「ふぅ……」
溜息を大きく吐き出して、冬月は目頭を押さえた。
目元にずっしりとした重みを感じ、指先に力を入れて念入りに揉みほぐすと、続いて肩に手を当て、首をゆっくりと回す。
その途中で針を刺す様な鋭い痛みを感じ、冬月は顔をしかめた。
(俺ももう歳だな……)
若い時はそれなりに無茶もしたが、もう一晩徹夜しただけで体にガタが来る。
「老いは恥では無い」との言葉に冬月も異論があるわけでは無いが、昔みたいに動けないのを時折情けなくも感じていた。
(碇ももう少し労わってもいいのではないか?)
考えてみればもうすでに60前なのだ。定年間近の老兵にここまで無茶をさせる奴もそうそう居ないだろう。
なのにあの男と来たら組織の内政に関してはほとんど俺に任せっきりでは無いか。
奴に組織の実務をこなさせるのは無理だとは分かっている。
もし自分の仕事をやらせたら恐らく一月で職員の10%が辞めていくに違い無い。
それでも「問題無い」とか言いそうではあるが。
だからこその自分であるし、その自覚もある。
が、下からの不満の緩衝材の気持ちも少しは考えてもいいのではないか。
一度愚痴りだすと、次から次へと出てきて止まらない。
冬月とてゲンドウが遊んでいるわけでは無いので、決して口に出しはしないが。
「ん?帰ってきたか……」
入口のドアが開き、ゲンドウが入ってくる。
冬月の声に何の反応も示さずそのまま自分の椅子に座ると、ゲンドウは机に肘を突いていつものポーズを取った。
「老人達は何と言ってた?」
「……特に何も無い。いつもの様に愚痴を零すだけだ。」
それしか仕事が無いからな。
侮蔑交じりにゲンドウが吐き捨てるのを見て、冬月は僅かながら溜飲が下がる思いを感じた。
他人には分かり辛いが、それなりに付き合いの長い冬月にはゲンドウが疲れているのが見て取れた。
肉体的に、というよりは精神的に。恐らくは相当に長々と愚痴を聞かされたのだろう。
「A計画の遅れはその分E計画の方で取り戻している。
ダミープラグの開発とて順調だ。老人達は何が不満なんだ。」
いつもより口数の多いゲンドウの様子に、冬月は会議の様が容易に想像できた。
揚げ足を取るように、細かい所をネチネチと責め立てる。
反論しようものなら、口を慎めだの、立場を分かっているのかだのと喚き立てる。
恰幅だけは立派だが、あれではただの子供だ。
そう思わないでも無いが、冬月から見れば愚痴を零せるゼーレが羨ましくも思えたりする。無論、これも口には出さない。
「そう言ってやるな。奴らとて口しか出せんのだからな。」
先の使徒に関する情報の漏洩は、ゼーレにとっての大失態だった。
人の口に戸は建てられないが、情報の拡散を食い止められず、ましてそれをゲンドウによって知らされたのだ。
挙句、実際にパイロットにまで危害が加えられそうになった。
ゼーレにとってはゲンドウの息子の命など大した価値など無いが、それがサードチルドレンの命となると大きく話は変わってくる。
イレギュラーはどんな小さな物であっても取り除かれなければならない。
それはゼーレにとっては誇張でも何でも無く、純然たる事実であった。
当然幾重にも防衛線は張ってあるが、それが万一にも破られた時はあっけなく崩壊する。
何年も、そして莫大な資金を掛けて推進してきた計画が、だ。
それほどまでに危うい計画であり、細心の注意を傾けて遂行されている。
そのイレギュラーがゲンドウと、偶然とは言えサードチルドレンの手によって取り除かれたという事実は、
ゼーレのプライドを大いに傷つけたと共に力関係に微妙な変化をもたらした。
元々計画の実行者はゲンドウにあったが、あくまで立場はゼーレが上。
ゲンドウはあくまで協力者であり、全ての権限―――首の挿げ替えも可能―――は自分達が握っているとの意識があり、
事実彼らにとってはそれが真実であった。
それが自分達の尻拭いまでされたことにより崩れ、ゼーレトップであるキールの評価も変った事を敏感に感じ取っていった。
その後の処理は無事に行う事が出来、大事には至らなかったが、自らの無能さを露呈してしまった事は変わりようが無い。
ゲンドウの存在を今更ながらに再認し、自分の立場が実は危ういのでは無いかという疑念に囚われ、
ゲンドウと自分らの立場の違いを示そうとするが、ゲンドウが何も失態を犯す事が無い為、口しか出せずにいた。
「所詮金と権力のみしか信じられん小物だよ。
他人を蹴落とすしか頭に無い連中だ。付き合う価値は無い。」
興味は無いとばかりにそうとだけ言い放ち、話は終わりだ、と机の上の書類を手に取って読み始める。
冬月の方も、そうか、とだけ返事を返して自分の仕事の方に戻る。
時計を見ればすでに日付は変わっていた。本部職員も最低限の人員を残して帰っており、閑散としている。
なのに自分は今日も徹夜か、と考えて冬月は少し鬱になった。
「そういえば、例の作業は今日だったか?」
「ああ。今ドグマでレイが行っているはずだ。」
ワイヤーに捕まって、零号機はセントラルドグマへ降下していた。
右手はワイヤーに、左手には槍を持って。
メインシャフトを照らしだす灯りの数も減っていき、次第に暗闇が濃くなっていく。
洞窟の奥深くに住む魔王の元へ行く勇者みたいだ。
先日読み終えたファンタジー小説を思い出し、レイはそんな事を考えた。
辺りは真っ暗で、自分もその闇に飲み込まれてしまうのでは無いか。
だが恐怖は無い。そんな想像をしてみてもレイは何の感情も抱け無かった。
最深部に到着し、零号機の正面奥深くに白い何かが存在を示していた。
濃い闇の中でぼんやりとしか見えないにも関わらず、存在だけははっきりと知覚出来る。
人は闇に恐怖を覚えるという。ならばあの存在はその中にある一条の
光に見えるのだろうか。
過去に読んだ数多の本の内容からそんな推測を立ててみる。
だが想像に過ぎないそれは、レイに何ももたらしてくれなかった。
所詮自分は作られた存在。
どんなに物を与えられ、どれだけヒトらしく知識を身に着けようと根本からヒトでは無いならばその行為は無意味。
自己の存在が明らかになるわけでも、自分に実感を、ここに居るという確かな証を与えてくれるわけでも無い。
ならば何故私は素直にあの人の言う事を聞いているのか?
何故私はそうまでヒトらしく見せる努力をしてまで計画に従うのか。
無意味だと分かっているのに。
創造主だから?
違う。断じて、それは違うと思う。
つまるところ、私は知っているのだ。その計画の向こうに私が欲している物があるという事を。
私に光をもたらしてくれるのだと。
だから私は自分の意志で計画を進める。
全ての行為に意味を与える為に。
血で濡れたかの様に深紅に染まった槍を手に零号機は奥へ足を進める。
ぼやけた存在だった白い何かは、零号機が歩を重ねる毎にその輪郭を露わにしていった。
巨大な十字架に磔にされた巨人。両の掌をゴルゴタの丘で原罪全てを背負って処された罪人の様に
背後の十字架に縫い付けられ、その下半身は存在しない。
零号機は、その巨人の前に立つと、両手で槍を掲げる。
それに呼応するかの様に槍は一本から二股に分かれ、そのまま零号機は巨人の胸目掛けて突き刺した。
小説の主人公も槍を装備して戦い、最後には魔王をその槍で突き刺して世界は救われた。
それをなぞるかのように、零号機の持つ槍はあっさりと胸を貫いてしっかりと十字架に固定される。
だが、零号機の持っていた槍は神殺しの槍であり、貫いた相手は全ての始祖。
フィクションの様に世界が救われるとは限らない。
それでもレイにとっては救いに繋がるものであり、事実、槍を突き出した時のレイの口元は歪んでいた。
第拾五話 嘘と、沈黙
「どうかしら、シンジ君。零号機の感想は?」
「なんでしょう……何か変な感じです。」
シンジから返ってきた答えを聞いて、リツコは手に持ったノートにペンを走らせる。
そしてマヤに向かってデータの確認を取ると、重ねて尋ねた。
「具体的に答えられるかしら?」
「ん〜……何て言いますか、その、『薄い』感じですね。」
「薄い?」
「初号機だったらもっと感覚がはっきりしてるんですけど、零号機だと自分の機体じゃ無い所為か、
感覚が鈍いって言うか、現実感が無いって言うか……」
脈絡無く思った事をシンジは口にするが、それら全てをリツコは書き留めていった。
元々が感覚的な物でしかない為、リツコとしてもシンジがはっきりと言葉に出来ない事は分かっており、
気にした様子も無く、手を動かしながら計測されたデータの方に目を遣る。
「やっぱり初号機ほどのシンクロ率は出ませんね。『薄い』っていう言葉もここから来てるんでしょうか。」
「かもしれないわね。普段よりエヴァとの繋がりが弱いでしょうから。
でも十分な数字ね。」
「流石シン…三尉ですね。」
シンジを名前で呼びそうになってマヤは慌てて言い直し、ちらりと横目で後ろを見遣る。
だが視線の先の人物は、黙してガラス越しにエヴァを見つめており、マヤに気付いた様子は無い。
リツコはシンジにテスト終了を告げると、採り終えたデータをまとめに掛かる。
「これで実用化のメドが付くわね。」
必要な物だけを取り出し、別のフォルダにデータを移す。
他の物は別の技術部職員に渡し、マヤと二人で整理しながらリツコが呟くと、マヤの表情が曇った。
「まだ辛いかしら?」
「そうですね……正直、まだ自分の中で折り合いが着いて無いです……」
「今ならまだ止める事も出来るわよ?」
そうリツコは告げたが、マヤは俯き気味ながらも頭を振った。
「いえ、やります。ダミープラグが完成すれば、戦いも少しは楽になると思いますし……」
子供達が無理に戦う必要も無くなりますから。
そう言ってマヤは無理やり笑顔を作った。
リツコはそんなマヤに微笑み返すが、内心では溜息を吐いていた。
(何も分かって無いのね……)
もしダミープラグが完成すれば何が起こるのか。
勿論ダミープラグはマヤに話した様な使い方も出来るし、完成後も当分はその使い方になるだろう。
だがそれはそれで問題が起こるだろう事を、リツコは予想していた。
そしてその可能性が高いであろう事も。
(どっちが先に壊れるかしら?)
エヴァに執着する二人。表面上は歓迎するだろう。少なくとも一方は。
だがそれによって歪んだ欲望がどう内で暴れ狂うか。
最も、リツコとしてはパイロットに知らせるつもりも毛頭ない。
知らなくてもいい事は無理に知る必要は無いのだから。
「赤木博士。」
それまで後ろで黙ってテストを見ていただけだったミサトが声を上げる。
テスト中も異様な雰囲気を纏ったままで、その様子はテストを行う他の技術部員にも伝わり、余計な緊張を生んでいた。
マヤも普段はシンジをそのまま「シンジ君」と呼ぶのだが、ミサトの雰囲気がそれを躊躇わせていた。
ミサトの様子がおかしいのはリツコも最初から気付いていた。
全ての感情を排したかのように冷たくガラスの向こうのエヴァを見つめ、テストの最中も声を出す事なくじっと視線を固定させたまま。
(何年ぶりかしら……)
リツコにはその目に見覚えがあった。
初めてリツコがミサトに会った日。その時の目に酷似している様にリツコには思えた。
「赤木博士。」
そんな事を考えて返事をしなかったからか、ミサトはもう一度リツコを呼ぶ。
その声と隣のマヤから肩を揺すられ、リツコは気を取り直してミサトに向き合った。
「何かしら?」
「結果はどうかしら?使えそうなの?」
「ええ、流石に初号機ほどのシンクロ率は出なかったけど、通常戦闘は十分可能なレベルだわ。」
「いいわ。これで非常時の選択肢が広がるわ。」
機体相互互換テスト。
そう銘打たれたテストは、その目的を単にパイロットと機体の互換性を調べる事としていた。
これまでエヴァは専用機とされ、事実チルドレン以外のパイロットでは起動すら出来なかったが、
チルドレン同士の機体交換テストは行われていなかった。
今回はそのデータ収集と可能性の模索、という風に技術部、作戦部、そしてチルドレンに対して説明されている。
そしてそれは作戦部長であるミサトでさえも例外では無かった。
「次はアスカかしら?」
「ええ、アスカには初号機に乗ってもらうわ。」
レイはまた後日ね、と付け加えて準備の整った初号機の実験開始を告げた。
それと共に実験室内も緊張が高まり、またミサトもリツコから初号機へと視線を移した。
口調こそ今は穏やかだが、初号機を見る視線は「見る」と言うよりも「睨む」に近しく、
とても味方機に送る目線とは思えない。
だが、リツコはその事を口にせず、別の話題を振った。
「でもよくアスカが弐号機以外の機体に乗る気になったわね。てっきり駄々をこねると思ったけど。」
「初号機だからでしょ。」
しかし、それでもミサトから返って来たのは端的で温かみの無い返答だった。
「どういう事かしら?」
「別に。ただ三尉の機体だから興味があるだけよ。」
そう答えたミサトだったが、それだけでリツコはシンジとアスカの関係に気付いた。
そしてミサトとアスカの関係も修復できていない事も。
「ミサト、この間も言ったけど、パイロットの管理も貴女の管轄でしょ?」
その二つの意味を込めてリツコは尋ねたのだが、内心ではリツコにとってどちらも大した問題では無い。
リツコだけでなくミサトも二人がくっつく可能性を指摘していた上に、そうなった場合、シンジにどういう変化が起こるかについても興味があった。
ただ「何も知らない」技術部長の顔としてシンクロに妙な変化が起こる事は避けたいという事と、
ミサトの友人としての立場から関係の改善を忠告したに過ぎない。
だが、ミサトは冷徹な仮面を崩さない。
「赤木博士、早く実験を次へと進めて下さい。」
ミサトの声にリツコが室内を見回すと、皆一様に指示を待ってリツコを見ていた。
リツコは一つ溜息を吐くと、実験の続きを指示した。
「やっぱ初号機って言っても変わんないわね。」
アタシはプラグ内を見渡しながらそう呟いた。
まあそんなもんだろうとは思ったけど。何しろまだシンクロも何もしていないのだ。
ただ単に初号機がいつも使ってるプラグに乗ってるだけ。これで何か違和感でも感じたらそれこそ問題だ。
「しっかしねぇ……」
アタシがこういう試験に進んで参加するとは思いもしなかった。
きっと昔の、ホンの二、三年前のアタシだったら絶対に弐号機以外に乗ろうとしなかっただろうし、
誰かを、例えそれがレイであっても弐号機には絶対に乗せなかっただろうと思う。
何がアタシを変えたのか、正直アタシにも分からない。
単に年月がアタシを少しは大人に変えたのか、
それともいつまでも終わりの無い、変わらない日々にアタシが疲れ果ててしまったからだろうか。
まあ、ただ単にシンジの機体だから初号機に乗ろうと思ったんだけど。
「それじゃアスカ、準備はいいかしら?」
「はーい。いつでも良いわよ。ちゃっちゃと始めちゃって。」
モニターから聞こえてくる音がにわかに騒がしくなってきた。
いよいよ初号機とのシンクロが始まる。プラグの壁が色取り取りに光って、次の瞬間にはまた外の様子を映し出していた。
「どうかしら?何かいつもと違う?」
リツコに言われて意識を集中させてみる。
機体が違うのだから違うのが当然と言えば当然で、違和感をたっぷりと感じる。
だけどアタシだって伊達に長くエヴァと関わって無い。その違和感の中からリツコが聞きたいであろう事を答えてやる。
「そうね。神経接続が弱いのかしら。シンクロしてるのは分かるんだけど、完全にアタシとは別って感じるわ。」
「別?」
「普段はシンクロするとエヴァがアタシになった感じがするの。アタシがエヴァになってるのかもしれないけど。
でも今はアタシはアタシで初号機は初号機。遠くから眺めてるって言えば分かりやすいかしら?」
だけどそれだけじゃ無い。何か別の事も感じる。
どこかで感じた事のある感覚。匂いって言えば語弊があるけど、似た雰囲気はある。
「三尉はレイの存在を感じるって言ってたけど、アスカはどうかしら?」
「三尉?」
「シンジ君の事よ。」
そう言えばあいつ、三尉なんだっけ。いっつもバカな事ばっか言ってるから忘れてたわ。
で、バカシンジの事が頭に浮かんで、分かった。
さっき感じた雰囲気はシンジだ。
シンジの思考。シンジの癖。シンジの匂い。
あの日、肌で感じたシンジの存在と同じ物が―――ちょっと弱いけど―――ここにはある。
……
やばい、あの夜の事を思い出しちゃった。
今思い出しても恥ずかしい。色んな意味で。
ああ、暑い。自分でも顔が火照ってるのが分かるわ。
こんなところ他の人に見られたら……
「どうしたのかしら、アスカ?」
見られた。しかもニヤニヤしながら。
……リツコの奴、分かっててあんな質問したわね。あの年増、覚えときなさいよ。
「何でも無いわよ!!」
心の中だけでありったけの呪詛を吐き出す。いつか絶対寝首掻いてやる。
恥ずかしさから逃げる為に集中。
シンクロするには集中力が大切になる。そしてそんな訓練を10年近くやってきたアタシにとって集中する事は難しい事じゃ無い。
深く、もっと深く。深海まで潜りこむ様にアタシはシンクロに意識を集中させる。
もっと、もっと深く。アタシは念じる。
普段弐号機とシンクロする時はこんなに集中する必要は無いけれど、これはアタシの機体じゃ無い。
だからいつもよりずっと集中させないといけない。
でもホントはシンジをもっとはっきりと感じたいから、アタシがそうしたいと思ってるからそうしてるのかもしれない。
(ん……?)
何かがアタシの頭の中に伝わってきた。
暗闇の中にわずかに光る何か。それは段々形を作っていく。
(手……?)
そう、手だ。闇の中から飛び出した一本の手。そして、顔。
(シンジ!)
暗闇の中から出て来たのは、紛れも無くシンジだった。
でもいつもみたいにヘラヘラと笑ってるんじゃなくて、今にも泣きそうな顔。
目に涙が浮かんでるとかそんなんじゃなくて、泣きたくても泣けない、そんな顔。
悲しいのに、辛いのに、絶対に泣こうとしないで、ただグッと堪えてるだけで。
そしてそれはいつかの自分の顔に似てて、アタシはそれ以上見ていたく無くて、シンジの手をつかんだ。
するとシンジが笑った。
そして、アタシは消えた。
「どうしたの!?」
実験は順調に進んでいた。第一次シンクロまでは何も問題無く、全てが順調に進んでいた。
だがシンクロが進み、フェイズが連動試験へと移行した時、突如として初号機が雄叫びを上げた。
それと共に鳴り響く警報。非常事態を告げる赤色灯が室内を染め、それが皆の焦りを促し、誰もミサトの声に反応する余裕を持たない。
「くっ……!!停止信号発信!!」
「ダメです!信号拒絶!」
「パルス逆流!!これは……!!
初号機からの浸食です!!」
「何ですって!!」
次々に上がってくる報告にリツコは驚愕の声を上げ、大きく目を見開いて正面の初号機を見た。
何かを苦悩するかの様に頭を抱える初号機。やがてそれを振り払う為か、衝動は外へと向かった。
大きく腕を振り上げる。渾身の力を込めたその腕は、制御室目掛けて降り下ろされた。
「全神経接続解除。右腕をパージ後、電源接続を解除。」
ミサトの指示の元、初号機の右腕が爆破されて降り下ろされた拳が宙を舞う。
巨大な腕が地に落ちて激しい震動が制御室へと伝わる。悲鳴が上がる中、ミサトだけは落ち着いてマイクを握った。
「レイ。初号機を押さえなさい。」
「了解。」
ミサトの指示に簡潔な返事をし、先ほどテストを終えたばかりの蒼い機体が初号機に飛びかかった。
「零号機!?」
驚きと共にリツコは隣のミサトに向かって振り向いた。
「いつの間に……」
「正解だったわね。」
事も無げに言い切るミサト。そして、備えが無駄にならなかったのと同時に、この暴走はミサトに確信を深めさせた。
すなわち、初号機は特別なのだと。
外部電源から内部電源に切り替わる一瞬を狙って零号機は初号機を拘束する。
が、内部電源に切り替わった途端、拘束を振り解こうと激しく初号機はもがき始めた。
頭を振り、体を捻り、再度雄叫びを上げる。
怒りとも苦しみとも悲しみとも、如何様にもとれるその咆哮を最後に初号機は動きを止めた。
そしてその様子を、制御室の端からシンジは呆然と見ているしか出来なかった。
アタシは頑張った。
毎日毎日ネルフに通っては何時間も訓練して勉強して。
ママが居なくなって寂しくて、泣きそうにいつもなってたけど、何かしてる時だけはそれを忘れる事が出来た気がする。
だって皆が褒めてくれたから。
何でもすぐにうまく出来た。
難しい事だって、ちょっとだけ頑張ればすぐにうまく出来た。
勉強だって、訓練だって誰にも負けなかった。だから皆がアタシを見てくれてた。
だからアタシはもっと努力した。誰にも負けない様、死ぬ気で努力した。全然辛くなんて無かった。
でも何事にも限界はあった。
やる事が、勉強する内容が高度になればなるほど、つまづく事も多くなった。
一番じゃない事も多くなって、周りのアタシに対する評価も、注目も次第に下がっていった。
そして自分で気付いてしまった。
自分は天才なんかじゃないんだと。
それでもアタシは皆のなけなしの期待に応え続けた。
大学だって15で卒業した。シンクロ率だって本部のファーストにだって負けなかった。
それでも周りはアタシに要求する。もっと、もっと、と。
いつの間にか、努力は惰性へと成り下がってた。
「ん……」
窓から入ってくる光の眩しさに、アタシは目を覚ました。
ぼんやりとした視界に入ってくるのはひたすら白。正面も、左を向いても、ベッドもシーツも枕も全部白。
全部が同じ色で、それがアタシは気持ち悪かった。
右を向けば、そこにシンジが居た。
「良かった……」
それだけ言って、シンジは座ってたイスの背もたれにもたれかかって大きく息を吐き出した。
まだ視界はぼやけてるけど、シンジが微笑んでるのが分かった。
アタシは体を起して、シンジの方を向いて目を閉じた。
多分、アタシにとっても、シンジにとっても今必要な事だと思ったから。
暖かい体温が唇越しに伝わってくる。
この前と同じはずのキス。だけど何か違った気がする。
「どうしたの?」
「……何か薄い……」
足元が、覚束なかった。
NEON GENESIS EVANGELION
Re-Program
EPISODE 15
If I wish you are here, could you be here?
「父さん……と」
綾波さん?
意外な場所で意外な人を意外な組み合わせで見つけて、僕はつい口に出してしまった。
父さんがここに居るのは分かる。正直、ホントに意外ではあるけど。
でもどうして綾波さんがここに?しかも父さんと一緒に?
どうして二人が……母さんの墓に来てるんだ?
どうしてここに来ようと、僕は思ったのか。
切欠は、アスカとの会話だった。
退院して戻ってきたアスカと僕は、そのまま家に着くなり体を重ねた。
たった数日間一緒に居なかっただけなのに、僕は我慢できなかった。
むさぼる様に僕はアスカにしがみ付き、アスカも僕を抱きしめてくれた。
何度も、何度でも僕らは互いを求め合った。
いつしか日が暮れて夜になると、僕らは裸のままお互いの事を語り合った。
ここに来る前の事、こっちに来てからの事、そして家族の事。
僕とアスカは同じ高校の生徒でエヴァのパイロット。おまけに家は隣同士。
学校を除いて一日の大半を一緒に過ごしてるのに、僕らはそれ以上の事を知らない。
だから知ろうとした。きっとそれがお互いにとってはいい事で、これからの為にも必要な事だと信じて。
例えそれが傷の舐め合いだと分かっていたとしても。
「アタシのママは小さい時に死んだのよ……」
アンタのママと同じね。そう言ってアスカは笑顔を作った。アタシは大丈夫だ、とでも言いたげに。
だけどその顔はどっか悲しそうで、まだ振り切り切れて無いのが何となく分かった。
だから僕はアスカに背を向けた。
はっきり言って僕にとって墓参りなんて何の興味も無い。
母さんは死んだ。だけど僕は母さんがいつ死んだとか、全く覚えてないし―――勿論知ってはいるけれど―――更に言えばもう顔さえ覚えてない。
墓だって第三新東京市にあるとだけ知ってるけど、今まで一度だって参った事なんて無い。
でも、そんなアスカの話を聞いたからか、僕は明日の命日に初めてお墓参りをしてみようかなんて思った。
「まさか来てるとは思いませんでしたよ。」
お墓に来る途中で買ったお花を供えて、振り向かずに僕は後ろに立つ父さんに話しかけた。
僕の中には父さんの記憶なんて無い。あの日、何処かの駅で置き去りにされたのが唯一と言っていいかもしれない。
そしてその記憶は、父さんを僕の中でとても冷たい人間に仕立て上げてた。
だからか、僕は未だに、こうして話しかけているにも関わらず、父さんがここに居るのが信じられない。
「私もお前が来るとは思わなかった。」
「もしかして、毎年来てるんですか?」
お墓に向かって手を合わせながら、僕は祈った。
違うと言ってくれ、と。
だけども返って来たのは、肯定の答えで。僕の胸に、何とも言えない感情が溢れて来た。
「お前は来るのは初めてか……」
「ええ……」
連れて来てくれる人は居ませんでしたから。
精一杯の皮肉を込めて言ってみたけど、背中越しに鼻で笑われた。
それが無性に悔しかった。
「初めての墓参りが彼女連れとはな。」
父さんの視線が外れたのが分かって、アスカの方を見るとアスカは固くなってこっちに向かって―――多分父さんに向かって―――
頭を下げていた。
「いけませんか?」
「いや……きっとユイも喜んでるだろう。息子があんなに可愛い恋人を連れて来たのだからな。」
娘も欲しいと言っていたからな。
そう呟いた父さんの声は何処か寂しそうで、いつもの、威圧感たっぷりの雰囲気は全く感じられない。
その声は心底辛そうで、だから僕は認めた。認めざるを得なかった。
父さんは母さんを本当に愛していたのだと。
僕にもかすかに残る苦い記憶。曰く、妻殺しの男の子供。
僕が子供だから分からないと思って何気なく言ったのだろう。
でも僕は幸か不幸か、それを理解してしまっていた。完全では無くても、少なくともそこに肯定的な意味を持たない事は分かった。
僕が直接その言葉を聞く事はほとんど無かった。だからしばらくは耐えれた。
でも、父さんはどうだったのだろうか。
今の父さんの言葉からも、父さんが母さんを殺すなんて万一にも考えられない。
多分事故か何かだったんだと思う。
にも関わらず、そう世間から後ろ指を指されてきた父さんは、この10年近くをどう過ごしてきたんだろうか。
「母さんはどんな人だったの?」
「優しい人だったが、どこかずれた女性だったな。何せ、この私を伴侶として選んだのだからな。」
「自分で言うかなぁ……」
そう言って、僕らは笑い合った。
弾ける様な笑いでは無かったけど、心の底から笑えたと思う。
そして僕は振り返った。
小柄な僕よりも頭半分大きい父さん。いつも掛けてたサングラスを外して、僕らは目を合わせた。
「母さんの写真とか無いの?」
「ああ。全て処分した。」
どうして、とは聞かなかった。自分だったら、と思うと答えは自ずと出たから。
「シンジ。」
目を逸らさず、父さんが口を開く。
「お前は、どうしてここに居る?」
あまりにも唐突な問い。
言葉通りに考えれば、当然母さんの墓参り。
だけど、父さんが聞きたいのはそんな事じゃないって何となく分かって、だからと言って意図を理解出来たわけじゃ無く、
僕は即答できなかった。
「いや、変な事を聞いたな。」
父さんが再びサングラスを掛けて、いつもの、見慣れた司令へと戻る。
もう目が合う事は無かった。
「レイ。」
父さんが綾波さんを呼ぶ。その声はさっきと同じ様に、どこか優しい。
綾波さんは僕らが話してた間、アスカと話してたみたいだけど、父さんの声に、小さく返事をすると
付き従うかのように、父さんの後ろに立った。
父さんにぴったりとくっついて離れない綾波さんは、まるで父さんの娘みたいで。
そんな事を思ったら僕の心が少しだけささくれ立ち、
それと同時にどうしてそんな気持ちになるのか、そんな問いにまた少し苛立った。
少し遠くからヘリの音が聞こえ始めて、次第にそれが僕の声すらも遮り始める。
「父さん!!」
「……何だ?」
「どうして綾波さんを連れて来たの!?」
思い出してみれば、最初の使徒の後、病院で父さんと会ったのは綾波さんの部屋の前。
僕には一度も見舞いに来た事も無いのに。
いつだったか綾波さんは父さんだけを信じてるって言ってた。
そして今日、綾波さんと何の関係も無いはずの母さんの墓前にも綾波さんを連れてきてる。
さっきまでの、父さんと話せてた時のいい気分が消えて、急に落ち着かなくなった。
実は母さんの血縁?でもそれならそうと僕に教えてくれてもいいはずだ。
だけど父さんの事だ。聞かれなかったから答えなかったとか、そんな理由で教えなかった可能性もある。
むしろ、そんな答えを望んでた。
「お前には関係無い事だ。」
二人を追いかけて尋ねて、だけども帰って来た答えはこれだった。
冷たくそう言われて僕はそれ以上何も言い返せなかった。
二人を乗せたヘリが少しずつ空へ上がっていく。
プロペラの巻き起こす風が砂を巻き上げて、僕は両手で砂が目に入るのを防ぐ。
その手の隙間から少しだけ見えた、綾波さんの申し訳無さそうな表情が、やけに目に焼き付いた。
それから僕らは家路に着いた。
最後の父さんとのやり取りはアスカには聞こえて無かったらしく、特に何も言ってこなかった。
いつもみたいに一緒に歩いて、おしゃべりして、何事も無く振る舞える位には僕は大人だった。
(父親の事など、どうでも良かったんじゃ無かったのか?)
シンの言葉がじっとりと僕に染み込んでいく。
父親の事なんて、忘れてた。生きているかどうかさえも知らず、というかそれさえも興味が無かった。
十年近く顔を会わす事も無くて、それで父親に何かを求めるという行為そのものが馬鹿げて見えた。
自分の力で、自分の足だけで生きていく。早く自立したい。それだけを欲して僕は少年時代を過ごしてきた。
だから第三新東京市に来て、会ってからも「父さん」という言葉だけが独り歩きをしていて、
その実、僕にはあの人が父だという実感なんて無かった。
無かったはずだった。
なのに、今日会って、話をして、ほんの僅か笑い合って。
それだけで僕は何かを父さんに求めてしまっていた。
だから応えてもらえなかった時に落胆する。
だから他の誰かの存在に嫉妬する。
『情けないな……』
眼下に広がる、夕焼けに染まった街並をベランダから見下ろしながら一人ごちた。
タバコを吹かし、こうして気持ちが落ち着いてくると如何に自分が虚勢を張って生きてきたかが分かった。
何が自分だけで生きていく、だ。
何が自分には親は居ない、だ。
口先だけの自分に腹が立つ。
(そろそろ中に入ったらどうだ?風邪を……)
「風邪引くわよ、いつまでもそんなとこに居ると。」
シンとほぼ同時に同じ事を言われて、驚いて振り向くと、アスカがいつの間にか僕の家の方に上がりこんで笑ってた。
言われて僕は肌寒さを感じた。もう年の瀬だ。タバコもいつの間にか消えてる。
アスカに言われるがままに中に入って、アスカがココアを準備してくれてる間、僕は
ずっと着てたジャケットをハンガーに掛けに一度部屋に戻った。
元々物が少ない上に、夕方で薄暗い所為か、やけに自分の部屋が寂しく見える。
ジャケットを掛け、リビングに戻ろうとしたところで、部屋の端に置いてあったチェロケースが目に入った。
僕がまだ4,5歳の時に買って貰ったらしいそれは、当り前ながら子供用で、
もう興味はすっかり無くしてしまっていて何年もまともに触って無い。
だけどもどうしてか捨てるに捨てられず、ほこりを被りながらもここまで持って来てしまっていた。
最近じゃその内自分の子供にでもやるか、とか考えてたりする。
何となくそれに手を伸ばす。
今日母さんの墓参りに行ったからかもしれない。それが気になったのは。
うっすらと積もったほこりを手で払って、ケースを開ける。
子供用で、更に言えば練習用。質的にも大した品物じゃ無い。
だけど、こうしてそれを寝かせて置くのがもったいないと、本当に何となくそう思った。
「シンジ〜?何処行ったのよ?」
アスカの呼ぶ声に返事だけ返して、蓋を閉じる。
その時、何かがケースの蓋からひらりと落ちてきた。
「何だ?」
写真っぽいけど、僕はこんなところにそんなものを入れた覚えは無い。
ただ単に忘れてるだけかもしれないけど。
拾い上げて、裏に書かれた文字を読む。
「シンジの誕生日に……?」
(……!見るな!!)
シンの静止が聞こえたけど、もうすでに僕は写真を表に返していた。
そしてそこに映ってたのは、
「綾波さん?」
紛れも無く綾波さんの姿で、でも髪の色はあんな蒼く無くて、普通の日本人らしい黒髪だった。
そしてその腕の中にはまだ1,2歳になったくらいの赤ちゃんが居て、裏に書かれてあった言葉から、多分僕なんだろうと思う。
なら、この女の人は綾波さんじゃ無い訳で、誰なのか、という僕の疑問は、その女の人の胸に付けられてた名札によって
明らかになった。
碇、ユイだと。
a nuisance―――
「で、何よ急に。こんなところに呼び出して。」
「まあそう言うなよ。」
不機嫌そうに自分に付いて来るミサトを宥めながら、加持は目的地へと歩いた。
すでに手はずは整ってる。後はミサトを目標の場所へと連れていくだけ。
後のミサトをちら、と加持は見遣る。辺りを警戒し、自分と会話しながらも注意を途切れさせない。
いつも着ているジャケットの内側からすぐに銃を取り出せるよう、準備出来ているのが加持にも分かる。
そんなミサトの空気と今から自分がしようとしている事のあまりのギャップに、つい加持の口元が綻ぶ。
「……何がおかしいのよ?」
そのまま加持を撃ち抜いてしまうんじゃないか、という勢いでミサトが尋ねる。
加持としてもそれはゴメンなので、適当に言い繕ってまたミサトを宥め、内心で口がうまい自分に感謝した。
「今夜9時にここに来れないか?」
廊下でのすれ違いざま、ミサトは加持に耳元で囁かれた。
「はあっ?」と思わず聞き返して殴り倒そうとしたミサトだったが、その前に加持から小さく叱責の声が飛ぶ。
それと同時に、強引にジャケットのポケットに何かが突っ込まれたのが分かった。
その様子にミサトはただ事では無い事を悟り、何事も無い風に装って加持と別れる。
加持はそのまま廊下を歩いてきた女性職員に声を掛け、ミサトは自分の執務室へと戻っていく。
部屋に入って鍵を掛け、椅子に座ってポケットから加持から受け取った紙きれを取り出した。
そこには駅名と、そこに至る手段―――新箱根駅に一人で公共の乗り物で来るよう書かれていた。
「着いたぞ。」
加持の声に、ミサトは周囲を警戒しながら顔を上げる。
適度に緊張した、誰が見ても凛々しさに惚れ惚れする様な表情。
だがそれも顔を上げた先にあった名前を見て、一気に崩れた。
居酒屋 みっちゃん
「……」
「どうした、葛城?入らないのか?」
ここのホッケがまた美味いんだ、とか言いながら加持は店の暖簾をくぐる。
「まさかとは思うけど……ここでお酒飲むだけじゃ無いわよね?」
「?何を言ってるんだ?」
そんな訳無いだろう、といった風に自分を見てくる加持にミサトはホッと胸を撫で下ろした。
が、
「今言ったばっかりじゃないか。ホッケを食ってみろって。」
思わずミサトは銃に手を伸ばした。
「しっかし、もうちょっち他の店は無かったの?」
串に刺さった砂肝をビール大ジョッキを片手に頬張りながらミサトは悪態を吐く。
結論から言えば、ミサトは諦めた。周りに気付かれない様こっそりと、だが思いっ切り力を込めて拳銃を加持の背中に
突きつけたのだが、当の本人はヘラヘラと笑っている。
明日も仕事があると言えば、明日は非番だろ、と答えが返ってくる。
そんなはずは無いとマコトにミサトは確認を取ったのだが、マコトからは
「明日はお休みなのでゆっくり休んでください」とだけ早口で言われ、あっさりと電話は切られた。
ニヤニヤと笑う加持を見て、ここにきて初めてミサトは自分が嵌められたのに気付いた。
加持はマコトに―――恐らくは作戦部全体に―――手を回して、自分を半強制的にここに連れて来るために。
恐らくはリツコも一枚噛んでいるのだろうとミサトは当りを付けた。
妙にお節介なリツコの事だから、自分が最近休んでいない事を知って加持に頼んだのかもしれない。
そこまで考えてミサトは馬鹿らしくなってきた。
折角貰った休みなのだから、色々考えず有難く享受しよう。
一緒に飲む相手が加持なのは気に入らなかったが。
そうなると、彼女は切り替えが早かった。
席に着くや否や、立て続けにビールやらつまみを注文してあっという間に平らげていった。
無論、これが加持の奢りである事も一役買っている事は言うまでも無い。
もう何杯目か分からないほどビールを流し込んだ所で、先ほどの悪態になるのだが、今更なセリフに苦笑しながら加持もジョッキを
傾けた。
「お前はバーでカクテル傾けるよりこっちの方が似合ってるさ。」
「そりはそうなんだけどさぁ……」
今日はクリスマスなんだから、とごちるミサトだが、そう不満ではなさそうな様子に、加持も内心で溜息を吐いた。
「おいおい、俺達がクリスマスに何を祝うんだ?」
「それもそうね。」
ジョッキを大きく傾けて空にすると、すぐにお代りを注文する。
ペースが早過ぎる気もするが、加持としては酔わせる事が半分目的みたいなものなので何も言わず、手元のホッケに手を伸ばす。
それでも少しはしゃぎ過ぎだな。
魚の骨を取りながら、ミサトを見てそんな事を考える。
ペラペラと喋るミサトはまるで二人が初めて出会った時のようで。
(そう言えば、あの時もクリスマスだったか……)
ミサトに釣られる様に加持もジョッキを傾け、当時の事を思い出す。
二人が初めて会ったのはフランスとドイツの国境付近のとある施設だった。
加持はゲヒルンの所属で、ミサトはフランス側の人間。
その研究施設で起こったテロ事件が切欠だったが、最初は出会いとも言えないものだった。
背後から加持を狙っていたテログループを、ミサト達の小隊が偶然排除しただけで、ミサトにしても加持にしてもほんの一瞬だけ
お互いを見遣った程度のものだった。
だが、敵を圧倒的な暴力で排除していくミサトの背中と、わずかに見える全ての感情を排除した、冷徹で無慈悲な視線、そしてミサトが日本人だったことが
加持の興味を引いた。
テログループの制圧に成功後、共同作戦だった事もあって、加持はフランス側の宿営の簡易バーに出向いた。
そして、そこで屈強な男達と笑いながら酒を飲むミサトの姿があった。
豪快に笑い、豪快に飲む。
明るく談笑する様子は、昼間見たミサトの姿とがあまりに違い、そのギャップにますます加持は興味を引かれ、声を掛けようと
近づく。
肩に手を伸ばしたところで、加持は腹に奇妙な感覚を覚えた。
視線を下げてみれば、そこには拳銃が突き付けられていて。
銃を突き出したミサトの視線は恐怖に震えていた。
(ん……)
規則正しく伝わってくる振動に、ミサトは重いまぶたを開いた。
だが頭がボーっとして頭がうまく回らず、ゆったりとしたリズムを刻む揺れが心地よく、もう一度意識を手放したくなる衝動に駆られる。
上下に揺れる視界と暖かい温もり。ずっと昔、ほんの一時期だけ感じた暖かさ。
(あいつの背中もこんな感じだっけ……)
出会って間もない頃、二人で一晩中飲み明かした夜。まだ春が遠くて、雪が珍しくない季節。
あの時もあいつはアタシを背負って、風邪を引かないようにと背中に自分のコートを掛けて歩いて。
その時の記憶が随分と遠くに感じられる。
それでも、その距離を縮めようとミサトは無意識に体を温もりに押しつけた。
そしてまたまどろみの中に意識を沈める。
「起きたか?」
「うん……」
掛けられた声に何となく返事を返し、ミサトはそのまま再び眠りへと落ちようとした。
だがその声の主に意識が集中したところで、ミサトの意識は急速に覚醒へと向かって行った。
「か…じ……?」
「おいおい、他に誰に見えるんだ?」
自分が誰に背負われていたか、それに気付いてミサトは急に恥ずかしくなり、その背中から降りようと強引にもがいた。
「ちょっ!コラ、暴れるな!」
当然、誰かの背中の上で暴れれば結果は見えてるわけで。
バランスを崩して二人して倒れ込む。
痛みに顔をしかめてお尻をさするミサトのすぐ脇を、カップルがクスクスと笑いながら通り過ぎて行った。
仲良さそうに手をつないで、夜の街へと消えていく。
それをミサトはじっと眺めていた。
「ほら、いつまでもそんなとこ座ってると風邪引くぞ。」
差しだされる手。それをミサトは素直に取って立ち上がる。
深夜の街を二人は並んで歩く。
通りの明かりはほとんど消え、寂しげな街並み。だがクリスマスを共に過ごしたカップルらしき二人組がちらほらと見える。
楽しそうにおしゃべりをする彼らとは違い、加持とミサトはお互い一言もしゃべらず、しかしゆっくりと歩き続けた。
「今日はすっきりしたか?」
二人の間の静寂を破ったのは加持。長身のミサトよりも更に頭半分ほど大きい加持は、隣を歩くミサトを笑顔で見下ろした。
「ん。でも流石に飲み過ぎたわ。」
「そりゃそうだ。おかげで俺はすっからかんだけどな。」
肩をすくめる加持。そんな加持を見ながら、ミサトは小声でありがとう、と言った。
「今日の首謀者は誰?加持君?それともリツコ?」
「ばればれ、か。発案者はリッちゃんだよ。だが首謀者とはひどいな。リッちゃんも葛城を心配して俺に持ちかけたんだぜ?」
「……そんなに私、変だった?」
「ああ、皆心配してたぞ?」
皆お前を怖がってた。
そうミサトに告げると、ミサトはやはりか、と溜息を吐いた。
「お前は何でも自分の中に溜め込むからな。だからすぐ精神的に余裕が無くなる。
切欠さえ与えてやれば、今日みたいにすぐ吐き出せるくせにな。」
「……」
「誰でもいいから、たまには思いっきり吐き出してみろよ。そうすればすぐにすっきりする。
溜め込むだけじゃ人はすぐ潰れてしまうさ。」
「アンタに言われなくても分かってるわよ……」
「そうかい?」
そりゃ余計なお節介だったな。そう言って加持は笑った。
それから何も言わず、歩き続ける。だがミサトには、ミサトが話し始めるのを待っているかの様に感じられた。
「分かってても、相手が居なければどうしようも無いじゃない……」
やがて、ミサトはぽつり、ぽつりと話し始める。
「リツコは私に嘘を吐いてる。そして私には相談できる様な相手は他にいない……」
「シンジ君やアスカはどうなんだ?」
加持の問いかけに、ミサトは首を振って応える。
「ダメよ……私はアスカに嫌われてるもの。
当然よね。私はこの前シンジ君を殺しかけてしまったんだもの……」
「だから気まずくて会えない、か……
それで最近家に帰って無いのか?」
再びの加持の問いかけ。そして今度はミサトは縦に首を振る。
「なら気にする事は無い。シンジ君は、俺の見たところじゃそんな事で葛城を責めはしないだろうし、アスカだって
本気でお前を嫌っちゃいないさ。」
「そう……そうね……」
頷くミサト。だがその表情は晴れない。
「他にも理由がありそうだな。いや、むしろそっちが本当の理由か?」
「そんなもんないわよ……」
「例えば、家に帰ると大切な『何か』を失くしてしまいそうだからとか?」
加持がそう口にした瞬間、ミサトの体が反転する。
加持のやや前を歩いていたミサトの右腕が、加持の顔目掛けて揮われた。
手加減無し、掛け値無しの本気の突発的な行動。だがそれを加持はあっさりと受け止めた。
「どうやら図星だったみたいだな?」
「……っ!」
わずかに歯ぎしりをして悔しそうにミサトは顔を逸らした。
加持には何となく予想がついていた。
ミサトとアスカ、シンジとの間に何があったのか、加持は正確には知らない。
知っているのは現在の状態だけ。それすら人伝だ。
まして加持は心理学者でもカウンセラーでも無い。
ただ欺瞞が渦巻く暗い世界で何年も生きてきた経験と、かつての自分達の思い出があるだけ。
だがそれらが大体の答えを与えてくれる。
「お前の復讐を否定はしない。それがお前を支えて来たのは間違い無い上に、今更切っても切り離せない位に
葛城の中に深く根付いてるのは理解してるつもりだ。」
「なら放っといてよ……」
「だがな、葛城。それに拘り続ける必要は、何処にも無いんだ。」
一人で居たがるのは温もりに身を委ねて全てを忘れてしまいたくなるから。
心地良さという名のぬるま湯に浸って、ゆっくりと、だが確実に思いを溶かしていく。
しかしそれは同時にこれまでの自分を否定する行為。
復讐に全てを賭け、全てをその為に費やしてきた。一人で生き、周りは全て目的を成す為の手段に過ぎない。
その手段を手に入れる為に自らを鍛え、周りとの接触も出来る限り拒む事はしなかった。
集団と共に一人で生きる。
矛盾にも見えるその行動は、表層だけで周囲と接するという意味で何ら矛盾を含まない。
だが、例え上辺だけの接触であっても次第に互いは互いの奥底を求める。
当人の気付かぬ内に、表面は削り取られ、中にある物に手を伸ばす。
そうしていつしか、温もりと同時に痛みも知る。
「かつて俺達がそうした様に……それに拘って手に入れた物を捨てる必要は無いんだよ。」
だからミサトは去った。加持の元から。
だから加持は去った。ミサトの元から。
お互いの温もりを感じながら、お互いの痛みを共有しながら支え合って穏やかに時を過ごしていく、
そんな空想を思い描いて、だが空想だと分かっていてもそれを求めてしまいそうになるから。
だからミサトは家には帰らない。
いつの間にか、自分が気付かぬ内にそれを、一度は捨てたはずのそれを再び求めてしまっているのに気付いたから。
シンジとアスカが、その空想に浸って、それを自分が壊してしまいそうだったから。
「復讐なんてものは、言ってしまえば歪んだ感情だ。否定はしないが無ければ無いに越した事は無い。
忘れられるんならその方が良い。少なくとも、掴みかけた幸せまで手放してまで拘り続ける意味なんて何処にもない。」
「所詮他人事ね……」
「ああ、俺はお前じゃないからな。葛城の事を本気で理解出来るなんて考えちゃいないし、そうあってはいけないんだ。
だからこそ誰かを真剣に想う事が出来る。そして、時には本人よりも本人の事を理解出来る。
俺はそう思うよ。」
「なら他人事ついでに教えて。」
正面に向き直り、ミサトは加持を見つめた。
「アタシは……どうすればいいの……?」
「さっきも言ったろ?誰かに頼ればいいんだよ。
だからたまには俺にも背負わせてくれないか?ミサト……」
7年ぶりのキスは、涙の味がした。
暗い通路を影が進んでいく。
天井に灯りは無く、足元の照明がかろうじて進むべき道を示している。
その闇に溶け込む様に息を、足音を殺して影は進む。
行きつく先に何があるのか、情報としては知っている。だが全て「情報」だけで、そのソースの誰もが実際に確認した事は無い。
ただ単にある「らしい」という事しか、誰も知らない。
なのにそこにある事は誰も疑っていない。与えられた物が真実かどうかも分からないのに。
だからここに来た。
全ての鍵を握っているであろうそれを確認する為に、そして情報が真実か否か、確かめる為に。
「……」
何も言わずに影は正面のドアを見上げた。
見上げる、との表現が妥当なほどの巨大な扉。
暗闇の中でも取り分け暗さが際立った漆黒の闇。
その奥に隠された真実を見極めようと、影は左腕を伸ばした。
カチャ
だが奇妙な音と共に伸ばされた手も宙で止まる。
「気分はどうだい?」
「おかげさまですっきりしてるわ。」
感謝してるわ、とミサトは口元を歪めた。それでも眼は笑っておらず、加持の背中に突き付けた銃に掛けられた指も引き絞られる
のを待っていた。
「ネルフ諜報部特殊監査課所属加持リョウジ。それと同時に国際連合安全保障理事会付特別監察官加持リョウジでもあるわけね。」
「やれやれ、折角の非番なのに仕事熱心だねぇ。」
手を上に上げたまま、加持は笑うがミサトは銃を加持に強く押し付ける事で応える。
「このままこの仕事を続けてると……死ぬわよ。」
「それは作戦部長としての忠告かい?」
「いえ、加持の…友人としての忠告ね。」
だから作戦部長としてこの場で射殺する事も辞さない。
その意味を言外の含ませ、ミサトは撃鉄を下ろした。
雰囲気を察した加持は、だがやれやれと肩を竦ませ話を続けた。
「葛城に隠し事をしてたのは謝るよ。
だが、これを葛城も、そしてシンジ君も見ておくべきだ。」
「―――シンジ君?」
顔を動かした加持の視線の先をミサトも見る。そしてそこには学生服姿のシンジの姿があった。
どうして、とミサトが口を開きかけた時、加持はその隙に左を振り下ろす。
握られていたカードが備え付けられたリーダーを通過し、巨大な扉がゆっくりと開かれていった。
差しこんでくる仄かな光。それが三人の顔を照らし出した。
「これが……」
「そうだ、これが―――」
「―――リリス。」
アダム。
そう告げようとした加持のセリフを奪う形で、だが加持とは違う呼称が加持の後ろから紡がれた。
驚きと共に加持とミサトはほぼ同時に後ろを振り向く。
そこに居たのは先程と同じ学生服姿のシンジ。
しかし、その顔は喜悦に溢れていた。
二人の姿など目に入らないかのように手を伸ばして、前へ進み出る。
「シンジ君!?」
だが二人の横を通過したところで、その体が崩れ落ち、二人の呼び掛けにも反応する事なくそのまま眠り続けた。
―――fade away