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国労、和解案承認「つらい23年に光」 JR不採用問題(2/2ページ)

2010年4月26日21時53分

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写真:涙を流しながら発言する国労闘争団全国連絡会議の神宮義秋議長=26日午後、東京・永田町、川村直子撮影涙を流しながら発言する国労闘争団全国連絡会議の神宮義秋議長=26日午後、東京・永田町、川村直子撮影

 今回の解決案では、JRに雇用を要請するものの、「保証できない」とされている。

 「元の職場で同じ仕事ができるかと言えば、体力的には厳しい。教育訓練も必要だ。採用を希望する以上、中途半端ではだめだ、と仲間には言っている。法的には、JRに採用責任がないことを肯定するしかない。いろいろあったけど何とか協力してほしい、とお願いするだけだ。人道上の視点で考えてほしい」

 1967年に国鉄に入り、福岡市で信号機やポイント、踏切の点検、修繕を担当した。先輩は国労の組合員ばかりで、加入は当然だった。

 「不採用の職員は、えらい活動家のように言われたが、実際は一般の組合員。自分も80人の分会の副分会長にすぎず、民営化なんてできるわけがない、と思っていた。それが、86年の衆参同日選で自民党が圧勝したのを機に、あれよあれよと」

 JRを不採用になって3年間、清算事業団で過ごした。

 「助役が朝、点呼を取ったら、後は自学・自習。パイプいすに長机があって、国語辞典やワープロが置いてある。することがないのに、部屋から勝手に出るなと言われる。仕事をしたいのに仕事がないのが、一番苦しかった」

 解雇された組合員は36の闘争団をつくった。団長を務めた博多闘争団は初めて企業組合を設立し、清掃や植栽を請け負って生活を支えた。

 「大変だったのは、雇用保険や年金、健康保険料が払えないこと。だったら、自分たちで受け皿をつくろうと。稼いだお金は話し合って、家庭の事情に応じた額を分配した。この仕組みが全国の闘争団に広がったことで、助け合いながら、闘い続けることができるようになった」(江口悟)

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