「まだ起きてたの……?」
和室の入り口から声がトオルに掛けられる。
深夜で、物音一つ立たない程静かだったが、廊下を歩く音が全くしなかった。
それでもトオルは全く驚かない。
少し顔を動かして声の主を見遣る。
「お前こそまだ起きてたのか……って寝てたみたいだな。」
寝ぼけ眼で、フワフワと言った擬音が似合いそうな様子の相手を見て、トオルは即座に訂正した。
薄い青色のパジャマで、わずかに髪は寝癖が付いている。
「またお酒飲んでる………」
「ああ、偶には月でも眺めながら飲みたくなったんだよ。」
「ん〜……私にもちょうだい………」
「お前未成年だろ?」
「昼間勧めておいて何を今更……」
「それもそうだな。」
そう言うと、トオルは立ち上がって冷蔵庫へと向かう。
冷凍庫から氷を取り出し、続いて冷蔵庫からウーロン茶を出した。
和室にそれらを持ってくると、グラスに氷を入れ、ウイスキーを注ぐ。
次いでウーロン茶でウイスキーを割り、台所から持ってきた箸でかき混ぜた。
カラカラ、と小気味良い音が和室に木霊する。
「ほれ。」
「ん。ありがと。」
レイナはグラスを受け取ると、トオルの隣に座る。
窓から入る月明かりがレイナの髪を蒼く照らす。
軽くレイナはウイスキーを口に含む。
熱い液体がレイナの喉を流れる。
「〜〜〜〜っ!!効く〜〜〜!!」
「当たり前だ。お前今までウイスキー飲んだこと無いだろ。」
「うぅ〜……飲まなきゃ良かった………」
顔をしかめてレイナはグラスをテーブルに置こうとするが、トオルがその腕をつかむ。
「だめだ。ちゃんと飲んでしまえ。」
「いじわる……」
チビチビと飲んでは顔をしかめるレイナ。
隣で百面相をするレイナを、トオルは妙にほほえましく感じる。
トオルは、しばしレイナの顔を眺めていたが、やがて月に視線を移した。
第八話 生と死
2005年
中学を卒業したトオルは、高校には進学せず、戦略自衛隊へと入隊した。
それからの日々は、トオルにとって非常に充実したものだった。
朝からひたすら訓練。
戦自の訓練は非常にきついものがあった。
ここ何年か、ずっと鍛えていたトオルだったが、あまりのきつさに初日からいきなり胃の中の物を全て戻してしまった。
もっとも、これはトオルに限らず、同時期に入隊した新人皆がそうであったが。
午後は、短い昼休みの後にまずは座学。
戦史から戦略、戦術、指揮について徹底的に詰め込まれる。
トオルの様に中卒で軍に入隊した場合、長く在籍していても階級が上がることはあまり無い。
トップに立つのは防衛大などを卒業した、言わばエリートであり、これはセカンドインパクト後のどの国の軍であっても基本的には同じであった。
一応、座学も習いはするのだが、それほど力を入れては行われない。
学歴無しで出世することは無く、そう言った人々は単なる兵士、良くても軍曹などで止まる。
兵士に頭は必要ない。トップが欲しいのは忠実に動く駒としての兵士である。
では何故、トオルがそう言った教育を受けているのか。
これは戦自がまだ出来て日が浅いことに起因している。
前世紀の自衛隊は、基本的に国連軍に属している。
それとは別に、日本独自で、一応は専守防衛を旨とした軍隊として戦略自衛隊が2003年に設立された。
自衛隊から幹部がそれなりの数で籍を戦自に移しているので(本波シンヤもその中に入っていた)、現在の首脳部については問題が無いのだが、若い組織である戦自では尉官、佐官といった幹部が絶対的に不足していた。
それに対する解決策として、若くして入隊した新人たちを鍛えている。
言うなれば、幹部の促成栽培である。
勿論、誰でも彼でも昇進できるわけではない。
前世紀末からの風潮であった実力主義は、セカンドインパクトを経てその力を更に強めた。
そのため、学歴に関わらず実力がある者は出世が可能になった。
とは言え、ただでさえ人材不足の戦自に全てのそういう兵士に教育を施す余裕は無い。
それでは、どうやって育成する人物を選ぶか。
それは入隊時によって決定される。
基本的には希望者は全て入隊が認められる。(一部、検査によって肉体的に問題があると判断された者は別だが)
その際、筆記試験も同時に行われていた。
これは知識を問うものでは無く、知能や頭の回転の良さ、機転などを試すものだった。
それで好成績を残した者は、トオルは知らなかったが、他の者と別の隊に組み込まれ、徹底した教育が行われる。
その試験で中々の成績を残したトオルだが、座学が終了した後の訓練が終了した後も自室で必死で勉強した。
中学の時は漠然としていた目標が、今は確実に形となって見えていた。
戦自に入隊して、未だに自分でも青臭いと思う目標。
今、自分にとって何が必要か。何をすべきなのか。
それがはっきり分かる環境は、トオルにとっては天国とも言えた。
故に、トオルにとってそういった訓練や座学は、きつくはあるものの、決して辛い物ではなかった。
だからこそ、物事の吸収も速い。
だからこそ、人より努力を重ねることが出来る。
だからこそ、自分を磨くことが出来る。
そして、トオルは月日を重ねるに連れて、若い戦自の中でメキメキと頭角を現していった。
だが、トオルは一つ大切なことを、そして、本来気付いておくべきことを忘れていた。
2012年
高屋トオル、23歳の年。
戦略自衛隊に入隊して7年。
日々の厳しい訓練で自らを磨いていた少年の姿はすでに無く、大人になったトオルがいた。
成長途中で、160cm弱しか無かった身長は更に伸びて170cm台後半に。
出来上がっていなかった体つきも、見た目の線の細さは残ったものの、鍛えられて引き締まったものへと変化していた。
残念ながら、童顔の顔だけは以前と変わらなかったが。
自分の努力ではどうにもならない部分故に、トオルの悩み事の一つになっている。
というのも、施設の廊下を歩いていると、よく声を掛けられるのだ。新人隊員に。
皆、決まってトオルのことを新人の隊員だと思っていた。
トオル自身は、階級と言うものをプライベートな時間については重視していなかったので、声を掛けられたのは嬉しかった。
まさか自分が新人だと思われているとは思いもしなかったので、後で階級が分かったときの相手の豹変には驚いた。
さすがに最近は間違えられることも少なくなってきたが、今日もまた間違えられた。
(そんなに幼いのか……?)
わずかに落ち込みながらも、昼食を取り終えたトオルは、気を取り直して士官室へと向かう。
白い廊下を歩き、角を曲がってすぐの部屋の前に立ち、ドアのところにはめられたネームプレートを見る。
木島ハルイチ三佐
トオルの所属する部隊の指揮官に当たり、その指揮にはトオルも尊敬している。
慎重で堅実、だがすべき時には大胆に。
曹長という階級ながら、トオルもよくハルイチに意見を求められる。
もっとも、それらは意見と言うよりも教師が生徒に問題を出すのに近いのだが。
そしてかなりの頻度で鉄拳が飛んでくるのには、トオルも勘弁して欲しかった。
その時の経験故か、若干緊張しながらドアをノックする。
「高屋トオル曹長です。」
「ああ、入りたまえ。」
「失礼します。」
プシュ、と軽い音と共に扉が開かれる。
ハルイチは椅子に座ってトオルを待っていた。
やや強面の口から、それに似合った低い声が吐き出される。
「今日は君に辞令を伝える。
正式な物はまだだが、一足先に君には伝えておこうと思ってね。
明日書面で通達されるが、明日付けで高屋トオル三尉に昇進する。
また、それに伴い、本部隊第三小隊隊長を任命する。
更に、十日後に派遣されるインドネシア派遣軍に第三小隊を率いて参加してもらう。
正式なものでは無いので復唱は結構だ。
何か質問はあるかね?」
セカンドインパクトによる津波、及び南極の氷の融解により、海洋沿岸の各国は海洋戦力の大半を失った。
それに加えて、気候の変化、紛争の続発で前世紀のアメリカを始めとする先進国は影響力をも失った。
国連も形だけは残っているものの、すでに形骸化しており、まともに動かせる軍をどこも出す余裕は無い。
日本の自衛隊も国連軍に組み込まれているが、数は絶対的に足りていなかった。
そのため、戦自は―――つまりは日本政府―――影響力を大きくするため、まだ頻発する紛争の鎮圧に積極的に―――かつ極秘裏に―――軍を派遣していた。
トオルが指令を受けたインドネシアも小規模な紛争が絶えない地域の一つである。
「はあ、三尉を拝命するのに異存はありません。
小隊を任されるのもですが、どちらも光栄です。
ですが、一つだけ質問があります。」
「何だね?」
「どうして自分が派遣軍に参加することになるのですか?
自分は今現在曹長で、部隊の指揮を執った経験はありません。
その自分が、どうして重要な国連の派遣軍に加わることになるのです?
自分よりもっとふさわしい方が居るかと思いますが………」
「君の能力を信頼している、ではダメかね?」
「……三佐は常に堅実な指揮をしておられます。信頼してくださるのは嬉しいですが、それは無いかと。」
言いながらトオルの背中は、冷や汗でびっしょりになっていた。
(殴られませんように………)
心の中で祈りながらハルイチを見る。
ハルイチはトオルを仏頂面でじっと見つめていたが、不意に頬の筋肉を緩める。
ニヤッと笑い、齢50に近いハルイチの顔に深いしわが刻まれた。
「ふむ、私のことを少しは理解しているみたいだな。
確かに君の力なんぞ大した事は無い。
だが、事情がこちらにもあってな。」
ハルイチは胸ポケットからタバコを取り出して火をつける。
大きく煙を吸い込み、一息ついたところで話を続ける。
「もう君にも話してもいい頃だろう。
入隊の時に筆記試験があっただろう?
あれは、言ってしまえば幹部候補生を選抜するためのものだ。
で、君は晴れてその試験に合格し、基礎訓練を経て私の下に配属されたのだ。
君が入隊して長らく訓練していた場所、あれは全てその試験に合格した者が集められていたんだ。
知らなかっただろう?」
突然明かされた真実に、驚きの表情を浮かべるトオル。
ハルイチはいたずらが成功した子供の様な笑みを浮かべる。
「だが、紙の上でいくら優秀でも意味が無い。
そこで今回の派遣に君に白羽の矢が立ったというわけだ。
何、心配するな。実はもうインドネシアの戦闘はほとんど終了している。
今回のは言わば日本政府のポーズの為の派遣だ。
だから君に経験を積ませるのに持って来いだと言うのが、この部隊の幹部の一致した意見だ。
これで納得したかね?」
有無を言わせぬ勢いでハルイチは捲くし立てた。
強面の見た目とは裏腹に、トオルの上司は一度語りだすと雄弁だった。
この場合、下手に口を挟もうものなら痛いことが起こるのが分かっている。
なので、ハルイチにばれない様、こっそりと溜息をつくと、トオルは敬礼した。
「分かりました。ありがたく拝命させて頂きます。」
「うむ。まあ気楽に頑張って来い。こっちでも十分にサポートしてやるから。」
「はい。ありがとうございます。」
ハルイチに礼を言い、部屋を辞そうとしたトオルだが、ハルイチに呼び止められた。
「はい?」
「……もうちょっと君は自分に自信を持っていいと思うぞ。」
そう言うとハルイチは椅子ごとトオルに背を向けた。
トオルは無言で頭を下げ、今度は部屋を後にした。
十日後、トオルは予定通り小隊長としてインドネシアに到着した。
先日ハルイチから聞いていた通り、現地の情勢はかなり落ち着いていた。
事前に聞かされてはいたが、やはり自分で直に感じるまではトオルは不安だった。
だが、実際に到着してみると、なるほど、前々から派遣されていた他国の兵士たちの空気も、戦中のそれとは明らかに違っていた。
それを感じ、トオルはホッと安堵の息を吐く。
安心したトオルは部下を数名引き連れて、現地の指揮官の下へ挨拶に出向いた。
指揮を執るのはアメリカ軍陸軍大佐、アルバート=ジョンソン
トオルからしてみれば雲の上のような人物だが、一目見たとき、トオルは自分とアルバートが合わないだろう事を感じた。
トオルは見た目上はそれを表に出さず、普通に接したが、アルバートのほうはトオルに対する嫌悪感を隠そうともしない。
「ふん。玉無しの日本人がようやく腰を上げたか。」
「申し訳ありません。これから精一杯働かせて頂きます。」
「余計なことはせんで良い。ここは我々だけで十分だ。ジャップの手なんぞ借りんでも大丈夫だ。日本に帰ってそう伝えろ。」
アメリカ南部出身のアルバートは露骨なまでに白人主義で、日本人を始めとする黄色人種を心底嫌っていた。
ましてや、日本はセカンドインパクト以降、いち早く復興して、世界の中心となろうとしていた。
旧世紀の弱腰の日本政府の印象しかないアルバートにとって、そんな国が昔のアメリカに取って代わろうとしているのは我慢なら無いことである。
(やれやれ、これは疲れそうだな………)
内心でアルバートの振る舞いに呆れながらも、トオルは適当に言葉を並べてその場を辞した。
ハルイチのなど、思慮深い人物ばかりを見てきたトオルにとって、アルバートのあからさまな態度は、今後、とても信頼できるものでは無い。
(注意を払う必要があるな………)
まさか戦場で弾が後ろから飛んでくるとは思わないが、盾に使われる可能性がある。
ましてや自分の階級は、派遣された部隊の幹部の中では最低に位置する。
あの大佐の下では、ありえない訳では無い。
果たして、そのトオルの危惧は、まさに現実のものになった。
NEON GENESIS EVANGELION
EPISODE 8
Weave Past2
トオル達の部隊はアルバートの指示の下、密林の中を進行していた。
与えられた任務は、付近に潜伏しているであろう、反政府軍の部隊を引き付けること。
言い換えれば陽動部隊である。
危険な任務ではあるが、情報によればこちらに割かれるであろう敵はほんの一部で、更にトオル達の部隊の後ろには他の部隊が付いてきている。
補給も十分で、心配事は少ない。
アルバートの考えた作戦は単純なものだった。
すでに戦況は国連軍及びインドネシア政府軍に優勢で、大勢はすでに決していた。
残った反政府軍はゲリラと化し、急襲しては引き上げる、といった攻撃を繰り返し、少しずつ国連側に被害を与えていた。
だがようやく国連側は敵の本拠地と思われる場所の特定に成功した。
そこでアルバートは、圧倒的な物量をもって制しようと考えた。
まず二方向から急襲し、敵部隊を引き付ける。
ある程度引き付けたところで本隊を送り込んで本部を制圧する。
アルバートも決して無能では無い。でなければ大佐にまで出世できるはずも無い。
若くからあちこちに派兵されていたアルバートは、ゲリラの力というものを決して甘く見てはいない。
地元故に地形を最大限利用し、不慣れなこちらを巧みに追い込む戦術。
正面から真っ向勝負で挑むより味方の損害を少なくする。
例え、陽動が失敗してもその時は正面からぶつかるのみ。
そして、アルバートが優秀なものがもう一つ。
それは人を見抜く力である。
アルバートは日本人が嫌いだが、トオルの能力については見抜いていた。
階級こそ低いが、戦自の上層部が期待するのも分かっていた。
だから………アルバートはトオルの部隊を見殺しにしようとした。
有能な人間が育つのは困る。
アルバートにとって、今後世界の覇権を取り戻すのは自国でなければならない。
アメリカが他国、特に黄色人種の傘下に入ることは許されない。
アメリカこそが世界の正義。
それがアルバートにとっての正義だった。
『よし、作戦開始。』
「了解。」
アルバートの指示を受け、トオル達は行動を開始した。
地軸が変化したとは言え、まだインドネシアは熱帯に位置する。
ジャングルの多くの木々が湿気を保ち、トオルの服に汗がねっとりと絡みつく。
常夏の日本に慣れはしたが、だからと言ってにじみ出る汗の感触に慣れたわけではない。
不快さを隠しながら、部下たちに声を掛けていく。
「いいか。いつも通りに動けば大丈夫だ。訓練の成果を発揮することだけ考えろ。」
トオルの呼びかけに、無線機から次々と返事が返ってくる。
トオルはその返事に頼もしさを感じていたが、背中に流れる冷たい汗だけは消すことが出来なかった。
作戦通りトオル達は敵の見張りを派手に攻撃した。
ただし、決して深く踏み込まず、敵を出来るだけ多く、遠くに引き付けるように。
だが、それにしては敵の数が多すぎる気がする。
それに自分たちの後ろにいるはずの、支援部隊の姿が先ほどから見えない。
(まさかな………)
頭に浮かんだ嫌な予想に、それを振り払うように大きく頭を振る。
そして、予定のポイントに到達したところで、トオルは本隊へと連絡を取るため無線のスイッチを入れた。
「予定のポイントに到達しました。これより帰還します。誘導お願いします。」
だが、無線からは何の返答も無い。
故障かと思ったが、それにしては無線の向こう側からは音が漏れ聞こえている。
引き続いて呼びかけるが返事は無く、プツッ、と短い音を残して通信は切れた。
いや、切られた。
呆然と立ち尽くすトオル。
「隊長!!」
そばにいた副官の叫び声でトオルは我に返った。
(くそったれ!!)
捨てられた。
それだけがトオルに分かったことで、大声で怒鳴り散らしたいトオルだったが、努めて冷静に副官に聞き返す。
「どうだ!弾薬は持ちそうか!?」
「ダメです。とてもこのままでは……」
いい終わらぬままに、副官が突如としてトオルの目の前で倒れる。
トオルは慌てて抱え起こすが、副官は荒い息を吐き出すだけである。
腹部に手を当てていたトオルだが、ぬめっとした感触にトオルは自らの掌を見る。
そこには紅い、どろりとしたものが張り付いていた。
副官を抱える右手から熱がどんどん逃げていく。
それと共に、トオルは自らの体が冷え切っていくのを感じていた。
(これが戦場か………)
トオルも戦闘に参加するのはこれが初めてではない。
ハルイチの指揮の下、それなりに戦場で場数を踏んでいた。
だが、戦自の期待する仕官であるトオルがいたのは比較的安全な地帯だった。
体が震える。
死が、死の恐怖がトオルの体を支配する。
トオルの頭上を背後を次々と弾丸が通り抜けていった。
すさまじいまでの熱気と、冷たい感触。
生と死という、相反する要素が入り混じる。
生々しい戦場の空気が、戦自に入って初めて死というものをトオルに深く自覚させた。
『隊長!どうなっているんです!?補給部隊は何処にいるんです!?』
『くそっ!!何だってこんなに数が多いんだ!?』
『やばい!!逃げろ!!』
小隊内と接続された無線から、隊員の悲痛な叫びがトオルの鼓膜を揺らす。
自分の呼吸が荒い事を、自分が震えていることもトオルは分からない。
ただ、怖い。
逃げ出したい。
どうして俺はここにいる?
正義の味方になりたいんじゃなかったのか?
困っている人を助けたいんじゃなかったのか?
その俺が何故人を傷つけている?
何故自分の目の前で人が傷ついている?
何故自衛隊なんかに入ったんだ?
(決まっている。戦争で傷ついている人を救い出すためだ。)
なら自分がやるべきことは何だ?
ここで死んでしまってもいいのか?
やり残したことは無いのか?
(まだ何もやってない。だから俺は生き残る。全員を連れてここから抜け出す。一人も欠けさせない!)
やることは決まった。
いつしか、トオルの震えは止まっていた。
「全員に告げる!支援部隊の到着は地形の所為で遅れている!よって我々だけでここを脱出する!各員速やかにポイントCに集合しろ!」
この地にすでに慣れている熟練の部隊が、地形の所為で遅れるなど考えられない。
だがそのようなことは、極限状態に追い込まれている彼らにとってどうでも良いことだった。
すぐさま返事が次々と返ってくる。
まだ若い、実戦経験も乏しい自分を信頼してくれている部下たちが、トオルは嬉しかった。
トオルは返事を聞くと、すぐに持っていた非常用の応急セットで副官の手当てを始める。
自分よりわずかに年長の副官。
何度か同じ作戦に参加したこともあり、トオルが隊長になってまだ間もないが、よくやってくれていた。
処置を施す手に力が入る。
弾は貫通しているらしく、また当たった箇所も腹部の端の方だったため、出血も少なく、何とかなりそうだった。
その時、トオルの頬を一発の弾丸が掠める。
頬に傷が入り、わずかに紅いものがトオルの頬を伝う。
驚いて振り向くと、敵兵らしき姿が数人トオルの方へと迫ってきているのが見えた。
その後方に、かなり遠方にいるのか、米粒の様な大きさだが、次々とトオルのいるところへと押し寄せている。
その数はとても見張り部隊とか、その応援に駆けつけた部隊の数ではない。
明らかに敵部隊のほとんどが出てきている。
(おかしい……俺らがいたのは本隊から最も遠い地点のはずだ!こちらに集合をかけたとしても早過ぎる!)
次々と起こる予想外の出来事に、トオルの頭は飽和状態に近かった。
だが、状況はトオルに落ち着く暇を与えない。
頭上を雨のような弾丸が通り過ぎていく。
絶望
その二文字がトオルの頭の中で踊る。
頭を下げて頭上の死の香りから逃れつつも、必死で頭を振って、ともすれば目を背けてしまいそうな現実を見据える。
(まだこの数なら何とかなる………)
悠長に考えている暇は無い。
下唇を血がにじむほど強くトオルはかみ締めた。
素早く覚悟を決めると、やけに軽く感じるハンドガンを手に副官の元を後にした。
茂みの中から猛スピードでトオルは駆け出す。
自分の技術を上げることに妥協などしてこなかった。
ならば、トオルはただ己の腕を信じるのみ。
駆け出しながらハンドガンから弾を二発ずつ撃ち出す。
そしてそれらの全ては、吸い込まれていくように敵兵の頭へ、体へと入り込んでいく。
鉄の匂いがトオルの鼻へ吸い込まれた。
不快な匂いにも関わらず、トオルは全く表情を変えない。
一人、二人、三人。
自らの手で初めて散らす紅い花を、トオルは冷静に眺めていた。
あまりにも簡単に消え行く命とは裏腹に、冷たい掌の中の鉄の感触がやけにはっきりと感じられた。
呆けるトオルだったが、突如として左腕を襲った鋭い痛みに、慌てて身をかがめる。
迷彩服の切れ間から、紅い線が見えた。
(危ない……今のは本気でラッキーだった……)
戦場で気を抜くなど、狂気の沙汰としか思えない。
下手をすれば今の銃撃で頭を撃ち抜かれていてもおかしくなかった。
トオルは自分の幸運に心から感謝した。
敵の数は確認したつもりだったが、まだ残っていたらしい。
トオルからは相手の姿は見えないが、相手も同じだろう。
そう判断したトオルは、ハンドガンのマガジンを交換する。
続いて無線で部下たちの動向を確認した。
『こちらは予定地点に到着。付近に敵兵の姿は見えません。残りは隊長たちのみです。』
「分かった。すぐに追いつく。引き続き付近の警戒を怠るな。」
『了解』
無線を切り、深呼吸をして気を落ち着ける。
息を大きく吐き出すと、再びトオルは駆け出した。
敵の姿が見えない。
そこで、トオルは先ほど弾が飛んできた方へと適当に弾を撃つ。
弾が無くなる危険があるが、トオルにはあまり時間が残されていない。
トオルは自分の幸運に賭け、そして最初の勝負に勝った。
茂みの一部が、小さく動いた。
そしてトオルはそれを見逃さない。
未だ姿は見えないが、大体の位置が分かっただけでも大きい。
トオルはその茂みに向かって走りながら発砲する。
弾丸が草を揺らす音だけが耳に入り、トオルに手ごたえは無かった。
それでもトオルは撃ち続ける。
相手も覚悟を決めたか、茂みから飛び出し、トオルに向かって撃つ。
だが、あまり訓練されていないのか、トオルを掠めはするが、中々命中しない。
トオルの指に力がこもる。
しかし、黒い銃口から鉛が吐き出されることは無かった。
カチン、と金属音が響くだけで、何の反応もしない。
悪態を吐くでもなく、咄嗟にトオルはハンドガンを投げつけ、すぐさま腰のナイフに手を掛けた。
トオルの目に、驚き、慌てて銃を避ける相手の姿が入った。
「おおおおおおおおおおおおおぉぉぉっ!!!!」
「ああああああああああああああああっ!!!」
トオルが雄たけびを上げながら相手に飛び掛る。
急激に大きさを増す銃口。
最早トオルには自分の叫び声すら耳に入らなかった。
「敵の本拠地を占拠。敵兵に降伏を伝達し、すでに兵を引き上げさせました。」
「こちらの被害は?」
「負傷者が数名いますが、いずれも命に関わるものではありません。ですが………」
全てが終わり、アルバートの元に副官が報告する。
一階建ての簡素な木造の建物の中、アルバートは回転椅子に座って報告を聞いていた。
戦況の推移を一通り聞き、続いてアルバートは自軍の被害を尋ねる。
アルバートに被害状況を尋ねられた副官だったが、最後に口ごもった。
アルバートもその理由には思い至っていた。
自分でそうなるように仕向けたのだから当然とも言える。
ほくそ笑むのを隠そうともせず、アルバートは副官に続きを促した。
「日本の戦略自衛隊からの派遣部隊と連絡が取れません………
恐らくは………」
「そうか………」
アルバートは椅子から立ち上がり、窓の外を眺める。
空は晴れ晴れとし、今のところにわか雨が振る様子も無い。
視点を正面に戻せば、兵士達がそれぞれ帰還を喜んでいる様が見えた。
「已むを得ん。日本政府にそのように連絡を取れ。」
「……はい。」
暗い表情で副官が返事をした時、何やら廊下から騒がしい声が司令室の中まで聞こえてきた。
何事かとアルバートはドアの方へと振り返る。
荒い足音が聞こえ、ドアの向こうで止まったかと思うと、突然大きな音を立ててドアが開かれた。
そこに現れた男の姿に、アルバートだけでなく、一緒にいた副官までもが圧倒された。
迷彩服のあちこちが破れ、泥に汚れて、手足や顔には無数に切り傷が刻まれていた。
疲労が表情からはっきりと見て取れ、それは荒い呼吸からも容易に分かった。
優しげな表情は也を潜め、崩れた前髪の奥から、細められた目がアルバートを射抜く。
「………日本国戦略自衛隊・高屋トオル以下14名、全員帰還しました。」
「そ、そうか。ご苦労だったな。」
「重傷者1名、軽傷13名。死者ゼロ。簡単ながら報告を終了させていただきます、大佐。」
「あ、ああ……」
「では失礼します。」
どもりながら返事をするアルバートを尻目に、トオルは部屋を後にした。
だが、部屋を一歩出たところで立ち止まり、アルバートを冷たく見据える。
「もうアンタとは会わないだろうから言っておく。
つまらないことをしましたね。きっと素晴らしい余生が待っているだろうな。」
それだけ吐き捨てると、今度こそトオルは部屋を出て行った。
その後、日本に帰国したトオルは戦自上層部にこの件を報告。
上層部からの報告を受けた日本政府は、非公式にアメリカ政府に厳重抗議。
アメリカは副官からの証言と合わせてアルバートを軍法会議にかけ、アルバートはその場で軍を追放。
元々旧世紀とは立場が逆転していた日本とアメリカは、わずかながらその立場の差を広げることとなった。
これが転機となったか、アメリカはその後も国際的な発言力を弱めていくこととなる。
トオルは、それからも世界での紛争に参加。
失敗もあったが、部下の隊員を従えて各地で功績を挙げ続ける。
そして、2016年のあの日を迎えた。
shin:ギリギリ間に合った……
シンジ:お疲れさま
ミナモ:結局今回も過去の話だけなのね。
shin:どうしても過去の話が長くなってしまうな……
本来なら、長くても今回でレイナとの絡みまで行きたかったんだが。
シンジ:このままだと次回もまるっと過去話だね。
shin:そうだな。
ミナモ:ところで、軍に関する内容って全部適当でしょ?
shin:適当って言うな。
まあ軍に関してはどういう仕組みか全然知らんから全て想像になってしまうんだが……
ミナモ:色々突込みが来そうね。
shin:大目に見てくださると助かります……
それと誤解の無いように言っておくと、アメリカ人が嫌いなわけでも無いし、日本が大好きと言うわけでもない。
アメリカと言う国はあまり好きにはなれんが……
シンジ:全てフィクションですので、あまり気にしないでくださいってこと?
shin:まあそういうことだ。
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