牧野 洋牧野洋の「ジャーナリズムは死んだか」

2010年04月29日(木) 牧野 洋

ピュリツァー賞を初受賞した
ネットメディア「プロバブリカ」の実力
記事1本に4000万円をかける調査報道に特化したNPO

 朝日新聞の1面トップに、新興インターネット企業配信の署名記事がそのまま載るだろうか。日本では時期尚早だろうが、アメリカは違う。

 2009年7月12日、有力紙ロサンゼルス・タイムズ(LAタイムズ)の1面トップに「患者が苦しんでいるなか、悪徳看護師がのさばる」という異例の長文記事が出た。記事は1面から中面へ続き、計4ページぶち抜きで掲載された。

 病院から薬を盗んだり、患者を殴ったりしたことのある看護師が、資格を剥奪されないままで野放し状態になっている――。

 LAタイムズの記事を読んでカリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツェネッガーは怒り心頭に発した。直ちに行動し、州の看護師資格審査会メンバーの大半の解雇に踏み切った。

 この記事を書いたチャールズ・オーンスタインとトレーシー・ウェーバーの2人は、実はLAタイムズの記者ではない。ニューヨークに本拠を置く非営利団体(NPO)、プロパブリカ所属だ。同社は2007年10月設立で、印刷媒体を持たないネットメディアである。

ヘッジファンドのような清潔なオフィス

 ニューヨーク・ウォール街のど真ん中。目と鼻の先にニューヨーク証券取引所がある。高層ビルの23階に上がり、予備知識なしにプロパブリカ編集部内に足を踏み入れると、「ここは最近流行のブティック型(特定の金融商品に特化した小規模なファンド)のヘッジファンドか」と勘違いするかもしれない。

 印刷前の紙面の大刷りが散らばっているわけでもないし、印刷直後の新聞が山積みになっているわけでもない。新聞社や雑誌社の編集部に付き物の雑然さが皆無なのだ。印刷とは無縁であるのが一因だ。

ニューヨーク・ダウンタウンにあるプロパブリカの編集部

 淡いクリーム色で統一された清潔なオフィス内では、突発的な事件の対応に追われて騒々しく動き回ったり、電話で大声を張り上げたりする記者もいない。日々のニュースを追いかける必要がないためだ。

 プロパブリカは設立間もないベンチャーであるうえ、記者数32人という小所帯でもある。にもかかわらず、これまでに多数の有力メディアに記事を提供してきた。単純な速報記事ではなく、裏付け取材に時間がかかる調査報道記事ばかりだ。しかもすべて無料提供である。

 プロパブリカが第1弾の記事を発表したのが2008年6月。以来2年足らずで、アメリカの主要紙は50本以上のプロパブリカ配信記事を「独自ネタ」として掲載している。具体的にはLAタイムズが27本、ワシントン・ポストが9本、USAトゥデイが8本、ニューヨーク・タイムズとシカゴ・トリビューンがそれぞれ7本だ。

 取材・執筆はプロパブリカが単独で実施する場合もあるし、記事の提供を受ける新聞社側が協力する場合もある。後者の場合、プロパブリカの記者と新聞社の記者が連名で記事に署名する。どちらの場合でも、新聞社側が記事を掲載するのと同じタイミングでプロパブリカも自社のウェブサイト上で記事を公開する。新聞のほか、テレビ局や雑誌との共同プロジェクトも多い。

 この4月には、プロパブリカはネットメディアとして初めてピュリツァー賞を受賞した。受賞対象作は、ハリケーン・カトリーナの災害現場で極限状態に置かれた医師や看護師の実態を描いたルポ「メモリアル病院での生死の決断」。取材・執筆は医師の資格を持つ女性記者シェリー・フィンクが担当した。

 何より、「ネットメディアのピュリツァー賞受賞」という点が注目を集めた。だが、「新興ベンチャーのピュリツァー賞受賞」という点でも異例だった。設立から2年余りでジャーナリズム最高の栄誉を手に入れたのである。

 「生死の決断」も伝統的な印刷メディアを通じて発表された。高級紙ニューヨーク・タイムズ系の名門雑誌で、発行部数が160万部以上に達する「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」で受け入れられ、同誌2009年8月30号の巻頭記事になった。

ニューヨーク・タイムズも1面トップにプロパブリカの記事。2008年12月13日付の同紙1面の右上にある記事「イラク再建は大 失敗、公式記録が示す」がプロパブリカの記事

 ちなみに、ニューヨーク・タイムズ日曜版の別冊として発行されるニューヨーク・タイムズ・マガジンは、数ある雑誌の中でもとりわけ格調高い。多くの著名ジャーナリストが調査報道に基づいた力作をこぞって寄稿している。誌面上で使用している報道写真にも定評がある。

「調査報道は真っ先にリストラされる」

 しかし、いくら影響力ある印刷メディアにその記事が使われても、無料提供ではプロバブリカにとってビジネスにはならないのではないか。

 これについて、ウォールストリート・ジャーナル紙の編集局長からプロパブリカの初代編集長へ転じたポール・スタイガーはこう説明する。

「われわれはNPOであり、もうけるのが目的ではない。市民社会に重要な影響を及ぼすニュースを掘り起こし、できるだけ多くの人たちに読んでもらうこと。これこそがわれわれの存在意義だ」

 ネットメディアは一般に、「低コストでスピード重視」と言われる。ネットを使っているため、印刷費・配送費を浮かせる一方で、「市民ジャーナリスト」を使って人件費を節約する場合も多い。リアルタイムでの報道も可能。悪く言えば、速さを優先して品質を二の次にしている。

 カトリーナの際にも当初はネットメディアが大活躍した。災害現場に居合わせた市民ジャーナリストがネットを通じて、事実上のボランティアとして被害の現場を実況報告したのだ。「なぜこんなに被害が広がったのか」といった視点に立った解説や分析は、後日現地にやって来る職業ジャーナリストに任せればいいというわけだ。

 ところが、プロパブリカは速報ニュースとは正反対の調査報道でピュリツァー賞を受賞したのである。スタイガーは続ける。

「われわれは調査報道に特化している。国際報道と並んで調査報道は金食い虫で、マスコミ業界では真っ先にリストラの対象にされているからだ。調査報道から完全撤退する新聞社もある。それを食い止めるのがわれわれの使命だと思っている」

 歴史的なウォーターゲート事件をスクープし、「調査報道の雄」として知られてきたワシントン・ポスト紙でさえも、調査報道班の大幅縮小を強いられている。

 なぜ調査報道が重要なのか。調査報道は「ウォッチドッグ・ジャーナリズム(マスコミによる権力のチェック機能)」の要であり、これが欠如していると権力が腐敗し、民主主義が機能不全に陥ると考えられているからだ。

 日本は長らく「経済一流、政治二流」と言われてきた。マスコミが権力をチェックするのではなく、権力と一体化してしまったことも、一因かもしれない。

「ネットか、印刷か」は問題ではない

 プロパブリカはネットメディアでありながら「ウォッチドッグ・ジャーナリズム」を標榜している。社名も「公益に資する」という意味を込め「プロパブリカ」にしている。だからこそ、低コストではなく高コスト、速報ニュースではなく長期取材を重視しているのだ。雇っている記者も市民ジャーナリストではなく職業ジャーナリストである。

 しかも、調査報道に欠かせない反骨精神にあふれた一流のジャーナリストをそろえている。

 まずは初代編集長のスタイガー。アメリカ最大の経済紙ウォールストリート・ジャーナルの最高編集責任者を務めた人物だ。同紙で65歳の定年を迎えたため、プロパブリカを立ち上げ、本格的な調査報道を実践する道を選んだ。

 オーンスタインとウェーバーの2人は冒頭で触れた「悪徳看護師」の記事を書き、ピュリツァー賞公益部門の最終選考に残っている。前職はLAタイムズのベテラン記者。LAタイムズ時代の2005年、医療問題の連載企画でピュリツァー賞を共同受賞したことがある。

 「生死の決断」でピュリツァー賞を受賞したフィンクは、医師の資格を持つ一方で、スタンフォード大学で神経科学を研究して博士号を取得しているほどの才女。フリーランスの「アクティビストジャーナリスト」として活躍し、自著『ウォー・ホスピタル(戦争病院)』(邦訳は『手術の前に死んでくれたら―ボスニア戦争病院36カ月の記録』アスペクト刊)で「全米医療記者協会特別賞」を受賞している。

 編集・取材体制で比べる限り、伝統的な新聞社と変わらない。むしろ、調査報道の分野では伝統的な新聞社以上だろう。

 ピュリツァー賞の選考委員でコロンビア大学ジャーナリズムスクールの学長でもあるニコラス・レマンに聞いてみた。

「ネットメディアか印刷メディアかという図式で見てはいけない。カギは、経験豊富なジャーナリストを雇い、重要なテーマを掘り下げて取材させる体制にあるかどうか。この点でプロパブリカは非常に恵まれている」

 それを象徴するのが、フィンクが書いた「生死の決断」だ。何しろ、1本の記事を完成させるためだけに、足掛け2年間、計40万ドル(約4000万円)もかけたのだ。仮に新聞業界が黒字であっても(現状は赤字経営が常態化)、こんな"贅沢"はめったに許されないだろう。

 40万ドルのうち半分はニューヨーク・タイムズ・マガジンがデスク作業や事実確認、写真撮影という形で負担し、残りの半分はプロパブリカの負担だ。プロパブリカは慈善財団「カイザー・ファミリー基金」からの寄付も新たに集め、フィンクの給与や出張費に充てた。共同プロジェクトとはいえ、取材・執筆はフィンク単独であり、「生死の決断」は彼女1人による署名記事だ。

 取材に十分な時間と予算を与えられ、フィンクはニューオーリンズを中心にアメリカ各地を飛び回った。「メモリアル病院で医師と看護師が致死量のモルヒネを投与した」という疑惑を検証するために、膨大なインタビューと資料集めに奔走した。日々の発表処理などに煩わされずに、である。

 マスコミ業界内では比較的余裕があるニューヨーク・タイムズ・マガジンでさえ、記事1本に2年間かけて40万ドルも全額負担するほどの余裕はなかった。言い換えれば、プロパブリカとの共同プロジェクトにしたからこそ、「生死の決断」という力作を発表できたのだ。

 親会社の倒産で大規模リストラに見舞われたLAタイムズは、のどから手が出るほどプロパブリカの協力が欲しいはずだ。だからこそ、主要紙としては最大の27本もの記事を提供してもらっているのだろう。

ウォッチドッグ・ジャーナリズムを支える資金源

 プロパブリカの主な資金源は、銀行経営で巨富を築いた慈善事業家ハーバート・サンドラーだ。彼が毎年運営費として寄付する金額は1000万ドル(約10億円)に上る。スタイガーの「ウォッチドッグ・ジャーナリズムを守りたい」という信念に共鳴したという。

 いずれ日本の新聞社も大リストラを強いられるかもしれない。そんなとき、サンドラーのような慈善事業家が登場して、調査報道に特化したNPOを立ち上げてくれるだろうか。寄付税制の整備も遅れている日本では、そう簡単にはいかないだろう。

 そもそも、1面トップに設立間もないネットベンチャー配信の署名記事を載せるほどの度量が大新聞になければ、寄付税制の整備を進めたところで大きな変化は望めない。

(一部敬称略)