渡辺 詠子 (12年度入 美術専攻)
これから発表を始めます。
まず始めに、研究の目的と方法を述べます。
「夢二式」美人画家として、また詩人として有名な夢二ですが、本の装丁など、デザイナーとしての仕事も数多くあり、デザイナーの先駆者としても重要な存在です。また、夢二は港屋での服飾小物の販売や、浴衣の図案を婦人雑誌に掲載するなど、女性の装いに対して積極的に関わっていました。
堀修氏は、当時、「夢二式」という言葉は、夢二画に描かれた女性、という意味だけではなく、「夢二式」美人に憧れた「夢二式」の女が日常生活に登場し、流行となり、当時の風俗を代表する言葉になっていたと述べています。
本研究では、「夢二式」に見ることができる夢二の美意識が、実際に当時の若い女性の装いにどのくらい反映されていたか、夢二の女性の装いに対する美意識や、当時の風俗を検討することによって、夢二はデザイナーとして、グラフィックデザインの分野だけではなく、服飾デザインの分野でも先駆的な役割を果たしたといえるか、服飾デザイナーとして位置付けてよいか、当時の様子を示す文献や風俗資料から考察します。
次に、研究の内容ですが、第1章では、「夢二式」に見られる夢二の服飾美学を、大正期に描かれた夢二画を中心に考察します。ここで「夢二式」とは、堀修氏の指摘するように、「夢二式」美人そのものとその装い、着物の模様、すなわち夢二が描いたもの全てであり、それを取り入れた風俗をも含むものと位置付けます。
「夢二式」の女性というのは、大きな瞳や長い睫毛、高い鼻、すらりとした長い手足など、明治時代に西洋文化が入ってきてから美しさの基準とされた要素、現代的で西洋的な「ハイカラ」な新しさを持っています。身体の線も丸味を帯び、着物を着用しているが、洋風な印象です。洋風な印象を受ける要因として、帯の結び方があります。夢二画の中の女性たちはみな、帯は胸の高い位置で結んでいます。
(スライド1)例えば、大正初期に描かれた《舞妓》では、明らかに帯は胸高に結ばれていて、脚部が非常に長く強調されています。
また、夢二は、日本の着物を着ていても、襟元を明けて、帯をずっと胸の上へ締め、裾をスカートのように流した風俗は、アメリカ的な格好だと述べています。夢二は、「夢二式」の女性の「着物の装い方」について、洋服的に着物を着ることを支持していたと考えられます。
夢二が、洋服的な着物の装いを支持した背景の一つに、近代になって、新素材の毛織物が普及したことがあります。伝統的な和装は、折り紙のようにメリハリがあったが、毛織の着物にはそれがなく、着装した場合にも、身体の丸身が曲線状に出るので、その表情は肉感的で、日本的ではなく外国的です。このような素材の変化も、夢二の美意識の大きく関係したと考えられます。
次に、夢二画に描かれている女性が身につけている着物の柄や帯のデザインを見ていきます。そのデザインは,従来から用いられている伝統的なデザインもあれば、夢二がデザインしたと考えられるものも多く見られます。例えば、文字が図柄として流行したのは江戸のころです(スライド2)。夢二は一見すると文字ではなく、ツタのような模様に見えるように描いています。伝統的な柄でも、夢二風のアレンジがなされています。
次に、夢二のオリジナルデザインとして描かれたデザインを見ていきます。(スライド3)夢二デザインとして非常にユニークなものに、《稲荷山》に描かれた舞妓の装いがあります。その柄は千鳥に青海波という伝統文様とサーフィンをしているウサギという斬新な文様の組み合わせとなっています。
大正中期の作品としては、(スライド4)《長崎十二景》の中の《青い酒》の女性が身につけている着物は、赤紫色の地にたんぽぽの大柄の模様が印象的です。また帯は「港屋」でも夢二のオリジナルのデザインのものが販売されていたとあって、作品中の帯も個性的な模様のものが目立つ。《女十題 舞姫》に描かれている後姿の女性の帯は、赤いバラの模様です。(スライド5、6)大正期の作品《鴨東の夏》の女性の帯の模様は、夢二が港屋で販売した封筒の同じ模様です。花や植物の模様は、他にもひまわりやチューリップのような花の模様など、多数に使用されています。(スライド7)昭和初期の作品《初夏(はつなつ)》の女性の帯はアルファベット柄というモダンな模様です。夢二はまた、大正時代の女性の普段着である黄八丈の着物や木綿縞を着た女性も数多く描いていているので、夢二の絵は大衆にとって身近で親しみやすく、なおかつ個性的で斬新なデザインも見ることができたことから、それらを身にまとう女性の姿は、新しい美、流行への憧れをも生み出したといえます。
(スライド8)直接的なデザインの仕事としては、大正13年『婦人公論』に中形浴衣模様の新案と女性の浴衣の装い方を寄せています。(スライド9)この模様は《いトし藤》と題され残っています。また、同じく大正12年に、浴衣地「草の葉染」の図案をかいています。「草の葉染」とは、夢二と、美術工芸家である藤井達吉の図案による藍染の浴衣地です。ほかにも、半襟のデザイン等服飾小物のデザインがあります。
夢二画の中に描かれている「夢二式」の女性たちの、「ハイカラ」とされた要素は、まさに「和の中の洋」といえます。帯を胸高に結ぶだけで、「洋風」という「ハイカラ」な雰囲気を味わうことができるのです。
和風から洋風への過渡期の中で、夢二は「洋風」を「和の中の洋(ハイカラ)」という形にして、大衆に親しみ易い形で提供したのです。
第2章では、大正期の風俗について述べられている文献から、夢二の美意識が具体的にどのように若い女性たちに影響を与えていたのかを考察します。
夢二画が1910年代に若い世代の女性たちを中心に支持を広げていくようになると、現実の生活場面に夢二画の女を模倣したファッションが現れるようになり、「夢二式」は夢二の美人画に限定されず、当時の風俗の代名詞として用いられるほどになっています。実際に夢二の絵の通りの着物を染物屋に注文したという話や、当時の流行は夢二によって作られたという回顧談が残っていることからも、夢二の影響は大きかったことがわかります。
また、「夢二式」の特徴でもある胸高に結ぶ帯は、嘲笑の対象にもなり得る最先端の流行である着こなしであったが、夢二は進んで受け入れ、それを再び大衆に提案したと考えられます。
当時、大衆のほとんどが無産階級であり、実際、夢二画に見られる夢二が図案した着物は、斬新すぎて、また、真似して作ろうにもお金がかかるために、自らの着物として取り入れた女性は多くなかったと考えられます。しかし、夢二画の中の庶民的な装いをしている女性からも醸し出されているハイカラな雰囲気は、決して遠い存在ではなかったはずです。港屋で販売されている服飾小物を装いに取り入れたり、雑誌に掲載されている半襟図案をもとにして手作りするなどの工夫によって、「夢二式」のハイカラさを味わうことができたのであると考えられます。「夢二式」に表された夢二の美意識は確実に人々の心を捉えたといえます。
最後に、まとめとしては、「夢二式」の「和装洋風」の美意識は、「ハイカラ」な着物の装い方として大衆に浸透しました。夢二画の中の着物のデザインは、当時の風俗を忠実に描写したものではないにしろ、影響を与えたことは明らかです。現代、世界中で、ファッション・ショーが行われていますが、出品されている服を見ると、到底一般人が着こなすことができないと思われるほど斬新なものであったりします。しかし、その斬新なものを部分的に取り入れながら、一般向けの流行は作られていきます。夢二の場合も同様に、夢二画に描かれたままの、あるいは夢二がデザインした着物は着ることはできないけれど、シルエットや小物で雰囲気を味わうことができました。そうした「夢二式」の美学は、大正期の多くの女性の支持を受けており、一つの服飾美学として位置付けてよいのではないかと考えられます。このような面では、夢二は服飾デザイナーの先駆者として重要であると言えるのではないでしょうか。
スライド一覧
@ 竹久夢二《舞妓》紙本着色 大正初期 126.8×33.2cm 竹久夢二美術館
A 竹久夢二《切支丹波天連渡来之図》絹本着色 1914(大正3)年
111.9×39.2cm 河村コレクション
B 竹久夢二《稲荷山》紙本着色 明治末〜大正初期 135.7×31.0cm
夢二郷土美術館
C 竹久夢二《長崎十二景 青い酒》水彩・紙 1920(大正9)年 36.5×27.0cm
河村コレクション
D 竹久夢二《鴨東の夏》絹本着色 大正期 108.7×41.2cm 竹久夢二美術館
E 竹久夢二 封筒
F 竹久夢二《初夏(はつなつ)》 1928(昭和3)年頃 116.0×34.6cm
河村コレクション
G 竹久夢二《室内より戸外へ》新型中形浴衣模様 1924(大正13)年
婦人公論 第9年第7号
H 竹久夢二《いトし藤》水彩・紙 1924(大正13)年 58.6×38.4cm
竹久夢二伊香保記念館
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