「あ…ん……んんっ……」

見下ろしたアスカの口から可愛い声が漏れて僕の耳に入ってきて、その声が僕をまた刺激して僕はアスカの胸の上に置かれた 手に力を入れた。
形の良い、程好い大きさの胸が僕の手で崩されて、その度にアスカの口からは喘ぎ声が溢れる。
上気した頬がアスカの白い肌に映えて、またしっとりと汗ばんだ額に前髪が張り付いていて。
きっと感じてくれてるんだろう。 僕が体を動かすと声が漏れて、だけどそれを必死で堪えようとしている姿がひどくいじらしい。

始めて肌を重ねて以来、僕らはもう何度と無く夜を共にした。 最近はもう毎晩の様に互いを求めてる。
その度に僕は今みたいなアスカを目にしてきた。
その姿は間違い無く可愛くて、僕をこの上なく興奮させて、実際に体も反応してる。
でも熱を持った頭で、その奥底で僕は何か冷めた物も感じていた。
事実、体は決まり切ったルーチンワークをこなしながら、頭ではこの前の事を考えていた。



酔いつぶれたミサトさんを加持さんが連れて帰ってきた日、僕は加持さんに会った。
二人が帰ってきたのはとっくに日付が変わった深夜で、いつもなら僕はとっくに寝てる時間で、ましてや ミサトさんの家に居るなんて事は無い。なのに僕は起きていた。いや、正確には待っていた、か。
加持さんからミサトさんが帰るのが遅くなるって連絡は来てたけど、それでも加持さんがここに来る確証なんて無かったし、 でもそれならそれで翌日聞けばいい、と半分開き直って加持さんが来るのをずっと待ってた。
とにかく僕は少しでも多く情報が欲しかった。

彼女、綾波レイに関する方法が。

あの写真を見て僕はすぐに彼女について調べた。
正直言って、知り合いの情報を勝手に探るのは気が引けた。 それはやってはいけない事だとは分かってたし、人としてどうなのか、とも今でも思う。
けれども僕は自分を抑えきれなかった。
僕は自分に言い訳をするのが上手いと思ってる。何かをためらった時にはすぐに自分を正当化する言い訳を思いついて行動を促す。
曰く、これは母さんの息子として知っておくべき事だから。
そんな自分をずるいとも思う。でもそれには、「自分は最初からそんな人間だったんだ」って開き直って自分に折り合いを付けた。
そうやって自分を誤魔化しながら、彼女について調べていった。 なのに出てきた情報はたった一つ。
不明。
その二文字だけだった。家族構成も、彼女の経歴も生年月日すら分からない。 余りにも怪し過ぎて、それが僕をバカにしてる様にも感じられて一層僕をのめり込ませるけど、それ以外全く出てこなかった。
青葉さんや日向さん、マヤさんにもそれとなく―――途中で冷やかされたりしながら(勿論適当にごまかして置いたけど)―――聞いてみたけど、やっぱり知らない。 決まって「自分が入った時からもう居た」って言うだけ。リツコさんにも聞いてみたけど、答えは同じ。 暇があったら調べてくれるって言ってくれたけど、流石にそれは遠慮した。そこまで迷惑は掛けられない。
となると残るのは加持さんしか居なくなったんだけど、でも加持さんはどういう訳かネルフ本部でめったに見かけないから中々捕まえられなかった。
だから夜中まで待ってまでして会って話をしたかった。
今思えばかなり怪しい行動だと思う。単純に考えればそこまでして知りたい情報でも無いし、明らかに怪しんで下さいって言って回ってるみたいなもんだ。
でも、その時はそんな事も考えつかない位余裕が無かったんだと思う。
ともかく加持さんに尋ねてみたけれど、結果はやっぱり同じ。
加持さんにお礼を言いながら内心では八方塞か、と溜息を吐いていたら、今度は加持さんの方から話を持ちかけてきた。
アダムに興味は無いか、と。
ミサトさんを部屋で寝かせて、笑いながら、でも真面目な目をしてそう言った。

加持さんが何を考えているのか、正直分からない。
僕ら―――ミサトさんや加持さんも例外じゃ無く―――が地下のアダムと言われる第壱使徒を見る事は禁じられてる。
それを見ようと言う。無論僕としては少しでも何か手掛かりが欲しいところではあるから有難い申し出ではある。
でも、その意図が見えない。 加持さんがそれを見ようという、そしてそれに僕を誘う意図が。
だから即答を避けて加持さんの顔を見る。そこにはいつもの人懐こい笑顔を浮かべた加持さんが居て。
相談しようにもシンは居ない。この間からいくら呼びかけても返事すらしない。
迷った挙句、僕は加持さんの申し出を受け取った。

結果、僕は何も覚えていない。
ミサトさんと加持さんが一触即発の状態になって、でも最終的には加持さんが大きな扉を開けたところまでは覚えてるけど、 それから先の記憶がぷっつりと無くなっていた。



もう何度目か分からない、記憶の消失。
でもそれは今までみたいな戦闘中に意識を失って、とかじゃなくて、何をするでもなく突如として起こった。
僕は怖かった。
今はその場の記憶が抜け落ちるだけだけど、その内今まで持って生きてきた記憶も失くして、最後には僕という存在が ある日何でも無かったかのように、元々居なかったかのように消えていってしまうんじゃないか。 そんなきっと現実には有り得ない、一笑に伏されてしまうような話。 だけど僕にはそれが僕のすぐ隣に迫ってきているようで、想像しただけでぽっかりと本当に何かを失ってしまったような錯覚に 襲われてどうしようもなくなってしまう。

自分という存在が不安。自分だけじゃ自分という存在の価値をきちんと認められない。
それには形ある物が必要で、目に見えないと信じられない。例えそれが偽りで、形だけのものであったとしても。
だから僕はアスカを抱いて自分の物を打ちつける。
アスカも同じような不安を打ち消す為に僕と寝る。
自分の存在を確かめる為に、誰かに必要とされてると感じ続ける為に。
たったそれだけの行為。でもそれが今の僕らには何事にも代え難く、失う事を耐えられない。

「んっ、んっ、あっあっ、ああっ……!」

寂しさを紛らわすだけの好意。
そこにはエゴと打算しか無くて、それを愛情だと無邪気に僕らは信じられない。
それでも自分を誤魔化して嘘で塗り固めていく為に、ただ黙って僕らは腰を振り続けた。















第拾六話 生に至る病











「はい。どうぞ。」
「……はい?」

ミサトさんから差し出された物を見て思わず聞き返してしまったのはしょうがない、と思いたい。

年も明けて2016年。いつもなら正月三箇日はコタツに足を突っ込んで、寝転がって毎年同じ様なバラエティ番組を見ているのだけど、 今年はそういう訳にはいかなかった。
今年と今までと何が違うかと言えばそれはネルフに所属してるかしてないか、という事であって、いつ使徒が現れるかも分からないのに 普通の会社と同じ様にお正月は休みとはいかない。
それでも流石に正月くらいは、という事なのか、使徒がいつ現れてもとりあえず組織として回るだけの人員を残して かなりの人が休みを貰ったらしい。ついでに言えば使徒の探知や各省庁との折衝なんかにエヴァのパイロットが 役に立つはずも無いので、当然僕やアスカに綾波さんもお正月は休みのはずだった。 僕としては退院してはすぐにミサトさんの仕事の手伝いで振り回されてまともな休みも少ないので、この正月はゆっくりと過ごそうと 決めてた。
にも拘らず気が付けば正月も同じ様な仕事をしてるのは何故だろう、と自問しても返ってくる答えは一つしかない訳で、 ミサトさんに強制的に連れてこられたというのがその答え。
何故自分が、とミサトさんに聞けば、

「家庭持ちを優先して休ませたのよ……」
「さいですか……」

と言われれば僕としても断るのは難しい。ミサトさんが休みならば反発のしようもあるけれど、そのミサトさんがいつもに輪を 掛けて忙しそうにしてるのでそれも出来ない。
それでも不満は残るからわざと態度に出してると、

「特別手当は付くわよ?」
「碇三尉、全力で書類整理に当たります。」

単純と言う無かれ。僕もミサトさんも半分わざとこんなやり取りをしてるのだから。でなければやってられない。
無論給料が増えて嬉しいのは事実ではあるけれども。

ともかく、こうして三日間働いた後、その分の代休を貰ってのんびりしてると 同じ様に代休を取ったミサトさんから呼び出された。特別手当をくれると。
んで、いくつか疑問は残るものの、喜び勇んで隣のミサトさんの家に行ったところでさっきの返事になる。

「何よ、これ?」
「あら、アスカは知らなかったかしら?」

ダイニングで隣に座ってたアスカはビールを飲んでるミサトさんから、今時珍しいポチ袋を受け取って、それをヒラヒラさせてる。 なるほど、アスカはまだそこまで日本の風習を知らなかったか。
ちなみにミサトさんは同じ柄の袋を二つ持ってて、その内の一つは僕に差し出されてたりする。
当然僕は純日本人で、その袋が意味するところも理解してる。
ですが、ミサトさん、僕は特別手当が貰えると聞いて来たんですが?

「お年玉?」
「そ。日本の子供は毎年大人から新年のお祝いにお金を貰うの。」

僕の疑問を華麗にするーしてミサトさんはアスカの疑問に答えた。それでミサトさん、僕の特別手当はいつ貰えるんでしょうか?

「だからさっきあげたじゃない?」

いけしゃーしゃーとんな事をのたまってくれる。ええ分かってましたよ。

「ですけど、どうしてアスカも何ですか?」
「あら、私は何事も公平がモットーよん?」

もう何も言うまい。ミサトさんの前で盛大に溜息を吐いた。

「良く分かんないけど、ま、有難く頂いとくわ。」
「ん。そうしといて。」

そう言ってミサトさんは笑った。
その顔は、何と言うか、今までと違って明るかった。
これまでのミサトさんの笑顔は顔は笑ってても何処かわざとらしくて、変な言い方をすれば笑い切れて無い気がしてた。
でも今のミサトさんはそんな暗い部分が無くて、何か吹っ切れた感じがする。

「……どうしたのよ、ミサト。」
「僕にも分かんないよ。」

アスカも同じような感想を抱いたらしく、こそっと僕に耳うちする。
ミサトさんはその間に冷蔵庫からまたビールを取り出して、あたかも水を飲むかのように胃に流し込んでた。

「ちなみにそれ何本目ですか?」
「ん〜と、八本目?」

ちなみに500cc缶だ。いくら休みで正月だからと言って昼間っからそれは人としてどうなんだろう?
ミサトさんという人間を半分本気で疑い出したところで、リビングに置いてあった電話が鳴った。
皆それぞれが携帯を持ってるから、半分以上置物と化してあった固定電話はコールしたかと思うと速攻で留守電に切り替わる。 ミサトさん、もうちょっと設定をどうにかしましょうよ?

『葛城、俺だ。』
「加持さん?」

珍しいな。何の用だろ?

『携帯に何度掛けても繋がらないんでこっちに掛けてみた。
ところで良い店を見つけたんだ。今日非番だろ?また一緒に飲みに行かないか?五時までに返事をくれ。じゃ、そういう事で。』

なるほど、ミサトさんが変ったのはそういう事ですか。加持さん、うまくやりましたね?

「『また』飲みに行こうだって。
まぁ〜ったく、加持さんもこんなビア樽体力だけ女の何処が良いんだか。」

ここに良い女が居ますよ加持さ〜ん、とアスカは僕の隣で体をくねくねさせてる。ま、別に良いけどね。
アスカを放っておいてコーヒーを口に運ぶ。そして何気無くミサトさんの様子をうかがって見た。
これでもミサトさんは結構ウブみたいだから顔を真っ赤にして否定するか、平静を装って否定するか、と思ったんだけど、 どうも前者みたいだ。

「べ、別にアタシと加持はそんな……」
「最近僕に仕事押し付けて帰る事が多いですよね?」
「う……そりは……」
「どうせ飲みに行って加持さんと熱い一晩を過ごしてるのよね〜?」

ニヒヒ、といやらしい笑顔を浮かべてアスカはミサトさんをからかってる。
からかうのはいいけど、暴走はしないで欲しいなぁ、なんて願望を抱きつつ僕はコーヒーをすする。

「い、いいじゃない!!毎晩毎晩アンタ達の声を聞かせられる身にもなりなさいよ!!」

そしたら、ホントにミサトさんは暴発してくれましたよ。いや、僕は別にそんなの暴露されてもいいだけどね。
チラッと横を見れば思った通りアスカが顔を赤くして口をパクパクさせてた。

「な、な、な……」
「知らなかったのかしら?ここの壁って結構薄いのよね〜。」

これを好機と見たか、ミサトさんは逆襲とばかりにアスカを責め立てる。
でも、ミサトさん。ミサトさんもまだ顔赤いですよ?

「シンジ君も可愛い顔してやる事はやるのねぇ。」
「ええ。アスカって結構可愛い声で鳴くんですよ?」

今度はミサトさんの声が聞きたいですね、て言ったらアスカに殴られた。
アスカのバカ力で殴られた頭をさすりながら、再開された二人の言い争いを聞きつつ思う事は、

「平和だねぇ……」






「と思ったら平和な時間は終わりですか……」

今度の使徒は異様だ。その単語が唯一にして全て。
ビルの陰に身を隠しながら、僕は目標の姿を確認する。出撃前から分かってたけど、やっぱりどう見てもその姿に違和感を感じる。
綺麗な球体に全体を覆うゼブラ模様。コンパスを使って描いたように新円で一切生物っぽい印象はないんだけども生物。 相変わらず使徒って奴は非常識な存在らしい。
何より気持ち悪いのは、その全身の模様。 白と黒の単純な二色で構成されてて、だからか黒い方が妙に強調されて目立つ。
どこまでも暗く、見ていると吸い込まれて奈落の底まで落ちて行ってしまいそうなイメージ。
そのイメージが嫌で、僕は一度使徒から目を離す。どうにも気持ち悪い。
気持ちを落ち着けて使徒の監視を続ける。
出現の仕方も異様ならばその姿も異様。そしてその目的も。


出現は余りにも唐突だったらしい。僕はその時居合わせて無いから良く分かんないけど、 突然第三新東京市内に現れたって話だ。
これまでの使徒も何処から現れるのかは一切謎だけど、それでも少なくともここに突然現れるなんて事は無かった。
第三新東京市とその周辺に張り巡らされたレーダー類に一切関知される事なく、本当に第三新東京市のど真ん中に現れた。
だから当然市民の避難なんて間に合うはずも無くて、本来なら相当な被害が出てるはずだ。なのにそうはならなかった。

使徒は一切動かなかった。
現れても全く行動せず、ただそこに佇んでるだけ。街が戦闘形態に移行しようが何もしない。
僕の知識の中では使徒は地下に眠ってるアダムと接触する為にここにやってくる。 そして今までの使徒はその目的を果たす為に何らかのアクションを取ってきた。 まあ、大抵は僕らとの戦闘になるんだけど。それでもエヴァが出れない時には地下に地下に、て意識はあったように思う。 あの砲撃してきた使徒みたいに。
だけどこいつはそれすら無い。本当にただ浮いてるだけ。それ以外に何もしない。
そしてだからこそ僕ら―――ひいてはミサトさん―――も何も出来ない。
一切情報が無いから下手に動け無いし、これがまだここから離れた場所だったら情報収集の為に何らかの行動を起こせるんだろうけど、 第三新東京市のど真ん中じゃ被害の事を考えるとどうにも動き辛い。
それでも何らかのアクションは起こさなければ。このままじゃこっちの方が疲れてしまう。

「ミ……葛城三佐。」
「何かしら、三尉。」

モニターのミサトさん―――頭を切り替えよう―――三佐は苛立った様に爪を噛みながら、視線は使徒から離さずに僕の呼び掛けに応えた。

「このままでは膠着が続くだけです。危険ですけど、何らかの行動を示すべきかと。」
「アタシも賛成。エヴァに乗り続けっていうのも結構疲れるのよね。」

もうすでにエヴァが出撃して2時間近く待っている。
アスカの言う通り、エヴァっていうのは何もしなくても乗ってるだけで結構疲労が溜まる。
僕に関してはそれが今回から特に顕著な気がする。正確には前回の使徒戦以降かな。
シンクロ率が上がるとそれだけ疲れやすいんだろうか。

「……」

綾波さんは何も言わなくてじっと無表情で使徒を見つめ続けてる。
母さんと瓜二つ、いや、もう母さんが若返ったって言った方がしっくりくるほど綾波さんは似ている。
母さんもあんな感じで感情をあまり表に出さなかったんだろうか。ふとそんな事を思った。

「……そうね。
まずは兵装ビルで攻撃を開始します。ただしこれは殲滅目的では無い為、エヴァ各機はその場で待機。 不測の事態に備えて各自警戒を怠らないように。
攻撃開始後目標が何らかの行動を起こした場合、各機別命あるまで個々の判断での行動を認めます。」

三佐の指示で意識を作戦の方に戻す。
綾波さんの事が気にならないと言えば嘘になるけど、今は意識から外しておく。 そっちにかまけてとんだヘマなんかやらかしたら堪らない。優先事項をはっきりさせて置かないと痛い目を見てしまう。

細かい指示と作戦開始は10分後、との三佐の言葉を聞いて僕は機体を指示されたポイントに動かした。



機体をべったりと壁に貼り付けて使徒を監視する事およそ10分。作戦開始が近づいてきた。
得体が知れない相手だけにひどく緊張してるのが自分でも分かる。水よりも粘度の大きいL.C.Lがやけに意識されてしまう。
最近になって疲れやすくなっただけじゃなくて、前みたいな高揚感もすっかり無くなってしまった。 興奮してると正しい判断が出来ないから好ましい事なんだけど、でもその事が逆に僕を不安にさせる。 いや、これが本来の状態なのかもしれない。不安をただ興奮する事で忘れていただけ。

「アスカ、綾波さん。そっちは準備はどう?」

その不安を隠して、残りの二人に確認を取る。 でも声の大きさなんて関係ないはずなのに、何となく小声になってしまった。

「こっちはOKよ。いつでもどーぞ。」
「問題ありません。」

いつもの様子と変わりない二人からの返事をそのまま三佐に伝える。
三佐は頷くと緊張した声で静かに告げた。

「作戦、開始。」




予め準備されてた兵装ビルの一門が開き、そこから数発のミサイルが飛び出す。
MAGIによって管制コントロールされてるらしいミサイルは、僕の視界の遥か先をその全てが寸分の狂いも無く使徒に向かって行った。

ミサイルが当たって爆発が起こる。問題は使徒がA.Tフィールドを展開したかどうか。 ミサイルで倒せるなんて甘い希望は持ってないから、僕が知りたいのはそこ。フィールドを展開する必要がない程 装甲は固いのか、それともフィールド強度に特徴があるのか。
装甲が固い場合は近接戦闘に、そうじゃない場合は前衛と後衛に別れて攻撃。

頭の中で当たった後の展開をシュミレートする。他にも色んな場合を簡単に想定しておく。 そうすれば事態が動いた時に自分の動き方を考えやすいから。
ミサイルの行方を見守る。当たった瞬間の様子を見逃さない様に。

「!!」

命中した。僕はそうだとしか考えられなかった。
だけど現実は違った。ミサイルが当たる直前、ただ浮遊してただけの使徒が突然姿を消した。
爆散するはずだったミサイルはそのまま通過して向かいにあったビルに当って、今度こそ激しく欠片を撒き散らす。
あるはずの物が消えた。まるで瞬間移動したように。
そして消えた直後にゾクッとした感覚が僕の背筋を襲った。 瞬間、僕は反射的にその場を飛び退く。何度も僕を助けてくれた、第六感とも言える感覚に従って。
後ろに向かって飛んだのとほぼ同時に、僕の隠れてたビルが傾く。
でもそれは途中から折れるとかじゃなくて、根こそぎ、て表現が一番適当。
一つじゃなくて見える範囲のビルが沈んで行ってて、それを見ても僕は何が起こったのか理解しきれないでいた。

「……!!」

着地する瞬間、また怖気にも似た直感が僕の中を駆け巡る。 だけど僕は何も出来ない。ヒトは宙に居ても飛ぶ事も出来ない。
ともかくすぐに移動しなければ。
その衝動に従って着地後すぐ地面を蹴るべく体勢を整える。そして着地と同時に僕は足に溜めた力を開放して地面を蹴った。 そのはずだった。

「何だよ、コレ……」

地を蹴ったはずの足は有り得ない事に地面に埋まって動かない。
辺り一面を覆う黒い影。そこに僕も、周りのビルも飲み込まれていく。

「何だよ、コレ……」

影は何もかも吸収してしまったかのようで、黒以外の色が見つからない。
それが気持ち悪くて、僕は手に持っていたハンドガンをひたすら足元の影にぶっ放しまくる。

「何だコレ……」

まるで底なし沼みたいに、僕は沈んでいく。埋まった箇所はもう動かせなくて、ハンドガンの弾さえも 穴すら開ける事が出来ず僕の目の前で見えなくなっていった。

「うぁぁ……」

膝まで埋まった足はもうすでに感覚は無くて、ただ寒い。
光も熱も無くて、僕という存在がそこにはもう無いような気がして。

「何だこれ何だこれ何だこれナンダコレナンダコレナンダコレ……」

ただ僕はその言葉を繰り返すだけだった。
何も理解できなくて、理解したく無くて、想像すらもしたくなくて。
腰が埋まり、胸まで埋まり始めて、ただ口だけが呪詛みたいに同じ事を繰り返すだけで段々僕は何をしているのかすら分からなくなってきた。
モニターから聞こえてくる声も、もうすでに雑音でしか無くて。テレビ放送が終わった後の砂嵐よりも意味を為さない。
極一部を除いて。

「シンジぃぃぃぃーっ!!」
「三尉!!」

その声だけで僕の心は満ち足りる。
パニックになった心が落ち着いていくのが自分でも分かった。
一つは僕を求めてくれる人の声で。
一つは僕を命をかけて守ってくれた娘で。
もう僕の感覚はほとんど無くて、でも声だけははっきり聞こえて。
僕の体も心さえも暗闇に飲み込まれていきそうな中、それは希望だった。
沈んでいくビルの上を跳ねながら徐々に近づいてくるその光を求めて、僕は埋まりかけた右腕を伸ばした。
後、少し。
力の限り、右腕が動く限り僕は前へと腕を差し出した。
だけどそれも急速に力が抜けて、なのにエヴァの腕は掌を前にして伸ばされてた。

「来るなぁっ!!」


その声が僕は理解出来なかった。
聞き慣れた声なのに、自分に最も近しい声なのに何処か遠い声。 どうしてそれが聞こえるのか。
理解出来ない。
分からない。
分かろうとしたくない。
ただ僕の―――シンの視界が捉えたのは金色の壁で弾き飛ばされる弐号機と零号機で。
それを最後に世界は正真正銘暗闇に閉ざされた。





……

………

…………



ああああああああアアああアアああああああアアアアアアああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!

頭の中で木霊する気持ち悪い叫び声を聞きながら僕は意識を自分から手放した。






僕は聡い子供だった。
自分でそう言うのも何だとは思うけど、事実そうだったと思う。 とは言っても別に幼い時からそう思ってた訳じゃない。 ただ今から振り返ってみればそうだったなぁ、と思う訳で。
でも聡いけど、世間的に見て賢い子だったとは思えない。
こう考えてしまう時点で僕も擦れてしまったんだなぁと思うけど、それはしょうがない事なのかもしれない。 それが大人になると言う事だろうから。


僕がどんな子供だったか。
振り返ってみればやっぱりさっきの聡い子というのが一番しっくりくるかもしれない。
僕の記憶は小学生から始まる。それ以前の記憶は皆無、というわけでもなく、ほんの少しだけ断片的に覚えてる程度。 例えば、母さんが死んだ後にほんの一時期だけ何て呼ばれてたか、とか。その時どんな感情を抱いたとかは覚えてはないけれど。
ともかく比較的簡単に思いだせるのは小学校に入学した頃から。
その時点でひらがな、カタカナは当然、漢字も多少すでに覚えてたし、学校の成績も大して勉強してないのに ―――算数だけは友達とゲーム感覚で競い合ってたけど―――とても良かったのを覚えてる。
負けず嫌いな性格の所為か、運動も人並み以上にこなせたし、その上―――こんな事を自分で言うのは本当に何なんだと思うけど ―――嫌味がなかったと思う。
褒められるのが嬉しかったからちょっとばかし努力して。だけどそれを自慢する事なくて―――今じゃすっかり変わってしまったけど ―――困っている友達はすぐ助けてあげて。
先生の言う事は一を聞いて十を知る、じゃないけどチンと打てばカンと響く、それくらい要領が良くて。 それに加えて礼儀正しさも忘れていない。
勉強が出来て運動も出来て性格も良くて礼儀正しい。今思えば完璧超人じゃないか。気持ち悪い。

欠点があると言えば、泣き虫だった事と―――正直だった事。
だけど、この正直だったのが今振り返ってみれば今の僕になった原因なのかなぁ……








    a nuisance―――







「うっ……」

軽い頭痛と共にシンジは目を覚ました。
両手で猫が顔を洗うようにして両目を擦る。この擦り方は幼い頃からの癖で、する度におばさんにからかわれていたが、結局 今に至るまで直っていない。もっとも、シンジ自身も直す気は無いのだが。
目を擦るに連れて意識が徐々に覚醒していく。それと共に喉が微かに痛めている事と、椅子に座っている事に気が付いた。

(あれ、何で?)

疑問に思い、理由を求めて周りをシンジは見渡して見た。が、一面薄暗くはっきりと見る事は出来ない。
ただどういう訳か、自分の少し前のスペースだけスポットライトが当てられているかのように明るくなっていた。
それが気になり、シンジは移動しようと思って席を立とうとする。 しかし、シンジの体は何かで縛られているかの様にその場から全く動く事が出来なかった。

「あ、あれ!?」

力が入らないのでは無い。足は動くし手も問題は無い。血管がはち切れんばかりにシンジは全身に力を込める が、どうしても椅子から立ち上がる事は出来なかった。

「眼が覚めたか?」

それでも椅子から立ち上がろうとシンジが悪戦苦闘しているところに、不意に声が掛けられる。
聞き慣れた声に顔を向けると、そこには同じ様に椅子に座り、普段から見慣れた顔の男が座っていた。

「こうして会うのは初めてだな?」

ニコリともせずに男―――シンはシンジに話しかける。
眼、鼻、口、体格。全てがシンジと同じで容姿には一欠けらも違いは見られない。 普段シンジが洗面台で見る顔と全く同じであるのに、シンにはシンジが時折気付く特徴が目立っていた。
すなわち、シンはシンジよりもゲンドウにより近かった。
冷たい感じを纏い、あまり人を近付けさせない雰囲気。 それが先日の墓場でのゲンドウの拒絶の姿とわずかに重なり、 それと共に自分の最後の記憶を思い出した。

「シン……!!」

頭に血が上り、立ち上がろうとするが椅子がそれを邪魔する。
先ほどよりも必死になって動こうとするが、やはり椅子はびくともしない。
シンはそれを黙って眺めていたが、やがてシンジが静かになると再び口を開いた。

「あの時、お前はあの二人を巻き込むつもりだったのか?」
「それは……」

シンの指摘に、シンジは二の句を告げない。
シンの口調には侮蔑も嘲りも、一切の感情が含まれておらず淡々としたもので、それがかえってシンジを落ち着けていた。

「それはお前も本意では無いだろう?」

気持ちは分からんでも無いがな。
そう言ってシンは一度話を区切り、シンジが落ち込むのを見ていたがそれを無視して再び話を続けた。

「それにパニックになったお前のままだったら、プラグスーツの非常モードに切り替えるのも忘れて 今頃地獄の釜に真っ逆さまだ。」

そんな事は無い、と反論したいところだったが、シンジにはその材料が見つからなかった。
自分というものを知っていると自負するシンジには、簡単にその結果が想像できてしまった。
だからシンジはシンに向かって頭を下げた。

「そっか……ゴメン。それと、その、ありがと。」
「気にする必要はない。その為に俺は居る。」

素っ気ない返事。だがそれがシンジの知るシンであり、また久々に見るその姿にシンジは少し嬉しくもあった。

「そう言えば、ここは何?んで、何で今の今まで呼びかけても反応もしなかったんだよ?」
「ここが何処かは俺も知らん。初号機が完全に飲み込まれた後、急に眠気に襲われて、気付いたらこの状態だ。
お前の呼び掛けに無視してたのは―――」
「あれぇ、どうして僕が二人も居るの?」

シンの返事を遮る形で聞こえてきた声に、二人はほぼ同時に顔を向けた。
視線の向こう、スポットライトに照らされたスペースのちょうど向いに当る空間に、二人と同じ様にして椅子に座った 声の主の姿が見える。
話すその様は随分と幼い。だが二人とも聞き覚えのある声と話した内容、何より微かに明りに照らされて見える 少年の顔は二人と全く同じものだった。

「……誰だ、貴様。」

驚愕に呆然として少年を見るシンジを他所に、シンは普段と同じ落ち着いた声で尋ねる。
だがその声色には警戒が多分に含まれ、細く絞られたその双眸が少年を強く睨みつけていた。
少年はその問いに簡潔に、だが先ほどの幼さを残さない冷徹な口調で応える。

「僕は君だ。」
「そんな禅問答に興味など無い。正直に答えろ。」
「そう言われても、他に答え様は無い。」
「君は僕、つまり君も僕らと同じ、僕の中にある一つの人格に過ぎないって事?」
「う〜ん……それが一番近いのかなぁ……」

顎に手を当て、首を傾げる様にしてシンジの問い掛けに考え込む。
その仕草はシンの時と違って見た目相応に幼い。

「という事は、ここは深層世界みたいな物か?」
「そうだ。だから君達それぞれに姿が存在するし、今みたいに視覚イメージを持って対話する事も出来る。」
「それってイメージさえ出来れば何でも作り出せるって事?」
「そこまで都合良くは無いけどね。
てか、君はマンガとかを読み過ぎ。」
「そのバカはほっとけ。」

バカよわばりされたシンジはシンを恨みがましく睨むがシンはその視線を無視して話を続ける。

「だが俺達は俺達しか存在しない。それは俺達が一番よく知っている。貴様なぞ知らん。」
「本当か?本当にそう言い切れるのか?」

少年の試す様な言い方に、シンは言葉に詰まった。
少年の思い通りの結果。だがそれに顔を綻ばせるでも無く、淡々と言葉だけを紡ぐ。

「君が知らないだけで本当はたくさんの君が居る。
そうでは無いと誰が言い切れる?
ヒトは自分の心の内を不思議な事に誰も知り得ない。 自分という存在を認識出来ているにも関わらず、それを完全に理解できていない。 ココロと呼ばれる場所が何処にあるのか。脳の中か、それとも心臓のある場所か。 どれだけ深く、どれだけ広がっているのか。場所も規模も、そもそもそんなものが存在するのか、それさえあやふやだ。
良くヒトは多面的であると言う風に言われるらしいな。
それは何故か?多くの「君」が一つの肉体の中に存在して、その時々の「君」が顔を出すからでは無いのか?
普段の多く目にする「君」という存在は、たまたま「君」の肉体を動かす位置に居る事が多いからでは無いのか?」
「その考えは面白いと思うし、賛同はするけどね。」

話を区切り、シンジは一つ溜息を吐いた。

「結局、君は何?目的は?
いや、君が誰かなんて何となく予想はついてるけど……」
「目的?君達と話をしたかった。それじゃダメ?
ああ、ちなみにもう動けるから。」

今思い出した、という様子で少年は付け加える。

「ゴメンね。僕が来る前にここに立たれると困るから。」
「ここ?」

そう言ってシンジはスポットライトの場所を指さす。
それに少年は頷いて肯定を示す。

「そう。僕が来る前にそこに立っちゃうと肉体の方が目を覚ましちゃうから。そしたらお話しできないでしょ?」
「貴様と話す様な事は無いんだが……な!!」

そう言いながら立ち上がると、シンはおもむろに少年に向かって座っていた椅子を投げ付ける。
一直線に椅子が少年に飛んでいき、シンジも、そして少年も突然のシンの行動に驚きの表情を浮かべる。
身を守る為、少年は庇うように両手を前に突き出した。そして次の瞬間にはシンジはやっぱりか、と顔をしかめる。
その視線の先には金色の壁。それに当って椅子は粉々に砕け散り、その破片の一つがシンジの方へと跳ね返った。
咄嗟に先ほどの少年と同じ様にシンジは手を前に突き出す。
そして、いつまで経っても衝撃は来ない。カツン、という軽い音がしてシンジが恐る恐る目を開けると、そこには少年の前と同じ 壁が出来ていた。

「A.Tフィールド……」
「ひどいなぁ……肉体は無いけど、当たったら痛いんだよ、結構。」

いかにも怒ってます、といった口調で少年はシンに向かって文句を言う。
だがシンジもシンも呆然として少年に対して反応出来なかった。
対する少年の方も、二人が何に驚いているのか分からず、二人に向かって問いかけた。

「何驚いてるの?二人ともそれが使えるの知らなかったの?あれだけ拒んでるくせに?」
「拒む?」
「そう。君達が言うA.Tフィールド。それは拒絶の壁。 何人たりとも犯す事の出来ない不可侵の領域。君達であれば使えても何らおかしい事は無い。」
「僕らが他人を拒絶している、と?」

そう返したシンジだが、少年の方は相変わらず不思議そうな顔を浮かべて、明るいスペースを隔てて正面に座る シンジの顔を見つめていた。

「どうして気付いてない振りをするの?
言ったはずだよ。僕は君だって。僕は僕じゃない。僕は君だから、君の事しか分からないんだよ?」
「分かりにくいな。何が言いたい?」
「何度も言っているだろう?僕は君の事しか知り得ない、と。」
「つまり、貴様は俺達の考えを代弁しているだけだと言いたいわけだ。」
「僕は誰も拒みはしないよ。第一、そんなんじゃヒトの世界で生きてなんていけない。
勝手な事言わないで。」
「本当に?」

そこで少年の表情が変った。
見た目の幼さに不似合いなまでに口元が歪む。そこに浮かんだのは嘲笑。少なくともシンジにはそう見えた。

「君って面白いよね。色んな物がごちゃごちゃと絡まっててさ。何処まで複雑なのか分からないよ。」

クスクスと自分と同じ顔をした少年が嗤う。それともヒトって皆そうなのかな、と独り言にしては大き過ぎる声で呟いた。
ねえ、と口元を歪めたまま少年はシンジの顔を見る。
声を掛けられたシンジも少年の顔を見るが、薄暗い空間の中、シンジには少年の目だけがやたらはっきりと見えた。
光の無い瞳。その中で揺れる何か。
怯えにも似た少年の瞳の中で揺れる表情が自分のものであると気付いた時、シンジの意識は少年の瞳に吸い込まれていった。













NEON GENESIS EVANGELION 
Re-Program



EPISODE 16




I am (not) alone!!














日が沈み、辺りが暗闇に満たされる。
日は沈んだとは言ってもまだ時刻は午後七時を回った程度であり、普段ならば大勢の人が街に溢れているはず。
だが今は第三新東京市全体が静まり返り、きらびやかなネオンサインは完全にその輝きを失っていた。
その中で巨大なビル―――兵装ビル―――群が立ち並ぶ街の中心付近だけが異常なほどの明るさを放っていた。
そしてその明るさの更に中心には不自然なほどに何も存在しない空白地帯が存在し、 四方から昼間の様に明るい照明が宙に浮いた球体を照らしだしていた。
眩し過ぎて直視できない程の強烈な光源。その光はゼブラ模様の使徒―――レリエルを照らしている。 にも関わらずその真下に広がる、そこにあったあらゆる物を飲み込んで行った影だけは不気味なほど存在を主張していた。

その周りを何機もの軍事用ヘリコプターが絶え間無く巡回している。まるでこちらも存在を主張するかの様に。
耳をつんざく轟音を響かせるそれをミサトは忌々しそうに見つめていた。

「日本政府の嫌がらせ、ですか?」
「引いては国連の、よ。―――ああ、ありがとう。」

レリエルの漂う場所からわずかに離れた兵装ビルの屋上に作られた簡易作戦本部の中で、マコトからコーヒーを受け取りながら ミサトは答えた。
技術部が今回の使徒を調査するのに伴い、ミサト達作戦部の一部も本部から外に移動した。
不測の事態に備える為、というのが建前だが、現場に出張ってきた自衛隊に対する示威行為も兼ねていた。 そして何より、ミサト自身現場を自分の目で見たかった、というのもある。
影に飲み込まれていき、その状況にも関わらず残りの二機まで救ってくれた自分の部下、そして同居人でもあるパイロット。 彼を何としても救い出す。その決意を一層固い物にする為にも、ミサトは自分の肌で状況を確認しておきたかった。

「国連の、ですか?」
「そうよ。ネルフは国連直属とはいえ、その実態は莫大な予算を消費する独立機関と言っても差支えないわ。 自分達の手の及ばない、ね。
それが他の国には面白くないのよ。勿論日本政府も。」
「葛城三佐。自衛隊から事態収拾の協力要請が来ています。」
「お断りして。ただしあくまで丁重に。余計な摩擦をこれ以上作る必要は無いわ。」

オペレーターからの報告にすぐさま指示を返すと、眼下に広がる巨大な影を見つめる。
遠く離れた場所からでもはっきりと分かるほど巨大な影。底なしの穴の様に何もミサトの目には映らない。

「葛城さん、時間です。」

腕時計を見ながらマコトがミサトを促す。
その声にミサトは穴に吸い込まれていく様な感覚から引き戻された。

「分かったわ。先に行ってて。」

了解、とマコトは簡潔に返事をすると一足先にミーティング場所へと向かった。
マコトが去ったのを確認して、ミサトはもう一度眼下の地上を見遣る。

(弱気になってるわね……)

あの影に飲み込まれたら二度と戻って来れないのでは無いか。手を差し伸べた方も。
先ほどの感覚がそう思わせているのだとミサトは当りをつけた。そしてそれを振り払うかのように二、三度頭を振る。

(絶対に取り戻す。)

折角人が受け入れると決心したのだ。その途端に失うなど、そんな事はあってはならない。
コーヒーを飲み終えたミサトは、睨む様にレリエルを見遣るとその場を後にした。





「影が本体?」

訝しげに眉を寄せるミサトに、リツコははっきりと頷いて見せた。
冗談の様に聞こえるが、そうではない事はリツコを見れば分かる。だが冗談にしか聞こえないのも事実。 だからかミサトを始め、ミーティングに参加した作戦部の誰もが一様に訝しげな表情を崩す事が出来なかった。
その反応を予想していたのだろう。リツコも気分を害する事なく説明を続けた。

「上空に浮かんでいる物体の持つエネルギーを観測したところ、これまでの使徒と比べて異常に密度が低いのよ。
加えて波長パターン青が観測されたのも影が現れた瞬間。」
「先の使徒の行動の瞬間を分析した結果、地面に影が現れるタイミングと上空の物体が現れるタイミングに マイクロセカンド単位でズレが生じている事が分かっています。なお、パターン青と影の出現タイミングは ナノセカンド単位まで一致しています。」

リツコに続いたマヤの説明を聞いて技術部の見解が正しいであろう事はミサトにも分かった。
だからと言ってすんなりと納得できるかと聞かれれば困る。

「常識では測れないって言うのは分かってるつもりなんだけどね……」

一つ溜息を吐いて、ミサトは眼で先を促した。リツコも軽く頷いて先を続ける。

「正確には影が本体の一部といったところかしら。
影の先はこちらとは全く別の空間が広がっていて、影はいわばこちらの空間とを結びつけるゲートの様な物。 使徒自体はその先の空間に居るか、あるいは……」
「あるいは?」
「あるいは……空間そのものが使徒。」




作戦部と技術部を中心として、使徒に対抗する作戦が練られている作戦本部からわずかに離れた所にアスカは座っていた。
簡易とは言え、それ相応の人数が入れるように本部はそれなりに大きく作られていた。 流石に壁を作るほど十分な時間は無かったが、それでも風を遮る様きちんとビニール製の幕が張られている。
だがアスカはその中には入らず、真冬の冷たい風が激しく吹きつける外でパイプ椅子に座っている。
長く伸びた前髪が俯いた顔を覆い隠し、両腕で自分を掻き抱きながら、震えていた。
視線の先は冷たいビルのコンクリート。だがアスカの眼は何も映し出してはいなかった。

小さく足音が聞こえて、やがてアスカの正面でそれが止まる。
人の気配にそっとアスカは顔を上げると、そこには白いスーツに包まれた手。その中には白い紙コップが握られていた。

「こんな所に居ると、風邪を引くわ。」
「そ、そうね……ありがと……」

力無く返事をすると、アスカは手を伸ばす。だが震える手には力が入らず、アスカの手の中からコーヒーが擦り落ちていく。
軽い音を立てて紙コップが転がる。中から零れ出たコーヒーがアスカの足元を汚した。

「ご、ゴメン、レイ。」
「別に良い。」

手短に返事をして、レイは手に持っていた自分用のコップをアスカに差し出した。
申し訳無さそうにアスカは、今度は落とさない様しっかりと力を入れて受け取る。 それでも力が入っていないのか、危うく落としてしまいそうになり、慌てて両手で支えた。
ミルクの入った薄茶色のコーヒーから白い湯気が上がる。だが断熱処理の施されたプラグスーツ越しには温もりは感じられない。
震える手でそっとアスカはカップを口元へと持っていく。 入れたてのコーヒーの熱さにわずかに顔をしかめ、それでもゆっくりとその温もりを味わう。
だがそれも一時的なもので、すぐにまた寒さがアスカの全身を襲う。

「……顔色が悪いわ。中に入りましょう。」
「ええ……」

返事はしたものの、アスカは動く気配は無い。
レイもしばらくアスカのそばで待っていたが、やがてアスカに動く気が無いと思ったのか、アスカの隣に膝を抱えて座り込んだ。 そしてそのまま何も言わず、ただ黙って時間だけが過ぎていく。
高所故の強風が二人に吹き付け、プラグスーツを着ているとは言え、二人の体温を奪っていく。 しかしそれでも二人とも動こうとはしない。
大人達は忙しそうに走り回り、簡易本部の中からは意見交換の声がわずかに漏れ聞こえてくる。

「……何やってんのよ。早く中に戻りなさいよ……」
「ダメ。貴女も一緒に。」

一緒に寒風にさらすのが申し訳無くなったのか、アスカがレイを促すがそれをにべも無くレイは拒否した。
そしてまた二人の間に無言の時間が流れ始めるかと思われたが、今度はレイの方から口を開いた。

「三尉は……必ず帰ってくる。」
「……どうやってよ……?」

肯定的なレイの意見に反してアスカの口から出てきたのは悲観的な言葉だった。
そこに普段のアスカの姿は無い。

「リツコの話を聞いてたの?あんな所からどうやって帰ってくるって言うのよ……」
「分からない……」
「根拠が無いなら期待持たせる様な事言わないでよ……」

今のアスカを支配しているのはただ一つ恐怖だけだった。
間近に迫る死の気配。アスカの目の前でシンジが消えて行った事と、その行く先の光も通さない暗闇がそれを助長した。
エヴァのパイロットである以上、いつだって死は自分の隣に居る。 それは今のアスカなら重々承知している事。だが昔の自分にはそれが分かっていなかった。 分かっている振りをしていた。そうアスカは考えていた。
分かった振りをして、現実の生々しい質感を持った感覚から遠ざかっていた。少なくともここに来るまでは。
だが日本に来て、遭遇した全ての使徒が否応無しにそれを教えてくれた。 そして、それがアスカの精神を圧迫していった。
だからアスカは誰かを求めた。このまま誰にも認められず消えていく。それに耐えられないから。 欠けたココロの欠片。それを埋め合わせる何かを見つける事も出来ず、その隙間にただ死の感覚が流れ込んでいくのが 怖かったから。
そして同じ様に何かを求めていたシンジと出会った。 それが更にアスカのココロを傷つける。
自らに向かって迫って来ていた死の恐怖。当然それはシンジにも降りかかる。
いや、アスカに対してよりもシンジに対して直接的に死が近づき、シンジよりも客観的にそれを観察してしまう為に、はっきりと アスカの意識に恐怖が刷り込まれてしまう。

「あんなバカ……居なければよかったのに……」

そしてそれ以上にシンジを失ってしまう恐怖がアスカにまとわりついてしまっていた。
寂しさを埋め合わせる為だけの関係。 どれだけ時間を共有し、どれだけ傍目には恋人同士に見え、どれだけ肌を重ねようと ただそれだけなのだとアスカはシンジ同様に自覚していた。
傷を舐め合うだけの、ともすれば溢れ出てしまいそうな感情に蓋をする、たったそれだけの愛情。
だが、それすら今のアスカは失ってしまいたくは無かった。失くしてしまえなかった。
失くしてしまうにはあまりにも暖かくて、あまりにも心地が良すぎて、 あまりにも、優し過ぎた。

「それでも……」

だからレイに対する返事も刺々しい物になり、それがアスカの余裕の無さを物語っていたが、レイは臆する事無く言葉を続ける。

「それでもあの人は帰ってくる……
いいえ、連れて帰るの。約束したから……」

その言葉にアスカは顔を上げた。
寒さの所為か、元々白い肌のレイの顔色は青白くなり始めていた。
それでもレイは動こうとしない。 膝を抱えて、整った眉は何かを睨みつけるかのようにつり上げられて力の籠った視線でじっと正面を見つめる。

「あの人を守る。そう約束した。なのに、消えそうになる瞬間にも私達はあの人に守られた。
だから…今度は私が三尉を助ける番。」

小さな声で、だがはっきりとレイはそう口にした。
加えてその後でレイは心の中で付け加えた。アスカも守る、と。
そしてキュ、と唇を噛みしめ、破れた皮からジワ、と血がにじむ。
悔しかった。シンジを守れなかった事が。
悔しい、と自覚するにはレイの心は幾分幼すぎて、だけども レイの中にあったのは確かに悔しさであった。

切欠はミサトからの命令だった。ヤシマ作戦の際に使徒の加粒子砲から初号機を守れ、というその場だけの命令。
その命令が今でも有効であるとはレイも思ってはいない。ならば何故自分はシンジを守ろうとする?
レイは自分に問いかけた。だが答えは出ない。
何故自分はアスカを守ろうとする?命令も無いのに。
そもそも二人は今の自分よりも強い。ならば守る必要も無いだろう。なのに何かしたいと思う。
何が出来るか分からない。でも何か出来る事があるはず。
理由も何も無い。ただレイはこうするのが良い、とロジックでは無く感情で考えた。
だから。だからレイはアスカのそばに居続けた。












     ―――fade away











後で気付いたのは、僕は人並み以上に努力はしてたらしい、という事だ。
らしい、というのは僕自身にそんな意識が無かったからで、その事に気付いたのも、 振り返ってみればよくその事で褒められていた記憶があるから。
何がそうさせてたのかはよく分からない。流石にそんな感情の記憶までは持ってないし、多分褒められるのが嬉しくて 頑張ってたんだろう、と原因に適当に当りをつけた。

「本当に?」

何処かからか、声が聞こえた。
その声は何処か楽しそうで、それと一緒にそれまで真っ黒だった景色が色を持ち始めた。
灰色の土壁、かなり年季の入ったサッシ、ふすまと欄間で遮られた座敷、敢えて傷を入れてある大黒柱。
全ての部屋がフローリングじゃなくて畳で構成されていて、その色が褪せてる。
決して立派じゃ無いけど、暖かさを感じさせてくれる家。
その全てに見覚えがあった。

「今日からここがシンジ君の家よ?」

掛けられた声に振り向くと、そこには懐かしい人が立っていた。
優しい笑顔で僕を見つめていて、その隣には男の人が同じ様に笑って僕を見下ろしていた。
間違い無い。ここは―――

「ようこそ、我が家へ。」

僕が過ごした、おじさんとおばさんの家だ。



おじさんもおばさんも、二人とも優しい人だった。
学校から帰ってくると誰かが待っていてくれる。鍵を持って学校に行く必要も無い。
ただいま、と声を掛けるとおばさんは笑顔でおかえり、と返してくれた。宛がわれた自分の部屋にランドセルを置いて、 すぐに宿題を始める。そうしているとおばさんが僕の好きなコーヒー牛乳をお盆に乗せて持って来てくれる。
えらいね、と言って邪魔をしない様にすぐにおばさんは部屋を出ていく。
僕はありがとう、と言ってまた宿題に向かって、それが終わると次の日の準備をしておばさんの所に行く。 そしておばさんとテレビを見ながらおしゃべりをして、暗くなると夕飯の準備を手伝って。
おじさんが仕事から帰ってくると、三人で一緒に晩御飯を食べる。
おじさんはニュースを見ながら、色々な、それこそとりとめのない話をしていた。
そこには、家族団欒があった。

別に父さんと母さんと暮らしてた時には無かった訳じゃない。
ただ、二人とも忙しかったからこうして家で三人揃って食べる、という機会がほとんど無かったと今の僕は「記録」してる。

楽しい生活。僕は、おじさんもおばさんも好きだった。
一緒に笑い、毎日を過ごす。
だから、僕は「良い子」であり続けた。

捨てられない為に。

僕は中途半端に大人びてた。
それが優秀な科学者だったらしい父さんと母さんの血なのかは分からない。 けれど、僕の理性の発達はかなり早かったと思ってる。
人が嫌がる事はしない、それは悪い事だと教えられたら二度とそれはしない。 勉強する事は正しい事だ、と言われればそれを信じて実行した。 やりたい事、欲しい物、例えそれがあったとしても後まわしにして、まずは周りが望んでる事から始める。自分の事は二の次。
だからなのか、僕は周りの空気を読むのに長けてた様に思う。
それは一を聞いて十を知る具合に周りの感情を読み取って、それが正しい間違った事じゃなかったら気を効かせてあげる。 あるいは自分で実行する。
歳を重ねるに従ってそれは顕著になって行った。
例えば「勉強ばかりだとダメだ」と言われれば、その意見が多数であるならば勉強の合間に友達と遊び、 「夕食は家族で取るものだ」と言われればそれに合わせて自分の計画を調整する。
そうやって僕は「周りが望む僕」を作り上げて行った。

捨てられない僕を作る。それは僕にとって至極当然の事だった。 そこに何の疑問も持たない。
何故なら僕みたいな子供を引き取るのがどういう事なのか、僕は理解していた。
妻殺しの男を父に持つ子供。それが事実かどうかは別として、世間はそういう風に見ない。 加えて突然子供を引き取るんだ。金銭的にも相当苦労しているに違いない、と僕は幼いなりに―――その割には子供らしくない けれど―――心配してた。事実、おばさんは良く「お金が無い」と漏らしていた。
だから僕は必要なもの以外は欲せず、おじさんとおばさんを困らせる事はしなかった。
そうする事が僕を引き取ってくれた事に対する恩返しなのだと、決して迷惑を掛けてはいけないんだと信じて。

だけどそう信じて疑わない程には、僕は子供であり過ぎた。
幸か不幸か、僕は正直過ぎた。周りを疑う事を知らなさ過ぎた。
「正直なのはいい事だ」「人を疑うのは良くない」と教えられたからそうなってしまったのか、 それとも元々そういう性格だったのかは分からない。多分前者なのだろう、と自分で自分を分析していたのを思い出した。 そうじゃなきゃ、親に捨てられ、周りの悪意に少なからずさらされてそういう性格になるはずがない。

その性格のせいで、僕は良く怒られた。おばさん曰く「バカ正直」なのだと。
例えば、誰かにとって都合の悪い事―――勿論、世間の倫理に当てはめれば「悪」なのではあるけれど――― を僕は「正直は良い事」の認識の元に正直に話していた。 それは誰か、特に大人の人にとって都合の悪い事が多くて、だからよくおばさんに怒られて、そしてそれが僕は理解出来なかった。
反発はしなかったけれど、それが僕にとっては物凄い理不尽で、とても納得できるものじゃ無かったと「記憶」してる。

「それが『今の』君の始まりなんだね?」

幼い頃はそういう事は少ない。だけど、歳を重ねて成長するに従って同じ様な「矛盾」を抱えた事態を目にする事は増えていく。
「人を傷つけるのは良くない事だ」と言いながら世界は戦争で溢れていて、ニュースは毎日殺人事件を伝えていく。
そこで傷つけられるのは人を傷つけようとしない人。なんて報われない。
「人を疑うのは良くない」と教える先生は平気な顔をして誰かを疑って。
世の中、人を疑わない人が騙されて苦労する。なんて報われない。
「正直な事は良い事だ」と教えた大人はその時点で嘘吐きで。
正直であろうとした僕を悪意を持った眼で睨みつける。なんて、なんて報われない。
誰しもがいくつもの顔を持っていて、違った顔を僕に見せる。
「一日に一つは善い事をしなさい」
言われて成し遂げた事は誰かにとっては善い事で、誰かにとっては悪い事。ああ、なんて矛盾。

世界は矛盾に満ちていて、世界は「そういうもの」だと僕も認識せざるを得ない。 じゃないと、僕は生きていけないと感じてしまったから。

「そうして君は捻れていった。」

誰しもがそうやって大人になっていくのだ、と誰かが言った。そうやって矛盾を受け入れていくのだ、と。
だけど僕は「作り上げた僕」を上書きできなかった。

「矛盾を正そうとすればまた新しい矛盾が生まれる。」

上書きできなければ、もう一つの基準が生まれる。 「周りが望む僕」である為には「嘘吐き」な僕が居なければならず、それが普段の僕を形造って、 でも僕の中には上書き出来ない「正直者」であろうとする僕が居る。
「正直者」は「嘘吐き」を許容出来ず、「嘘吐き」は「正直者」を疑い続ける。
「嘘吐き」は他人の不幸を喜び、それが普通なのだと囁く。
「正直者」は他人に優しくありたいと願い、優しくしてほしいと望む。

「結果、自分の不幸を喜んで、他人の同情を引く事を望む様になった。」

それが妥協点。
「嘘吐き」は不幸を喜び、「正直者」は優しくされ、だから自分も他人に優しく出来るのだと安心する。

「それと同時に拒絶は始まった。」

世界は悪意に満ちている様に思われて。
世界は害意に溢れている様に感じられて。
全てが僕を僕として認めてくれようとしないで、誰もが偽りの僕を求めていて、 僕が僕を見せようとすると「お前らしく無い」と言って疑いの目を向けてくる。
だから僕は演じ続けた。誰にも僕を見せず、誰にも本心を打ち明けない。
それが僕に望まれた役割。誰からも当てにされ、それに見合った結果を求める。
「良い子」「良い生徒」「手間がかからない」「優等生」
誰もが上辺の僕に安心し、本当の僕を見ない。
それは僕が周りを拒絶しているからだと、理解はしていた。
だけども問題は無かった。少なくとも僕という人間を見捨てる事は無いのだから。
少なくとも、僕の「家族」は僕を分かってくれる。それだけは信じていたから。
どれだけ世界は冷たくても、世界が例え僕を敵とみなしても、おじさんとおばさんは僕の味方で居てくれる。
何の根拠も無く、無意識にそう信じてたんだ。そう思う。
でもどうしてそんな風に信じていたのか、今となっては分からない。

父さんと母さんは僕を捨てたというのに。



おじさんもおばさんも優しい人だった。それは間違い無い。
だけども良い人、人として尊敬できる人だったかと聞かれれば僕は断言できる。NOだと。
二人とも、とりわけおばさんは色々と問題な人だった。
おじさんは頭に血が上ると短慮な所が顕著になるくらいだったけど、おばさんの方は 自分の為なら平然とおじさんに対しても嘘を吐くし、よくヒステリックにおじさんと喧嘩をしてたのを覚えてる。
僕が嘘に気付き始めたのは中学生になってからで、喧嘩が増えて来たのも同じ頃だった。
その頃には僕は世界はそういうものだと理解は出来ていたし、喧嘩に関してもよく仲裁に入っていた。

それでも僕はおばさんが好きだった。
僕を褒め、僕に注意を払ってくれるおばさんが好きだった。
子供を育てるのがどれだけ大変な事かは、不完全ながらも中学生の僕にでも容易に想像がついた。
三食毎日準備したり、授業参観に来たり、運動会に来てくれたり、病気の看病をしてくれたり、 色んな大変な事があったと思う。
そんな大変な事を何年も笑顔を絶やさず出来るのは、きっと僕の事を好きでいてくれるから。 そう信じて疑わなかった。
だから僕は家ではある程度僕で居られた。
その時が来るまでは。



おばさんは年に何度か、とてもヒステリックになる時があった。
普段はいつもと変わらないけど、ちょっとした事ですぐ泣きだしたり怒りだしたり、情緒不安定になる時があった。
そんな時は、僕もおじさんも黙って耐える。時に宥め、時には時間が経つのを待つ。 それはもうすっかり慣れた経験に基づいた行動で、僕らはどれだけ理不尽だと思っても、じっと待つ。 それが一番早い方法だと知っているから。

その日は雨で、梅雨独特のじめじめした空気がただ無意味に不快な日だった。
そんな天気に後押しされたのかは分からない。だけどもおじさんが帰ってくると同時におばさんのヒステリーは始まった。
原因は他愛も無い些細な事。今じゃそれくらいしか思い出せない。
口汚くおばさんはおじさんを罵り、それを聞きながら僕は一言もしゃべらず晩御飯を食べていた。
それはいつもと同じ、とまでは言わないけど決して珍しくない日常の一幕で。
問答無用で耳に入る罵詈雑言に僕は不快だったけど、口を挟むほどじゃ無かった。
だけど、おじさんの方はそうもいかなかった。
多分、おじさんも疲れてたんだと思う。仕事から帰って来ていきなりそんな状況なら誰だって堪らないだろうし、 もしかしたら梅雨の気候も原因かもしれない。
珍しくおじさんの方もキレて、とうとう二人で口喧嘩を始めた。

「大体いつも私がどれだけ苦労してアンタ達の食事を作ってるか分かってるの!?」
「じゃあお前は俺がどれだけ一生懸命お前達を食わせる為に頑張って働いてるのか分かってんのか!?」
「それはアンタの稼ぎが少ないからでしょ!!」
「フン!俺は知ってるんだぞ!!金が無い金が無い言いながら俺に隠れてへそくりしてるのを!!
そのくせシンジの養育費を自分の欲しい物に使ってるんだからな!!」

最後のおじさんの言葉に、僕は驚いて箸を止めた。
僕の養育費を二人は貰ってる。どうしてだか、その時まで僕はその、考えてみれば当たり前の事に思い至らなかった。
僕の知らない事実。その為に、迂闊にも僕は二人の争いに口を挟んでしまった。

「養育費って、何の話なの?」
「うるさいっ!!
金くらい貰ってるに決まってるでしょ!!口を出すんじゃない!!



この××××がっ!!!




そして、拒絶(僕)は完成した。











    a nuisance―――






「おばさんにも裏切られて、君の世界は壊れてしまいました、と。」

やや甲高い少年の声が聞こえ、シンは重い頭を押さえながら顔を上げた。
何かにかき回された様に、頭がクラクラし、気分が悪い。ともすればこみ上げて来そうな吐き気を堪えて、シンは 少年の方に目を遣った。
その少年は何が楽しいのか、満面の笑顔を浮かべて自分の足元でうずくまっている青年を見下ろしている。 そして青年―――シンジは両手で服が破れんばかりに胸元を握りしめ、小さく震えていた。

「貴様……何をした?」
「別に。大した事では無い。ただ記憶を覗かせて貰っただけだ。」
「記憶だと……?」

眼の前の子供は落ち着いた声で大した事では無い、と言ったが、シンジの様子を見ればそれが真実では無いのは確かだった。
言い方が癪に障ったが、それでもシンは冷静に少年の言った「記憶」を考えてみた。
少年の言葉に嘘が含まれていないと仮定し、シンジがああなった原因を探る。
だがシンがいくら考えてみても思い当たる節は無い。シンジには思い出すだけであそこまでおかしくなる「記憶」は 無いはずなのだ。
そこでシンは少しだけ仮定を変えてみた。嘘は言っていないが、全部を言ってはいない、と。
その途端、シンの中で一本線が繋がり、目を大きく見開いて弾かれた様に少年を睨みつけた。
そしてそれと同時に少年は、それまでの無表情から一変し、不思議そうな顔をして口を開いた。

「ねえ、他人に捨てられるのってそんなに辛いの?」
「貴様!!『俺』の記憶を見せたな!?」
「うん、だってこっちの僕の記憶ってつまんないんだもん?」

だから共有にしてあげた。
幼い子がするように、口を尖らせて平然と言ってのける。
その様に、シンは珍しく激昂して飛びかかろうと地面を蹴りつけた。
しかし、シンの体は再び椅子に縫い付けられた様にその場から一歩たりとも動く事は無かった。
先ほどシンジがしていたように、何処か動かないかと力を込めてもがく。だが首から上と腕以外、微動だにする事は無かった。

「ねえ、これってヒトの中でも珍しいの?」
「……ああ、珍しい事は珍しいが、それでも客観的に見ればもっと辛い出来事はあるだろうな。」
「ふ〜ん。」
「だが全ては本人がどう感じるかだ。そして貴様はやってはいけない事をした……」

そう言って項垂れるシンに向かって、だが少年はじゃあさぁ、じゃあさぁ、と無邪気な声で話しかけた。

「もっと辛い事を思い出させたらさ、この僕って壊れちゃう?」

うずくまるシンジを指さしながら、楽しそうに少年は笑う。
癇に障る態度と声。だが今度はシンは激昂するでも無く、小さな声で「出来るならな」とだけ返事を返した。

瞬間、少年の体が大きく弾け飛んだ。首が千切れんばかりに大きくねじ曲がり、顔面から地面に強く打ちつけられていた。
腫れ上がった口元を押さえ、それが先ほどまで地面にうずくまっていた青年の所為だと気付いた時、少年は戦慄した。
自分はA.Tフィールドを張っていたはずなのだ。そしてそれはヒトには到底破る事の出来ないものだと高をくくっていた。
だが現実はどうか。破られたのも知覚出来ないままに自分は殴られ、吹き飛ばされた。
そして少年が顔を上げた途端、シンジによって再び数メートルに渡って蹴り飛ばされた。
体が地面に叩きつけられると同時に腹を踏みつけられる衝撃に少年は目を見開き、そしてシンジの顔を見た。
寒気が少年の全身を包み込んだ。
シンジはほんのわずかさえ表情を変える事なく、振り上げた拳を躊躇なく振り下ろす。
無慈悲に、無感動に、無感情に、何度も何度も叩きつける。
その度に幼い頃の自分の体を持った使徒は砕かれた。
精神世界で肉体は意味を持たない。現に使徒の体は拳が叩きつけられる度に修復し、何も無かったかのように 元に戻り、そして再び砕かれる。
だが体が元に戻る毎に何かが壊れていく。
その何かが自分のココロであり、壊していくのは恐怖。
覗き見た記憶からその事に気付いた時、少年は叫んだ。
甲高い声と共に二人の間に金色の壁が出来、意味を為さないはずのそれは、今度はシンジを弾き飛ばした。
馬乗り状態だったシンジは仰向けに倒れ、そのまま動かなくなる。
少年は覚束ない足取りで立ち上がると、倒れたままのシンジを見る。 少年の位置からはシンジの顔は見る事が出来ず、動け無いのか動かないのか、分からない。 だがその事がより少年に恐怖を与えていた。

「あ…あ……」

うめきにも近い声を上げ、少年は逃げだした。
倒れたままのシンジに背を向け、一心不乱に足を動かす。
だがそれもほんの数歩だけで、突如として現れた腕に少年の逃避は阻まれた。
頭を鷲掴みにされ、視界は掌で遮られて何も見えない。 それでも無事だった聴覚が受け取った声は、低く体を震わせた。

「お前がここに居るのは邪魔でしかない……」

だから消えろ。
その言葉通りに、現れた青年の掌の中から少年の姿は消えていった。







「作戦開始30分前です。パイロットはシンクロを開始してください。繰り返します……」

モニターから聞こえてきたマヤの声に、アスカはゆっくりと目を開けた。 軽く顎を上げて、深呼吸をする。が、気分は晴れない。それでも慣れた手付きでシンクロを始め、 数瞬後には正面に漆黒が広がった。
闇よりなお暗い使徒の影。その色はアスカの脳裏に容易く死を連想させた。
二、三度軽く頭を振ってその想像を振り払おうとするが、意識すればするほど頭にこびり付いて離れない。

(それだけ不安って事か……)

レイは助ける、と断言したがどんな顔をして待っているんだろうか。
そう思い、アスカはそっと零号機との通信モニターを開いた。 こちらが通信を開けば零号機側もモニターが現れる為、そっと開いても普段と何も変わりはしない。 頭では分かっていても、どうしてかアスカは理由が分からぬままそうしていた。

モニターにレイの姿が現れる。先ほどのアスカと同じ様に目を閉じ、じっと作戦の開始を待っているが、 そこには、少なくともアスカの目には不安や焦りといった感情は見られなかった。
やがて眼が開き、落ち着いた表情でモニターの向こうのアスカを見遣った。

「何……?」
「いや……アンタは不安じゃないの…?」

アスカはそう言いながら、リツコに受けた説明を思い出していた。


現存する全てのN2爆雷投下による爆発エネルギーを利用しての初号機救出作戦。
とても救出作戦とは思えない方法に、それを初めて聞いたアスカはリツコに掴みかからんばかりだった。
そんな事をすれば初号機は大破、中のシンジもどうなるか。それは容易に想像がついた。
そして本気で殴りかかりそうなアスカを止めたのは、ミサトだった。自分より相当力の強いミサトに羽交い絞めにされ、 思い切り睨みつけた。 また自分達を見捨てる作戦を取るのか。
その非難を込め、首を捻って頭上のミサトの顔を見た。
そこにあったのは、いつかの冷たい視線では無く、眉間に皺を寄せてじっと耐えるミサトの姿だった。
アスカとて分かってはいた。これが現状ではベストなのだと。でなければミサトも黙ってはいまい。 少なくともここ最近のミサトを見ていて、冷静になったアスカはそう思えた。
気勢を削がれた事もあるが、ミサトの表情を見てアスカも何とか堪える。が、冷静になった分余計にアスカは不安を感じた。
「初号機もシンジ君も大丈夫。」とのリツコの言葉だったが、それもどこまで信じられるか。 すがりたいはずのその言葉も、アスカの不安を拭ってくれる事は決して無かった。

ただでさえ不安な作戦だったが、更にアスカを不安にさせる報告が入ったのは今から1時間前だった。
作戦に使われるN2が予定の半分しか揃わない。
パワーバランスを気にした各国が出し渋ったのが原因だったが、これには流石にミサトもキレた。 それでも国連直属の機関とは言え、所詮は三佐。政治的な話に関わる事など到底不可能だった。
ゲンドウが交渉に入ったが、残された時間はすでに無かった。

爆雷のエネルギー不足を補う為に提案されたのがエヴァの活用だった。
元々街への被害を抑える為に零号機、弐号機のA.Tフィールドを利用する予定だったが、 爆雷のエネルギーをより有効に使う為にA.Tフィールドで爆発のエネルギーに指向性を持たせる様に変更された。
だが、それは作戦がより高度なものへと変化した事を意味する。
着弾のタイミングをシビアに合わせ、初号機を引っ張り上げる為に瞬間的にフィールドを切らなければならない。 その爆発に耐えられるのか、耐えられても初号機を引っ張り上げる事が出来るのか、そもそも空間を破壊して初号機は存在できるのか。
懸念を上げればキリがないが、それでも作戦は承認された。


いくら大学を卒業したと言ってもそれだけで専門的な事が分かるわけがない。 何より、使徒という未知の存在に対して今自分が知り得る事はあまりにも少なく、だからリツコの言葉を信じるしか無い。
だが、信じるしか無いと分かっていても落ち着かないのもまたアスカにとって事実だった。

「……私はやれる事をやるだけ。」
「そんな事は分かってるわよっ!分かってるけど……」

そう言いながらアスカはモニターから目を逸らした。
作戦開始を前にして、アスカは自分を持て余しているのを自覚していた。このままじゃダメだ、と分かっていてもどうしようも無い。 いつから自分はこんなに弱くなってしまったのか。
ギリ、と歯が軋む。そしてレイはそんなアスカに対する言葉を持たなかった。


作戦開始まで10分。そしてそのリミットはプラグスーツの生命維持装置の限界をも示す。
その10分を切った時、変化は唐突に訪れた。

「何が起こったの!?」
「分かりません!全てのエネルギーメーターが振り切れています!!」

地震の様な轟音と共に影だった部分が盛り上がり、暴れ狂うかのように激しく波打つ。
比喩では無く、現実に影に亀裂が入り、紅い断面が姿を現した。中央付近で発生した亀裂は 波打った場所を中心に影全体に同心状に広がっていった。

「まさか……初号機!?」
「そんな!!初号機のエネルギーはゼロなのよ!?」

ミサトの呟きをリツコは即座に否定する。この場に置いてある意味一番期待できるのは初号機の暴走。 事実、リツコの頭にも一瞬それがよぎった。
だが有り得ない。どんな生物や機械にしても活動するにはエネルギーが必要になる。 しかし最早初号機の内蔵電源はほとんど残っておらず、ましてや使徒相手にどうこうできるはずは無かった。
それでも現実はそれを否定する。
上空に浮かんでいたゼブラ状の球体。地面が波打って亀裂が走るのと共に、そのゼブラ模様が消え、漆黒の球体へと変化する。 ブチッ。何かが切れる様な音がミサトには聞こえた気がした。
モニターの向こうにある、すっかり変わってしまった使徒。その頂上付近から一本の腕が突き出される。
そこから紅い何かが噴き出す。霧状になって雨の様に降り注ぐ使徒の体液が、風に乗って街を紅く染めていった。

「何よ……これ……」

アスカの視線は、切れ目から現れた鬼神に注がれていた。
腕に続いて現れたのは見慣れた頭部。その姿はまさに鬼と呼ぶのが妥当で、救助対象だった初号機のその様に、 誰も差し伸べる手は持たなかった。
咆哮を上げるでも無く、静かに初号機は自身を覆う繭を切り裂いていく。 その場に居た者の耳を打つのは、降り注ぐ紅い雨の音だけ。
何物も寄せ付けない初号機のまとう雰囲気は、全てのモノを拒絶する。
そしてアスカにはそれが自分に向けられたものの様に感じられた。







     ―――fade away




















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