先祖供養

2010-03-02 23:03:24
テーマ:日蓮正宗

前回に引き続き自身の信心の話をします。


日蓮正宗には、鎌倉時代からはもちろん、釈迦の時代からの化儀があります。


それは、先祖供養!!


仏教には三世の魂というものがあります。

死んでも魂は時を経て次の肉体に移りゆく。。成仏すると生まれ変わらなくなるともいうが。。


そんな意味合いとかもありますが、私みたいな一凡夫だとどうしようもないことなので。。


日蓮正宗では毎月1日に御経日というものがありまして、毎月第二日曜日の御講という行事の次に重要な行事ともいえます。


まず、何故1日にやるかというと、月の初めに御本尊様に会いに行くという意味合いもあるみたいです。


戒をうける道場である戒壇。もちろん根本の道場は大石寺ですが、それに準ずる義の戒壇として全国各地に末寺があります。


大石寺には選ばれた人だけしか御経日にはいけませんが、全国や世界各国にいる信徒のほとんどはこの日に各所属のお寺に参詣します。


そして、塔婆(釈迦の時代ではストゥーバと言っている)をたてて先祖などの魂を供養します!!


一般のかたもお盆やお彼岸とかに供養すると思いますが、日蓮正宗では、さらに毎月供養することで、故人に対しての恩をしっかり認識します!!


10時と19時に分けて追善供養します。


自分は19時にやりました。


以前に御住職に塔婆作成を頼んでおき、当日に開眼と供養。 御住職と共に夕勤行をし、追善供養の観念をし、焼香をします。


このときに、自分の今があるのは、先祖がいるということ!!自分にかかわってくれた人がいたこと!をしっかり心に刻み観念します。


この塔婆供養について大聖人様は

草木成仏口決   文永九年二月二〇日  五一歳
 問うて云はく、草木成仏とは有情非情の中何れぞや。答へて云はく、草木成仏とは非情の成仏なり。問うて云はく、情・非情共に今経に於て成仏するや。答へて云はく、爾なり。問うて云はく、証文如何。答へて云はく、妙法蓮華経是なり。妙法とは有情の成仏なり、蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情・非情の成仏の事なり。其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。

其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。」


とおっしゃっており、

死は一切の衆生の避けて通れない一実相であり、全ての衆生に平等に訪れる現象である。
その一切の衆生の「死」において、塔婆を立て、開眼供養をすることが「草木成仏=死人成仏」となる。と説かれておられるのであるから、この万人が迎える「死」において、塔婆を立て開眼供養する化儀は、成仏を目指す全ての門下の死に際して行われたことは自明の理である。


また法華経『方便品』には、

* 「若しは廣野(こうや)の中に於て土を積んで仏廟を成し、乃至、童子の戯(たわむ)れに沙を聚(あつ)めて仏塔と為れる。是の如き諸人等、皆巳に仏道を成じき」(開結180ページ)


と、仏塔造立の功徳の甚大なることが説かれている。また『法師品』には、


* 「若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起てて、極めて高広厳飾ならしむべし。復、舎利を安んずることを須(もち)いず。所以(ゆえん)は何ん。此の中には、已に如来の全身有(いま)す。此の塔をば、応に一切の華香、瓔珞(ようらく)、繪蓋(ぞうがい)、幢旛(どうばん)、伎楽、歌頌を以って、供養恭敬、尊重讃歎したてまつるべし。若し人有って、此の塔を見たてまつることを得て礼拝し供養せん。当に知るべし、是等は皆、阿耨多羅三藐三菩提に近ずきぬ」(開結391ページ)


と、明らかに宝塔とは、砕身の舎利ではなく、『法華経』所住の塔であることを意味し、即、如来の法身として尊重すべきことが説かれている。

このことから、しっかと塔婆供養することで先祖の恩への感謝と、それに伴う自身に宿る業の罪障消滅をします。


創価学会などでは、この塔婆供養を坊主の金儲けだ!!とか言って否定というより誹謗していますが、やはり創価学会には恩に感謝するということはないんでしょう。


法華経の行者になるための修行は、勤行・唱題・折伏・登山・御供養・塔婆供養・寺院参詣とたくさんありますが、それ一つ一つが自分の罪障消滅のため、御本尊様への御奉公のため、しいては大願成就のためですので、しっかり修行したいとおもいます!!



コメント

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1 ■こんにちは!

私も学会で教えられるがまま、塔婆は宗門の金儲け手段の1つであり本来の仏教に無縁の物、ましてや大聖人の仏法には全く無い己義だと思ってました。しかし、御書には塔婆供養が明確に記されており、戸田会長の指導にも明確にあります。にも関わらず「塔婆は本来仏教と無縁で宗門の金儲けの物だ」と私の父も関わってきた学会の方も未だに言います。「御書と戸田会長の指導をどう理解すればそうなるのか教えてください」と言っても答えてくれません。

2 ■Re:こんにちは!

>アポロさん
創価には、先祖に対する恩どころか、周りの人に対する恩も希薄なんでしょうね。。
立正安国論の慶事もしないで衆院選のことばかりやっていたり、お会式なども。。

化儀は重要ですよね!!

3 ■塔婆供養に関する誤解(その1)

塔婆供養に関して、大きな誤解をしておりますので、それを指摘させていただきます。

まず、「草木成仏口決」の御文を引かれていますが、それは大聖人が塔婆供養を勧めた御文ではありません。
この部分では、一念三千の成仏は有情・非情にわたるのであり、非情の成仏として草木成仏を取り上げられております。
そして、この草木成仏について説明する“たとえ”として、元天台僧の最蓮房にわかりやすく、当時他宗によって普及していた塔婆供養を取り上げたものとうかがえます。
あなたの場合、「我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」に、重きを置きすぎたばかりに、全体の中で、どのような意味を持っているのかを見失っています。

この「草木成仏口決」という御書では、その一念三千の当体である御本尊の意義を明かされることに大聖人の御本意があるのです。
そのことは、「草木成仏口決」の結論として「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」と仰せられていることからも明らかです。

4 ■塔婆供養に関する誤解(その2)

>塔婆を立て開眼供養する化儀は、成仏を目指す全ての門下の死に際して行われたことは自明の理である。

これは大ウソです。
御書には信徒が塔婆供養をした例は中興入道しかありません。
四条金吾や富木常忍、池上兄弟、南条時光にも勧められていません。
まして、大聖人御自身、亡き師・道善房のために塔婆供養をされることなどありませんでした。
要するに、“塔婆は故人の追善供養のために不可欠”とする現在の宗門の論理では、大聖人の主要門下の肉親は成仏しなかったことになります。

もし、あなたが自分の文章に責任をもつ気があるのでしたら、どこがどう間違っているのか、正しくはどうであるのかを明確に書き記すべきです。

5 ■塔婆供養に関する誤解(3)

>以前に御住職に塔婆作成を頼んでおき、当日に開眼と供養。 御住職と共に夕勤行をし、追善供養の観念をし、焼香をします。

念のために指摘しておきますが、唯一、御書の中で塔婆供養が記されている「中興入道消息」では、塔婆を立てたのは、入道自身、つまり在家の信徒の側であって僧侶ではありません。
まして、現宗門が主張していることに合わせれば、いわば信徒が僧侶抜きに勝手に立てた塔婆を大聖人がほめられたことになります。

この事実について、何か言うことはありますか?
これは、塔婆に関わらず、御本尊の開眼にも関わってくる問題かもしれませんよ。

いずれにせよ、大聖人は信徒に“塔婆を立てなさい”とは記されていません。
塔婆供養とは、あくまでも大聖人の仏法の本質などではなく、現在の日本の社会習俗にすぎないのです。
結論として、現宗門の主張は、何の裏づけもない己義と言わざるを得ないでしょう。

6 ■無題

>ウルルさん
はじめまして!
カキコミありがとうございます。
日記じゃないのだから信徒一人一人の供養が御書にある必要はないとおもいますが??

あなたは直接的に塔婆供養をした大聖人様及び法華経を否定していますが、御書云々ぬかす前に、はじめてなのに自己紹介もできない、その常識のなさはなんなんでしょう??

話す相手で説明の仕方が変わります。自己紹介できない非常識なあなたはどの団体に所属しているのですか??

7 ■早速のコメントありがとうございます

私はあなたの主張の間違いを指摘しただけで、特に自己紹介の必要はないと思います。
私は他にも様々なブログを更新していますが、私が書いた記事について、自己紹介なく批判的なコメントを書いてくる人もいます。
しかし、私はその人たちを「非常識」とは思いません。所詮、ネットは匿名の世界であり、それが嫌ならコメントは不可にするか、承認制にして、自己紹介のない人からのコメントは公開しないことにすればいいのです。
そのへんについては、各人によって考え方が違うと思いますが、あくまで私は、ブログのコメント欄で、自己紹介(私の何を紹介しろというのでしょうか?実名や住所等、個人情報は要求されても書きません)をする必要は、ないと思っています。

>日記じゃないのだから信徒一人一人の供養が御書にある必要はないとおもいますが??
ということは、「塔婆を立て開眼供養する化儀は、成仏を目指す全ての門下の死に際して行われたことは自明の理である」との、あなたの指摘は、単なる憶測ということになりますね。
また、『その一切の衆生の「死」において、塔婆を立て、開眼供養をすることが「草木成仏=死人成仏」となる』であるのならば、どうして、大聖人は塔婆供養をするように、門下に対して明確に指示しなかったのでしょうか?
前にも書きましたが、大聖人が「塔婆を立てるように」との文証は存在しません。

>あなたは直接的に塔婆供養をした大聖人様及び…
日蓮大聖人が塔婆供養をしたのですか!?


尚、お返事は要りません。法論になると、何かと理由をつけて逃亡するのは、法華講員の常套手段ですから。

何より返答不能でしょうし。

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