「ふわ……」

特にする事も無くて、あくびを噛み殺しながら僕は病室の窓から外を眺めてた。
とは言ってもすでに何度となく入院して、その度に眺めているからもうすでに見飽きてしまった。
人工的に作られた自然は季節に関係無く緑を振りまいていて、初めてみた時は地下にこんな空間が広がってるのが にわかには信じられなくて驚いたけど、今は何の感動も与えてはくれない。
かと言って入院中の身であるから特に何が出来るわけでもなく、だからと言ってずっとベットに縛り付けられて無いといけない 程重症でも無い。実際、体に異常はどこにも無い。強いて挙げれば義手の左腕くらいだろうか。
寝る事も出来ず、でもやる事も無い。だからこうして特に意味も無く僕は窓の外を眺めてる。
一年中ほとんど変わらない景色。地上は真冬で、木々は枯れて人々は分厚いコートで寒さを凌いでるというのに ここから見える景色はひどく暖かで。
その暖かさの所為か、それともやる事がない所為か、気付いた時はいつも僕は物思いにふけっていた。

中学卒業と同時に、僕はおばさんの家を出た。おはさんにはずっと考えてた事だ、と告げて笑顔でおじさんとおばさんに別れた。
少なくとも表面上は。
家を出るのは確かにずっと昔から考えてた事だけど、それは早くても高校卒業してからだと思ってた。 世間一般的に考えてもそうするのが当然だろうし、高校生が自分で生活費を稼ぎながら高校に通うのはかなり難しい。 それは分かってた。
でも僕はもう家に居たくなかった。
僕をずっと育ててもらった事に関しては、おじさんにもおばさんにも感謝してる。
それでも僕は「恩」と「嫌悪」の狭間で揺れ続けるのには耐えられなかった。
歪な僕にがっしりと根を張った僕の常識の所為で育ててもらった「恩」を蔑ろに出来ず、 そしてその常識が邪魔になって「憎悪」する事も出来ない。 ただあの後も何も無かったかの様にヘラヘラと笑っていつもの日常を取り繕うだけ。 感謝と憎しみの天秤の間をユラユラ揺れて、表だってすねる事も出来ない。 だってすねても誰も寄ってこないし、逆に離れていくだけだって分かってたから。
そんな日常には何の色合いも無くて、どんな努力も結局は自分を裏切っていくんだ、という捻くれた結論だけが僕の中に残った。

幸いにして僕は要領が良くて勉強だけは人よりちょっと出来たから、家を出てから特別お金に苦労する事は無かった。
元々欲が無い性格だから部屋は最低限の設備さえあればボロかろうが構わなかったし、 遣うお金って言ったら家賃と食費とほんのちょっとの書籍費位。 小学生相手の家庭教師みたいなのをいくつか掛け持ちして、土曜に終日他のバイトさえすればそれで全然問題無く生活出来たし、 学校の授業料も余裕で払えた。だから家を出る時におばさんに貰った、父さんからの養育費には手を付けて無い。 いや、手をつけたくなかったっていうのが本音だと思う。

「ふわあぁ……」

今度は堪える事なく盛大にあくびをした。目元に溜まった涙を拭って、また退屈な景色を眺める。
それなりに家を出てからそれなりに大変だったし、苦労も勿論あった。
でもどの景色もまるで何かの映像記録みたいで、そう言った意味じゃ今ここから見てる景色と何ら変わらないのかもしれない。
初めて見る景色はそれなりに新鮮で、だけど僕にとっては未知の恐怖。何をすればいいのか分からず、不安で押しつぶされそうで、 新鮮なのにひどく気持ち悪い。
だから僕はすぐに周りに順応して、慣れる事で日常の中に逃げ込んだ。 そうしてまた世界はすぐに色褪せた、退屈なものに成り下がる。

こうして振り返って見ると良く分かる。
表面上は退屈な日常を嫌って非日常を求めてるくせに、いざ非日常の中に足を踏み入れると すぐに怖気づいて日常へと戻っていく。 そしてまたすぐに変わらない日常に文句をつけ始める。

「愚かだね……」

こうして自分を卑下する思考をして、自己陶酔に浸って、その後は自分でその事を指摘して自己嫌悪に陥る。 もう決まり切ったパターンで何の意味も持たない。
だから僕は窓から視線を外してベッドから降りて病室を出る。 そうしないと今言った思考のループにはまってしまうから。

「おっ?」
「おわっと……何や、碇さんやないですか。」

気分を切り替えようと病室を出たところで珍しい相手に出会った。
ちょうど僕も病室を出たところだったし、鈴原君もまさかここで僕と会うとは思ってなかったんだろう。 ぶつかりそうになった事も合わさって驚いたみたいだったけど、僕だと分かると急に安心したっぽい。

「なんや、また入院したんでっか?」
「まあね。怪我も無いし、大した事ないんだけど、まあ検査入院みたいなもんだよ。」
「はあ……エヴァのパイロットちゅうのも難儀なもんでんなぁ。」

同情半分、呆れ半分といったところか。軽く溜息を吐いた鈴原君に苦笑いを返した。

「ところで鈴原君は……」

聞きかけて僕は口をつぐんだ。見た感じ鈴原君に何処か悪そうな箇所は見当たらない。 なら彼が病院に来る理由は一つだろう。

「そっか……妹さんのお見舞いか……」
「ええ。」

苦しそうに少しだけ表情を歪めて、鈴原君は答えた。
鈴原君の妹さんが怪我したのは確か最初の使徒が来た時だから、もう半年近く入院してるって事になる。
それだけの大怪我だ。例え僕に謝っても、きっと彼も本心じゃ僕をまだ許し切れて無いんだと思う。
なのにそれを出来るだけ隠して僕にも皆と変わらず接してくれてる。

「その……あんまり良くないの?」
「はあ……なんやよう分からんのですけど、頭の、なんや難しいとこらしくて、中々手術も出来んらしいんです。」

まだ中学二年生にも関わらず鈴原君は感情を押し殺して、我慢してくれてる。
一方、僕は何なんだろう?
客観的に見て妹さんの怪我は僕の所為じゃないのかもしれない。 それでも怪我を負わせたのは僕であって、そこに確実に責任は存在する。
加えて僕は初めてその事を、ナイフで切りかかってくる鈴原君から聞いた時は悲しくて、申し訳無く感じたはず。 なのに今の今までその事をすっかり忘れてて、一度たりとも彼女のお見舞いにすら行ってない。

(結局はその場限りの感情って事か……)

ただ単に「意図せずして誰かを傷つけてしまった悲劇の人」の感情をなぞってただけ。 条件反射の様な感情しか持たなくなったのも、あの時―――おばさんの言葉を聞いた―――くらいからだったっけ。

「そっか……
もし良かったら、僕もお見舞いしてもいいかな……?」

ならここでも「皆」がするであろう行動を取るとしよう。その方が悩まなくていい。
僕はよく悩む。そして悩むのが嫌いだ。だからマニュアルの様な行動をする。
鈴原君の後ろを着いていきながら、結局は自分大好きな行動を取る自分自身に僕は溜息を吐いていた。














第拾七話 四番目















    a nuisance―――








汗と、それとは違った体液の入り混じった匂い。 それが点けっ放しだった暖房によってむわっとした空気と混じり合って、アタシの頭をクラクラさせる。

「はあ…はあ……」

呼吸を整えながら薄暗い天井をアタシは見上げ、ボンヤリとした頭のまま隣で突っ伏してるシンジを見る。
さっきまでアタシと一緒に息を切らしてたにも関わらず、コイツはすでに穏やかな寝息を立てていて、 その表情は見るからに気持ち良さそうだ。
今朝髭は剃ったらしく、寝ているほっぺを軽く突っつくと女の子みたいに柔らかい。
肌もすべすべで、これで何の手入れもしてないというのだから若干腹立たしいのはきっとアタシだけじゃないだろう。

この日のシンジは特に激しかったと思う。
昨日がシンジの退院日だったけど、アタシは学校があったし、いきなり退院した日にセックスをするのもどうかと思って 夜もシンジの部屋には行かなかった。行けば間違い無くお互い我慢できないだろうと思ってたし。
一晩待たされたからだろうか、アタシ達は一緒にネルフから帰ってくるとそのままベッドに直行していた。
シャワーも浴びてなかったけど、シンジにとってはそんな事は関係無くて、アタシもそれに抗う事も無かった。 むしろ今思い出すとアタシの方が積極的だった気がする。
何だかんだと言いつつも、結局はアタシもそれなりにシンジにイカれてるらしい。

思い出して若干顔が火照り始めたのを自覚しつつ、自分でシンジが放ったのを拭きとっていく。
そしてそのまま寝てしまいたかったけど、全身が汗でべとついてるのには耐えられず、重い体を引きずるようにして ベッドから降りて散らばった下着を着ける。
着替えは隣の部屋に準備してある。元々荷物の少ないシンジだから、一人暮らし用じゃないこのマンションだと 部屋が余ってしまい、いつの間にかアタシがその内の一つを占領してしまってる。
そこから着替えを取ってそのままシャワーを浴びるべく、アタシは部屋の照明を切って部屋を出た。


温度調整を済ませてシャワーの蛇口をひねる。 やや熱めに設定したお湯が汗を洗い流していって、アタシはそこで一心地ついた。
頭からシャワーを浴びて、手で軽く体を擦る。そしてその手を自分の下腹部に当てた。

基本的にアタシはシンジのモノをそのまま受け入れている。その方がシンジも気持ち良いだろうし、 アタシもその方がお互いをより近く感じられる気がするし、気持ち良い。
勿論薬は飲んでるから妊娠はしないだろうと思う。妊娠してエヴァに乗れなくなりました、とかそんな無責任な事はするつもりは無い。 その先に待っているのは人類滅亡なんていう、荒唐無稽で、なのにほぼ確実に起こり得る未来だけだし、 アタシとしてはそんなのゴメンだ。

それにしても、とアタシは熱いシャワーを浴びながら昔の自分を思い出していた。
ほんのたった二、三年前の自分ならこんな気持ちにならなかっただろう。
女である事を憎み、忌避し、生理が来た日など、どれだけ鏡の向こうの自分の存在を呪った事か。 男との体力差を嘆き、それを埋める為にどれだけの努力をした事か。
なのに今はこうして女である事をあっさりと受け止めてしまっている自分が居る。それが少し我ながら驚きだ。

下腹部に当てた手で、そっとそのまま撫でる。
アタシはシンジに愛してる、なんて言った事は無い。シンジもアタシに愛してる、なんて言った事は無い。
そんな言葉はお互いの口から出すには重すぎて、出てきても信じる事は出来ない。期待もしてない。 全く期待してないわけではないけれど、アタシ達はいつでも心の何処かで準備してる。裏切られる事を。
勿論裏切るつもりは今のところ全然無くて、だけどいつ心変わりしてしまうかなんて誰も分からない。 だから言わない。例え嘘だと気付いていても、どうしても縋りたくなってしまうから。
だからと言ってシンジに特別な感情が無いわけじゃない。妊娠してしまったとしても構わない、という気持ちも何処かにある。
自分を捨てて、挙句の果てに自分と一緒に死のうとした母。そのトラウマは完全に克服したとは言い難いが、 以前ほど自分を苛むわけでもない。
それが進歩なのか、それとも諦めによるものなのかは分からないけれど。
もし、今の関係がこのままずるずると続いて、使徒戦後も一緒に暮らして、挙句に結婚して。
お互いに寄り掛かるだけの人生。 だけどそれも良いのではないか。誤魔化しでも甘美な夢がいつまでも続くならそれも問題無い。
そう言い聞かせて、いつのまにかアタシは微笑んでいた。




それからどんどんと妄想が続いて、気が付けばのぼせそうになってたのは内緒だ。





浴室から出て、何とかのぼせてフラフラする頭を冷まし、バスタオルで滴り落ちるお湯を拭きとっていく。
下着とシャツ、そしてホットパンツを着て、まだ火照っている顔を覚ます為に洗面台で顔を洗った。
真冬の水道水の冷たさが肌を刺激して、それが今は心地良い。
ちょうど良く体が冷めたところで、腰近くまで伸びた髪をアタシは丹念に拭きあげていた。
上から下へとバスタオルを動かしていって半分くらいに手が達した時、突如として悲鳴にも近い叫び声が聞こえた。 次いでガタガタ、と何かが倒れる音。
声は外から聞こえたにしてはやけに大きく、はっきりとしていて、それはつまりこの家から発せられた、という事。
誰が悲鳴を上げたのか。この家に居るのはアタシ以外にはたった一人。
のぼせた頭が一気に冷める感覚と同時に、アタシは風呂場を飛び出していた。

部屋と浴室を繋ぐ廊下の電気は全部消してきたから、急に暗い所に出ても真っ暗で何も見えない。
スイッチを探すのも煩わしく、アタシは暗い廊下を走る。
視界不良な中を走ればどうなるかは火を見るよりも明らかで、壁に立てかけてあった何かが倒れて、 アタシの足に痛みが走った。
鈍い痛みに眉間にしわが寄るけど、それを堪えて部屋へと足を動かす。
壁にしこたま体をぶつけながら、アタシはシンジが寝ていた部屋の取っ手に手を掛け、一度大きく深呼吸した。
慌ててきたは良いけど、よく考えたら何故シンジが悲鳴を上げたか、それが分からない。
最悪のパターンとして、誰かが侵入した可能性もある。ネルフという組織と、アタシ達の事を考えれば十分に有り得る。
かと言ってここで慎重になり過ぎるのもダメだ。シンジが悲鳴を上げた以上、何かしらの被害を受けたのかもしれない。
扉の向こうからは何の物音もしない。最悪中の最悪が頭をよぎって、膝が震えてるのが自分でも分かった。

もう一度深呼吸をして、壁に体を隠しながらアタシは部屋のドアを開けた。
開けた直後にガタ、と音が聞こえたけれど、それっきり何の変化も無い。部屋の中は静かで、ベランダ側のサッシも閉められたまま、 開けられた様子は無い。
そっとアタシは体を部屋に滑り込ませて、シャワーを浴びる前に消した枕元の照明を点けた。
赤色灯のほのかな灯りが部屋を照らして、淡い光だけれどすっかり暗闇に慣れてた所為か、眩しさに少し目を細める。
部屋の中は奥にあった本棚が倒れて本が散乱しているけれど、それ以外に大きな変化は無かった。
ただベッドに居たはずのシンジの姿が無くて、一瞬アタシの心臓が跳ねたけど、シンジの姿はすぐに見つかった。
倒れた本棚の隣、そこでシンジは体を丸めてうずくまっていた。

「シンジ……?」

多分シンジから発せられてるだろう嗚咽に、アタシは出来るだけそっと声を掛けた。
でもシンジは返事をしてくれない。ただしゃくりあげる様な声が聞こえてくるだけだ。
はっきり言ってメソメソする様な男は好きじゃない。 というか、大嫌いだ。それこそ蹴飛ばしたくなるくらいに。それが例えアイツであったとしても。 普段だったら間違い無くそうしてると思う。
だけどこの時は、そんな気になれなかった。 それくらいアタシの目にはシンジが小さく見えた。
元々シンジは体は大きくない。 アタシより少しだけ大きいくらいで、だけど訓練でそれなりに鍛えられた体はシンジを大きく見せてくれてた。
なのに今、アタシの目の前でうずくまって泣きじゃくるシンジは小さくて壊れてしまいそうで。
だからか、アタシはまるで壊れ物を扱うかのように、そっとシンジの肩に触れた。

「どうしたのよ……?」

手がシンジに触れた途端、ビクッとシンジの体が大きく震える。
そして膝に埋めていた顔をゆっくりとアタシに向けた。
涙で濡れた瞳がアタシを見つめる。 やや長めに伸びた前髪から覗く、何かに怯えたようなそれは、アタシを認めたのか、わずかに揺れて、次の瞬間には アタシの胸に飛び込んでいた。
直後に何かが弾けたかの様に、泣き声が響き渡った。
咄嗟の事にアタシは反応出来なかったけど、それでも抱きつかれるがままにされておいた。
何処かに違和感を感じながら。



どれだけ泣き続けていたのだろうか。五分か十分か。 とにかくしばらくの間シンジはアタシの胸の中で泣き続けて、ようやく落ち着き始めた。
ゆっくりとシンジを引き剥がしてまだ涙で濡れたシンジの顔を見る。
何かが引っかかったままだがアタシが感じた違和感にはとりあえず蓋をして、何があったのか、それを確認しようと アタシは口を開いた。
見たところ特に誰かが入ってきた様子は無いが、もしかしたらシンジが気付いた所為で逃げ出した可能性もある。
ひとまずはそこを確認しなければ。

「グスッ……あのね、周りに誰も居ないの……真っ暗で、何も見えなくて、何も聞こえないの……」

だが嗚咽混じりに聞こえてきたのは、アタシが知ってる声じゃ無かった。
シンジの声は男にしてはやや高い。だけど、今聞こえてくる声は高いとかそういったレベルじゃない。 どんなに声色を使おうが本質的に男女の差は存在するし、シンジがそんな種類の訓練を受けてるなんて聞いた事も無い。
聞こえてきたのは間違い無くオンナ・・・の声で、目の前の現実とアタシの中の常識が 激しく葛藤を始めた。

「怖いけど動け無くて……気が付いたらアタシの手が消えていくの……」

緊張するアタシを他所に、シンジに似た誰かは舌足らずな口調で話し続けた。
妙な汗が背中を伝い、言い知れぬ恐怖を感じてアタシは知らないうちにそれを突き飛ばしていた。

「……アンタ誰よ?」

顔はシンジによく似てるけど声はシンジには似ても似つかない。それはアタシの知らない誰かであって、 優しくする必要など微塵も無い。自然とアタシの声も低くなっていた。
自分でも驚くほど簡単に転がっていった誰かをアタシは睨みつける。
転がったそいつは始め、キョトンとしてたけど、段々と目が潤んでいってるのが少し離れたアタシの位置からも分かった。

「ふぇぇ……」
「泣くなっ!!」

泣き始めたそいつを一喝。演技なのか天然なのか、どっちでもいいけどはっきり言ってムカつく。
コイツがシンジでないならシンジは何処に行った?コイツは何でここに居る? 目的は何だ?何処の組織だ?次から次へと疑問が浮かんできて、そのどれに対してもアタシは答えを持たない。
それが更にアタシを苛立たせる。
シンジが居ない。ただそれだけでアタシは余裕を失えてしまう。

「もう一度聞くわ。アンタは何者?」

出来るだけ声に凄みを効かせて聞く。
手元に武器は無い。だがそれは相手も同じ事だ。トランクスとシャツを着てるだけで武器を隠せるような場所は無い。
ならば格闘戦になる。部屋の広さと相手との間合いを考慮しながら頭の中でシミュレートしていく。

「リコ……」

聞く事は聞いたけどまさか答えが返ってくるとは思って無かったから、 すぐにアタシの中でそれが目の前の奴の名前だと結びつかなかった。
あっさりと名前を告げた事に若干拍子抜けはしたが―――無論偽名である可能性は高いのだが―――すぐに気を取り直して 次の質問へとアタシは移った。

「そう、いい子ね。なら次の質問よ。シンジを何処に連れてったの?」
「シンジ?シンジなら中で寝てるよ?」

中?中って何処よ?どっかの建物だろうか。
いつさらわれたのか分からないが、まだ遠くには行ってないと思う。
とにかく早くネルフに知らせなければ、とアタシは眼はリコと名乗った男女に向けたまま、ベッドに転がってる携帯に手を伸ばした。

「とにかく、アンタにはシンジの所まで案内してもらうわ。」

そう告げたのだけれど、リコはアタシを見てキョトンとしたまま。不思議そうな眼のままアタシを見つめていた。

「お姉ちゃん、シンジに会いたいの?」

リコはそう尋ねてきて、アタシが返事をしないうちに「じゃあシンジを起してくるね」とだけ告げて目を閉じた。
それと同時に体がそのまま前に向かって倒れる。 その倒れ方があまりにも不自然で、まるで全ての力が抜けていったみたいだった。
あまりにも勢いよく倒れたものだから、アタシの方が驚いた。自然と足が相手の向かいながらも、アタシの中でリコの 言葉がグルグルと回っている。
「中で寝てる」シンジを「起してくる」と言って倒れた。もしアイツの言葉を信じるならば、リコは「シンジを起こす」 為にシンジが居る所に行って、だけど体はここに残ったまんま。
そしてアタシが導き出した答えは二つ。一つは非科学的で胡散臭い事この上ない、リコは幽霊でした、というオチ。
もう一つは一つ目よりずっと有り得そうな答え―――

「ん…あれ、アスカ……?」

解離性同一性障害。それがアタシの頭に浮かんだ時、いつの間にかアタシはへたり込んでいた。







「精が出るわねぇ。」

溜息と共に吐き出された、半ば呆れも含んだ呟きに、リツコは手を止めて顔を上げた。 そして声の主を確認したところで、相手に返す様に深く溜息を吐き、掛けていた黒縁の眼鏡を外す。
リツコから八割方呆れのこもった溜息を返されたミサトは、リツコからの非難の眼差しも気にせず、 勝手にコーヒーサーバーからコーヒーをカップに注いでいた。 それを見て今度は十割全部が呆れを意味する溜息を零す。無論ミサトには通用しない。
最近遠慮が無くなってきてないか。本気でリツコはそう問いかけたくもあったが口にはしない。 茶目っ気を出してコソッと人の部屋に入るのも、 自分の部屋みたいに堂々と仕事中に目の前でくつろがれるのも腹立たしくはあったが、 友人であり姉の様な存在であると自負しているリツコからしてみれば、今のミサトの状態は好ましいものであり、 ピリピリした雰囲気を撒き散らされるよりはよっぽどいいと思っている。 ましてや加持をけしかけたのは他ならぬ自分。そして聞けば最近はシンジやアスカとの関係も良好だという。 遠慮が無いのも精神的なつっかえが取れたせいで、ミサト本来の明るさが出てきたと考えるべきだろうか。

「何しに来たの?」
「リツコと話をしに。」

コーヒーも持って、何を当たり前の事を、とばかりにミサトは普段マヤが座っている椅子に腰を降ろす。 そこで踏ん反り返ってコーヒーを自分だけ飲み干した。
今度は常識も教えてやらないといけないのだろうか。 眼鏡を掛け直して仕事を再開していたリツコは半分本気でそう考えた。

「仕事はどうしたのよ?シンジ君が居ない間に溜まった書類は片付いたの?」
「ん?ああ、あれ?日向君に任せて来たわ。」
「シンジ君も日向君も残念な上司を持ったものね。」
「残念ながら私の決済が必要な書類は片付けてるわよ。」
「で、暇になったから私の所に遊びに来たってわけね? 悪いけれど私はミサトと違って仕事を押し付けたりはしないから忙しいのよ。」

モニターから目を離さずにリツコが応えると、ミサトは心外だ、と言わんばかりに口を尖らせた。

「別に私だって遊びに来たわけじゃないわよ。
半分以上は作戦部長として、よ。」

二杯目のコーヒーを注ぎ、そしてリツコの分も注いで席に戻る。
リツコにコーヒーを渡して、ミサトは若干声を低くしてリツコに尋ねた。

「先の四号機の事故、原因の方は分かったの?」
「ダメね。MAGIに原因を検討させたけど、とても絞りきれないわね。」

見る?とリツコはミサトにパソコンのモニターを見せる。そこにはスーパーコンピューターMAGIがリストアップした 原因がびっしりと書かれていた。

「無理も無いわね……
半径20キロ以内の関連施設は全て消滅。残ったのは静止衛星からの映像だけだしね。」
「おかげで折角手に入れたS2機関もパーよ。こっちで立ててた計画も台無しで、考えただけで頭が痛いわね。」

そう言ってリツコはコーヒーを一口啜り、作戦部はどうなのかと尋ねた。

「司令部や情報部は今頃戦場だろうけど、こっちは大した被害も無いわ。 精々検討してた、こっちに届けられた場合の連携シミュレーションがおじゃんになった程度よ。
これが日本だったならまた違ったんでしょうけど。」
「所詮対岸の火事って事かしらね。」

別段何の感情を抱く事なくリツコは呟いた。そしてミサトもそれを否定しなかった。

「働いてた職員の事は同情するわ。でも参号機と四号機は向こうが強引に製造権を主張して持って行ったじゃない? アメリカに有ったって何の意味も無いでしょうに。使徒との戦いが終わった後を睨んでるのが見え見えだし、 個人には同情しても国には同情も出来ないわよ。」
「確かにこっちからしてみればそんなものかもしれないわね……」

再びコーヒーをすすりながら、数年前のやり取りを思い出していた。
エヴァの建造は莫大な費用が掛かり、尚且つ表立って建造も出来ないが、巡る金額が金額だけに 巨大な利権にもなり得るし、利益も大きく生産する。 事実、零号機と初号機の建造によって日本の景気は向上し、セカンドインパクトによる大地震の被害から かなり復興する事が出来た。
だがそれも大都市近郊だけで、未だに地方では復興が済んでいない地域も多い。 そちらには各国からの支援金を当てていたが、参・四号機の建造に際してアメリカが打ち切りを切り出してきた。
曰く、製造権を譲らなければこれ以上の支援はしない、と。
ゲンドウも大分反対したらしいが、最終的には押し切られる形で製造権を移譲していた。

「N2の開発で握り、エヴァの開発で失われてしまった権力を取り戻したいだけ。
エヴァの開発にも最初乗り気じゃ無かったから技術的に大分遅れてしまってるから。」
「なまじ力を持った子供のわがままね。
それで、残った参号機はどうなるの?」

ミサトが尋ねると、リツコは机の引き出しから一枚の書類を取り出した。
無言で差し出されたそれを、ミサトも黙って受け取り、目を通す。

「後で渡そうと思ってたけど、ちょうどいいから今渡しておくわ。」
「……呆れたわね。奪い取ったおもちゃが刃物だったから突き返す真似するなんて。」

心底呆れた風にミサトは溜息混じりに零した。リツコは胸ポケットからタバコを一本取り出して火を点ける。

「誰だって弱気になるわよ、あの惨事の後じゃ。」
「パイロットはどうするのよ……?」

リツコからタバコを一本奪い取ってミサトも火を点ける。大きく吸い込んだ後のミサトの表情は苦々しかった。

「また子供を担ぎ出す事になるのね……」
「おそらく、ね。
マルドゥックの方はもう動きだしてるわよ。」
「ねえ……」

煙を吐き出しながらミサトは口を開きかけるが、すぐに口ごもる。 何か言いたげなミサトだったが、リツコは彼女の言いたい事を正確に理解していた。

「こればかりは何度聞かれても同じだわ。
すでに成長の終わってしまった大人ではエヴァに乗る事は出来ない。
心苦しいのは分かるけど、私達は子供達に頼るしか無いの。」

リツコがそう言い放ったところでミサトは顔を背けた。
苦しいのは貴女だけじゃない。リツコはそう言おうとしたが、口にはしなかった。 ミサトとてそれは分かっていると知っているから。

「向こうに問い合わせたら近日中に発つ事が出来るそうよ。
今、司令と副司令が詳細を詰めてるらしいから、その後でパイロットの件と合わせて貴女の所にも 正式に書類が届くはずだから。」

出来るだけ事務的にリツコは話すべき事だけを口にし、タバコを灰皿に押し付け眼鏡を掛け直す。
そして話は終わりだと言わんばかりに、わざとらしくキーボードを音を立てて叩き始めた。
ミサトはまだ何か言いた気だったが、備付の小さなシンクでカップを洗い、ご馳走様、とだけ告げて 部屋を出た。
それを見届け、リツコは一度溜息を吐いてポケットから鍵を取り出すと、机の引出しの鍵穴にそれを差し込む。
ガララ、と軽い音と共に引き出され、そこから一枚の書類を手に取った。

「流石にこれはミサトには教えられないわね……」

サードチルドレンの心身におけるA計画因子の影響に関する報告書
そう題打たれ、その下に大きく朱文字で「閲覧要許可」と印を押されたそれをパラパラ、と軽くめくる。
自分で書いた内容に目を細め、タバコをまた取り出して吸い始めた。

(吸い過ぎね……)

内心で一人ごちるが、リツコはどうしても自制する気にはなれなかった。













     ―――fade away














NEON GENESIS EVANGELION 
Re-Program



EPISODE 17




Fourth Children












僕は静まり返った階段を登っていた。教室のある二階から三階、四階と登って、僕は目的の場所に着くと、静かに 眼の前の扉を開けた。
その途端、やや強い風が吹きこんで来て、僕は思わず目を細めた。
構わずそのまま外に出ると、見事な冬晴れの青空と街並の風景が見えた。 授業中だから当然屋上には誰も居ない。 真冬の冷たい風が吹きつけてきて、コートを着てきて正解だったと思った。
屋上は二メートル位の高さのフェンスが張り巡らされてて、僕はフェンスに近づくと眼下に広がる街並を見下ろす。
僕はここからの景色が好きだった。 学校が小高い丘の上にあるからここからは第三新東京市の住宅街が一望出来る。 一つ一つは家もとても小さくて、人なんてちっぽけな存在で、でも確かにそこにあった。
そしてその景色を見る事で、僕は自分がこの町を守っているんだ、なんていう実感をホンノ少しだけ感じる事が出来て、 それと共にある種の優越感も抱けていた。
僕の価値を再確認できる。だから僕はこの光景が好きなのだろうか。
ポケットから灰皿とタバコ、それからライターを取り出して火を点ける。 屋外で風が強い所為で、中々タバコに火が点かない。何度カチカチと音を鳴らしたか分からない位時間を掛けた後で、 ようやく火が点いて、最初の一口を肺に吸い込む。

僕がネルフに入ったきっかけは何だっただろうか。
言ってみれば僕の人生を一変させた出来事で、まだ半年かそこらしか経っていないはずなのに、 それを思い出すのにさえ、ひどく時間が掛かった。
冷たい風に肩をすくめて記憶を探る。ああ、そうか。そういえばひどいきっかけだった。
ミサトさんに銃を突き付けられ、周りからは非難の視線。 命が掛かっているというのに誰も味方にはなってくれなかった。今になってみれば他に選択肢は無かったのだと気付いた。 僕にとっても、ネルフにとっても。
視力を失い、右腕の感覚も失って―――今は両方とも回復したけれど―――それでも僕は自分からその選択肢を掴みとった。
その選択は正解だったのだろうか?

たくさんの物を得た。
金は得た。十分過ぎるほどに。
シンという存在を得た。アイツのおかげで大分助かっている。面と向かっては言わないけれど。
非日常を得た。もう引き返せない。

その一方でたくさんの物を失った。
日常を捨てた。もう欲しくても取り戻せない。
感情が消えた。今もボロボロと崩れていく。
自分が無くなった。きっと残りも砂の様に風に吹かれて消えていくのだろうか―――

「よう。お前もサボりか。」

振り返ればこっちに向かって片手を上げたカケルが立っていた。
振り返ると同時にいつもと変わらない笑顔を浮かべて近づいてくる。

「またタバコなんか吸ってやがる。体にわりぃぞ。」
「人のささやかな楽しみだ。それに体に悪い事込みで好きで吸ってるんだから、気にするな。」

それもそうか、なんて言いながら隣に立って僕と同じ様にフェンスにもたれかかる。
そしてコートのポケットから金属製の何か丸っこい物とライターを取り出して―――

「って、お前も吸ってるし。」
「気にすんな気にすんな。自己責任で吸ってんだから。」
「ふむ。それもそうか。」

似たようなやり取りをしつつ、カケルの奴も火を点けて煙を吐き出す。 パッと見は様になってるけど、よく見るとタバコを持つ手が覚束ない。 それでまだ吸い始めて日が浅い事が分かる。
何かあったのか。
そう聞きそうになったけど、止めた。コイツが吸い始めたきっかけなんてどうでもいいし、話したいならコイツの事だから 勝手に話し出す。

「彼女がうるさいぞ。洞木さんは知ってるのか?」

さて、どういう反応を示すか。横目でカケルの様子をうかがってみる。
はっきりと聞いた訳じゃないけど、カケルとコダマさんは付き合ってるっぽい。 最近はあまり見かけないけど、ちょっと前まで二人はいつも一緒だった。 どっちかと言えばコダマさんがカケルに引っ付いてまわってる感じだったけど。
カケルの方も憎からず、といった感じで、僕を除けば多分一番カケルと話す機会が多かった様に思う。
だからか、二人が付き合ってるっていう話はクラスでもすでに定着してたりする。
そしてそのコダマさんは自由奔放な性格から来るイメージに反して、結構タバコやら酒やらにうるさかったりする。 僕も初めて見つかった時は随分とうるさかった。 適当に返事だけして一向に止める気配を見せなかった向こうも諦めたらしいけど。
綾波さん情報によれば妹のヒカリちゃんもそんな感じらしいから、多分そういう家系なんだろう。
なもんで、彼氏たるカケルがタバコを吸い始めたなんて知ったらマシンガンの如く文句を言いそうなもんだ。 下手したらこっちにまで飛び火するかもしれない。 どうして止めなかったのだとか、友達なら注意してあげるのが道理でしょうとか。

「は?何でアイツの名前が出てくんだ?」

……う〜ん、こういう反応はちょっと予想外だった。
カケルのセリフ自体は予想通り何だけど、そこに予想してた恥ずかしさとか赤面とかそんなのが一切無くて 心底不思議そうに聞いてくるとは思わなかった。

「何でって、お前ら付き合ってるんじゃないの?」

というわけで、出てきた疑問をストレートに聞いてみる。 反応を見るからに、大体は答えは分かってるけど。

「誰と誰が?」
「お前と洞木さん。」
「何で?」
「いや、何でと言われても……」

やっぱり噂は噂でしかなかったって事か。
でも学校休みがちな僕でも知ってるんだから、当の本人の耳に入らないはずはないと思うんだけど……

「まあ、噂は俺も知ってたけど……
だからってそれを否定して回るのも変だろ?」
「確かに。そういう噂は放置しとくのが一番いいかもな。」

苦笑いしながら同意を示す。

「まあ、別にお前なら話してもいいか。
正確に言うとな、俺が、その、断ったんだよ。」
「……う〜ん、もったいない。」

コダマさんも明るいし、カケルとは相性良さそうな気はするんだけどな。 ま、当の本人にその気が無いならしょうがないか。
タバコの煙で輪っかを作ろうと苦心しながらそんな事考えてたら、カケルは更に予想外の言葉を続けてくれた。

「だって俺、彼女居るし。」

……は?ナンデスト?
我ながら間抜けな顔してるんだろうなー、なんて思いながらも開いた口が塞がらない。
沈黙の時間が流れる事数秒。タバコをふかしながらボーっと街を眺めていたカケルはそれにようやく気付いたらしい。

「あーっ!お前信じてねえだろ!」
「うん、だって妄想だろ?」
「イタイ人扱いすんな!」
「じゃあ見栄?」
「失敬な!ちゃんと現実に存在するわ!」

ぜーぜーと肩で息をするカケル。うん、何かこんなやり取りもかなり久々な気がする。 こういう事言える奴はそうそう居ないし。そういう意味でもコイツは貴重な奴なのかもしれない。

「まあお前の言う事を信じるとして、今度是非とも紹介してくれ。」

カケルの希少価値(?)に苦笑いしながら、僕としては気軽な気持ちでそう伝える。
ここでカケルは「イヤだ」と即答で断るか、笑いながら「おう!いいぜ!」みたいな感じで快諾してくれるものと思ってた。
返答としては正反対だけど、どっちも僕の中のカケルなら有り得る反応で、個人的にはどっちでも答えは良かった。
だけどカケルは視線を僕から外すと、右手で頭をかいて、困った様に口籠った。
見慣れないカケルの姿に、僕もどう反応していいか分からない。 結局、「別にどっちでもいいよ」とだけ付け加えるしか出来なかった。

「ワリいな……会わせてやりたいのは山々なんだけどな。今はちょっと無理なんだわ。」
「気にしないでくれ。
会ってみたい事は会ってみたいけど、ま、今日はお前に彼女が居るって分かった事だけでも十分な収穫だよ。」

特に気にするような事じゃないのかもしれない。 だけど、僕には見慣れないカケルの姿がどうしても気になった。
もっとも、そんな様子は見せない。だから僕は「ワリい」と謝るカケルに笑って答えた。

「ところでさ……」

わざと一旦言葉を区切って思わせぶりなフリをする。
何だ?と言わんばかりの表情でカケルがこっちに振り向いた。

「……脳内恋人じゃないよな?」

思いっきり首を絞められた。













    a nuisance―――









加持は目を開けるとベッドから体を起こした。 普段服越しには分からない、細くも十分に引き締まった体を露わにし、だがそれに似つかわしくない緩慢な動作でベッドから 足を降ろす。 そしてそばのチェストの上に置いてあったタバコに手を伸ばすと、脱ぎ捨てられたズボンのポケットから 愛用のジッポを取り出して火を点ける。カチャ、と軽い金属音と同時に加持は紫煙を吐き出した。
ゆらゆらと手に持ったタバコから煙が立ち昇る。 加持はトランクスのみを身に着け、ベッドに腰かけたまま何処ともなく正面を見つめていた。
カーテンで締め切られた窓。恋人達に人気の、ホテルのベランダからの景色は見えない。 自身を決して映し出す事も無いガラスを、ただぼうっと眺めていた。

「ん……」

甘く気だるそうな声。 それが自分の背中越しに聞こえてきて、そこで初めて加持の瞳は焦点を結んだ。
そして振り向いた時には、いつもと変わらない男臭い笑顔を貼り付けていた。

「悪い。起こしてしまったか?」
「いや……」

眠たげな目を擦りながら簡潔に返事をすると、シーツをミサトは体に巻きつけた。 そのままの格好でミサトはベッドの上を移動し、加持に体を預ける様にして座る。

「全てが優秀だが、寝起きだけは悪い。変わらないな。」
「……頭を覚ますから、一本ちょうだい。」

言うが早いか、ミサトは体を加持の前に乗り出すと片手だけで器用にタバコを取り出して口にくわえた。
口にくわえたまま、タバコを加持の口元に押し付ける。加持のタバコとぶつかって灰が床に落ちる。
火種が完全に移ったところでようやくミサトは体勢を元に戻し、加持の左肩に背中を預けた。

「またタバコ吸い始めたのか?」
「こういう時くらいしか吸わないわ。序でに言えば、アタシの寝起きが悪いのはアンタと一緒に居る時だけ。」

そりゃまた光栄だな。
肩をすくめて加持は苦笑いを浮かべた。
それっきり二人は口を閉ざした。 時々タバコを口に運び、煙を吐き出す。その作業だけで、他は二人とも身動きしない。
奇妙な沈黙。だが二人の間に気まずさは無い。 慣れ親しんだ雰囲気が包み込む。

やがてその時間も終わる。二人がタバコを吸い終わるまでのほんの数分。 吸い終わったミサトは灰皿に吸殻を押しつけると、黙って立ち上がる。 シーツがはらり、と落ち、ミサトの裸体が現れるが、加持は振り返る事も無く、ミサトの方も黙々と衣服を身に着けていく。
下着を着け、濃紺のタイトスカートを履き、深紅で染まった愛用のジャケットを着込む。
情事の前と同じ状態に戻ったところでミサトは加持の方へ向き直った。 加持の方もすでに着替えを済ませ、着替える前と同じ様にベッドに座ってタバコをふかしていた。
ミサトに背を向けたまま、加持は一枚のディスクを手渡す。

「マルドゥックと繋がる108の組織の内107はダミーだったよ。」
「登記簿には何処かで聞いた事があるような名前ばっかり、てわけね。
本当のマルドゥックは秘匿された存在なのかしら?それとも初めから存在しない?」

ホテル備え付けの椅子に座り、背もたれに体を預け、ミサトは足を組んだ。
加持もタバコを口にくわえたままミサトの正面に座り直す。

「そこまではまだ分からない。
だが俺は後者だと踏んでる。きっと裏で糸を引いてるのは碇司令だ。」
「多分リツコも絡んでるんでしょうね。」

そうでなければ情報が早過ぎる。苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべてミサトは吐き捨てた。
パイロットは選出されれば作戦部の所属になる。 ならばそのパイロットに関する情報は真っ先に作戦部、引いては仮にも部長である自分の所に届かなければならない。
半分お飾りの部長とは言え、作戦部の規模自体はネルフの中でも大きい方に類されるし、 実際あらゆる情報は他部署よりも早く回ってくる。
にもかかわらず、特に重要な情報―――機密クラス―――はいつもリツコの方が早く知っている。
今回の件も、未だ技術部を始め他の部には一切情報は回っていない。 ミサトにしてもリツコに教えられたから知っているだけで、もしリツコの部屋にあの日行かなかったら もう数日は遅れていただろう。 だからこそ定期的にミサトもリツコの部屋を訪ねているのだが。

(リツコの方がキャリアは長いし、階級的には上だから分からないでもないけど……)

加持と話しながらもミサトの眉間はしわがよったまま。だがそれが溜息と共に解かれる。

「どうした?」
「……リツコっておじさん趣味だったのね。」
「……どっからそんな結論が出てきたか、出来れば教えてほしいんだが?」
「司令が居る時はいつもべったり引っ付いてるもの。個人的に司令と付き合ってるなら情報が早いのも頷けるでしょう?」

本人は隠してるつもりでしょうけど。
口ではそう言いながら、ミサトは今後のリツコとの付き合いを思案し始めた。
個人的にはリツコの恋を応援してやりたい―――例え相手が相手であっても。
こうして加持と会えるのもリツコの後押しがきっかけではあるし、ミサトにとってリツコは掛け替えのない友人でもある。
だが組織の人間として見始めると、油断できない相手に変化する。
自分がリツコを情報源として見ているのと同じ様に、リツコもミサトの事を何らかの形で利用している可能性もある。 もしかしたら今もこうして加持と情報交換を行っているのも知られており、 その上で泳がされている事も考えられる。 リツコは知らなくともゲンドウがそう考えていても不思議では無い。

「迂闊に動けないわねぇ……」
「司令は全部知ってるさ。その上で俺を利用している。まだ問題は無い。
だけどな、ミサト。お前はあまり動き回るな。情報は俺が集めるから、お前は子供達を守ってろ。」

結局自分は今まで通りに過ごすしか無い。
作戦部長という肩書き上、あまり表立って動けないのは分かってはいたが、今のミサトにはそれが歯がゆくもあった。

(これも司令も作戦の内なのかしらね。)

自分がこの年齢で三佐で作戦部長という、本来ならあり得ない肩書きを与えられたのは、 こういう事態に陥った時に動き辛くする側面もあったのでは無いか。
自分の動きが全て読まれ、いい様に操られているような錯覚を覚え、ミサトは身震いした。

「……じっとしとくのは性に合わないけど、しょうがないわね。
それで、手に入ったのはこれだけかしら?」

そのミサトの言葉に加持はいや、と首を横に振りかけた。だがそれも動く前に止まる。
自分が今持っている情報。未だ裏付けは取れて無いが、もしこれが事実ならばそれこそ迂闊に話せなくなる。
現時点でミサトに教えるべきか。 加持はすでに思案していたが、いざ教えるとなると自分の決断が正しいのか自信が無くなっていた。

「お前の欲しがってた初号機そのものの情報は手に入らなかったが、代わりになる物は見つかった。」
「もったいぶらないでさっさと教えなさいよ。」

興味だけ持たせる言い方をする加持に、ミサトは睨みつけて先を促す。
しかし加持は躊躇うかの様に、視線をあちこちに彷徨わせる。

「……そんなにやばいものなの?」
「そうだな……この情報が意味するところが俺の思い過ごしならいい。
だがそうでないなら……特にミサト、お前には覚悟がいるな。」

言い終えると、加持は鋭い視線で正面のミサトを射抜く。 そしてそれは無言の問い掛けだった。
加持は覚悟の内容を口にはしなかったが、ミサトはそれを正確に悟っていた。
目を閉じて家族であるシンジとアスカの事を思い浮かべる。そしてその中にレイも加わる。
まだ家族ごっこの領域を出ないし、レイに至ってはネルフに居る時以外ほとんど関わりは無い。
それでも。
それでも家族の温もりを共有したい。その温もりを掛け替えのない物にしてあげたい。 使徒との戦いが―――いつ終わるのか分からないが―――終わった時に帰る家を作っておきたい。
ミサトは閉じた瞳を静かに開いた。

「いいわ……話して。」

加持はミサトの目を見つめると、今度は口にしてミサトにシンジとアスカの経歴について、どこまで知っているか尋ねた。

「そうね、紙に書かれてるような事は一通り知ってるわ。
シンジ君は七歳の時に母親のユイさんが死亡。その後親戚の家に預けられるも中学卒業と同時に一人暮らしを始めた。
アスカは試験管ベイビーとして生まれ、六歳の時にキョウコさんが首を吊って自殺。その後はずっとネルフドイツ支部で暮らしてきた。
二人とも母親がエヴァの開発に携わり、シンジ君は司令が居るけど、実質二人とも両親は居ないに等しいわね。」

これがどうかしたのか、と尋ねるが、加持は黙ってタバコに火を点けた。
一息吸い込み、大きく吐き出す。そして両ひじをテーブルに突き、祈る様な体勢のまま口を開く。

「エヴァンゲリオンの開発中、二つの事故が発生した。被害者は各一名。 この実験により一人は死亡、一人は精神崩壊を起こし、3ヶ月後に自殺した。
公式には実験中の事故としか発表されてないが、いずれのケースもシンクロシステムに関する実験で、実際にエヴァンゲリオン に搭乗してのものだ。
そして事故の結果、被験者の一名の遺体は残っていなかった。」
「……よほど凄惨な事故だったんでしょうね。遺体が跡形も無いなんて。
暴走したエヴァに踏み潰されでもしたの?」

ミサトの問い掛けに、加持は黙って首を横に振る。

「違うな。当時の報告によると本当に何も残らなかったらしい。まるで体が溶けてしまったように。」
「……ホラーにしては二流どころか三流ね。」
「だがこれに関しては裏も取れている。
そしてもう一ケースの方も一瞬だが、似たデータが取れたそうだ。もっとも、それも一瞬だけだったそうだがな。 そして結果は精神崩壊後、自殺。」
「…まさか……!」
ミサトの中で加持の話が繋がり、加持が何を言わんとしてるのか、それに思い至って戦慄が背筋を走る。

「被害者は共に実験の被験者で、その名は……碇ユイ、及び惣流=キョウコ=ツェッペリン。
二人の母親だ。」

言い終えたところで加持は頭を垂れ、ミサトは目を見開いたまま力無く体を背もたれに預ける。 目元を隠す様に右手を額に当てて天を見上げた。
痛いほどの沈黙が部屋を満たす。静まり返った室内に時を刻む時計の針の音だけが響いた。

「……ただの偶然、て考えるのは都合良すぎるかしら……?」

ミサトの力無い呟きが、凍り付いた時を再び動かす。
自身の願望を多分に含んだ呟きだったが、言葉通り、それを信じる事は出来ない事はミサトも自覚していた。

「詳しい事は専門外もいいところだから俺には分からない。人が溶けるなんて想像もつかないしな。
だが、母親、もしくは血の繋がりのある誰かが搭乗中に事故を起こしている、またはそれに準じる何かが起きていると いう事がチルドレンの条件だと考えるのが自然だろうな……」
「でしょうね……」

視線を天井に向けたまま、ミサトは相槌を打つ。
何の事は無い、結局は二人がエヴァに乗る事は必然だったのだ。
そこには才能も努力も必要としない、ただ被験者の子供だったという事実だけが重要であるだけ。
指の隙間から覗く薄暗い照明を眺めながら、ミサトは二人のチルドレンを思い浮かべる。
惣流=アスカ=ラングレー。
彼女の事をミサトは短くない期間、見てきた。
初めて出会った時は勝ち気で、傲慢な子だと思った。 だけども努力は人の何倍も重ねて、決して自己の研鑽を怠らない子でもあった。
「アタシは選ばれた。」
そう事ある毎に口にし、年齢に相応しくなく自己の価値を求める様は、何処か壊れた様でもあったようにミサトには思えた。
碇シンジ。
最初の出会いは最悪。ケージで銃を取り出して突き付け、半ば脅す様にしてエヴァに乗せた。
だけどもそれにすら理解を示し、年齢以上に大人びた印象がある。
明るくて真面目。表面的には。リツコ曰く「危うい子。」
似て無いようで似た二人。そんな二人がこんなところで共通点を持つとはミサトも思ってもみなかった。

「二人はその事を知ってるの?」
「いや、シンジ君は事故で死んだとしか知らないし、アスカは目の前で母親の死を見ている。
シンジ君はもしかしたら何か知っている可能性も否めないが、アスカは全く知らないだろう。」

それを聞き、ミサトは大きく溜息を吐いた。
いずれ二人には話さなければならないだろうが、今はその時では無い。 少なくとも使徒との戦いが一段落つくまでは教えるわけにはいかない。どうシンクロに影響するか分からないし、 それを抜きにしてももう少し精神的に余裕の出来た時に教えた方がいいとミサトは判断した。
生きるか死ぬかの戦いに身を投じている最中に知ることでは無い。
とりあえずの結論を出した時で、ミサトは残るもう一人のチルドレンについて口にした。

「レイについてはどうなの?
シンジ君とアスカの事しか言わなかったって事はレイは違うの?」
「それなんだがな。」

一度区切り、加持はバツの悪そうな表情を浮かべる。

「全く分からないんだ。」
「ご両親の事が?」
「いや、それも含むが、レイちゃんに関する情報が全くと言っていいほど見つからない。」

そう言いつつ、加持は胸のポケットからくしゃくしゃになった紙を取り出す。
ミサトは机の上に投げ出された紙を取って広げるが、その途端に怪訝な顔をした。

「綾波レイ。ファーストチルドレン。
どの方向から攻めてもそれ以上の情報は出てこなかったよ。」
「全てが謎、ね……」
「ああ、出身、家系、生年月日さえも分からない。中学二年生だがそれさえも怪しいもんだ。」
「怪しんで下さいって言ってるようなもんじゃない? 過去をここまで徹底的に消すなんて。」
「書類上の保護者は碇司令だが、聞いても教えてくれるとは到底思えないしな。
余程知られたくない事があるのか……」

加持の呟きを聞きながら、ミサトはほぼ真っ白な紙を見つめていた。
この一年でレイは変わった。特にアスカが来てからのレイの変化には目を見張るものがあった。
それまでのレイは感情の変化に乏しく、言われるがままに動く、自分の意志を持たない人形の様に思えた。
自分の命さえも軽視している傾向があり、だがミサトにしてみれば任務に忠実でかつ優秀な兵士でもあった。
それがシンジが来てアスカが来て、いつしか二人に懐いているようにも見え始めた。
未だに表情の変化には乏しいし、口数も少ない。それでも変化は十分に見てとれる。 今では遠くから見ればアスカが姉でレイが妹、シンジが兄に見えなくも無い。
ミサトとレイの接点はまだ少ない。 時々二人を含めて一緒に食事を取る事もあるが、まだまだ家族と考えるには距離がある様にも感じていた。
ミサト自身レイとの距離を測りかねている部分もあるが、やがては、とも思っていた。
だが加持の報告を聞いて迷いが生じる。
レイの出自を問うつもりは無いし、レイを見ていて決して幸福な十四年を生きてきた様には思えない。
シンジもアスカも、ミサト自身も決して良い人生を過ごしてきてはいない。
だからこそ、皆で失ってきたモノを取り戻して行けたら。そう考えてきた。
しかし、レイをこのまま受け入れようとしてもいいものか。

結局、ミサトは加持に更なる調査を頼む事しか出来なかった。







短い昼が終わり、日が傾いて燈色の光が第三新東京市を照らし出す。
そしてその光は明り取り用の反射鏡を伝って地下にあるネルフ本部をも染めていた。
ピラミッド型に作られた、人類の最後の砦となり得るネルフ。その表面で反射した光は ジオフロント外周部を回るリニアに届き、その中のゲンドウを濡らす。
サングラスに隠れた瞳が、ただじっと本部を見つめていた。

「ゼーレも相当焦っていたな。」

向かいに座って夕刊を読んでいた冬月が声を掛ける。 視線は新聞に向けられたままで、ゲンドウは返事をせず外を眺め続けた。
冬月は、そんなゲンドウに慣れているのか、気にした風も無く話を続ける。

「裏死海文書にも載っていない、イレギュラーな出来事。今頃大慌てでスケジュールを変更してるだろうな。」
「時には予定外の事も起きる。老人達にはいい薬だ。」

何処か嬉しそうに話す冬月とは対照的に、ゲンドウは表情を変える事なく吐き捨てた。

「だがな、碇。これでこちらに回ってくる予算が削られるぞ。
ただでさえ先の使徒戦で消失した兵装ビルの再建を急がねばならんのに……」
「構わん。所詮実戦では使えん。」
「だが必ずしも無駄かと言えばそうとも言えまい。日本政府を牽制するにも必要だぞ。」
「ならば老人達から巻き上げればいい。
こちらは結果は出している。予算が削られるのは元を正せば奴らがアメリカを抑えきれなかったのが原因だ。 プライドの高い老人なら、そこを突けば金は惜しむまい。」

興味なさげに話すゲンドウに、冬月はあからさまに溜息を吐く事で応える。
確かにゲンドウの言う通り、ゼーレは金を渋る事はしないだろう。 だがその代わりに自分に向けられる嫌味が増えるのだ。 ゲンドウに幾ら言っても答えない分、余計冬月へと矛先が向けられる。
自分の事を小物だと称す冬月にとって、そのストレスは確実に胃に悪い。 いつの間にか冬月の手は、ポケットに入れてある胃薬へと延びていた。

「ところで、フォースは決まったのか?」

自らの胃の事を考え、冬月は話題を変える事にした。
向かいのゲンドウは視線を窓の外に固定したまま。 しかし僅かに眉が動く。

「ああ。今頃赤木博士が本人の家に向かっているはずだ。」

だがそれも夕日に隠されて冬月には見えなかった。





市街地からやや離れた閑静な住宅街。 時期首都との触れ込みに乗じて新たに建設されたそこには、綺麗に区画を整理された家々が並んでいた。 郊外故に土地が余っており、他の大都市のそれより幾分大きな住宅が建設されたが、 そのどれもが似たような作りをしていて見分けがつきにくく、慣れない者には一種の迷路のように感じられる。
建てられてすでに一年近くが経つが、まだほとんどが空家らしく、頻繁に販売中の幟が立てられていた。
まだ夕方にも関わらず、辺りに人影は無い。 街全体が眠ってしまったかのように静まり返り、それ故に自分の靴音がはっきりとリツコの耳に届く。

片手にデザイン性の無い、機能性を重視した真っ黒な鞄を持ち、濃紺のスーツ姿でリツコはそこの裏道を歩いていた。
新たに開発された土地だったが、大通りから外れればそれ以前からの古い建物もそれなりの数残っている。
しばらく足を進めていたリツコだったが、そんな古い建物の前でその足を止めた。
セカンドインパクト前から建っていたであろう古アパート。 二階建ての、所々外装が剥がれおちた木造のそれの一室に歩み寄ると、リツコは薄汚れたチャイムを押した。
ビーッ、と面白みのない音が響き、中からドタドタと慌てた様な足音が聞こえてくる。

「はいは〜い、どなたですか〜?」

返事をしながらドアを開ける。
そして顔だけ出した住人に対して、リツコは自身の名刺を差し出した。

「初めまして、ネルフ技術部部長の赤木と申します。 少々お時間を頂いてもよろしいでしょうか?
佐藤カケル君?」









     ―――fade away























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