2016年
まぶしい夕日がトオルの目に差し込む。
トオルは、その眩しさに目を細めながらも、その少女を見ていた。
恐らく芦ノ湖を一周してしまったのだろう。
少女がいることを除けば、その景色は全くトオルの記憶と一致していた。
最初に今居る場所には少女は居なかった。
ならばトオルが湖を一周する間に、その場所に来たことになる。
(一周したのなら、結構時間が経ったんだろうな……)
時間など、トオルは全く気にしていなかった。
悩み、思案するにはどれだけ時間があっても足りない。
今、トオルは考える時間を心から欲していた。
だから、現れた少女の事も、一瞥しただけで、特に何も思わなかった。
すっかり廃墟になった第三新東京市跡。
特に見るものなど無いのに湖に現れた少女を、多少おかしいとは思ったものの、もしかしたらここに住んでいたのかもしれないと思い、トオルの意識からは消えようとしていた。
色々考えたいとはトオルは思ったが、いつまでも芦ノ湖に居るわけにもいかない。
もうすぐ日も暮れる。
だが、ここでトオルは切実な問題に気付いた。
これから何処に住むか。
トオルは今まで戦自の独身寮に住んでいた。
狭い部屋だが、それなりに気に入っていた。
しかし、もう戻れないし、戻りたくも無い。
幸い貴重品の類はそれほどトオルは多く所持していなかった。
それでも通帳等が無いのは痛い。
作戦行動中だったため、当然その手の物は部屋に置いてきた。
(まあ、そこら辺は後々取りに戻るとして、だ……)
とは言っても、正面から戻るわけではなく、夜中にこっそり忍び込むつもりだ。
(とても正義の味方のつもりだった人間のすることじゃないな)
そう思ったトオルだが、そこでまだ正義の味方に拘る自分に気付き、自嘲の笑いが漏れる。
(とっくにそんな資格失ってるのにな……何を考えてるんだか……)
トオルはそこで頭を大きく振る。
沈みがちな思考を振り払う。
とにかくは今から当分どうするか。
頭を切り替えたトオルは顔を上げる。
こうして悩んでいた間にまた大分歩いていたようだ。
先ほどまでかろうじて少女だと分かる程度だった少女は、今ははっきりとその容姿が確認できるほどに大きくなっていた。
そう、はっきりと。
顔を上げたトオルはその少女の姿を認めると、慌てた様子で、急に少女に向かって走り出した。
第拾話 思いと真実
「君、どうしたんだ!?」
少女の下に駆け寄ったトオルは、息を切らしながら少女に声をかけた。
大きく息を吐いて整えるが、その顔は赤い。
トオルは急いで上着を脱ぐと、湖畔にぼうっとして座る少女に掛けてやる。
少女は裸だった。
一糸纏わぬその姿に、トオルはその少女がレイプでもされたのかと思った。
そこで慌てて駆け寄ったのだが、幸いなことに、少女には特に目立った外傷は見られない。
トオルの上着でその裸体も隠され、とりあえず目のやり場に困ることは無くなった。
ホッとしたトオルは苦笑しながら少女に話しかけた。
「すまんな。汗臭いだろう?」
つい先ほどまで戦場に居たのだ。
上着を掛けた後でその事に気が付き、声を掛けたのだが、少女からは特に反応は無い。
どうして、そんな格好でこんな場所に居るのか気になるところだったが、トオルは今は聞く気は無かった。
見た目は何も無いが、ひょっとすると犯罪に巻き込まれた可能性もまだある。
そのショックが抜けないのだろう。
そう考えたトオルは、少女が反応しなくても気にしなかった。
「家まで送っていくよ。君の家は何処だい?」
少女を安心させるよう、トオルは柔らかな笑顔を心がけた。
しかし、少女は整った顔をわずかに傾けるだけだった。
かわいらしいその仕草に、トオルはわずかに頬を赤めながらも、その少女を改めて観察する。
日本人離れした白磁のような肌。もしかしたら白人より白いかもしれない。
瞳も日本人には有り得ない蒼色。
髪も茶色だが、とても染めているようには見えない。
だが、顔立ちは日本人の色が濃い。
(多分、ハーフだな。歳は中学生から高校一年、といったところか……)
そう少女を結論付けた所で、トオルは少女の視線に気が付いた。
何をしゃべるでも無く、ただじっとトオルの方を見つめる。
どうもショックを受けているわけではなさそうである。
「見たところ、日本人でもなさそうだが、日本語は話せるか?」
トオルの問いかけに、少女はコクン、と頷いて応える。
それを受けて、トオルは思い切って聞いてみる。
「君の家は何処だ?どうしてこんなところに…その……そんな格好で居るんだ?」
最後の方は若干恥ずかしそうにトオルは尋ねる。
だが、少女の方は、トオルとは逆に恥ずかしそうな素振りは見せない。
またわずかに首を傾げ、トオルの方を見つめる。
その様子に、ふと思い当たったトオルは恐る恐る聞いてみる。
「もしかして、分からないのか?」
今度は首を縦に振る。
それを見て、トオルは手を額に当てると、空を仰いだ。
「参ったな……記憶喪失か?
君は何も覚えてないのか?名前は?ご両親は?」
立て続けにトオルは質問した。
すると小さな声で返事が返って来た。
かわいらしい容姿のイメージとそう違わない、少女らしいやや高いかわいらしい声で。
「……レイナ。網谷レイナ。」
「それが君の名前なのか?覚えているのはそれだけのなのかい?」
レイナ、と名乗った少女は小さく頷いた。
ふむ、とトオルは顎に手を当てて、これから目の前の少女をどうするか、考える。
とても今のトオルには、レイナを連れて動き回る余裕は無い。
自分のことだけで精一杯なのだ。
かと言って、レイナをここに放っておくこともトオルは出来なかった。
警察なり、そういった機関に預ければいいのだろうが、今、第三新東京市にはそういった機関は存在していない。
となると、歩きではかなり遠いが、少し離れた街に行くしかない。
しかし、問題はレイナの格好だった。
下着も何も着けてなくて、トオルの迷彩服の上着一枚だけ。
その格好で連れて歩くのは、いろんな意味で大問題だ。
(どうしたものか……)
中々いい案が思いつかず、悩むトオルだったが、袖を引っ張られる感触に横を見る。
見れば、レイナが不安そうな顔でトオルの方を見ていた。
そんなレイナに、トオルは頬を緩めると、ポンとレイナの頭に手を乗せる。
「そんな顔をするな。ちゃんとお父さんとお母さんを探してやるから。」
レイナを安心させようとそう言ったトオルだったが、レイナはトオルの腕をギュッとつかむ。
そして、ポツリと漏らした。
「そういう人、いない……」
「そうか……悪かったな……」
申し訳なさそうにトオルはレイナに謝るが、レイナはフルフルと頭を横に振ると、トオルにしがみついた。
ずっとどうやって暮らしてきたのか、覚えているかは怪しいが、それをトオルは聞こうとしたが、レイナの様子に、それを聞くのははばかられた。
しがみついたレイナの頭をそっと撫でてやる。
レイナはビクッ、と一瞬震えたが、抵抗はしなかった。
トオルの方が大分背が高いため、レイナの顔はトオルからはあまり見えなかったが、それでもレイナの表情が和らいでいくのが分かった。
それを見てトオルの表情も自然と和らぐ。
それは意図して作った表情では無く、レイナを見ているとトオルも心が落ち着いていくのがトオル自身も分かった。
(不思議な子だ……)
レイナの嬉しそうな表情を見ていて、トオルは先ほどまでの自分の悩みがどうでも良くなっていった。
正義だ何だ、と悩んでいたが、それが馬鹿らしく感じる。
(自分だけの正義を見つけろ、か……)
少女を見ていると、先ほどまで難しく感じたそれが、急に容易に思えてきた。
しばらくの間、トオルはレイナの頭を撫で続けた。
「もうそろそろいいか?」
そう言うと、トオルはレイナの頭から手を退ける。
レイナは三度コクン、と頷くが、どこか名残惜しそうである。
そんなレイナに苦笑しながらも、トオルは再びこれからどうするか考え始めた。
すでに日は大分傾き、すっかり辺りは暗くなっている。
レイナはもう今日のところは連れて行くしかない。
だが、自分も今日の夜明かしをどうするか決めなければならない。
(とりあえず足が必要だな……)
それはいいが、問題はどうやってそれを調達するか。
(已むを得ないな…)
トオルが犯罪にいよいよ手を伸ばす決意をしたところで、レイナが指先でトオルをつつく。
トオルが振り向くと、レイナはある方向を指差した。
レイナが指したのは湖とは逆方向で、トオル達戦自兵が潜んでいた方向。
トオルはレイナの指した方向へ、息を潜めながら近づく。
草陰に隠れながら様子を伺うトオル。
後ろに付いて来たレイナも、不思議そうな顔をしながら草むらにしゃがみこむ。
トオルがそっと道路の方を覗き見ると、ジープが何台か止まって、その奥には戦車が数台見えた。
戦車の方は流石に分からないが、見た限りジープに人影は無い。
辺りにも人の気配は無く、トオルは草陰から警戒しながら出た。
付近を見渡しながらジープに近づく。
誰もいない。
(よし……)
安心したトオル。
そして、ジープに乗り込もうとした瞬間、トオルの中に何かが流れ込んできた。
頭を抑えて、トオルはうずくまる。
(何だこれは……!?)
声が、暗い声が聞こえる。
冷たい、そしてどこか聞き覚えのある声が。
(分かりました。隊員にはそう伝えておきます。)
(まあ無理に納得させる必要は無いですがね。士気を上げてやれば、皆徹底的にやってくれますよ。
セカンドインパクトと皆思い込みますから。適当に証拠を何人かにちらつかせれば後は彼らが勝手に下に伝えますよ。)
(はい。全てはゼーレのために。裏切り者のネルフには死を。)
そこでトオルの中に入り込んできた声は消えた。
頭を上げると、大量の汗が滴り落ちる。
(何だ、今のは……)
改めてトオルは付近を見回す。
やはり誰もいない。
視線を元に戻したトオルだったが、その目に、ジープの影にある何かが入った。
ジープから降りてトオルはジープの後ろへと回る。
そこには、数人の、黒い特殊な服を着た人間が数人横たわっていた。
再びトオルの中に、声が入ってきた。
しかし、今度は、複数の声が同時に聞こえてきて、もはや何を言っているのか分からない。
その中には、先ほどの声も混ざっており、その声は一際大きなものだった。
先ほどは誰か分からなかった声だが、倒れている人間を見て、トオルはそれが誰のものであるかようやく分かった。
トオルの上官であり、ネルフのことをトオルに教えた人間。
(どういうことだ……?セカンドインパクトと思い込む…?サードインパクトのことか?
だが、実際には二つは違う…?
どうして奴がそんな事を知っている……!?)
わずかな情報から、すぐさまトオルの頭脳が一つの推論を導き出す。
(まさか……)
それはトオルにとって一番認めたくない推測。
だが、そう考えると、死ぬ前の彼ら―――ネルフの職員―――の表情の理由が説明できる。
(何てことだ……)
つまり自分達は、自分は踊らされていたということか…
よく分からないが、ゼーレという組織にとって、ネルフが邪魔になった。
だから自分達をけしかけて潰そうとした。
トオルは情けなかった。
正義の味方どころか、自分は罪の無い人々を虐殺した大悪人。
グッと拳を握り締め、下唇を噛み締める。
血が滴り落ちそうなほど拳と口に力を込めるが、不意にそれが弱められる。
手に触れられる柔らかい感触に、トオルは自分の左手を見る。
拳を包み込むレイナの手のぬくもりに、トオルは無理やり笑顔を浮かべた。
「そうだな。早いところ、ここを離れような。」
添えられたレイナの手をゆっくりと除けると、ジープに乗り込んでエンジンをかける。
かかりは悪かったが、何度かキーを回すと、低いうなり声をジープが上げた。
アクセルを踏んで数回エンジンをふかすと、横でボーっと見ていたレイナを隣の席に乗せる。
「しっかり捕まってろよ?」
確認するトオルにレイナは小さく頷いて応える。
サイドブレーキを外し、トオルがアクセルを踏み込んで、ジープは芦ノ湖を後にした。
車を手に入れたトオルは、第三新東京市を離れた。
北上すること、およそ一時間。
すでに辺りには町並みは無く、街灯すらまれに見る程度になっていた。
やがて一軒の木造の建物の前でジープが止まり、トオルはエンジンを切った。
平屋の一軒家。
昔懐かしさを感じさせる建物。
それは、トオルの第三の故郷とも言える家だった。
ここでトオルが過ごした期間はそれほど長くない。
シンヤに引き取られ、中学を卒業するまでのわずかな期間。
それでもトオルにとっては、一番思い出深い家であった。
「さてと……」
トオルはレイナを下ろすと、家の中へ入っていった。
シンヤが亡くなって4年、ほとんどここへは帰ってきていない。
そのため、家の中にはかなり埃がたまっていた。
軽く部屋の畳を雑巾掛けすると、箪笥の中から昔のトオルの服を取り出した。
当然、今のトオルには小さすぎて着れないのだが、捨てるのはもったいなく感じられて捨てられなかった。
それは、シンヤが買ってくれたからかもしれない。
ここに来て間もないある日、シンヤが大きな紙袋を抱えて帰ってきたことがあった。
その中にはたくさんの服が入っていた。
それを一つずつ取り出しては、嬉しそうにトオルには渡していく。
それが記憶に残っているせいか、処分しようとしても出来なかった。
その服をレイナに渡す。
「男物で悪いが、とりあえずこれを着ててくれ。」
手渡された服を受け取ると、レイナはその場で着替え始めた。
慌てて後ろを向くトオル。
(そう言えば、記憶が無いんだったな………)
当然常識なども欠落している。
それを失念していたトオルだったが、これからのことを考えると頭が痛かった。
これから教えなければならないことを数えるだけでも頭が痛いが、女性のことになるとトオルは手が出ない。
細かいことは全く分からず、トオルが教えられるのは精々テレビなどで得られる情報程度。
レイナに背を向けながら、トオルは頭を抱えた。
「なあ………」
レイナに背を向けた状態で、トオルが口を開いた。
「お前は聞こえるのか………?」
トオルはここへ来る車の中、ずっとそれが気になっていた。
頭に入り込んでくる、様々な声。
トオルの上司であるあの男の声だけでなかった。
車に乗りながら、多くの車と、道行く人とすれ違った。
そして、その悉くから声が聞こえてきた。
流石に、最初みたく頭が痛くなるようなことは無かったが、雑多な声が四六時中聞こえてくるのだ。
うるさくてとても敵わない。
まして、中にはとても暗い声も混じっていた。
幸い、聞こえてきた声はすぐに変わっていくので、それに捕われるような事は無かったが、それでも気は滅入る。
しかし隣に座っているはずのレイナからは全く聞こえてこない。
これは後でトオルが気が付いたことだが、声が聞こえるのは、どうも距離が関係しているらしい。
だから車に乗っていて、次々と声が変わっていったのだ。
なら最も近い位置にいるレイナはどうなのか。
どうしてレイナから声が聞こえてこないのか。
そう考えたトオルだったが、そこでもっと根本的なことに思い至った。
すなわち、声が聞こえるのは自分だけなのか、ということ。
声が聞こえるのは自分だけではないか、と不安になったトオルは、レイナに聞いてみたのだ。
だが、後ろにいるはずのレイナからは返事が無い。
いい加減着替え終わってるだろうと思ったトオルは、返事が無いのを不審に思い、振り返ってみる。
すると、そこには渡されたTシャツを絡ませてもがくレイナの姿があった。
決して豊かとは言えない胸だが、それなりの胸を惜しげもなくさらし出している。
男性なら興奮してしまう状況だが、如何せん、レイナは幼すぎた。
まるで何も知らない赤子のように。
トオルは、どうしてよいか分からずジタバタともがくレイナを助けてやりながら、苦笑した。
(お前は人が悩んでいる時に和ませてくれるよな……)
急にデカイ娘が出来たみたいだな。
まだ出会って一日も経っておらず、結婚もしていないはずだが、そんな考えが浮かんだ。
すでにトオルの頭には、レイナをどこかの施設に預ける、という考えは消えていた。
理由には、トオル自身がセカンドインパクト直後に施設に居たこともある。
決してトオルが居た施設は悪いところでは無かった。
それでもトオルは、シンヤに引き取られてから、家に帰るのが楽しみだった。
学校から帰ってシンヤから出迎えてもらえる喜び。
本当の家族ではなかったが、暖かい家だった。
トオルは、まだレイナのことはよく知らないが、両親が居ないというのは分かっている。
いつから居なくて、今までどうやって暮らしていたのかも分からない。
今も記憶には残っていないだろうが、それでもトオルは、レイナにまた家族の温もりを与えてやりたかった。
そうすればレイナの記憶も戻るかもしれない、という期待も抱きながら。
だが、トオル自身も今、誰かの温もりを欲していることには気付いていない。
その思いが、レイナを引き取る本当の理由であることに、トオルは全く気付いて居なかった。
NEON GENESIS EVANGELION
EPISODE 10
Then, He Cried. And After Her Story, He Cried Again.
レイナをシンヤの家に置いて、トオルは戦自の寮へと戻った。
すでに日付が変わろうとしていた時間で、普段ならまだかなりの部屋の明かりがついているのだが、今日はすでに全ての灯が消えていた。
見慣れない光景で、トオルは薄気味悪く感じたが、逆にチャンスだった。
トオルの部屋が一階だった事も幸いして、難なく部屋に忍び込む。
貴重品と、その他、身の回り品をバックに詰める。
そして準備してきた、一通の封筒を机の上に静かに置く。
こんなところに置いていても、恐らく受領されないことはトオルにも分かっていた。
それでも、もうトオルは戻らない、戻れない。
だからこのまま消えて、自然と忘れられるのを待っても良かった。
しかし、長いこと過ごした戦自を去るのは寂しくもあった。
15歳で入隊してから、実に10年。
辛いこともあったし、楽しいこともあった。
様々な思い出が今、トオルの居る部屋に詰まっている。
それを全てここに、この部屋に置いていかなければならない。
出来た友人、頼もしい部下達を置いていかなければならない。
正直、まだトオルの中には迷っている部分もあった。
このまま今日という日を忘れて、以前と同じように過ごせたら。
だが、どう足掻こうとも、例え忘れることが出来ても、絶対に無かったことには出来ない。
だから、トオルは離れることにした。
そして、せめてもののケジメとして辞表を部屋に置いて行く事にした。
グルッと部屋を見回すと、全てを振り切るようにトオルは部屋を後にした。
トオルの予想に反して、辞表はあっさりと受け取られた。
戦自内部でどういういきさつがあったのかは分からないが、恐らく、それどころでは無かったのだろう。
ネルフ襲撃、という大それたことをしてしまって、それが最終的には失敗したのだ。
おまけに下士官は騙されていたに等しい。
一人の辞表どうのこうのに割く時間など無く、内部、外部に処理しなければならない問題が山積みだろう。
そう考えたトオルだったが、その考えは概ね正しい。
辞表を出してから一ヶ月が経つころには、トオルの口座にそれなりの金額の退職金が振り込まれた。
高給、とは言えないが、尉官であったトオルの給料はそれなりにあった。
しかし、トオル自身物欲に乏しいところがあった上、寮に住んでいれば住居費なども浮く。
更にトオルの場合、自己研鑽に忙しくて、給料をほとんど使っていない。
結果として、かなりの額がトオルの通帳に記載された。
その額を少しずつ切り崩しながら、数ヶ月をトオルはずっとレイナと一緒に過ごした。
その間、トオルは出来る限りのことをレイナに教えていた。
教えていて頭が痛くなることも多かったが、それでもレイナはトオルの教えたことをどんどん吸収していった。
元々頭が良い子だったのだろう。
一度失敗するが、それでも次にするときにはきちんとやり遂げていた。
だから、半年も過ぎた頃にはレイナは普通の歳相応の子と変わらないくらいになっていた。
また、その間に世の中のことをテレビなどを通じてトオルは知っていった。
各地で紛争が頻発していること、その原因にA.Tフィールドを人間が張れる様になったことがあること。
それにネルフが介入していること。
すでにトオルの中にはあまりネルフの存在は大きなものでは無くなっていた。
罪悪感はまだあるが、攻撃した当初ほどのものでも無い。
テレビを通して伝えられることも手伝って、どこか自分とは関わりの無い話だと割り切って考えることが出来るようになっていた。
フィールドに関してもあまりトオルは関心を持てなかった。
トオルも戦自に居たため、フィールドの存在は知っていた。
テレビでそれを知って、自分でも張れるのかと試したところ、あっさりと張れてしまった時は流石に驚いたが。
フィールドは張れる人間と張れない人間が居り、レイナは張れない側だった。
尤も、レイナは心の声が聞こえないので、フィールドが張れなくてもそんなものか、と何となくトオルは納得してしまった。
レイナの世話について一段落ついた頃、トオルは第三新東京市へと引っ越すことを決めた。
まだ当分は働かなくても食べていくだけの蓄えはあったが、トオル本来の気質がそれを良しとしなかった。
ようは働いていないと気持ちが悪いのである。
第三新東京市にはまだ抵抗もあるが、他の都市は、15年以上経った今でも大きな復興を果たしていない。
それなりに復興はしたが、まだ傷跡はあちこちに残っていて、治安もあまりよくは無い。
また、第三新東京市は比較的よく知っている場所でもある。
ネルフのおかげで、日本で一番金の回る地域である。
仕事を探すには一番良い場所だった。
更にトオルは、第三新東京市への移住は自分の為でもあると思った。
自らが犯した罪。
騙されたなど、言い訳にしかならない。
決して許されない罪。
それは忘れてはいけないことであり、自分の中で風化しつつあることに別の意味で危機感を抱いた。
罪は償わなければならない。
所詮は自己満足。
それは自覚しつつも、それをしないでは、自分は落ちるところまで落ちてしまう。
未だ償い方は分からないが、それを忘れないためにも、自分の罪と向き合い続けることが必要だと、トオルは思った。
それに加え、レイナの事もある。
元来明るい性格らしく、また素直に育ってくれたため、近所の年寄りの相手をよくしているが、同年代の友人をトオルは作って欲しかった。
その為には、今居る田舎では無く、都会の方が良いとトオルは考えた。
また、未だにレイナの記憶は戻っていない。
特に不自由は無いようで、レイナ自身もそのことを気にしていないようだ。
トオルもこのままで良いか、と思うこともあるのだが、記憶を取り戻してもらいたい。
どういう経緯で記憶を失ったのかは定かでは無く、もしかしたらそれほどに辛いこともあったのかもしれない。
でも、楽しいこともたくさんあっただろうし、辛いことでも、それを乗り越えた経験は青少年の成長には大きな糧となる。
だから、トオルは第三新東京市への移住を決めた。
いくら戦自でそれなりの位置にいたとは言っても、極普通の企業ではそんなものは関係が無い。
トオルは中卒で学歴は無く、他の職業についた経験も無い。
まして、ここは第三新東京市である。
ネルフの息がかかった企業が多いし、ネルフと戦自は犬猿の仲というのは、第三新東京市では周知の事実であった。
当然、トオルを雇う企業などありはしない。
トオルの方も最初からそれはある程度予想していたことなのだが、いかに自分達がここで嫌われていたか、というのを再認識させられてやや落ち込みもした。
だが、半ばそれを望んでここに来たのだ。
トオルにとってそれほど気にすることでもなかった。
程なくしてトオルは一軒の喫茶店でバイトを始めた。
やや郊外に位置する喫茶店だが、特に何か意図があったわけではなかった。
元々職種には拘っていなかったし、普通に就職が無理なら、とトオルは正社員を諦めてバイトを中心に探していた。
その中で、時給もそれなりで、新しく借りたアパートから近かっただけである。
ネルフとは全く関係の無かったこの喫茶店のオーナーはトオルの経歴を特に気にすることも無く、あっさりと採用を決めた。
トオルはそれなりに整った容姿の持ち主である。
格好いい従業員がいると、それ目当ての客も増える、との考えで採用されたのだが、その狙いは完全に当たった。
零号機の自爆により、第三新東京市の中心部が失われたが、現在急速な復興が行われていた。
使徒襲来の恐れはもう無く、ネルフと日本政府との交渉で他の地域より優先されて復興がなされ、わずか半年の間に中心部の建設の土台が完成しようとしていた。
現時点ではすでに数棟マンションが建ち、人口は徐々に増え始めている。
学校も数校出来、学生の姿も増えてきた。
それを狙っての出店だったが、予想通りトオルを目当てに来る女性が来店するようになった。
慣れない女性の相手に、トオルも最初は四苦八苦したものだったが、次第に慣れてきた。
いつしか、こんな生活を楽しいと思えるようにトオルはなっていた。
レイナも新しい生活を歩みだしていた。
新設された中学校の三年に編入し、初めての大勢の同級生との生活だった。
レイナには戸籍も何も無い。
その為、正確な年齢も分からないのだが、体格等から恐らく中学生だと考えられた。
また、記憶が無いとは言ってもそれは生活の上の常識や自分の事だけで、どういうわけか学力等に関しては並外れた知識を見せた。
しかし、中学校を卒業した記録が無い以上、高校も受けることが出来ない。
トオルと学校側が検討した結果、三年に編入させることに落ち着いたのである。
レイナもトオル同様、最初は戸惑ったものの、元来の明るさと素直な性格のおかげかすぐに溶け込んだ。
そうして平和な時間が一年半ほど流れた。
2018年
「じゃあ父さん、買い物に行ってくるね。」
「ああ、気をつけてな。」
「もう、子供じゃないんだから分かってるわよ。」
玄関先でそんなやり取りをしながら、トオルはレイナを送り出した。
第三新東京市の郊外に位置する安アパート。
旧東京都の山間の家からここに移り住んで一年以上が経った。
その間、トオルは特に変わることなく喫茶店に勤め続け、最近ではマスターに変わってコーヒーを入れることも多くなった。
色々と教えてくれたマスターを押しのけて自分が入れることに、若干はトオルも申し訳なさがあったのだが、マスターは笑って言った。
「美味しいコーヒーを飲んだほうが客も喜ぶ。」
トオルは自分が入れたコーヒーがマスターより美味しいとは思えなかった。
事実、味に関してはトオルよりもマスターの方がいい。
だが、トオルの入れたコーヒーは不思議と飲む者を落ち着かせた。
そして、それはマスターの入れるコーヒーには無いものだった。
一方、レイナの方もそれなりに変わらない日々を過ごしていた。
中学を卒業後、近くの高校に入学。
学力的には全く問題無かったため、特に苦労せず希望の高校に入学した。
楽しい日々を過ごしながら、毎日を生きていた。
(父さん、か……)
もう聞き慣れた言葉のはずなのに、何故かトオルは気恥ずかしく感じた。
二年近く一緒に生活してきて、最大の変化と言えば、トオルに対する呼び方の変化だろう。
暮らし始めた頃は、そこら辺に関することがすっぽりと抜け落ちていたため、適当に呼ばせていたのだが、レイナを学校に行かせ始めた頃から呼び方が父に変わった。
始めは恥ずかしくてお互いに真っ赤になっていたが、最近はそんなことも無くなった。
実はこれは、レイナなりのトオルに対する感謝であった。
記憶の無い自分を引き取って、二年もの間惜しみない愛情を注いでくれたことを。
トオルがトオル自身のことに悩んでいたことがあることをレイナは知っていた。
それでもそんな素振りを見せず、いつも笑ってくれていたことに、レイナは本気で感謝していた。
だが、自分に父と呼ばれる資格があるかどうか、レイナがいないところで本気でトオルは悩んだこともあった。
多くの命を奪った自分がこんなに幸せで良いのか。
一人の人間を育てることが出来るのか。
それでも、トオルは手に入れた幸せを手放したくは無かった。
今更わがままだとは分かっていても、それをこれからも享受していたかった。
だが、一方ではトオルは覚悟をしていた。
もし、自分が原因でレイナが不幸になるとはっきり分かったときには、レイナを手放すことを。
そして、そのときが来るまでは、全力でレイナを幸せにしてやると。
レイナを見送ったトオルは部屋に戻って外に視線を向けた。
晴れていたと思っていたのだが、いつの間にか雲が広がっている。
普段感じなかった気恥ずかしさと相まって、トオルは何だか胸騒ぎを感じた。
買い物を終えたレイナは、今にも降り出しそうな空を見上げると、歩く速度を速めた。
いつも働いているトオルのたまの休み。
ゆっくりさせてあげようと思って買い物を買って出たのだが、予想以上に時間がかかってしまった。
(傘持って出ればよかったな……)
そう後悔してみてももう仕方が無い。
今はもう降られる前に急ぐしかない。
足を更に速め、帰路を急ぐ。
だが無情にもぽつぽつと雨粒がレイナを濡らし始めた。
慌ててレイナは走り出し、店の軒先に雨宿りをする。
「参ったなぁ………」
そうぼやいてみるが、当然それで天気が変わるわけでも無い。
はあ、と溜息をついてどうしようか考える。
このままもうしばらく雨宿りをするか、それとも濡れながら走って帰るか。
幸いにしてまだそれほど強く降っている訳では無い。
「よしっ!」
今のうちに走って帰ろう、と決めたレイナだったが、突然両手に持っていた買い物袋が地面に落ちた。
「っ!!??」
背後から回された手。
その手がレイナの口を塞ぎ、悲鳴を上げようとしたレイナをそのまま引きずる。
突然の恐怖に必死でレイナは抵抗するが、相手はそれを無視して路地裏へと引きずり込んだ。
乱暴に投げ出され、恐怖と地面に打ち付けられた痛みとで涙がレイナの目に浮かぶ。
雨が強くなった。
雨と涙でレイナからは顔は良く見えないが、どうも相手は3人ほどいた。
興奮した様子で、だが無言で地面に倒れこんでいるレイナを見る。
その内の一人がレイナに近寄る。
怯えるレイナを見ると、ニヤ、といやらしい笑い顔を浮かべ、一気にレイナのシャツを引き裂いた。
恐怖で声も出ないレイナを尻目に、二人目、三人目もレイナの衣服を無理やり脱がしていく。
(いやぁ………)
心の中でいくら叫んでも、その叫びが空気を震わせることは無かった。
恐怖がレイナを蝕む。
暴れるレイナを男達が無理やり押さえ込む。
必死でもがくが、男の力に敵わない。
そして―――
トオルは雨の降る街中を走り回っていた。
レイナが買い物に出かけてすでに数時間が経っていた。
雨は勢いを増し、かなりの時間走り回っていたトオルはすでにびしょ濡れだった。
(どこだ……)
もう数十分もの間トオルはレイナを探している。
しかし、一向にそれらしき姿は見えない。
びっしょりと濡れたシャツがトオルの肌にまとわりつく。
それが不快感を否応無しに増し、トオルの焦りを増していた。
(落ち着け、落ち着け……)
焦りを冷ますため、トオルは一度足を止めた。
顔を上に向け、冷たい雨をたっぷりと浴びる。
いつもは嫌いな雨が、この時ばかりはトオルは嬉しかった。
まだトオルの耳にはあちこちから声が聞こえてきていた。
だが、それも今のトオルには気にならない。
(もう一度、店に戻ってみるか……)
どこか見落としがあるかもしれない。
そう考えたトオルは、再びレイナが行き付けの店へ足を運ぼうとした。
その時、トオルの鼻を嗅ぎ慣れた匂いがよぎった。
(まさか………!?)
雨に薄れてはいるが、その匂いには間違いなく覚えがあった。
一度ついたら中々取れない、そしてあまり嗅ぎたくは無い匂い。
トオルの脳裏を最悪の光景が走る。
その匂いの元へトオルは走った。
店と店の間にある細い路地。
よく見なければ、店の看板で隠れてしまっていて、先ほどはトオルが見落とした場所だった。
そこへトオルが駆けつけた時、そこにはトオルの予想した最悪の、もしくは最悪以上の光景が広がっていた。
近くになるとむせ返るほどの匂い。
未だ絶え間なく雨に流され続ける紅い液体。
そして、全身を紅く染め、ボロボロに引き裂かれた服を申し訳程度に着た、呆然として地面に座り込むレイナの姿があった。
周りには、人間と思われる遺体が三つ残されていた。
原型を留めぬそれは、ズタズタに引き裂かれ、一目見ただけで生を止めている事は容易に分かった。
トオルもその凄惨な光景に、放心状態だったが、我に返るとレイナのところへ駆け寄る。
「おいっ!レイナ!分かるか!?俺だ!」
だが、レイナは何の反応も示さない。
(くっ!!)
動かないレイナを見かねたトオルは、レイナに自分のシャツを着せると、背中にレイナを背負い、雨の中、家へと走っていった。
雨が、痛かった。
アパートにたどり着くと、すぐに風呂場にトオルは駆け込んだ。
レイナを椅子に座らせると、シャツを脱がせて熱めのシャワーを掛けてやる。
血に汚れたレイナを丹念に洗ってやる。
何度も何度も洗ってやる。
まるで憑き物が憑いたかのように、トオルはレイナの汚れを落としてやった。
心の中も綺麗に、真っ白にしてしまえるように。
今日の出来事を、無かったことに出来るように。
レイナを洗ってやっていたトオルだったが、その手をレイナが掴む。
ハッとしてトオルはレイナの顔を見上げる。
笑顔を浮かべるレイナ。
だが、それは痛々しい、泣き出してしまいそうな笑顔だった。
「もう……いいよ……。私は…大丈夫………」
「そうか………」
「だから……もう…出て行って………
そのままじゃ……お父さんが……風邪引いちゃうよ………?」
「でも……」
「お願い………一人にさせて………」
そう言うと、レイナは顔を伏せた。
トオルは無言で頷くと、そのまま浴室を出て行く。
トオルが後ろ手に浴室のドアを閉めると、トオルの耳には小さな嗚咽が聞こえてきた。
トオルは浴室から離れた。
そして、頭から雫が垂れるのも構わず、布団に潜り込んだ。
その日、生まれて初めて、トオルは声を上げて泣いた。
それから三日間、レイナは自分の部屋から出てこなかった。
その間トオルは、部屋の前まで行くが、結局戸を叩くことは出来なかった。
自分が不甲斐なかった。
情けなかった。
何も、守れなかった自分が恨めしかった。
そんな自分がどうして、声を掛けることが出来ようか?
そんな思いがトオルの中を駆け巡る。
そしてトオルの中に一つの疑念が沸き起こった。
今の自分はレイナの心配をしているのではなく、レイナに触れてレイナを失ってしまうことを恐れているのではないか。
それを恐れて、レイナから逃げているのではないか。
(はは……俺がレイナを支えていたんじゃなくて、俺がレイナに支えられていたのか……)
椅子に腰を下ろしたトオルは、しばらくの間嗤い続けた。
窓からの明かりにトオルは目を覚ました。
寝ぼけ眼の目を擦る。
テーブルで寝てしまったらしく、無理な体勢だったのか、体のあちこちが痛かった。
軽く体をほぐしていると、三日ぶりにレイナの部屋の戸が開いた。
レイナの目元は真っ赤に泣き腫らし、目も紅く充血していた。
「……もう、いいのか……?」
恐る恐る、といった感じでトオルはレイナに尋ねる。
トオルの問いかけに、レイナは笑顔を浮かべて頷く。
それは浴室で最後に見た、辛い笑顔では無く、吹っ切れた笑顔だった。
その表情に、トオルは少し安心する。
フウ、と息を吐き出し、肩の力を抜いた。
だが、トオルの体はまだ緊張が見て取れる。
トオルはまだ、レイナにどう接してよいか、分からなかった。
レイナはそんなトオルを見て、笑みを浮かべる。
そして、トオルにゆっくりと体を預ける。
トオルはそのままレイナを抱きしめてやりたかった。
しかし、トオルの迷いが、それを許さなかった。
レイナは腕をトオルの背中に回すと、ゆっくり口を開いた。
「……あのね、私、話さないといけないことがあるの………」
「話…?」
「だから、ちゃんと最後まで聞いてね。
お父さん………」
笑顔を浮かべ、トオルの顔を見上げるレイナ。
トオルは気がつけば、レイナを思いっきり抱きしめ、泣いていた。
そして、レイナの話が終わったとき、別の思いから、再びレイナを全力で抱きしめた。
shin:や〜っと過去編が終わった〜
シンジ:長かったね〜
ミナモ:本来ならどれ位の予定だっけ?
shin:元々一話の半分。それが四話分になったからな……
ミナモ:で、それだけの価値はあったの?
shin:自分の中ではあったとは思ってるけどな
シンジ:まあそれを決めるのは読者の方々だからね
shin:分かってるよ
