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夏直前泥縄集中特別企画

益体なしサポートin the AIR


AIRにおけるSUMMER編の二次創作をされているorしてみたいなーと思われている方々、また考証や背景について造詣を深めたい向きに、僭越ながらお送りします。
少しでもお役に立てば幸いです。

涼元悠一拝



使用上の注意

●このページ及びここに書かれている情報は、断じてKeyの公式情報ではありません。あくまで涼元悠一の個人的なコンテンツであり、このページについてKeyに問い合わせ等をすることは絶対にお止めください。

●このページは期間限定企画なので、涼元が飽きた時点、長くとも2001年夏いっぱいでサクッとなくなります。その間のリンクは自由ですが、正当な引用の範疇を越えた過度の転載及び、ページそのものを複製しての転載は厳禁ということでお願いします。

01/12/02追記:↑のように書きましたが、取り敢えず消さずに残しておくことにします。ヘタレですみません。

●以下の内容は、Key製作のアドベンチャーゲーム"AIR"を未プレイの方にはあんまり意味がありません。また、今まさにプレイ中という方には強烈なネタバレになる場合がありますので、こちらからお戻りください。

●かなりの超速でデッチあげてます。殺風景ですみません。また、色々とおかしな点もあるかと思いますが、大目に見てもらえると涼元は心安らかでいられて幸せです。

●一応不定期かつ短期集中連載ですが、次回をいつ書くかは例によって未定っす。

●これを読んだ結果、「俺の描いた(書いた)のって考証的に間違ってるわけね、ダメダメなわけね」などとやさぐれたりしないでくださいです。
創作は面白ければいいんであって、考証コンテストとは違いますから。
じゃあこんなおせっかいしてんなよ>自分って感じもしますが。

※ほんの一例

(市場の大根を指さして)
【神奈】「おいそこの者、この白い棒杭はなんと申すのだ?」
【売り子】「清白(すずしろ)だよ」
【神奈】「でたらめを申すでないぞ、無礼者」
【神奈】「すずしろといえば、この時代のものは秋大根、すなわち秋に種を蒔き冬に収穫すると決まっておろ。おまけにそこにあるものはどう見ても練馬大根ではないか。あれは江戸時代に入り品種改良されたもの。それがなにゆえこのような平安中期かつ真夏の路頭で平然と売られ…ふむぐっ」
【柳也】「いやこの娘、すこしばかり頭(おつむ)が足らず難儀しておるのだ」
【売り子】「それはお気の毒なことで」
【神奈】「むむふむ〜。ふむむむふむ〜ふむむむ…」
(物知り神奈退場)

●…っていうかウダウダ言ってる以前に、もう時期的に間に合ってないような気もしますが、その辺のところはどうなんでしょう? あっ、やっぱりもう遅いですか、印刷に回しちゃいましたか。すみませんです、はい…(平伏)



2001/07/07 part1

絵描きさんに送る平安のツボ三箇条

平安ものの二次創作というといかにも小難しい感じがしますが、インターネットに情報が溢れ、歴史物のテレビドラマなどを目にする機会も多いですから、歴史物っぽい見栄えにするのは比較的容易…かもしれません。
ところが、平安らしくなるかといえば、話が違ってきます。江戸〜幕末を中心にしたいわゆる『時代劇』とは、ビジュアル的にも思想的にも決定的に違うツボがあります。
ここを押さえることなく、「時代劇だから」という感覚だけで制作してしまうと、TV版陰陽師(※)のようになんだかへんてこりんな代物が出来上がってしまいがちです。

※小説版と漫画版は時代を超えて読まれるべき傑作です、小説版と漫画版は。

「一応昔っぽく描いてみたんだけど、なーんか違う気がする…」

そんな悩みをお持ちの絵描きさんは、とりあえず、次の三点を注意するだけでも、ぐっと平安度がアップするものと思われます。


1 着物の帯を太く描かない

いちばん目立ち、かつ違和感に直結するのが服装、中でも女性の帯の扱いでしょう。
現在では、着物の帯はかなり幅が太く、身体の後ろで結びますが、これは江戸中期、元禄以降に登場したものです。それ以前は男女ともに、細い帯を身体の前面で縛っていたようです。今の柔道着みたいな感じです。もっとも、縛り方自体に作法はなかったようですが。というか、帯は単に着物がはだけないようにまとめておくための用具であり、帯そのものを見せようとは考えられていなかったということでしょうね。

帯の歴史については、こちらが詳しいです。 帯ヒストリー 


同様に、着物の裾を短くしすぎないというのもあります。
当時、貴族の装束は、裾がとてつもなく長く、引きずって歩くのがデフォルトです。特に女房装束(いわゆる十二単)は、ものの本によると「この服装のおかげで屋敷の床はいつでもつるつるに磨き上げられていた」と言われるほどです。
贅沢な絹をどっさりと使うのは身分の高い証拠。姫にしても女房にしても、徒歩で外出することはほとんどなかったと言いますから、文字通り悠長な話ではあります。
もちろん、一般民衆の着物は今と変わらない活動的な丈です。念のため。

2 部屋に畳を敷き詰めない

これは基本中の基本でしょう。
平安時代の貴族の住まいといえば、言うまでもなく寝殿造りです。
部屋は基本的に大部屋で、御簾や屏風により仕切られています。要するに、固定された内壁は存在しないわけです。
外と内を隔てるのは蔀戸(しとみど)のみ、天井の板張りもありません。
当然床も板張りでだだっ広く、人が座る場所にのみ畳を敷くのが普通でした。百人一首の札を見ると、縁(へり)のある畳の上に座っている人(多分皇族…かな?)がたまにいますが、ちょうどあんな感じです。また、縁のデザインは身分によって厳密に決められていたそうです。
つまり、畳は貴族のステイタスシンボルでもあったわけです。「この上ない幸せ」を重畳(ちょうじょう)と表現するのも、その辺りが由来でしょうか。
ところでこの寝殿造り、夏は風通しがよくいかにも快適そうですが、冬場は寒くてどうにもならなかったはずです。そこで貴族は厚着をするようになり、これがやがてファッションとして定着したものが十二単だと言われています。

平安貴族の屋敷については、こちらが参考になるかと。

3 太刀を打刀にしない

打刀というのは、刃を上にして腰帯に差す、いわゆる普通の刀だと思ってください。
平安時代の刀、つまり太刀は、時代劇で見慣れた江戸時代の日本刀とはかなり異なります。summer編の主人公、柳也が携えているのは『鉄鞘の長太刀』と記されていますが、これは毛抜型太刀という種類に当たります。
今の刀と一見して違うのは、柄巻がなく地金のままなことと、帯に差すのではなく、吊して携帯することでしょうか。また、鞘の金物もいかにも古風な感じです。

毛抜型太刀の写真はこちらで見られますが、現在も残っている刀剣類というのは、武器というより美術品として保存されてきたものが多く、かーなり装飾過多な感じです。少なくとも、柳也の太刀には螺鈿細工なんて施されてはいなかったでしょう。

余談ですがこの毛抜型太刀、構造上居合い抜きができません。それ以前に、居合いという技法そのものがまだ存在しないわけですが。
なので、山中で柳也が披露している胡桃割りは、正式な剣技ではなく自己流に編み出した曲切りの類でしょう。(太刀そのものが使いやすいように改造されている可能性もありますね)
刀を使った大道芸というのは世界的にも歴史が古いものですから、思いもかけない使い手が市井に存在しても不思議ではない…ということにしといていただけると嬉しいなあと。

ちなみに高野山の僧兵が扱っていた直刃剣は、実在の武器ではなく不動明王の剣からイメージしています。物理的攻撃のためより、むしろ呪具扱いと言えるかも。


太刀に関しては、こちらでかなり興味深い試みをされています。お薦め。
平安太刀もどき制作記



素晴らしくためになるサイトご紹介


・平安装束(特に男物)及び有職故実、装束の入手方法まで!
装束の知識と着方

・着物のあれこれ、基礎知識
京都和装産業振興財団

・平安貴族の生活/風俗全般。写真多数
風俗博物館〜よみがえる源氏物語の世界〜




とりあえず、part1はこんな感じでまとめてみました。
多分次はSS書きさん向けかなあ。『この辺の言葉は使わない方が無難』、とか。
ご希望等ありましたら、涼元までメールしてやってください。


2001/07/24 part2

SS書きさんに送る、時代物っぽい文章のツボ

さてさて。
平安に限らず、時代物の小説を書こうとする場合、文法や言葉遣いをその時代に合わせることはもちろん必要不可欠です。そこで書き手は、歴史小説を読んだり古語辞典を引いたりして、なんとか昔っぽくしようと頑張ったりあがいたりするわけですが。
正確無比な古典知識にのっとり書かれたものが面白いものになるかというと、違うんじゃないかなーと思います。ていうか、そういう類のものを読んでも、価値がわかる人はごく少ないんじゃないでしょうか。
つまり、いちばん肝に銘じておくべきことは…SFだろうと歴史物だろうとファンタジーだろうと耽美ものだろうと同じ。

読むのは普通の人である。

これに尽きるんじゃないかと思います。
資料には魔力があって、調べはじめると全てを正確にしなければいけないような気持ちになったりします。そのまま突っ走ってしまうと、肝心のストーリーやキャラクターが手薄になった挙げ句、作者が知識をひけらかすだけの鼻持ちならないシロモノが完成しがちです。読み手が求めているのがそんなものではないことは、言うまでもありません。
書き手の知識はひけらかすものではなく、自然に滲み出るもの。そしてそれは、物語や人間をより魅力的に描くための潤滑油にしか過ぎないことは、いつでも肝に銘じなければいけないなあと思います。

あれれっ、なんか自分に言い聞かせてますね、これ。
反省&閑話休題。

要するに、正確な考証より手軽にそれっぽく見えることを重点に、ひとくさり解説させてくださいなってことです。ヘタレですみません。
能書き並べててもしょうがないので、早速行きましょう。


SSにしてもマンガにしても以下のような言葉を(特に台詞に)使っていないかざっとチェックしてみると吉かも〜的三箇条

●〜的だ
語尾にちょいと附けるだけでどんな名詞もいきなり現代的になるマジックワード、それが『的』です。時代的にも、活用されるようになったのは恐らく近代以降。夏目漱石か誰かも、「最近お前ら的的言い過ぎっていうかウゼー」と自著で憤っていたと記憶してます。
ここを修正するだけで、お手持ちの文章の昔度が20%アップします。(涼元比)

修正例

感動的だ 心打つ
神秘的な 不可思議な
具体的に 詳しく(詳しゅう)
感情的  気が昂(たか)ぶる/気を鎮(しず)める

気づかれた方もいるかと思いますが、問題は『的』そのものではなく、○○的と後ろに『的』がつけられる名詞自体が、硬質で現代的な印象を与えることです。ここをいかに柔らかくできるかがキモなのですが…こればっかりは経験とセンスでしょう。類義語辞典などを活用して、色々と試してみてくださいです、はい。

シソーラス活用検索
http://search.kcs.ne.jp/the/


●愛する
話を惚れた腫れたに持っていこうとすると、どうしても使いたくなるのが『愛』ですが…
愛が『博愛』『友愛』そして『異性間の愛情』を指すようになったのは、近代になってから。明治時代に聖書を訳そうとした時、"love of god"に当てはまる日本語がどうしても思い浮かばず、『神の御大切』としたという話があるぐらいで。こと日本では、立場を越えて相手を思いやるという概念自体が、ここ100年ほどに培われた極めて斬新なものであるわけです。
ちなみに平安時代には、『愛』は小さいものやか弱いものに対する『かわいらしい』という感情を表していたようです。今で言う『愛でる』の用法でしょうか。某ナウシカの元ネタとして有名な『虫愛づる姫君』(堤中納言物語)なんかが、当時の愛で方としてはポピュラーな例ですね<違う。

余談ですが。
歴史物現代物に限らず、そもそも『愛』という言葉を文章でそのまま書いてしまうというのは、もの書きとしてはかーなりヤバい姿勢だよなあと思います、涼元的には。だって、「愛してる」なんて言い回し、二流の映画やドラマの中でしか聞いたことないですもん。実戦の告白で使ったらきっと大笑いされるし。そういう意味では、今でも定着しているとは言い難いかも。>愛


●とても(とても大きい、とても高い、とても多い等々)
これは気にならない人も多いと思いますが。
もともと『とても』は『とてもできない』『とても無理だ』という風に不可能を導くのが、用法としては正しいです。veryの意味で使うようになったのはごくごく最近、ここ20年ぐらいのことらしいです。
古典的な言い回しに言い換えるとすると、『大層』とか『随分』でしょう。

これに類する言葉は他にもあります。
有名どころでは、『松井の打球はあわやホームラン』というやつですね。これも、『あわや』の次は『大惨事』など、否定的な語句が来るのが正しいです。つまり、『桑田の二球目はあわやホームラン』なら間違ってないわけです。ピッチャーの側から見れば、ホームランは大惨事ですから。
それから、一時期さんざん叩かれた『ら』抜き言葉も典型でしょう。

涼元に言わせれば、日本語にしぶとく残っていた文法的欠陥(丁寧語と受け身と可能が同じ言い回しになってしまう)のひとつがやっと是正されたよめでてえなあってだけなんですけどねえ…>ら抜き言葉。まあ自分では使いませんが。でも、『昔からの言葉』=『正確で美しい』というのは思考停止しすぎだと思うっす。

この手の、「作中の時代とは用法が違う」という言葉は、はっきり言って他にいくらでもあります。ゴ〜ロゴロあります。いちいちチェックしてたらたまりません。
要は、「これって最近用法が変わったんじゃ?」と一般に知られている言葉には要注意ってことです。書き手側が把握できていない分まで、いちいち調べて修正するほどのものではないでしょう。


というわけで、いいかげんな三箇条でした。
最後に、SSを書き慣れている方向けにちょーっとだけ高度なコツを。
書き手の仕事場に踏み込む話になるので、読みたい方だけCtrl+Aで反転させてください〜。


もしも一人称(主人公=語り手)で歴史物SSを書いているのなら、台詞の考証レベルはキャラクターの役割に応じて調整するといいかも。

どういうことかと言いますと。
一人称の小説では主人公はイコール読者ですから、読者が知らないような言い回しをポンポン喋っていると、たとえそれが歴史考証的に正確でも読み手をキャラから遊離させてしまう結果になります。もちろんヒロインも同様です。これこそが、歴史物の小説が持つ根本的な取っつきにくさそのものです。
そこで、キャラそのものに感情移入させる必要がない脇役には、正確な言葉を喋らせて雰囲気を盛り上げ、ヒロインや主人公の台詞は親しみやすさを優先し、場合によって(ギャグシーンなど)は敢えて考証を無視しちゃっうわけです。
平たく言えば、キャラによって台詞回しを昔っぽくしたり今っぽくしたりするってことです。

図示するとこんな感じ。

  低←          考証レベル           →高
  高←          親しみやすさ          →低

地書き<主人公の台詞<ヒロインの台詞<脇役の台詞<端役の台詞

ちなみにsummer編の場合、柳也<<神奈=裏葉<八尾比丘尼=知徳<僧兵という感じで整えてあります。特に地書きはプレイヤーの思考そのものなので、ほとんど現代語になってます。
歴史小説で考証レベルを揺らせば即破綻と取られてしまいますが、一人称のライトノベルやヴィジュアルノベルではアリな手法じゃないかなあと思います。キャラへの感情移入度は格段に上がりますし、当然読みやすさも増します。
腕に覚えのある書き手さんは、騙されたと思って挑戦してみてくださいです。

またまた余談ながら、なぜ涼元がテレビ版陰陽師を目の敵にしているかというと、あれは単に考証レベルを作品均一で江戸後期風にしただけ(おそらくフツーの時代劇調にすれば視聴者が親しみやすくなると考えたためでしょうけど…受け手をバカにしてますよね)で、キャラに応じて段階的にコントロールするという考えを一切していなかったからです。売春宿のお姐さんが殿上人の源博雅に向かって「けえれけえれっ!」と啖呵を切るなんて…正に悪夢のようでしたわ、はぁ…。(鬱)


今回はこんな感じでひとつ。
次は肩の力を抜いて、平安びとの風俗とか生活ぶりを涼元がわかる範囲でご紹介する予定。
ていうか、いいかげんイッパイイッパイなので次で最終回にしたいっす。はやっ。



01/09/05 part3

やんごとなきシモネタスペシャル

十二単に身を包んだ美しい姫君に、雄々しい武者たちの誇りをかけた一騎打ち…
『平安時代のイメージは?』と問われれば、思い浮かぶのはそんなところでしょう。
しかしながら、絢爛豪華な平安絵巻の裏には、当然些末な日常があるわけです。光源氏は色恋のことしか考えていなかったわけではなく、ちゃんと公務も果たしていたはずです。ただ、生みの親の紫式部が「そんなこと書いてもツマラナイし〜」と思っただけで。
物語の登場人物たちも、生活に関わるたくさんの雑事を空気のようにこなしていたことは、言うまでもありません。
そんな、敢えて触れられなかった、そしてちょっぴり下世話な平安の日常を、好奇心のままに取り上げていこうと思います。しばしおつき合いのほどを。



●トイレ
いきなりそれかよ? というツッコミはさておき。
古来からトイレは厠(かわや)というぐらいですから、元々は川に流していたことは想像に難くありません。
日本最古のトイレは奈良時代初期、水路に渡した板を跨ぎ、しゃがんで用を足せば直接水面に落ちる…とまあ、文字通りの水洗式でした。もちろん、貴族専用です。
江戸時代には長屋ごとに公衆トイレがありましたが、衛生上の配慮ではなく、人肥を集めるためでした。ちなみに、日本において肥料=人肥が発見されたのは鎌倉時代だそうです。
それでは、平安時代の庶民のトイレはといえば…ご想像通り、その辺の道端でテキトーにしていたそうです。シンプルイズベスト。

問題は、貴族たちです。
十二単やら袍(ほう)やらを着込んだままで用を足せるというのは、さぞや広いトイレがあったんだろうなあと思い、調べてみると…ちゃんとしたトイレがあったという記述と、トイレという場所はなかったという記述があります。あれれ?
さらにしつこく調べますと、実情が見えてきました。要は、『用を足すための設備は室内にあったが、場所は固定されていなかった』ということらしいです。ほとんどなぞなぞですね。さて、これなーんだ?

答えは…そうです、おまるです。
当時はまり筥(はこ)、樋筥(ひばこ)、清器(しのはこ)などと呼ばれていました。このうちの『まりはこ』が、おまるの語源でしょう。設置場所はどこと決められていたわけではなく、屋敷の方々の隅に複数置かれていたらしいです。真冬の夜には、枕元に置いたこともあったとか。
形は、上面が開いた長方形の木箱の一方に板が突き出ている、という感じ。今の和式便器を前後逆にしたものと思ってください。つまり、金隠しが後ろにあるわけですね。それは何故か?
やんごとなきお姫様がおもよおしになった場合、それとなく侍女に合図を送ります。
すると、事情を察した侍女がまり筥を手にすすすと寄ってきて、姫様の袴の脇からまり筥を中に滑り込ませ、衣の裾を持ち上げて、まり筥の板にかけます。
お姫様はおもむろに正座を崩し、立て膝の状態で用を足します。
終われば侍女が裾を戻し、まり筥に蓋をして退場。お姫様は何事もなかったように恋の話に戻るわけです。
この、衣の裾を掛けるための板、つまり『きぬかけ』が、時代を下ると『きんかくし』と呼ばれるようになったという説もあるとか。
まり筥の中には砂が敷き詰めてあり、使用後は下女が川に捨てに行きます。そしてきれいに洗った後、また元の場所に戻します。
うーんと豪華な猫トイレとも言えるこのまり筥、実際、位の高い貴族の物ともなれば、漆塗りで金蒔絵まで施した立派なものでした。とある男が高級女官に恋慕した挙げ句、思い余って彼女のまり筥を奪おうと思い立ち…という、ものすごい話も残っています。
やっと手に入れた憧れの人のまり筥、その中身を目の当たりにした男が何を思ったか? それはまた、別の話。


…なんか大事な手順をボカして書いてない? という鋭い方へ(反転すると見えます)

紙はさすがに貴重品だったので、ごく一部の貴族しか用いなかったらしいです。通常は木製の箆(へら)でこそぎ取っていました。あと、小用の場合、女性は虎子(おおつぼ)と呼ばれる溲瓶(しびん)状のものを使ったらしいです。
…興醒めな知識の極致ですね。すみません。

追記:日本におけるトイレの歴史についてですが、絶対お薦めのサイトを見つけました。
特に『庶民は高下駄』の項は目からウロコです。なるほど。


1996年のスカトロジー
http://www.win.ne.jp/~yokoyama/



●風呂
トイレはわかった。では風呂はどうか?
日本最初の銭湯は、平安末の京にあったといいます。当時は『湯屋』と呼びました。
ただしこれはたっぷりの湯に裸で浸かるというものではなく、蒸し風呂だったようです。
当時、仏教寺院が入浴を奨励し、浴堂を造って施湯を行っていました。ただ、これは病気治療及び精神的な穢れを祓うという意味が強かったそうですが。
庶民は入浴の習慣こそありませんでしたが、行水は普通にしていたようです。身体を清潔に保ち、皮膚病や伝染病を防ぐという水浴の効能は知られていたのでしょう。

では一方、貴族はというと…
結論から言えば、滅多に入らなかったらしいです。うわっ。
平安時代の貴族は、一挙手一投足を占いに縛られていました。
朝廷の一官庁である陰陽寮(おんみょうりょう)が作成した具注歴というカレンダーがあり、そこに日々の吉凶が詳細に書かれています。朝起きるとまずそれを首っ引きに見て、一日の行動を決めるわけです。
日が悪ければ『物忌み』といって、数日部屋に閉じこもることさえありました。
そしてなんと、『入浴してはいけない日』まで定められているのです。
面白いので、とある入門書から引用してみます。


警告! この日に入浴すると…
・毎月一日   早死にする
・毎月八日   長生きする
・毎月十一日 目がはっきりとする(?)
・毎月十八日 盗賊にあう
・午の日    愛嬌を失う
・亥の日    恥をかく
・寅の日    日が悪いので入浴禁止
・辰の日    同上
・午の日    同上
・戌の日    同上
暮らしの歴史散歩 生き生き平安京 藤川桂介(@宇宙皇子)著/TOTO出版刊 より


『盗賊にあう』って、アナタ…
道で陰陽師に会ったら、「絶対やな〜」と胸ぐら掴んで問い質したくなるような、見事な決めつけっぷりです。
こんな調子ですから、貴族の入浴は月に4〜5度ほどだったと思われます。入り方もお湯に浸かるのではなく、盥(たらい)に張った湯に下半身だけ浸し、上半身は手ぬぐいで拭いただけでした。入浴というより行水ですね。しかも出勤前の朝風呂。あまり気持ちよさそうな代物ではありません。

ただし、日本でただ一人、天皇だけは毎朝入浴していました。これは清潔のためではなく、純然たる儀式だったようで、手順が事細かに規定されています。

平安時代の朝風呂
http://www.union-net.or.jp/~cu-cap/asaburo.htm

ところで、当然の疑問が沸きます。
「平安貴族って、臭くない?」
その通り。臭かったらしいです。
平安時代、空薫物(そらだきもの)といって、衣はもちろん部屋にも頭髪にも香を焚く風習ができましたが、詰まるところ臭いをごまかすためだった、と考えられています。

では、貴人に仕える女官たちはどうだったのでしょう?
あれだけの長い髪を洗わないでいたら、たちまち痛んでしまうだろうに…と思ったら、なんと半月に三日、洗髪用の休暇がもらえたそうです。ただし、半月に三回洗うのではなく、一度の洗髪に三日かかった、ということらしいですが。
「月二回は念入りに洗ってたんなら、不潔というほどでもないのでは?」とだまされてはいけません。前出の具注歴により、『洗髪してはいけない日』も山のようにあったわけですから。
具体的な洗髪方法はといいますと…素晴らしいレポートのページを見つけました。

洗髪について
http://www.asahi-net.or.jp/~tu3s-uehr/iino.htm

上記から一部引用しますと…
ゆする(米のとぎ汁)で洗う。
清水で洗う。
御厨子(棚)の上に褥(ふとん)をひいてその上で乾かす。
廂に沿って横づけにして風通しを良くする(御簾を上げ、几帳を回りに立てる)
火桶を前に置き、薫物を焚く。
湿り気をとりながら、髪を火で炙る。
これを複数の女房がつきそって行う。

洗うのに丸一日かかるそうですから、乾かして香を焚きしめるのに長くて二日。
『みどりの黒髪』を維持するためには、並々ならぬ労力が必要だったのですね。
summerの世界では、神奈の髪を洗うのは、裏葉専属の仕事だったはず。きれい好きで能率主義な彼女のこと、あるいはたらいに神奈ごと浸けて、頭から水をぶっかけごしごし洗ってる…なんて図を想像するのも一興かと。



●化粧と扇
平安ものの創作をする場合、無視しても怒られない…というより、無視しないと怒られる風俗考証がふたつだけあります。
ずばり、女性の化粧と美人の定義です。
当時流行の化粧といえば…顔中に篦で白粉(おしろい)を塗りたくり、眉を毛抜きで残らず抜いて、黛(まゆずみ)で描く。さらに成人女性は歯にお歯黒を塗る。そして唇にも白粉を塗って隠す。

ちなみに、この時代のお歯黒は未婚女性ではなく、成人した女性がするものでした。そして裳着(もぎ)、すなわち成人式(男の場合は初冠;ういこうぶり)を迎える年令は通常十二歳ぐらい。ということはつまり、今で言う中学生以上の年頃の女の子はみーんな白粉顔にお歯黒をしていたことになります。なっ、萎え〜。

こんな過激すぎる逆ガングロメイクに加え…

美人の条件@平安中期

 下ぶくれ顔
 引目鉤鼻
 おちょぼ口
 ぽっちゃり小太り(健康的に太っているのは裕福な証拠)
 長〜い黒髪(最低2メートルから、長ければ長いほどいい)

これだけ揃えば、匂うがごとき顔(かんばせ)の平安美人、出来上がりです。
…って、これを正確に再現しても、喜ぶのはよほどの好事家さん(?)だけでしょう。少なくとも、涼元は嬉しくないです。実際に会ったらむしろ泣きそうです。怖くて。

しかし、なぜそんなことになっていたのでしょう?
ひとつは生活空間の問題。寝殿造りは構造上採光が悪いので、部屋の中央は昼なお薄暗かったわけです。
そしてもうひとつは服装。生地過多の服を着ているので、露出している皮膚は顔だけです。勢いお洒落は服装に集中し、地肌=自然美の重要度はますます落ちていきます。
そんな状況で他人より目立つ化粧がしたかったら、顔を真っ白、眉や歯を真っ黒にしてコントラストで勝負するしかなかったわけです。当時の白粉は水銀や鉛が主原料だったと言いますから、知らないことはいえ、正に身体を張った化粧です。


魅力アップのためになら涙ぐましい努力をしたお姫様方ですが。
自慢の化粧を殿方に披露する機会は、ほとんどありませんでした。
なにせ、『女性が男性に顔を見せるのは、結婚を許したのと同じ』という時代です。
例えば、屋敷に男性が訪問してきて面会する機会があったとしても、女性は几帳の裏に隠れ、お互い姿を見ぬままに会話するのが通例でした。
それでは、偶然ばったり出会ってしまった場合はどうすればいいのでしょう?
その時は、すかさず扇で顔を隠し、無言のままそそと立ち去ります。

平安時代の扇には、木の薄板を二十数枚ほど重ねた檜扇(ひおうぎ)、五〜七本ほどの骨に紙を張った蝙蝠(かわほり)の二種類がありました。前者を冬扇、後者を夏扇と呼び、実際に使用する季節が区別されていました。
summer作中で裏葉が愛用しているのは、後者の蝙蝠です。

「…ちょっと待てよ? 冬扇って、なんで冬に扇が必要なんだ?」
ごもっともです。夏炉冬扇なんて言葉もありますしね。

檜扇のルーツは笏(しゃく)、雛人形のお内裏さまが捧げ持っている木の板です。女兄弟がいる家庭なら、誰もが一度は『ねー、これって何のために持ってるの?』と親に聞いたアレですね。ご飯をよそるとか生意気な家来を叩くとか、ロクな答えは返ってこないのも三月三日のお約束でしょう。
笏はもともと裏に紙を張り、会議中のメモを取るために使っていたものです。正面からは何が書いてあるかわからないので、閣議のカンペを貼るのにも重宝したらしいです。
それで、板一枚ではすぐにスペースが終わってしまうということで、何枚かの板を糸で綴じたのが檜扇の原型といわれています。言ってみれば平安式PDAですね。バッテリー切れがないからけっこう便利だったかも。
最初は実用品だった檜扇ですが、時代が下るにつれ儀礼用の道具としての性格を強めていきました。材質や絵柄、さらには板の数まで、年令や身分により厳格に定められていたそうです。

美容と服装
http://member.nifty.ne.jp/manner/4shou/33setu.html

対して紙製の蝙蝠の方は、最初から冷房器具として造られ、軽量で簡便なためにたちまち普及しました。前述の『顔を隠す』機能はもちろん、ぱちんと鳴らして呼び鈴代わり、ひらひら振って遠くの人を呼ぶ、目の前のものを掻き分ける、方向を指し示すなど、貴族の日常生活には欠かせない多機能携帯ツールでした。

ちなみに、身分の高い貴族に女官が相対する時は、唐衣裳(からぎぬも:十二単=女房装束のもっともフォーマルな形態)に袙扇(あこめおうぎ:檜扇のフォーマルなもの)が正式なのですが、裏葉の場合、おてんば神奈を追いかけ回すには正装では無理があったため、いつしか動きやすい略装になっていた…というのが真相のようです。

白粉お歯黒黛はともかく、扇は小道具として上手く生かせば、説得力が出ていいかもです。見栄えもしますしね>絵描きさん。

追記:現在では扇を持ち歩いているなんて、落語家か舞踊家ぐらい…と思ったら、どっこい別の形で生きています。とってもモダン。

日本扇面協会
http://www.ne.jp/asahi/sala-de-kikuko/fans-of-japan/


●恋の手管とキスと烏帽子と…

さて、慶事に招かれたとある名家の渡殿で、偶然姫と鉢合わせた某少将(なにがしのしょうしょう)。
その日から寝ても醒めても彼女のことで頭がいっぱい、近衛府の公務も身に入りません。
とっさに扇で顔を隠したその愛らしい仕草を幾度も思い出し、想像を膨らませた挙げ句、彼女に送る恋の歌(和歌です、もちろん)を創りはじめました。しかし結局文才がないので、従者に代作させることに。情けないけれど、誰でもやっていることです。背に腹は替えられません。
季節の花を一輪添えて、自信作(と従者が言う)の歌を彼女に捧げました。
しかし返事は帰ってきません。某少将、懲りずにまた歌を送ります。
そんなことが数度続きましたが、返事はありません。
ここで焦ってはいけません。恋慕相手のつれなさに痺れを切らした男が、『見たなら見たとお返事ください』と文を書いたら、自分の手紙の『見た』の部分を切り貼りした文を返されたという悲惨な例もあります。
ある日、送り出した舎人(とねり)がついに返事を携えてきました。
開くと確かに歌が書かれています。某少将には何のことだかサッパリわかりませんが、従者によると、これは大いに脈ありというではありませんか!
ここは押しの一手です。歌、手紙、贈り物の三段攻撃に切り換え、一気に勝負に出る某少将。もちろん、宿直(とのい)の夜には情報収集も怠りません。姫は色恋の駆け引きに長けたまさに高嶺の花、やんわりと断られた者がほとんどだとか。そうすると、彼はライバルたちよりは先んじているようです。
三ヶ月後、努力は実りました。
『わたくしもお会いしたいです。今宵ぜひおいでになって』
そんな気持ちが織り込まれている(らしい)雅な歌が、姫から届きました。
有頂天の某少将ですが、今夜と言われて今夜動けないのが平安貴族の辛いところ。星の具合と歴を睨み、吉日をじりじりと待ちます。その間に誰かに寝取られやしないか、気が気ではありません。
そしてついに、その夜が来ました。
上等の衣に身を包み、香を焚きしめ、占いをして慎重に方角を定めた後、牛車を用意させます。
そうして明るい月の下、憧れの姫の元に向かったのでした…


 灯を落とした座敷の中央、畳に褥(しとね)が敷かれています。
 その上に、ぼんやりと人影が浮かんでいます。
 月明かりの下で見る姫の横顔は、息を飲むほど美しいものでした。
 二言三言、言葉を交わしますが、その先が続きません。
 お互い黙り込み、ただ虫の音を聞きます。
 やがて、姫が褥に身を横たえ、そっと目を閉じました。
 衣擦れの音と共に、上品な香の匂いが鼻をくすぐります…


…とまあ、平安恋愛シミュレーション、いよいよ十八禁シーンに突入するわけですが。
ここからの手順が、今とちょっと違います。
現在なら、女の子を床に横たえたら、まずはやさしく口づけ、なんですが…
平安時代の初床では、恐らくキスは過激すぎたと思われます。
唇と唇を合わせるという愛情表現は、明治頃に西洋から入ってきて昭和にやっと定着したものです。平安時代にはキスの風習自体なかったでしょうし、江戸時代に至っても『くちすい』という性技のひとつにしか過ぎないわけです。
私見ですが、『抱擁してキス』という流れは傍から見ると捕食活動そのもので、日本人の源感覚には遠い気がします。ある意味、狩猟肉食の西洋文化を象徴しているのかもしれません。
しかしながら、キスなしというのもアレなので、ここは敢えて考証を無視することにしましょう。(【裏葉】「いささか不作法ですが…」)


 二人はそっと口づけを交わします。
 最初はためらいがちに、そして二度、三度。
 唇を離すと、互いの吐息が吹きかかります。
 そしてそのまま、彼は唇を姫の首筋に這わせ…


…どう考えても、烏帽子(えぼし)が邪魔になるんですわ、これが。
烏帽子というのは、平安絵巻ではおなじみの丈の高い黒頭巾です。位やTPOによって形が決まっていますが、この時代の成人男子なら通常身分を問わず被っています。もちろん、僧侶は除きますが。
そして、烏帽子なしでいることは、裸で歩くよりも恥ずかしいことでした。
特に貴族の場合は徹底していて、烏帽子(冠)なしのところを見つかれば、即刻官位を下げられたといいます。

安倍晴明の人気と共に平安中期を扱った作品が増えていますが、特に若年向け少女漫画には、主人公の美男が烏帽子を被っていないものが見られます。やはりあの形とたたずまいは、現在の視点からすればかーなり滑稽ではありますから、白粉お歯黒同様に無視もやむなしとは思いますが…
頭髪剥き出しで参内させるのは、なんぼ何でも無茶だろうと。
フルチンで皇居に入るのと同義ですので、たぶんその場で捕まったと思われます。
(…と岡野玲子先生も思われたのか、陰陽師10巻では敢えて晴明を無冠に描いていて、かーなり意地悪…というか、面白かったです)

絵巻物の挿絵にも、情事の後と思われるアンニュイなシーンがあるのですが、肌着の単(ひとえ)を着崩したままの女性の脇で、殿方の方はきちんと烏帽子をつけています。
人前では決して烏帽子を脱がない→恋人と二人きりでも人前であることには変わりない、というわけで、たとえHの最中でも、衣は脱いでも烏帽子は被っていたと思われるのです。

現在に比べれば淡泊だったのは仕方ないとしても、うーん…
帽子被ったままHしてんなよこの平安野郎って感じです。
それはいいとしても、使えるのが実質指だけというのは、男として…じゃなくて、もの書きとしてはかなり厳しい状況です。
ともあれ、続きを書いてみます。


 汗で濡れた肌に、幾重にも指を這わせ、求めます。
 でも、姫は頑なでした。
 ほっそりとした脚を必死ですぼめ、顔を背けています。
 月明かりの下、瞳が潤んでいます。
 その時、彼は気づきました。
 このひとははじめてなのだ、と。
 はじめてで、悩みに悩み抜いて、そうしてついに自分を選んでくれたのだ、と。
 彼女を『落とす』ためのくだらない手管の数々、代筆させた心のない歌…
 自分が情けなくなります。
 彼は烏帽子に手をやり、それをかなぐり捨てました。
 裸のまま、姫を見つめます。
 あまりのことに言葉を失う姫が、見つめ返してきます。
 あなたとひとつになれるのなら、私はすべてを失っても構わない、無言でそう伝えます。

 やがて、姫は微笑みました。
 そしてそっと、彼にすべてを委ねました…



…男側の願望過多かつか〜なり甘めではありますが、某少将の物語はこれにてTrueEndとしましょう。
その後、二人は幸せになれたでしょうか?
平安時代の平均寿命を調べたデータによると、貴族男性の五十歳に比べて、貴族女性の平均寿命は四十歳ほどだったと考えられています。女性の寿命の方が長い現代の基準からすれば、異常な数字です。
きらびやかな王朝絵巻と引き換えに、平安時代の姫や女房たちはとても健康的とは言えない生活習慣を強いられていました。特に出産時の死亡率は、現在とは比べものにならないほど高かったはずです。

赤ちゃんが生まれると人形を造り、無病息災を願うという習慣がありました。
子供の成長に合わせて、人形の衣裳も取り替えていき、無事に大人になったら川に流します。
幼児をかたどった人形は、這子(ほうこ)、天児(あまがつ)などと呼ばれ、現在の雛人形のルーツです。人に代わって災いを背負い、海に還るものとして大切にされました。






以上,、益体無しサポートin the AIR、一巻の終わりであります。
それでは、またいつかお会いしましょう。


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追記:何だかおセンチにまとめてしまったので、口直しにひとつ。

●おまけなぞなぞ(セクハラ気味)

江戸時代の隠語では、キスを『まぐろ』と呼んだりしました。
唇を重ね合わせるさまが鮪の刺身に似ていたからだと思われます。
それでは、『かわらけ(土器)』とは何のことを指すでしょう?

ヒント:つるつる


2001/12/02 part3.5

益体なし拾遺

夏限定企画のはずが、気がつけば街に木枯らしが吹く今日この頃。
既にお待ちの方もいないかと思われますが、一応お待ちかねと言わせてください。涼元謹製益体なしサポート in the AIRにいただいた質問にお答えする拾遺の巻であります。
益体なしサポートのそのまたアフターサポートなので、益体なし度は当社比二倍です。



1キャラのネーミングについて

平安時代の名前を考える時に、注意しなければならないことってありますか?
特に、命名のタブーのようなものはあるのでしょうか。湯桶読みや重箱読みはおかしい、とか。

まずは平安キャラのネーミングについて。
いちばん簡単かつ安全なのは、今昔物語(こんじゃくものがたり)あたりからテキトーにネタを引っ張ってきて、元がわからない程度にアレンジして使うことでしょう。身も蓋もなくてすみません。
貴族の場合、○○中将や○○更衣とか、役職名まで含めてその人物を表す場合もあります。あと、源とか伴とか藤原とか、固定された苗字を持つのは貴族だけで、庶民レベルでは単に名前だけしかないのが普通です。身分を問わず万人が苗字を持つようになったのは、明治8年に平民苗字必称義務令が布告された後の話だそうです。
で、ご質問の通り、音読みというのは大陸から入ってきた言葉、いわば外来語の読み方ですので、それと日本古来の読みが組み合わさった重箱読み、湯桶読みは言語史的には革新的なものではある…と思います。どうしてもという場合以外は避けておいた方が無難かもしれないです、はい。
それとは別に、覚えておいた方がいいことがひとつ。
当時の人々は、生まれた時からひとつの名前でずっと呼ばれることには、あんまり拘っていなかったということです。
源氏物語を例に挙げると、正編のヒロイン紫上(むらさきのうえ)は幼少時は若紫(わかむらさき)と呼ばれていましたし、末摘花(すえつむはな)にいたっては、鼻の先が赤くて不細工な容姿になぞらえての通り名でしかありません。まあ、物語上でのネタの一環であるとはいえ、ちょっとひどすぎ。>紫式部

当時には、本名は通常使わずに字(あざな)を名乗るという習慣があったらしいです。言葉そのものに呪力がある、という考え方に根ざすらしいのですが、この辺りは西洋魔術にも通ずるものがあり興味深かったりします。ル・グインの世界観なんて、まさにそのままだし。

いずれにせよ、呼び名はあくまで仮のもの、個人を特定できさえすればどうでもよかったのかもしれません。ので、あんまり拘らずにイケてる名前をつけてしまえばよいのではと思いますです。



2台詞回しのツボ

神奈と裏葉っぽく書くにはどうしたらいいですか?

とても単刀直入なご質問なので、こちらも単刀直入に。
まずは神奈。

・一人称は『余』。『わらわ』や『朕』は使わない。
・語尾は『だ』が基本。『じゃ』は使わない。

神奈の一人称『余』ですが、母君から引き離された後、お付きの者に(あるいは面白半分に)教え込まれたもので、通常男性が用いるべき言葉遣い…という設定です。例えば神奈が自分が女であることを意識しはじめたとして、敢えて『わらわ』を使ってみるというのはアリかもしれませんが…その場合でも『朕』は無理っす。確かにある意味最強の一人称ですが、日本において『朕』を使っていいお方は一人だけです。気をつけましょう。(笑)
『じゃ』の方は別におかしいというわけではないのですが、喋りが公家っぽくなるので。とりあえずゲーム中では一度も用いていないはず…です。

で、裏葉の方は…

・一人称は『わたくし』
・語尾は『ございます』が基本。

一人称の方は単純です。ここ一番自分を強調したいという時は、『この裏葉』と言わせるとそれっぽいかも。
語尾を含めた口調の方は、一応、慇懃無礼ギリギリに丁寧という設定であります。というか、裏葉の台詞の難しさは、丁寧語と謙譲語を取り違えないようにするとか、日本語の難しさそのものだったりします。
あと、昔っぽくすることを意識しすぎると、台詞がカタくなるので注意。例えば、「こんなものを持ってきました」なら、「このようなものをお持ちしました」か、「このようなものを持ってまいりました」で充分、「かようなものを持参いたしました」ではやりすぎという感じでしょうか。まあ、相手や場面によって器用に喋り方を変えられる人なので、表現の許容度自体は高いと思いますが。



3裏葉の正体

裏葉の生い立ちや力の秘密が知りたいなあと思って、自分なりに調べてみました。
ズバリ、私は○○○○の×××だと思うのですが、どうですか?

…うーん、どうでしょう?(笑) でも、目の付け所はシャープかも。
他にもご自分で調べたいという奇特な方、ヒントは○ツ○なので、お暇ならどうぞ。

この質問にも関係するのですが、西暦1000年近辺の日本を舞台にした場合、必ず登場する男の名前があります。
安倍晴明(あべのせいめい)、陰陽師です。
夢枕貘先生や某グループメンバー氏のおかげで、今やハンサムでクールな方術使いというイメージが定着している晴明さまですが、資料を当たってみると、どうも別の面が見え隠れします。
曰く、プロパガンダと権力に取り入るのに長けた怪人物。
涼元のイメージだと一番近いのは、ミスターサタンだったりします。晴明ファンの方には大激怒されそうですが。
今昔物語に知徳法師という人物が登場します。市井の陰陽法師で、晴明の力を確かめようとして彼の屋敷を訪問し、逆にやりこめられるという間抜けなエピソードで有名です。
ところがこの知徳法師に関するエピソードは今昔物語中に他にもあって、そこでは方術を駆使して海賊から荷を取り戻す正義の味方としてカッコよく扱われています。
しかもこの物語の後には、「力比べの時は晴明に後れを取ったが、それは単に準備不足だっただけで、知徳が晴明に劣っているというわけではない」という意味の、なんとも言い訳じみたフォローがしてあったりします。

もうひとつ、大鏡の中に有名なエピソードがあります。
http://www.e-kyoto.net/neta/b01/colum.htm ←こちらのページから引用させてもらいますと…
話は、晴明が六十六歳の時のこと。
ときは寛和二年(九八六年)六月二十二日のこと。花山天皇は、藤原道兼にそそのかされ、天皇を退位することを決意しました。この話は、花山天皇が出家先の花山寺に向かう途中の出来事です。
牛車がちょうど晴明邸にさしかかった時でした。晴明の家から手を何度も強くたたきながら、「これは一大事。天皇がご退位あそばされるぞ。天にはその兆候が現れているが、もはや事は決まってしまったようだ。とにかく、すぐに参内に参ろうと思うので、着替えと車の用意をいたせ」と命じる晴明自身の声が聞こえてきました。

また、続けて晴明が、「取り合えず、式神一人、内裏に行って事の真相を確かめてくるのだ。」と言うと、目には見えない何物かが、屋敷の外へ飛び出す気配がしました。が、そのものは、きっと、花山天皇の通りすぎる後ろ姿を見たのでしょう。「申し上げます。天皇はたった今、この屋敷の前を通り過ぎていきました。」と述べました。目に見えない声の持ち主は、式神でした。
…で、『安倍晴明とはこのようにすごい力の持ち主だったのです』と大抵は説明されるわけですが。
でも、上の文章を安倍晴明伝説の先入観なしで読むと、「花山天皇退位の陰謀に安倍晴明が一枚噛んでいたという噂が立ってしまい、その疑念を拭うために『俺のせいじゃないよ』と経緯を説明している」と取る方が自然な気がするんですが、どうでしょう?
涼元の妄想はともかくとしても、どうも安倍晴明に関しては、彼にとって都合のいいような記録しか残っていない、と思わせるところがあります。それもまた、彼の『力』のひとつだったのかもしれませんが。



…とまあ、こんなところで、ひとつ。
足かけ五ヶ月の拙文が皆様の創作の一助に、もしくは知的好奇心の刺激になったなら、幸いであります。
ではでは。


涼元悠一 拝

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