第七話 少年と老人
「フン〜フフフン〜♪」
ザーというシャワーの音とともに、上機嫌な鼻歌が浴室の方から聞こえてくる。
ネルフでも毎日きちんとシャワーを浴びていたが、やはり自宅のほうが落ち着く。
レイナは気持ちの良い刺激を全身に浴びながら、鼻歌をずっと歌っている。
浴室から漏れ聞こえてくる下手では無い歌を聞きながら、トオルはリビングの方でビールを傾けていた。
トオルは元々酒はあまり飲まない。
弱いわけでは無いし、酒のうまさも熟知、とまで行かないものの、人並みには知っている。
ただ単にコーヒーの方が好きだから家でもコーヒーの方を飲んでいるだけである。
それでもたまには酒のほうを飲みたいときもある。
そして今日が偶々その日だっただけだ。
決してレイナが帰ってきたからでは無い。
誰に言うでも無く、心の中でそう突っ込んでみるが、やはり娘が帰ってくるのは嬉しい。
とは言っても、ネルフに行ってからまだ一週間程度しか経っていないが。
コップを口元に持っていって傾けてみるが、何もトオルの口に入ってこない。
コップを覗いてみると、そこにはガラス越しに茶色いテーブルが見えるだけだ。
どうやらいつの間にか飲み干してしまっていたらしい。
コトコトと瓶からコップにまたビールを注ぐ。
ちょうどそこに風呂から上がったレイナがタオルを肩にかけてやって来た。
「あ〜!!ちょっと!何やってんのよ!?」
部屋に入ってきたレイナが突如大声を上げる。
トオルはその声に驚き、飲みかけていたビールが気管に入ってゴホゴホとむせてしまった。
ぜーぜーと荒い呼吸をしていたが、ようやく治まったのか、恨みがましい目でレイナを見つめる。
「な、何だ!突然!?」
「何だ、じゃ無いわよ!何昼間からお酒飲んでんのよ!?」
「何だ、そんなことか。」
「そんなこと、じゃ無いわよ!どうしたのよ!お店は!?」
そう、レイナがシャワーを浴び、トオルがリビングでビールを飲んではいるが、時間はまだ夕方にもならない時間。
部屋の中にかかっている時計が正しいならば、まだ午後3時。
言うなれば、今が一番のかきいれ時というわけである。
当然、今みたいに酒をかっくらっていいような時間ではない。
「あ〜……店は閉めた。」
あっさりとそう言ってしまうトオルにレイナはポカーン、と大きく口を開けたまま固まる。
「なっ、なっ……」
「いいだろ、たまには。どうせ今日は大して客も来ないだろうし。」
「でも………」
「折角お前が帰ってきたんだ。今日ぐらい、な?」
言いながら、トオルは自覚していた。
やっぱりレイナが居なくて寂しかったんだと。
(全く……年老いたじーさんじゃあるまいし…)
そう心の中で呟いてみてもやはり嬉しさは隠せない。
それに気付いてか、レイナもしょうがない、といった表情を浮かべて溜息を小さくついた。
「はぁ………ったく……」
「というわけで、どうだ?お前も。」
ニヤッと笑って空のコップをトオルはレイナに差し出す。
自分のコップはすでにあることから、どうやら最初からレイナと飲むつもりだったらしい。
「しょうがないなぁ……今日だけよ?」
「よぉし!!話が分かるじゃねえか!!」
「でも………」
レイナの表情が途端に変わる。
続いてトオルもそれまでのニヤニヤとした嬉しそうな顔から急に不機嫌になる。
「折角いい気分だってぇのによ。」
「一応所属を確認してね。
ネルフだったら私に教えて。勝手に出てきちゃったから……」
「めんどくせえな。何だってそんなことしたんだ?」
「それは後で話すわ。
とりあえず今はお客様に丁重にお断りしなきゃ。」
「そうだな。」
腰を上げて店のほうに二人は向かった。
「そう言えば、お前が帰ってきたときにぶっ倒した奴、あれは確認しなくて良かったのか?」
廊下を歩きながらトオルが問う。
レイナは頬をぽりぽりと掻きながらあさっての方向を眺めている。
「いやぁ……その………つい……」
要するに、レイナも深く考えての行動では無かったらしい。
ただ何となくまともそうな人間じゃなかったから、というのが本当のようだ。
それにただトオルは溜息だけをついて応える。
「お前なぁ………」
「後で考えたらネルフの人だったのかなぁ、なんて………」
「………」
「ネルフの人だったら謝っとかないとなぁ………」
「当たり前だ。」
しゅん、となっているレイナを放っておいてトオルは店に出る。
そこにはすでに二人ほど黒服の男が居た。
先ほどの男と同じような空気を持っている。
多少警戒しながらトオルは二人に話しかけた。
「スミマセンが今日はもう店は閉めてるんですがね。どちら様でしょうか?」
「ネルフの者です。網谷レイナさんですね?本部の方へ来ていただきます。」
一人がトオルに簡潔に所属を述べると、レイナに向かって用件を述べる。
だが、念を入れてトオルは所属を示す物の提示を求めた。
無言で男はネルフのIDを差し出す。
「なるほど、信用して良さそうですね。
ところであの男はネルフの人間ですか?」
言いながら店の端に居る、縛られた男の方を指し示す。
そちらに視線を向けると、もう一人の男に縄を解くよう指示し、トオルと話している男の後ろにいた方が縛られている男の方に向かう。
「申し訳ありませんでした。変質者と思って殴り倒してしまいまして。この辺りは変な奴が多いもので。」
「ごめんなさい。目が覚めたら私が謝っていた、と伝えてください。」
トオルが適当に理由を述べて謝罪し、レイナもその後ろから頭を下げる。
男は特に表情を変えるわけでも無く、軽く頷くと再びレイナに用件を述べた。
「ごめんなさい。申し訳ないですけど、私はネルフに戻る気はありません。葛城さんにそう伝えてもらえますか?」
「その申し出は受けられない。我々は君を連れてくるよう命令を受けている。葛城部長には自分の口から伝えるといい。」
レイナのお願いをあっさりと断る。
レイナもそう簡単に相手が引き下がるとは思っていない。
どうしようかと思案していたが、目の前の黒服を見て、レイナはポン、と手を叩いた。
「ちょっと携帯を貸してくれませんか?携帯、本部に置いて来ちゃって。」
ははは、と軽く笑いながら男に頼む。
本部からこっそり脱出するため、レイナは荷物をそのまま本部内に置いてきた。
病院から比較的近いトレーニングルームのロッカーの荷物は病院服から着替えるために持ってきたのだが、部屋の荷物を取りに行くわけには行かない。
それなりの量の荷物を持ってきたのだ。大荷物を持って脱出できるわけが無い。
また格闘訓練の日、偶々携帯を部屋に置き忘れてきた。
レイナにとって特に重要な物でも無かったため、特に気にせずそのまま本部内に放置してきたのだが。
「どこに電話する気だ?」
「葛城さんに。事情を全く話さず出てきちゃいましたからね。大騒ぎになっちゃってるでしょうから私から説明をします。」
「君が本部に来れば問題は無い。」
「葛城さんにそう言われたら行きますから。」
この提案に男は少し考えた。
レイナが素直に行く気が無いのは明らかだ。
いざとなれば力ずくでも連れて行くが、なるべく手荒な真似はしたくない。
目の前の少女もネルフに所属している身であるため、情報の漏洩といった心配も無いだろう。
「分かった。だがこちらから葛城部長に連絡を取る。」
「ええ、構いません。」
レイナの了解を得て―――得なくてもだが―――自分の携帯でミサトに連絡を取る。
数秒のコール音の後、男は何事かミサトに伝えるとレイナに携帯を差し出した。
軽くレイナは礼を言ってそれを受け取る。
「もしもし。」
『もしもし?レイナちゃん?』
「こんにちは、ミサトさん。」
『どういうことか、説明してくれるわよね?』
普段より、幾分低い声で聞いてくるミサト。
どうも勝手に居なくなったレイナに対して大分怒っているようだ。
内心で冷や汗を掻きつつ飄々とレイナは答える。
「はは、すいません。」
『はあ……まあいいわ。無事のようだし、早く戻ってきなさい。』
「それは出来ません。」
きっぱりと断るレイナ。
意志のこもったその返事に電話の向こうのミサトも気圧される。
「今こうやって電話を差し上げたのもそのことをミサトさんにお伝えするためです。
一方的であるのは分かっています。一度承諾しておきながら今更、ですから。」
『ならせめて説明だけでもしに来なさい。これは命令よ。』
ミサトとしては命令などしたくない。
またレイナに対して命令が何の意味も持たないことも分かっている。
だが、今のミサトにはそれ以外何も思いつかない。
予想通りレイナはその命令を拒否する。
「お断りします。
多分………私はもうネルフには行かないほうがいいんです。」
『………この間のことを言ってるのね?
でも、いつもああいう状態になるわけじゃないし、原因が分かれば………』
「いえ、原因は分かってるんです。ただ………」
『言えない、てわけね。』
「すいません。」
レイナの言葉の先を察したミサトが続きを言う。
ミサトとしては溜息を禁じえないが、恐らくこれ以上何を言ってもレイナは本部に来ないだろう。
レイナは原因が分かっていると言った。
そして、それはネルフ本部、という環境が起因しているのだとミサトは推測した。
しかし、ミサトとしても何の説明も無しではゲンドウたちに報告も出来ないし、自分も納得出来ない。
それならば、とミサトは頭の中でスケジュールを確認する。
『なら私がそっちに行くわ。それならいいでしょ?』
「本当にスミマセン。」
『いいわ。どうせ来る気なんて最初から無かったみたいだし。
その代わり、とびっっっきり美味しいコーヒー準備しといてね!!』
「ありがとうございます。お父さんによく頼んでおきますね。」
『よろしく……てあっ!ちょ、ちょっと!!』
なにやら電話の向こうが騒がしく、ガタガタと音がする。
すると、間もなく怒鳴り声が受話器から聞こえてきた。
『レイナ!?アンタ今何処に居んのよ!?』
「ア、アスカ?」
『アンタ、分かってんでしょうね?アタシに何したか?』
「あ、ははははは………さよなら。」
プツッ、ツーツーツー………
シーンと店内がした中、受話器から回線の切れた音だけが空しく響く。
「ははっ、切っちゃいました………
…まずかったですか?」
「いや、後でこちらから確認を取れば問題は無い。
葛城部長は何と?」
「後でこちらに伺ってくださるそうです。」
「そうか。なら我々も撤退する。」
本来ならこの場でもう一度連絡を取って確認を取るのだが、男はそれをしなかった。
普段なら相手がどんな人物であれ、似たような状況のときは欠かさずすぐさま連絡を取り直した。
だが目の前の少女に限ってはそんな必要も無い気がする。
「折角来てくださったのに何だか申し訳ないです。」
「気にすることは無い。」
男は始めと変わらぬ表情のままそう言うと、一緒に来たもう一人の男を呼ぶ。
店の端を見れば、最初にレイナが気絶させた男も立ち上がって控えている。
見たところ、もう動くのに支障は無いようだ。
「さっきはゴメンナサイ!いきなり殴り倒しちゃって………」
レイナは、本日最高の角度で殴り倒した男に頭を下げる。
しかし、その男もちらりと視線をレイナに向けると無表情で
「気にするな。」
と言っただけで再び前を見ただけだった。
だが、レイナもそれでは気が治まらない。
何かお詫びに出来ることは無いかと思って考えていたが、何かを思いついたのか、ポン、と手を叩くと笑顔で提案をする。
「そうだ、この後少しだけお時間ありますか?」
昔、使徒が襲来していて子供たちが皆学校に通っていたときならいざ知らず、今となってはチルドレンの警護担当の諜報部員はあまり仕事が無い。
だからと言って特別暇と言うわけでは無いが、それなりに時間はある。
とは言え、現在は仕事中である。
だが、何を言い出すかは分からないが少しくらいなら大丈夫だろう。
「ほんのわずかだが無いことも無い。」
「良かった!
よろしかったらコーヒーの一杯でもどうですか?」
そう満面の笑みで話すレイナの後ろではいつの間にやらトオルがコーヒーのスタンバイをしている。
すでに人数分のカップにコーヒーが注ぎ込まれ、芳しい香りが諜報部の三人の鼻をくすぐる。
「いかがですか?」
一層深い微笑で尋ねてくるレイナ。
いつもならやはりこういう誘いにはならない。
時間があろうと無かろうと。
しかし、今日ばかりはこういうのもいいかもしれない。
「……ではお言葉に甘えていただこうか………」
そこで初めて三人は表情を崩してカウンターに腰掛けた。
NEON GENESIS EVANGELION
EPISODE 7
Weave Past
夜。
誰もが寝静まる深夜。
物音一つしない静かな空気で、外からも何の音もしない。
付近の明かりは全て消え去り、ややひんやりとした空気が開け放たれた窓から流れ込んで、それと共に淡い月明かりが差し込む。
物音一つしない、とは言ったが、よく耳を傾けると、カラン、と小さな音が一つ。
明かりの消えたリビングの片隅、月明かりがよく入る窓際にトオルは座っていた。
氷の入ったグラスをクルクルと回すと、もう一度澄んだ音が響いた。
じっとその様を見つめていたトオルだが、グイッとグラスを傾ける。
ウイスキーの冷たさと、アルコールが喉を通る時の熱さがたまらない。
昼間はビールを飲んでいたが夜はウイスキー。
トオルに酒の好みはあまり無い。
ただ昼間はビールの気分だったし、夜はゆっくり飲みたかったからウイスキーにしただけだ。
窓の外に視線を移す。
ほんのり蒼い光がトオルの半身を照らしていた。
何故かトオルは月を見るとレイナのことを考えることが多かった。
ここしばらくはそんなことは無かったが、今日はレイナが帰ってきたからだろうか。
氷が少し溶け、カラン、とまた音を響かせる。
目を閉じると、3年前のことが明瞭に思い出されてきた。
2016年
トオルは芦ノ湖湖畔を歩いていた。
顔を伏せ、暗い表情で何かを考えているようにゆったりと歩を進める。
端正な顔立ち。
美少年と評されてもおかしくないほど十分に整ったその容姿はモデルなどの職業を思わせる。
あくまで顔だけ見れば、だが。
迷彩服に肩に掛けた自動小銃。
単なるミリタリーマニアにも見えなくも無く、トオル自身も数年前まではそのことに悩んでいたが、今はそんなことは気にしてはいない。
悩む必要も無いほど、明確な実績も十二分に残した。
今では、彼の率いる小隊は世界各地で恐れられている。
曰く、戦場に似つかわしくない顔立ちの男に出会ったら諦めろ。それは天使の皮を被った悪魔だ、と。
トオルもそんな噂は耳に入っている。
(そう言われるのは光栄だが、悪魔は無いだろう………)
一度ぼやいてみたことがあったが、同僚たちは聞く耳を持たなかった。
自覚は無いが、戦場での自分はかなり苛烈らしい。
ただ死にたくないから必死で生きているだけなのだが。
そういう時は多少腹立たしさを感じていたが、もうそういった噂を耳にすることは無くなるのだろうか。
このままこちら側に立ち続けるか、それともこの世界から足を洗うか。
高屋トオル 27歳 戦略自衛隊 二尉
彼は今、人生の岐路に立っていた。
トオルは元々戦いが好きではなかった。
おとなしい性格で、小学生の頃でも、喧嘩などほとんどしたことが無い。
勉強は好きだが、ガリ勉というわけでは無く、人当たりの良い性格ゆえか、クラスでも特別目立つ存在では無かったが孤立することも無かった。
両親は揃っており、一人っ子だったため、過剰なほどに愛情を注がれていた。
トオル自身も当時から幸せだと感じていたし、今思い出しても幸せだった、と胸を張って言える。
だが、そんな幸せを幸せだと自覚できていた時期は、長くは続かなかった。
世界中を等しく襲ったセカンドインパクト、及びその余波。
トオルも例外では無く、暖かかった家を、家族を失った。
それでもトオルは幸運だった。
両親を無くして程なく、国が緊急に設立した孤児収容施設に入所できたのだから。
勿論、以前のような生活は出来ない。
食料が不足していたのは、この時代どこの国でも同じであったし、日増しに増えていく施設の孤児に、大人たちも全員に気を配ることなど出来ない。
誰もが同じような傷を心に抱いていた。
大人であっても幼い子供に気を配ることなど、とてもそんな余裕は無かった。
しかし、ここでもトオルは幸運に恵まれた。
今までと違い、何もかもを自分一人でやらなければならない。
そんな生活にもやっと慣れ始めたある日、トオルが施設の入り口の掃除をしていた時、一人の、中年からそろそろ老齢に差しかかろうという年の男性が訪問してきた。
白髪混じりの頭髪ながら、強い意志を持った目と、服の上からでも分かるほど鍛えられている肉体。
(かっこいい………)
トオルは純粋に、ただそう思った。
トオルが挨拶をすると、その男性はにこっと笑いかけ、職員室の場所を尋ねてきた。
トオルは、男性を職員室に案内すると、元の清掃場所に戻った。
その後には施設の学習プログラムが始まったため、あの男性とはその場は、それっきりだった。
ただ、その男性がトオルに残した印象は大きかった。
昔から、トオルは正義の味方が好きだった。
テレビで放送される戦隊物は、毎週欠かさず見ていたし、幼稚園の頃には本気でそういったヒーローになろうと思っていた。
勿論、それはずっと幼い時の話で、今はちゃんと現実は見えている。
そんな正義の味方なんて現実には存在しない。
そう思っていても、トオルの心の中ではどこか、正義の味方に対する思いがくすぶっていた。
警察官でも消防士でもいい。
職業は問わない。
ただ、誰かを救うことが出来たらそれだけでいい。
トオルは自身の青臭さを自覚していた。
それでも、困っている人を助けることが出来たら。
目の前で誰かが死ぬ、それを止めることが出来たら。
トオルは先ほどの男性の職業は知らない。
だけど、何となく彼を見たらそんな思いが少しだけトオルの中で大きくなった。
それから、トオルは毎日体を鍛え始めた。
勉強も人並み以上に頑張り始めた。
正義の味方になるために。
ここでもトオルを取り巻く環境は恵まれていたと言わざるを得ない。
他の施設ではこの当時、どこも生きることに必死で誰もがどんなことでもやっていた。
盗みに暴行、施設を抜け出しては強盗や殺人を犯した子供もいた。
職員たちも誰彼構わず、子供たちを虐待していた。
そんな施設がほとんどの中、トオルのいた施設は規律はかなり厳しいものの、大人にも子供にも暴力を振るうものはいなかった。
目上の者は年下の者を守り、目下の者は年上の者を敬う。
施設では比較的年長であったトオルは、自分のことだけでなく、積極的に、とまではいかないが、なるべく年下の子供たちの面倒を見るように心がけるようになった。
そういった日々は、トオルにとってとても充実した日々だった。
すでにトオルの中に、両親を失くした悲しみは小さくなっていた。
そうして過ごした二年後。
中学三年が終わろうとしていたある日、再びあの男性が現れた。
この日もトオルはいつも通りに過ごしていた。
筋トレを一通り終え、休憩をしていたトオルは、比較的仲の良い職員に呼ばれて部屋から出た。
そのまま職員室へと連れて行かれ、更にその奥の応接室に通される。
一礼して、トオルが入っていくと、そこには男性と校長が椅子に座って談笑していた。
トオルが入ってきたのに気付くと、男性も立ち上がって頭を下げる。
トオルの中に、初めてその男性に会ったときの思いが蘇ってきた。
頭髪に白髪は増えたものの、あの時あこがれた、引き締まった体は健在だった。
心無し、目は優しくなったように感じられたが、それはそれで人を惹きつけるものがある。
「君と会うのは、二回目だね?」
男性―――老人と言ってもいいだろう―――がにっこりと笑いながら話しかけてきた。
「おや、お知り合いですか?」
「ええ、以前ここに来たときに案内してもらいましてね。
いや、しかし、立派に成長したものだね。さすがは男の子だ。」
感慨深げな様子で老人はトオルを見つめる。
何故自分がここに呼ばれたのか、いまいち事情を飲み込めないトオルはただぼーっと立ち尽くすだけだ。
それに気付いた校長が、トオルに説明する。
線は細く、人の良さそうな笑顔を浮かべながら事情を話した。
「この方は戦略自衛隊の偉い人でね、ずっとここの援助をなさってくれていたんだ。」
「はあ、ありがとうございます……」
自衛隊、という言葉がトオルに引っかかる。
自衛隊―――この場合、旧世紀の自衛隊ではなく、現在の戦略自衛隊だが―――と言えば国を守る人たち。
この頃のトオルは少なくともそういう認識だった。
トオルの中に初めて職業として自衛官という考えが浮かんだ瞬間だった。
「このご時勢だ。ずっと多くの人のために頑張っていらっしゃったんだが……」
「さすがに体がついていかなくなってね。つい先日、辞めたんだよ。」
校長の話を引き継いで老人が話を続ける。
「私は、恥ずかしながら伴侶が居なくてね。ずっと大勢に囲まれていたから、急に一人になるとどうにも寂しくてね。
そこで、ここの施設のことを思い出したんだ。
どうだろう?老い先短い老人の話相手として、家に来てくれないかな?」
笑顔でトオルに尋ねる老人。
トオルは考える。
決して大きくない施設だが、運営するにもやはりそれなりの資金がかかる。
十分に大きくなった自分が出れば、多少なりともお金に余裕が出来るだろうし、新たに身寄りの無い子供を入れることも出来るだろう。
セカンドインパクトから数年たった今でも孤児は増え続けている。
海面上昇による、都市の水没。
その後の各地の紛争、伝染病の蔓延。
ここ日本でもそれらの余波が襲い掛かっていた。
そうした人たちの役に立てるのなら……
それに………
頭を上げたトオルは、笑みを絶やさない老人に向かって深々と頭を下げた。
老人に連れられて家へと向かったトオルだったが、その家を見て驚きを隠せなかった。
詳しい役職は分からなかったが、目の前の老人は仮にも戦自の高官だった人間だ。
色々と大変な時代に、私財を投げ打って援助をしてくれるような人物の家なので、かなり裕福なのだろうとトオルは思っていた。
だが、今トオルの目の前にある住居は、お世辞にも立派な家とは言えなかった。
施設からそれほど遠くない、東京都の山間部にある借家。
敷地こそそれほど狭くは無いが、庭と思われるところは方々に雑草が生え渡っている。
その中央に建つのはボロボロのトタン屋根の、木造の平屋。
横に長かったら、江戸時代の長屋を思い起こさせる。
呆然と家を眺めるトオルを尻目に、老人―――名を本波シンヤという―――は玄関を開ける。
「ほら、こっちだよ。早くおいで。」
苦笑いしながらシンヤはトオルに呼びかける。
その声に、慌ててトオルは家の中に入る。
外見はあまり綺麗とは言えなかったが、中のほうはきちんと掃除されていた。
間取りは2DKで、居間と、寝室があるのみ。
ともに六畳で、二人で暮らすには十分な広さだが、やはり、とても元戦自高官の住家とは思えない。
シンヤに案内されるままに部屋に通され、荷物を整理していたトオルだが、居間から声を掛けられる。
トオルが居間に行くと、シンヤがエプロンをつけて、出来上がった料理をテーブルに並べていた。
「ああ、すまないが並べるのを手伝ってくれないか?」
にっこり笑ってトオルに頼む。
その顔に、二年前の厳しい視線は無く、ただ優しさだけが漂っている。
施設からここに帰るまでの間、二年前ほどでは無いが、意志の強さが目からにじみ出ていた。
それが家の中では消え、好々爺然とした空気に変わっている。
外とガラッと印象の変わったシンヤに戸惑いながらも、言われて料理の盛られた皿を居間に運んでいく。
全てを運び終わり、二人で席に着く。
「まあ、今日はゆっくりしてくれ。疲れただろう。」
「はあ…。いただきます。」
ご飯と味噌汁、そして野菜炒めがいい匂いを立てている。
トオルは味噌汁を口元に運ぶ。
一口飲んだ瞬間、トオルの表情が驚きに染まる。
「美味しい………」
「そうかい?良かった。口に合ったようだね。」
嬉しそうにシンヤは口元を綻ばせる。
トオルは、施設に不満は無かったが、唯一欠点があったとすれば、それは毎日の食事だった。
まずいわけではないが、当時の食糧事情もあって、あまりいい物は手に入らなかった。
施設を出る間際になって、多少いい食料が手に入るようになっても味があまり変わらなかったのは料理人の腕の所為なのかもしれない。
それと比べれば格段にうまい食事に、トオルは次々と食べ尽くしていく。
シンヤは笑顔でトオルの食べっぷりを眺めていたが、やがて自分もゆっくりと食べ始めた。
「中々いい食べっぷりだったね。」
苦笑しながらシンヤはトオルに話しかけた。
トオルは恥ずかしくなって、椅子に座ったまま顔を赤くしてうつむく。
昼食の食器は全て片付けられ、今、シンヤはお茶をすすりながらくつろいでいた。
食事が終わってから恐縮しきりのトオルを見て、微笑んでいたシンヤだが、急に真面目な顔で話し出す。
「………すまないね。こんなボロ屋でびっくりしただろう?」
「い、いえ!そんな………」
「自分一人で暮らすつもりだったから、こんなものでいいかな、なんて思ってね。
まあ、大きい家に住む金も無かったんだが………」
「?、どうしてです?」
疑問に思ったトオルは尋ねてみる。
つい先日まで社会的にも立派な職業についていたのだ。
戦自の給料がどれくらいか、トオルは知らないが、それなりにお金はもらっていただろうと純粋に思った。
「あまり大きなお金は持たない主義でね。まとまった金が入るとすぐ使ってしまったんだよ。
おかげで今はこんな家に住んでるんだがね。」
がっはっは、と優しい顔に似合わず、豪快に笑い飛ばすシンヤ。
この短期間に様々な顔を見せるシンヤに、戸惑いながらもトオルは申し訳なさそうに口を開いた。
「………僕たちの為に……ですか……?」
シンヤはその言葉にピタッ、と笑いを止めると、手に持っていた湯飲みをテーブルの上に置く。
まずいことを言った、と思ったトオルは、顔を伏せて身を縮こまらせる。
しかし、頭上から聞こえてきた声にトオルを責める色は微塵も無く、むしろ自嘲の響きを持っていた。
「いや、自分の為、かな。
過ぎたお金は身を滅ぼす。事実、私は出世したはいいが、その分組織の内部の腐敗もたくさん目の当たりにしてきた。」
寂しそうにシンヤは話す。
トオルは何も言えず、ただ黙って聞いていた。
すでに中が冷えてしまったのか、湯飲みからの湯気は見えない。
「たくさんの同期の奴がいた。 何人かは出世したが、久々に会った時、すっかり人が変わっていたよ。 酒を飲みながら笑い合ってた時の面影は無かった。」
「………」
「もう一つは、ただの自己満足だ………
自衛官でありながら、たくさんの国民が死んでいくのを黙って見ているしか出来なかった。
混乱を治めるためとは言え、多くの自国民を殺してしまった。
理由がどうあれ、それは自衛官として……何より人として許されることでは無い。
君たち子供は国の宝だ。だから君たちの生活を助けることが、そういった人たちに対しての贖罪になれば、と思ったんだ……」
告白を終え、茶を入れるために席を立つシンヤ。
その背中が、つい先ほどまで大きくて強そうだった背中が、今のトオルの目にはやけに小さく映った。
(この人は………)
勿論、素晴らしい人だと思う。
恐らく、私財のほとんどを孤児院の援助に使ってしまったのだろう。
そういう人だから、多分、出世しても、自分の為にお金を使うことなんてほとんど無かったんじゃないだろうか。
何故そこまで自分を罰するのか。
何故、そこまで自分を責めるのか。
セカンドインパクトは未曾有の大災害だった。
誰の責任でもない。
それに、多分、懸命に命を救おうと努力したはずだ。
混乱を抑えるにも最大限、人を傷つけないように治めようとしただろう。
会って、まだほとんど時間が経っていないが、それ位の人柄は分かる。
なのに、この人は自分を許せない。
許す気も無いのだろう。
自らの罪として………
(かわいそうな人だ………
だけど…強い人だ………)
たくさんの人の命を一人で背負い込む。
それはどれくらい辛い事だろう。
(正義………)
突然、その言葉がトオルの頭をよぎる。
何故だかは分からない。
けれど、唐突に出てきたそれは頭から離れない。
どうすれば正義の味方になれる?
頭が良くて知識があれば?
素晴らしい反射神経があって、悪者を倒せばいいのか?
普通の人には無い、特殊な力があればいいのか?
何が必要なのか?
シンヤみたいに全てを背負い込める、その強さがあればいいのか?
「本波さん………」
「あっと、良かったらシンヤ、って呼んでくれないかな?」
笑いながらトオルに頼むシンヤ。
そこに先の表情は無い。
「シンヤさん………正義って何ですか………?」
「これはまた唐突だね。」
「僕は……その、恥ずかしいんですけど、ずっと正義の味方になりたい、って思ってました。
あっ、別にテレビの戦隊物とかそういう意味じゃなくて……誰かの役に立ちたいというか、皆を守る仕事に就きたいというか……」
「ふむ。それで?」
「シンヤさんは、そういう意味では僕にとっては正義の味方なんです。
でも、シンヤさんはずっと…自分を責めて、傷つけて……
話を聞いただけですけど、シンヤさんは頑張ったと思います。もっといい思いをしてもいいと思います。」
「トオル君。」
トオルは必死で何を言おうか考えていた。
うまく言葉になってくれず、自分でも苛立っていたが、出てくるのは稚拙な言葉だけ。
それでも何とか言いたいことを伝えようとするトオルだが、それを遮るようにシンヤが口を開いた。
「私は君が思っているような立派な人ではない。
私はあの日―――南極に隕石が落ちて、たくさんの人が目の前で死ぬまで正義と言うものを考えたことは無かった。
単なる職業として自衛官を選び、それ相応の最低限の自覚は持っていたが、決して国民を守るなんて意識は無かった。当時は平和だったからね?
でも、あの日を境に全てが変わった。
世界中で紛争が起き、日本も例外では無かった。
毎日が生きるか死ぬかで、部下にたくさん人を殺させた。
そして、皆の精神も病んでいった。
生きる為から楽しみに。いや、ストレスを考えれば、それすらも生きるためと言えるかもしれないな。
大した罪でも無く、むやみに人を射殺する。
そんなことが当たり前になっていったんだ。
当然だが、今考えれば、そこに正義は無かった。
正義について考えたことは無かった、と言ったが、少なからず自衛隊は表面上は正義の部隊であるべきだと考えていたんだ。
でもそれすらも無かった。
私は怖くなった。いつか自分も人としての最後のラインも超えてしまいそうで。
私はすぐに一線から退いた。
老後のため、と思って貯めておいたお金を全てはたいて孤児院を作った。
そうしなければ不安に押しつぶされてしまいそうだった。
そんな理由で建てた孤児院だったが、子供たちの顔を見て本当に救われた気がしたよ。
屈託の無い笑顔で毎日を生きる。
その時、自分の中の正義が出来たのかもしれないな………」
「自分の中の…正義……」
「子供たちの笑顔を決して失ってはいけない。
よく聞く様な言葉だが、心からそう思うよ。
何があっても子供たちを守る。安心して生きていける世界を作る。それこそが私にとって成すべき事であり、正義でもある。」
長い話が終わり、喉が渇いたのか、シンヤは先ほど入れたお茶をすする。
その間、トオルは今の話を噛み締めていた。
「トオル君、君の質問には答えられない。
何故なら絶対的な正義など存在しないからだ。
君は君なりの正義を見つければいい。私は出来ることならば、何でもその手伝いをする。」
その時のシンヤの瞳には、施設を訪れたときと同じような強い意志が宿っていた。
その一年後、戦略自衛隊の入隊を希望するトオルの姿があった。
shin:う〜む……
シンジ:どうしたの?
shin:いや、思っていたより話が長くなってしまったな〜、と
ミナモ:確かに……特に過去話がね
シンジ:本来はどのくらいの予定だったの?
shin:本来ならこの話の後半部分で過去の話を全部書いてしまうつもりだったんだが……
ミナモ:後どのくらい続くの?
shin:……多分、後一話まるまる………
ミナモ:また結構な文量になるんでしょう?更新ペースもあまりあがらないし、大丈夫なの?
shin:善処する………
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