08年6月の東京高裁。傍聴席を埋めた組合員と家族の目は、証人席の元国鉄職員局次長に注がれた。87年の国鉄分割民営化で、合理化や雇用対策を担当した葛西敬之・JR東海会長。「民営化反対の国労に属したことを理由にJRに採用されず、旧国鉄清算事業団に解雇される差別を受けた」と訴える組合員側にとって、約20年をかけて対面する「キーマン」だった。
JR九州の労組別の採用率が国労で40%、他がほぼ100%だった点を問われた葛西会長は「個々人の勤務実績などが総合的に判断された公正な結果だ」。傍聴席からため息が漏れる。裁判長が「(民営化を断行した)中曽根康弘首相が回顧録で『民営化は国労をつぶす目的だった。国労がつぶれれば、総評(国労などで構成した当時最大の労組中央組織)がつぶれ、社会党がつぶれる』と述べているが?」と尋ねると、強く反論した。
「これは『子の心親知らず』の典型。我々には組合がどうなるとかはどうでもよく、それが目的というのは本質を取り違えているのではないか」。中曽根氏を親に例え、指摘を一蹴(いっしゅう)した葛西会長。だが、小さな意図もなかったのだろうか。
国鉄が労使一体で分割民営化に抵抗していた82年。評論家の屋山太郎さんは月刊誌に「国鉄労使『国賊』論」という論文を発表した。巨額の赤字やヤミ手当・カラ出張に象徴される緩んだ職場を告発する内容だった。
屋山さんは発表直後、中曽根氏のブレーンだった瀬島龍三・伊藤忠商事元会長(故人)に呼ばれ、口止めされたという。「『国賊論』は良かった。これで国労は黙っていても成敗されるから、公の場で『国労をつぶせる』とか言ってはいかん。(改革が)経営再建ではなく、他の動機と思われては大変だ」
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約27万人いた国鉄職員のうちJR7社が採用したのは約20万人。約7600人は国鉄清算事業団に移り、このうち最終的に解雇された1047人の大半が国労組合員だった。国鉄は自動的にJRに移行するわけではないとする「新旧分離」を規定した国鉄改革法が、その大量の振り分けを可能にした。
国鉄当局でその枠組みを提唱したのが、出向していた江見弘武・元高松高裁長官。現在は弁護士で09年以降、JR東海監査役も務める。江見監査役は取材に対し、「(新旧分離は)会社更生の一般論を言っただけ。人切りの制度を考えたと言われるのは名誉ではないが、不名誉でもない」と淡々と話した。
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分割民営化は国鉄が抱える巨額の赤字を理由に推進された。クルマ社会に押され、不採算路線を保持しようとする政治的打算にも翻弄(ほんろう)された事情があったが、責任は末端の組合員にも及んだ。22万人を誇った国労は脱退者の続出や分裂で、87年には約4万4000人の少数勢力に。総評も89年の解散後、連合に合流し、結果として元首相の思惑通りになった。
09年3月、東京高裁は旧国鉄に1人550万円の賠償を命じた。「国鉄(当局)は国労嫌悪や弱体化の意図を持っていたと推認できる」と差別を認めた。
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戦後最大の労働問題だった「1047人問題」が政治決着し、大半の組合員は旧国鉄相手の訴訟を取り下げ、6月中の和解成立を目指す。23年の軌跡をたどった。
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■ことば
累積赤字を背景に、行革に取り組んだ中曽根康弘内閣で、国鉄改革関連法が86年11月に成立した。87年にJR7社が発足する一方、長期債務返済と再就職促進にあたる国鉄清算事業団が設立された。JR採用にあたっては、国鉄の作った採用候補者名簿からJR設立委員が決める形をとったが、北海道と九州の国労組合員を中心にした約7600人が不採用となり、「採用差別」を争う複数の訴訟が続いた。
毎日新聞 2010年5月3日 東京朝刊