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リングを降りれば超敏腕の実業家

2010年05月03日
スポーツ

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【プロレス評論家特別寄稿:菊池孝氏】力道山は常に時代を先取りしていた。初渡米武者修行中に「プロレスを日本に定着させ、そのワンマン帝王になってやろう」と志し、NWAのプロモーターライセンスを取得している。このため、後にブームに乗って乱立した各団体は、大物外国人レスラーを呼べなかったのだ。
 帰国すると「日本プロレス」を設立、テレビ放映局と新聞社の後援を取り付け道場を開設した。道場には当時の日本では珍しいトレーニング機器が完備されていた。
 準備万端整えて54年2月19日に旗揚げ。一夜にして日本列島にプロレスブームが爆発した。テレビ観戦した人たちが“鬼畜米英”のイメージの残る大型外国人レスラーを、空手チョップでぶっ倒す力道山の雄姿に興奮し留飲を下げたのだ。その人気はスポーツの枠を超えて、社会現象となっていった。
 ブームで資金が潤沢になると、力道山は事業に着手。まず赤坂に「リキ・アパート」を建設した。プール付きの今でいう高級マンションで、多数の有名芸能人が入居した。 続いて渋谷にプロレスの殿堂「リキ・スポーツパレス」を完成させた。ここには試合会場、道場のほか、ボウリング場とサウナ風呂が営業していた。どちらも東京で3番目の古さだった。
 このころには政財界との付き合いも増えていた。政財界では力道山の後援者になることが一つのステータスシンボルだったのである。
 力道山は63年12月15日に急逝したが、当時は相模湖畔にゴルフ場を造成中で、三浦半島の油壷にはヨットハーバーの用地を買収していた。
 力道山は急逝した時点で、日本プロレス、リキ・エンタープライズ、リキ・スポーツ、リキ・ボクシングジム、リキ観光開発の5つの会社のオーナーで、各社とも営業成績は順調だった。
 不慮の死を遂げなければ力道山は、リキ・コンツェルンの帝王として政界に進出、日本を動かす男となっていたろう。戦後最大のヒーローは、スポーツマンの枠を超えたスーパースターだったのである。
 (プロレス評論家)

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