冬月の仕事はネルフの中でも非常に多方面に渡る。
大まかに分けてしまえば事務仕事か会議か、しか無い。
しかし冬月の元に寄せられる書類は、内からは各部署から寄せられる報告書、外からはネルフに向けて送られてくる
関係各省庁で構成されており、その数は毎日膨大なものになる。
秘書も居ない為に書類を精査する人物も居らず、従って届けられた書類は全て冬月自身が目を通さなければならない。
更にはほぼ毎日何処かの部署の会議にも出席せねばならず、水面下での折衝に関してもそれなりのレベルの段階に達すれば
副司令である冬月も参加せざるを得ない。
その為、仕事は作戦・技術・会計・情報と非常に多岐になる。
流石に最終段階になればゲンドウが出席するので楽にはなるが、仕事の量としては齢六十になろうかという冬月にとって
かなりきついものがあった。
だから十分な休息の時間を取る為にも、冬月の書類を処理する手は普段は止まる事は無い。
だが、その手が一枚の書類に及んだ時、動いていた手と眼がピタリと止まった。
そして何度も紙をめくっては戻し、鋭い瞳は幾度と無く繰り返し文字を追っていった。
「まずいな……」
額にジワ、と汗が浮き出る。右手を顎に当てて対策を練る。
すでに冬月の頭に、机の上で山を作っている他の書類の事は無い。
一応目を通さなければならないレベルの物と自分達の計画の根幹に関わる、最重要とも言える案件。
その優先度を悩む事すらおこがましい。
頭の中で案を張り巡らせている冬月の耳に、プシュ、とドアの開く音が聞こえた。
続いて聞こえてきた足音は、頭を悩ませる冬月の脇を抜け、自分の椅子へと座った。
「碇……まずい事になった。」
「どうした?」
冬月は書類から目を離さず、問いかけられたゲンドウも手元の書類に目を落としたまま尋ねかける。
「赤木君からの報告だ。
……シンジ君が抑えきれなくなってきている。」
ゲンドウの手が止まる。
手を口元で組み、肘を机について正面で書類を睨みつけている冬月を見遣る。
「このままでは予定より相当早く覚醒するぞ。すでに記憶障害も確認され始めている。」
「……原因は何だ?」
「初号機に乗り続けている事が原因だろうな。
アダムより生れし者エヴァ。影響されん方がおかしいよ。」
そう言って冬月はゲンドウの方を振り向いた。
今後の方策を決めるのはあくまでゲンドウ。自分は協力者であり、独自で執行する権利は有しているが、
その権利を行使するつもりはない。
視線で判断を求めるが、ゲンドウは黙したまま口を開かない。
悩んでいるのか、と冬月は当りをつけるが、冬月の中で答えは出ている。
権利を行使するつもりはないが、道を外れていくならば元の道へと誘導はする。
その為に冬月は再び口を開いた。
「初号機に乗って何度か死にそうになったのも原因だろう。
主の死に瀕して、生存本能を刺激されたのかもしれん。」
あくまで推測だがな。
リツコからの報告書をゲンドウに渡し、そう付け加えて、冬月は書類仕事に戻った。
ゲンドウは机の上に置かれたそれを一瞥だにせず、そして冬月に気付かれない様静かに溜息を吐くと、今後の方針を口にした。
「参号機の起動が済み次第、サードチルドレンを抹消。
以降、監視を強化して引き続き作戦部の一職員としてネルフに拘束する。
ただし、実験に関しては状態を見ながら赤木博士に一任する。」
「まあ、それが妥当だろうな。」
書類を次々に片付けていきながら、あっさりと冬月は同意する。
初めからこの結論に誘導したくせに、自分からは答えを言わなかった冬月をゲンドウは軽く睨みつけるが、
冬月はどこ吹く風、と全く気にしない。
「普段は冷徹なくせに、お前はシンジ君の事となると判断が鈍るからな。
それを諫めてやるのも年長者の役目だよ。」
言いながら冬月は仕事を押し付ける為に、技術部長直通の受話器を手に取った。
第拾八話 すれ違い、行き着く先は
a nuisance―――
「それで、話って何よ?」
不機嫌そうにアスカは言った。事実、アスカは少々不機嫌だった。
平日はほぼ毎日放課後がネルフに拘束されるアスカにとって、昼休みというのはのんびりと羽根を伸ばせる数少ない時間である。
普段はクラスメートと適度に談笑しながら弁当を食べ、食べ終わればまた
姦しいまでに話を続ける。
気が乗らない時には屋上でのんびりと陽だまりの中で、一人で黙々と弁当を食べて
そのまま午後の授業開始までボーっとして過ごす。
天気が悪い日は寒いので屋上に来る事は無いし、青天の時でも滅多に屋上へは行かない。
だがその滅多にない過ごし方が、アスカは気に入っていた。こういうのはたまにするからいい、というのは彼女の弁である。
そしてこの日は、アスカには珍しい屋上へ行く日だった。
珍しく早起きして作った自前の弁当を持ち、鼻歌を歌いながら屋上への階段を上っていく。
この日は良く晴れ上がり、冬にしては暖かくてとても過ごしやすそうな気候。
何ともなしにワクワクしてくるのをアスカは感じていた。
そして屋上の扉を開けたところで、アスカは一人の人物を見掛けた。
フェンスにもたれ掛かって空を見つめながらタバコをふかす彼の姿は、一瞬シンジの様に見えた。
が、本当にそれも一瞬の事で、アスカはすぐにそれが誰であるか正しく認識した。
彼とは何度か話した事もあるし、シンジを通してそれなりに親しくはあった。
さっぱりとした性格で、アスカも嫌いでは無いが、それだけである。
挨拶くらいはしてもいいのかもしれないが、相手は自分に気付いてはおらず、
今のアスカにはそれよりも陽だまりでボーっと過ごす方が重要であった。
何食わぬ顔で彼とは反対側に向かって歩き始める。
が、それと同時に彼はアスカの姿を認め、軽そうな笑みを浮かべて声を掛けてきた。
声を掛けられた以上、無視するわけにはいかない。
知人である事には変わりないのだし、本人曰くシンジの親友(シンジ曰く悪友)らしい。無下にするのもどうだろうか。
とりあえず挨拶くらいしとくか、とアスカは溜息を隠しつつ振り返った。
見たところ弁当らしき物も持っていないし、たまたま見かけたから声を掛けただけ。
そう判断したアスカは、適当に世間話をしてその場を離れようと考えた。
そして笑顔を浮かべてカケルに返事をし、それにまたカケルも応える。
アスカとシンジの関係を知っているカケルはその事をネタにからかい、
だからと言ってアスカは赤面するでも無く、「シンジってベッドじゃ強引だったりするのよ」などと暴露して逆にカケルを
呆れさせたり。
お昼時にはいささか相応しく無い内容も少々含みながら一しきり談笑したところで、頃合かとアスカは話を終わらせた。
「お昼食べるから」とだけ簡潔に告げて離れようとしたアスカだったが、
背を向けて二、三歩歩いたところでカケルに再び呼び止められた。
今度は何だ、と貴重な時間を削られていく事に苛立ちながら、それでも表面上は何でも無い風を装って
アスカは振り向いた。
アスカを呼びとめたカケルだったが、言い辛そうに話がある、とだけ告げると黙り込んでしまった。
ボリボリ、と頭を掻き、先ほどまでの笑みは消えて落ち着きなく辺りを見回す。
珍しいカケルの様子に、アスカは自分に対して本気で相談したい事があるのだと理解し、
そしてその内容がかなり重いものであろう事も想像できた。
眼の前の青年は、シンジが心を許している数少ない友人なのだ。
そしてシンジにしろアスカにしろ、周りに居るのは何処か似た人間ばかり。
類は友を呼ぶのか、それとも似た人種の人間を集める嗅覚みたいなものでもあるのか、
いずれにしろ皆、世間一般から見れば、程度の差はあれ、真っ当な人生を歩んで来ているとは言えない者ばかり。
同類意識を無意識の内に感じ取っているのかもしれない、とアスカは思った。
もしくは不幸比べか。こいつよりはマシ、だと感じ、わずかでも幸福感を得る為の。
そしてカケルもまた何らかの傷を負っているだろう事を、もしくは何らかの不幸を背負っている事をアスカもまた
感じ取っていた。
だからアスカは話し始めるのを黙って待った。
だが、一分経ち二分経ち、それでも中々カケルは話そうとしない。
沈黙の時間が経つのに従い、アスカの時間も同時に削られていく。
徐々に苛立ちが勝ち始め、最初は腕を組み、次に足をカツカツと踏み鳴らす。
カケルの口元のタバコから灰が零れ落ち、そこでカケルは初めて時間の経過を感じ取った。
灰皿に吸殻を仕舞い込むと、新しいタバコに火を点ける。気持ちを落ち着ける様に一度、大きく吸い込んだ。
「それで、話って何よ?」
痺れを切らしたアスカが、とうとう先を促す。
アスカの苛立ちに気付いたカケルは、一度逡巡したが、やがて口を開いた。
「俺、さ…誘われちった。エヴァンゲリオンの、パイロットに。」
口調はおちゃらけつつも、カケルは一言一言を噛みしめる様に、途切れ途切れにそう告げた。
そこに喜びや決意の色は微塵も無い。軽い口調とは裏腹に、カケルの顔には苦悩がありありと浮かんでいた。
一方でアスカは呆然とカケルの告白を聞いていた。
それなりに重い相談だとは思っていたが、アスカにしてみてもこの相談は予想外だった。
そしてそれと同時にひどく困惑していた。
まず何故自分なのか。これの答えはすぐに出てきた。単純に自分がエヴァのパイロットであるからだ。
一応自分がエヴァのパイロットである事は機密なのだが、そんなものはこの街の住人にとってみれば公然のものなのだ。
親がネルフ関係者である生徒がほとんどであるし、戦闘の度に居なくなっていれば隠し様など無いに等しい。
エヴァのパイロットに誘われたのだから、先達に相談する、というのは自然な流れで、
元々アタシかシンジに相談しようと思っていたところにたまたまアタシが通りかかったのだ、とアスカは結論付けた。
そして、何故コイツなのか。これに関しては逆にアスカは思考をすぐに放棄した。
パイロットになる為の条件など、一介のパイロットに分かりなどしないのだ。
何処かで専門の機関が選んでいる、という話くらいは聞いた事はあるが、それだけ。詳しい話は一切知らない。
何でこんな奴が、と思わないでも無いが、シンジでも成れてるのだから、と自分を納得させる。
それにシンジの様に才能を秘めてる可能性もある。むしろそれはそれで腹立たしいのだが、
シンジのシンクロ率もまだ自分を抜けていないのだから大丈夫、と自分で自分を安心させた。
他にも何故エヴァも無いのにパイロットが、といった疑問もアスカの頭に浮かんできたがそれに関しては捨て置いた。
どうせもうすぐ来るのだろう、と。
(それに、考え様によっちゃいいのかしらね、コイツで。)
妙な所から妙な奴が連れてこられるよりかはマシ、と考えたところで、アスカは新たな疑問にぶち当たった。
ならば何を相談したいのだろうか。
パイロットの労働条件?ネルフの雰囲気?操縦方法?
いくつか候補が思いつくが、目の前でまた視線を彷徨わせているカケルを見ていると、もっと深刻な悩みらしい。
「で?それを言いたかっただけかしら?」
何故自分が悩まなければならないんだ、と思い至ったアスカは、理不尽さを自覚しながらも
その怒りを時間が削られる事に対する苛立ちにブレンドして、若干言葉に込める。
その険の籠った眼差しに気押されつつ、カケルは続きを話し始める。
「いや、その、どうすればいいのかな、なんつって……」
「ハア?どうすればいいって、何をよ?」
「だから、その……俺はパイロットになるべきなのかな……?」
……は?そこ……?
思わずアスカは脱力した。何のかんのと相談内容を想像してみたが、そもそもの前提条件が違っていたのだ。
アンタ、バカァ?とアスカは突っ込みたくなったが、よくよく考えてみればカケルの悩みもおかしいものでもない。
(パイロットになるのが当たり前だと思ってたけど……)
アスカの場合は幼い頃からパイロットとして登録されていたからか、頭の中に断る、という選択肢は存在していなかった。
エヴァに乗れるのはエリートであると信じて疑わなかったし、人類を守るという立派な名分もある。
そしてそれらは幼いアスカにしてもひどく魅力的な響きを持っていた。
だが、とアスカは現実を思い返してみる。
生半可な人間には務まらない、とは思うが自分より優れた人間など探せばいくらでも見つかる。
自分が何でも一番になれる、などという幻想はもう抱く事は出来ない。
大義名分は残るが、かと言って後々英雄だなんだともてはやされるだろうか、と考えるとその可能性も薄い。
ネルフは公にされてはいないし、ネルフで使われている技術は素人目に見ても世間よりかなり先を進んでいるのが分かる。
使徒を全て倒した後で公表されるだろうか。精々政治的な道具に使われるのがオチだろう。
それくらいはアスカにも容易に想像できた。
それを考えれば、大怪我したり、あるいは戦闘で死んでしまうリスクの比重の方が圧倒的に大きい。
なるほど、普通に考えれば悩むのは当り前か。むしろ逆に速攻で断ってしまいそうだ。
(何でアタシはパイロットなんかやってんのかしら?)
頭脳は平均よりかなり突出して良い。体力もある。我ながら美女だと思う。
なにも命に関わる様な危険な事をする必要も無い。
才色兼備、という言葉がぴったりと当てはまり、
普通に暮らしていたら、もしかしたら素晴らしいバラ色な未来が開けていたんじゃないだろうか?
エヴァの無い世界を妄想したアスカだったが、ブンブンと頭を振ってそれを打ち消した。
自分のあいでんててーは大切だ。
ハッと我に返ると、カケルが微妙に生暖かい視線で自分を見ている事にアスカは気付いた。
突然頭を振り始めれば当然か。
「そ、それで!
アンタはどうしたいのよ?ちなみにアタシはお勧めしないわよ?
休みはほとんど無いし、訓練はバカみたいにきついし…いつか死ぬかもしれないし。
英雄として一部のオッサン達に崇められたい、ていうんなら話は別だけど。」
「ああ、俺は別にそーゆーの欲しくないし。むしろ静かにひっそりと悠々自適の暮らしをするのが人生の最終目標だから。」
「じゃあさっさと断っちゃいなさいよ。
それとも何か引っかかる事でもあんの?」
アスカがそう尋ねると、カケルは「まあ、な」と曖昧な返事を返した。
そして一息つき、「いやらしく聞こえるかもしんないけどさ」と前置きして、意を決したように話し始めた。
「金がさ、今必要なんだわ。」
バツの悪そうに、頭を掻きながら、それでもカケルははっきりとそう言った。
それを聞いてアスカはああ、とようやく納得がいった。
アスカに取って金、というのは重要では無い。
幼い頃からのネルフ暮らしで衣食住は確保されていたし、欲にかまけている余裕など、幼いアスカには無かった。
それでも給料だけはそれなりに払われていたから、何か欲しいと思った時にお金に困る事は無く、
額を意識する事はまれだった。
世界を守るパイロット、というお題目の割にはいささか安すぎる気もしないでも無いが、
それでも一介の高校生が手にするにしては大き過ぎる額が毎月アスカの口座に支払われている。
加えて、怪我をした時の保険金だけはそれこそ莫大な額で、死んだ暁には何代にも渡って遊び暮らせるだけの額が親族に
支払われる事だろう。
もっとも、アスカに死ぬつもりも無いし、支払われる相手も居ないのであるが。
アスカにとってはそんなものでも、世間一般に対象が変わると話もまた変わってくる。
何処かの会社の中間管理職並の給料を手に入れられる。
死と隣り合わせの代償としては安いが、今、それなりの額を必要としている人間から見れば
魅力的な提案に見える事だろう。そして今、アスカの目の前の男はそれを必要としている。
ならば何を迷う事があろうか。
そういう事情なら、とアスカは今度は勧誘の言葉を掛けようとした。
だが、その前にカケルは更に事情を口にする。
「俺の家族…みたいな奴がさ、もう長い事入院しててよ、当たり前だけどその入院費が結構バカんなんなくて……
俺もそいつも親は居ねえし、でも、まあ今まではお互いの親の貯金で何とかやって来たんだけどな。
だけど入院の所為で、ちょっとヤバい状況でさ……」
「なら悩む必要なんてないじゃない?
そりゃ危ないのは危ないけど……」
アスカには、カケルが命惜しさで躊躇っている様には見えなかった。
では何故、と問われれば答えに窮する。それは分かっていたが、
この一見軽そうに見える男はその実思慮深くて、少なくとも単なる我が身かわいさで
悩んでいるのでは無い事くらいはアスカにも分かった。
「でもさ、さっきも言ったけど、俺らお互い親は居ねえし……
だから、もし、もしだけどさ、万が一にも俺が、死んでしまったら……
その事考えたら……だけど金の当ては無えし……」
死は怖くない。そんな幻想はカケルもまた抱いてはいない。
それどころか想像しただけで震えが来る。
迫りくる圧倒的な暴力。音も無くやってきて、だけども何人たりとも抗えない、そうなる事が当然の様に気が付けば
隣に居る。
真っ白なベッドの上で「白」という色さえも消えていく様な感覚が全身をはいずり回り、
手の中の温もりはいつの間にか掌から零れ落ちていった。
記憶の中の母の姿を幻視して、カケルはきつく右手を握りしめた。
「なるほど、ね……」
カケルは「家族みたいな奴」が居る、と言った。
だがアスカは「彼女」が最早カケルにとっては「家族」となってしまっているのだろう、と理解した。
正しい関係などは知らない。興味も無い。
だけども、カケルにとってその「彼女」がどうしようも無く大切で、手放せなくて、
愛おしくてしょうがない存在なのだろう。
だから動けない。どっちを選択しても彼女を失ってしまいそうで、その予感に押し潰されそうで。
そして、そのアスカの考察はカケルにとって限りなく真実に近しい。
でも違和感が残る。
「アンタの事情は分かったわ。
でも、何でシンジに相談しないのよ?アタシよりシンジの方が適任でしょうに。」
そう。こういう相談はアスカでは無く、シンジにこそすべき。
最初はたまたま見かけたから声を掛けられたのだとアスカは思っていた。
内容がパイロットの事だけならばアスカであっても問題は無く、むしろパイロット歴の長いアスカの方が妥当だ。
しかし話はパイロットの事だけに留まらず、カケルの内情にまで及んだ。
そうなればアスカは相談相手としてふさわしくなくなる。
アスカとカケルはシンジを介しての関係でしか無い。
ならばシンジが居ない今、この場でその関係はひどく希薄な物に成り変わる。
そう考えてのアスカの問いだったが、カケルは表情を歪ませて「分かっている」と呟いた。
「アスカちゃんにこんな話するのは間違ってるって分かってはいるんだけどな。
だけど、この話だけはシンジにするわけにはいかないんだ……」
「何でよ?」
「アイツの、トオルの怪我の原因がシンジにあるからだ……!」
ギリ、と歯が軋む音がアスカには聞こえた気がした。
カケルはアスカから顔を逸らし、網目状のフェンスを握りしめる。ほとんど残っていないタバコが地面に落ちた。
冬の冷たい風が燻ぶる火をあおり、それをカケルは踏みつぶした。
ポケットから再びタバコを取り出し、三本目に火を点ける。
「分かってはいるんだ……
アイツの所為じゃない、悪いのは逃げ遅れたトオルの所為だって。
シンジが転校してきて、多分一番付き合いが長いのが俺だ。アイツが苦労してる事くらい
バカな俺だって分かる。
だけどな、やっぱり思ってしまうんだ。もう少しアイツが早く来てくれてたらってな……」
アスカは黙ってカケルの独白を聞いていた。口を挟む気は無い。
カケルの脳裏に再び病室の様子が蘇る。
真白な病室に、頭に包帯を巻きつけた彼女の姿。
傍らの心電図が規則的な、そして弱々しい電子音を立てる。
母の時と景色が被る。ただし、今度は母では無く、もう一人の家族。
知らず握りしめた右手の痛みでカケルは想像から抜け出した。
「この話をする時、いつも通りにシンジに接する自信がない。だから……」
アスカちゃんにしか相談出来なかった。自らを嘲る口調で呟こうと口を開く。
だがカケルは頭を軽く振ってその言葉を飲み込んだ。
「ただ単に誰かに聞いてもらいたかっただけかもな……このもやもやした気持ちを。」
「じゃあ。」
アスカの声にカケルは顔を上げた。
アスカの鋭い視線とカケルの泣きそうな表情が交差した。
「じゃあ、アンタは何でシンジなんかに構うのよ?」
アスカはカケルに問いかける。だがそれは確認の意味がより強い。
カケルは笑った。笑って、そして胸を張って答えた。
「決まってんだろ?俺はアイツのダチだからだよ。」
どれだけ罵ろうと、どれだけ憎もうと、本心からそうする事は出来ない。
そうするだけの理由がないのだから。悔しさも、寂しさも、自ら関係を壊すだけの理由にはなり得ない。
アスカはふう、と一息吐き出すと、呆れた風に肩をすくめた。
「はいはい。アンタ達のゆーじょーは十分に分かったわ。」
「……何かバカにされてる気がするのは俺だけか?」
「気のせいよ。」
しれっと言ってのけて、もう一度アスカは溜息を吐いた。
「でも、確かにシンジには聞かせられない話ね。
あのバカの事だからトコトン気に病むでしょうし。」
「そこなんだよ。んで、結局全部自己完結しちまうんだぜ?
友達甲斐のねえ奴だよ、全く。」
そして今度は二人合わせて溜息を吐く。
シンジはほとんどと言っていいほど、自分の感情を吐露したりしない。
常に周りに気を遣い、出来るだけ周りに苦労を掛けないようにと自分の中に溜め込む。
それが逆に周りに気を遣わせると気付いているのかいないのか。
心の中でだけ三度溜息を吐き、ともかく、と表情を真面目な物に切り替える。
それに合わせてカケルも真剣な表情を浮かべた。
「アタシの意見としてはアンタは断るべきよ。お金より彼女の方を大切にしなさい。
シンジの事を気にしてるんなら尚更ね。
実際、お金はどうとでもなるでしょうから。」
「しかし、簡単に言ってくれるなよ。学生身分で金を稼ぐのは厳しいんだぜ?
それともアスカちゃんが出してくれんの?」
「んー、それでも別に良いわね。利子は高いけど。」
ニヤリ、と笑ってカケルを見る。カケルの方も表情を崩してくっくっ、と体を愉快さに任せて震わせた。
「まーそれも考えとくわ。ホント―に最終手段だろうけどな。」
「残念ね。折角いい収入源が出来たと思ったのに。」
「……ちなみにどれくらいの利子にするつもりだったんだ?」
「聞きたい?」
「いや、怖いからやっぱ止めとくわ。」
言いながらタバコの煙を吐き出す。風が止んだ所為か、ゆらゆらと揺れながらも紫煙はまっすぐと空へと上っていた。
何を言うでもなく、ただ黙って行方を見守っていたカケルだったが、不意に口元のタバコを手に取ると
それをもみ消した。
そしてポケットから箱に残ったタバコとライターを取り出すとアスカに差し出す。
「俺、やっぱ止めるわ。もったいねえからシンジにでもやってくれ。」
答えも出たし、体に悪いからな。言い残す様にしてカケルはアスカに背を向けた。
「アスカちゃんもありがとな。
あんなつまらん相談に付き合わせちまって。」
「そう思うんなら何か形にして謝罪の気持ちを表しなさい。」
「金のメドがついたらな。」
最後にもう一度ありがとう、と礼を述べ、後ろ手に振りながら屋上をカケルは後にした。
ガタン、と大きな音を立てて見るからに重そうな扉が閉まる。
一人屋上に残されたアスカはフェンス際まで歩み寄ると、その背中を預ける。
ほう、と空を見上げて息を吐き、そして先ほど渡されたばかりのタバコを眺めていたが、辺りをキョロキョロと
見回し、誰も居ない事を確認すると一本を取り出して口にくわえてみる。
普段シンジやリツコがするように見様見真似で火を点けてみる。
「うぇっ!ゲホッ、ゲホッ!!」
だが一息吸ったところで激しくむせ、涙目になりながら恨みがましく手の中のタバコを睨みつける。
(こんなモノの何がいいのかしら……?)
シンジにしてもカケルにしてもリツコにしても、皆平気な顔をして吸っている。
百害あって一利無し。皆、頭も良いしそれくらいは分かっているはずなのに。どうして吸うのかしら。
そんなに自分をいじめたいのかしらね。
心底からアスカは疑問に思うが、思いついた考えが妙に真実味を帯びている気がして考えるのを止めた。
そして代わりに浮かんできたのは、カケルと話したシンジの有り様だった。
それと同時に先日の夜の様子が思い出される。
リコと名乗ったシンジの顔をした少女。そしてその存在に恐らくシンジ自身は気付いていない。
それはあの夜のシンジとの会話から判断して確実だろう、とアスカはふんでいる。
自身も歪な存在だとは自覚している。シンジもそうだろうと予想はしていた。
何度同じベッドで一夜を共にし、寝物語を語ろうとも、決してシンジはその口から自分の事は語らない。
語るのは出来事だけ。その時どう感じたか、今どう思っているのか、その部分は一切話してはくれない。
どれだけ内に抱え込んでいるのだろう。
アスカもその事に気が付いたのは最近で、無理に聞き出すつもりは無かった。
だが、それが今のシンジの状況を生み出しているとすれば。
歪さに拍車をかけているとすれば。ならばどうすべきか?無理やりにでも吐き出させる?
ミサトに相談する?
様々な考えがアスカの脳裏を駆け巡る。だがそのどれをもが、アスカには手に取る事は憚られた。
本当にシンジは気付いていないのか。実はそんな振りをしているだけではないか。
アタシだから見せてくれたのではないか。
それならば……誰かに知らせるという行為は……信頼を裏切る行為になるのではないか?
そしてその行為の結果は、温もりの喪失。
そんな事は無い。アスカは必死で頭からその考えを振り払おうとする。
頭では分かっている。そんな事は無いのだと。考えが飛躍しすぎだと。
だがその考えが持ち込んだ不安は、アスカの心を締め付ける。
シンジの事が見えない。その想いがより一層不安を駆り立てる。
こんな事ではシンジに想いを吐き出させる事など出来やしない。
そんな重いモノを受け止める事など、出来ない。シンジを知る事など出来ない。
深い所にある、泥の様に重く、自身にまとわりつくモノを外に出す。
それがどれだけ痛みを伴う行為なのか。我が身に置き換えてみて、アスカには容易に想像がついた。
不意に俯いたアスカの顔が上がる。眼が大きく見開かれ、だがその瞳は眼の前の何も映し出していない。
呆然と立ち尽くし、倒れる様にフェンスにぶつかる。
ガシャン、と音を立て、アスカはそのままずるずると地面に座り込んだ。
「アタ…シも何も感じて……ない……」
想像しただけでココロが悲鳴を上げる何か。それは確かにアスカの中にある。
しかし、アスカがシンジに語った自身の事の中には、それは含まれていなかった。
―――結局アタシもシンジと同じ。
自分とシンジの間にある物は決して愛なんかでは無い。
それは自覚していたつもりだった。
それでもある程度は大切な存在に思ってはいたし、信用し、信頼していた。そのつもりだった。
だが結局は―――
ただ傷を舐め合う、その場限りの温もりを分け合うだけのモノ。
昼休みの終わりを告げる鐘が、寂しげに音を立てた。
トーストと目玉焼きだけの簡潔な朝食を胃に詰め込み終えると、ミサトはシンクに食器を片し、
やや冷めて温くなったコーヒーを飲み干した。
その思った以上のまずさにわずかに顔をしかめ、向かいの空席を見る。
いつも、とはいかないが、それでも彼女がこっちの家に居る時はミサトに合わせる様に
一緒に朝食を取る。
だが今朝はその主は姿を現さず、ミサトが焼いたトーストと卵が冷たくなっていた。
冷え切ったそれを見て、ミサトの口から思わず溜息が洩れた。
アスカは自分の部屋に閉じ籠っていた。シンクロテストも無く、昨夜から一度もミサトはアスカの姿を見ていない。
もしかしたら昨日は夕食も取っていないのではないか、と思い、ミサトも声を掛けてみたが
返ってきたのは「ほっといて」の一言。それに続いて何かがドアにぶつかる音。
アスカが投げたのであろう何かがガシャンと音を立てて床に落ちる。
相当荒れているアスカの様子がミサトの頭に浮かび、一晩経てば落ち着くだろうと思ってミサトは様子を見る事にしたが、
まだ落ち着くには至っていないらしい。
(この分じゃ、今日も出てこないわね……)
流石に夕方からのシンクロテストには参加するだろうが、下手をすれば昼食もとらないだろう。
(原因は……シンジ君と喧嘩でもしたのかしらね?)
一番有り得そうな原因だが、ミサトが昨夜シンジと話した様子からはそんな気配は無かった。
シンジを今から呼んでくる事も考えたが、ミサトは、昨日シンジが今日は早めに学校に行くと言っていたのを思い出して
歯噛みする。
仕方無い、とばかりに立ち上がり、ジャケットを羽織ってマグカップを流しに置くと
ミサトはアスカの部屋へ向かった。
日本人と間違わんばかりに綺麗な文字で「アスカの部屋」と書かれたボードが目に入り、
ドアの前に立つ。
ノックをしようと手を上げたミサトだったが、甲がドアに触れる直前にその手が止まる。
何を話せば良いのか。
深く考えずアスカの部屋のドアの前に立ったミサトだったが、その事に思い至り、戸惑う。
今アスカはどんな状態なのか。
何が原因で閉じ籠っているのか。
自分で解決してあげる事が出来るのか。
話を聞かない事には何も出来ない事は分かっていたが、ミサトの手は宙に浮いたまま動かない。
もしかしたら、自分の言葉で傷つけてしまうかもしれない。家族を失ってしまうかもしれない。
悩みを受け止めてやれる自信がない。
ミサトは今まで誰かの相談に乗るという経験が無かった。
故に話を聞く事に自信が無く、結局ミサトの口から出てきたのは、当たり障りのない言葉だった。
「……アスカぁー。ちゃんとご飯食べときなさいよー。」
ごまかす様に、殊更に明るく大きめの声でドア越しに声を掛けると、そのままミサトは玄関へと向かった。
逃げた、と自覚はあった。だが今これ以上何も出来ない。自己嫌悪にミサトは大きく溜息を吐いた。
意識がそちらに向いていたからだろうか。
下を向いたまま玄関を出たミサトは正面に立っていた少年に気が付かずぶつかり、よろけた。
「ちっ!……て、確か相田君…だっけ?」
気がそぞろになっていた事に舌打ちをして、ジャケットの中の拳銃に手を掛けたミサトだったが、
眼の前の眼鏡を掛けた少年の姿に肩の力を抜いた。
ミサトが垣間見せた鋭い視線を受けて体が硬直していたケンスケだったが、ミサトから力が抜けたのが分かると
眼鏡の位置を直して、緊張した面持ちで口を開いた。
「はい。本日は葛城三佐にお願いがあって参りました!」
何処で覚えたのか、軍人の様に敬礼して直立不動の姿勢で話すケンスケだったが、
その口上をミサトははあ、といささか気の抜けた様子で聞いていた。
早いとこここから離れたかったミサトだったが、なまじ知り合いであり、相手はまだ中学生であるので
無視して通り過ぎるわけにもいかない。
とりあえず適当に話だけは聞く姿勢になったが、ケンスケの口から出てきた「お願い」に
今度こそミサトは崩れ落ちそうになった。
「ワタクシ!相田ケンスケを!エヴァンゲリオンのパイロットにして下さい!!」
大真面目に大声で懇願し、ほぼ直角に腰を曲げるケンスケに、
ミサトは本気で頭痛を禁じえなかった。
NEON GENESIS EVANGELION
Re-Program
EPISODE 18
Collapse
「く……ふふっ、それで逃げて来たの?」
「ちょっとぉ、笑い事じゃないわよ。」
肩を微かに震わせて笑うリツコに、ミサトは非難の声を上げた。
ケンスケが頭を下げた後、ミサトはそれこそ逃げる様にネルフへと向かった。
そしてそのままリツコの部屋に直行して、コーヒーを飲みながら一息吐いたついでに事の次第をリツコに
話しての先のセリフになる。
断る時に「ごめんなさい、私の守備範囲じゃないから」と何故か男の告白を断る様な言い方になってしまったのは内緒だ。
「そうね。情報が駄々漏れだものね。」
「来る途中に諜報部に連絡しといたから、もう漏れはないとは思うけど。」
「今頃相田課長がじっくりと絞られてるかしらね。」
あの人も苦労が絶えないわね。
時折話す、幸の薄そうな総務課長の顔を思い浮かべてリツコは内心で同情した。
「息子の教育くらいしっかりしときなさいよね、全く。」
「仕方無いわよ。まさか自分の子供が自分のパソコンをハッキングするとは思わないもの。
まして、そのまま作戦部長に直訴に行くなんて、ね。」
「放っといても広まる程度の情報だけだったのは不幸中の幸いってとこかしら?」
「かもしれないわね。街中にえさに餓えたハイエナが散らばってるもの。」
リツコにしてみればそれも頭の痛い問題だった。
第三新東京市に広がる、無数の諜報員。
かつてシンジを襲った宗教絡みの大小の組織が多数に、各国諜報員。
挙句に本来こちら側であるはずの国連やそれとは独立にゼーレ、加えて日本政府の間諜までが
街中に根を下ろして隙有らば情報を手に入れようと動き回っている。
重要な機密に関わる物は全てMAGIに収められているし、
まだ何処も人質を使う様な強硬手段に出て無い為、情報の漏れは無いが、
引っ切り無しに仕掛けられるハッキングにMAGIの処理を取られ、思ったほど仕事の進みが良くは無い。
そういった話も部内の会議で検討しなければならず、仕事が山積みになっていく。
(いっその事、全部放棄してみようかしら……?)
危ない考えがリツコの頭をよぎるが、ミサトはそれに気付いた風も無く雑談を続ける。
「まあ、ああいった自分から志願してくれるパイロットの方が気は楽なんだけどねぇ……」
「罪悪感が薄れるから?」
「否定はしないわ。」
リツコが試す様な言い方をするが、ミサトはそれを軽く受け流す。
「進んで参加してくれたり、逆に泣き事を言ってわめいてくれた方が気が楽だもの。
でも今の子達はそのどっちでも無いじゃない?」
「そうね。でも残念ながら新しい子は決まったわ。」
驚きに目を見開いたミサトに、リツコはファイルを差し出した。
眼鏡を掛けてパソコンに向き直ったリツコを横目に、ミサトは受け取ったファイルの一ページ目をめくる。
リツコは、ミサトが息を飲むのが分かったが、意識してそれを無視した。
「よりにもよってこの子なの……」
「しょうがないわ。マルドゥックが選んだんだもの。」
我ながら白々しい、とリツコは自嘲した。
だがどんなに心の中で罵ろうと、口調は変わらない。
何度も被り直した仮面は容易くは剥がれ落ちてはくれなかった。
ミサトもリツコの表情を一度伺ったが、それだけで、特にマルドゥックには触れなかった。
軽く息を吐き、軽い口調でリツコに尋ねる。
「それで、参号機の起動実験はどうするの?」
「一週間後に松代で行うわ。本部で万一があったら困るから。
シンジ君達にはどうするの?」
リツコの問いにミサトは俯き、考える。そして一度目をつむると、顔を上げた。
「今晩伝えるわ。」
―――fade away
連なった山々が途切れて、その隙間から差し込む夕日が眩しい。
低い位置から突き刺さる燈色の光が僕の瞳を瞼越しに焼き、やがてその光さえも闇で遮られた。
そんな気がした。
黒い何かが一歩一歩こちらへと近づいて来るのが見える。
山に匹敵するような、巨大なヒトガタは両腕をだらしなく下げ、荒い息を吐き出しながら歩いていて、
その姿はひどく気持ち悪い。
中継車から送られてくる映像を見て、そして次に僕の足元にある小さな家を見る。
その事が、僕が今居るところがその気持ち悪い奴と同じ所なんだと教えてくれ、その事に何故か妙に腹が立った。
「目標は野辺山の防衛線を突破。」
「第一次防衛線、破壊されました。」
「目標はなおも進行中。」
いつもと同じオペレーターの人の声がモニターから聞こえてくる。
だけどそこにはいつもの声は無い。
「これから作戦を確認する。いいかい?」
ミサトさんの代わりに画面に出たのは日向さんで、多分緊張してるんだと思う。
顔が微妙に強張ってる。
「目標からパターン青が確認された。これによって正式に使徒と認定された。
現在使徒は野辺山の防衛線を突破して、およそ十分後に接触する。
基本的なフォーメーションは訓練の時と一緒だ。
シンジ君とアスカ君で近接戦闘を、レイちゃんは遠距離から二人の援護を頼む。」
了解、と僕とアスカが返事をしたところで、珍しく綾波さんが質問を口にした。
「目的は目標の殲滅でいいんでしょうか?」
当たり前の事を聞く、と頭に疑問符が浮かんだけど、綾波さんの意図はうまくアスカには伝わったらしい。
「パイロットの状態をレイは知りたいんでしょ?
救助出来る状態なのか、それとも、もう……」
言葉尻をアスカは濁してたけど、つまりはそういう事だ。
僕らはフォースチルドレン―――鈴原トウジを救助出来るのかどうか。
僕らは皆、事の起こりを知っている。
松代の第二支部で参号機の起動実験中に事故発生。
原因は参号機の中に寄生していた使徒によるものと推定。
現にモニター越しにも参号機の端々に、使徒の物と思われる粘菌質な何かが見えていた。
ならば、中に居るはずの鈴原君がどうなっているのか。生きているのか死んでいるのか。
それとも参号機同様に乗っ取られているのか。
鈴原君とは僕も面識があるし負い目もある。
綾波さんはクラスメートだから毎日顔を会わせている。
救助出来るならそれに越した事は無い。
綾波さんは相変わらず表情は変わらない。でもそこには確かに不安があった。
黙って見つめられたモニターの中の日向さんは、わずかに申し訳無さそうな表情を浮かべた。
「すまない。使徒の能力の所為なのか、プラグの様子が全く分からないんだ。
だから生きている可能性は十分にある。可能な限り救助を試みてくれ。」
「了解。」
無理やり笑顔を浮かべた日向さんの表情は半ば強張ってて、でも綾波さんはその言葉に少し安心したのか、
ほんの少しだけ口の端が上がった。
折角だから僕も気になってる事を聞いてみる。あまり時間はないけどこれくらいは許されるだろう。
「すみません。ミサトさんとリツコさんの事、何か情報入ってきましたか?」
「……いや、まだ何も分からない。それよりももうすぐ接触する。各自準備に入ってくれ。」
こちらの返事も聞かずに日向さんはモニターを切ってしまった。
日向さんの言い方に少しムカッと来て、アスカの方を見たらアスカも憮然としていた。
―――ミサトさんもリツコさんも、無事だといいな。
内心で祈りつつ、僕は初号機とのシンクロを開始した。
一度深呼吸。そして自分を抑える。
久しぶりの感覚。数か月ぶりに感じる、湧き上がる高揚感。
さっき聞こえてきた声によると、シンクロ率は五十九%でいつもよりか若干低い。
思えば乗り始めた頃もシンクロ率は低かった。低いほどこの感覚が味わえるんだろうか?
今度リツコさんに聞いてみよう。生きてればだけど。
モニターではまた日向さんが何か言ってる。
参号機が、本部からの信号が届く位置に来たから、今からプラグの射出信号を送ってみるらしい。
で、うまく射出されたら山裾から飛び出して保護しろって事みたいだ。
その場合は何の為に隠れてるのか分かんないけど、人命優先だから仕方無い。
自分に言い聞かせる。
(楽しそうだな。)
『まあね。久し振りだしね、この気持ちは。』
(嬉しいのは分かるが、暴走するなよ。)
その際は俺が無理やり奪うけどな。
そう言ってシンはまた黙った。この頃話す事が少ないけど、普段コイツ何して過ごしてんだろ?
「信号送信!」
日向さんの叫び声で意識を元に戻す。
モニターには参号機の首筋が拡大されてて、白いプラグがほんの少しだけ覗かせていた。
プラグには乳白色のものが張り付いてて、そいつがプラグの射出を妨げてるみたいだ。
今すぐ動きたい衝動を抑えて一呼吸。そしてアスカと綾波さんと頷きあう。
「三・二・一……Gehen!!」
アスカの掛け声と一緒に飛び出す。
アスカと二手に分かれて参号機を挟み込む様にして近づく。
プログナイフを片手に、腰を落として走り抜けた。体が軽い。この前とは大違いだ。行ける!
使徒の方もこっちに気付いたらしい。だらしなく口から唾液みたいなのを垂らしながら、僕の方を向いた。
ならばこっちで捕まえて、アスカにプラグを抜かせれば!
「アスカっ!!」
僕の声に反応してアスカも頷いた。僕もナイフを収納して両手を自由にして、参号機の肩口に手を伸ばす。
でもその腕は届かなかった。
「がっ!?」
衝撃が顎から伝わる。不意に伝わってきた衝撃に一瞬意識が飛ぶ。
何が起こった?まだ距離はあったはずなのに。
ふらつく世界を整えてアスカの方を見ると、弐号機もまた弾き飛ばされたらしい。
もっとも僕と違ってしっかりガードはしてたみたいだけど。
「レイ!援護はどうしたのよ!?」
アスカが苛立った口調で綾波さんへと叫ぶ。
確かにおかしい。僕らが走ってた間に、一発たりとも飛んでこなかった。
「ダメ……プラグに当たる……」
モニターの綾波さんは彼女にしては珍しいくらい厳しい表情で、参号機のある一点を睨んでいた。
(プラグか……!)
参号機の首筋から中途半端に飛び出したエントリープラグ。
零号機が持ってるのはパレットガンで、どちらかと言えば牽制用の銃だ。
弾をばらまくタイプだから精密射撃には向いてない。
腐っても対使徒用の武器だ。
エヴァ本体や使徒相手にはまともに効かなくても、生身のプラグにぶち当たればただじゃ済まない……!
「ちっ……!!」
「参ったな……」
こうなったら皆で組みついて無理やりプラグを引っこ抜くしかないか……
格闘があまり得意じゃない綾波さんが心配だけど、この際しょうがない。
エヴァ四機が距離をおいて睨みあう。じりじり、と少しずつ参号機に近づける。
まだ距離は遠い。迂闊に飛び込んでもまずい。さっき何かを食らったけど、それが何か分かって無い。
一発の威力はそうなさそうだけど、まだ他に隠し玉を持ってるかもしれない。
嫌な汗が背中を流れた時、目の前の参号機が奇妙な動きをした。
低いうなり声みたいなのを上げたかと思うと、突然姿が消えた。
「上かっ!!」
気付いて見上げた時には空から参号機がこっちに急降下し始めていた。
そしてそのまま零号機を蹴り飛ばした。
「きゃあああああああっ!!」
「レイっ!!」
蹴り飛ばした勢いそのままに参号機は零号機に馬乗りになって、振り上げた両腕を鞭みたいにしならせて零号機の頭に叩きつけた。
気持ち悪い音が響いた。何かがへこみ、モニターの中の綾波さんは声にならない悲鳴を上げて跳ね上がり、
そして口を半開きにして、動かなくなった。
「こぉんのぉぉぉっ!!!」
もう一度振り上げられた参号機の拳が振り下ろされる直前、アスカの蹴りが参号機を吹き飛ばした。
綺麗な軌道を描いて参号機が宙を舞う。
その間に僕は零号機からプラグを射出させて離脱。
零号機の頭の装甲はひしゃげてしまってた。ただ綾波さんのシンクロ率はアスカほど高くないから、多分大丈夫だと思う。
綾波さんのプラグを抱えて立ち上がった瞬間、何かに引っ張られた。
腰だけが一瞬後ろに引き寄せられ、ゴムが切れたみたいに今度は前屈みになってバランスを崩す。
そしてモニターの端で、タイマーがカウントを始めていた。
慌てて振り返る。そこには参号機が地面に両腕を突き刺している姿があって、
途中から地面を突き破って、ケーブルを引きちぎっていた。その腕は明らかに元の長さより長い。
くそっ!さっきやられたのもこれの所為か!
「ちぃっ!!」
舌打ちしながらひとまず安全な場所まで離れる。
発令所に回収をお願いして、僕は急いでアスカの元に戻った。
「アスカっ!」
「ぐ……がぁ……!」
戻った時にはまた参号機の腕が伸びて、その両手は弐号機の喉に当てられてた。
アスカの口から苦しげな声が漏れて、僕の耳を打つ。
脚に力を込め、僕は走る。走りながら僕は頭の中で思いつく限りの事態を想定。
そして、その想定の一つの事態が起こる。
僕に右腕を参号機が伸ばす。不自然な軌道と長さで以て迫り来る。
僕は認識できなくても、エヴァなら十分に見える!まして予測出来たならかわすのは容易。
喉元に迫るそれを右手で受け流すと、僕は初号機をそのまま参号機に体ごとぶつけた。
一瞬衝撃で息が詰まる。それでも参号機と弐号機を引き離す事は出来た。
吹き飛ばしたはずの参号機は、両手を地面に突くと宙返りの要領で前転すると、四つん這いになって再びこちらに向かって身構えた。
「ゲホッ、ゲホッ……!
……ダンケって言いたいとこだけど、アンタ、鈴原を助けるのを忘れてない?」
「一応覚えてるよ。アスカこそ、さっき思いっきり蹴飛ばしてたじゃないか。」
「……アタシはちゃんと計算して攻撃してるわよ?」
「じゃあ僕もそういう事で。」
軽口を言ってみるけど、今の状況はまずい。
プラグは半分まだ中に収まっているとは言っても、出てる半分が潰れたらその時点でジ・エンド。
だから参号機を仰向けに叩きつけるわけにもいかない。
幸いにして参号機の一撃で致命傷になるものは―――場所にもよるけど―――なさそうだけど、
あの身体能力は厄介だ。
ケーブルも切れてるから時間も無い。こちらに残された余裕は全くない。
ならばどうすればいい?
ならば―――余裕を削っている部分を失くせばいい。
無いのなら作ればいい。作れないなら捨てればいい。
懸念を一つ自らの手で捨て去ればその分余裕が生まれる。
何だ、簡単な事じゃないか。今なら分かる。
僕が少し本気を出せば軽く眼の前の
アイツを潰せるという事が。
「初号機のシンクロ率低下!五十%を切りました!!」
我ながら危険な思考をしてると思う。
いつもならこういう時にはシンの奴が出てきて、何か言いそうなものだけど、今日は出てこない。
ならちょうどいいや。自分でやれる。自分が殺る。覚悟を決めよう。人を傷つける覚悟を、知り合いを殺す覚悟を。
罰は甘んじて受けよう。自分の為に殺そうというのだから。
許してくれとは言わない。
むしろ許さないで。あの世で呪ってくれていい。
呪詛を、ありとあらゆる雑言で以て罵ってくれていい。
僕を傷つけるそれが歪んだ僕にとっての麻薬であり、幸福と快楽を与えてくれる。
「シンクロ率少しずつ低下していきます!ダメです、止まりません!」
マヤさんの悲鳴の様な叫び声が聞こえてくる。
でもマヤさん、心配しないでください。シンクロが低い方が僕にとっては良いんです。
意識を発令所の方から眼の前の参号機に、そしてアスカの方に向ける。
タイマーが示す残り時間はおよそ二分半。これだけあれば十分だ。
「アスカ、ちょっといい?」
「何よ?」
モニターの中のアスカは視線を参号機に向けたまま、口だけ動かして返事をした。
アスカが誰かの死を極端に怖がってるのは知ってる。
そんな事はあの日、初めてお互いを求めたあの日から知ってる。
だから今からする事に関わらせるわけにはいかない。彼女は無関係じゃ無いといけない。
「しばらくここから離れてて。」
「はあ?アンタ、何言ってんの?」
「ちょっとため……」
話してた、その途中。
ガクン、と軽い衝撃が走って、急速に体が冷えていく感覚が背筋を駆け抜けた。
たまに危ない時に感じるあの感覚では無くて、何かがゴッソリと持っていかれた、気持ち悪い感覚。
プラグの灯りは落ちて、うっすらと紅い非常灯だけが僕に降り注ぐ。
目に入るのはエヴァの視界じゃなくて、
僕から見える、プラグの内壁に
映し出されたカメラの映像。
何が起きたのか、理解出来ない。
それでも、失われてしまった感覚からシンクロが解除された事だけは分かった。
僕の方からは一切そんな事はしていない。なら考えられるのは発令所だけ。
「何をしたんだ……?」
僕の口から知らず零れた呟きと同時に、どこからか奇妙な回転音が聞こえてきた。
a nuisance―――
「初号機のシンクロ率低下!五十%を切りました!!」
発令所に伊吹マヤの悲痛な叫びが響く。そして実際、彼女は今にも泣き出さんばかりだった。
レイがパレットガンを撃てなかったのは参号機の首筋からプラグが飛び出しているから。
そしてその信号を送ったのはマヤで、彼女は自分を責めていた。自分の所為でレイがやられてしまったのだと。
確認された使徒の性質から考えて、こうなるのは予測出来たはずだ。
そして技術部としてその事を進言すべきだったのに、パイロットを助けたいとの思いから、その予測が抜け落ちてしまっていた。
本来ならばリツコがそういった事をしていたのだが、そのリツコは今は居ない。
安否も不明。こういう時だからこそ、とマヤは戦前に気合いを入れていたのだが、
その思いは空回りに終わってしまっていた。
加えて初号機のシンクロ率低下。
低下するような要素は見当たらないのに、徐々にではあるがマヤの正面に映し出されているシンクログラフは低下の一途を
たどっていた。
パイロットの精神状態も問題は無い。若干の興奮は見られるが、過去のデータから見てもそれは低下の原因にはならない。
神経接続などの技術的な問題も出来る限りで探ってみるが、それらしきものは見つからない。
マヤは非常に優秀な人員である。それも優秀な人材が集まる技術部内に置いても抜きん出て。
だからこそリツコは彼女を常にそばに置いており、若干二十五歳にして―――ミサトには及ばないが―――
二尉という階級を持っている。
だが彼女は若過ぎた。
戦闘という彼女の見た目に相応しくない環境下で彼女が存分に力を発揮できるのは、ひとえにリツコのお陰であった。
リツコの存在がマヤに異常な状況下での安心を与えていた。
そのリツコが居ない。
マヤは仕事を放り投げて逃げ出したかった。
マヤの報告は発令所の最上段に位置する司令と副司令の耳にも届いていた。
そして冬月はその報告を聞いて露骨に顔をしかめ、周りに気取られぬよう小声でゲンドウに相談する。
「どうする、碇?このままでは……」
「分かっている。」
冬月の懸念はゲンドウにも痛いほど分かっていた。
このままでは確実に自分達の切り札が手を離れていくと。
だがそれ以上にシンクロ率の低下の原因が気になっていた。
シンクロ率が表すのはコアとの親和度。依存度と言い換えてもいい。
コアに込められた、魂とも言える存在にどれだけ心を開き、自身を委ねているか。
瞬間的な痛みや衝撃で、もしくは調整不十分で急激な変動をする事はあるが、
戦闘中という、ごく短い時間で緩やかな変化を示すというのは通常は見られない。
「碇!」
小声で、だが冬月が叱責する。
しかしそれも意に介せず、ゲンドウはモニターのシンジの表情を見る。
焦った表情を浮かべていたが、戦闘中にも関わらず目を閉じ、何かを考え始めた。
が、それもほんの僅かな時間で、目を開いたシンジの表情は閉じる前と違って、何処か落ち着いていた。
落ち着いていて、それでいて視線は厳しく。
シンクロ率の低下とシンジの表情。それらを考慮して、ゲンドウは考える。
シンクロ率が下がったのは甘さを捨てようとしているとも言え、
そして今戦況が芳しくないのは使徒の能力もだが、参号機のプラグの存在。
それらが一つに繋がった時、ゲンドウは立ち上がっていた。
「初号機のシンクロを全面カットだ!!」
突如として降って下りた最高司令官の言葉に、階下の誰もが耳を疑った。
零号機はすでに離脱し、エヴァ単機では圧倒するのは困難。
あまりにも愚策とも思える指示に誰一人として反応出来なかった。
「代わりにダミープラグを使え!」
「し、しかし……ダミーは未だ問題も多く、赤木博士の指示も無く……」
ダミー、との言葉にマヤがかろうじて反論するが、それもゲンドウの一言の元に切って捨てられた。
「構わん!今のパイロットよりは役に立つ!!」
普段物静かな男の怒声がマヤに投げつけられ、マヤは震えながらコマンドを送る。
私の所為じゃない、私は技術部員としての役割はきちんと果たした。
内心で言い訳を繰り返しつつ、マヤは手を動かした。
異論は何処からも出なかった。初号機のシンクロ率が下がっている。
その事実がゲンドウの指示を後押ししていた。
そして、全ての命令が送られた。
シンクロが途切れて俯いていた初号機の顔がゆっくりと持ち上げられていく。
光の無かった眼は禍々しいまでに凶悪なものへと変化し、その雰囲気は頭部につけられた角と相まって正に鬼であった。
低いうなりを上げ、顎部から漏れでる息は白く、それが生々しく生命を感じさせる。
吐息が途切れる。
参号機と睨み合う形で相対していた初号機だが、一瞬の静寂の後、突如として咆哮を上げた。
何処までも響き、地を揺るがさんばかりの叫び。
すぐそばに居たアスカはおろか、遠く離れた発令所の面々さえもその声に竦み上がり、凍り付いた。
瞬きすら許されない硬直の中、初号機の姿がかき消えた。序で衝突音。
その音で呪縛が解けた時、すでに参号機は宙を舞っていた。
参号機は弐号機に蹴られた時同様に空中でバランスを整え、地に着く。
が、その体はすぐに全体がひれ伏す事になった。
着地すると同時に舞い降りた鬼。
それはそのまま参号機にのしかかると全身を地面にめり込まんばかりに押し付けた。
漆黒の装甲の隙間から覗く深紅の口。
初号機同様に、そこから冬の澄み切った空気に熱い息が吐き出される。
生物特有の熱を持った息。
世界をほんの僅か白に染めるそれは、次の瞬間には口以上の紅によって染められた。
零号機に向かって振り下ろされた腕。
それとは別の巨人の腕が参号機の頭を砕いた。
気持ちの悪い音を立てて、ナニカが潰れる。
生暖かい温度を持った紅い液体が飛び散り、世界を汚した。
紅い命が鬼を、黒い死神を、家を、町を、畑を、山を、自然を穢していく。
自分に降り注ぐ血液にも似た何かが川を作っていく。
それをシンジは呆然と見ていた。
シンクロは切れており、初号機からとの感覚の共有は無い。
全身に降りかかった鮮血はその温もりをシンジには伝えず、
だが滑りだけは感じられる様な気がした。
参号機の頭部だった物に拳を突き刺した形で初号機は活動を止めた。
視線はまごう事なくグシャグシャに潰れたナニカに向けられており、
そしてプラグ内にはそれがはっきりと映し出されていた。
それを見ていたシンジは、自分自身の瞳をそれから自分の掌に向けて、幾分高い声で小さく呟いた。
「気持ち悪い……」
―――fade away