池田信夫 blog

Part 2

Theory of Decision under Uncertainty (Econometric Society Monographs)イノベーションを考えるとき最大の問題は、そこに何かの「成功の法則」があるのかということだ。世の中には「ビジネス成功の公式」とか「こうすれば年収が10倍になる」みたいな本があふれているが、そういう万能の公式は存在しない。それは先日も紹介したように、ヒュームによって250年前に「不在証明」が行なわれているのである。

したがって問題は、決定的な解はないとしても、次善の解は何かということである。本書はこの問題を意思決定理論の第一人者がまとめたもので、非常にテクニカルなので一般向きではないが、「おもしろ行動経済学」みたいな実験に飽きて、その理論的基礎を考える研究者には役に立つだろう。

著者は最初に次のような4つの例題をあげる:
  1. コインを投げると、表が出るか裏が出るか?
  2. 明日の朝まで路上駐車しておくと、それが盗まれるか?
  3. これから受ける手術が成功するか?
  4. 中東で今年、戦争が起こるか?
1と2はナイトのいう「リスク」、3と4は「不確実性」に近いが、その違いは自明ではない。明らかに機械的なリスクだと思われる1も、過去に100万回ランダムだったとしても、そのあとずっと表が出る可能性は排除できない。これがコンピュータのプログラムだったら、ランダムな数列を生成するプログラムは簡単だが、それによってできる数列は不確実といえるのだろうか? それはこのプログラムによって決定されているという意味では確実なのではないか?

だから何が確実で何が不確実かは、ある意味では定義の問題だ。われわれが膨大な数列は不確実で数行のプログラムが確実だと思うのは簡単な説明を好むためだが、それは真偽とは別の問題である。天動説では惑星の軌道についての複雑な補助仮説が必要だが、地動説では一つの仮説で説明できるとしても、それは前者が誤りで後者が正しいことを意味しない。

このように確実な事象と不確実な事象の区別は、仮説は少ないほうがいいというオッカムの剃刀を基準にした便宜的なものだ。確率論も本質的に不確実な未来を確実に見える数値に置き換える手段にすぎないが、自然科学では十分役に立つ。明日の朝、太陽が昇る確率は1ではないが、あなたは夜が永遠に続くことを心配する必要はない。

しかし人間の行動を主観的確率で説明する意思決定理論は、きわめて疑わしい。あなたが家に鍵をかけないと泥棒の入る確率は1/10000以下だが、そんな計算をして鍵をかける手間を省く人はいないだろう。経済学の期待効用理論も、ポパー的な基準でいえば100%反証されている。

著者は主観的確率が意思決定を科学っぽく見せるレトリックにすぎないことを認めた上で、それを離れて行動経済学の実験成果を説明する理論が可能かどうかを考える。その中心になるのは事例ベース意思決定理論だが、そこでも意思決定の出発点になる信念がどうやって形成されるかは不明だ。それは遺伝的な進化や(ヒュームの指摘したように)社会の慣習によって決まると考えるしかない。

現実の人間は、新しい出来事が出現するまでは今までの状態が続くと想定し、予想外の出来事もなるべく既存のフレームで説明しようとする。特に多くの人々がフレームを共有していると、それを修正することがむずかしい。日本が変われない原因は、人々が余りにも濃密に既存のフレームを共有していることにあるが、それは旧秩序の裏をかくイノベーターのチャンスでもある。

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コメント一覧

  1. 1.
    • うなぎ飴
    • 2010年04月30日 01:44

    ランダムという言葉の使い方がちょっと怪しいので細くさせて頂きます。ランダムの定義はいくつかあるのですが、コルモゴロフの定義に従うならば、「あるアルゴリズムによって圧縮できない文字列」となります。この定義に従うならば、コンピュータで生成できるようなものは本質的にランダムとはいいません。
    ランダムネスについてはコチラのブログさんが詳しく解説なさっています。
    ttp://d.hatena.ne.jp/tri_iro/20080712/p1
    不確実性については、池田先生の例で適切であるようにおもいます。

    日本は内側の若いイノベーターを潰してしまう一方で、外側の巨大なイノベーションへの対応を怠ってきた。その結果が先進国からの陥落なんでしょうね。

  2. 2.
    • 池田信夫
    • 2010年04月30日 09:50

    いや、GilboaはそのKolmogorov's complexityを疑ってるんですよ。単純なアルゴリズムに圧縮できても、それによって生成される結果は必ずしも単純じゃないし、逆に複雑なアルゴリズムで単純な結果が出ることもある。

  3. 3.
    • coyote1966
    • 2010年04月30日 19:40

    単に「過去に100万回ランダムだったとしても、そのあとずっと表が出る可能性」という表現が誤解の元なんじゃないですか?

    この記事の本質は、すべての社会的事象は本当はランダムに起きているんだけど、人間は主観的確率にしたがって判断する傾向にあるので、ちょっとでも連続性を認めれば、それをフレーミングにしたがる。なので「ずっと表が出ているとき=濃密に既存のフレームを共有しているとき=現在の日本」こそイノベーターのチャンスじゃない?ということでしょう。

    ついでですが、「アルゴリズム=何か事を起こす時のやり方」と定義すれば、コンピュータだろうが人間だろうが同じです。

  4. 4.
    • うなぎ飴
    • 2010年05月01日 13:21

    >いや、GilboaはそのKolmogorov's complexityを疑ってるんですよ。

    そうなのですか。
    さすがはGilboaですね。興味がわきました。

    以前Billot et al.(2005)を読もうと試みたのですが、難しくて小生では歯が立ちませんでした。(というより、その理論が示唆する深い意味を十分に理解するに至りませんでした。)
    この分野の教科書も着々と充実しつつあるようなので、引き続き勉強しようと思います。

  5. 5.
    • gyhdb049
    • 2010年05月01日 14:30

    1の場合は、個別は偶然ですが、投げる回数が多くなればなるほど表、裏とも、当然のことながらトータルでそれぞれ1/2の確率に近づくわけで、個別の偶然の主観的確率は、願望度を高めれば低くなるという以外、0から1までの範囲を浮遊することになります。

    ただ、偶然という非予測性を一つのプログラムにした場合、逆に、主観的確率はすべての場合に均等に近づいていく、という出来事が起こります。つまり、有り得ることを前提にすれば、客観的確率は問題ではなく、主観的な確率は、いつでも一定の期待値として存在できるからです。このような主観心理を利用した代表的なものが、宝くじでしょう。

    当たる確率の極めて低い高額当籤(とうせん)の籤を引き当てる偶然は、万人に機会均等の平等性を約束しています。だから、宝くじの当籤者は、外れ籤を引いた他の多くの人達の平等の不運をまとめて一つの例外的幸運にしてもらった人であり、当たり券の元になった籤に外れた多くの人達の累積された不運に対し、それらを幸運に替えてもらった天運への感謝と多くの人の不運のお陰で幸運を手に入れることができたことに対するお礼やお詫びの気持ちを持つことが必要なのかもしれません。それなのに、与えられた幸運に有頂天になってすべてを忘れ去り、わが身に降った幸運をただ自分のものとして独占しようとする人が多いから、高額当籤者は時に、不幸になる確率が高まるということなのでしょうか。
    結局、僥倖に与ることはまず望む薄ですが、逆に、万が一の途方もない僥倖にはそれだけ無防備な我ら庶民ですから、宝くじの仕組みを我々自身が掘り下げて参加の心構えを練る必要がありそうです。そうしないと、外れの意味も味わえず、万が一の僥倖の折には幸運の大海原で溺れ死にするかもしれないからです。

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