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一時的に手足をもがれた状態になり(脳梗塞)それを契機に映像表現の限界と表現を伝える手段=テレビに疑問をもち、全てを断ち、今はもっとも不得手なインターネット経由で文章を著している。しかし、それがどれだけ「有効に」伝わっているかは、はなはだ懐疑的である。

若いとき革命(赤軍の植垣君とはいまも友達だが)に挫折し、その後仕事としたマスコミ(田原総一朗と個人的に即、連絡できるが)にも倦んで、いまはただ無聊をかこっている。でも生涯たとえ「扇動者」とのそしりを受けても、政治に何かを訴えかけていく姿勢は、野垂れ死んでも、変えないつもりだ。

しかしインターネットのブログでなにができるのだろうか。無力感を感じている。ブログ=愚痴、ツイッター=つぶやき、でなにができるのか。信憑性が低いとされても、公職選挙法に阻まれても、人気ブログ(たとえば「きっこのブログ」)なら具体的に政治を動かす事が可能だろうか。実際に政治を動かす力になっているとは、どうもおもえない。内容の優劣は別として(旧態依然とした国会演説より優れた文章がグログのなかには散見できるが)インターネットで具体的に立法したこともなく、政界に意見が正当に取り入れられたこともない。

新政権になって記者会見が一部オープンになり、仕分け中継をはじめメディアらしくはなってきた。サーバーなどがととのえば、個人ネット局も可能であろう。しかしサブカルチャーは発信できたとしても、「報道」を担え得るだろうか、疑問である。もちろん「報道」をかたる香具師である「朝日新聞」も、ネットでの新「扇動社会」の台頭を危惧しているようにみえる。とういうよりネットという「幽霊」を恐れているようだ。むかし「幽霊」に怯えた資本家のようである。草場の影でマルクスも大笑いしているだろう。

gijidou01で、その「幽霊」の正体が実は思ったより非力であると考えてしまう。ただの共同幻想にすら思えてくるのだ。

菊池雄星くんの「将来性」に疑問はない。しかし現実はファームで打たれ続けている。同様に、たとえインターネットで限界を感じても、雄星が投げ続けているように、投げ続けるしかないだろう。でも僕は悲観的である。

僕自身「マスコミ9条の会」でも、日本ジャーナリスト会議の機関紙でも、脳梗塞で入院するまでは、それぞれのHPで発言し続けてきた。でも健康が回復しても、今は参加しようとは思わない。サヨク系(笑)だから限界だよ、と言われるかもしれないが、たとえ文芸春秋に頼まれても(そんな筈ないけど、、、)どこまで訴求力があるのか疑わしいと、思うようになったからだ。

国会が新しい言論で動くことはない。なにも変わらない。

「市民」は大河ドラマと大相撲と「水戸黄門」「サザエさん」を相変わらず見続けている。よい番組だろう、だからどうした。約半世紀おんなじことの繰り返しではないか。いやそんなことはない、新聞もテレビも見ないひとがいくら増えているではないか。しかしエンターテイメントが多様化しただけで、なんにも変わってはいない。ネット社会で社会がかわるという「共同幻想」が加わっただけで、生活や政治の仕組みはなんにも変わってはいないのだ。コンサーバティブに安定している。アメリカ隷属のままで。

それは根底にある「不信」のせいであるとおもう。建前としていろんなことに賛成しているけれど(たとえば環境、ロハス)夢は夢、現実は金銭を求めて「稼ぎ」に追われている。「仕事」をして社会に貢献している老人は、過去に蓄財していたに過ぎなかったりもする。また一方で報道ステーションで「地球温暖化」危惧している古舘くんは、スタジオと中継で膨大な電気を消耗している。嘘でかためた「危うい安定」社会が幻想であることを認識してない。たとえ認識しても今日は忘れちゃえ!なのだ。

なにをいっても無駄である、インターネットも有効性に乏しい。なぜなら「政治不信」というどろどろとした底流の水かさが増してきているだけだからかも知れない。仕事の一環だと割り切り、しらけきった上で、表向き上司と飲み屋に付き合う新入社員のような心境を想像する。

IT音痴、貧乏、五体不自由な爺が「ブログ」を書いて、もちろん「稼ぎ」にはならないが「仕事」にもならない。インターネットが政治に関与し、政治を凌駕する時代はまだだし、将来も来ないような気がしてならない。

「賽の河原の石積み」だと思いつつ、ドンキ・ホーテを気取って我がブログは続く。それでいいんだろうか。シジホスの神話。