2010年03月08日

つながっていきたい

イベント、終わりました。ぽおーっとしています。
反省点は多々ありますし、もっともっとと思う気持ちはあります。
でも、踊り終わってからじょじょに、
貴重な時間を過ごせたこと、終わってしまうのが寂しいほどに
海月鏡虫のお二人と音楽を愛せたこと、技術的にはまだまだな自分の踊り、
未熟な心にもお疲れ様を言いたい気持ちがこみ上げてきました。
また、イベントを作り上げて呼んでくださったPTAメンバーや出演者の皆様、
お店スタッフの方々、恐る恐る、また突然、足を運んでくださったお友達、
初めてのベリーダンスを楽しく見てくださったお客様方、
そしていつも私に気づきと勇気を与えてくれるパートナーに、
改めて、感謝いたします。

ふと、これまでの自分は音楽や場や踊りを愛せていただろうか、と思いました。
上手に踊ること、心を表すこと、女性として喜ぶこと、
そう言うことを「がんばって」やろうとしていたような気がします。
自信の無さもあって、等身大以上に良く見せようとしていた気もする。
今回も、初めて踊りを見るお客様が多かったため
そう言った部分が無かったとは言えませんが、それよりも、
愛情と溶けたい欲が勝っていたと思えます。
「海月の曲にすっごく合ってた」と言うお客様の言葉が一番嬉しかった!
「僕らの曲を引き立ててくれた」と言うがく君の言葉も最高に嬉しかった!
繋がれてはじめて、上に書いたような表現もついてくるのでしょう。
そこからだと思う、本当に。

自分も含め今、人は皆、お互いの魂の次元のようなものを個々に勝手にジャッジして、
分かり合える人同士だけで一緒にいるように思います。
その方が生きやすいし、瞬発的には楽しいけれど、
それだとみんな結局ばらばらになっていく気がする。未来に影が差している。
パートナーがよく、みんなeggmanに見えると言う、本当にそう思う。
ビートルズのアイアムザウォルラスに出てくるエッグマン。

がく君はみんなが持ってる共通した光の粒のようなものを探るのがうまい、
今回はそれに乗っかれました。飛び込んでみて本当に良かった。
思わぬ出会いから、窮屈なレストランでの初顔合わせ、
毎回雨の振るスタジオ、スタジオ後のまったりした時間、
どれも既に懐かしく…、
緊張しいなのでわっと盛り上げるようなアプローチはできなかったけれど
だんだん心が近くなってくるのを感じ、とても優しい時間を過ごせました。

本当にありがとうございました!!!
posted by Yoshiko at 00:00| 東京 曇り| 踊り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月07日

現実を飛び越える

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春よーい、もう来ているのかな。
早く暖かいお顔を見せてくださいな。

最近、アーユルヴェーダの勉強をしているのですが、
インドの学問であるため、実践しようとした際、
わたし日本における食材に置き換えることができません。
道理で、なんとなくはわかるのですが、
きちんと研究されている方の文献などどなたかご存知でしたら、
教えてもらえると嬉しいです。

写真左は、事務所の目の前にあった、よくホラー作品スポットに使った場所。
写真右のようにキレイさっぱりなくなってしまいました。
個人的に芦花公園10景に数えて良いと思っていた、
30度くらい傾いた大きな煙突のある銭湯がなくなり、
他にもたくさん古くからあった場所が消えていっています。
そこに何か新しい夢と希望のある物ができていくのであれば良いけれど、
大きくも小さくも無い不気味なかたちのマンションがいまだに生えてきます。
なぜ不景気の今、マンションがこんなに建つのかと言うと、
地方で車に乗れなくなることを想定した団塊世代以上の仕事人たちが
家族に世話されることを嫌がって続々買い始めているんだそうで…。
とてもさびしい、灰色の町が作り上げられてゆきます。
廃墟よりもよほどホラーです。

さて、気を取り直して、今日は海月鏡虫とのイベントです!
昨日のスタジオは演奏がとても熱くて、心地よくて嬉しくて、
踊りながら感動的な気持ちを味わっていました。
良い仕上がりだと思います。
彼らの音楽、詩には、苦悶しつつも男女や自然や本能的なものがあって、
安らぎがあって、奥深くを信じていれば、
現実を軽やかに飛び越えられそうな、そんな気がします。
がんばろう、と、思えます。
お楽しみにね!
posted by Yoshiko at 00:00| 東京 曇り| 日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月26日

踊りのイベントのお知らせ(久々っ!)

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今日、本屋さんで久々にベリーダンスジャパンのバックナンバーを何冊か手にし、今は教室に通えてはいませんが、敬愛する踊りの師Mishaal、Nourahさんの記事が載っていて、写真や言葉からでも伝わってくる、世界に対する深い慈しみのようなものに打たれて、じーんとし、ひとり佇んでしまいました。また学びに行けるよう、踊り続けていたいなと改めて思いました。

さて、そんなわたしですが、来週3月7日の日曜日に、本当に久しぶりにイベントで踊ってまいります。

海月鏡虫-Kurage-と言う、静かで熱く、美しい音楽を奏でる、ヴォーカルとコンピュータ音楽(何て言うかわからない…)の奏者のお二人とコラボレーションをします。

彼らはとっても気持ちの良い空間をつくりだすアーティストで、スタジオに居るだけでも、時間の制約から逃れ、異次元にいるような不思議な気分になります。ライブではきっと、ついつい強張ってしまう身体の力がふっと抜け、溶けていくような瞬間が味わえます!

そもそも、くらげのヴォーカルがく君(その名も「おんがく」のがく!彼の音の力に対する愛情と敬意が感じられます)との出会いは、友達のぶっちぎり情熱家の絵描きさん(抽象的な表現ばかりでスミマセン…)が「生きている実感」と言う、ライブペイントのイベントをやっていて、そこに一人で出かけた際に「近所だから」と言う理由で同じく一人で嗅ぎ付けて来た彼と話をしたことでした。一度も踊りを見ていないのに、フィーリングだけで一緒にやろうと言ってくれた、勇敢な(笑)がく君の音楽にできるだけ繋がり、見てくださる方々にも新しい世界の繋がりを感じて頂けるよう、がんばります!

そして今回、生まれて初めて、自分が踊るために曲を作ってもらいました。感激のかっこよさで、聞かせてもらった時はくらっとしました。がんっがんとハートに、お腹の中に入り込んでくる、蛇のうねりのような音楽。抱え込んで飼い慣らすのか、放出するのか。とても面白い挑戦になりそうです。

来週の日曜日と急な告知になってしまいましたが、お店もとても素敵で、靴を脱いであがる赤絨毯や、天蓋つきのベッドやソファ等、ゆっくりとくつろげる空間です。お時間のある方はぜひ遊びにいらしてください 終わった後は一緒に踊って遊びましょう!

2010年3月7日(日)
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〜PTA presents〜
音人の事情 vol.014
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@西麻布BUL-LET'S
http://bul-lets.com/top.html

open_16:00
close_22:00

door_\1,500
free_dagashi

※ディスカウント(\1,000)がありますので、お越し頂ける方は当日お昼12時までに、メールかメッセージ下さい。

sound:
house,electro,techno,pop
electronica,R&B...and more

time table:

1600~1630
又野武蔵(LIVE)

1630~1700
MIKITTY(DJ)

1700~1740
large nose grey(LIVE)

1740~1820
-tsukasa-(DJ)

1820~1900
海月鏡虫-kurage- + yoshiko(LIVE)

1900~1950
vur(DJ)

1950~2030
Space Journalist(LIVE)

2030~2120
i.n.u.(DJ)

2120~2200
OLFA ASTRA(LIVE)

追記:
写真はお店の様子、ちょっと小さくてわかりにくいですが。
細野晴臣さんがライブをやっていたりしている秘密基地のような場所です。
ベリーダンスのイベントで使っている方も結構いるそうですよ!
posted by Yoshiko at 00:00| 東京 曇り| 踊り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月14日

歴史の勉強

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もしも時間があったならば、ずっとしたいと思っていたことがありました。それは、きちんと世界史、それも半分以上がまだ謎に包まれた、紀元前後の古代史を勉強することです。さあ、どうしよう。古代はどっからでも行けるから面白い!歴史から行くのか、神話から行くのか、宗教から行くのか。それともアレキサンダーや、三国志、クレオパトラなんかの物語からか。

歴史の、ある瞬間を切り取ったドラマはとても面白いけれど、それだとどうしても人間的な主観的な見方になってしまうので、もう少し、全体のつながりが見えるように勉強してみたい、と言う思いがありました。しかも、きわめて基本的なことから。

そこで、私は図書館で子供の本のコーナーに行ってみました。簡単で手っ取り早く全体を俯瞰することができる、と思ったのもありますが、子供用に出版された本と言うのは、内容の良し悪しはともかくとして、大人向けの本に比べとても自覚的に、真面目に書かれている場合が多いのです。人間と言うもの、次の世代に対する責任を考えない人はなかなかいないんですね。少なくとも、日銭稼ぎに間に合わせで書いたような物は少ないと感じます。

はたして、私はとっても素敵な本に出会いました。大月書店から出版された「ファミリー版 世界と日本の歴史」シリーズです。前置きが長くなってしまいましたが、今日はこれの紹介をしたくて。もっとも最初はこの本は辞めた方がいいかなと迷いました。と言うのも、出版されたのが1987年だったからです。地図には当たり前にソ連が出ています。科学や歴史はどんどん更新されていくものだから最新の物が良いに決まっている?でも、どうしてもこの本に惹かれました。その理由は、本の最初に書かれた「読者のみなさんへ」の熱く、生き生きとした文章に集約されています。
少し、引用させてもらいます。

生まれてみたら、そこは、日本であった。気がつくと、いまは、二十世紀がおわろうとする時代だった。見わたせば、世界のいたるところで、人びとは、いっしょうけんめいに生きている。この地球のあらゆるところで、それぞれの時代の、おとなや子ども、男や女が、よろこび、かなしみ、愛し、憎み、楽しみ、耐え、怒りながら、毎日を生きてきた。そのくらしのつみかさなりが、歴史となった。
(中略)
日本の歴史は、日本だけで成立しているのではない。日本史はつねに世界史のなかで動いてきた。同時に、日本史は世界史をささえている。この本は、日本史のなかに世界史を発見し、世界史のなかに日本史を見つけようとするこころみである。わたしたちは、いつか、どこかで身につけてしまっている、あまり確かでない知識や、ものの見かた・考えかたをもっている。大事なことで見おとしているできごとがある。反対に、たいしたことではないのに、後生大事にしている知識もある。知っていても、そのことの意味をきちんとつかんでいないことがある。
(後略)

自分の心に響いた部分だけを抜き出してしまいましたが、なんとなくこの本の試みが伝わるでしょうか。文章、言葉の選別の正確さ、誠実さが伝わるでしょうか。

私は高校時代、日本史を勉強していて、どうにも、その時代によってどうせ変わってしまうであろう、日本の集団ヒステリー的な虫視点のモノの見かたが馴染めない、と言うより怖かった記憶があります。(また、主観的でありながら、科学や歴史はさも客観的に「わかったこと」として伝えようとします。)逆に世界史の場合、まるで絵空事のような、固有名称ばかりを覚える授業で、とても眠かった……。想像の翼を広げて楽しむことのできる世界史好きのクラスメイトを羨ましく思ったものです。

さて、そんなわけで、原始と古代の3巻を読んだところですが、本当にすばらしい本でした。特に第一巻「原始、文明の誕生」は本当に面白かった。「はじめに」で大変緊張感のある一文が入ります。

「ヒトが、ほんとうにりこうな生物か、それともおろかな生物であるかどうかが、まもなくきまるだろう、というときに、わたしたちは生きているのではないだろうか。」

この本は、学校でやったような原始人や四大文明から始まりません。また、神話からも宗教からも始まりませんでした。(私は神話や宗教の勉強は大好きで、それを否定したいわけではありません。著者は歴史や事実としてこう言った分野を用いてしまう危険性をよくわかっているのでしょう。)目次はこうです。「ツンドラと森林の民」「草原と沙漠とオアシスの民」「大地をたがやす人びと」「海に生きる人びと」「モザイク列島日本」。

著者は「確かに四大文明発祥地からすばらしい文明の華がひらいたことは事実だが、文明は、ここだけに起こったのではなく、地球のどこにでもヒトは住んでいた、そこにふさわしいやり方で、暮らした」と語ります。「ある地域では狩りをし、あるところでは家畜を飼い、別の地域では植物を育て、また魚を採る。固い小さなコメつぶを煮て食べることを最初にやったのは、誰だろうか。小麦をつぶして粉にして水でこねて焼いてパンにして食べるということを考えた発明家は、どこの誰か。」他にもいっぱい例を出して、「しかもいちばん早く考え出した者だけがえらいのではなく、人びとはそれを他に与え、他から受け取り、互いに交流しあった」と、読んでいる方が涙ぐむぐらい熱く伝えます。

つまり、全12巻の最初の巻であるこの一冊の中で、食べ物や暮らしを中心とした地球の全てのヒトの最初と現在を語り、文化や風習に優劣はなく、誰を無視しても歴史は成り立たないことを、真摯に伝えようとしているのです。

かと言って、説教くさいわけではなく、その内容はとても面白い。
生きるために肉食しかできない氷の世界の人びとの暮らし、どうやって恋を語るか、残酷感の違い、次に訪れる一度も見たことのない人のために小屋に食糧と薪を必ず残して去る狩人の話。

定住を堕落として、誇り高く厳しい遊牧生活をする人びとの暮らし、星の大群やいろいろの乳製品の話。砂漠やオアシスでの暮らし、砂漠で冷やしスイカを食べられるか、厳しい自然に嘆くのか楽しむのか、砂が動き出し廃墟となるオアシスで子に無常を伝える父の話。

世界のいたるところで大地をたがやす人びとの暮らし、文明として農耕を取り上げる前にバナナやイモがどこで作られたか、アフリカではじまった農業などの話、これもこの本独特です。そして、絵や彫刻や建築物、文学や音楽や古墳などを文化遺産と考える前に「栽培植物は、人間社会がつくりあげた、いちばん重要な文化財だ」と語りが入り。

南太平洋に住む人びとの暮らしは、それ自体を取り上げる前に、「第五福竜丸」を例に、まるで無人島かのように核兵器の実験が行われた話が挿入されます。その善悪を伝えるためではなく、過去と現在を繋げ、人びとの暮らしを繋げ、読む側がダイナミックに大きな視点で物事を考えられるように工夫しているようです。

そして、モザイク列島日本の章では、日本語のルーツに迫り、どこからでも人や物が入って来られる中で、日本がどんな文化をかたちづくっていったかと締めくくります。
二巻からはじまる世界と日本の歴史の壮大な序章です。

ちなみに、二巻以降は、きちんと四大文明や歴史上名だたる英雄達が出てきます。しかし、歴史学とは「あくまでも文字で書かれた記録を元に過去を明らかにする学問」であると注釈して、公平さを失わないよう細心の注意を払っているように思います。(また、古代のインドには戦いの歴史があまり残っていないことから、宗教の話もいよいよ出てきます。)

この本を読みながら、例えばスパルタカスの話が出てきたら、キューブリック監督の彼の大スペクタクルを観る等、大変ぜいたくで楽しい勉強をしています。興味がわあっと湧くような本の内容のおかげだと思うのです。
現代の巻がどのようになっていくかわかりませんが、こう言う本を書く人たちは、本当に偉いなあと素直に思ってしまうのでありました。

追記:
ちなみにこのように偉いなあと思った人に、ガンダムのサイドストーリーである『ポケットの中の戦争』と言う作品を作った方々がいます。主人公の子どもがかっこいい憧れの世界として見た戦争の「ほんとう」を知って、人知れずおとなになる物語に、私は何度泣かされたことか…。新しい価値観、先をゆく思想、そう言った世界を引っ張っていく作品は本当に凄いと思いますが、まずは誠実に、作家の主張よりも見る側に考えさせる、そんなフェアな思いで作られた作品もまた、大変にありがたいものだなあと思います。

追記2:
写真にあるように、表紙の絵や挿絵もとても面白い。右は雪の小屋つくりの様子、雪を表す言葉が30近くあるそうです。必要からも言葉は作られたんですね。
posted by Yoshiko at 00:00| 東京 晴れ| 日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月06日

立ち止まる日々

お久しぶりの日記です。
最近は、アルバイトをしながら、パートナーや仲間達と作品企画を考えたり、
次の作品を作るべきプラットフォームを考えたり、 自分の内面を見つめたり、
いろんな人に会って繋がろうとしたりしています。
が、世間的にはすっかり「隠遁生活」とも言える日々を過ごしているのでしょう。
いつもショウのお誘いをくれるダンサー仲間のみんな、なかなか見に行けず、ごめんね。
それでも会うといっつも真心のこもった言葉をかけてくれ、
笑顔をくれる優しい女の子達に、私は本当に感謝しています。

時代の特異点とも思える2010年において、業界へのアプローチを辞め、
世を俯瞰すること、待つこと、魂の成長を止めないこと。
世間のモラルとの葛藤は、苦しいものがあるけれど、
立ち止まることによって、今まで忙しすぎて出来なかったことを行い、
いろんな物事が見えてきたような気もします。

パートナーと二人で始めたヨーガは、一日の時間を何倍もにしてくれています。
ミヒャエル・エンデさんの『モモ』と言う物語で、
灰色の男達と呼ばれる不気味な奴らが、豊かな心で暮らしていた人々に
時間を節約させることによって、むしろ彼らの時間を奪っていきます。
近代的な意味での合理主義が、どれだけ人々の心を荒廃させ、
貧困を生み、富む人を喜ばせているか、私達は子供の頃に本で読むことが
出来ていたんだなあ、と、 ありがたいような歯がゆいような思いです。

ほんの5年前、私はよく「資本主義はもう終わる」
「産業としてのゲーム業界の終焉はもっとずっと早い」と
聞かされていたけれど、なんとなく自分事とは思えなかったし、
今は別れてしまったかつての仲間達は誰も信じなかった。
私達は、新米のサラリーマンほどの常識も持ち合わせていないくせに、
見えているちっちゃな世界でのモラルに縛られ、会社をまわすことに必死でした。
今日、ゆっくりとまちの生気が失われていくのを感じ、なぜもっと早く足を止め、
新しい世界に向かって自分たちを成長させる選択を取ることができなかったのだろうか、
と考えてしまいます。

今も尚、みんながんばって生きています。
あらゆることを分断して切り離して考えることが、とりあえずの今の日本での生き方なのかな。

お金は交換手段と価値基準としては指針になって良いものです。
しかし、実態ではなく数字となったお金が世界を駆け巡ることによって
戦争よりもよほど深刻な問題、多くの悲劇をもたらしていると、
最近は多くの人が叫ぶようになりました。
ミヒャエル・エンデさんはもう15年以上も前に、
「第三次世界大戦は既に始まっている」と書いていました。

日本でも生き方の基準は、お金です。
それを元に価値のある活動をしている方々がたくさんいる。
それは素晴らしいことです。
でも、自分と身の回りの尺度の上で、「仕事にできるか」「生きられるか」
と、勝った負けたをやっている間に、国内外の貧困層はどんどん増えていく。
大雑把な言い方をすれば、大きな悪に加担しながら生きて、小さな良いことをやって満足する、
と言う生き方では、どうにも幸せを感じられない。

ヨーガの本を読んでいると、頭立ちを3時間やると…とさらりと書いてあります。
3時間さかさまになっていられる日本人がいますか?!
生きるためには、現代のシステムに乗っからなければならない。
だけど、こんなに人間のステージって違うのだから、
「常識と言うものを疑ってみる」ことぐらいは出来るのではないかしら。

All or Nothingになっては生きていかれないですが、
今日も悩みつつ、それでも、自分の「嬉しい」を捨てないこと、
人の役に立つこと、不必要なことはしないこと(生産と言う名目の消費も!)を忘れずに、
この時間をありがたいと思って、感じて浸ってみようと思う今日この頃です。
posted by Yoshiko at 00:00| 東京 晴れ| 日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする