「え……?」
呆然として僕はその言葉を聞いていた。
あまりに予想外で、僕はその言葉を理解出来ず、自分が漏らした声さえも気付けない。
まともに返事すらも返せないでいると、目の前の父さんはもう一度口を開いた。
「お前はクビだ。何度も言わせるな。」
僕の父であり、組織の長である彼は感情の籠っていない声でそう僕に告げた。
受け入れ難い、だけど受け入れなければいけない通告。
二度言われた事で嫌でも僕の中でその言葉が意味を成していく。
そして意味を理解した時、僕の世界はぐらつき始めた。
世界が灰色に染まり、モノの輪郭はただの線へと成り下がる。
「な…何故ですか?理由を……お願いします。」
かろうじて、本当にかろうじて声を絞り出す事が出来た。
喉はカラカラに渇き、口の中がべたつく。
クビにされる理由が分からない。大きなミスをした覚えは無いし、シンクロ率も
アスカには及ばないけど綾波さんにはまだ勝ってる。
未だ世界に三人しか居ないエヴァのパイロットで、
四人目はついこの間……死んだ。あの後パイロット補充の話は聞かない。
にもかかわらずこのタイミングでどうして?
そこまで考えて、一つの可能性が僕の中で形を作った。
この前の参号機戦で投入されたダミーシステム。簡単に話を聞いた限りだと、
一種のオートパイロット機構らしくて、僕らチルドレン無しでもエヴァの起動が可能になる。
前回の戦いの後、マヤさんは勝手にシンクロをカットしてダミーを使った事を何度も何度も謝ってくれた。
僕としては謝罪されるいわれが無かった。マヤさんが勝手にそんな事をするわけはないだろうし、
命令を下すとしたら少なくとも作戦指揮権を持つ人で、マヤさんに責任は無い。
そう言ってもマヤさんは頑なだった。自分の所為で子供を殺させてしまったと。
マヤさんはそう言うけど、僕としては何処か感謝したい気持ちもあった。自分の手を汚さずに済んだ事に
何処かホッとした部分もあったから。
あの時、参号機の頭を砕いたあの時に感じた気持ちの悪さは一晩寝たら何処かに行ってしまった。
だからマヤさんには謝られても困る。なので僕はその事を正直に話して逆にお礼を言った。
マヤさんは微妙に赤い眼をして、まだ何か言いたげだったけど、僕は話を変えるべくダミーについて質問した。
質問の内容が問題だとは思ったけど、他にその場で咄嗟に思いつかなかったからしょうがない。
マヤさんからダミーの話を聞いて、その時は特に何も思わなかったけど、そのダミーシステムが僕の居場所を奪ったのでは
無いだろうか。マヤさんは、まだダミーには問題が多いと言っていた。
そしてその問題がもしエヴァの種類を選ぶ、といった類のものだったとしたら―――
「お前が使えないからだ。」
「碇!」
父さんの言葉に一瞬血の気が引いていったけど、副司令の諫める声で、何とか踏み止まる。
冬月さんはコホン、と一度咳払いをすると、改めて僕に向かって説明してくれた。
「勘違いしないでほしいのは、別にシンジ君の能力を見限った訳では無いという事だ。
こちらとしても今までの功績には非常に感謝しているよ。」
「こちらも最初にかなり無茶な要求を吹っかけましたけどね。」
つい口から皮肉が出てくる。何故だろう、副司令の言葉にも素直に対応できない。
全てがどうでもいい。そんな投げやりな気分が口を動かしてるんだろうか。
「エヴァに掛かる費用を考えると君に払う給料など安いものだよ。それに給料分以上の働きをしてくれたとも我々は評価している。」
苦笑いしながら副司令が答える。そこに僕に対する隔意とか、そういった物は一切感じられなかった。
「今こうしてシンジ君をチルドレンから降りてもらうのはね、君の健康を考えての事なんだよ。」
「……どういう事でしょうか?」
まさか、と背中を冷たい汗が流れた。
シンやリコの事がばれたのではないか。そんな疑念が僕の心臓を鷲掴みにする。
収縮した心臓に逆らうかのように激しく脈打つ。
何処からばれた?誰にも二人の事は話していないし、誰かの前で二人を外に出す事もほとんどしていない。
何度か見られた事はあったけど、その時も気付かれてなかったはずだ。ならば何時?何処で?
排斥されていく自分の姿が頭の中を駆け巡った。
人は普通と違うものを徹底的に排除していく。
頭抜けた者には足を引っ張り、落ちこぼれた者には侮蔑を。
異常な強者を集団で隔離し、異常な弱者には微笑みに優越感と自己満足を隠して表面だけの温もりを差し伸べる。
「シンジ君?」
副司令の声で我に返る。いつの間にか両の掌には、じっとりと汗がにじんでいた。
「急に健康が、と言われて驚いたかもしれないが、なに、大事には至ってないから安心してくれたまえ。
シンジ君も赤木君あたりから聞いた事があるだろう?エヴァに乗る、という事は脳神経に少々負担が掛かる。
検査の結果、シンジ君の脳が限界に近いらしくてね。」
良かった……どうやらばれたわけじゃないみたいだ。
まだそうと決まった訳じゃないけど、もしばれてたとしても何も言ってこないなら、安心してもいいかもしれない。
「無論今すぐどうこう、という話では無いがね。折しも、先日の使徒との戦闘でダミーの有効性が証明されたからね。
健康を害する前に、降りてもらおうと思ったのだよ。」
でも例えシンとリコの事が原因じゃ無いとしても、
僕はもうエヴァに乗る事は出来ない訳で。
結局僕はダミーに居場所を取られ、僕の半身を失くしてしまった事には変わりは無い。
折角見つけた目的もこうしてあっさり失ってしまった。
そしてそれはまた僕が望んでいたモノが手に入らなかった事を意味してた。
「一応このままシンジ君には作戦部の葛城三佐の補佐に当ってもらう事になる。勿論階級と給料はこれまでと同じ様に支払う。」
冬月副司令の言葉も頭に入らない。ただ言葉は文字の列として頭をすり抜けていくだけ。
モノクロームの構成は光さえも単色でしかなくて。
最初に失った世界の色は戻らず、灰色の世界のまま僕は部屋を後にした。
第拾九話 希望
腰を下ろし、ソファからの反発で視界が予想外に揺れて、そこで僕は初めて自分が自分の家に帰って来た事に気が付いた。
道中の事は一切覚えてない。思い出そうとしても頭に浮かぶのは断片的な映像。
それでさえ今の僕には今日の事なのか分からない。
もしかしたらいつも見慣れている風景の記録を再生しているだけではないのか、と。
僕にしては奮発した、真っ黒なちょっと高いソファを撫で、視線を部屋に彷徨わせる。
遮光性の高いカーテンは閉め切られてて、まだ昼間なのに部屋の中は天気の悪い夕方の様に薄暗い。
だけど僕はこういう空間が好きだった。明るい所よりも闇に近い方を好み、それでいて深淵は嫌悪してた。
何かしら欠陥を抱えてる人間は暗闇を好むのさ、と、結局はどこまでも普通でしか無かった自分が
多少普通とは違う―――それは誰しもが一つは持ってるモノで―――モノを取り上げて格好を付けていた
事も覚えてる。
でも―――
僕は再びソファを撫でた。
今こうして何かに触れていても、手で感じられるのは単なる「感触」でしか無くて、
そこには触れているっていう実感は何処にもない。
帰り道の事を覚えて無かったのも、父さんの言葉にショックを受けたからなのか、
それとも削り取られていった現実感の所為なのか、判別は出来ない。
だけど、もし仮に父さんの通告が無かったとしても、遠からず似た状態になってしまうだろう事は
簡単に想像できた。
それは誰にも教えてない、僕だけが知っていて、初号機に乗り続けている限り分かり切っていた事。
エヴァに共通している事なのか、それとも初号機が特殊なのか分からない。
けれど、彼か、彼らかは、電力だけで無くて僕から『何か』を奪い取って動く。
ならば考え方を変えれば、僕はこれ以上その『何か』を失わなくて済む。
失った物は返ってこないけど、ヒトとして大事かもしれないそれをまだかろうじて保ってられるのは良い事なのかもしれない。
そんな風に、ポジティブに考えようとしても―――
失くしてしまった現実感に反発するように、あるいは埋め合わせるかのように、僕の内面は静かに、だけど激しく僕自身を蝕んでいく。
ひどい、喪失感。
世界は色を多少ながらも取り戻したというのに、僕の胸の内には塞ぐ事の出来ない程大きな穴が開いてしまったみたいで、
ひどく空しい。
記憶を探る。いつだったか、似た様な喪失感を感じた気がする。同じ様に、寄る辺を失ってどうしていいか分からなくて、
泣くことさえも出来なくて、全ての原因は自分にあるのだと戒めて、自分の奥底に沈め諦めた記憶。
依存する事は危険だと分かってた。頭の中では。対象を無くした瞬間に自分は立てなくなるのだと識っていた。
そしてその度に「人は何かに依存する事無く生きていけない」と自分に言い訳をして逃げてきた。
そう、逃げてきた。ならばこの結果もその代償なんだろうか。
因果応報。ふとそんな言葉が頭に浮かんできた。
何が原因でこうなったのだろう?逃げた事?常に誰かに依存し、醜く搾取してきた事だろうか?
それとも
知り合いが殺されるのを黙ってみていた事?
ああ、それなら納得いくかもしれない。世間の常識からいけば、人が人を殺すのは最大の罪悪だろう。
だけど、それが大多数の為ならば?例え僕にその気がなくても、それによって多くが救われるのなら?
何が悪いのか分からない。
けれど、僕は逆に何か報われただろうか?僕は善人では無いけれど、
こんなにも僕のモノを取り上げられる程悪い事をした覚えは無くて、なのに善い事をしても報われた記憶は無い。
世界は決して平等では無くて、だから僕は神様なんてモノが嫌いだ。なるほど、だから僕は報われない。
なんて矛盾螺旋。唾を吐き飛ばしてやりたい。
苛立たしげに僕は顔を上げる。そしてそこにはアスカが居た。
走ってきたらしい彼女は息をわずかに荒げて、白い頬を赤く染めてた。
いつ入って来たのか分からないが、そんな疑問は僕にとってどうでも良くて、
彼女がここに居る理由さえ考えるのが億劫だった。
「アスカ?」
「聞いたわ……」
「そっか……」
神妙な表情で呟くアスカから視線を移して、僕は自分のポケットを漁る。
一本吸って落ち着きたかった。だけどポケットから出てきたのはライターだけ。
仕方無く僕はそいつをテーブルに放り投げた。
「それで?」
「それでって……アンタはそれで良いの?」
「良いも悪いも無いよ。僕はただの雇われパイロットで、その役割を果たすのに不適格と言われた。
ネルフは独占企業で、ネルフ以外にエヴァに乗れる所は無い。
僕にどうしろって言うのさ?」
そう言うと、アスカは黙って俯いた。それを見て僕は外に向き直る。
カーテン越しの光は弱く、いつの間にかもう夕暮れに近いらしかった。
「それでも……それでも何か出来るかもしれないじゃない!?最初に乗った時だってアンタ司令と交渉したんでしょ!?
だったら何か譲歩引き出せるかも……」
「いいんだよ、アスカ。」
「良くないわよ!!」
「どうして?僕が降りたって何も困る事なんて無いじゃないか?
僕は給料変わらずに仕事は減って、命の危険も無くなった。アスカはこれで一番の座は安泰。」
「……っ!」
僕らは内心はどうあれ、これまで数か月付き合ってきた。半ば同棲に近い形で、昼夜を問わず時を一緒に過ごした。
僕らは互いに今、最も近しい人物であって、互いが口にしない何かでさえも推し量れる程には互いに見てきた。
アスカは一番という事実に、僕は特殊な立場自体に執着を示す。
どんなに隠そうとしても、僕らは似た人間故に気付いてしまう。こんなにも近くに居れば尚更。
だからアスカはこんなにも拘るのだろうか。僕を知ってくれているから。
アスカは優しい。そして、残酷だ。
「今後使徒を倒した時に、その功績はアスカの物となる可能性が高い。パイロットとしての技術は文句無いしね。
僕はネルフから去るわけじゃないし、アスカとも綾波さんともこれまで通り会える。
変わると言えば、僕が戦場に出なくなる事だけだけど、ダミープラグがあるから戦力的には変わらない。」
どんなに言葉を並べようと、事実は変わらない。僕はもうエヴァには乗れない。
そしてそれは今までとの決別を意味していて、僕はそれを受け入れざるを得ない。諦めざるを得ない。
なのにアスカは諦めようとする僕に、まだ拘らせようとする。
アスカは優しくて、残酷だ。
「あ、アンタ、あんなダミーとか言うのに居場所盗られても良いって言うの!?」
「アスカ。」
その優しさと残酷さに、僕の中の冷静で冷酷な部分が首をもたげる。
そしてそいつは手にした鎌を首に掛けた。
「どうしてそこまでアスカが拘るの?これは僕の問題で、アスカがそこまで気にする必要は無いんだよ?」
「あ、アタシはただアンタの事が……」
「自分もいつかダミーに場所を奪われるかもしれないから?」
視界がぶれる。次いで、頬に熱を伴った痛み。ソファから転げ落ちて背中を強かに打ち、そして
僕は初めてアスカに殴られた事に気付いた。
偶然目元を覆う形になった腕の位置をそのままに、寝たままアスカを見る。
アスカは僕を殴った体勢のまま固まってた。だけど憤怒に染まっていただろう表情は、今は驚きに満ちてた。
「図星?」
目元を隠したまま、僕は短くそう聞いた。
その声に呪縛が解けた様に、アスカはギリ、と歯を噛みしめて、部屋を飛び出した。
場違いな程軽い音が玄関のドアから届き、僕は起き上がる事無くただ天井を見つめていた。
そのままジンジンする左頬を撫でた。
アスカは優しくて残酷で。
「痛かったな……」
僕はただ残酷なだけだ。
a nuisance―――
真冬の冷たい風が悲鳴を上げながら通り抜けていく。
冬特有の冷たく荒々しい風が屋上のフェンスを揺らし、ガシャリと音を立てた。
空は分厚い雲に覆われて光を通さず、所々に見える真っ黒な雲はその体を落とし始めるタイミングを今か今かと待っていた。
レイはフェンスに右手を掛け、そこから見える風景を眺めていた。
何を目的に見るでも無く、何の感情を抱くでも無い。
屋上に来たはいいが、呼び出した人物が居らず、やる事も無しに任せてただ風景を眺めていたに過ぎない。
表情一つ変えず、独り言を呟くでも無く、瞬きすらもまれに世界を見る。
世界には寒々とした山と家々が広がっているが、レイにとって意味は無い。
何の意味も見出せていなかった。
一筋の風が吹く。
風に押された蒼銀の髪が踊り、レイの頬を撫でる。
髪の一部がレイの頬にかかるが、そのまま崩れた髪形を直す素振りは見えない。
先ほどよりやや強い風が吹き、レイの髪を掻き上げる。
そしてレイの背後で、風にかき消されそうな程わずかな音がした。
振り返ったレイの紅い瞳に、ヒカリの姿が映る。
レイの頬がわずかに緩む。
やや細められていた双眸は微かに大きく開かれ、そしてそれらはレイと親しい人間でなければ気付けない程
微小なものだったが、確かにレイの表情が変化した。
自然な仕草で乱れた髪を手ぐしで整え、ヒカリの方に向き直る。
だがヒカリの方は、レイが振り向いて向かい合っているにも関わらず、口を開かなかった。
黙って佇むヒカリだったが、レイも何も言わずに黙って待つ。
ささやかな風がレイの髪を揺らし、同様にヒカリの黒髪を揺らす。
普段からほとんどしゃべらないレイは、場の沈黙に特に何の感情を持たない。
だが今レイは、普段とは違うヒカリの様子に違和感を感じていた。
彼女はいつも髪をツインテールにし、常に顔を上げて色々とレイに話しかけていた。
特別明るい性格では無いが、それでもまっすぐ顔を見て話す姿がレイには印象に残っていた。
しかし今は髪は結われる事無く重力に従って力無く垂れ下がり、そばかすの浮いた顔は伏せられてレイからは見えない。
「……何?」
珍しくレイの方から声を掛けた。彼女にとっては滅多にない事だが、今、レイは慣れたはずの沈黙に耐えられなかった。
声を掛けたが、ヒカリからの返事は無い。レイは居心地悪そうに視線を逸らした。
「ねえ……」
長い沈黙を破ってヒカリが口を開く。風に前髪が巻き上げられ、露わになったヒカリの表情は、無表情で、
それでいて見様によってはどこか空ろだった。
「本当の事、教えて……?」
「本当の、事?」
レイは鸚鵡返しに聞き返した。が、レイは分かっていた。今、ヒカリが何を聞きたいか、など。
空っぽの笑みを浮かべながらヒカリはゆっくりと近づく。
「そう、本当の事。
鈴原はまだ本当は生きてるんでしょう?」
バルディエル戦から二日後。鈴原トウジの死はクラスメートに伝えられた。
年老いた担任教師から淡々と事実が伝えられ―――ただ戦闘に巻き込まれたとだけだが―――
クラスに小さくない動揺が走った。ただレイだけがいつもと変わらず窓の外を見ていた。
使徒との戦闘が絶えない第三新東京市において、死は常に身近に居る存在のはずだった。
事実、最初の戦闘では国連軍に何人死者が出た、何年生の誰々が大怪我をしたなどの話は何処ででも聞く事が出来た。
幾人かは身の安全に不安を覚えて疎開していった。
だがそれも最初だけで、戦闘が重なるに連れて避難にも慣れ、自分達の周りの人間に誰一人として怪我人さえ出なかったという
事実は、戦いという非日常を日常に埋没させていった。
鈴原トウジの死は皆に事態の異常さを再認識させ、重苦しい雰囲気が教室に満ちる。
誰もが口を閉ざす。
その中、ガシャン、と何かが倒れる音がして、レイも視線を音のした方へと向けた。
そこからの事はレイも良く覚えていた。
ヒカリはトウジの事が好きだった。レイは気付いていなかったが、クラスの中では周知の事実で、
レイもヒカリのトウジに対する態度が他の人と違っていた事には気付いていたため、そうなのか、程度には思っていた。
つい数日前まで会っていたはずの、愛しい人の死。
それはヒカリに多大なショックを与え、彼女は気を失って椅子から転げ落ちた。
それを切欠に、教室の緊張は切れた。
ケンスケが机に突っ伏して号泣し、それに釣られる様に数人の女子がすすり泣く。
周りのクラスメートも慰める事も出来ず、ギュッと各々の唇を噛みしめて堪えるだけだった。
ヒカリが倒れた瞬間、確かにレイの表情は歪んだ。だがヒカリが保健室へ運ばれていくのを見届けると、レイはいつもと
変わらぬ空を眺めていた。
それから二日。ヒカリは学校を休んでいた。
その二日で、彼女の周りは日常を取り戻し。
彼女は非日常から逃げ出して、未だ非日常の中に囚われていた。
「……鈴原君は死んだわ。」
「嘘。」
レイの言葉を一言の元に切って捨てる。
一歩、彼女は近づいた。
「嘘じゃないわ。」
「嘘よ。
だって、綾波さんはまだ生きてるじゃない?」
どういう事だろうか。
レイはヒカリの言う意味を測りかねた。自分の生存と鈴原トウジの死の否定。レイの中では意味は成さない。
また一歩、彼女は近づく。
「アスカさんは死んだの?碇さんは死んだの?ちゃんと生きてるでしょう?」
口元に笑みを浮かべて、だが眼には変わらず何も映し出されていない。
「なら鈴原だって生きてないとおかしいじゃない。
だって、鈴原もエヴァのパイロットなんでしょう?」
「……知っていたのね。」
「ええ。だから隠す必要なんて無いの。だから、ね?」
嘘を吐いた幼子を諭す様に、ヒカリは笑顔をレイに向けて問いただす。
そして彼女は手を掛けた。
「彼は死んだわ。」
ヒカリに肩を掴まれ、吐息がかかるほどの間近な距離で、レイは体を震わせた。
それでもレイは事実だけを口にした。
「綾波さん、私、嘘は嫌いなの。」
「嘘じゃない。彼は死んだ。ネルフでも確認した。」
レイの肩に掛けられた掌に力が込められる。
制服の上に掛けられたカーディガン越しにヒカリの爪が食い込み、痛みにわずかに顔をしかめるが、
レイはやはり真実を口にした。
なまじ距離が近い為に、レイの口から零れた
真実は確実にヒカリを犯し、
ヒカリはそれを防がんと蓋をする。
だがすでに彼女は箱に手を掛けており、外に出てきたモノを元に戻す事は出来ない。
「嘘。」
「嘘じゃないわ。」
「嘘。」
「本当の事。」
「嘘。」
「本当。」
「嘘。」
「事実よ。」
「嘘。
嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘……」
「嘘じゃない。彼は死んだ。」
「嘘よっ!!!」
悲鳴にも近いヒカリの叫び声が空気を切り裂いた。
風が止み、微かな物音さえも遠慮したかの様に静まり返る。
しかしそれも極わずかな時間のみで、真冬の空気は再び流れ始めた。
ヒカリの腕に力が籠もる。
「嘘よ!だって綾波さん言ったじゃない!鈴原に言ってたじゃない!大丈夫だって言ってたじゃないっ!!」
「聞いていたの……?」
ヒカリにレイはフェンスに押し付けられ、甲高い音を立てる。
軽い痛みを背中を感じ、そしてそれ以上にレイは胸が苦しかった。
今にも壊れてしまいそうなヒカリ。
その表情を見ただけで心臓が直に掴まれたような錯覚を覚え、息苦しさにレイは俯いた。
そう、確かに自分は鈴原トウジに大丈夫だと言った。
参号機の実験の三日前、レイはトウジから相談を持ちかけられた。
レイとトウジ、ケンスケの二人との関係はそう親しいものでは無かった。
学校ではヒカリを通しての関係しか持たず、それ以外でもシンジを通しての関係程度でしか無かった。
声を掛けられれば必要最小限の返事しかせず、レイにとっては「ヒカリの友人」程度の認識でしか無い。
だがどういう訳か、トウジから相談を受けた。
レイはその時にはトウジがパイロットに選出された事を知っていたし、だからこそ自分が
相談相手に選ばれたのだと納得していた。
そしてその一方で自分が相談相手として相応しくないだろう事も自覚していた。
レイは事実しか口にしない。
それしか術を知らなかった。
相手が何を欲しているかなどレイには興味が無く、推し量る気も―――少なくともトウジに対しては―――無かった。
だからレイは事実だけを口にした。
危険じゃないのか。怖くないのか。訓練は大変なのか。
レイは答えた。
危険。怖くは無い。そうでもない。
ひとしきりトウジとレイの問答が続き、トウジは知りたかった事を全て聞き終えたのか、
視線をレイから外へと向けた。
眼下に広がる景色を眺めながら、やがてトウジはポツリと言葉を零した。
―――綾波は強いんやな。
その時の表情をレイは覚えていない。
だから今、その時のトウジの心情を推し量ろうとしても、もうレイには出来ない。
それでもその時、レイは自然と口を開いていた。
―――大丈夫。
どうしてかは分からない。が、何故か口からはそんな言葉が出て来ていた。
理由など、無い。分からない。
―――なんや、綾波からそないな言葉貰うとは思て無かったわ。
ホンの数秒前は分からなかった表情。なのにこの時嬉しそうで、だけども恥ずかしそうに笑ったトウジの顔は何故だか思い出せた。
そして、レイの心の中にはむず痒い温かさが残った。
自分は間違った事は言っていない。それは確かな事。
トウジのその時の表情から察するに、自分の口から出た言葉は何かしら良い方向に作用したのだろう。
胸の内でそう呟いてみるが、眼の前で顔を自分の胸に押し付けるヒカリの姿を見て、レイはその事に確信を持てないで居た。
「うっ…あっ…あああ……」
胸元から徐々に嗚咽が漏れる。
次第に強くなる苦しみと共に、ヒカリの嗚咽は大きくなり、終には慟哭へと変わった。
ひざまずいて泣き叫ぶヒカリの声は聞こえてくる以上に強くレイを打つ。
触れるだけで粉々に砕け散ってしまいそうで、レイはその場に立ち尽くす以外の手段を持ち合わせていなかった。
そして街に警報が鳴り響く―――
NEON GENESIS EVANGELION
Re-Program
EPISODE 19
egoism
「住民の避難状況は!?」
「現在およそ四〇%が完了!目標に近い住民を優先して避難させています!」
「市街地に到達するまでどれくらい!?」
「約四分です!!ダメです、とても間に合いません!!」
発令所に次々と舞い込む情報。それらは怒声となって発令所全体を駆け回る。
怒号にも近い勢いで届く報告に、ミサトは奥歯を噛みしめた。
突如として現れた新たな使徒。
第三新東京市付近の観測所では何も捉えておらず、姿を現した時はすでにネルフは後手に回っていた。
住民の避難は間に合わず、エヴァの出撃準備も到達には間に合わない。
移動速度が遅いのが救いではあるが、それはまるで大慌てで準備する自分達を嘲っているようにも見える。
死神の鎌を首に突き付けられた様な、どうしようも無い緊張感。
ゆっくりとした速度で第三新東京市に迫りくるそれをミサトは、こみ上げてくる苛立ちと共に睨みつけた。
「戦闘形態への移行は?」
「後七六秒で完了します。」
「移行完了後、すぐに目標に向かって一斉射。少しでも時間を稼ぎなさい。」
マコトに指示を出し、続いてリツコの方に向き直ると、ミサトはエヴァの状態を尋ねる。
「後十分で弐号機の準備は終わるわ。今アスカがケージに向かっているところよ。」
「零号機は?」
だが零号機に話が及ぶと、リツコは包帯の巻かれた頭を横に振った。
「この前の戦闘で素体の頭部にダメージが残ってるわ。装甲の交換もまだ終わってないの。」
人手が足りないのよ、と零すリツコに、ミサトは諦めざるを得なかった。
松代での爆発で、作戦部、技術部共に相当の人員を失っていた。
作戦部員の死者はほとんど居ないが、右腕を骨折したミサトを始め、かなりの人数が重傷を負った。
技術部においては、オペレーター業務の部員は実験中は作戦部同様、やや離れた実験室に居た為に怪我人がほとんどだったが、
ケージの近くで待機していた実際の作業員達のほとんどが爆発に巻き込まれ、帰らぬ人となった。
その為、通常の半分程度の人員しか居らず、零号機の修復はほとんど進んでいないのが現状だった。
「零号機はダメ、か……」
無事だった左手の爪をミサトは噛んだ。
絶対的に戦力が足りなかった。シンジは初号機パイロットの任から外され、現在まともに動けるのはアスカの弐号機だけ。
使徒の戦力は分からないが、アスカだけに任せるにはあまりにも心細過ぎた。
眉間に皺を寄せてひたすら思案していたミサトだったが、突如として響いた轟音に俯き気味だった顔を上げる。
モニターには崩れ落ちた兵装ビルの様が映し出されていた。
「兵装ビル蒸発……」
「第十三特殊装甲まで融解しました……」
耳を塞がんばかりだった喧噪が一瞬にして静まり返り、呆然としたオペレーターの声だけがミサトの耳に届いた。
「十三もある特殊装甲を一瞬で……!!」
「何て威力だよ……!」
マコトとシゲルの呟きに誰も反応出来ず、ただ空に突き刺さる光の十字架を眺めるだけ。
眩いそれは、ミサトには、罪深い自分達を断罪する意志の様にも見えた。
「レイは初号機で出せ。」
静粛な発令所に、上段から低い声が届く。
ミサトが振り返ると、そこにはいつもと変わらないゲンドウが居た。
両肘を机に突き、白い手袋に覆われた掌は口元を覆い隠している。
濃い色のサングラスは目を完全に隠し、普段のゲンドウと全く同じだったが、ミサトの隣に居たリツコには
普段以上に表情を隠そうとしている様に思えた。
「ダミープラグをバックアップとして使用。急げ。」
「エヴァの地上迎撃は間に合わないわ!弐号機はジオフロントに配置して!!
アスカは目標がジオフロント侵攻と同時に狙い打って!ダメージが認められない場合は無理をしないで!
すぐにレイを上げるからそれまでの時間稼ぎに徹しなさい!」
「りょーかい!!
大丈夫よ!アタシ一人であんな奴ボコボコにしてやるわよ!!」
ミサトとの通信を切り、アスカは目を閉じてシートにもたれかかった。
一度天を仰ぎ、そして顔を伏せると自分の体を抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫……アタシならやれる……」
何度も何度も口の中だけで繰り返し、自分に言い聞かせる。
不安など、何も無い。自分は誰よりも上手くエヴァを扱えて、誰よりも強い。
だがそれでも不安は消えて無くならない。
逆にどうしようも無い感情が全身からこみ上げて、胸の中心にぽっかりと穴が開いてそこに自信が全て吸い取られていく。
本当の意味での、初の単独戦闘。周りにはシンジもレイも居ない。頼れるのは自分だけ。
(あんな奴なんて当てにしてないわよ……!)
アスカとて分かってはいた。
あの時自分がどれだけ無茶な事を言っていたかなど。
司令直々に解任を言い渡され、一番ショックを受けていたのはシンジであって、
またシンジにとってゲンドウは最も近くて遠い他人であった。
形だけの親子であり、なまじ形だけ残っているから距離を測りかねる。
食い下がる事も、諦め切る事も出来ない。
シンジとアスカの違いは、ただそこだけだった。
アスカは多少なりとも―――例え結果が分かり切っていても―――足掻く姿勢を見せなければ気が済まず、
シンジは結果が分かった時点で興味を失う。自分から興味を捨てようとする。
完全に諦める為に。
だからこそアスカはダミープラグに簡単に居場所を譲るシンジに苛立ち、
シンジはそんなアスカに苛立つ。
(アタシは譲らないわ……!)
あんな情けない奴にも、ダミーとか言う無機物なんかにもアタシは負けない。
苛立ちで不安を抑え込み、アスカは顔を上げた。
(あんな奴に頼らない。アタシは一人で出来る!)
弐号機がカタパルト上を移動し、頭上の隔壁が次々と開いて信号がグリーンに変わる。
そして地上へと射出される。
その最中、アスカは日本に来る前の事を思い出していた。
その時も今と同じ様に、誰にも頼らず一人で戦っていこうとアスカは決意していた。
周りは信頼できず、他のパイロットはただ一緒に戦うだけ。
それ以上でもそれ以下の関係でも無い。そのつもりだった。
最初に色々あった所為で予定が変わってしまったが、
本来あるべき姿に近い形になっただけだ。
地上に出て、使徒が出てくるであろう位置を鋭く睨みつけながら、内心でそう自分を納得させる。
が、苛立ちは隠せない。
弐号機と共に大量に出された銃火器を適当に掴むと同時にジオフロントに爆音が響き、
土煙の中から使徒―――ゼルエル―――が姿を現した。
両脇にバズーカを抱え、照準を目標に合わせる弐号機。
未だにチラつく苛立ちと不安を振り切る様に、アスカは両手の引鉄を力一杯引き絞った。
地上での戦闘が開始されたその時、レイは初号機の中に居た。
シンジがネルフに来る、更に前。零号機の事故よりも前―――およそ一年ぶりか―――
以来、久々にレイは初号機に搭乗していた。
あの時と変わらないプラグ。どのプラグも内装は変わらないはずなのに、レイは懐かしさにも似た感情を抱いた。
そして、変わらないはずのプラグの、一年前とは違う感触を。
「A10神経接続開始。」
マヤの声が聞こえる。だがそれもすぐに意識の外へと飛んで行った。
同じだけど同じじゃない。
違和感とも違うそれはどこか暖かく、搭乗前にざわついていたレイの心をそっと落ち着けていく。
優しいのとも違う。決して暖かいわけでも無く、だけども何故だか安心できる。
いつの間にかレイの顔には笑顔が浮かんでいた。
「シンクロ開始します。」
レイと初号機のシンクロは順調に進んだ。進んでいるように見えた。
一年ぶりにも関わらず容易く起動レベルを突破し、零号機での平均的な値も通り過ぎていく。
その間、レイはこれまで感じた事の無い開放感を味わっていた。
どこまでも広がり、全ての物が自分そのものであるかの様な錯覚。
際限無く自分と言う存在の枝が伸びていき、触れられないモノは無い様にレイには思えた。
だがそれも終わる。
最初に異変に気付いたのはシンクロ率を注視していたリツコだった。
これまでにない伸びは非常事態の現在において好ましい。
しかし対象がレイだった為に、リツコは妙な胸騒ぎを覚えていた。
元々レイはシンクロ率がほとんど伸びていなかった。
そしてそれと同時に大きく下がる事も無い。良くも悪くもレイの特徴は安定している事だった。
だが今、零号機でのシンクロ率すら越えていた。
十分な調整が出来ていない初号機にもかかわらず。
やがて異変は起こった。
それまで緩やかだった上昇のペースが急激に上がり、一瞬でシンジと初号機のシンクロ率すらも上回った。
「シンクロカット!!急いで!!」
ただ純粋にこれまでにないシンクロ率の上昇に感心していたマヤは、リツコの叫びに反応出来ず、
半ば押しのけられる形でリツコに席を譲った。
素早くコマンドを送り、レイとのシンクロを示していたグラフが零になる。
訳も分からずリツコに席を譲ったマヤは、指示の意味を尋ねようとして、ふと目に入ったグラフに目を疑った。
通常シンクロ率は高ければ高いほどパイロットの意思通りにエヴァを動かす事が可能になる。
そして百に達したところで、自分の体との齟齬は零になる。
だがグラフが最終的に示していた数字。
それは百を越えていた。
「レイ!レイ!大丈夫!?」
リツコがレイに呼び掛けるが、レイからの返事は無い。
レイは焦点の合わない眼で、俯いたまま何処ともなく見つめていた。
繰り返し呼び掛けるリツコ。
その声が十回目を数えようとしたところでようやくレイの瞳に光が戻った。
「は……い……」
呼吸は荒く、体は冷たい。
レイは恐怖していた。
成されるがままに体を預け、どこまでも続こうかという自らの枝葉。
しかし、レイは気付いてしまった。
何処までも広がる代わりに何処からが自分か分からない。
何処も自分なのに自分が見つからない。自己を認識できない。
自己の喪失。
それを自覚した時、突如としてレイを怖気が襲った。
穏やかだった心を一気に奈落の底にまで叩き落とし、そこから這い上がろうとレイは夢中でもがいた。
何も掴めず、何も見えない。
恐怖と共に足掻き続け、気付けば元のプラグの中に居た。
「パイロットをダミーにして再起動しろ。レイは零号機で出撃だ。」
呼吸が落ち着くに連れて元に戻ったレイの聴覚に、ゲンドウの声が届いた。
いつもと変わらない感情を交えないその声が、レイには嬉しかった。
「しかし零号機はまだ……!」
リツコが抗議の声を上げるが、レイは構わなかった。
一刻も早くここから出たい。
その感情に急かされる様に、レイは返事をしていた。
―――fade away
夢を見ていた。
その中で僕はアスカや綾波さんと笑い、そして今までと同じ様にエヴァに乗って使徒と戦う。
夢の中では誰一人として傷つかず、圧倒的とも言える力で使徒を倒す。
だけども僕は夢を見れない。
どれだけ夢想しても、それが所詮夢に過ぎないのだと自覚してしまう。
都合の良い事は結局のところ、夢の中でしか起きず、それが為に僕は夢を夢と気付いてしまう。
そしてそれと同時に僕の夢は覚めた。
眼を開けて、外を見る。
カーテンに邪魔されて良く見えないけど、何が起きてるかくらいは理解してる。
街に警報が鳴り響いたって事は使徒が来て、アスカや綾波さんが戦ってるんだろう。
いや、警報と窓を震わせた爆音の間隔が短かったから、もしかしたらまだ出撃してないのかもしれない。
どっちでも、いい。実際がどうであれ、もう僕には関係の無い事だ。
時折、雷みたいな光と一緒に爆音が窓ガラスを揺らして、戦闘の苛烈さをほんの少しだけだけど伝えてくれる。
なのに僕の心は動かない。ふと携帯を見ると非常呼び出しの通知が来てた。
当たり前か。一応僕も未だネルフの職員だし。
まあ全く以って非常事態には役立たずだけど。
携帯をベッドに放り投げて、僕はまたベッドに横になった。
無気力。まさにこういう状態の事を言うんだろうな、なんて他人事みたいに思いながら、眼を閉じる。
僕に何が出来るというんだろう。
僕に何の意味があるというんだろう。
誰かは言う。生きていればやりたい事が見つかると。
でも見つけた端から失くしてしまうなら、最初からそんなの無くていい。
誰かは言う。人は幸せを探して生きるのだと。
あるか分からないモノに必死になれない。
誰かは言う。人は生れてきた事その事に意味があるのだと。
ならばそれをはっきり示してほしい。
楽しい事より辛い事の方が多い。
そしてどっちでも無い、どうでもいい時間はもっと多い。
ならどうして生きてる?生きて無くてもいいのに。
それはきっと僕が「自ら」死を選ぶ事を悪だと刷り込まれているからで、
だからほんの少しだけ自分の中のベクトルが「生」に向いているだけ。
そしてそれは「生きなければいけない」という、ある種の強迫観念に似た
感情に従って生きてきたここに来るまでの僕と同じだった。
「死」は怖い。
自らの肉体が朽ちていく様を想像しただけで体が震え、
怖気と吐き気が体を駆け巡って、僕は凍える。
だから実際に死に面した時は泣き、叫んで、必死でそれを回避しようとするだろう。
だから僕は夢想する。
何人たりとも邪魔出来ない程に圧倒的な「死」が来る事を。
道徳観も倫理も関係の無い、僕の感情そのものを無視し得るほどの力が僕を連れ去ってくれる事を。
「……我ながら何て考えだ。」
一人呟く。
何て暗くて最低な考えだろう。
でも僕はそれを肯定してる。だからこそ今こうしてベッドに寝ている。逃げだす事もせず。
いつか、あの光が僕を消し去ってくれる事を何処かで期待しながら。
「よっ。勝手に上がらせてもらったよ。」
「……せめて足音くらいさせて入ってきてくださいよ。」
突然掛けられた声に、僕は眼を開けて体を起こした。
加持さんは口にタバコをくわえて、片手を挙げて挨拶すると、
僕に向かってタバコの箱を差し出してきた。
「吸うか?」
「……頂きます。」
箱の中から一本取り出して、加持さんに火を点けてもらう。
久しぶりの煙を思いっきり吸い込む。少しむせかけたけど、何だか少しだけ気分がすっきりした気がする。
「落ち着いたかい?」
「ええ、何とか。
今日は突然どうしたんですか?」
勝手に入ってきて、という皮肉は心の中だけに留めておいた。
加持さんがここに来た理由なんて大体予想がつくし、加持さんの事は嫌いじゃないから。
「葛城の命令でね。
シンジ君をすぐに連れて来いってね。」
「僕は何の役にも立てませんよ?」
エヴァには乗れない。作戦を立案出来たり指揮出来るほど頭も良くない。
誰かの代わりにオペレートする事も出来ない。そんな僕に何をやれ、とミサトさんは言うんだろう。
すると加持さんはいやいや、と首を横に振った。
「葛城は君に何かをさせようという気はないさ。
ただ君の事だから避難もせずに家に居るだろうから、本部に連れて来るようにって事さ。
本部の方がシェルターよりもよっぽど安全だからな。」
良く君の事を見てるじゃないか。
そう言って加持さんは笑った。
ミサトさんに見抜かれてた気恥かしさと、僕を心配してくれてるのが嬉しくて、
さっきまでの暗い気持ちも少し軽くなる。
それと同時にそこまで僕なんかに気を遣ってくれて、わざわざ加持さんをここまで
よこしてくれる事が逆に申し訳無かった。
「それじゃ行きましょうか。」
僕だけならともかく、加持さんまでこんな危険な所に長いさせる訳にはいかない。
吸い掛けだったタバコも早々にもみ消し、同じくソファに座ってのんびりとふかしてた加持さんを急かす。
加持さんはタバコをくわえたまま立ち上がって玄関へ向かう。
僕はハンガーに掛けてた、アスカの買ってくれたジャケットを手に取った。
下に向かうエレベーターの中も、車に乗って走り出してからもしばらく僕らは無言だった。
「なあシンジ君。」
流れる景色を、時々聞こえてくる爆発音をBGMに眺めてた時、加持さんは話し掛けてきた。
「君が司令から聞いた理由。あれは妥当なものだ。」
「別にそこは疑ってませんよ。」
「俺の方でも調べてみたが、このままエヴァに乗り続けたら間違い無く何らかの障害が起きる。
流石に詳しい事までは調べるのは無理だったが。」
何が言いたいんだろうか。僕が父さんを責めてるとでも思ってるのだろうか。
元々加持さんは物事をストレートに言うタイプじゃないけど、どうも今日は回りくどい。
加持さんはそこで言葉を一旦区切ると、タバコを消してこちら側に振り向いた。
いつものどこか人を食ったような、それでいて憎めない笑顔じゃない。
真っ直ぐに僕を見つめて、僕の眼を見て口を再び開いた。
「それを承知で言わせてもらう。
もう一度エヴァに乗ってくれないか。」
意図が掴めない。
加持さんは僕が降ろされた経緯を知ってる。
だからその言葉は僕に言うのでは無くて、それこそ父さんに言うべきだ。
だけど加持さんは僕に言った。
返事の出来ない僕を閃光が照らし出す。
遠くで、光の柱が空を貫いた。
「君も気付いてるはずだ。使徒は段々手強くなってきている。
アスカやレイちゃんの事を信じて無いみたいだが、あの二人だけではもう使徒に勝つのは難しいだろうと俺は踏んでいる。」
「ダミーを入れたら三人になりますよ。」
「俺はそこまで人の心はデジタルじゃないと思ってるよ。
信号で感情は表せない。気分によって実力以上のモノを発揮できる時もあれば、
半分も実力を出せない時だってある。人だからこそ人と人との繋がりを持って、
一人じゃ出来ない事も出来る様になれる。
シンジ君はあの二人とダミープラグでそんな事が出来ると思うかい?」
「僕には……分かりません。」
何にだってメリットとデメリットがある。だからダミーも使いようによっては僕らが戦うより強くなれるかもしれない。
加持さんが僕に何を言わせたいか、分かってる。
でも僕にはそれを口にする事は出来ない。
僕と、アスカや綾波さんが組んだ所で、加持さんの言う様な実力以上のモノなんて発揮できるはずがない。
僕は自分勝手で、わがままで、自分だけが可愛くて。
だからアスカを怒らせてミサトさんや加持さんにだって迷惑を掛けてる。
そんな僕が二人の中に入って行って、邪魔以外の何になると言うのだろう?
「シンジ君は慎重だな。軽々しく物事を決めつけてかからない。」
「ただ間違えるのが怖いだけですよ。」
間違いはそのまま自分に返ってくる。
そして時にその間違いは僕を深く傷つける。
どんなに慎重に動いても、傷つけてしまう事もある。だから動けない。
「君は、もっと自信を持っていい。
君は君自身が思っているよりずっと優秀で、優しい子だ。
強くて、弱い。常に悩み、常に怯え、自分に向き合ってる。
そして自らの過ちを認められる少年だよ。
それが為に周りに気を遣い、皆を変える力を持っている。」
「……買い被りですよ。僕はそんな立派な人間じゃない。」
周りから捨てられない様にただ怯え、たった一つしか付き合い方を知らない。
周囲に常に気を配り、自分を守る為だけに最適な方法を探る。
それは何処までも自分本位で、偶々他の人には気を遣っているように見えるだけ。
そこに他者に対する思いやりは無い。
「そんな事はないさ。事実、皆が君の事を気に掛けてる。
葛城だってシンジ君の事を大切に思ってるからこそ、今こうやって俺は君の前に居る。
戦闘の最中にも関わらず、だ。
そして、それは君がいつも相手の事を思い遣っているって証拠でもある。」
加持さんの言葉が身に染みる。
騙されるな、それは上辺だけに過ぎないと僕の中で何かが叫んでる。
だけど、そいつは僕の中で湧き上がるモノを止められない。
「だからシンジ君も応え返してほしい。
今、君が出来る事で。」
「……ずるいですよ。そんな嬉しい事言われた後で断れるわけないじゃないですか……」
他人は怖い。いつか自分を裏切るかもしれない存在の中で生きるのは辛い。
でも、もし、もしも自分を好きでいてくれる人が居たなら、
自分を偽って、仮面を被らなくても僕を見てくれる人が居たなら。
時に笑い、時にケンカして、だけどもお互いに素直に謝れて、時に自分と一緒に泣いてくれる人が
居たとしたならば。
それはどんなにか嬉しい事で、毎日が楽しい事だろうか。
苦笑いを浮かべながら加持さんを見ると、加持さんも同じように苦笑いを浮かべてた。
「そうだよ。大人っていうのはずるい生き物だからな。
特に俺みたいな人間は目的の為には使える物は何だって使うから、シンジ君も気をつけた方がいい。」
冗談めかして加持さんは笑う。
そして僕も釣られて笑った。
だがすぐに加持さんはまた真面目な表情になって、僕を見る。真っ直ぐに。
「シンジ君の事は俺自身も気に入ってる。
だが正直に言おう。俺は君の命よりも葛城の……ミサトの方が大切だ。アスカの方が大事だ。
君にもしもの事があったら、二人は悲しむだろう。
それでも俺はあの二人の方を選ぶ。」
「ええ、構いません。
僕には……まだ分かりません。
こんな自分より価値のある存在を見つけた事がありませんから、
皆が僕にとってどういう存在なのか、はっきりとは分かりません。
でもアスカもミサトさんも、それに綾波さんも、多分そういう存在になる気がします。
きっとあの三人があっての今だと思うんです。
そして一人でも居なくなったら成り立たなくなる。
ならきっとそれは僕にとって命を懸ける価値はある事なんです。」
だから僕は乗る。例え、その結果僕が居なくなろうとも。
きっとそれさえも自己満足。誰かが欠けた世界には興味が抱け無いだろうから。
ただ自分が辛い思いをしたくないから。
幸い、僕にとってエヴァに乗れる事はこれ以上ない喜びで、
その結果は、多分どんなものでも、乗らない場合の後悔よりも受け入れやすいモノだと思う。
ならばどうすべきか。答えは悩むまでも無い。
「葛城はきっと君が乗ろうとしたら止めるだろう。だから……」
「分かってますよ。
僕はパイロットをクビになった人間です。
僕が乗る事態にならない方がいいんですけど、
僕が乗る事で二人の安全が増すなら処罰を受ける事になっても僕は乗りますよ。
ミサトさんに万一にもこれ以上迷惑掛けるわけには行きませんしね。」
「ああ、よろしく頼むよ。」
ああ、やっぱり加持さんは良い人だ。ずるくなんて無い。
わざわざ僕に加持さんの真意を教え無くたって良かった。
僕にアスカやミサトさんの話をするだけで、僕はエヴァに乗っただろう。
なのに加持さんは本心を教えてくれた。正直に。
僕はこういう人が好きだ。誤魔化そうとせずに、きちんと教えてくれて、
きっと恨まれてもいい、くらいの覚悟だって持ってるんだろう。
なら、例えそれが嘘であったとしても構わない。
もし、神様というのが本当に居るのなら、僕は心から恨む。
諦めようとした途端に、こうやって手を差し伸べてくる。
だから僕は諦め切れない。
アスカが居て、綾波さんが居て、ミサトさんが、加持さんが居る。
僕を認めてくれる。言葉で、態度で示してくれる。
だから僕はまた欲してしまう。
何事も無く笑って、家族と平穏に暮らせる日々を。
車が本部に着く。
僕は完全に止まるのも惜しい、とばかりにドアを開けて走り出そうとした。
だけど加持さんが僕を呼ぶ声が聞こえて、足を止める。
「俺は君に教えないといけない事がある。色々とな。」
「大丈夫ですよ。僕も加持さんに色々教わりたい事がありますから。女性の扱い方とか。」
そう返したら加持さんは苦笑いした。
頭をポリポリと掻きながら、参った、といった風に一つ溜息をついてまた僕を見る。
「そうだな。そこら辺も教えないとな。
だから、シンジ君。
……帰ってこいよ」
「当たり前ですよ。縁起でも無いです。死亡フラグ立てないでください。」
笑いながら加持さんに文句を言う。
そして、今度こそ僕は走り出した。
a nuisance―――
弐号機と使徒との戦闘は苛烈を極めた。
ゼルエルのジオフロント侵入と共に、アスカはありったけの飛び道具を使用して使徒を攻撃した。
広大な地下空間に地を揺るがすほどの轟音が木霊して、着弾の爆煙が使徒の体の大半を覆い隠す。
バズーカーを使い果たし、パレットガンに手持ちの武器を切り替えて尚もアスカは攻撃を加える。
弐号機の一方的な攻撃が加えられる。だがアスカは内心の焦りを噛み殺すかの様に、奥歯を噛みしめた。
「A.Tフィールドは中和してるはずなのに……」
A.Tフィールドは強固な壁であり、それが存在している限り通常の攻撃は意味を成さない。
故にエヴァンゲリオンが重宝され、対使徒戦に置いてはネルフに全権が委ねられている。
だが今目の前に居る使徒はフィールドの展開を一切していない。
弐号機に中和され、対使徒用に改良された弾丸が全てゼルエルに吸い込まれていく。
使徒は降り立った位置から一切動いていない。
しかし、アスカの目にも、本部のモニター越しに戦況を見つめる誰の目にも、使徒のダメージは見てとれなかった。
「何で倒れないのよ!!」
叫びと同時に、カチッと軽い音がアスカの耳に届き、張り巡らされた弾幕が一瞬途切れる。
すぐにアスカは次の武器に手を伸ばす。
だが、アスカの中で何かが走り、その予感に従って武器から手を放し、体を反転させた。
「……っ!!」
焼き尽くすような痛みがアスカの脳を突き刺し、視界が紅く染まる。
痛みに頭が真っ白になり、視界は紅から黒へ。
左腕を切り落とされた激痛に気を失いそうになるが、何とか意識を繋ぎとめて、アスカは使徒を睨みつけた。
使徒の位置は変わっていない。変わっていたのは、両腕と思われる部分だけ。
折りたたまれていた、紙の様に白く薄いそれは、鋭い切れ味を持って容易に弐号機の腕を切断していた。
周辺に設置された兵装ビル群から、弐号機に代わって弾幕が張られる。
その隙に左腕から血の様に深紅の体液を垂らし、アスカは意識を持って行きそうな痛みを堪えて弐号機を下がらせた。
先ほどまでの倍程度の距離を空けて対峙したゼルエルだが、その場から一向に動く気配は無い。
動けないのか、動く必要が無いのか。使徒の顔に開いた眼と口の三つの穴。
暗闇だけが続くその先が見えない様に、アスカは使徒の行動が読めなかった。
左腕のシンクロがカットされ、痛みから解放されたアスカは軽く一息を吐いた。
それと時を同じくして、弐号機の隣に零号機が射出され、不安が軽くなるのを感じながら零号機へと視線を移し、
そして絶句した。
バルディエル戦の時に攻撃を受けた頭部の装甲は大きくひしゃげたままで、
取りつけられているレンズにはヒビが入ったままで、何の補修もされていなかった。
「アンタ……大丈夫なの?」
「問題無いわ。」
アスカの問い掛けにいつも通り答えるレイ。
だがレイの意識は今にも何処かへと持って行かれそうだった。
絶え間無く押し寄せる、はち切れそうな頭痛。
先の戦闘でのダメージはシンクロするだけでそれをレイに伝えていた。
呼吸するだけでズン、と鈍重に響く。
それでもレイは何でも無い風を装って、普段と変わらぬ態度でアスカの問いに答えた。
先ほどの恐怖に比べれば、とレイは頭痛を堪えて正面の使徒を見る。
不意にレイの脳裏にヒカリの泣き叫ぶ様子が思い出された。
トウジの名を叫びながらレイにすがりつくヒカリ。
その原因を作ったのは誰か?
自分が真っ先にやられたから助けられなかったのではないか?
レイは知らずに操縦桿を強く握りしめていた。
閃光が二人の瞳を目蓋越しに焼く。
一瞬使徒の目の奥が光ったかと思うと、次の瞬間にはいくつもの兵装ビルが跡形も無く消滅していた。
アスカの背に戦慄が走る。
アスカは確信していた。眼の前の敵は間違い無く最強の使徒である、と。
フィールドを中和して攻撃してもびくともしない強固な肉体。
視認するのも難しい程の素早い攻撃に加え、予備動作もほとんど無い。
本体の方は鈍重そうだが、余裕にも見える使徒の態度に、それさえ真実であるか怪しい。
「接近戦しか無いわね……」
モニターからミサトの声が二人に届く。
遠距離武器では火力が足りない。火力十分な武器を用意するには時間が足りない。
ならば近接戦闘で確実にコアを貫くしか方法は無い。
幸いにしてコアの位置ははっきりしていた。
体の中央にあるそれは隠す必要はないと言わんばかりに曝されていた。
不幸にして困難なのは接近戦に持ち込む事。
突然現れた為に情報収集さえ十分でない。
攻撃手段はこれ以上ないのか、攻撃範囲はどの程度なのか、本体の動きは鈍いのか。
どれ一つとっても確証が無かった。
ゼルエルが動き出す。ゆっくりと、追い詰められた獲物を確実にしとめるかのように。
ミサトは爪を噛みしめた。敵が動き始めた以上、こちらも動くしか無い。だがどう動くか?
二人のすぐ後ろには最終拠点があり、引っ込めて悠長に作戦を練る暇は無く、加えてこちら側は手負いの二機。
状況は圧倒的に不利とも言えた。
ミサトの中にいくつかプランはあった。
だがどれもが確実性に欠け、使徒の攻撃威力を考えれば容易く致命傷になる。
ミサトは家族とも言える二人を自分の指揮で傷つけたく無かった。
失いたく無かった。
皮肉にもその所為でミサトは動けなかった。
「ミサト、アタシが動いたら敵に弾幕を張って。」
迫り来る使徒を前にミサトが迷っていると、アスカの方から通信が入る。
弐号機の右手の中にはプログナイフが握られていた。
「レイはそこら辺に転がってる武器を使って、左に旋回しながら射撃。
顔の辺りを狙ってアイツの気を逸らして。
後、あのペラッペラの紙みたいな腕の動きには気を付けなさい。」
「分かったわ。」
「アスカ、何を……」
嫌な予感がミサトに走り、アスカに問い直す。
だがアスカはそれに答えず、紅い巨体を奔らせた。
隻腕の巨人が走る。
低く身を沈ませ、地を這う様に目標に向かって脚を軋ませる。
アスカが駆け出すと同時に、零号機もまたアスカと逆方向に走り始める。
足を止める事無く、地面から生えたかの如く突き刺さるライフルの一丁を引き抜いて
照準を使徒に合わせた。
レイにはアスカやシンジの様な高いシンクロ率は無い。
それは初めから分かっていた。シンクロ率の上昇はほとんど見込めない事を。
生身で格闘は出来ても、刹那の時間が支配するそれにエヴァに乗っては参加できない。
故にレイは射撃を選んだ。そして高めた。自らの技量を。
常に動きながらの射撃。だが前回の戦闘とは違い、手には精密射撃に適したライフル、
誤射の心配も無い。
レイはバイザーを降ろす事無く、ライフルの引鉄を引き絞った。
狙うのは顔。射撃武器でコアを破壊する事は困難である事は分かっており、
狙いは目標の注意を引きつける事。
一発、二発三発。
レイのライフルから放たれた弾丸がゼルエルの顔に当たる。
だがゼルエルは興味無さそうに無視し、弐号機の動向に注意を払っている様にレイには見えた。
更に引鉄を引く。
弾き出された弾は再び全てゼルエルの顔に当たる。
しかしゼルエルは煩わしそうな様子さえ見せない。
レイの中に焦りが生まれる。
ともすれば手元が狂いそうな焦燥を抑え込み、レイは三度同じ事を繰り返す。
引鉄を引いた回数が二桁に届いた時、一発の銃弾が眼と思われる位置へと吸い込まれる。
そして突如としてゼルエルは零号機の方に興味を示した。
目標の異変に気付いたレイは照準を頭部からよりピンポイントな眼元へと変更した。
レイの射撃技術を如実に表した弾丸は、寸分の狂いも無く眼の付近に飛んでいく。
だが目標はあくまで眼の奥に広がる漆黒の闇。そこに届かなければ意味が無い。
ならばより精密な射撃が必要だが、走りながらの射撃では無理がある。MAGIの補正に頼る時間も無い。
残弾数を確認する。そして一瞬の逡巡の後、レイは賭けに出た。
足を止め、しゃがんで片膝を突きその上に右腕を置いてライフルを安定させる。
そしてレイの眼が再びゼルエルの姿を捉えた時、漆黒に覆われていた眼の奥が怪しく光り輝いていた。
即座にレイは自らの失敗を悟った。賭けに負けたのだと分かってしまった。
今からアスカが飛び込むには距離があり過ぎ、数瞬の後には閃光が自分の肉体を焼き尽くすのだと何かが囁く。
なのにレイは逃げ出さなかった。
初めそこにあったのは勇気などでは無く、どちらかと言えば諦めに近いものだった。
だがヒカリの泣き叫ぶ姿がフラッシュバックし、引鉄に掛かった右手に力が籠る。
この場で自分の肉体が焼かれようとも、それだけでは自分は死ねない。
そしてこの身の死はすでに回避不可。ならばせめてアスカだけでも―――
「ってぇー!!」
ミサトの声と供に付近のビルからミサイルが放たれ、MAGIに制御されたそれらが全てゼルエルの頭部を焼く。
爆煙が覆い隠すも、ゼルエルの体は微塵も揺るがない。
無論そこにダメージは無い。しかし、それで十分だった。
ミサイル群によってゼルエルの光線が放たれるのが遅れる。
そして、レイは一発の銃弾を撃ち放った。
漆黒の矢が眼を貫く。
小さな小さな弾丸。だが確かにそれはゼルエルの体を貫き、薄暗い光を放っていた眼は再び闇を取り戻した。
「もらった!!」
動きの止まったゼルエル目掛け、アスカはコアにナイフを突き出す。
完璧なタイミング。銃器なら無理でもナイフなら傷つける事は可能。
それは間違っていない。
だが、ナイフは一瞬で使徒の体を貫く事は出来ない。
分子間の結合を切り離す事でナイフを沈めていく特性のおかげで、使徒の体と言えども、切り裂く事は可能。
しかし、あまりにも固い物は結合が強固。故に切り裂くのに僅かながら時間を要する。
アスカのナイフ。鋭い動きを以てゼルエルのコアへと向かっていく。
だがそれがコアへと達する事は無かった。
ナイフが届く、一瞬前。それまで露出していたコアに新たな殻が被せられた。
超高振動の切先が殻に触れ、火花が散って眩い光がアスカの網膜を焼く。
少しずつ切り裂きながらナイフが沈んでいく。
決して殻は厚くない。数十秒あればナイフはコアへと達したに違いない。
が、その時間はあまりにも長過ぎた。
「アスカ!!」
顔を上げたアスカの瞳には、迫りくる刃だけが映し出されていた。
「第一五三神経回路の接続失敗。
ダミー起動しません。」
「工程三〇からやり直せ。もう一度だ。」
オペレーターの失敗の報告を聞き、ゲンドウは再び再起動の指示を下す。
それを受けて、オペレーター達もすぐに設定を入力し始めた。
ゲンドウはオペレーターの後ろに立って、無表情に作業の様子を見つめていたが、
手袋で覆い隠された両手は強く握りしめられていた。
(何故だ……)
僅かに眉間に皺を寄せて、作業状況が流れるモニターを凝視する。
もう何度目か分からない試み。一度として成功に近づいた試しは無い。
全ての試みがある領域で弾かれ、こちらからの信号は強制的に遮断され、繋がった回路も全て切断される。
(ユイ……)
ゲンドウは心の中で亡き妻の名を呟いた。
その中で鮮明にありし日の光景が蘇る。
まだ乳飲み子のシンジを胸に抱き、愛おしそうに我が子の頬を撫でる姿。
幼い子を持つ親なら極当たり前の光景。
だがゲンドウにはそれが涙が出る程に恋しかった。
―――もうシンジを愛していないというのか。
拒絶される信号。画面を埋め尽くすアラートの文字。
それはすなわちダミーの存在を今回も受け付けない事を意味した。
―――それとも拒絶されているのは愚かな俺か。
サングラスを染める紅い文字は、妻が自らを否定しているかの様にゲンドウは思えた。
自らの事を認めてくれたかつての妻は、こんな自分を許してはくれないだろう。
もし会えたら泣いて、叫んで、自分を責め立てるだろう。
それでも、ゲンドウは諦めない。
どんなに否定されようとも、理解されなくともゲンドウに歩みを止めるつもりは無い。
目的の為に全てを利用し、捨て、愚直なまでにそれに向かって邁進してきた。
だが、もし願う事が許されるなら―――
アラームが止まるのを待って、ゲンドウはもう一度指示を出そうと口を開く。
しかしその声が発せられる前に、自分の良く知る声がケージに響いた。
予想外の声に一瞬ゲンドウの動きが固まる。
それでもすぐに気を取り直すと、眼下のパイロットに威圧を以て答えた。
「何故お前がここに居る……?」
何処から走って来たのか、激しく息を切らし、肩で呼吸するシンジをゲンドウは睨む様に見つめる。
シンジの目的をゲンドウは分かっている。そしてそれを叶えてやるつもりはゲンドウには毛頭無い。
シンジはもうこれ以上はもたない。
バルディエル戦の後のシンジを見て、ゲンドウはそう判断した。
これ以上初号機に乗せ続ける事はシンジを殺してしまう事に他ならず、
もしそうなれば計画は破綻する可能性が高く、ゲンドウは全てを失ってしまう。
故にゲンドウはシンジを初号機パイロットの任から解いた。
「……僕が出来る事をする為に。欲しいモノを自分の手に留める為に、僕は乗る。」
だがゲンドウは、自分の判断が遅すぎた事を悟った。
顔を上げ、ゲンドウを見上げたシンジの瞳は紅く輝き、喉から発せられる声は高低入り混じってゲンドウの耳に届く。
眼を瞑り、天を仰ぐ様にゲンドウは顔を宙へと向ける。
作業員達の手は止まり、痛い程の静寂がケージを包み込んだ。
やがて閉じた瞼はサングラスの奥で再び開かれる。
ゲンドウは決意した。最悪の場合、今日、事を成す事を。
そして奇跡を願った。
シンジは呆然と目の前の光景を見ていた。
顔が裂けて横たわる零号機、首を失った弐号機。
二機の巨人の体から流れ出した紅いモノがジオフロントの地面を深紅に染めていた。
―――コレハ ナンダ?
脳が拒否する。現実の認識を。
が、現実は鋭い切れ味を以てシンジの脳髄へと突き刺さる。
「綾波さん……?」
恐る恐るシンジは零号機に向かって呼びかける。だが反応は無い。ただ顔から紅い液体が流れ出るだけ。
震える手で、シンジは通信相手を切り替える。
視界が乱れてボタンを押す事、たったそれだけも覚束無い。
「アスカ……」
かき消えそうな声で呼びかける。だが反応は無い。首からはただ紅い何かが溢れ出るだけ。
「あ…ああ……」
たどたどしい足取りで二機の元に歩み寄る。
一歩踏み出す。視界の右半分にノイズが走る。
左足を踏み出す。左半分もノイズで満たされる。
見えないままに足を動かす。
―――世界が紅に染まる。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!」
狭いプラグにシンジの叫びが満ちる。
そしてそれと同時に初号機が雄叫びを上げた。
L.C.Lが泡立ち、壁に亀裂が走る。
計器は悲鳴を上げ、一つ、また一つと砕け散った。
咆哮を上げた初号機の姿が消える。
そしてゼルエルの体は地面に叩きつけられていた。
倒れたままゼルエルは、二機を切り裂いた腕を初号機に伸ばす。
その手で裂けぬものは今まで存在しなかった。それが初号機の喉目掛けて突き出される。
だが裂けたのはゼルエルの方だった。
振り上げられた初号機の腕。天の鉄槌を下すかの様に振り下ろされたそれは、
次の瞬間にはゼルエルの腕を、そしてその向こうにあるゼルエル自身の体をも切り裂いていた。
初号機の顎部装甲は砕かれ、ぶら下がった欠片の奥からは白い歯と蒸気が上がり、
頭部装甲の下には、素体の双眸がはっきりとした光を放っていた。
「グルルルル……」
口から低い唸り声が漏れる。
初号機はゆったりとした動作で自らの血液に沈むゼルエルへと手を伸ばす。
最初は右腕を引き千切る。紙の様に白く薄く、だが何よりも固いはずのそれが容易く切り取られる。
次に左足に拳が叩きつけられる。どんな火器にもびくともしなかったそれは奇妙な音を立てて潰れた。
続いて右足。紙を裂く様に綺麗に切り取られた。
最後の力を振り絞り、ゼルエルの眼の奥が弱々しく光る。
が、それも初号機の両手が振り下ろされ、辺りに体液を撒き散らして潰れた。
全く動かなくなったゼルエルを見下ろすと、初号機は最後にコアへと手を伸ばした。
固い殻に弐号機のナイフの跡が残っていた。
初号機は周囲に指を差し込むと、殻ごとコアをゼルエルの体から引き千切る。
体液の滴るそれを両手で覆う様に持ち上げると、初号機は簡単に砕いた。
破片が地面に落ち、紅い液体の中に溶け込む。
夕闇の中、ジオフロントに初号機の巨体だけがそびえ立つ。
血の海の中で初号機は悲しげに啼いた。
―――fade away