た目は二十代後半くらい。ショートカットの黒髪に身長は女性としてはやや高め。
間違い無く美人の部類には入る。
理性的で大人びていて、それでいて優しそうな顔。
柔和な表情で彼女は僕を見ていた。
「シンジ……大きくなって……」
しばらくぶりに会ったおばあちゃんと孫みたいなベタな言葉を僕に向かって投げかけてくるけど、
僕は戸惑うばかり。
何と返事をしてよいか分からず、ただ視線をさ迷わすだけ。
何も言えず、ずっと立ち尽くしていた。
彼女が近づいてくる。
歩いた素振りは無いのに、確実にその姿は大きくなっていく。
その様を見ながら、僕はふと気付いた。
揺れる内巻きの髪。その様子は僕の知る彼女に似ていた。
記憶が蘇る。
蒼い髪の彼女は眼の前の女性の面影をありありと残していて、
あの日、チェロのケースから落ちた写真と、眼前の彼女の姿が重なった。
「かあ…さん……?」
僕がそう漏らした瞬間、僕は彼女の腕の中に居た。
母さんは僕より小さい。僕の首に万歳をする様にして手を回して、胸の位置からは押し殺した泣き声が聞こえてきた。
微かに聞こえてくるそれが、僕の鼓膜と同時に胸を打つ。
伝わってくる温もりは暖かくて、優しい。
それがじんわりと僕の胸の奥の空白を埋めて行って、
冷たかったココロを癒してくれた。
気付けば僕は暖かい雫を零していた。
震える手を伸ばす。
腕が母さんの肩を越えて、背中に回り、そして僕は母さんに触れた。
アスカとは違う、暖かさが掌を通じて僕に伝わってきて、
それが僕の涙腺を更に緩める。
苦しくて、苦しくてどうしようもなくて、僕は声を上げて泣いた。
「うっ…くっ、あ、あああ……」
どれくらい泣いてたのだろうか。
これ以上ないってくらい泣き続けた僕だけれど、
落ち着いて考えてみればこれほど恥ずかしい事は無い気がする。
何せもう17ですから。
高校生が母親に文字通り泣きつくってどうよ?
いや、ホント恥ずかしくて顔から火が出そうです。
我に返って母さんを見てみれば、優しく微笑んでこっちを見てる。
そこに他意は無いはずなんだけど、生暖かい目で見られてる気がする僕はなんでしょう?
「シンジ……」
ついさっきまでずっと抱き合ってたはずなんだけど、
母さんは飽きもせずそっと僕の頬を撫で続ける。
僕はものすごい気恥かしくて、母さんのその暖かくて柔らかい掌から逃れようと顔を逸らすけど、
母さんはそれを許してくれない。
すぐに僕の顔をつかんで離さない。
つかんだって程の力じゃなくて、むしろそっと撫でる感じだったけど、
それにさえ僕は抗えない。
母さんが本当に嬉しそうにいつまでも撫で続けるから、
それを見てる僕も嬉しくなって、恥ずかしさを堪えて
ずっと母さんになされるがままになっていた。
やがて満足したのか、母さんは僕の頬からそっと手を離す。
「もう…いいの?」
されてる時はやたら恥ずかしかったのに、
いざ止められると今度は名残惜しい。
僕の問い掛けに母さんは黙って頷いた。
「そう……」
僕もそれだけを返して、だけど何を話していいのか分からずに、
ただむず痒い沈黙だけが流れる。
そんな中で先に口を開いたのはやっぱり母さんの方で、
優しそうな口から、優しい声で問いかけてきた。
「元気…だった?」
「うん……」
「そう…それを聞いて安心したわ。」
だって10年だもの。
そう言って母さんは微笑んだ。
それから僕らはずっと話してた。
そのどれもがとりとめも無い内容だったけど、母さんはずっと嬉しそうで、
その大半が母さんが尋ねて僕が適当に相槌を打つ感じ。
母さんの話を聞きながら、僕は長いな、と思った。
10年。言葉にすればたったそれだけの事で、実際、
母さんからすればそれくらいの感覚しか無いんじゃないだろうか。
姿形は変われど僕は母さんの子供で、母さんの中の僕はきっと子供の時のまま。
一方僕はこの十年を必死に生きてきた。
常に何かに脅え、悩み、自分を騙しながら。
何もかもに興味を失って、何をして良いか分からないままただ生きてきて、
喜と哀と楽を繰り返しながら日々を過ごしてきた。
母さんの中の「碇シンジ」像と僕自身。
会話が続いていく中で僕はそのズレを感じ始めていた。
母さんはきっと良家の出なんだろうと思う。
お淑やかさと落ち着いた態度。
話す言葉の端々に育ちの良さが見て取れる。
母さんが僕をどういう風に育てたかったのか。
今となってはそれは分からない。
だけどきっといい暮らしをして、きちんとしつけられて、
勉強し、まともな恋をし、悩みながらもまともな人間に育ったんだろう。
母さんはそれを前提にして僕を見ている。
自分が育てて、母さんのイメージ通りの僕を。
10年ぶりに母さんに会った喜びと高揚は薄れて、
口を開けば開くほどその齟齬に苛立ちと嫌悪が少しずつ沸き起こってくる。
だけど僕はこれまでの生活で染みついた通り、それを押し隠して
感じ取った「碇シンジ」を演じていた。
僕という存在を「決めつける」自分勝手なイメージ。
僕を無視して作り上げられたそれは、それ故に僕自身の「碇シンジ」を消滅させ、
他人の作り上げた「碇シンジ」を演じる事を強要する。
それは普段の僕と同じ。そして、母さんも。
これは甘えだ。相手が母さんだから僕は甘えてしまって、
勝手に期待して、勝手に失望しているだけだ。
親子だからって過ごした時間無しに全てが分かるはずがない。
そんな当たり前の事さえ、僕は忘れてしまっていた。
期待して、裏切られたと思いこんで失望する。
僕も同じだ。他の皆と同じだ。一体何が違うというのだろう。
苛立つ。こんな自分に。
「どうしたの、シンジ?」
「別に、何でも無いけど?」
甘えは捨てなければいけない。
いつか僕は誓ったはずだ。僕は僕だけで生きていくと。
他者を利用しながら、他者と過ごしながら
一人で生きていくんだと。
いつの間に忘れてしまったんだろう。
こんな大切な事を。
「どうしてお母さんに心を開いてくれないの?」
「そんな事…ないよ。」
「なら……」
母さんは言葉をそこで一度区切って、僕の顔を見て再び口を開く。
「どうしてそんなに悲しい笑顔をするの?」
言われて手を自分の顔にやる。
母さんの言う通り僕の口は歪み、確かに僕は嗤ってた。
当然だ。母さんを安心させる為に僕は笑ったのだから。
突如目の前に母さんが現れる。
吐息が掛かる程の距離で、無表情にも近い感情の乏しい顔で僕を見つめた。
鳶色の瞳に何かが映る。
口は横に開き、細まった眼を持つそれは確かに笑顔で、
だけどその顔には作り物の何かが見て取れた。
ああ、そうか。
僕は悟った。ついさっき見たもう一人の僕。母さんの眼に映ったモノは彼の笑顔そのもので、
あの笑顔は僕だったんだ。
彼は鏡だ。
彼は僕で僕は彼。
僕が感じた嫌悪感はそのまま僕に対してと同義で、
その嫌悪感は僕が僕を嫌っている事を表していた。
「そんな事は無い。」
「どうして隠すの?」
何故隠す?決まってる。
どうして他人にそんな事を言わなければならない?
母親は最初の他人で、心の内を全て話さなければならない事はないはずだ。
「隠してない。」
「教えてよ、母さんに。」
「教えるも何も、本当に隠してなんか無いって。」
ましてや母さんと出会ったのは10年ぶり。それこそ他人に等しい。
僕が僕を嫌ってるのなら、好きになる様に、自分を愛せる様に変えていきたい。
でも僕の中にはその手段として母さんは入っていない。
「ふう……どうしてそんな子に育ったのかしらね。」
ゲンドウさんはどんな育て方をしたのかしら。
溜息を吐いてそんな事を母さんは言い放った。
「……の所為だ。」
「え?」
「聞こえなかったのか?アンタの所為だって言ったんだよ!」
むかつく。むかつくムカつくむかつく。
僕は歪だ。歪んでいる。
何をしても面白くなくて、常に他人に脅え、悩み、嘆き、
生きるよりも死ぬ方が楽になれるんじゃないかって本気で思って、
でも死ぬ事は出来なくて。
いつも自分と他人を誤魔化して、本当の自分が見えなくて、どうしようも無い僕。
そうだ。全ての原因は……コイツだ。
「何が『どうしてそんな子に育った』だ?元を正せばアンタが死んだ事が原因なんだよ。
そんなに気に入らないなら自分で育てれば良かったんだ。
アンタがあんな実験に参加しなければ、こんな僕にはならなかった。」
「シンジ……」
「アンタが父さんの忠告を聞いてれば、僕はもっとまともな人間で、
極普通の生活が送れて、楽しい毎日が待ってた。こんなに毎日に苦しむ事は無かった。」
「シンジ、貴方……」
「何で僕がここに居ると思う?アンタが大切にしてたエヴァに乗ってるからだ。
僕らを捨ててまでも作りたかったね」
「違うわ。私は……」
「父さんに脅されて、頭に銃を突き付けられて、
でも僕は自分の意志で乗った。自分の居場所を見つけられたと思った。
分かるか?死に場所に僕は自分で進んで行ったんだ!
死ぬのが怖いくせに死ぬような目に遭いに行くんだよ。誰に強制されたわけでもなく。
死にたくないのに死にたいなんていう、訳の分からない人間に育ったんだよ。
アンタが死んで、父さんは世間から人殺しのレッテルを貼られた!
僕は父さんに捨てられた!誰も信じられなくなった!僕も信じられなくなった!
そうさ!アンタは別に関係無い。直接被害を被ったのは父さんだけだ。
僕がこんな人間になったのにアンタは全く関係無いさ。
でもアンタが生きてさえいればこうはならなかった!!アンタが全てを狂わせたんだよ!!」
一息にまくし立て、自分の荒い息だけが聞こえてくる。
母さんは何も言わない。そして僕は顔を上げれなかった。
(ちくしょう……)
顔を伏せたまま、僕は拳を握りしめる。
あんな事言うつもりじゃなかった。
言いたい事をぶちまけた所為で、急速に頭が冷静さを取り戻し始める。
そして僕に襲いかかってきたのは、どうしようも無いほどの強烈な後悔だった。
母さんに対して良い感情を持てなくなってたのは事実だけど、
母さんを傷つける気なんて無かった。
母さんだって好きで居なくなったんじゃない。
出来ればずっと一緒に居たかった。
落ち着いて考えればそんな事はすぐ分かる。
なのに僕は口にしてはいけない事を、いとも容易く口に出してしまった。
僕は知ってるはずなのに。傷つけられる事の痛みを。
「……!」
声にならない声を出して僕は母さんに背を向ける。
これ以上ここにいちゃいけない。ここじゃ僕は仮面を被れない。
抗い難い甘えの前に僕は容易に母さんを傷つけてしまうから。
「戻るのね……?」
最初と変わらない声で母さんは尋ねてくる。それが僕には辛い。
背を向けたまま、僕は黙って頷くと一歩足を踏み出した。
「戻ればまた…貴方の言う辛い現実が待っているのよ?
さっきの言葉は謝るわ。だから……」
「僕には……アスカが、シンが、待ってくれてる人が居るから……」
一歩母さんから遠ざかる度に僕は現実へと舞い戻る。
記憶の中の母さんの顔が薄れ、アスカや綾波さん、ミサトさんにリツコさんにカケル、そして父さんの顔が蘇る。
そう。僕にはアスカが居る。
僕の事を分かってくれるかもしれない彼女が居る。
ああ、そうだ。アスカに謝らなくちゃ。早く帰って謝らなくっちゃ。
あんな事言ってごめんって。心配してくれてたのに、傷つけてごめんって。
綾波さんにも謝らなきゃ。遅れてごめんって。
皆に謝らなきゃ。心配掛けてごめんなさいって。
また一歩僕は踏み出す。
皆には謝れる。なら最後にもう一人謝らなければならない。
眩い光が僕の眼を焼く中、一度深呼吸をし、意を決して僕は振り向いた。
伏せ気味の顔を少しずつ上げていく。
僕が言った事が僕自身を苛み、傷つけていく。
「シンジ。」
呼ばれた瞬間、思わず体が強張る。
怒られる前みたいに、体が固まって動かない。
悪い事をしたという自覚が無条件に僕を縛りつける。
「顔をあげなさい。」
優しい声が逆に僕を責めている様で余計に怖い。
逆らう事も出来ず、言われるがままに僕は顔を上げた。
顔を上げると、母さんは笑ってた。
先ほどの事を責める事もせず、笑って僕を見ていた。
全部分かっている。その笑顔はそう言わんばかりで、
僕は何故か分からないけど、救われた気分になれた。
光がまた一段と強くなる。
太陽の様に暖かくも強い光は母さんの姿をかき消していく。
消えていくのは母さんなのか、僕なのか。
母さんに向かって伸ばされた二つの手が重なり、やがて一つになっていく。
「母さん……」
ごめんなさい。
その言葉は口から出る事無く、失われた温もりを胸に感じながら僕の意識は光の中に溶けていった。
a nuisance―――
「三番から十七番までのプロセス終了……」
「エントリープラグ挿入。固定完了。」
「プラグ注水終了。」
「パルス順調。神経接続完了まで残り五十二。」
シンジが消えておよそ三十日。
ネルフ本部では粛々として計画の準備が整えられていた。
リツコが作成した、シンジの精神を肉体へと再定着させる計画書。
それに従い、オペレーター、及び作業員は手を休む事無く動かしていく。
その間に無駄口を叩く者は一人も居ない。
作成者として、また技術部長としてリツコは矢継ぎ早に指示を出していく中、ミサトは
黙ってまま仁王立ちで作業の様子を眺めていた。
表情は厳しく、視線は鋭い。
これから使徒戦に挑もうかという様子でリツコ達を見守る。
最上段ではゲンドウと冬月が、ミサトと同じ様に階下の様子を見ていた。
発令所と離れた、慌しくも静かな、何処か異様な雰囲気が張りつめる実験室。
忙しい作業員達とは離れた部屋の隅で、ミサトとも離れ、アスカは目の前の初号機を睨む様に見つめていた。
「碇さんは帰ってくるわ……」
背後から掛けられた声にアスカは表情を緩めて振り返る。
「レイ……」
「帰ってくる。絶対に。」
アスカの横に並び、強化ガラス越しに初号機をレイは見上げる。
滅多に聞かないレイの断言に、アスカは表情を緩めたまま黙って再びレイと同じ様に初号機を見上げた。
「信号、送信。」
不意にスピーカーからリツコの声が聞こえ、それと同時に実験室のモニターにもプラグ内の映像が映し出される。
プラグスーツを着てシートに座るシンは眼を閉じたままで、まるで寝ている様に見える。
眼を閉じた姿はシンジそのもので、だがシンジはそこには居ない。
なのにシンの表情は穏やかそのもので、逆にアスカは不安を感じていた。
「信号受信、確認。」
「パルス照射。」
「パルス照射。三番と九番のパルスを確認。」
「了解。ステージを第二に移行。」
聞こえてくるオペレーター達の声を聞きながら、アスカは食い入るようにモニターを見つめる。
緊張からくる汗がアスカの額を流れ、アスカはそれを鬱陶しげに振り払った。
「最終パルス送信。」
「パルスの送信を確認。」
「初号機側の受信を確認。
ダメです!信号がクライン空間に囚われています!!」
計画が最終段階に到達した時、それまで聞こえていた落ち着いた声が
悲鳴混じりのものに変わる。
その瞬間、画面が紅く染まってアラームがけたたましい音を立て始めた。
「パルス中断!逆流を防いで!」
「防壁を展開!」
「神経接続が一部解除されていきます!!」
切羽詰まった声がし、モニターの中のシンの表情が苦しげに歪む。
苦悶に震えるシンジの体。アスカはケージへ向かって走り出した。
だがそれも自分の腕を掴んだレイによって阻まれる。
「レイ!」
「大丈夫。……私を信じて。」
アスカの眼を見て、レイは呟いた。
だがその口調はレイ自身に言い聞かせる様な物でもあった。
そしてそれを表す様に、アスカの腕を掴んだレイの手はわずかに震えていた。
「接続解除、防げません!」
「第七から第十一までの接続が完全に解除されました!!」
「ぐっ…がぁ……」
リツコ達を襲う、止まらない警報。スピーカーから漏れ聞こえるシンのうめき声。
リツコは一度瞑目すると、苦虫を噛み潰した表情で呟いた。
「ここまでか……」
「どういう事よ!?」
強い口調で迫るミサトに向かって、リツコは静かに答えを返した。
「つまり……失敗。」
その言葉に一瞬、発令所が静まり返る。
最上段のゲンドウも口元を手で隠したままだが、組まれた掌は強く握られていた。
リツコは呆然とするミサトに背を向けると、落ち着いた声で冷徹な判断を下した。
「実験中止。現状維持を最優先にしながら回路を切断しなさい。」
「了解……
え?」
気落ちした声でマヤは返事をすると、辛い決断を成す為にコンソールへと視線を落とす。
しかしモニターに向き直ったマヤは思わず声を漏らした。
「神経接続が……元に戻っていく……」
「パルスの逆流も止まっています!」
「防壁が解除されていっています!神経接続も全て回復しました!!」
「何が起こってるの……?」
先ほどとは違った意味で呆然とするミサト。
誰もがミサトと同じ表情で事の成り行きを見守っていた。
その中で、冬月はホッと溜息を吐き、ゲンドウは誰にも聞こえない声でそっと名前を呼んだ。
「ユイ……」
一人でに、誰の手も借りずに全てが進み、やがて初号機の首筋からプラグが排出される。
ガコッ、と音が無人のケージに響くと同時に、実験室のドアが勢いよく開けられて、中から
一筋の風が勢い良く流れ出た。
何処からか聞こえる制止を振り切って、レイは排出されたプラグへと駆け寄る。
そして覗き込んだ先からは、久々に聞いた懐かしい声と笑顔が返ってきた。
「ただいま。」