2010年04月29日

自分の昭和史(2)

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 自分の昭和史(2)

 18歳から29歳頃までの時代

 私は高校を卒業後直ぐ農業従事者となった。普通であれば就職などで環境が変わって大変なのでしょうが、私の場合などは実家の農業を手伝うだけですから気楽なものでした。

 相変わらずのバイク好きで泊まりがけで遠くまで行くのが唯一の趣味のようなものでしたが、この頃から車の免許も取ったので今度は車を乗り回していた。

 この年、昭和45年(1970)の11月25日に三島由紀夫先生の事件が起きました。この時私はミッパの葉を川で洗って出荷する作業をしていた。当時の楽しみと言えば農作業中にラジオを聴くことぐらいでつけっぱなしでした。

 そこに飛び込んできたニュースでしたが、その時は余り衝撃は受けなかったが、翌日の朝刊には切腹した時に切り落とされたと思われる頭が映る写真が掲載されていた。

 何か胸騒ぎがしたことを今でも覚えています。その翌年にはもう農業を諦めてどこかに就職することにした。その理由は市街化区域に指定され、いずれ住宅開発地域になるので税金も高くなって農業をやれなくなるということで親父にも就職を奨められたからです。

 当時は何処でも働くことは出来ましたが、市役所のバイトがあったのでそこに応募して翌年には正式に公務員の試験を受けて合格し、市の職員となった。

 ここからが私の政治活動の始まりでした。本来なら公務員になれば政治活動は出来なくなります。しかし、それが逆になったのは危機感を抱いたからでした。

 公務員の職場は当時『社会主義協会』という社会党を支持する最左派の革命集団によって支配され、日本を如何に社会主義国にするために革命を起こすかが真剣に論じられていた。

 私は学生時代にヒトラーの英雄伝を読んでいたせいか、左翼マルクス主義者が大嫌いでした。こんな連中に日本の社会を牛耳られてはいけない。その時に心の底から彼らへの恐怖心と憎しみを感じた。

 もういても立ってもいられない毎日でした。本を買い漁り読み始めました。左翼は暴力革命路線を隠して議会制民主主義などと言っていたが、最終的には必ず暴力革命を訴えてくると思った。だからそれを阻止するには暴力を肯定する政治運動でしか対抗できないと思ったのも事実です。

 早速『ヒトラーナチス研究会』を自分一人で結成し、電柱にビラ貼りを深夜始めました。この頃はもし見つかって逮捕されたら大変ですので深夜か朝の4時頃にやりました。

 当時はガリ版刷りです。ペンキが手につくと落ちなくて苦労しました。今のように手軽にビラが作れる時代ではないので、本当に時間もかかりました。

 正直言ってほとんどビラを見て連絡を寄越す人はいなかった。しかし、ほんの数人ではあったが同志と呼ばれるような若者が集まった。私と同じ年代でした。ところが一人だけ年配者から連絡があった。

 非常に貧しい生活をしている人だった。もう何時壊れてもおかしくないあばら屋に夫婦で住んでいるご老人で、戦前は憲兵をしていたという方だった。実はこの方が歴史に非常に詳しく、また戦前の反ユダヤ運動にも参加しており、その道でも知られた人のようでした。

 この頃「ヒトラーの闘争」という本を書いた長沼博明という方に会いに行きました。この方とお会いしてから『日本学生会議』という団体から機関紙などが届くようになってより政治思想運動に興味を惹かれていった。

 この長沼先生に関して以前ネットで書いていたら、その身内の方から連絡を受けたことがあります。もうお亡くなりになっていました。膨大なヒトラー関連の資料は水害事故かで消失されたと記憶しています。

 私は自民党にもこの頃出入りしていました。当時自民党には各県連には駐在員という方がいた。大学を出たばかりの優秀な方で面倒を見てもらいました。

 当時は田中角栄が総理大臣の時で、列島改造ブームなどと称して非常に景気の良い時代だった。この頃の参院選挙で私は自民党の選挙手伝いもしていた。

 この昭和49年(1974)の参院選挙で糸山英太郎という実業家が全国区に出馬、私はこの人物の選挙を応援することにした。そのご縁で初めて右翼団体を知った。22歳の時でした。

 この右翼団体は『民族思想研究会』という団体で、この会の代表者の篠原節(たかし)氏が実はヒトラーの信奉者だった。運命の悪戯かも知れません。私は会ったその日に会員となりました。

 この団体は福島である程度拡大したが、問題を起こして撤退しました。残された一部の会員を私が引き継ぎ『憂国青年同志会』として新たに始めたのが24歳の時でした。

 この後、25歳の時に暴力事件を起こして逮捕され、懲戒免職となってその後は東京に出た。一時でしたが右翼活動からは離れて都内のどや街で過ごすことになりました。

 実は逮捕されて拘留されていた時に、ペンを持つ魅力に取り憑かれ、そのような働き口がないのか、大都市ならあるだろうという軽い気持ちでやって来たのです。

 しかし、たいした仕事に就くことは出来なかった。風俗系の雑誌のライターや総会屋が出版する雑誌に原稿を書く仕事くらいしかなかった。仕方なく福島に戻り福島県内の出版社に顔を出して、そこで原稿を書かせてもらうことになりました。

 ところが人生というものは実に不思議なもので地元福島でミニコミ新聞をやらないかという誘いをある方から受けて、その方に連れられてまた東京に行くことになりました。丁度27歳の終わりの頃だったと思います。

せと弘幸Blog『日本よ何処へ』:故三田和夫・読売OB記者魂

 右翼活動をまた再開したのは29歳になってからでした。この続きはまた後ほど書かせて頂きます。

☆街頭行動のお知らせ

健全な国民社会を実現する運動主催

「5月1日は共産党の日ではない!街頭活動」

 『健全な国民社会を実現する運動』で、5月1日に川崎市の稲毛公園で街頭活動を予定しています。5月1日はメーデーですが、これは本来労働者運動の記念日であり、特定の政治勢力の日ではありません。そして、何より左派政治勢力の傀儡労働運動は、全く労働者のためにならない。だから、あえてこの日に街頭活動を実施します。

場所:川崎市川崎区宮元町7 稲毛公園

日時:5月1日(土)午後3時〜(主催者は30分前に公園到着:清掃奉仕予定)

主催:健全な国民社会を実現する運動(代表:中村 090−6109−0712)

【稲毛公園は川崎区役所の正面です】
http://www.city.kawasaki.jp/61/61kawasakiku/annai/img/kuyakusyo.gif

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Posted by the_radical_right at 18:02│Comments(20)TrackBack(1)この記事をクリップ!異端の右翼・国家社会主義 

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最近、人さまに「この画像を貸してくれ」「これこれお願いします」と許可を得ているが、少しずつしか紹介することができません。ご了承・ご寛容のほどお願いします。 ↑世間が虚業で大騒ぎしてる最中、黙々と職業能力開発総合大学校(相模原市)で訓練に励む職業訓練生...
所得税と生活保護と消費税【東京のばかやろーブログ】at 2010年04月29日 22:37
この記事へのコメント
面白いというか、興味深いですね。
最後まで読ませて頂いて、何か質問があればその時致します。
Posted by 時々通る者 at 2010年04月29日 18:14

【パッチギ】■シネカノンを北の工作機関と糾弾した在日の朴炳陽社長!■【朝鮮総連】

【朴炳陽】■映画「クロッシング」は何故公開が遅れたのか?

http://www.youtube.com/watch?v=r117ZYCw7WI&feature=youtube_gdata

★北朝鮮の工作機関で倒産した反日映画配給会社のシネカノンをコテンパンに叩く在日が現われたぞ!

★シネカノンの 李鳳宇(リ・ボンウ)を強烈批判。

★リボンウは北の工作員と糾弾。

★文化庁が3000万円寄付した糞映画で大コケしたパッチギ2

★朴炳陽社長の発言
「日本人の皆さんの大切な税金が北朝鮮の工作機関に使われていることに注目して下さい。」


Posted by 近くて遠い国=世界最悪の反日差別国家 at 2010年04月29日 18:16
人に歴史ありだねえ。
Posted by 慶互 at 2010年04月29日 18:50
情景が浮かびます。神田あたりを、闊歩している瀬戸さんが浮かびます。
Posted by 面白いです at 2010年04月29日 18:58
共産主義についてはよく知らないが、
右翼の人は共産主義を悪くいうが私は何が悪いのかよくわからない、
みんなが悪いと言っているからという理由では批判するきがしない。
ヒトラーもスターリンも毛沢東も、
民主主義で選ばれる指導者より優秀なのは間違いないと思います。
おっとヒトラーは民主主義を駆使して独裁者になったのでしたっけ。
Posted by たかしまろ at 2010年04月29日 20:00
審査会メンバーを主導したのが米沢弁護士で、
なんと麻生前首相のグループ企業の麻生総合法律事務所所属。
メンバーは任意公募だそうです。


どこが民意だ。
Posted by 霞ヶ関 at 2010年04月29日 20:13
共産主義の悪い点?
給料同じシステムで、働かない人出て来る。
机上の数字主義で、人命うんこ。
パッと考えてこれ位かな。
Posted by 慶互 at 2010年04月29日 20:27
5
先生の道程が頭に浮かびます。今回の記事も読んでいて楽しいです!!
Posted by 福島じゅん at 2010年04月29日 21:13
>審査会メンバーを主導したのが米沢弁護士で、
なんと麻生前首相のグループ企業の麻生総合法律事務所所属。
メンバーは任意公募だそうです。

どこが民意だ。
Posted by 霞ヶ関 at 2010年04月29日 20:13


何が言いたいのか?意味不明w

また自民党が…麻生さんが…って鳥越みたいに陰謀説を言いたいんだろ、ニダ-君wwwうぜえ〜www
Posted by 第一義 at 2010年04月29日 21:33
お前のウザさと馬鹿さも一級品だよ
第一義
右向きみたいなノータリンに苛められて管理人に泣きついてろ

第一義と慶互はこのブログにいらねぇ
Posted by 馬鹿が増えたね at 2010年04月29日 21:43
>お前のウザさと馬鹿さも一級品だよ
第一義
右向きみたいなノータリンに苛められて管理人に泣きついてろ

第一義と慶互はこのブログにいらねぇ
Posted by 馬鹿が増えたね at 2010年04月29日 21:43


あららららwwwwwwwww凄い火病だwwwww

神経に触ること言ったのね、ニダ-www
Posted by 第一義 at 2010年04月29日 22:46
うぜえルピー第一義消えろよ。
Posted by クルクルパーの右翼より at 2010年04月29日 23:24
第一義くん

君の普段のコメントが火病というんだよ

Posted by まじいらね at 2010年04月29日 23:54
昭和天皇と池田大作はどっこいどっこい、いい勝負。
Posted by 沢尻ちゃん at 2010年04月29日 23:59

>この後、25歳の時に暴力事件を起こして逮捕され、懲戒免職となってその後は東京に出た。一時でしたが
>右翼活動からは離れて都内のどや街で過ごすことになりました。

>ところが人生というものは実に不思議なもので地元福島でミニコミ新聞をやらないかという誘いをあるかた
>から受けて、その方に連れられて又東京に行くことになりました。丁度27歳の終わりの頃だったと思います。
 

9ヶ月の拘置中に,刑務官から徐才喜さんの話を聞き,
その後東京の出版社を回り,28歳の時に処女作ルポである「冤罪(えんざい)―徐才喜事件の真実」を
『政経東北』に連載したのですよね
Posted by shinok30 at 2010年04月30日 00:05

>私は逮捕され裁判を受けるために、拘置所に収監されました。私はそこで約9ヶ月過ごしましたが独居房
>でした。野外運動の短かい時間だけは、刑務官と会話をすることが許された

>:刑務官「お前、無罪を主張しているようだけど、そういうケースはほとんどないよ」
>:刑務官「でも、一人の殺人鬼がつい最近、無罪を勝ち取って出て行ったがな」

>:私「どんな人なんですか?」

>:刑務官「ああ、朝鮮人でな強盗殺人で無期懲役の判決を受けて刑務所にいたんだが、仮出所して娑婆に
>     いたんだよ。そこでまた強盗殺人をやって、逮捕されたんだが、無罪を主張して勝ったんだな」

> 私はこの拘置所の中で聞いた、この在日朝鮮人で殺人鬼と呼ばれた男を訪ねて見ることにした。
> 彼の名前は除才喜と言い、私が訪ねた時は、長期間に渡る拘禁生活の中で体を壊し寝ていた。

> 私は何度か彼の家を訪ねて、ことの経過を聞いた。彼は在日朝鮮人として生まれ、なぜ、自分は在日として
>生まれたか、その自らの人生に真摯に向き合うことが出来ずに、若い頃から非行に走ってしまった。


>私はこの「徐才喜冤罪事件」を東京の出版社から出そうと、連日出版社回りをしていた。27歳の頃でした。
>しかし、どこの出版社からも断られた。もう諦めかけていたら、地元の雑誌社から連絡があった。

> 『政経東北』という政治・経済雑誌を出しているところでした。何故、政治・経済関連の出版社かと
>思いましたが、編集長と会って理解できた。学生運動で逮捕された経験のある元左翼活動家の方だったのです。
http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/51532145.html
Posted by shinok30 at 2010年04月30日 00:06

>このUPした記事は書店で売られている雑誌に初めて私が「山本弘幸」のペンネームで
>28歳の時に書いた記事です。
>この時、生まれて初めて原稿料というものも頂きました。

>題名は「冤罪(えんざい)―徐才喜事件の真実」というものです。

>この記事は昭和53年に書かれたものですが、昭和53年2月15日、仙台地方裁判所は
>「弘前大学教授夫人殺害事件」の犯人として逮捕され、懲役15年の刑を受けた那須隆さん
>の再審請求に基づく、やり直し裁判において無罪の判決を言い渡した年でもありました。

>私はこの年(1978年)の正月頃から、福島市で起きたある強盗殺人事件で逮捕された
>在日朝鮮人の冤罪事件に取り組んでいました。
>25歳の時に逮捕された経験を持つ私は、その時から司法制度というものに対する関心を抱き、
>その後もこの事件に限らず冤罪を含む社会問題に取り組んで来ました。
http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52076775.html
 
Posted by shinok30 at 2010年04月30日 00:06

瀬戸さんは処女作ルポは「28歳の時に書いた」と自己申告しておられますが,
瀬戸さんの生年月日は昭和27年(1952年)3月3日ですから,
処女作ルポ(「政経東北」昭和53年(1978年)6〜9月号)が掲載された時点で,
瀬戸さんはまだ26歳のハズですよ
 
>なぜ,瀬戸さんは処女作執筆時の年齢をゴマ化しているのですか?
http://megalodon.jp/2009-1009-2217-42/blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52349855.html
 
また,25歳で逮捕,9ヶ月間も拘置所にいた瀬戸さんが,
26歳になってすぐに処女作発表というのは時間的な余裕がなさ過ぎて不自然ですし,
「27歳の頃」に「連日出版社回りをしていた」という記述とも矛盾しますよね

 
>仮に瀬戸さんの生年月日が昭和27年(1952年)3月3日だとすると,
>ルポの第一回が掲載された「政経東北」昭和53年6月号(1978年6月1日発行)が発行された時点で,
>26歳3ヶ月ですから,「28歳の時に書いた」というのは誤りではないですか?

>Posted by shinok30 at 2009年10月11日 10:44

>また,瀬戸さんが「25歳の時に逮捕された」とすると,
>逮捕されたのは1977年3月3日〜1978年3月2日になりますよね
>その後,瀬戸さんは9ヶ月間拘置所にいて,
>その中で徐才喜が無罪を勝ち取ったことを聞いたと書いています

>Posted by shinok30 at 2009年10月11日 10:45

Posted by shinok30 at 2010年04月30日 00:07

>ルポによると,除才喜さんが無罪を勝ち取ったのは,昭和53年(1978年)2月だということですよね
>>仙台高裁で「無罪」の劇的な逆転判決を勝ち取ったのはそれから約9ヶ月後の今年2月である
>(除才喜事件・最終回.政経東北.昭和53年8月号)
> 
>瀬戸さんが約9ヶ月間の拘置中にこの「除才喜さんの逆転無罪判決」を聞いたとすると,
>瀬戸さんの逮捕は1977年5月頃〜1978年2月頃ということになりますから,
>「25歳の時(1977年3月3日〜1978年3月2日)に逮捕された」という記述と矛盾はありません
> 
>しかし,瀬戸さんの逮捕が1977年9月以降だった場合,
>「政経東北」昭和53年6月号が発行された時点でまだ拘置中になってしまいますから.
>逮捕はそれ以前と推測されます
> 
>つまり,瀬戸さんの逮捕は1977年5月頃〜1977年8月頃で,
>その9ヶ月後,1978年2月頃〜1978年5月頃まで拘置されていたことになりますね
>Posted by shinok30 at 2009年10月11日 10:50

>瀬戸さんは
>>この年(1978年)の正月頃から、福島市で起きたある強盗殺人事件で逮捕された
>>在日朝鮮人の冤罪事件に取り組んでいました。
>http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52076775.html
>と書いていますが,1978年のお正月の時点で瀬戸さん自身はまだ拘置中ですよね
>(拘置中に1978年2月の「除才喜さんの逆転無罪判決」の話を聞いたのですから)
> 
Posted by shinok30 at 2010年04月30日 00:09
>要するに,瀬戸さんの拘置終了から処女作掲載まで最大でも4ヶ月間しか猶予はなく,
>(1977年5月頃〜1978年2月頃まで拘置されていた場合です)
>処女作執筆〜掲載は「26歳になってすぐ」ということになります
>Posted by shinok30 at 2009年10月11日 10:52

>しかし,だとすると,「27歳の頃」に「連日出版社回りをしていた」という記述とは矛盾しますね

>Posted by shinok30 at 2009年10月11日 10:53

>自分自身の逮捕や処女作発表のような重要なイベント時の自分の年齢に関する記述が
>ここまであやふやで矛盾だらけなのはおかしいとは思いませんか?
>どこかにウソがあるか,重大な記憶の障害があるのではないですか?
>Posted by shinok30 at 2009年10月11日 10:58
http://megalodon.jp/2009-1011-1058-35/blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52351157.html

Posted by shinok30 at 2010年04月30日 00:10

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