インターネット選挙解禁へ
インターネット選挙解禁へ
24日の朝日新聞によると、「選挙運動ネット解禁へ」参院選からHP(ホームページ)更新に限定、という見出しが躍った。
公職選挙法が改正される、もしくは『解釈改法』なのかもしれない。
しかし、いずれにせよ、ホームページというコミュニケーションツールが、
それまでの「文書図画」に当たるとして制限されたものを、制限を排除するということになる。
さて、公職選挙法は、公正な選挙を行うものである。
ここで「公正な」とは、なかなか難しい定義だ。
アリストテレスが「平等には二つある」とするのが、法学部1年生の授業だ。
私も正確には覚えていないが
「能力に応じて平等に扱う均分的平等」と、「能力などにかかわらず個人一人一人を平等に扱う配分的平等」に分かれる。(逆だったかも)
お金をたくさん持っている人や、権力を持っている人と、一般の人が競争をした場合に、どうしても力のある人が有利になる。
その本人の政策などに違うハンデを出さないために、公職選挙法は、配布できるビラやポスターの数量まで制限する。
もちろん、する・しないは候補者の自由だが、上限を定めていれば、平等であるという。
しかし、日本の場合法律ということに関して言えば、時代の流れに合わない場合がある。
そもそも憲法の解釈がそうではないか。
今の世の中で、憲法9条を議論している。
このナンセンスなところが政府にはある。
「タテマエ」で話をしてしまう政治的なセンスと、情報の決定的な不足、新たな状況への対応の遅さ。
これがこのような状況にしてしまっているのだ。
憲法9条は改めて論じることにするが、このように法律の解釈が遅れて、しまうのは少なくない。
テレフォンカードが出始めのころ、千葉県でテレフォンカードを偽造した人がいた。
当然に「有価証券偽造罪」で逮捕された。
しかし、千葉地方裁判所での判決は無罪。
これは、法律上
「有価証券の定義は、券面上にその証券の価値が記載されているものを言う。
しかしテレフォンカードの場合、券面上にその証券の価値が記載されていない。
テレフォンカードは、使用によりカードそのものの価値が変化し、その変化に応じて金額的な価値も変わるものである。
500度数という記載は、券面の上限のものでしかなく、その時の券面の価値を示すものではない。
よって、テレフォンカードは有価証券と断じることができない。
よって、テレフォンカードの偽造は、有価証券にあたらず、その偽造は有価証券偽造罪の適用にならない」
というものである。
これは、当然に控訴され、東京高等裁判所で逆転有罪となった。
しかし、この千葉地裁の判決でもわかる通りに、新技術に法律がついていかず、その厳密な解釈を行えば、現状と全く異なる法律判断が出てしまう。
なお、現在は「電磁的記録方式証券偽造」が刑法の改正で付加され、このような解釈上の争いはなくなっている。
しかし、それも、この千葉地裁の判決が話題になったからである。
法律の制定よりも、技術の進歩そして、新規技術を使った犯罪は日々進化している。法律だけが遅れている状況だ。
いきなり、犯罪の話にしてしまったが、主題はここにはない。私が言いたいのは「現状」と「法律」の時間的な差についてである。
さて、選挙運動の世界でも同じだ。
公職選挙法をよく読むと、「風呂敷」「行燈」「提灯」など、いまやドラマか時代劇でしか見ないような単語が並ぶ。
昔も今も、法律の限界に挑戦し、少しでも、選挙を有利にしようと考えたに違いない。
選挙とは候補者の広告である。
提灯に名前を書いたり、百貨店の紙袋のように風呂敷に名前を印刷したり、様々な選挙活動をし、
候補者の名前の周知に努めたであろうことは想像に難くない。
そこで、文書図画を制限し、そして、その数量も制限したのだ。
しかし、現在において、提灯や風呂敷を使う人は少ない。それでも、それらの名称が消されないでいる。
これが法律の世界だ。
いまだに文語体で片仮名の記載の法律も少なくないのだ。
さて、選挙に戻そう。
法律で規制されていたインターネットの利用といえども、そのインターネットの使用方法によって選挙がドラスティックに変わるものではない。
ここで、インターネットの特徴を考えてみよう。
インターネットは、簡単にいえばコミュニケーションツールである。
IT革命といえども、それはコミュニケーション革命でしかない。
そもそも、日本人は、明治時代の前島密が郵便制度を作った時、ラジオ、テレビ、ファックスと
「インフォメーション・テクノロジー革命」を何度も体験してきているはずだ。
今回は、その新しいコミュニケーション手段ができたにすぎない。
では、コミュニケーション手段の革命とは何か。
それは、単純にいって人と人の間の「ボーダレス化」でしかない。
コミュニケーション手段の革命とは、コミュニケーションの手段に対する「時間」と「空間」の問題だ。
コミュニケーションでもっとも単純なのが「会話」である。
実際に会って話をする。
これはもっとも単純でもっとも原始的であり、道具を使用しない手段だ。
その代わり、物理的にコミュニケーションの相手と「時間」と「空間」を共有しなければならない。
時間がずれても空間が違っても会話は成立しない。また、広すぎても、声が届かなくても会話は成立しないのだ。
この「時間」と「空間」をいかに広げるか、あるいは、どちらかを広げて、どちらかをそのままにするかで、徐々に技術の変革が行われている。
まず、郵便だ。
古くは飛脚や伝令などもある。
しゃれたところでは伝書鳩などもそうだ。
これは、伝言もしくは手紙という代行手段を持って、「空間」を共有しなくても、意思を通じることができるようにしたものだ。
文字情報によるコミュニケーションを行い、それを、距離的に離れた場所でコミュニケーションを成立させるというものだ。
ただし、時間の共有もないのと、会話と違い文字情報であるためにニュアンスなどが通じないという難点があった。
手紙の難点である、ニュアンスと時間の共有を実現したのが、電話である。
距離的に離れたところでの会話を成立させた道具だ。
しかし、これはよほどの場合でない限り「一人対一人」の会話になってしまう。
一人対マス(集団)のコ開発されるようになったコミュニケーションには、適さない。
また、会話の記録を残しづらいという難点もある。
この電話を文字情報いしたのがファクシミリである。
これについては、両方のよいところ、両方の悪いところを併せ持つ内容になった。
「一対マス」のコミュニケーションにはラジオ・テレビというメディアテクノロジーが出てきた。
「一対マス」これを「マス・コミュニケーション」略してマスコミという。
しかし、「コミュニケーション」という単語を使いながらも、
実際は情報が一方通行で、マスから一への情報や会話が成立しないという難点を持っていた。
今回のインターネットは、このマス・コミュニケーションを双方向化し、そして離れた空間で、時間を共有することが可能であるという利点を持っている。
一方で難点は、マス・コミュニケーションと同じで、コミュニケーションの主役のマス側も、
また場合によっては双方が匿名性があり、会いえが特定できないことである。
匿名性の問題は、
そのまま、コミュニケーションの内容の話に転嫁されたり、インターネットユーザーの個人の個性の問題に転嫁されたりするのである。
インターネットでできることは、実際にマス・コミュニケーションを一人でできるということになる。
一人でそれを行うということは、当然に様々な人が、同じことができるということだ。
逆にいえば、中には嘘も、ガセネタもたくさんある。
「マス」側が本物か、自分で受け入れられるかを判断する時代になったのである。
同時に、インターネットは、双方向メディアである。
今までのマスコミと異なり、批判や賛同をすぐに戻すことができる。
マス側が、情報発信者やそのツールを使って、多くの人に対して、意見を発することができるのだ。
とくに匿名性であることから、それら意見を出しやすい環境になっていることもある。
嘘やガセネタと同時に、過激な表現や誹謗中傷も中に含まれてしまう。
日本人は情報の扱いが非常に下手な国民だ。
企業経営で「親方日の丸」という単語があるが、情報は、一方的に受信者になってしまい、また、嘘や詐欺に耐性が少ない。
そのことがマスコミの誘導による民主党の政権交代にもつながるし、または、「おれおれ詐欺」にもつながるのである。
また、過激な意見という点においては、名誉棄損や殺人予告などの業務妨害につながるケースも少なくない。
そのような事件ばかりが報道されることによってインターネットを敬遠する動きなども出てきてしまう。
教育の現場での裏サイト問題などは、かなりひどいものである。
日本人は情報に対しての体制がないために、ネット上での情報に対しては「ネットの情報だから嘘が多い」というレッテル貼りをしてしまう。
しかし、レッテルを張ってもよいものはよいし、悪いものは悪い。
ネットで言われていた麻生政権の支持と、昨年の総選挙でマスコミが宣伝した民主党政権、
今どちらが良いかは、国民が最も良く判断しているのではないか。
徐々にネット情報に対する耐性もつきつつあるのかもしれないが、
実際は、それらに関して、過渡期でしかなく、その対処方法も、防御策も個人任せになってしまっている状況だ。
まさに「テレフォンカード偽造は有価証券偽造に当たらない」という判決と同じようなことがインターネット上では少なくないのかもしれない。
さて、話を選挙に戻そう。
公職選挙法でホームページの更新を認めるという。
ということは、下手な人は自己満足で『レッテル』の中で、それを行わなければならず、
一方で、うまい人はマスメディアと同じだけの効果を得ることができる。
平たく言えば、自分で自分のメディアを作ることが可能になるということになるのである。
選挙とは、いうなれば「候補者」という商品のプロモーションといって過言ではない。
言い方を変えれば、「マス」を相手にした「候補者」という商品の売り込みだ。
その売り込みにおいて、今まではポスターとビラで対応していた。
後は政見放送と新聞広告だ。
これに対して、今後はインターネットという道具を使うことができるようになった(ホームページ限定とされている)。
インターネットは新たなメディアではあるが、テレビなどと違い、自分でアクセスをしに行かなければ、何も出てこない。
いくらホームページでよい政策を掲げていても、誰もアクセスしない状況であれば、何の意味もない。
ということは、インターネットを解禁したとしても、それ以前に
「自分のホームページを見る」というインフラを整えておかなければ何の意味もないということになるのだ。
その「インフラを整える」作業は、人それぞれである。
日本人の場合、「ネット利用」というと、さも新しくなり、また、
「革命」といって、それまでの環境が一変するかのごとき話を平然と行う。
しかし、実際はそうではない。実際は何も変わらないというのが現状である。
すでにご案内の通りに、私は三橋貴明さんの選挙を手伝っている。
この選挙はインターネット選挙といわれる選挙戦の実験的なものであると考えている。
選挙が終わるまで話せないことは少なくないが、選挙そのものにおいて、
三橋が自分の努力で培ってきたインフラが非常に大きく役立っているといって過言ではない。
というよりは、彼のインフラがなければこの選挙は成立しない状況にある。
逆に、インターネットの世界がどれほど投票行動に結びつくか、そもそも、インターネットユーザーが投票に行くのかさえ疑問である。
その疑問の解消は、投票日までわからないはずだ。
ここで匿名性の悪癖「無責任」が出てしまう。
要するにインターネット上でどれほど立派なことを言っても、
インターネットを離れると何もできなかったり、しなかったりという人は少なくないのだ。
ヴァーチャル世界とリアル世界が完全に分離してしまっている場合が少なくない。
批判や誹謗中傷はよいが、選挙である以上得票行動に結びつかなければ意味がない。
それをどのように解消するのかが最も重要な状況である。
しかし、今法律的に解禁になったばかりであり、今後これらの方法は確立してゆくことになる。
その方法に関して、日本中の全ての人が模索中でしかないのかもしれない。
インターネット選挙に関して、今回は雑感を申し上げた。
新たなこのような技術が出ると「インターネット万能論」や「インターネット無力論」など様々な内容が報じられる。
しかし、実際は、それら道具を使うのは人間である。
当たり前のことだが、コンピューターは人間が操作しなければ何も動かない。
「選挙」が、人が人を選ぶものである以上、そのツールとして新たなものが出てきても、
その内容に関し過度な期待や過度な反応は慎むべきなのではなかろうか。
冷静に、新たな技術や新たな制度を評価し、その特徴を分析する。
日本人は情報の耐性がないために、そのような自分で考えることができなくなってきてしまっている。
それらに関して、今回の制度改正が「日本国民が自分で考えることのきっかけ」になってくれれば、よいのではないか。
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コメント
4/30日に、福岡の三橋貴明さんの街頭演説会に来ていた者です。
博多駅前では演説をする宇田川さんが旗を持っているのを見て、旗持ちの交代を申し出た者です。w
サインもいただき、ありがとうございました。
宇田川さん、ビックリされていましたが、私にとってチャンネル桜の出演者やWillの執筆者は「スター」なのです。
とは言え、ブログにアクセスしたのは初めてですが ...orz
インターネットでの選挙活動が可能になったというのは、演説会でもおっしゃっていた内容ですね。(アカヒ新聞取ってないモノで初めて知りました。)
今までそれができなかったというのもあって、これがどのように影響するのかはホントに結果が出てみないと検証しようもないことなのでしょう。
ところで、私が最近出入りしています「my日本」というコミュニティサイトで、ネット上での立候補者の誹謗中傷は犯罪になるような法案の提出(?)がホットな話題となっています。
誹謗中傷自体は良くないことですし、この部分だけを捉えたら、わからんワケでもないと思いますが「誹謗中傷」と認識されるのが果たしてどのような範囲なのかが非常に気になります。
例えば「○○候補は外国人地方参政権に賛成しているが、トンデモないことだ」と言った政策に対するコメントだって解釈によっては誹謗中傷と取られかねないと危惧しています。
我々法律のシロートからしたら「そういう法案が提出されるぞ」というだけで恫喝にさえ感じるところがあります。
それともう一つ気になるのは、大メディアであるマスゴミが、去年の衆院選の時には麻生さんや中川さん等を大バッシングしていたではないかと、これは誹謗中傷にならないかということです。
そういう意味で、WEBサイトによる選挙活動解禁というのも、色んな意味で制限付きなのではないかと勘ぐっています。
勿論、私は今度の参院選で立候補予定の三橋さんや、ジャーナリストとして活躍の宇田川さんを応援しています。
それでは、今後とも多方面のご活躍をお祈りしています。
投稿: BB | 2010年5月 2日 (日) 17時42分