満州事変

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 満洲事変(まんしゅうじへん)は、中国東北部における関東軍(大日本帝国陸軍)の1931年9月18日に始まる軍事行動に端を発する国家間紛争である。中国東北部を満洲と呼んでいたことから、こう呼称する。しばしば、第二次世界大戦前のナチ独裁のきっかけとなった1933年2月27日のドイツ帝国議会議事堂(ライヒスターク (Reichstag) 、現・)炎上事件と比較される。中国側の呼称は「九一八事変」。

 これを境に中国東北部を占領する関東軍と現地の抗日運動との衝突が激化していく(しかしながら、中国から満洲へ流出する人々が極めて多数出てきており、それをもって抗日運動は小規模かつ限定的であったとする説もある)。日本軍部は発言力を強め、日中戦争への軌道が確定した。これをもって、いわゆる十五年戦争の始まりとする説があるが、満洲事変(1931年 - )は塘沽協定(1933年)で終了している。日中戦争(日華事変)(1937年 - )とは別々の戦争であり、これを纏めてしまうのは非合理的だとする意見もある。

満州事変までの経緯


 1905年、日本は日露戦争で勝利し、旅順、大連の租借権と長春 - 旅順間の鉄道及び支線や付属設備の権利・財産を清国政府の承諾を以って日本政府に移転譲渡する日露講和条約が締結された。これをもって南満洲鉄道(満鉄)を創立し、その警備を関東軍が当たることになる。当初、地元の軍閥長である張作霖とも友好関係を築いていたが、張作霖が中国共産党へ接近し始めると、1928年に、関東軍は張作霖が乗る列車を爆破殺害した(張作霖爆殺事件)。

 張作霖爆殺事件は国際的に不問となった。しかし、張作霖の後を継いだ息子の張学良は日本に対する敵対的な行動を取るようになり、南満洲鉄道のすぐ横に新しい鉄道路線などを建設し、安価な輸送単価で南満州鉄道を経営危機に至らしめた。これに危機感を感じた関東軍は再三に渡り抗議するが聞き入れられず、石原莞爾(いしはら かんじ)、板垣征四郎の指導のもと、満洲事変を決意する。

柳条湖事件


 板垣征四郎

 柳条湖事件は、満洲事変の発端となった事件である。

 1931年9月18日の夜22時過ぎ、奉天(現在の中国遼寧省瀋陽 (Shenyang))北方約7.5kmの柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発が起き、線路が破壊される事件があった。駐留していた日本の関東軍はこれを中国側の張学良ら東北軍による破壊工作と断定し、直ちに中国東北地方の占領行動に移った。

 この爆破事件のあと、南満洲鉄道の工員が修理のために現場に入ろうとしたが、関東軍兵士によって立ち入りを断られた。また、爆破直後に現場を急行列車「はと」が何事もなく通過したことからも、この爆発がとても小規模だったことが伺える。

 柳条湖近くには中国軍の兵営「北大営」があり、関東軍は爆音に驚いて出てきた中国兵を射殺、その後北大営を占拠。翌日までに奉天、長春、営口の各都市も占領した。

 実際には、爆破は関東軍の虎石台(こせきだい)独立守備隊の一小隊が行ったものであり、つまり関東軍の自作自演であった。戦後、現代史家の秦郁彦博士(元日本大学法学部教授)が花谷中将など関係者のヒアリングを実施し、柳条湖事件の全容を明らかにしたものである。花谷中将の証言は秦博士が整理し、後に花谷正の名で月刊誌『知性別冊 秘められた昭和史』(河出書房)で発表し大反響が出た。後に、秦博士が事件に係わった他の軍人の聴取内容からも花谷証言の正確性は確認されている。(詳細は秦郁彦『昭和史の謎を追う』上(文春文庫)参考。)

 日本では長く「柳条溝事件」と称されていたが、これは当時日本へ伝えられる際の誤りだったと近年になって判った。現場の地名は「柳条湖」である。

 中国では「9・18事変」(九・一八事変)と呼ばれる。日中戦争に関しても、抗日運動の始まりという観点からこの柳条湖事件を発端とする主張が有力という。

 また、現在柳条湖の事件現場には九・一八歴史博物館が建てられている。

関東軍の独断


 日本政府は事件の翌日に緊急閣議を開いた。南次郎陸軍大臣はこれを関東軍の自衛行為と強調したが、幣原喜重郎外務大臣(男爵)は関東軍の謀略なのではと疑惑を表明、外交活動による解決を図ろうとした。そして9月24日、閣議では「事態をこれ以上拡大しない方針」が決定した。ところが、関東軍は政府の決定を無視して、自衛のためと称して戦線を拡大していった。

錦州爆撃


 1931年10月8日、奉天を放棄した張学良が拠点を移していた錦州を関東軍の爆撃機12機が空襲した。南次郎陸軍大臣は若槻礼次郎首相に「中国軍の対空砲火を受けたため、止むを得ず取った自衛行為」と報告したが、関東軍は「張学良は錦州に多数の兵力を集結させており、放置すれば日本の権益が侵害される恐れが強い。満蒙問題を速やかに解決するため、錦州政権を駆逐する必要がある」と公式発表した。これによって幣原の国際協調主義外交は決定的ダメージを受けることになる。

溥儀擁立


 国際世論の批判から、関東軍は満州全土の武力占領ではなく傀儡政権の樹立を目論み、特務機関長であった土肥原賢二大佐が満州民族である清朝最後の皇帝宣統帝溥儀の説得にかかった。清朝復興を条件に同意した溥儀は11月10日、天津の自宅を出て11月13日に営口に到着、旅順の日本軍の元にとどまった。

スティムソン・ドクトリン


 アメリカの国務長官スティムソンは、1932年1月7日に、日本の満州侵略による中国の領土・行政の侵害と、パリ不戦条約に違反する一切の取り決めを認めないという、いわゆるスティムソン・ドクトリンを発表し、日本と中国に向けて通告した。中国はもちろん、イギリスなどヨーロッパ諸国も消極的ながら賛成したが、日本は認識不足だとして拒絶した。

上海市街戦


 国際社会の目を満州からそらせるために、国際都市上海で日中両軍を戦わせた。詳しくは上海事変を参照。

満州国の建国


 満洲国についての詳細は満洲国も参照。

 1932年3月1日、満洲国の建国が宣言された。

 国首にあたる執政には溥儀、首都は新京(現在の長春)、元号は大同とされた。これらの発表は東北行政委員会委員長張景恵の公館において行われた。

 3月9日には、溥儀の執政就任式が新京で行なわれた。

 犬養毅内閣は3月12日、「満蒙は中国本土から分離独立した政権の統治支配地域であり、逐次、国家としての実質が備わるよう誘導する」と閣議決定。日本政府は関東軍の独断行動に引きずられる結果となった。(同年五・一五事件が起こり、犬養らは暗殺される)

 1932年9月15日には日本と満州国の間で「日満議定書」が締結され、日本の既得権益の承認と、関東軍の駐留が認められた。