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PJ: 三田 典玄

日本国憲法が書かれた場所、「服部ハウス」
2010年05月03日 06:33 JST


表から服部ハウスを見る。門の向うに立派なたたずまいの洋館が見える。(撮影:三田典玄 2010年5月2日) 

【PJニュース 2010年5月3日】PJの自宅の近くに「服部ハウス」と呼ばれる大邸宅がある。忍者ハットリくん(←古い)の住まいではない。つい先日話題になった、セイコー関連会社の突然の社長解任人事は覚えておいでの方も多いだろう。現在プリンタなどで有名なエプソンも、もともとはセイコーのグループ会社だが、その企業グループの創始者の一族の名前が「服部」。この前の騒ぎで新社長となった方のお名前も「服部」である。そして、その一族は銀座にある服部時計店を源流とする。その一族の所有になるのがこの「服部ハウス」だ。繰り返すが「忍者ハットリくん」とは関係ない。

Google Earthからもこの大邸宅はよく見える。浅香宮邸に隣接したこのあたり一帯は、江戸時代には細川家の所有したところもある一帯だった。近くには、赤穂浪士四十七士のうち17人が処刑されたと伝えられる庭が今でも残っている。場所は聖心女子学園のはす向かい。上空から見ると広い敷地の周辺にはいくつかの古い洋館がある。その洋館に囲まれるように広い庭。その庭の真ん中には大きな木が一本。いかにも大金持ちの大邸宅、というにふさわしい。近くを通ると、その表門から洋館の一部も見えるなお、洋館は高橋貞太郎の設計になるものだ。なお、高橋貞太郎は帝国ホテルの新本館など、多くの有名な建築を残している。

ネットで「服部ハウス」で調べると、いくつかの話が出てくる。戦後、この邸宅はGHQに接収され、重要な事務を行う場所として、多くの文書がここで書かれたという。たとえば、日本国憲法。たとえば東京裁判の判決文。ここは、日本の戦後を決定付けた、その実務が行われた場所なのだ。

この前まで、この大邸宅の玄関には「三光起業」という企業名が書かれた看板がついていた。このあたり一帯は戦前「三光町」と言われた、東京で一番面積の大きな「町」だった。道を隔てた土地の低い側は町工場が林立する「工場地帯」で、その工場のオーナーなどが土地の高い側に家を持った。工場には地方から多くの人たちが働きにきていた。向田邦子の「あ・うん」はこの町が舞台だ。今は町名が「白金」となっている。戦災で焼け残った場所でもあるので、今も当時の面影が残る建物がぼちぼちとある。地元の小学校「三光小学校」は、昨年、創立100周年を迎えた。歴史のある土地なのだ。

「三光起業」とは「三光町」で「起業」した、という意味だろう。服部・セイコーの一族の出自がここにあるのだろうと想像できる。

憲法記念日の休日、この街を訪れて戦前から戦中、戦後にかけての日本に想いを馳せる小さな旅に出てみてはいかがだろうか?場所は地下鉄の白金高輪駅から歩いて5分くらいのところにある。なお、内部には入れない。【了】

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