仲山非不未(なかやまひふみ)つぶやきの並び順 : 新→古 | 古→新 表示するつぶやき : 全て | Replyを除く | Mentionを除く
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» @sensualempire
そう、こういう意見もあるから、音楽のファッション化も全面的には否定できないのだが。ただいろいろ考えはある。歴史的に見て音楽固有の欲望というのはほぼ間違いなくあって、それと今ファッション化するぐらいでしか差別化できない音楽がどう摩擦を起こしているのかを考えると。 posted at 04:08:08 というかブリューはキングクリムゾン四期以降で散々デイヴィッド・バーンのものまねだと批判されていたわけで、TL上にブリューの名前を見つけてなぜかトーキングヘッズを思い出して書いていたら、トーキングヘッズのボーカルはブリューだという可能世界が、誤配をもとに生まれてしまった、、、 posted at 04:05:47 というかこの議論の発端が感情的、個人の趣味だとか願望の投影なのは明らかであって、既にして泥仕合だと思うのだけれど。「きちんとした議論」をしたいなら同じことが別の場所で「きちんと」されたのか「きちんと」確認してからでなきゃね。結局「厳密性」ってその議論共同体に対する誠意のことだし。 posted at 04:00:29 それでも最近はゲーデルの名前を持ち出す議論にも、少なくともプロの議論では出くわさないし、だから今更その話を穿り返すこと自体が、過去にその問題(濫用問題)が批判されて検討されたことを参照することなく無駄に反復しようとする、感情的なものにすぎないこ可能性を示唆している・・・ posted at 03:57:12 ゲーデルの不完全性定理というのは、哲学系の議論では、完全に形式化されればその体系自体の真理性が担保される、ということを無意識のうちに前提する発想に釘をさすために使われる名前。いちいち説明すると時間がかかるので、ショートカットキー的に使用されているのは事実かもしれないけど。 posted at 03:54:55 いろいろ書きながらヘーゲルっぽいなと思った。 posted at 03:51:20 @ynytk 普通に、一番最初の歌い始める瞬間ですね。そこからの五秒間は電撃を受けたような感覚にさせます。とにかく分類不能な歌い方というか・・・何かのまねをしてできるものではないなと。 posted at 03:48:58 そしてそういう営みがプラグマティックには真理に値せず、議論がいたずらに迷走するのみの時代遅れの産物だというなら、無論それもひとつの状況なり趣味なりとして哲学は受け入れるだろうから、哲学の本質規定はprojectibleではない、ということで一応。 posted at 03:46:04 つまり哲学はそういう各人の趣味と状況(しかしこの趣味と状況は現実に存在するものであって、真理を探求する議論の世界とは「完全に」隔絶されているべきだなどということはできない、少なくとも哲学の真理観ならば)から問題を立ち上げることを目的とする。 posted at 03:44:02 あと思ったんだが、「ちび」を「垂直方向に困難を抱えた」と言い換えるのは、僕はいいことだと思うんだが。「ちび」なんて身体的欠陥をあげつらって明白に人を不快にさせようとする悪意ある言葉よりは、ユーモアを交えてそれを書く後者の方が好感が持てるが。無論各人の趣味と場合によりけり。 posted at 03:41:08 更に言えば、「厳密さ」、というものについても、数学や自然科学の定義によって形式化されている用語法と、哲学の各定義が乱立するような状態から議論を立ち上げて、ある意味では問題を明確化することだけを目的とする「厳密さ」とでは、大きく性質が異なるだろう。 posted at 03:38:56 専門家さんたちが言っているのは、そういう用語法は真理を探求するものとみなされている思想・哲学の信頼を下げかねませんよ、という「忠告」なわけだが、そもそも哲学はすでに真理なんてありうるのか?ということを問題にしている。体系の真理性は哲学の前提ではない。 posted at 03:36:23 ゲーデル問題についてのまとめ読んだけれど、思想業界でゲーデル問題というのが何を意味しているのか分からない、という人はまず、そもそも言葉が何かを「意味する」ということについて徹底的に考えたウィトゲンシュタインやクリプキを読んでほしい。固有名が多義的になるのは普通のこと。 posted at 03:34:14 こういうとき、DTMをやりたくなる。というか僕がDTMをやってるときって大体自分とか他人の演奏力の限界から逃げているときなので・・・だからろくな曲ができないんだろうな。本気でDTMやるつもりならもうちょっと音源とか漁るだろ普通。 posted at 03:06:17 チェルニーも30番まで行って放置かましたからな・・・やはりあのメカニックな動きからやり直さないと駄目なのかな・・・ posted at 03:04:48 ショパンも無論真面目に弾くと激ムズなのは言うまでも無い。ただ弾き易い曲は弾きやすい。ベートーベンは案外難曲が多い。バッハはジーグとかフーガが時たま異様な難しさを見せる。 posted at 03:03:09 ショパンが何とか弾ける程度の腕前では、即興には限界がある。自分のイマジネーションを正確に具体化できない・・・特に早くて細かい、非音階的なパッセージを、一音一音を比較的明確にさせながら密集/離散させつつ弾くとか。ラヴェル的なピアニズムを手癖として吸収するか・・・ posted at 03:01:29 年上は好みだけれど。遠い目をしていてというのはどういうことなんだろう。目が据わってるってことか? posted at 02:57:52 @sensualempireに片思い中なのは遠い眼をしていて容姿は平均で性格は良好、現時点で24歳の女性です。あなたの知人の結婚式で恋をしたそうです。 http://shindanmaker.com/13597 posted at 02:56:55 深夜の鬱ツイート。ほんと筑駒に行けばよかったと後悔している。あのころならまだ行きたい所にいけるだけの学力があったのだし・・・ posted at 02:53:25 意図的にズレる、って言っても、意図的な時点でズレてないんだよな。ズレていると感じるからには何らかの偶発性に身をゆだねているのであって、タッチとかを不均一にすることで確率的にずれが起こりやすくなるようにするのを意図的なズレと呼ぶなら・・・編集で作ったズレはまた別。 posted at 02:48:27 最近眠らずに書いたり読んだりするのが趣味になりつつあって、いい感じに早死にできそうだ。無論、仕事は残さないといけないけれど。別に何年生きても何も残さないなら意味は無い、という考え方にシフト。 posted at 02:46:14 何でもズレてりゃいいってわけじゃなくて、ズレるつもりがなくズレったぽい、しかしそれをすぐさま回収してリズムを回復する技術、あるいはあえて無理に回復させず訛りとしてそれを取り込みつつ、全体のグルーブの均一性を保つ、といったさまざまな意図がそこに詰まって聞こえるのが強い。 posted at 02:42:34 普通にファンクをやっても、普遍性があるとはいえない。だけれども、あのスラップベースのズレのように、決定的にオリジナリティ、つまりは単独性を発揮してしまうズレというのは、音楽を切断し、そこに新しく何かを注ぎ込み続けるという意味で、強い。神感。 posted at 02:40:32 トーキングヘッズのリメイン・イン・ライトtrack1を聴くと、これぞ神感だと思わざるを得ない。二つの焦点、始まりの掛け声と、エイドリアン・ブリューの異常なボーカルが現れる瞬間、その隙間を埋める緊張感を孕んだファンクセッション。特にベースのスラップが入るタイミングのズレが・・・ posted at 02:38:45 顔貌性とブラックホールっていとミルプラトー思い出すけれど、あそこは本当にイミフだったなwwなんとなくわかるけどさ。レヴィナスとかの顔を軸に置いた他者論あるいはフーコーの記号論との接続というのもあるだろうし。 posted at 02:32:49 昔、東スレで仲山は誤読を認めないから駄目なんだと言われたことがあった。突如誤読した原因を自己分析し始めてそれで自分の誤読を免罪してしまうと。たしかになあ。まあぶっちゃけると変なところで負けず嫌いなんですよね・・・本当に意味が無いし人にも迷惑かけてるなと自覚しているんだけれど・・・ posted at 02:28:10 なんかアシッドフォークというジャンルだけはそういえばわりと敬遠していたなと思い出した。「ケージ的な聴取それ自体への極限化」と「現在のコアな音楽消費のアーキテクチャに支援された完全なフラット化」を関連付けて前提とするからには、個人的趣味で聴いたことの無いジャンルはあってはならないな posted at 01:37:47 というかいろいろ書いているうちに福嶋さんとZUNが出る番組を見逃したんだが・・・私馬鹿なの死ぬの? posted at 01:35:13 というか今日久々にロッキンオンとか読んだんだが、デザインはやはりいいのだよな。内容は相変わらず喪失した、とか世界の複雑さ、とか、すべてを肯定した光のポップ、とかなんだが、新しく出てきたバンドが多いとそれだけで別に普通に面白そうなので困る。 posted at 01:23:42 音楽だと、そういう金融商品的側面は無くなるんだが、逆にすべてが非常に曖昧だろう。ドビュッシーがワーグナーから明白な影響を受けつつワーグナーの作品を徹底して否定しただとか、パンクがロックは死んだといいつつバンド形態を受け継いだりとか。部分的否定とか肯定と見るべきなのか? posted at 01:21:30 絵画だったら、メインストリームというものがあってそこでの言説のゲームが直接アートの経済を規定しているから、肯定や否定というのはある程度明確になる。つまり商品として認められたか否か。美術評論はそれに関する複雑な金融商品みたいなもの。 posted at 01:18:50 そもそも僕は特に疑いもせず音楽を肯定するとか否定するとか言ってきたが、これは実際のところ何を意味しているのか。何を意味しているのかという問いの罠は意識した上で、その部分から再考が必要か。 posted at 01:15:53 「視野に入れる」、ということで歓待のことを考えてしまうのだが、更に言えば歓待と音楽の特別な関連性、というかそれが関連付けられてきた歴史というのが思い起こされてくるのだが、中途半端には手を出せないな・・・ posted at 01:10:48 @wakusei2nd 数にもよりますが、10年代を迎える上でこれだけは聴くべきだろうというアーティスト10人と、これからを期待されるアーティスト10人、その他もろもろのトピック、という形で書きたいと思います。結構浪人生活は暇なので、五月中には送れると思います。 posted at 01:08:46 ひとつの記事から大まかに言ってひとつの主張が抽出できる、というぐらい強い顕名性あるいは論点を持たないと、状況論と作品論が深く融合した、内容に踏み込んでいく議論の生成は望めない。そこは自分の課題にしよう。 posted at 01:06:00 しかしこれではっきりしたが・・・鼎談や対談からひとつの主張って言うものを抽出するのは極めて難しい、というか不可能だな。そして音楽周辺の言論と言うのはここ何年か、ネット上のも含め匿名的なおしゃべりと世代共有体験語りつまりある種の匿名性に支えられた鼎談やインタヴューだけの状態だった。 posted at 01:03:28 @wakusei2nd いま確認しましたが、EXILEとアユについて肯定的に言及していたのは田口寛之さんでした。というか宇野さんはアユの声は受け付けないとまで言っていた笑。これで僕の「捏造」が確定しましたね。流石にこれは僕の落ち度なんで大々的に叩いてもらって構いません。 posted at 00:55:21 なのでこの話はもうこれぐらいにしておく。 posted at 00:23:15 しかしTL上だけで共有しても仕方ない。そういう意味で、何度も言うように僕は宇野さんがああいういい意味でぶっちゃけトーク的な座談会をやってくれたことに、理論の前提を多く負っているのは間違い無い。 posted at 00:23:00 誤解を招いたかも知れないが宇野さんの主張それ自体が問題ではなくて、それも含めて肯定できるものが何も無くても成立できてしまう今の音楽周辺の言論が、制作/ 消費する側との剥離を深めて行っているという認識をまず共有したかった。 posted at 00:20:40 と、書いては来たが、twitterでいくら吼えても本当に変えたい状況というものにはアクセスできないな、と強く感じる。 posted at 00:19:44 とはいえ宇野さん自身の音楽に関する直接的な肯定の言及は(perfumeや相対性理論は90年代のセンスを残してはいるが前提として良い、という以外は)、二つの鼎談にも無く、論考もまだ無いので、肯定する軸がもてないのはまずいのではないかという考えは変わりません。 posted at 00:14:07 あと、僕より宇野さんと付き合いが長い方に、宇野さんはマジでEXILEを音楽的に肯定したいのだろうか、と聞いていたら、本当にそう思ってるんじゃないか、と答えていたので、なんとなくイメージができていたというのもあります。 posted at 00:08:23 しかし東さんも宇野さんも他人の文章は頻繁にパフォーマティブに読むのに自分がそうされるのには非常に怒るんですよね。正当な権利を行使しているとも言えますが。とはいえパフォーマティブに読まれることも含めての文脈作りではないのか。 posted at 00:06:13 @wakusei2nd ところでそれとは別に、夏の特集に向けて情報を集めていらっしゃるとお聞きしましたが、頼まれていながらいっこうにメール送れずすみません。今回の埋め合わせということも含めてきちんとしたものを送るのでしばしお待ち下さい。 posted at 00:02:34
@wakusei2nd なので宇野さんが別にEXILEを直接肯定したわけではない(僕は無論そう読みましたが、そう読んだとしても結局同じことで、批判はできるが肯定できる音楽が無いということです)、肯定したと言うのは誤解というなら、僕は誤読を認めて考えを改めます。すみません。 posted at 23:58:33 @wakusei2nd 無論、僕がゼロすべとPLANETS6号の座談会から議論の前提を大きく引き出したこと、その点で宇野さんに負っていることは大前提ですが、そこから前提を得たということは、そこに書いてあったことを宇野さんの編集の意志として読み取ったと言うことです。 posted at 23:56:31 @wakusei2nd 鼎談という性質上、他の参加者の発言に特に反対をしなければある種の意見の一致があるとみなされるし、宇野さん自身も同型の曖昧な連帯のもと出来上がった共通観念としての「中央線沿線文化圏」を批判してきました。僕もその流儀に則ったつもりです。 posted at 23:52:54 @wakusei2nd 宇野さんの主張を総合すれば、EXILEやアユを語らずにゼロ年代の音楽は語れないということでした。PRANETS6号では音楽そのものを語っていきたいとも言っていました。実質的にそれは対立項としてのEXILEを音楽的に褒めたいのだと読めてしまいます。 posted at 23:46:04 五百円ナンパってどう考えても成功しようがない。 posted at 19:16:07 人は自分達が産み出した悲惨さをすぐに別の何かの責任にしようとする。浮浪者を見ているとなんとなく咎められている気がしないか。 posted at 13:51:38 新宿なんちゃら公園で昼飯してる。となりで浮浪者のじいさんがぶつぶつ独り言言っとる。 posted at 13:38:35 @zine_hansei いえ、出展はしません。 posted at 13:34:53 即興の解体が懐胎になって、音楽論から演劇論にシームレスに移行したのも前は逃げとしか見ていなかったのだが、今の僕の立場ではこの移行は絶対必要なものだと思えるし、今一番興味がある現象のひとつでもある。 posted at 07:54:38 マジか。佐々木敦の音楽評論三部作を精読していたこの一週間が報われたな。 posted at 07:50:38 寝る。4時間寝れば十分だろう。 posted at 03:04:22 東山翔さん(カリスマエロ漫画家)の音楽センスが良すぎて興味津々。 posted at 03:01:03 ちゃんとやれば面白くなることは彼らもわかっているんだろうが、とりあえずは話題にならないといけないから、はっちゃけてるのかも。まあまだこれからもある・・・しかし三号連続で佐々木敦インタヴューはどうなの^^; posted at 02:54:48 その点アラザルの活動はおもしろいかなーと思いつつ、いろいろと中途半端に終ってもいるんじゃないかという印象。スカイプ批評とかもっとガチでやればいいのに、ロキノンのどうでもいいダベリみたいなムードに流されすぎだろう。それがリアルなんだとかいう劣化フルクサスはもういい。 posted at 02:53:34 音楽そのものを論じると、たまに講評会的な辛らつなことも書いてしまうが、それでもいいんならやろっかな♪・・・いや、まあ敵つくりまくって終了という気もするから、最初は隠れてやるけども。 posted at 02:49:10 まあそうでなくとも音楽と映画を関連付けるのは普通によくあって、渋谷さんと相対性理論のアワーミュージックもゴダールと並べて論じられていた。これって実は結構いいんじゃないかなと思う。理由は二つで、新たな読者層の開拓と、普通なら並べないものを並べることで気づかなかったことに気づける点。 posted at 02:45:28 ちなみに、僕はintoxicateとサンレコは音楽誌として例外的に批評的だなと思っていた。というかほとんどこの二つぐらいしかリアルタイムで読まなかった。イントキはニッチなジャンルが全部一緒くたにされた結果、落語とエレクトロニカを隣り合わせて論じるという狂った事態が起きていて、 posted at 02:43:32 ブラームスがヨハン・シュトラウス二世と仲良しだったってみんな知ってるかい?知的な音楽を作る人は、普段はわりとお茶目というかポップ?な音楽を聴いていたりするのさ。聴く事、演奏すること、作曲することはすべて別のことと言っていたケージの発言を思いだそう・・・ posted at 02:40:35 ニコ動で製作者がコメントの内容に関わらず、まさに音楽そのものにコメントが付されるのを喜ぶならば、あるいは、他の歌い手が「うたってみた」で歌うことを喜ぶならば・・・しかし、それは真の音楽批評は後続の音楽作品だという話に逆戻りやな。 posted at 02:35:51 渋谷さんの話を聞く限り、渋谷さんたち作り手側が望んでいる自分たちの作品に対する音楽批評というのは、ある種の二次創作ではないかと思った・・・とか言いつつ、僕はスカイライダーズを既に耳コピしてアレンジを試したりしている・・・ posted at 02:33:52 というか、エクス・ポナイトと非常に酷似しているわけだけれどね・・・www posted at 02:32:11 ちなみにこのアイデアは黒瀬さんに言ったら、やれるもんならやってみろという感じの白けた反応をいただいたけれどww posted at 02:30:32 とはいえ音楽批評は書くだけでは駄目なのだ。音楽批評誌を文学フリマで売って、その雑誌がチケットになって聴けるライブイベントをやるというのも考えている。無論、雑誌の方で扱った内容と被るようにする。音楽と言葉を「音楽の欲望」によって接続するにはこういう方法が良いのでは。 posted at 02:29:49 @keiichiroshibuy そのあとのツイートに書きましたが、両者は僕の用語では「詩的戦略」と「散文的戦略」ということになっています。現状では両者は分離しすぎてクソなので、僕は統合してもっとエキサイティングな批評のスタイルを生もうと野望を抱いています。というかそれしかないw posted at 02:23:13 現在の音楽批評がまずいのは、二つの戦略が分離しきって、双方が考える音楽像があまりに剥離していること。結果として、作り手にも届かないし聴き手にも届かない、固定読者を地味に持ち続ける生成力の無いトライブがぶら下がっているという状況になってしまった。 posted at 02:11:54 初期の高橋悠冶さんの論考とかは、この詩的戦略と散文的戦略が絶妙に交差する方法で書かれたすばらしいものがあったと思う(文章家としてより成功していたであろう武満さんではなく。武満さんは詩的戦略)。 posted at 02:10:09 こういう社会学的あるいはジャーナリスティックな方法を、固有名詞の解説に堕している販促レヴューもあえて含めて僕は「散文的戦略」と呼ぶ。そこでは登場人物たちが音楽に関わっている姿を映すことで逆説的に音楽のありようを想像させる。 posted at 02:07:58 もうひとつは、音楽を取り巻く状況をかたることで、現在の音楽消費の欲望に何らかの形で干渉するやり方。ウェーバー、アドルノの社会学的手法の直系としての、渡辺裕さんや増田聡さん。民俗音楽学の系譜も混じっていて、小泉文夫さんも。 posted at 02:06:04 この厄介さに対処する方法として、小林秀雄のように詩的に書いてしまうという方法がある。これはシューマンやボードレールの批評から受け継がれる伝統。僕はこれを「詩的戦略」と名づけている。 posted at 02:03:39 つまり、文章や図版は、いちおうその作品そのものの複製、反復されたものと認識できる。が、音楽は例えば楽譜や波形グラフというのは、作品そのものの一部の複製ではない。それが厄介さを生んでいる。 posted at 02:01:52 そもそも、文芸批評や美術批評なら、紙の上に文章や図版の引用ができるのだが、音楽は原理的それができないから、音楽そのものを語るというと、単にサウンドについてあいまいに形容しつつ語ったりすることしかできない。それでいろいろアクロバットが考えられることになるわけだ。 posted at 01:59:44 @keiichiroshibuy まあ、歌詞以外にもネタは無限にあるんですけどね。音楽自体について書こうとしても、間章とか小林秀雄のモオツァルトのようになってしまったりする。それに対する反省というか反動というかで、今状況論の極限のようになったものとして音楽社会学がありますが。 posted at 01:56:47 近景と遠景の短絡(セカイ、決断系)、近景のみ(空気系)、中景の生成(決断主義を複数化してゲーム的にしたバトルロワイヤル系)、ってことですね。 posted at 01:51:39 特に最終章の「音楽の欲望」の話は、本当に誰もしていないけど、本質的な話だと思う。増田さんに代表される音楽社会学的言論と佐々木さんに代表される文学的な音楽批評を接続する鍵がそこにあると思う。この欲望と関わり続けること。 posted at 01:48:58 小沼純一先生の本は、実は「ミニマルミュージック―その思考と展開」より「サウンド・エシックス」の方がいいと思うのです。単に後者の方が新しい状況について書いているというのもあるけれど。サウンドエシックスに出会わなければ、僕のポピュラー音楽理解は十年は遅れただろう。 posted at 01:47:10 データのほうが高音質なときもあるしね。生の空間的な音聴きたいならネットで情報調べてライブ行けばいいし。なぜネットが台頭すると生の音楽や高音質の音楽が脅かされるという話になるのだろうか?それは単に高音質を保持したい側がやる気を持って積極的に営業していないからでは? posted at 01:44:49 実際みんなデータで聴くみたいだし、回線がより使いやすくなってきたら、もう全部データで売って、CDは何つーかインテリアというか鍋敷きにすればいいと思うよ(これはZUNが自分のCDリッピングしたら鍋敷きに使えと言った至言に由来する)。 posted at 01:42:54 それにしても、CD作って全国のCDショップに流通させて売るというのは本当に難しくなりつつあるな。恐るべき競争率の椅子取りゲーム発生中という感じだ。 posted at 01:39:18 @ayanem_in_ouga その通りですね。ジャズをアフリカと絡めたがるのは60年代のイデオロギー付与の負の遺産という側面が大きい。実際はジャズミュージシャンの多くはクラシカルなイディオムの方と親しんでいる。 posted at 01:35:47 @ke_ta 微分はもともと論理的にでなく想像的に概念的に生まれてきたものですしね。イメージの世界では不可欠なものでしょう。というかフランス語では差異化=微分化が多義語としてあるというのが大きいわけですし。対して不完全性定理は完全に論理の産物ですから、メタファとしては微妙。 posted at 01:29:17 あと別に20階から飛び降りなくても重力の存在は確かめられる。前のめりに倒れるとかすれば。 posted at 01:20:34 @skezy 哲学者のドゥルーズなんかは超越論的経験論の立場から実在してると考えているけれどね。ただし、僕らが認識している通りに実在しているとは考えていないけど。ヒューム的な懐疑はそれが実在すると論証できないなら実在しないと考えるが、ドゥルーズは一応何かが実在していると考える。 posted at 01:19:25 まあ科学を志望してる人にとっては、話の腰を折られる感じでうざいんだろうか、科哲というか、科学に対する懐疑主義的知見全般が。 posted at 01:16:37 感想と書こうとして観想(テオリア)になっていた。アリストテレスかよ。 posted at 00:47:15 あれ9は嘘か。7だ。でも十分多いです。 posted at 00:43:23 ていうか日曜は模試なんですが、俺はもう寝ないとまずいんじゃないかな・・・9科目あるんだし・・・ posted at 00:42:48 @hkij ファイアーなんちゃらオーケストラでしたっけ。先輩が所属しているのですがファシズムなんですかwwまあ、オーケストラは多かれ少なかれ全体主義に傾きますよ。 posted at 00:38:12 褒められてもけなされても、自分の音楽をどう思うか感想がガンガンついていくのは刺激になる、というところがある。この人は元プロで、今はボカロで作っている人。http://ascii.jp/elem/000/000/461/461445/ posted at 00:36:17 しかも、リターン(収入)が無いからといって作家側のモチベーションは下がらない。というのも、リアルタイムで視聴者の感想が画面に流れるから。実は、音楽ってどの部分をどう感じたかという風に細かく観想を言うのは難しいジャンルなのだが、ニコ動はそういうところで実は音楽に向いていた。 posted at 00:34:31 むしろDTMで作る以上、最終的アウトプットの問題とかから言って創造性をフルに発揮したいならエレクトロニカに行くのは必然だろう。そして製作コストと関わる人員を少なくすることで、リターンを気にすることなく音楽を作れるのだし。 posted at 00:33:03 最近本当にニコ動の「ミクトロニカ」タグ周辺の作家に可能性を見出している。実際、ミクが楽器としては音色の強さに欠けていて、生楽器とのアンサンブルが難しいこと、あとスタジオ代のことを考えれば、DTMで製作して結果的にエレクトロニカになるのは別に怠惰の証でもなんでもない。 posted at 00:31:18 あと、ニコ動のコメントも製作者側には強いモチベーションになっているみたいだ。このインタヴューいいので読んでみてください。http://ascii.jp/elem/000/000/475/475544/ posted at 00:29:04 ピアノとかギターという楽器はそういう意味で重要で、これひとつで演奏する、それを聴いて楽しむ、作曲してみる、弾きながら歌ってみる、暇つぶしに適当な音を出してみる、など色々できる。分解された欲望を再接続するプラットフォーム機能。 posted at 00:26:55 (聴きたいという欲望は極限まで行くとあらゆる音楽を「音響」として聴くところへ誘ってしまうので)創作の欲望といえるものを新たに引っ張ってきて、聴取の記憶と接続しないといけない。例えばBMSの譜面作成とかから音楽製作をやり始めた人たちというのがいる。 posted at 00:24:45 しかし僕は基本的にその分解と脱社会化を肯定しつつ、それらがしかし自由にまた社会的に結びつくためのプラットフォームというのを考えたいと思う・・・つまり、聴取が極限までいくと、アニソンもケージも差別化せず聴けてしまうのだが、それは創作には結びつかない。創作の契機をそこに結び付けるには posted at 00:21:58 しかし、ある意味ではフリーミュージックは演奏を徹底的に脱社会化あるいはこういってよければdissociationしたものだし、ディープリスニングは聴取の脱社会化と言えるし、音楽にまつわる行為が社会という平面状で統合されず分解されていった歴史という考えも可能かな。 posted at 00:19:44 自由さが目的って言うのは、自由主義と結びつくとか、あるいは疎外論的図式とか、そういうのとは関係が無い。あくまで、演奏の中で人はいかに自由になれるか?って問題・・・。 posted at 00:16:54 そうそう。そしてそのコミュニケーションをどうするのかをめぐってフリーインプロヴィゼーションは試行錯誤した。結果としては、コールアンドレスポンスしなきゃ駄目なんだという強制力から逃れて自由になればおkって感じかな。結局自由さが目的なわけだから。 posted at 00:15:36 こういうわけ分からないことを大真面目に言う人がいないと、多分音楽批評は面白くならないだろう。そして一番重要なのは、彼は(おそらく)本当にそう思っているというところなのだ。 posted at 00:10:48 だからアクモンとか9mmはマジで宇野さん聴くべきなんだが(その前はPREFUSE73を聴かせようとしていた・・・これは自分でもどういう論理で薦めようとしていたのかいまいちよく分からない)・・・ posted at 00:07:41 ちなみにアクモンとかをロックンロールリバイバルでくくって終了するあるいは売り出そうとするやつらは全員同罪でその怠慢さを責められるべきで、彼らが演奏の中にパンクやテクノやメタルの音感を忍ばせているのは明らかで、それは9mmも同じ。さらに複数トライブを経ての批評性を歌詞に託す。 posted at 00:06:42 9mmパラベラムバレットとか地味に支持しているのは歌詞がいいからというのも実はある。アクモンとかもその方向で評価されていたけれど、9mmは日本版アクモンというところがある。 posted at 00:04:38 あと歌詞カードとカラオケの存在で、歌詞のリーダビリティ(リスナビリティ?)が低くなったということは分かりづらかったけれど、メガヒットの減少に伴うカラオケの衰退で放置されてきた歌詞の駄目さが顕在化してきた感じ。 posted at 00:03:11 Jpop の歌詞がどんどんと聞き取りづらくなってきたことについて、増田聡さんが「聴衆を作る」の第一章ですでに言及しているので、興味のある人は読んでみましょう。聞き取りづらけりゃそりゃ聴く気起きないわ。 posted at 00:00:39
相対性理論の歌詞が90年代的喪失感だとかまあそれはいいとして、節だとか単語だとかの言葉のリズムと歌のリズムを合わせることで歌詞が印象に食い込んでくるように工夫がなされている。 posted at 23:59:22 歌詞について。東さんとかも言っていたが、歌詞なんて聴いていない人というのは結構いる。特に、テクノも含む広義のインストゥルメンタルから音楽に興味を持った人間とか、楽器を演奏している人は。しかし、裏を返すと聴くに値する歌詞が生まれていないという問題もある。その点相対性理論はよい! posted at 23:57:58 自分は本音を隠すのがうまい方だと思っていたが、音楽に関してはどうもそうは行かないなあと風呂に入りながら思った。 posted at 23:54:57 @keiichiroshibuy 歌詞分析そのものが無意味だとは思っていなくて、音楽と相互作用を起こしあっているものとしての歌詞(そしてこれはポエジーという感覚ともつながっている)を捉えるならいろいろ面白い論点は出せると思いますけどね。 posted at 23:54:06 音楽の消費形態が今大きく変わっているのは確かで、過渡的な時期なので価値観にせよ言論にせよ混乱気味にはなる。しかし新しい方向、未来的な形式(この言葉を僕は楽典に載っているような意味では使っていません、念のため)のヒントはそこらじゅうに転がっている。今必要なのはそれを拾い集めること。 posted at 23:50:51 @keiichiroshibuy ゼロすべの頃は僕もまだ明確な考えは持っていなかったし、むしろゼロすべにはかなり議論の土台もらいましたから、単なる批判と言うよりはそれをちゃんと受け継ぎたいという考えなんですけどね。まだ現状分析と愚痴にとどまっている感じがするので、歯がゆいのです。 posted at 23:27:27 まあつまりだ。現実的にそこでのセンス争い(と解釈される好悪についての考えの違いをぶつけ合うこと)が何のリターンも生まないと思われている音楽では、端的になんとなく感受性のあるっぽい音楽やってければいいよねで終わるという。それを批判しようと言う点では宇野さんと同意見だけど。 posted at 23:22:36 どうしよう、いい機会だからリストアップ再開しようかな。一応宇野さんに「できたら」とは言われたけど頼まれたことだし。 posted at 23:18:59 @keiichiroshibuy 本当はいろいろ宇野さんがフォローして無いであろう音楽をリストアップしてメールで送って紹介するつもりだったんですけど、なんだかかったるくなってしまってやっていませんww posted at 23:17:25 まあファッションをさっきからDISりまくっているけど、それは便宜的なものですよ一応ww昔僕は、ファッションとしての音楽でもいいんじゃないか、ファッションとして優秀、つまりセンスが本当によければ、ということを言っています。 posted at 23:15:13 EXILEを褒めるのはいいけど、アニソンやらアート気取りのサブカル音楽への対抗馬としての存在であるという以外の理由をそこに見出せないのは、音楽批評として駄目すぎる。何かに反抗を示すためだけにパフォーマティブな意図だけで音楽を聴くなら、ファッションと同じになってしまう。 posted at 23:14:03 あともうひとつの理由。宇野さんが音楽批評に手を出し始めて、それを読んだんだが、これはまずいと思ったと言うのがある。というか、そこで言われていることに対して誰もまともに反論しようとしないあたりに危機感を感じた。 posted at 23:11:40 まあ、要するに俺が批判したいのは音楽そのもの(そんなフィクションを演じるつもりは無い)ではなく、音楽にまつわる言説。これらが音楽に関わる人々の欲望を抑圧する方向に働いているなら、それは批判して変えなければいけないと考える。聴くことは無論重要だがそれが音楽という文化そのものではない posted at 23:09:02 実際には彼らは音楽に全く別々の記憶を託していて、それが伝わったりあるいはあいまいになる場所として「聴くこと」がある。しかし自分が聴くことしか楽しみが無い批評家と言うものは自分を「聴くこと」にすべての権利を集中させたいらしい。 posted at 23:06:52 武満徹やフェルドマンやシェルシやラッヘンマンやオリヴェロスや・・・まあ要するに、彼らが評価されるとき一番言われるのが、(新しい音を生み出して)「耳を開く、あるいは集中させる、つまり、聴かせる」ということ。それだけが本質的であるかのごとく扱われる。 posted at 23:04:37 ケージショックを受けたヨーロッパ前衛だけでなく、ジョン・ゾーンからベイリーまでの広い意味でのフリーミュージック、フェラーリのコンクレート、ミニマルミュージック、更には今日のエレクトロニカ、ポストロック、音響派。皆ケージの(偽の)命題のヴァリアント。 posted at 23:02:43 で、個人的にそこから脱出したかった。そこでケージを聴きなおすことにしてみた。というか、ケージが押し広げあるいは破壊したリミットの再確認。すると、音楽美学がケージ以降ひたすらケージの命題(というかその誤解としての「すべての音は音楽になりうる」)を反復していると気づく。 posted at 23:00:45 ようするに、wktk感が無くなる訳よ。もちろん音楽にまつわる言説も同じで、全部既視感が漂って見えるようになる。未来が無く見える。もう新しい音楽は生まれない、すべては過去の「リバイバル」で、「~風サウンド」とくくられて、上っ面だけ政治的メッセージとか発してそれで終わりだと。 posted at 22:57:26 そしてそうやってあらかた知ってしまうと、あらゆる音楽的なパターンなり音響なりが、極めて凡庸というか内容を伴わず聞こえてくる。つまりこれはあのジャンルとあのジャンルの中間だな、とかそういう表面的な情報しか聞かなくなり始める。 posted at 22:55:18 iTuneは持っていないがTSUTAYAとYOUTUBEがそれを援助した。つまり今日ではあらゆる音楽ジャンルを知ってしまうというのは、技術的には全く凡庸な、よくある出来事のひとつでしかないのだ。一方で全く新しい(聴いたことの無い)音楽に興味を持たない人もいるのに。 posted at 22:53:26 というか音楽批評を真面目に考え直そうと思ったひとつのきっかけは、自分がもう素直に新しいと思って聴ける音楽が無いぐらいあらゆる音楽を聴いてしまったからって言うのがあったり。データベースを食らい尽くしちゃったんだよな。 posted at 22:51:36 無論僕も「審美的」音楽行為のあらゆる出発点はまず聴くことだという考えは支持できる。・・・だが。人間は耳から生まれてきたわけじゃない。そもそもなぜ聴く、いや聞けるのか?僕らが肉体を持って存在し、社会の中にいるからではないか。そのことを忘れてはいけない。 posted at 22:49:17 @ayanem_in_ouga ひとつのファクターになってくるってことです。ファッションの一パターンになってしまったロックではなく、踊りたい、作りたいという欲望に近接するダンスミュージックやキャラ的音楽を押すのはそういう文脈です。なんか色々きついいい方してすいません。 posted at 22:46:42 @ayanem_in_ouga すいませんちょっと文脈をとり間違えていました。聴くことからの脱出でしたよね。つまり音楽が文化として自律性(これも常に疑われるべき言葉ではありますが。。。)を持つことを考えたとき、聴くことの現象学的態度に誘うだけでは足りなくて、創造を誘発することが posted at 22:44:24 @ayanem_in_ouga というか音楽を聴くというのは、いつだって他人が関わったものとしての音楽を聴くことなので、私的な聴取などありえないのです。常に誰かと共に作った幻想あるいは他者の幻想との摩擦を音楽の中で捉えることになる。キャラ性はその新しい単位ですね。 posted at 22:40:36 増田さんに見られるような、音楽をめぐる状況へのドライでクールな視線と、レディオヘッドがいた頃のタナソウあるいは佐々木敦(が小林秀雄から引き継ぐような)の正体不明の衝動に駆られてウェットでホットな批評を書くことを総合したい、そういう考えがあるのですね。 posted at 22:35:37 佐々木敦はどうやら小林秀雄の側に立って音楽批評をすることにしたようだ。つまりある種の、思弁的で詩的な謎掛けとして音楽批評を書くということ。無論佐々木氏の場合そこにレヴュー的側面と言うか販促的側面も入り込むけど。 posted at 22:33:27 そういった社会学化した音楽批評を、では今度は誰が読むのかという問題だ。結局アクチュアルに音楽の作り手側や消費者に届かないのであれば、意味が無くないでしょうか?そして書き手側としても、やる気そがれないでしょうか?(これは流石にお節介かな) posted at 22:31:42 結局批評にできるのは、音楽から問題を抽出してくることなので(それは佐々木敦自身もやったが)、そのすべての魅力を扱いきれるわけじゃあない。というか扱うべきでない。そういう風になると、例えば増田聡さんや津田大介、速見健朗さん的な、社会学化された音楽批評が出てくる。しかし・・・ posted at 22:30:17 むしろケージ(そしてそこから聴くことの中心性を抽出した佐々木敦)が見逃した部分、いわゆるポップネスと言うか、社会の中で音楽的行為というのが、他の行為に吸収されること無く生き残っていくというのはどういうことなのか、という問いを内包していること。そこを問題にしたい。 posted at 22:27:41 というかジャズファンがどうとか言う以前に、音に意味を読み込むたびにそれは幼稚だという流れは19世紀の標題音楽とブラームスあるいは印象派の系譜の反発とかでもう散々繰り返されているわけで。そしてケージでリミットまで行ったから。もうそれはどうでもいい。 posted at 22:24:05 @ayanem_in_ouga 僕は、佐々木敦以来、創造的で批評的な音楽は「聴くこと」の自己言及的な探求、先鋭化に向かわせるものという考えが広まったのに対して、聴くことから別の行為、例えば製作を誘発するような音楽を対置したいわけです。キャラ化にはそういう側面も見て取っている。 posted at 22:21:39 @ayanem_in_ouga むしろipodとiTuneの隆盛を見ても分かるとおり、音楽は私的に「しか」楽しめない方向に向かっている気がしますけどね。ライブハウスも、カウンターカルチャー的な抵抗の場とか、伝説が生まれる場所ではなく、大き目の音楽つきオフみたいな。 posted at 22:18:28 相対性理論のもうひとつのポイントは、言葉。替え歌的なメロディと言語感覚。これをポップスに風刺歌曲的なものを取り戻したという見方もできる(アングラ系の風刺歌曲は、地に足がついていたとは言えない。マス・コミュニケイティブなユーモアを見出す感覚)。 posted at 22:15:00 相対性理論の雑食性はどこかジム・オルークを思い出させるが・・・ posted at 22:12:40 @ayanem_in_ouga と同時に彼ら自身が雑食性の高い聴き手でもあり、またメンバー個人で結構趣味が違っていたりする。単に消費側のあり方に最適化してというのではなく、彼らの方からキャラで聴くということの新たな可能性を開いてもいる。ある種の、音楽的スーパーフラットというか。 posted at 22:11:25 だが、そういう音楽とは関係ない部分でのイメージと言うのは、捨てきれるものではないし、捨てようとした所で別のフェティシズム(それは例えばマテリアリズムという言葉になったりテクスチャリズムという言葉になったりする)に取って代わられる。聴取の純粋性は結局各々の聴き手が体験すべきこと。 posted at 22:06:52 音楽は音楽性だけでは評価できない、という謎のパラドクスはセックスピストルズが登場した頃からある。シンフォニックになっていき、資本との結びつきを強めていくロックに死亡宣告。しかしその振る舞い自体は商業ロックのグループのイメージ作りと何も変わらなかった。 posted at 22:04:37 @go_ya つまり宇野さんの用語で言うとトライブへの最適化ですね。僕は基本的にあの人のハイブリッド肯定論を支持しているので、AKB的な雑食性(を可能にするゲーム的な消費形態)はいいんじゃないかと思います。EXILEにもそういうとこありますね。 posted at 22:02:09 ところで千葉さんはまだキャラ化すること=「霊」的な誤配による生成と、「怪」的な痕跡自体の可塑的変形を考えているのかな。だとしたら、音楽についてはその二つを区別することはほとんど(少なくとも音響の上では)不可能ということをいいたいけれど。 posted at 21:59:21 @ayanem_in_ouga どうでしょうね。音色の選択を戦略的(リスナーの側に立ってキャラ立ちさせる=リーダビリティを上げる)と見るか、審美的(自分の好きな音を単に選ぶ)とみるかということになりますが。キャラ立ちは結果的なものとしてとららえた方がよさそうです。 posted at 21:55:42 @go_ya ちなみにAKBは聴いたこと無いんですよね。友達がものすごいファンなので知っていると言うだけで。なんかランク制になっているとか。モー娘がオーディションをテレビ化してリアリティショーの方法を取り入れたのと同じですね。ファンの自意識とコミュニケーションするわけです。 posted at 21:52:59 そういうのを美学的な意図も無い創造性もない単なる作業、無駄、laborというわけですが、相対性理論はそういう無駄なことはしないことで自分たちのやりたいことだけを見せていると言えるのではないかな。それは肥大化しすぎた音楽産業の構造への遠まわしの批判にもなっている。 posted at 21:50:37 リズムのゆれのある無しは、普通にスタジオで大手のエンジニアやらプロデューサーやらと作ったものとサウンドの面で差別化するという部分もある。そもそも、リズムのゆれなんていまどきポストプロダクションでいくらでも修正できる。無目的にカッチリさせることで技術を見せて雇ってもらえるエンジニア posted at 21:49:00 リズムのゆれとか一言も言っていないし、リズムのゆれをそれ自体で評価しているわけじゃない。そんな単なるフェティシズムを評論と呼ぶほどぬるくやってない。 posted at 21:46:46 AKBがそれぞれのメンバーをああいう風にゲーム版の上の駒のようにして、さらにそのゲームにファンを関わらせているのは、おにゃんこ以来の方法論の発展。しかし、やはりキャラによって構成されるということで、新たなコンポジションの可能性が見えているわけでもあって。 posted at 21:45:35 そしてキャラ化っていうのはそもそもポピュラー音楽全般が70年代からやってきたことで、つまりはポップアイコン化ということだが、いまや一人の歌手の物語を肥大させて売りぬくという方法は取れない。それとは別に潜在していたものとして、アンサンブルの部分ごとにキャラを割り振るという方法がある posted at 21:43:29 話をぱっと見の古いか新しいかでしか判断できない人は嫌いだな~ posted at 21:39:54 アンサンブルの分離性っていうのは、和声規則とかで、各声部が独立性を保つこと、と言われることと対応します。とはいえそれと全く同じことではない。あと、今のJポップがストリングスの使用に見られるように音を纏めて、ひとつのエモーションに統一しようとする傾向が強いのに対するアンチとして評価 posted at 21:38:46 これはwww「わぁい!」の付録の「ブルマらしきもの」www posted at 21:15:30 実を言うと、僕が相対性理論を評価する理由はけいおんを評価する理由と同じだったりする。すなわち、insturmentalを「キャラ」化する。アンサンブル全体の聴覚上の分離可能性の高さを、キャラによって保っている。音色対位法と関連付けてもいい。 posted at 21:14:12 しかし、新房監督の音楽の扱い方に対して、今期のけいおんはまだ話が展開していないせいもあるだろうが、いまいちだな・・・律が雑誌でドラムの練習しているシーンはかなり良かったとはいえ。 posted at 21:11:07 荒川アンダーザブリッジ一話の、子供たちにズボンを脱がされるリクとか、クリス・カニングハムが作った、Aphexのcome to daddyのPVでの子供たちの暴走っぷりを思い出させたが。非現実的な光景をユーモアとして映像化するとき、洋楽PVの記憶がデータベースとして働いている気がす posted at 21:09:39 @ep_zero 楽曲が昭和っぽいのは、誰でも聞いた瞬間に視覚的イメージを持つような曲がアニメにはふさわしいからではないでしょうかおそらく。あと、新房監督が扱う町の景色が、昭和の名残をとどめているものが多いのも影響していそうです(夏のあらし)。 posted at 21:04:51 眠れる音楽は、いい音楽なのだという考え方がある。駄目な曲と言うものは駄目なところが気になって眠れやしないだろうと。それもひとつの真理だろう。しかし、眠れる曲ばかりを作っても仕方ない。 posted at 21:00:23 フランソワのラヴェルの演奏がよいと薦めてもらったので、フランソワ聴いている。ベイリーの即興のよう。バランスを崩すことでバランスを作る。作っては壊し作っては壊すをものすごいスピードで行っている、しかもその周期自体もガチャガチャ入れ替わる、そして最終的に時間全体にバランスが生まれる。 posted at 20:52:52 かまってちゃんは「過入力」によって「歪ませるということを音響だけでなくリズムにまで広げていったことが重要。そこでは音響とリズムが一体化した運動になる。これはポップの文脈では重要なことでしょう。 posted at 18:07:48 ヒルベルトはあまり関係ない気がしてきたが、まあよかろう… posted at 18:03:23 とりあえず音質について語っていれば本質的な批評を装えるのかな。もう少し芸を見せてくれないかな。スペクトルアナライザを見れば分かることをいちいち言葉で言わなくてもいいから。 posted at 18:01:40 @ClothSack ヒルベルト、ゲーデル、ウィトゲンシュタインを生んだ国でもありますからね。 posted at 17:57:29 |
last update 05/03 08:24
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