【萬物相】鳴梁大捷碑

 全羅南道海南郡と珍島郡を結ぶ珍島大橋の海南郡側では毎年、今ごろの時期から6月にかけ、橋の下に広がる岩礁地帯でユーモラスなボラ漁が行われる。村のベテラン漁師たちが海の中の獲物を狙ったかと思いきや、すぐに豆をいるような音が聞こえてきた。春を迎え、西海(黄海)へ向かって回遊するボラの群れが、海南郡と珍島郡の間の強い潮の流れに押されて海岸へ近付くときに出す音だ。漁師が網を投げ入れるたびに、3-4匹のボラがかかる。麦の収穫期に当たる5-6月に旬を迎えるボラは、その場で刺し身にして、見物客たちに振舞われる。

 30年にわたって行われているこのボラ漁は、この海域の「ウルドルモク」と呼ばれる強い潮の流れがもたらす恵みだ。潮流が秒速6メートルほどで、韓国では最も速いこの海域では現在、潮流発電所が稼働しており、2013年には発電容量を9万キロワットまで増やす計画だという。「ウルドルモク」とは、強い潮の流れによって、子どもの泣き声のような音が発生し、それが10里(約4キロ)離れた場所でも聞こえることから付けられた名前だ。漢字では同じ意味の「鳴」という字を当て、「鳴梁海峡」と名付けられた。1597年、李舜臣(イ・スンシン)が13隻の船を率い、日本の船約130隻を撃破した「鳴梁大捷」の舞台としても知られる。

 鳴梁大捷から91年後の1688年、全羅右水営(役所の一つ)の東門の外側に、「鳴梁大捷碑」が建立された。文才として知られた李敏敍(イ・ミンソ)が碑文を考案し、名筆家の李正英(イ・ジョンヨン)が下書きをした。碑の上の部分に刻まれた字は、小説『九雲夢』の作者、金万重(キム・マンジュン)の作品だ。第2次大戦中の1942年、日本はこの鳴梁大捷碑を、「時局に反する旧跡」として掘り出したが、壊すことはできず、ソウル・景福宮の庭に埋めた。高さ2.67メートルのこの碑を運んだ作業員や大工が次々と死亡したためだという。

 日本の植民地支配から解放された後、海南郡の住民たちは、鳴梁大捷碑を取り戻そうと立ち上がった。「忠武公(李舜臣の呼称)遺跡復旧期成会」を結成し、人々の話を頼りに探し歩いた末、景福宮で鳴梁大捷碑を発見した。農楽(伝統芸能の一つ)の踊り手たちが中心になって募金活動を行ったり、碑の拓本を売って金を工面したりして、1950年に碑を復元するとともに、碑を覆う建物を建てた。本来、碑があった場所には敬老堂(高齢者の集会施設)が建てられたため、碑はそこから900メートル離れた場所に建てざるを得なかった。その後、6・25戦争(朝鮮戦争)のように韓国が危機に陥ったときには、この碑から黒い涙が流れる、といううわさが広がった。

 海南郡はこのほど、宝物503号に指定された鳴梁大捷碑を、本来の場所へ移設する作業に取り掛かったという。日本統治時代の受難から68年ぶりのことだ。今年は李舜臣の生誕465周年に当たるが、李舜臣の誕生日の28日には、海南郡の住民たちが毎年、鳴梁大捷碑の前で祭礼を行っている。このウルドルモクで、韓国の海軍史上最大の勝利をもたらした李舜臣の知恵と覚悟が身にしみて感じられる今日このごろだ。

呉太鎮(オ・テジン)論説委員

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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