(5)帝国中部の諸邦(A−M)

16世紀前半の神聖ローマ帝国中部
現在のラインラント=プファルツ州、ヘッセン州の地域にあった国々です


掲載一覧です Liste (A - M)  
(N - Z)

バッテンベルク侯
ビルケンフェルト
ダールベルク男爵領
ドイツ騎士団
エプシュタイン伯領
エプシュタイン=ケーニヒシュタイン伯領
エプシュタイン=ミュンツェンベルク伯領
エルパハ伯領
ファルケンシュタイン伯領
フランクフルト(自由都市)
フランクフルト大公国

フルダ修道院領・司教領
ハーナウ伯領
ハーナウ=リヒテンベルク伯領
ハーナウ=ミュンツェンベルク伯領
ハッツフェルト侯国・伯領
ヘッセン方伯領

ヘッセン=ダルムシュタット方伯領
ヘッセン大公国
ヘッセン=カッセル方伯領
ヘッセン選帝侯国
ヘッセン=ホンブルク方伯領

フッテン男爵領
イーゼンブルク侯国・伯領

ニーダーイーゼンブルク伯領
イーゼンブルク=グレンツァウ伯領
ライニンゲン侯国・伯領
ライニンゲン=ダクスブルク伯領
マインツ大司教領・選帝侯国
首座司教国


Battenberg
Birkenferd (Fsm.)
Dalberg (Frh.)
Deutscher Orden (in Mergentheim)
Eppstein (Gft.)
Eppstein-Koenigstein
Eppstein-Muenzenberg
Erbach (Gft.)
Falkenstein (Gft.)
Frankfurt am Main (Rs.)
Frankfurt (Ghzm.)

Fulda (Abtei, Bm.)
Hanau (Gft.)
Hanau-Lichtenberg (Gft.)
Hanau-Muenzenberg (Gft.)
Hatzfeld (Fsm, Gft.)
Hessen (Lgt.)
Hessen (Ghzm.)
Hessen-Darmstadt (Lgt.)
Hessen (Kfsm.)
Hessen-Kassel (Lgt.)
Hessen-Homburg (Lgt.)

Hutten (Frh.)
Isenburg (Gft, Fsm.)
Nieder-Isenburg (Gft.)
Isenburg-Grenzau (Gft.)
Leiningen (Gft, Fsm.)
Leiningen-Dachsburg (Gft.)
Mainz (Erzbm.)
Fuerstprimatische Staaten


Abkürzungen :
Kgr.= Königreich, Ghzm.= Grossherzogtum, Hzm.= Herzogtum, Kfsm.= Kurfürstentum, Fsm.= Fürstentum
Mgft.= Markgrafschaft, Lgft.= Landgrafschaft, Bgft.=Burggrafschaft, Fgft.=Freigrafschaft, Gft.= Grafschaft, Fh.= Freiherrschaft, H.= Herrschaft, Rs.= Reichsstadt
Erzbm.= Erzbistum, Bm.= Bistum


【バッテンベルク侯】 Fürsten von Battenberg

銀と赤で分割された縁取りが加えられたヘッセン(=ダルムシュタット)と銀地に黒色の二本の縦帯(バッテンベルク)。

1851年、ヘッセン大公ルートヴィヒ2世の息子、アレクサンダー・ルートヴィヒと結婚したユーリエ(アレクサンダー・ルートヴィヒの妹、ロシア皇太子妃マリアの女官)にバッテンベルク女伯の称号が与えられて誕生しました。形の上では1308年に絶えたバッテンベルク伯の再興となります。ユーリエは1858年に女侯に昇爵しました。
貴賤婚の家系でしたが、両親の縁によって英国王室やロシア帝室との関係が深まります。ユーリエの次男はロシア皇帝の後押しでブルガリア公国の君主となり、三男はヴィクトリア女王の末娘と結婚して王族に迎えられるなど、名門家系へと成長していきます。なお、ユーリエの長男の家系は英国に帰化し、第一次大戦時にマウントバッテンと家名を英国風に改めました。現在の英国王室にもその血は流れ、王室はマウントバッテン=ウィンザー家を名乗っています。


【ビルケンフェルト侯領】 Fürstentum Birkenfeld

赤と銀のチェック。紋章はこの地を領有していたシュポンハイム伯に由来します。

プファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルトは1569年に行われたプファルツ=ツヴァイブリュッケンの分割相続で誕生しました。1584年にはシュポンハイム伯領の半分を獲得します。
同家は1671年のカール2世の死で絶えますが、公の生前に結ばれた協定によって、プファルツ=ビッシュヴァイラー家のクリスティアン2世が継承しました。ビルケンフェルト=ビッシュヴァイラー家はラッポルトシュタイン領主領などを相続し、1799年にはプファルツとバイエルンを相続、1806年にバイエルン王家を興しました。

プファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト

1817-

【オルデンブルク領ビルケンフェルト侯領】

オルデンブルクの紋章の中央にビルケンフェルトが置かれました。

オルデンブルクは1817年にビルケンフェルトを獲得し、ビルケンフェルト侯を名乗りました。


【ダールベルク男爵領】 Freiherrschaft Dalberg

ヴォルムス侍従とダールベルクの紋章の組み合わせ。

ヴォルムスの侍従職を世襲した名家で、後にダールベルク男爵家と呼ばれました。同家はヴォルムスの北西に領土を持っていました。
18世紀末、同家出身のカール・テーオドールはマインツ選帝侯に即位し、帝国解体後はライン連邦の主席君主、フランクフルト大公を歴任しました。

Geviert, 1 u. 4. unter dreimal gespitztem goldenen Schildhaupt in Blau sechs (3:2:1) silberne Lilien (Kämmerer von Worms), 3 u. 4. in Gold ein schwarzes Ankerkreuz (Dalberg).


【ドイツ騎士団】 Deutscher Orden in Mergentheim (1526-1809)

Wappen (Heute) :


1190-1198 Hospitalbruderschaft
1198 Ritterorden (Sitz in Akkon)
1230-1271 Sitz in Montfort
1271-1291 Sitz in Akkon
1291-1309 Sitz in Venedig (Venezia)
1309-1457 Sitz in der Marienburg
1457-1525 Sitz in Königsberg
1526-1809 Sitz in Mergentheim
1809- Sitz in Wien
1923 Klerikaler Orden

十字軍三代騎士団の一つです。
1190年のアッコン包囲時にリューベック、ブレーメンの商人が設立した病院が発端となり、1198年に騎士団となりました。その後、他の宗団を吸収して勢力を拡大。神聖ローマ帝国内でも多くの寄進地を得て、帝国の一勢力となりました。
1226年にポーランドのマゾフシェ公の招きを受けてプロイセン征服に着手。精力的な東方植民の結果、バルト海沿岸に騎士団国家を建設するに至りました。しかし、15世紀にポーランドとの戦いに敗れ、本拠地マリエンブルクと領土の西半分を失い、残りの領土もポーランドの宗主権下に置かれました。そして1525年に宗教改革を行い世俗のプロイセン公国に変わったため、騎士団本部は消滅しました。
しかし、南西ドイツにあった支部(バライ)はカトリックにとどまり、騎士団を存続させました。騎士団は1529年に帝国諸侯の地位を与えられ、バート・マーゲントハイムを拠点に活動しました。
1809年に騎士団領はヴュルテンベルク王国に併合され、君主としての騎士団の歴史は幕を閉じます。その後は設立当時の理念に立ち返り、慈善奉仕団体として今日も活動しています(本部はウィーン)。


Hochmeister des Deurschen Ordens

【騎士団長】

騎士団長の紋章は、騎士団の黒十字の上に金色の百合花のスタッフを置き、更に帝国の鷲が描かれた小盾を組んでいます。
歴代の騎士団長は、初期には団長の紋章と実家の紋章をX字に組んでいました。フリードリヒ・フォン・ザクセン(在位1498−1510)の時から実家の紋章の上に置く形で描かれるようになります。また、アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク(在位1510−1525)から騎士団の黒十字も描き加えられるようになりました。


In Silber ein schwarzes mit goldenen Lilienstäben belegtes Kreuz.

Deurscher Orden

【騎士団の紋章】

銀地に黒十字。
団長以外の騎士団員はこちらの紋章を用いました。団員の紋章は、黒十字の上に実家の紋章盾が置かれ、クレストは騎士団のものではなく、実家のクレストが描かれました。


In Silber ein schwarzes Kreuz.


歴代騎士団長 Hoch und Deutschmeister

Walther von Kronberg (1527-1543)

【騎士団長】ヴァルター(在位1527−43)

騎士団の黒十字と騎士団長の実家クロンベルクの紋章の組み合わせ。騎士団長の紋章が紋章全体を覆うように描かれるようになったのは、先々代の団長フリードリヒの紋章からです。

1526年、ドイツ支部(バライ)の総長(Deutschmeister)に就任しました。前年にドイツ騎士団本部は宗教改革を実施して世俗化、ポーランド王を宗主とするプロイセン公国に変わっていたため、ヴァルターは皇帝カール5世に働きかけて、1527年に騎士団国家管理人(Administrator des Hochmeistertums)を名乗る権利を得ました。次いで1530年のアウグスブルク帝国議会にて、プロイセンの旧騎士団領を与えられますが、実効支配はかなわず、騎士団政庁をケーニヒスベルク(カリーニングラード)からマーゲントハイムへ移しました。

Walther von Kronberg (1497-1543)
1526-1543 Deutschmeister
1527-1543 Hochmeister


Wolfgang Schutzbar gen. Milchling (1543ミ1566)

【騎士団長】ヴォルフガング(在位1543−66)

騎士団の紋章と団長の実家の紋章の組み合わせ。シュッツバル家(ミルヒリング家と改姓)の紋章は、三つ又の枝先に菩提樹の葉またはハートマーク、あるいは球が描かれます。

騎士団のヘッセン支部(バライ)の長から騎士団長に就任しました。

Wolfgang Schutzbar gen. Milchling (1483ミ1566)
1543-1566 Hoch- und Deutschmeister

Feld 2 und 3 : Fammilienwappen Schutzbar - In Silber drei (2:1) schwarze Herzen (auch Lindenblaetter oder Kugeln) mit Stielen.

Georg Hund von Wenckheim (1566-72)

【騎士団長】ゲオルク(在位1566−72)

騎士団の黒十字と騎士団長の実家フント・フォン・ヴェックハイム家の紋章の組み合わせ。

フント家はフランケン地方の貴族で、ゲオルクは騎士団長就任前は、騎士団のフランケン支部(バライ)を統括していました。

Georg Hund von Wenckheim (1520-1572)
1566-1572 Hoch- und Deutschmeister

Heinrich von Bobenhausen (1572-90)

【騎士団長】ゲオルク(在位1572−90)

騎士団の黒十字と騎士団長の実家ボーベンハウゼン家の紋章(ガチョウをくわえた狐)の組み合わせ。

フランケンの貴族ボーベンハウゼン家の出身で、騎士団のフランケン支部(バライ)の管区長を歴任した後に団長に選出されました。在任中、皇帝マクシミリアン2世と騎士団の関係が急速に悪化。皇帝の息子マクシミリアン(次の騎士団長)を団長代理に任命することを強いられ、事実上の引退に追い込まれました。1590年に騎士団長を辞任しました。

Heinrich von Bobenhausen (1514?-1595)
1572-1590 Hoch- und Deutschmeister

Maximilian von Oesterreich (1590-1618)

【騎士団長】マクシミリアン(在位1590−1618)

皇帝マクシミリアン2世の息子で、実家ハプスブルク家のフォルダーエスターライヒ(前オーストリア=ドイツにあったハプスブルク家領)の摂政を務め、エルザス方伯とティロル伯も兼ねていました。
マクシミリアンの紋章には多くのバリエーションがあります。これは当時の紋章図鑑や騎士団長の紋章集に掲載されていた紋章です。

Maximilian III. Erzherzog von Oesterreich (1558-1618)
Das neunte Kind des Kaisers Maximilian II.
1585-1590 Koadjutor des Hoch- und Deutschmeisters
1590-1618 Hoch- und Deutschmeister
1593-1595 Regent in Inneroesterreich
1602-1618 als Maximilian III. Graf von Tirol


Maximilian von Oesterreich
(variante)

【騎士団長】マクシミリアン(在位1590−1618)

マクシミリアンの紋章のバリエーションの一つです。マーゲントハイムの城館入り口のレリーフの構成で、向かって右下にシュレージェンの紋章が描かれています。
マクシミリアンの紋章には多くのバリエーションがあります。城館のレリーフや騎士団発行のコインでも数種類が使われていました。

Karl von Oesterreich (1618-1624)

【騎士団長】カール(在位1618−24)

ハプスブルク家の紋章に騎士団長の紋章を組み込んでいます。背後の盾はハンガリー、ボヘミア、オーストリア、ブルゴーニュ、ティロル、ハプスブルク。この紋章は先代のマクシミリアンや後代のカール・ヨーゼフ(在位1662−64)も用いました。

皇帝フェルディナント2世の末弟で、ブレスラウ(ウロツワフ)、ブリクセンの二つの司教を兼ねていました。

Karl Erzherzog von Oesterreich (1590-1624)
Der sechste Sohn des Erzherzogs Karl II., Vater des Kaisers Ferdinand II.
1608-1624 Fürstbischof von Breslau
1613-1624 Fürstbischof von Brixen
1618-1624 Hoch- und Deutschmeister


Johann Caspar I. von Stadion (1627-1641)

【騎士団長】ヨハン・カスパル1世(在位1627−1641)

騎士団の黒十字と騎士団長の実家シュタディオン伯家の紋章の組み合わせ。

団長就任前は、騎士団のシュヴァーベン=エルザス=ブルグントバライを統括していました。三十年戦争が勃発すると、カトリック陣営の将として戦場に身を置きました。1641年にチューリンゲンにて陣没。

Johann Caspar I. von Stadion (1567-1641)
Der letzte Sohn des Johann Ullrich von Stadion.
1627-1641 Hoch- und Deutschmeister

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Stadion.

Leopold Wilhelm von Oesterreich (1641-1662)

【騎士団長】レオポルト・ヴィルヘルム(在位1641−62)

騎士団長の紋章とオーストリア大公の紋章の組み合わせ。

皇帝フェルディナント3世の弟で、1625年にパッサウ(在位1626−62)になったのを皮切りに、ストラスブール(在位1626−62)、ハルバーシュタット(在位1627−62)、オルミュッツ(オロモウツ:在位1638−62)、ブレスラウ(ウロツワフ:在位1656−62)などの司教を兼任し、1635年にはブレーメン、マクデブルク両大司教領管理人となりました。
1639年に皇帝軍最高司令官に就任するや、スウェーデン軍をボヘミアから駆逐。その翌々年に騎士団長に就任しました。しかし、1642年と1644年にスウェーデン軍に大敗し、司令官辞任に追い込まれました。
1647年にスペイン領ネーデルラントの総督に就任し(在職1647−56)、オランダとの和平や対仏戦にあたりました。

Leopold Wilhelm Erzherzog von Oesterreich (1614-1662)
Der vierte Sohn des Kaisers Ferdinand II.
1626-1662 Fürstbischof von Passu und Strassburg
1627-1662 Fürstbischof von Halberstadt
1635-1645 Bischofsadministrator von Bremen und Münster
1638-1662 Fürstbischof von Olmütz
1641-1662 Hoch- und Deutschmeister
1647-1656 Statthalter der Spanischen Niederlande
1656-1662 Fürstbischof von Breslau


Johann Caspar II. von Ampringen (1664-1684)

【騎士団長】ヨハン・カスパル2世(在位1664−1684)

騎士団の黒十字と騎士団長の実家アンプリンゲン家の紋章の組み合わせ。

ハプスブルク家出身の団長が二代続いた後に就任しました。
ボヘミア王国のシュレージェン部隊長やハンガリーの要職を歴任した後、騎士団長に就任。1682年にはフロイデンタール侯として彼個人にも帝国諸侯の身分が与えられました。彼の没後、19世紀にはいるまでは、騎士団長の地位は大諸侯家出身者によって占められるようになります。

Johann Caspar II. von Ampringen (1619-1684)
Sohn des Johann Christoph von Ampringen.
1664-1684 Hoch- und Deutschmeister

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Ampringen.


Ludwig Anton von Pfalz-Neuburg (1684-1694)
bis 1691

【騎士団長】ルートヴィヒ・アントン(在位1684−94)

プファルツ選帝侯フィリップ・ヴィルヘルムの三男です。騎士団長の紋章を実家プファルツ=ノイブルクの紋章に重ねています。

Ludwig Anton Pfalzgraf am Rhein zu Neuburg (1660-1694)
Der dritte Sohn des Kurfürsten Philipp Wilhelm von der Pfalz.
1679-1684 Koadjutor des Hoch- und Deutschmeisters
1684-1694 Hoch- und Deutschmeister
1689-1694 Fürstpropst von Ellwangen
1691-1694 Koadjutor des Erzbischofs von Mainz
1691-1694 Fürstbischof von Worms


Ludwig Anton von Pfalz-Neuburg
1691-1694

【騎士団長】ルートヴィヒ・アントン(1693年以降)

1689年にエルヴァンゲン修道院長(在位1689−94)、1693年にヴォルムス司教(在位1693−94)に就任したので、それらの紋章が組み込まれました。


Mittelschild : 1 u. 4. Bm. Worms, 2 u. 3. Fürstpropstei von Ellwangen.


Franz Ludwig von Pfalz-Neuburg (1694-1732)

【騎士団長】フランツ・ルートヴィヒ(在位1694−1732)

先代と同じくプファルツ=ノイブルク家出身です。実家ライン宮中伯領の紋章と、彼が兼務した司教や修道院長の紋章を組んでいます。
背後の盾は実家プファルツ=ノイブルクの紋章で、中間の盾は、ヴォルムス司教、エルヴァンゲン修道院長、ブレスラウ(現ポーランド:ウロツワフ)司教、シュレージェン(=ブレスラウ司教)。

1683年にブレスラウ司教に選出され、1694年に先代ルートヴィヒ・アントンの後任としてドイツ騎士団長とヴォルムス司教に就任しました。1716年にトリーア選帝侯となり、1729年にマインツ選帝侯に転出しました。

Franz Ludwig Pfalzgraf am Rhein zu Neuburg (1664-1732)
Der sechste Sohn des Kurfürsten Philipp Wilhelm von der Pfalz.
1683-1732 Fürstbischof von Breslau
1694-1732 Hoch- und Deutschmeister, Fürstbischof von Worms, Fürstpropst von Ellwangen
1716-1729 Kurfürst-Erzbischof von Trier, Fürstabt von Prüm
1729-1732 Kurfürst-Erzbischof von Mainz (1712-1729 Koadjutor)


Clemens August von Bayern (1732-1761)
*Feld 2 : Gold-rot gespalten, hier Silber-rot gespalten, Bistum Hildesheim

【騎士団長】クレーメンス・アウグスト(在位1732−61)

バイエルン=ヴィテルズバハ家出身です。実家バイエルンの紋章を中央に置き、背後の盾には、彼が兼務した聖職諸侯の紋章が組まれています。組まれているのは、騎士団長の十字で分割された左上がケルン選帝侯、右上がヒルデスハイム司教、左下がパーダーボルン司教とオスナブリュック司教、右下がミュンスター司教です。

なお、ヒルデスハイムの紋章の彩色は本来は金と赤、ミュンスター司教の紋章も金地に赤色の横帯です。この図は1749年版の紋章年鑑や18世紀後半のリトグラフの彩色に従って描きましたが、宮殿のレリーフや当時ケルンで発行された貨幣では本来の彩色になっています。

Klemens August Herzog von Bayern (1700-1761)
Der siebte Sohn des Kurfürsten Maximilian II. Maria Emanuel von Bayern.
1717-1719 Fürstbischof von Regensburg (1715-1716 Koadjutor)
1716-1723 Koadjutor des Fürstpropstes Berchtesgaden
1719-1761 Fürstbischof von Paderborn und Münster
1722-1723 Koadjutor des Erzbischofs von Köln
1723-1761 Kurfürst-Erzbischof von Köln und Fürstpropst von Berchtesgaden
1724-1761 Fürstbischof von Hildesheim
1728-1761 Fürstbischof von Osnabrück
1732-1761 Hoch- und Deutschmeister


Karl Alexander von Lothringen (1761-1780)

【騎士団長】カール・アレクサンダー(在位1761−80)

実家ロートリンゲン公の紋章(フランソワ3世=神聖ローマ皇帝フランツ1世以後)に騎士団長の紋章が組み込まれています。

皇帝フランツ1世の弟で、1740年にオーストリアの元帥、1744年にネーデルラント総督に任命されました。1757年のロイテンの戦いで、圧倒的兵力差を持ちながらプロイセン王フリードリヒ2世に完敗したため、軍権を解かれました。
1761年、前任者の死によって騎士団長に就任しました。

Karl Alexander Emanuel Herzog von Lothringen (1712-1780)
Der fünfte Sohn des Herzogs Leopold Joseph von Lothringen.
1740-1757 Österreichischer Feldmarschall
1744-1780 Statthalter der österreichischen Niederlande
1761-1780 Hoch- und Deutschmeister


Maximilian Franz von Oesterreich (1780-1801)

【騎士団長】マクシミリアン・フランツ(在位1780−1801)

騎士団長の十字の上に実家ハプスブルク家の紋章を置き、ハプスブルク家の紋章の間に騎士団長の鷲の紋章を挟み込ました。鷲の紋章は金色の盾地を省略して描かれました。背後の盾は兼務した聖職諸侯領の紋章で、上半分がケルン大司教とその所領、下半分がミュンスター司教とその所領の紋章です。

皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの末っ子で、13歳で団長代理に就任。1784年にはケルン選帝侯とミュンスター司教にも就任しました。

Maximilian Franz Xaver Joseph Erzherzog von Oesterreich (1756-1801)
Das letzte Kind des Kaisers Franz I.
1769-1780 Koadjutor des Hoch- und Deutschmeisters
1780-1801 Hoch- und Deutschmeister
1780-1784 Koadjutor des Erzbischofs Koeln und des Bischofs von Muenster
1784-1801 Kurfuerst-Erzbischof von Koeln und Fuerstbischof von Muenster


Karl Ludwig von Oesterreich (1801-1804)

【騎士団長】カール・ルートヴィヒ(在位1801−04)

ハプスブルク家の紋章に騎士団長の紋章を重ね、さらに、その中央にオーストリア大公の紋章を置いています。背後はハンガリー、ボヘミア、ティロル、トスカーナ、ロートリンゲン、ハプスブルク。より完全な形では、マリア・テレジア軍功勲章の他にオーストリア元帥杖が描き加えられます。

皇帝レオポルト2世の息子で、1793年に、兄である皇帝フランツ2世からネーデルラント総督に任命されました。ドイツ騎士団長には1801年に就任。同時にオーストリアの軍務省(Hofkriegsrat)の長官となり、対ナポレオン戦のヴァグラムの戦いなどに従軍しました。1804年に騎士長を辞し、ウィーン会議の後に結婚しました。
彼の末子ヴィルヘルムは1863年にドイツ騎士団長に就任(在位1863−94)。孫のオイゲンも騎士団長になりました。

Karl Ludwig von Oesterreich-Teschen (1771-1847)
Der dritte Sohn des Kaisers Leopld II.
1793-1794 Statthalter der österreichischen Niederlande
1801-1804 Hoch- und Deutschmeister



【エプシュタイン伯領】 Grafschaft Eppstein

Wappen :
In Silber drei rote Sparren ueberreinander.


ca. 1180 Grafschaft entstand
1433 Teilung -> Eppstein-Muenzenberg und Eppstein-Koenigstein

エッペンシュタインとも呼ばれます。ヘッセン州西部、タウヌス山地のマイン川流域にあった伯領で、1180年代にハーゲンハウゼン(ハインハウゼンとも)領主ゲルハルトの息子がエプシュタイン城に拠り、エプシュタイン伯を称したのに始まります。伯家は急速に力を付け、翌13世紀には伯家から4名のマインツ大司教が登場。彼ら4名の在位期間は合計で91年で、ほぼ一世紀にわたってエプシュタイン家出身者が帝国最有力諸侯の地位を独占する形となりました。
また、伯家は婚姻を通じて周辺伯領の諸権利を取得し勢力を拡大し、15世紀にはファルケンシュタイン伯領およびディーツ伯領の半分を獲得。1433年にゴットフリート7世、エーバーハルト2世兄弟によって領土が分割され、エプシュタイン=ミュンツェンベルクとエプシュタイン=ケーニヒシュタインに分かれました。
エプシュタイン=ミュンツェンベルクは1522年に、エプシュタイン=ケーニヒシュタインは1535年に絶え、領土はシュトルベルク伯が継承しました。


Stammwappen

エプシュタイン家の紋章は銀地に三本の赤い山形帯。クレストはクジャクの羽根飾りで、時代によってデザインにバリエーションがあります。なお、ミュンツェンベルクのクレストも同じデザインなので、クレストはミュンツェンベルク由来と思われます。

【エプシュタイン=ケーニヒシュタイン伯領】 Grafschaft Eppstein-Koenigstein

Wappen :
Geviert mit Herzschild.
Herzschild : gespalten, vorne in Gold ein schwarzer Loewe (Koenigrtein), hinten in Rot zwei goldene, blau bewehrte schreitende Loewe ueberreinander (Diez).
Hauptschild : 1 u. 4. Eppstein, 2 u. 3. geteilt von Rot und Gold (Muenzenberg).

1433年の分裂で生まれた伯領で、エーバーハルト2世(エプシュタイン共治伯1391−1433)に始まります。家系としては弟脈になります。
1505年からはケーニヒシュタイン(=ディーツ伯)を称し、1535年に断絶。遺領は女子相続人を通じてシュトルベルク伯家に渡りました。


中央の小盾はケーニヒシュタイン。背後の盾はエプシュタインとミュンツェンベルク。

16.Jh.

中央の小盾はケーニヒシュタインとディーツ。
16世紀に認められる構成です。ケーニヒシュタイン伯を称してからの変更と思われます。

【エプシュタイン=ミュンツェンベルク伯領】 Grafschaft Eppstein-Muenzenberg

エプシュタインとファルケンシュタイン(ミュンツェンベルク)の組み合わせ。

1433年の分裂で誕生した伯領で、ゴットフリート7世(エプシュタイン共治伯1391−1433)に始まります。家系としては兄脈になります。
ゴットフリート7世の母はファルケンシュタイン伯家出身だった関係で、1418年に同伯家が絶えるとその遺領の一部を相続し、ファルケンシュタインの紋章(ミュンツェンベルク)を組み込みました。
ゴットフリート7世の息子ゴットフリート9世(11世とも)からはディーツ伯も併せ称しました。ゴットフリート10世(12世とも)が1522年に没して家系は絶えました。


【エルバハ伯領】 Grafschaft Erbach (1532-1806)

Wappen :
Geviert, 1 u. 4. von Rot und Silber geteilt, oben zwei, unten ein sechsstrahliger Stern in verwechselten Farben (Erbach), 2 u. 3. in Silber zwei rote Balken (Breuberg).


1213 Herrschaft Erbach
1532 Grafschaft
1647 Erbreilungen -> Erbach-Erbach (1806 mediatisiert) und Erbach-Fuerstenau (1806 mediatisiert)
1717 Grafschaft Erbach-Schoenberg entstand (Teil von Erbach-Fuerstenau, 1806 mediatisiert)

ヘッセン州南端のオーデンヴァルトにに位置するエルバハを中心とした領邦で、領主のエルバハ家は12世紀頃に記録に登場しました。同家は13世紀からはプファルツ選帝侯の献酌侍従職を世襲した家系ですが、その一方で帝国直属身分を持っていました。1532年に伯に昇格。初代伯エーバーハルト15世(領主1481−1531、伯1532−39)の後は共同統治体制が長らく続き、1647年に4家に分裂。1717年にも分家が生まれ、1806年の神聖ローマ帝国解体時にはエルバハ=エルバハ、エルバハ=フュルステナウ、エルバハ=シェーンベルクの3家がありました。各家とも1806年に主権を失い、領土はヘッセン=ダルムシュタットに併合されました。


組まれているのはエルバハとブロイベルク。赤と銀に分割された盾地に色違いの星を描いた紋章がエルバハで、銀地に二本帯がブロイベルクです。
ブロイベルクの領主家は14世紀に断絶し、ヴェルトハイム伯の領土となっていました。

エルバハ伯のクレストは、互い違いに塗り分けられた水牛の角で、ブロイベルクの紋章が組み合わせられると、ブロイベルクのクレスト(紋章を描いた三角旗)とまとめられました。


【ファルケンシュタイン伯領】 Grafschaft Falkenstein

Wappen :
In Brau ein silbernes Wagenrad.

ファルケンシュタイン伯を名乗る家系は中世にはドンナーズベルク系とハルツ系、近世にはいるとオーストリアのトラウトソン家の異なる系統があり、その領土もそれぞれ異なっていました。
著名なのはドンナーズベルク系で、ヘッセンやラインラントに所領網が広がっていました。この家系は初めはボランデン家を称し、13世紀の初め頃からファルケンシュタインを名乗ったようです。1271年にケーニヒシュタイン系とミュンツェンベルク系に分かれ、主脈のファルケンシュタイン=ケーニヒシュタイン家は14世紀前半に断絶。ミュンツェンベルク家からは2名のトリーア選帝侯が出、トリーア選帝侯を兼ねたヴェルナー(選帝侯1388−1418、伯1407−18)の死によって断絶。
領土はイーゼンブルク、ヴィルネブルク、エッペンシュタイン(エプシュタイン)、ザイン、ゾルムス各家によって分割相続されました。なお、ファルケンシュタイン=ミュンツェンベルク家は赤と金の横分割の紋章を使っていたので、相続者達の紋章にも、ミュンツェンベルクが組み込まれました。


Bolanden-Hohenfels

【ボランデン=ホーエンフェルス】

青地に銀色の車輪。マインツ選帝侯の紋章に由来します。始祖のボランデン家は金地に赤色の車輪の紋章を使っていて、その分家であるホーエンフェルス家は彩色を変えたものを紋章としました。

ボランデン家は1130年にファルケンシュタイン系とホーエンフェルス系に分かれました。ホーエンフェルス系はダウン=ファルケンシュタイン伯領の西隣、ライポルツキルヘンの領主として1602年まで続きました。

Falkenstein-Muenzenberg

【ファルケンシュタイン=ミュンツェンベルク】

ミュンツェンベルクの紋章との組み合わせ。

主脈のファルケンシュタイン=ケーニヒシュタイン家が断絶すると、一族のミュンツェンベルク家が伯位を継承しました。そのため、ミュンツェンベルクの紋章は14〜15世紀のファルケンシュタイン伯を表す紋章として、同家出身のトリーア選帝侯に描かれているほか、遺領を相続したシュトルベルク伯やゾルムス伯の紋章にも取り入れられています。
トリーア選帝侯を兼ねたヴェルナー2世の死(1418年)によって伯家は断絶し、伯領は諸家の間で分割相続されました。

Falkenstein-Daun

【ファルケンシュタイン=ダウン伯領】

ダウン伯の紋章との組み合わせ。

16世紀の初頭頃、ダウン=オーバーシュタイン家のメルヒオールがファルケンシュタイン伯を名乗り(在位?−1511)、新伯家が興りました。
ダウン=オーバーシュタイン家は、ファルケンシュタイン=ミュンツェンベルク家の遺領の一部を継承していて、ファルケンシュタインのダウン家(Daun zu Falkenstein)を称していました。
同家は1667年に断絶。伯領はロートリンゲン公が相続し、1736年以降はオーストリア領となりました。


【自由都市フランクフルト】 Freiestadt Frankfurt am Main

赤地に舌と爪の青い銀鷲。冠は金色。まれに、翼部分に翼骨が描かれたそうです。

西暦500年前後に成立したと言われます。フランクフルトは「Franken-furt(フランク人の渡し場)」が語源で、フランク族のマイン川以南への進出の拠点だったと考えられています。フランク王国時代は、カール大帝が会議を開いたり、9世紀以降はカロリング王家の居住地となるなど、フランク王国の中心都市の一つとして重要さを増しました。
都市は12世紀頃から発展し、1245年に帝国都市、次いで皇帝選挙の場所となりました。さらに1562年からはアーヘンに代わって皇帝の戴冠式の場所となり、ドイツ連邦時代は連邦政府が置かれるなど、ドイツ史を通じて政治の中心にありました。
文豪ゲーテや大銀行家ロートシルト(ロスチャイルド)家の生まれた町としても知られています。

In Rot ein gold gekrönter silberner Adler.

1245 Reichsstadt
1806 Freiestadt
1866 zu Preussen

【フランクフルト大公国】 Grossherzogtum Frankfurt (1810-1815)

中央の小盾は君主ダールベルク家の紋章。背後の盾は、フランクフルト、アシャッフェンブルク(マインツ)、フルダ(旧修道院・司教領)、ハーナウ。

1815年に大公国が取りつぶされると、大公カール・テーオドールはレーゲンスブルク大司教になります。自由主義的な思想の持ち主だった彼は、カトリック界における啓蒙思想の代表者として活躍しました。


Geviert mit geviertem Herzschild.
Herzschild : Familienwappen Dalberg (1 u. 4. Kämmerer von Worms, 2 u. 3. Dalberg).
Hauptschild : 1. Frankfurt, 2. Aschaffenburg (Mainz), 3. Fulda, 4. Hanau.


【フルダ修道院領/司教領】】 Reichsabtei (zeit 1752 Hochstift) Fulda

In Silber ein schwarzes Kreuz.


744 Stift gegruendet
1752 Bistum Fulda
1802 Saekularisiert

銀地に黒い十字架。

744年に創建されたベネディクト会系修道院で、神聖ローマ帝国およびガリア地域の首座修道院に据えられていました。1221年に帝国諸侯に列し、1752年に司教領に変わりました。
1802年に世俗化され、領土はナッサウ、ヘッセン間で分割されました。ウィーン会議の結果、旧領土はヘッセン選帝侯の陪臣領ながら、大公領に昇格しました。
なお、世俗化後もキリスト教の教区としては存続し、今日に至っています。現在はパーダーボルン大司教区に所属する司教区ですが、先代の司教ヨハネス・ダイバ(在位1983−2000)は、個人の称号として「大司教」が与えられました。


歴代修道院長と司教 Fürstbischöfe und Fürstäbte von Fulda

Balthasar von Dernbach (1570-1576, 1602-1606)

【フルダ修道院長】バルタザール(在位1570−76、1602−06年)

修道院長の実家デルンバハ家の紋章との組み合わせ。

22歳で修道院長に就任しました。就任するや、イエズス会を招聘して学校建設を進め、すでにルター派の教義が浸透していた領内に対し、再カトリック化を強制する対抗宗教改革運動を展開しました。しかしあまりにも苛烈なやり方だったため、参事会や修道院領等族の反発を買い、1576年に修道院長を廃され、修道院領はヴュルツブルク司教ユリウス・エヒターの管理下に置かれました(フルダ騒動)。
1602年に復位すると、再カトリック化政策と並行して情け容赦ない魔女狩りを断行。300人以上の領民が魔女・魔法使いとして捕らえられ、拷問にかけられました。1604年初頭から1606年3月13日(彼の没する2日前)までの2年間で、130人以上が魔女として火刑に処されました。

Balthasar von Dernbach (1548-1606)
1570-1576,1602-1606 Fuerstabt von Fulda

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Dernbach.


Joachim von Gravenegg (1644ミ1671)

【フルダ修道院長】ヨアヒム(在位1644−71年)

実家グラーヴェネック家との組み合わせ。

Joachim Reichsraf von Gravenegg (?-1671)
1644-1671 Fuerstabt von Fulda

Bernhard Gustav Adolf von Baden (1671-1677)

【フルダ修道院長】ベルンハルト・グスタフ・アドルフ(在位1671−77年)

修道院長の実家バーデン=ドゥルラハ辺境伯の紋章との組み合わせ。

枢機卿を兼ねた修道院長で、ケンプテン修道院長も兼ねました(在位1673−77年)。また、ケルンおよびシュトラースブルクの司教座聖堂参事会のメンバーでもありました。

Bernhard Gustav Adolf Markgraf von Baden-Durlach (1631-1677)
Der dritte Sohn des Markgrafen Friedrich V. von Baden-Durlach.
1671-1677 Fuerstabt von Fulda
1673-1677 Fuerstabt von Kampten

Feld 2 u. 3 : Markgrafschaft Baden.

Placidus von Droste (1678-1700)

【フルダ修道院長】プラツィドゥス(在位1678−1700年)

実家ドロステ家の紋章との組み合わせ。

Placidus von Droste zu Erwite (?-1700)
Sohn des Philipp von Droste zu Erwite.
1678-1700 Fuerstabt von Fulda

Feld 2 u. 3 : Stammwappen Droste.

Constantine von Buttlar (1714-1726)

【フルダ修道院長】コンスタンティン(在位1714−26年)

修道院長の実家ブトラー家の紋章との組み合わせ。

ブトラー家はヘッセンの貴族で、紋章意匠はおそらく、家名ブトラー(Buttlar)の綴りが背負い桶(Buette)を連想させることに由来していると思われます。

Constantine von Buttlar (-1726)
1714-1726 Fuerstabt von Fulda

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Buttlar.

Adolf von Dalberg (1726-1737)

【フルダ修道院長】アドルフ(在位1726−37年)

修道院長の実家ダールベルク家の紋章の中央に修道院の紋章を置きました。他に、修道院の他にと実家ダールベルクの紋章をX字に組んだバリエーションもありました。

Anton Adolf Reichsfreiherr Kämmerer von Worms gen. von Dalberg (1678-1737)
Der elfte Sohn des Freiherrn Philipp Franz Eberhard Kämmerer von Worms gen. von Dalberg.
1726-1737 Fuerstabt von Fulda

Variente : geviert, Feld 1 und 4 in Silber ein schwarzes Kreuz (Fulda), Feld 2 und 3 geviert , 1 u. 4 unter dreimal gespitztem goldenen Schildhaupt in Blau sechs (3:2:1) silberne Lilien (Kämmerer von Worms), 3 u. 4. in Gold ein schwarzes Ankerkreuz (Dalberg).


Amand von Buseck (1737-1756, seit 1752 Fürstbischof)

【フルダ修道院長・司教】アマンド(修道院長1737−52:司教1752−56)

司教の実家ブーゼック男爵家の紋章との組み合わせ。

1752年にフルダ初代の司教となりました。

Amand Reichsfreiherr von Buseck (1685-1756)
1728-1752 Weibischof in Fulda.
1738-1756 Fuerstabt von Fulda
1752-1756 Fuerstbischof von Fulda

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Buseck.

Adalbert II. von Walderdorff (1757-1759)

【フルダ司教】アーダルベルト2世(在位1757−59年)

中央の小盾は司教の実家ヴァルダードルフ。背後の盾はフルダとニーダイーゼンブルク。ニーダーイーゼンブルクもヴァルダードルフ家の紋章に含まれます。

修道院長として2世を名乗りました。トリーア選帝侯ヨハン・フィリップの兄に当たります。

Adalbert Reichsfreiherr von Walderdorff (1697-1759)
Sohn des Freigerrn Carl Lothar von Walderdorff. Adalbert war Burder des Erzbischofs Johann Philipp von Trier.
1729-1734 Generalvikar des Fuerstabtes von Fulda
1757-1759 Als Adalbert II. Fuerstbischof und Fuerstabt von Fulda

Heinrich Karl Sigismund von Bibra (1760-1788)

【フルダ司教】ハインリヒ(在位1760−88)

司教の実家ビブラ帝国騎士家の紋章との組み合わせ。
ビブラ家の紋章は家名Bibraと綴りが似ているビーバー(Biber)が意匠に採用されています。

領内の教育制度改革に尽力したことで知られます。

Heinrich Karl Sigismund von Bibra (1711-1788)
1760-1788 Fuerstbischof und Fuerstabt von Fulda

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Bibra.

Adalbert III. von Harstall (1789-1814)

【フルダ司教】アーダルベルト3世(在位1789−1814)

司教の実家ハルスタール男爵家の紋章との組み合わせ。

修道院長として3世を称しました。フルダ最後の領主司教です。世俗の君主権を失った後も、フルダ司教として活動しました。

(Wilhelm Adolf Heinrich) Adalbert Freiherr von Harstall (1737-1814)
Sohn des Freiherrn Hartmann Ernst von Harstall.
1789-1802 Fuerstbischof und Fuerstabt von Fulda
1803-1814 Bischof von Fulda

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Harstall.


【ハーナウ伯領】 Grafschaft Hanau


In Gold drei rote Sparren ueberreinander.


1451 Erbteilungen -> Hanau-Muenzenberg und Hanu-Babenhausen (Lichtenberg)

フランクフルトの東にあった伯領で、中心都市ハーナウはグリム兄弟の生誕地として知られます。12世紀後半に伯領に昇格しました。ラインハルト3世(2世とも:在位1429−51)の死後、バーベンハウゼンとミュンツェンベルクの二系統に分裂しました。
ハーナウ=ミュンツェンベルクは兄脈の家系で、本拠地ハーナウとその周辺を相続。16世紀に宗教改革を行い、三十年戦争では、ボヘミア冬王ことプファルツ選帝侯フリードリヒ5世の叔母が摂政をしていた関係で戦争当初からプロテスタント陣営に属しました。1629年に皇帝軍に包囲されると、娘の嫁ぎ先ヘッセン=カッセルの同盟者スウェーデン軍が来援。しかし、防衛の名目で進駐したスウェーデンは占領者として振る舞い、伯一家に退去を強要。ネーデルラントへ移った伯家は、戦死や病死などによって1642年に男系が絶えました。
ハーナウ=リヒテンベルクはマイン川以南の領土を相続し、婚姻を通じてアルザスに進出。アルザスで所領を拡大し、拠点としたリヒテンベルクを家名としました。ミュンツェンベルク家が断絶すると全ハーナウを相続。この相続後もハーナウはミュンツェンベルクとリヒテンベルクの二つの伯領として扱われ、同君連合という形がとられました。1736年に伯家が絶えると、ミュンツェンベルクはヘッセン=カッセル、リヒテンベルクはヘッセン=ダルムシュタットが相続しました。


金地に赤い3本の山形の帯。

クレストは翼を広げた白鳥で、リーネック伯のクレストとよく似ています。ハーナウ=ミュンツェンベルク、および1643年以降のハーナウ=リヒテンベルクの紋章には、リーネック伯のクレストも描かれるので紛らわしいですが、クレストが描かれる位置とマントの色、それから、ハーナウのクレストはマントと一体型で、リーネックのクレストはヘルムにコロネットが被せられ、コロネットがクレストの台座の役目をしている点で見分けられます。

【ハーナウ=リヒテンベルク伯領】 Grafschaft Hanau-Lichtenberg (1451-1736)

リヒテンベルク領主領の紋章との組み合わせ。

1451年に分裂したハーナウ伯の弟の家系で、分裂時はハーナウ=バーベンハウゼンと称しました。その後、婚姻によってリヒテンベルク領主領(アルザス・現フランス)を相続し、名称をハーナウ=リヒテンベルクと改めました。
1643年に本家筋のミュンツェンベルク家が絶えると、ハーナウ全土を相続します。しかし、1736年に断絶。リヒテンベルクは最後の伯の娘の嫁ぎ先ヘッセン=ダルムシュタット方伯家に遺贈されました。

Geviert, 1 u. 4. Gft. Hanau, 2 u. 3. H. Lichtenberg.

1451 Grafschaft Hanu-Babenhausen entstand
1481 Grafschaft Hanu-Lichtenberg
1736 erloschen, Territorium fällt an Hessen-Darmstadt


1560-

組まれているのは中央の小盾がオクセンシュタイン領主領、背後の盾は、ハーナウ伯領、ツヴァイブリュッケン伯領、リヒテンベルク領主領。

フィリップ5世(在位1590−99)は、1560年にツヴァイブリュッケン=リヒテンベルク伯家の女子相続人ルドヴィカ・マルガレーテと結婚し、その所領を加えました。

Geviert mit Herzschild.
Herzschild : H. Ochsenstein.
Hauprschild : 1 u. 4. Gft. Hanau, 2. Gft. Zweibrücken, 3. H. Lichtenberg.

(Variante)

中央にビーチュ領主領の紋章が置かれたバリエーションですが、詳細不明です。
ビーチュ(現フランス)はツヴァイブリュッケン伯の所領で、フィリップ5世とルドヴィカ・マルガレーテの挙式地でした。


Herzchild : Bitche.

1599-1643

【17世紀前半】

配置が変更になり、中央にハーナウが置かれました。
ヨハン・ラインハルト1世(在位1599−1625)からフィリップ・ヴォルフガング(在位1625−42)の代まで用いられました。


Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Gft. Hanau.
Hauptschild : 1. Gft. Zweibruecken, 2. H. Lichtenberg, 3. Bitche, 4. H. Ochsenstein.

1643-1736

【1643年以降】

ハーナウが再統合後されると、ミュンツェンベルク家の紋章からリーネックとミュンツェンベルクが組み入れられました。

ミュンツェンベルクを相続したフィリップ・ヴォルフガングはその直後に没し、息子フリードリヒ・カージミールが継承。この時マインツ選帝侯との間に紛争が起こり、紛争解決に尽力したヘッセン=カッセル摂政アマーリエ・エリーザベト(ミュンツェンベルク家出身)に感謝して相続協定を結びました。フリードリヒ・カージミールは元ハーナウ伯妃ジビレ・クリスティアーネ(ミュンツェンベルク摂政1638−41)を妃に迎え、後に南米ギアナに植民地建設を企てました(計画は帝国法院=神聖ローマ帝国の最高裁判所に差し止められました)。

Zweimal gespalten und einmal getailt mit Herzschild.
Herzschild : Bitche.
Hauptschild : 1. Gft. Hanau, 2. Gft Rieneck, 3. Gft. Zweibruecken, 4. H. Muenzenberg, 5. H. Lichtenberg, 6. H. Ochsenstein.

【ハーナウ=ミュンツェンベルク伯領】 Grafschaft Hanau-Münzenberg

bis 1559

【16世紀半ばまで】

ハーナウとミュンツェンベルクの組み合わせ。

1451年に分裂したハーナウ伯の兄系で、ハーナウを領有しました。1643年に断絶してハーナウ=リヒテンベルク(旧バーベンハウゼン)と再合同します。1736年にリヒテンベルク家が絶えると、1643年に結ばれた相続協定によってヘッセン=カッセル領となりました。19世紀には侯領に昇格しました。

Geviert, 1 u. 4. Gft. Hanau, 2 u. 3. H. Münzenberg.

1451 Grafschaft Hanau-Münzenberg entstand
1643 zu Hanau-Lichtenberg
1736 zu Hessen-Kassel


zeit 1559

【16世紀半ば以降】

中央の小盾はミュンツェンベルク領主領。背後の盾は、ハーナウ伯とリーネック伯。1559年にリーネック伯の称号を加えたため、紋章にもリーネックが組まれました。

Geviert mit Herzschild.
Herzschild : H. Münzenberg
Hauptschild : 1 u. 4. Gft. Hanau, 2 u. 3. Gft. Rieneck.

歴代伯と摂政 Grafen und Regenten von Hanau-Münzenberg

Katherina Belgica von Nassau-Oranien
Regentin (1612-1626)

【ハーナウ=ミュンツェンベルク摂政】カテリーナ・ベルギカ(摂政1612−26)

実家ナッサウ=オランニェ家の紋章との組み合わせ。

ウィレム沈黙公の娘で、ハーナウ=ミュンツェンベルク伯フィリップ・ルートヴィヒ2世に嫁ぎ、夫の死後、息子フィリップ・モーリッツの摂政として伯領を統治しました。摂政在任中に勃発した三十年戦争では、甥である「ボヘミア冬王」ことプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を支持したため、皇帝軍の侵攻を受けました(1620年)。
なお、カテリーナの夫フィリップ・ルートヴィヒ2世の祖父はウィレム沈黙公の異父兄で、フィリップ・ルートヴィヒ2世もナッサウ伯の宮廷で教育を受けるなど、当時の両家はとても緊密でした。

Katherina Belgica von Nassau-Oranien (1578-1648)
Tochter des Prinzen Wilhelm "der schweige" von Nassau-Oranien.
1596 verheiratet mit Philip Ludwig II. von Hanau-Münzenberg.
1612-1626 Regentin von Hanau-Münzenberg

Recht : Hanau-Münzenberg, Links : Nassau-Oranien.


Maria von Grossbritanien
Regentin (1760-1764)

【ハーナウ=ミュンツェンベルク摂政】マリア(摂政1760−64)

ヘッセン=カッセル(嫁ぎ先)とイギリス(実家)の紋章を並置しました。

イギリス王ジョージ2世の王女で、1740年、イギリスとヘッセン=カッセル間で傭兵契約が締結された日に、ハーナウ伯兼ヘッセン=カッセル摂政ヴィルヘルム(のちヘッセン=カッセル方伯)の嫡男フリードリヒと結婚。1749年に夫のカトリック改宗が発覚し、翌々年に岳父がヘッセン=カッセル方伯を継ぐと、ヘッセンとハーナウの継承問題が国際問題化。カトリックの統治を拒むハーナウでは、マリアとその息子ヴィルヘルムが相続人と定められ、マリアは1755年に夫と別居し、ハーナウに宮廷を構えました。
1760年に岳父が没すると、息子の後見人として摂政に立ち、ハーナウ市街の再開発事業に取りかかりました。

Maria von Grossbritanien (1723-1772)
Tochter des Königs Georg II. von Grossbritanien.
1740 verheiratet mit Friedrich II. von Hessen-Kassel
1760-1764 Regentin von Hanau-Münzenberg


Wilhelm (1760-1803)

【ハーナウ=ミュンツェンベルク伯】ヴィルヘルム(在位1760−1803)。

中央の小盾はヘッセン=カッセル。親政開始後の紋章です。ヘッセン=カッセル方伯家はヘッセンの紋章をハーナウ伯領に対しても用いましたが、ヴィルヘルムはそれとは別に、左の紋章を併用しました。

ヴィルヘルムは1785年にヘッセン=カッセル方伯を継ぎ、1803年には選帝侯位を得ます(方伯として9世:在位1785−1803、選帝侯として1世:在位1803−21)。方伯位を継ぐと、傭兵業で蓄積した資産の管理を御用商人ロートシルト(ロスチャイルド銀行の創始者)に委ねたことはよく知られています。

Wilhelm (1743-1821)
Der zweite Sohn des Landgrafen Friedrich II. von Hessen-Kassel und seiner Gemahlin Maria von Grossbritanien.
1760-1803 als Wilhelm II. Graf von Hanau-Münzenberg (bis 1764 unter Vormundschaft seiner Mutter)
1785-1802 als Wilhelm IX. Landgraf von Hessen-Kassel
1803-1806, 1813-1821 als Wilhelm I. Kurfürst von Hessen



【ハッツフェルト=グライヒェン侯国】 Fürstentum Hatzfeld-Gleichen-Trachenberg

Wappen :

1. Preussen (Gnadenwappen?), 2. in silber ein schwarzer Doppeladler (Gnadenwappen), 3. Gft. Gleichen, 4. Hzm. Schlesien, 5. Herzschild : Stammwappen von Hatzfeld, 6. H. Wildenberg (Wildenburg), 7. Gft. Selbach, 8. H. Rosenberg.

ca. 1196 Herrschaft Hatzfeld entstand
1635 Grafschaft
1640 Grafschaft Hatzfeld-Gleichen
1748 Fuerstentum Hatzfeld-Gleichen-Trachenberg
1794 erloschen

1138年に記録に登場するヘッセンの騎士の家系で、ハッツフェルトの家名は1196年に現れました。ヨハン2世(1407年没)の時、婚姻を通じて帝国直属領主領ヴィルデンブルク(現ラインラント=プファルツ州)を獲得して地歩を固め、1422年に2家に分かれました。
ハッツフェルト=トラヒェンベルクは弟脈の家系で、1635年に伯となり、1639年にグライヒェン伯領の一部を取得。翌年、グライヒェン伯として帝国等族に迎えられました。その後、1648年にトラヒェンベルク(プロイセン王国の陪臣領)を得て1740年にプロイセン王国の侯に、次いで1748年には帝国諸侯となりました。家系は1794年に断絶しました。

一方兄脈は、嫡流が1655年に絶えたものの、1516年に分かれたハッツフェルト=ヴェルターが続き、18世紀末にはハッツフェルト=シェーンシュタインとも呼ばれました。同家のフランツ・ルートヴィヒ(オーストリアの将軍)はハッツフェルト=トラヒェンベルク家が断絶するとハッツフェルト=ヴェルター=シェーンシュタイン侯となり、子孫は1874年にトラヒェンベルク公(Herzog von Trachenberg)に昇爵しました。

紋章は兄脈・弟脈とも同じでした。盾持ちはダチョウの羽根飾りを付けた銀色のライオンで、グライヒェン伯のクレストから採られています。また、台座に「VIRTUS ET HONOS」というモットーが刻まれることもあります。


Stammwappen

【家系の紋章】

金地に黒色の攻城用の錨。ハッツフェルト家の紋章では、錨の図はデフォルメされて幾何学模様のように描かれることが多いです。


Stammwappen : In Gold ein schwarzer Maueranker.

ca. 1420-

【1420年以降】

ハッツフェルトとヴィルデンベルク(ヴィルデンブルクとも)の紋章の組み合わせ。

ヴィルデンベルク家はヘッセンのジーク川流域に所領を持っていた帝国直属領主で、1420年に絶えました。ゴットフリート7世(1407?−22頃)の母親がヴィルデンベルク家最後の領主の姉妹だった関係で、同家の紋章が取り入れられました。

17. Jh.-18. Jh.

【17−18世紀】

伯時代の紋章です。組まれているのは、シュレージェン、グライヒェン伯、ハッツフェルト、ヴィルデンベルク、ゼルバハ伯、ローゼンベルク領主。

1630年に帝国男爵となったハッツフェルト家は、1635年に帝国伯に昇爵。1639年に帝国の直属領邦であるグライヒェン伯領を取得し(グライヒェン伯は1631年に断絶して領土は諸家によって分割相続されました。ハッツフェルト家が取得したのはテューリンゲンにあった領域です)、翌年にグライヒェン伯として帝国等族となりました。
グライヒェン伯となると、盾の上に描かれるクレストが変更され、向かって左にシュレージェン、中央にグライヒェン、向かって右にゼルバハのクレストが載せられ、元々のハッツフェルト家のクレストは描かれなくなりました。
シュレージェンの紋章については情報がなくわかりませんでした。ボヘミア王国(チェコ)の献酌侍従職を保有していることに関係しているのでしょうか。

Einmal gespalten und zweimal geteilt. 1. Hzm. Schlesien, 2. Gft. Gleichen, 3. Stammwappen, 4. H. Wildenberg (Wildenburg), 5. Gft. Selbach, 6. H. Rosenberg.


18. Jh.

【18世紀以降】

中央の小盾はハッツフェルト。背後の盾は、プロイセン、帝国の双頭の鷲(帝国諸侯を表す下賜紋)、グライヒェン伯、シュレージェン公、ヴィルデンベルク領主、ゼルバハ伯、ローゼンベルク領主。
プロイセンの紋章は、おそらく、トラヒェンベルク侯(プロイセン王の陪臣身分)を表現しています。その隣の双頭の鷲は帝国の鷲で、帝国諸侯身分を表しています。
なお、ローゼンベルクの紋章は、一族のハッツフェルト=ヴィルデンブルク家が1632年にブランデンブルク=アンスバハ辺境伯からローゼンベルクの封を受けたことで組み込まれました。


【ヘッセン方伯領】 Landgrafschaft Hessen

青地に銀と赤で10分割されたライオン。テューリンゲン方伯の紋章に由来します。テューリンゲン方伯の紋章とは分割数で区別されましたが、分割数と彩色順が現在のものに定まったのは15世紀でした。

ヘッセン方伯を兼ねていたテューリンゲン方伯家は1247年に男系が途絶し、ヘッセンとテューリンゲンは分離します。ヘッセンを継承した女方伯ゾフィーはブラバント公ハインリヒ2世と結婚していたため、子孫はブラバント家を名乗りました。しかし、ブラバントはハインリヒ2世の最初の妃との間の息子が継承し、ヘッセンはゾフィーの息子が受け継いだため、ブラバントとの連合は起こりませんでした

In Blau ein gold gekrönter und bewehrter, neunmal von Silber und Rot geteilter Löwe.


bis 17. Jh.

【ヘッセン方伯領】

中央の小盾はヘッセン。背後の盾は、カッツェネルンボーゲン、ツィーゲンハイン、ニダ、ディーツ。

この紋章は、1548年にカッセルとマールブルクに分裂してからも共通して用いられました。
1567年にカッセルからダルムシュタットが分かれると、カッセルとダルムシュタットを区別するため、ダルムシュタットとその分家はヘッセンのライオンの尾を二本に変更しました。

Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Lgft. Hessen.
Hauptschild : 1. Gft. Kaztenelbogen, 2. Ziegenhain, 3. Nidda, 4. Gft. Diez.


ヘッセン大公国 Grossherzogtum Hessen

Wappen : (1876)

1567 Lgft. Hessen-Darmstadt (Teil von Hessen-Kassel)
1806 Grossherzogtum Hessen

Orden :
Ludwigsorden (gestiftet durch Grossherzog Ludwig I. am 25.8.1807),
Glossherzoglich Hessische goldene Löwenorden (gestiftet durch Landgraf Friedrich II. von Hessen-Kassel, 1866-1875 Preussischer, seit 1876 Glossherzoglich Hessischer Orden),
Glossherzoglich Hessische Philippsorden (gestiftet durch Grossherzog Ludwig II. am 1.5.1840).

1567年にヘッセン=カッセルから分かれたヘッセン=ダルムシュタット方伯領が前身で、1806年に大公国に昇格しました。1866年の普墺戦争で一族のヘッセン選帝侯国(ヘッセン=カッセル)と共にプロイセンに敵対したものの、領土の一部を失っただけで独立を保ち、1918年まで存続しました。
また、ヘッセン選帝侯国が取りつぶされ、選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムが1875年に没すると、一族の家長の地位とヘッセン=カッセルの金獅子勲章も引き継ぎました。1876年以降の紋章図には金獅子勲章が描かれました。なお、刻まれているモットーは、大公国昇格を機に制定されたルートヴィヒ勲章の銘文で、モットーが刻まれている巻物は、同勲章のリボンと同デザインです。

なお、大公ルートヴィヒ2世の息子アレクサンダー・ルートヴィヒは妹のロシア皇后マリア付の女官ユーリエと貴賤結婚し、彼の子孫はバッテンベルク侯を称しました。同家の長男の家系は英国に帰化してマウントバッテン(バッテンベルクの英訳)と改姓しました。


1808-

【1808年−1902年】

1808年に制定された紋章で、冠が王冠に変更され、またライオンに剣が持たされました。大公国の国章はこの紋章が単独で使われました。


In Blau ein königlich gekrönter und gold bewehrter, neunmal von Silber und Rot geteilter, doppelschweifer Löwe, der mit der rechten Pranke ein Schwert schwingt.

1902-

【1902年以降】

大公国の領土の紋章が加えられました。組まれている紋章は、中央の小盾がヘッセン(大公国)。背後の盾は、ヘッセン(古)、マインツ、ヴォルムス、ツィーゲンハイン、カッツェネルンボーゲン、イーゼンブルク、ハーナウ、ニダ。

マインツおよびヴォルムスは、1815年のウィーン会議の結果獲得した領土です。この会議で大公国は、ヘッセン=ホンブルク方伯の分離独立を承認させられますが、その見返りに上記の領土を獲得しました。
ヘッセン=ホンブルク方伯国は1866年に断絶し、領土の一部は大公国に戻りますが、大半はプロイセンに併合されました。

Zweimal gespalten und zweimal geteilt.
1. Lgft. Hessen, 2. Mainz, 3. Worms, 4. Ziegenhain, 5. Herzschild : Ghzm. Hessen, 6. Kaztenelbogen, 7. Isenburg, 8. Hanau, 9. Nidda.


【ヘッセン=ダルムシュタット方伯領】 Landgrafschaft Hessen-Darmstadt (1567-1806)

Wappen :

Einmal gespalten und viermal geteilt mit Herzschild.
Herzschild : Hessen-Darmstadt
Hauptschild : 1. Hersfeld, 2. Gft. Ziegenhain, 3. Gft. Katzenelbogen, 4. Gdt. Siez, 5. Nidda, 6. Gft. Hanau, 7. Gft. Schaumburg, 8. Gft. Isenburg, 9. H. Lichtenberg, 10. H. Ochsenstein.


1567 Lgft. Hessen-Darmstadt (Teil von Hessen-Kassel)
1806 Grossherzogtum Hessen

1567年にヘッセン=カッセルから分かれた家系です。カッセルと異なりカトリックでした。1806年に大公国に昇格すると、国名をヘッセン大公国と改めました。


ライオンの尾が二本に変更されました。二本尾のライオンは、17世紀を通じてヘッセン=カッセルの紋章にも見られますが、18世紀に入ると、ヘッセン=カッセルは一本尾、ヘッセン=ダルムシュタットは二本尾に固定しました。


In Blau ein gold gekrönter und bewehrter, neunmal von Silber und Rot geteilter Löwe mit Doppelschweif.

【17世紀後半以降】

中央の小盾はヘッセン=ダルムシュタット。背後の盾は、ヘルスフェルト、ツィーゲンハイン、カッツェネルンボーゲン、ディーツ、ニダ&イーゼンブルク、シャウムブルク。

ヘルスフェルト、シャウムブルクはヘッセン=カッセルが獲得した領土です。カッセルとの間で戦われたマールブルク継承戦争(1644−48年)の結果、ダルムシュタットは旧ヘッセン=マールブルクの一部と共にヘルスフェルトの一部を譲り受けました。

1736-1768

【1736年以降】

ハーナウの紋章が加わりました。

1736年にハーナウ伯家が断絶すると、ハーナウ伯ヨハン・ラインハルト3世(在位1712−36)の一人娘シャルロッテの夫だったダルムシュタット方伯ルートヴィヒ8世は、ラインハルト3世からマイン川以南のハーナウ伯領(=ハーナウ=リヒテンベルク)を遺贈されました。

1768-

【1768年以降】

最下段にリヒテンベルク領主領(盾最下段の向かって左側のライオン)とオクセンシュタイン領主領の紋章が加わりました。

ルートヴィヒ9世(在位1768−1790)の即位直後になされた変更です。


【ヘッセン選帝侯国】 Kurfürstentum Hessen (1803-1866)

Wappen (1817) :

Zweimal gespalten und zweimal geteilt mit Herzschild.
1. Ghzm. Fulda, 2. geteilt, oben Fsm. Hanau ( Hanau-Münzenberg), unten Gft. Katzenelbogen, 3. Fsm. Hersfeld, 4. Gft. Ziegenhain, 5. Herzschild : Lgft. Hessen, 6. Nidda, 7. Fsm. Fritzlar, 8. geteilt, oben Gft. Diez, unten Gft. Schaumburg, 9. Gft. Isenburg.


950 Landgrafschaft Hessen entstand
1458 Landgrafschaft Hessen-Kassel
1803 Kurfürstentum Hessen
1866 Das Land fällt an Preussen


Hessische Goldene Löwenorden gestiftet durch Landgraf Friedrich II. am 14.8.1770.

1458年の家領分割で誕生したヘッセン=カッセルは、1803年の帝国再編の結果、選帝侯位を獲得。ナポレオン体制時はヴェストファーレン王国に併合されますが、ナポレオン失脚後に再興し、ドイツ連邦に加わりました。連邦内では屈指の反動体制国家として知られていました。1831年、フランス7月革命を引き金とした争乱によって、選帝侯は政治の舞台からの引退と、身分制議会招集と自由主義的憲法採択を余儀なくされました。しかし、摂政に立ったフリードリヒ・ヴィルヘルム(1847年に選帝侯)によって憲法はすぐさま無効化されたため、議会が反発。1850年には追いつめられた選帝侯が国外待避し、オーストリア、バイエルン両国軍の進駐を仰ぐなど、憲法の復活をめぐっての争乱と混迷が続きました。
対外的には、ヘッセン議会を支持するプロイセンへの反発から親オーストリア路線を採りました。その結果、1866年の普墺戦争でプロイセン軍の急襲を受け降伏。戦後、プロイセンに併合されました。


1803-1817

【1803年】

中央の小盾は、上がレガーリエン(選帝侯位を表します)、下がヘッセン。背後の盾は、ヘルスフェルト、ハーナウ=ミュンツェンベルク、フリッツラー、ツィーゲンハイン、ニダ、シャウムブルク、カッツェネルンボーゲン、ディーツ。フリッツラーはマインツ選帝侯の領土で、1803年に獲得しました。

1803年、聖職選帝侯が世俗化によって消滅したため、空位となった選帝侯位を与えられました。1806年に神聖ローマ帝国が解体してからも引き続き「選帝侯兼ヘッセン方伯」を名乗りました(ただし、称号からは「神聖ローマ帝国の」の語句が削られます)。帝国解体の翌年、ヴェストファーレン王国に併合され一時消滅。ナポレオンは取りつぶしの理由のひとつに、方伯家が長年行ってきた傭兵業の非道ぶりを挙げました。

1817-

【ウィーン会議以後】

フルダ(向かって左上)とイーゼンブルク(向かって右下)の紋章が加わりました。フルダはウィーン会議によって獲得し、イーゼンブルクは1817年に併合しました。

ナポレオンが没落した1813年に再興しました。ウィーン会議では王国への昇格を要求するものの列国の承認が得られず、獲得したフルダを大公の地位に引き上げるにとどまりました。
1815年のドイツ連邦結成に参加。以後、連邦内で屈指の反動国家として存続しました。共和主義的憲法を求める議会との対立から反プロイセンの旗幟を鮮明にし、オーストリアに接近します。1866年の普墺戦争ではプロイセンの電撃侵攻によって選帝侯が拘束され降伏。戦後プロイセンに併合されました。

【ヘッセン=カッセル方伯領】 Landgrafschaft Hessen-Kassel (1458-1802)

Wappen (1752) :

Herzschild : Lgft. Hessen.
Hauptschild : 1. Hersfeld, 2. Ziegenhain, 3. Katzenelbogen, 4. Diez, 5. Nidda, 6. Hanau-Münzenberg, 7. Schaumburg.


950 Landgrafschaft Hessen entstand
1458 Landgrafschaft Hessen-Kassel
1803 Kurfürstentum Hessen
1866 Das Land fällt an Preussen

1458年の家領分割で誕生しました。16世紀に宗教改革を実施し、英主フィリップ度量伯(在位1509−67)のもとでドイツプロテスタントの指導的立場にありました。度量伯の死後に領土の分割相続が行われて、マールブルク、ラインフェルス、ダルムシュタットが分離。三十年戦争ではプロテスタント陣営に属し、いち早くスウェーデンと同盟。戦後は絶対主義的な統治体制を築きました。三十年戦争を契機にスウェーデンとの絆が深まり、フリードリヒ1世はスウェーデン王を兼ねるに至りました。また、同じ時期にイギリスとも接近。英国と結んだ傭兵契約は主要な外貨獲得源となり、アメリカ独立戦争では2万の兵をイギリスに提供しました。
1803年の帝国再編によって選帝侯位を獲得しました。


1648-

【1648年以降】

中央の小盾はヘッセン。背後の盾はヘルスフェルト、ツィーゲンハイン、カッツェネルンボーゲン、ディーツ、ニダ、シャウムブルク。この頃からヘッセンの紋章では、ディーツのライオンが前方向きで描かれるようになりました。
三十年戦争終結後の紋章です。ヘルスフェルト修道院は、1606年以降、ヘッセン=カッセルが修道院長を廃して管理人を配置していましたが、ヴェストファーレンの条約によって世俗化され、ヘッセン=カッセル領に組み込まれました。
またシャウムブルクの紋章は、1640年の伯家断絶後、領土の一部をヘッセン=カッセルが相続したので、組み込まれました。

Einmal gespalten und zweimal geteilt mit Herzschild.
Herzschild : Lgft. Hessen.
Hauptschild : 1. Hersfeld, 2. Ziegenhain, 3. Gft. Katzenelnogen, 4. Diez, 5. Nidda, 6. Gft. Schaumburg.


1752-1802

【1752年以降】

最下段中央に、ハーナウ=ミュンツェンベルク伯領の紋章が加わりました(ハーナウ&リーネック、小盾はミュンツェンベルク)。

1736年にハーナウ伯家が絶えると、ヘッセン=カッセルがハーナウ=ミュンツェンベルク伯領を相続しました。時の方伯フリードリヒ1世(スウェーデン王フレドリク1世)は、ハーナウを弟で方伯領の摂政だったヴィルヘルムに譲ったため、フリードリヒ1世の紋章には登場せず、兄の跡を継いで方伯になったヴィルヘルムから登場します。
ヘッセン=カッセルがハーナウを相続したのは、三十年戦争を戦い抜いた方伯妃アマーリエ・エリーザベト(摂政1637−50)が、実家ハーナウ=ミュンツェンベルクの断絶(1643年)時に一族のリヒテンベルク家と結んだ相続協定に基づくものです。


歴代方伯 Landgrafen von Hessen-Kassel

Friedrich I. (1730-1751)

【フリードリヒ1世】

スウェーデンの紋章の中央にヘッセン=カッセルの紋章が組まれました。

1715年、スウェーデン王カール12世の妹ウルリーカ・エレオノーラと結婚。義兄カール12世が戦死すると、妃を女王に据えることに成功し、翌1720年には自らが国王に即位しました。
ヘッセン=カッセル方伯には1730年に即位。既にスウェーデン王だったため、弟ヴィルヘルムを摂政に任命し、統治を委ねました。
1740年にイギリスとの間に結んだ傭兵契約は、ヘッセン=カッセルの「主要産業」となり、やがて方伯家にばく大な富と、その使い道に対する国際的な非難をもたらします。

Friedrich I. (1676-1751)
Der dritte Sohn des Landgrafen Karl von Hessen-Kassel.
1720-1751 als Fredrik I. Kung av Sverige
1730-1751 Landgraf von Hessen-Kassel


Friedrich II. (1760-1785)

【フリードリヒ2世】

フリードリヒ1世の甥で、1740年のイギリスとの傭兵契約締結時にイギリス王ジョージ2世の王女マリアと結婚。1749年、ひそかにカトリックに改宗していたことが発覚し、翌々年父ヴィルヘルムがヘッセン=カッセル方伯を継ぐと、彼の改宗が問題視され、父ヴィルヘルムや領邦議会、さらにイギリスやプロイセンを巻き込む騒動へと発展しました。内外の圧力に屈する形で、ヘッセン=カッセルのプロテスタント維持とカトリックを公職に就けないという文書に調印し、世継ぎの身分を承認されました(1754年)。しかし、同君関係にあったハーナウ=ミュンツェンベルク伯領は彼の継承を承認せず、妃マリアと息子ヴィルヘルムを相続者と定めました。
1775年にアメリカ独立戦争が勃発すると、カッセルとハーナウから合わせて約2万の傭兵をイギリスに提供しました。これは独立戦争に従軍したドイツ人傭兵のおよそ三分の二にあたりました。

Friedrich II. (1760-1785)
Der zweite Sohn des Landgrafen Wilhelm VIII. von Hessen-Kassel.
1760-1785 Landgraf von Hessen-Kassel
1750 Ritter des Hosenbandordens (Nr. 554)


【ヘッセン方伯領(ヘッセン=ホンブルク)】 Landgrafschaft Hessen (-Homburg : 1815-1866)

Wappen (1815) :

Einmal gespalten und dreimal geteilt mit Herzschild.
Herzschild : Lgft. Hessen.
Hauptschild : 1. Hersfeld, 2. Ziegenhain, 3. Gft. Katzenelbogen, 4. Gft. Diez, 4. Nidda, 5. Gft. Hanau, 6. Gft. Schaumburg, 6. Gft. Isenburg.


1596 Landgrafschaft Hessen-Homburg entstand (Teil von Hessen-Darmstadt)
1806-1814 unter Hessen-Darmstädter Hoheit
1815 Landgrafschaft wieder errichtet
1866 erloschen

1596年にヘッセン=ダルムシュタットから分かれた領邦で、バート・ホンブルクを首都としました。1806年の神聖ローマ帝国解体によって一時主権を失い、本家筋のヘッセン大公国(ダルムシュタット)の宗主下に入りました。しかし1815年に主権を回復し、マイセンハイム領主領とクロイツナハ、ヒンツー両クライス領土とする独立国となりました(面積275平方キロの小国でした)。1817年にはドイツ連邦に加入します。
独立後は国名をヘッセン方伯領と変更しました。しかし、ヘッセン大公国、ヘッセン選帝侯国と紛らわしいからか、非公式には旧名のヘッセン=ホンブルクが通用しました。
1866年に方伯家が断絶すると、国土はヘッセン大公国に戻りますが、折からの普墺戦争によってプロイセンに占領され、大半がそのままプロイセン領となりました。

19世紀の方伯領は「 Landgrafthum Hessen 」とも称したので、「方伯国」と訳すべきかもしれません。


【19世紀】

18世紀前半のヘッセン=ダルムシュタットと同じ紋章構成です。
組まれている紋章は、中央の小盾がヘッセン(ダルムシュタット)。背後の盾は、ヘルスフェルト、ツィーゲンハイン、カッツェネルボーゲン&ニダ、ディーツ&ハーナウ、シャウムブルク、イーゼンブルク。



【フッテン男爵領】 Freiherrschaft Hutten

フッテン家はフルダ近郊に領地を有した騎士の家系で、いくつかの系統がありました。紋章は同一ですが、クレスト(兜飾り)の違いで各家を表現していました。

フッテン各家のうち、シュテッケルベルク家からは16世紀のドイツ騎士戦争の指導者ウルリヒ、シュトルツェンベルク家からは枢機卿兼シュパイアー司教フランツ・クリストフなどが出ています。
フッテン=シュトルツェンベルク家は後に男爵に昇爵しました。


In Rot zwei schraegbalken.


【イーゼンブルク侯国】 Fürstentum Isenburg (-Birstein)

Wappen :

Mittelschild : H. Hardeck.
Hauptschild : Isenburg.


1442 Grafschaft Isenburg
1511 Grafschaft Isenburg-Birstein (Teil von Isenburg)
1744 Fürstentum
1813-1816 unter Österreichischer Hoheit
1816 zu Grossherzogtum Hessen

フランクフルトとヘッセン方伯領の間に領土が広がっていました。10世紀後半に記録に現れるニーダーラーンガウ領主が起源で、1018年に分割相続が行われた際に、イーゼンブルクを名乗りました。
その後、多くの家系へと分裂。諸家系のうち、イーゼンブルク=ビュディンゲン家が1442年に伯となり、そこから分かれたイーゼンブルク=ビルシュタイン家が1744年に帝国諸侯の身分を獲得しました。
神聖ローマ帝国解体時には4家があり、うちイーゼンブルク=ビルシュタインが独立を保ってライン同盟に参加しました。ナポレオン体制下では親仏路線を貫いたため、ナポレオンが失脚するとオーストリアの宗主権下に置かれ、ウィーン会議の後にヘッセン大公国(ダルムシュタット)に併合されました。
一方、帝国解体時に主権を失った諸家では、イーゼンブルク=ビュディンゲンが1840年に侯となって家名の綴りをYsenburgに改め、またイーゼンブルク=ヴェヒタースバハも1868年に侯に昇爵しました。


Isenburg

【イーゼンブルク】

銀地に二本の黒色の横帯。

フランクフルトとヘッセン方伯領の間にあった伯領で、10世紀の後半に登場しました。1137年に3家に分かれ、そこから更に多くの家系が分かれました。


In Silber zwei schwarze Balken.

Isenburg-Birstein

中央にハルデック領主領の紋章が組まれました。


Herzschild : In Blau ein goldener, rotbewehrter und gezungter Loewe mit Doppelschweif (Herrschaft Hardeck).

歴代侯 Fürsten von Isenburg

Carl Friedrich Ludwig Moritz (1806-1813/5)

【イーゼンブルク侯】カール(在位1806−13/5)

盾の上部にマルタ騎士団の紋章が組まれ、アクセサリーとして騎士団の十字と騎士団章、フランスのレジオン・ド・ヌール勲章とロシアの聖アンナ勲章が描かれました。

ナポレオン主導のライン同盟に参加し、神聖ローマ帝国解体後も独立を保ちました。ナポレオン体制下ではフランスの忠実な同盟者として活動したため、体制が崩壊すると亡命。ウィーン会議には妃が独立維持をかけて参加しましたが、その願いは果たせませんでした。

Carl Friedrich Ludwig Moritz (1766-1820)
Sohn des Fürsten Wolfgang Ernst II. von Isenburg-Birstein.
1806-1813/5 Fürst von Isenburg

Schildhaupt : Johanniterorden.
Orden : russischer Sankt-Annen-Orden, französische Ehrenregion und Malteserorden.

ニーダーイーゼンブルク伯領 Herrschaft und Grafschaft Nieder-Isenburg (1218-1502)

【ニーダーイーゼンブルク】

1137年に分かれたイーゼンブルク=イーゼンブルク(ブラウンスベルク)系の諸家が用いました。

1218年頃にイーゼンブルク=ヴィート(1454年絶)とニーダーイーゼンブルクに分かれ、ニーダーイーゼンブルクは更に1502年にイーゼンブルク=グレンツァウとイーゼンブルク=ノイマーゲン(1554年絶)に分かれました。
この紋章はヴィート侯などニーダーイーゼンブルクに縁のある諸家、諸都市の紋章に伝わっています。

In Silber zwei rote Balken.


1218 Herrschaft Nieder-Isenburg (Teil von Isenburg-Braunsberg)
1502 Erbteilungen -> Isenburg-Grenzau und Isenburg-Neumagen

イーゼンブルク=グレンツァウ伯領 Grafschaft Isenburg-Grenzau (1502-1664)

Mitte des 16. Jh.

【16世紀以降】

ニーダーイーゼンブルクとイーゼンブルクの組み合わせ。ハインリヒ老伯(在位1530−52)が最初に用いました。

1502年に行われたニーダーイーゼンブルクの分裂で誕生しました。
アルノルト(在位1565−77)に子供がなかったため、実弟のケルン選帝侯ザレンティンが還俗して家系を保ちました。しかし、彼の息子エルンスト(在位1619−64)の代で断絶。領土はエルンストの娘の嫁ぎ先、アレンベルク家が相続しました。

Geviert, 1 u. 4. in Silder zwei rote Balken (Nieder-Isenburg), 2 u. 3. in Silber zwei schwarze Balken (Isenburg).

1502 Grafschaft Isenburg-Grenzau (Teil von Nieder-Isenburg)
1664 erloschen, Territorium fällt an Arenberg


【ライニンゲン侯国】 Fürstentum Leiningen (1779-1810)

Wappen (1803) :

Einmal gespalten und zweimal geteilt mit Herzschild.
Herzschild : Leiningen.
Hauptschild : 1. Pfgft. Mosbach, 2. Dagsburg, 3. Gft. Rieneck, 4. Frankenberg, 5. Gft. Dürn, 6. Abtei Amorbach.


1803年の新侯国建設時に制定された紋章です。
中央の小盾がライニンゲン。背後の盾は、モスバハ宮中伯領、ダクスブルク、リーネック伯領、フランケンベルク、デュールン伯領、アモルバハ領主領(旧修道院領)。

下アルザスに家領が展開していたライニンゲン=ダクスブルク=ハルテンブルク伯家の紋章です。伯家は1779年に帝国諸侯の地位を得ました。
1801年に領土をフランスに奪われますが、1803年の領土再編でネッカー川流域とバイエルンに領土を得て、新侯国を建設しました。しかし、1806年の帝国解体時に主権を喪失、1810年に領土はバーデンとバイエルンで分割されました。


Grafschaft Leiningen

【ライニンゲン伯領】

青地にくちばし、舌、足の赤い三羽の銀鷲。


In Blau drei (2:1) rot bewehrte und gezungte silberne Adler.

ab 1803

【1803年以降】

1803年の新侯国建設時に制定された紋章です。
中央の小盾がライニンゲン。背後の盾は、モスバハ宮中伯領、ダクスブルク、リーネック伯領、フランケンベルク(旧アモルバハ修道院領)、デュールン伯領、アモルバハ領主領(旧修道院領)。

下アルザスに家領が展開していたライニンゲン=ダクスブルク=ハルテンブルク伯家は1779年に帝国諸侯の地位を得ました。
1801年に領土をフランスに奪われますが、1803年の領土再編でネッカー川流域とバイエルンに領土を得て、新侯国を建設、アモルバハを首都としました。しかし、1806年に主権を喪失。1810年に領土はバーデンとバイエルンで分割されました。

【ライニンゲン=ダクスブルク伯領】 Grafschaft Leiningen-Dagsburg (1658-1709)

背後の盾はライニンゲンとダクスブルク。中央の小盾はヨハネ(マルタ)騎士団。ダクスブルクはストラスブールの西方にあった領土で、フランス語名Dabo。17世紀以降はフランスの宗主権下に置かれていました。

ライニンゲン=ダクスブルクは1310年の分裂で誕生した、ライニンゲン伯の弟脈の家系です。ライニンゲンの紋章のレイブルは、そのために加えられたものと思われます。1343年に再分裂でいったん消滅し、1658年に新家系が生まれました。しかし、新家系も短命で1709年に断絶。領土はライニンゲン=グンタースブルン家に渡り、次いでライニンゲン=ハルテンブルク家の所有となりました。

Geviert mit Mittelschild.
Mittelschild : Johanniterorden.
Hauptschild : 1 u. 4. in Blau drei (2:1) rot bewehrte und gezungte silberne Adler, darueber ein roter Turnierkragen (Gft. Leiningen), 2 u. 3. Dagsburg.



【マインツ大司教領兼選帝侯国】 

In Rot ein silbernes Wagenrad.


80 Bistum gegründet
747 Erzbistum
1802 Säkularisiert

赤地に銀の車輪。大司教ヴィルギス(在位975−1011年)の個人紋が起源ともいわれ、13世紀には車輪の紋章が用いられていました。14世紀半ばの紋章図鑑には、銀地に赤十字の紋章の上側の二区画に赤い車輪が描かれたものが載っています。赤地に銀色の車輪の紋章に定まったのは、ハインリヒ(在位1328−46/53年)とゲルラハ(在位1346/53−71年)の時代で、続くヨハン1世(在位1371−73年)から実家の紋章と組み合わせられるようになりました。

マインツは紀元前1世紀にローマの軍人ドルスス(皇帝クラウディウスの父)によって建設された要塞都市が起源で、起源80年に司教座が設置されたと伝わります。西ローマ帝国滅亡後は衰微するものの、8世紀にイングランドの伝道師ウィンフリード(ボニファチウス)によって大司教座が設置され、以後、ドイツ・カトリック教会の中心地となりました。
歴代の大司教は帝国書記局長として神聖ローマ帝国の政治に重きをなし、1356年の金印勅書によって、筆頭選帝侯(=臣下の最高位)の地位を認められ、皇帝代理として国政を運営する権限も与えられました。15世紀末の選帝侯ベルトルトは、帝国改造運動の指導者の役を演じました。
1802年に他の聖職諸侯領と共に世俗化されますが、マインツ領アシャッフェンブルクが選帝侯カール・テーオドールに残され、唯一聖職国家として存続しました。


歴代大司教・選帝侯 Erzbischöfe-Kurfürsten von Mainz

Johann I. von Luxemburg-Ligny (1371-1373)

【マインツ大司教兼選帝侯】ヨハン1世(在位1371−73)

選帝侯の実家ルクセンブルクの紋章との組み合わせ。はじめて大司教の紋章と実家の紋章が組み合わでられました。

シュトラースブルク司教からマインツ大司教に転任しました(シュトラースブルク司教ヨハン3世:在位1366−71)。
実家はリニーを領したルクセンブルク家の分家、リュクサンブール=リニー家で、ヨハン1世がマインツ選帝侯に即位した年にリュクサンブール=サン・ポル家と家名が変わりました。百年戦争時、ジャンヌ・ダルクをイングランドに引き渡したジャン・ド・リュクサンブールはヨハン1世の兄ギーの孫です。

Johann I. Graf von Luxemburg-Ligny (?-1373)
Der fünfte Sohn des Grafen Jean I. von Luxemburg-Ligny.
1366-1371 als Johann III. Fürstbischof von Strassburg
1371-1373 als Johann I. Kurfürst-Erzbischof von Mainz

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Luxemburg-Ligny.

※リュクサンブール=リニー家は早くに分かれた家系のため、盾地は銀青に分割される前の古い紋章を使っていることを確認したので訂正しました。


Johann II. von Nassau (1397-1419)

【マインツ大司教兼選帝侯】ヨハン2世(在位1397−1419)

向かって右側は選帝侯の実家ナッサウ伯家の紋章。

先々代の選帝侯アドルフ1世(在位1379−90)の実弟で、1396年に大司教となるも対立大司教が登場しました。翌年に正式に就任。1400年に国王ヴェンツェル(皇帝位は非承認)の廃位とルプレヒトの国王選出を強行しました。また、1410年の二重選挙ではジギスムント帝の対抗馬ヨプストを支持して、ヨプストの皇帝選出を成功させます。

Johann II. Graf von Nassau (1360-1419)
Der sechste Sohn des Grafen Adolf I. von Nassau-Wiesbaden-Idstein.
1397-1419 Kurfürst-Erzbischof von Mainz

Dietrich I. von Erbach (1434-1459)

【マインツ大司教兼選帝侯】ディートリヒ1世(在位1434−59)

選帝侯の実家エルパハ家の紋章との組み合わせ。


Dietrich I. von Erbach (1434-1459)
Der erste Sohn des Herren Eberhard X. von Erbach.
1434-1459 Kurfürst-Erzbischof von Mainz

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Erbach.

Dietrich II. von Isenburg-Büdingen (1460-1461,1476-1482)

【マインツ大司教兼選帝侯】ディートリヒ2世(在位1460−61、76−82)

選帝侯の実家イーゼンブルク=ビュディンゲン伯の紋章との組み合わせ。

1460年に選帝侯に即位。しかし、翌年にアドルフ・フォン・ナッサウによってその地位を奪われました。アドルフが没すると選帝侯位を回復しました。

Dietrich (Diether) II. Graf von Isenburg-Büdingen (1412?-1482)
Der zweite Sihn des Grafen Diether I. von Isenburg-Büdingen
1460-1461 Kurfürst-Erzbischof von Mainz (erste Amtszeit)
1476-1482 Kurfürst-Erzbischof von Mainz (zweite Amtszeit)

Feld 1 u. 4 : Stammwappen Isenburg.

Berthold von Henneberg-Römhild (1484-1504)

【マインツ大司教兼選帝侯】ベルトルト(在位1484−1504)

選帝侯の実家ヘンネベルクの紋章(レムヒルト&ヘンネベルク)との組み合わせ。

15世紀末の帝国改革運動の推進者として著名で、選帝侯に即位すると聖職者の綱紀粛正に務めます。またマクシミリアン1世のローマ王選出を実現させ、1495年のヴォルムス帝国議会でマクシミリアン1世に帝国改革を着手させることに成功しました。
ヴォルムス帝国議会では、永久平和令、帝国最高法院設置、帝国議会の整備、帝国一般直接税の導入など、神聖ローマ帝国を近代国家に移行させる重要な決定がなされました。

Berthold Graf von Henneberg-Römhild (1442-1504)
Der achte Sohn des Grafen Georg I. von Henneberg-Römhild.
1484-1504 Kurfürst-Erzbischof von Mainz

Feld 2 u. 3 : Gft. Henneberg-Römhild.


Uriel von Gemmingen (1508-1514)

【マインツ大司教兼選帝侯】ウリエル(在位1508−14)

選帝侯の実家ゲミンゲン家の紋章との組み合わせ。ゲミンゲン家はフランケンの領主で、ウリエルの父はマインツ選帝侯位をめぐるディートリヒ2世とアドルフ2世の争いにディートリヒ2世を支持するプファルツ選帝侯の側に立って参戦、敵対するバーデン辺境伯の軍との決戦(ゼッケンハイムの戦い:1462年)で捕虜となりました。

Uriel von Gemmingen (1468-1514)
Sohn des Hans von Gemmingen.
1508-1514 Kurfürst-Erzbischof von Mainz

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Gemmingen.

Albert III. von Brandenburg (1514-1545)

【マインツ大司教兼選帝侯】アルブレヒト(在位1514−45)

組まれているのは、マインツ大司教、マクデブルク大司教、ハルバーシュタット司教、ブランデンブルク辺境伯。

ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ツィツェロの息子で、マインツ大司教となる前年に、マクデブルク大司教およびハルバーシュタット摂政に就任しました(マクデブルク大司教としてアルブレヒト4世、ハルバーシュタット摂政としてアルブレヒト5世)。1518年には枢機卿にも就任しました。

Albrecht III. Markgraf von Brandenburg (1490-1545)
Der zweite Sohn des Kurfürsten Johann Cicero von Brandenburg.
1499-1513 als Albrecht II. Co-Markgraf von Brandenburg (mit seinem älteren Bruder Joachim I.)
1513-1545 Fürsterzbischof von Magdeburg und Administrator des Bistums Halberstadt
1514-1545 als Albrecht III. Kurfürst-Erzbischof von Mainz
1518 Kardinal


Albert III. von Brandenburg
(Variante)

【マインツ大司教兼選帝侯】アルブレヒト(2)

枢機卿になってからのヴァリエーションです。中央に兼任したマインツ、マクデブルク、ハルバーシュタットの三つの小盾を組み、背後に実家ブランデンブルク辺境伯の紋章を組んでいます。


Zweimal gespalten und zweimal geteilt mit drei Herzschildchen.
1. Bgft. Nuernberg, 2. Mgft. Brandenburg, 3. Hzm. Stettin, 4. Hzm. Pommern, 5. Herzschildchen (Erzbm. Mainz / Erzbm. Magdeburg / Bm. Halberstadt), 6. Hzm. Wenden, 7. Hzm. Kassuben, 8. Hohenzollern, 9. Fsm. Ruegen.

Wolfgang von Dalberg (1582-1601)

【マインツ大司教兼選帝侯】ヴォルフガング(在位1582−1601)

選帝侯の実家ダールベルク男爵家の紋章との組み合わせ。

Wolfgang Kämmerer von Worms gen. von Dalberg (1537-1601)
Der dritte Sohn des Friedrich Kämmerer von Worms gen. von Dalberg.
1582-1601 Kurfürst-Erzbischof von Mainz

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Kämmerer von Worms.

Johan Schweikhard von Kronberg (1604-1626)

【マインツ大司教兼選帝侯】ヨハン・シュヴァイクハルト(在位1604−26)

選帝侯の実家、クロンベルク家の紋章との組み合わせ。金色の冠はクロンベルク(=冠の丘)の家名に因んだ図案です。


Johan Schweikhard von Kronberg (1553-1626)
Der dritte Sohn des Hartmut von Kronberg.
1604-1626 Kurfürst-Erzbischof von Mainz

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Kronberg.

Georg Friedrich Greiffenclau von Volrads (1626-1629)

【マインツ大司教兼選帝侯】ゲオルク・フリードリヒ(在位1626−29)

中央に選帝侯の実家グライフェンクラウ家の紋章を置き、背後の盾には、彼が兼務したマインツとヴォルムスの紋章が組まれました。

Georg Friedrich Greiffenklau von Volrads (1573-1629)
Der erste Sohn des Dietrich Greiffenclau von Volrads.
1616-1629 Fürsterzbischof von Worms
1626-1629 Kurfürst-Erzbischof von Mainz

Herzschild : Familienwappen Greiffenklau (geviert, 1 u. 4. Greiffenclau, 2 u. 3. Ippelbrunn).

Anselm Casimir Wambolt von Umstadt (1629-1647)

【マインツ大司教兼選帝侯】アンセルム・カージミール(在位1629−47)

実家ヴァンボルト家の紋章との組み合わせ。ヴァンボルト家はヘッセン南部オーデンヴァルト地方の貴族で、彼の父は帝室裁判所と帝国法院(どちらも神聖ローマ帝国の最高裁判所)の陪席判事を歴任しました。実家はカルヴァン派でしたが、アンセルム・カージミールが生まれて間もなくカトリックに改宗しました。

Anselm Casimir Wambolt von Umstadt (1579-1647)
Sohn des Eberhard Wambolt von Umstadt.
1629-1647 Kurfürst-Erzbischof von Mainz

Johann Philipp von Schönborn (1647-1673)
bis 1663

【マインツ大司教兼選帝侯】ヨハン・フィリップ(在位1647−73)

中央の小盾は選帝侯の実家シェーンボルン。背後の盾は、マインツとヴュルツブルク。

ヴュルツブルク司教(在位1642−73)を兼ねた選帝侯で、彼の大司教就任がシェーンボルン家台頭の契機となったと言われます。シェーンボルン家は1663年に帝国男爵に叙され、1671年にはフランケン・クライスのクライス等族の身分を得、その後も急速に勢力を拡大していきます。
ヨハン・フィリップは学芸に精通した人物として知られています。

Johann Philipp Reichsfreiherr von Schönborn (1605-1673)
Der erste Sihn des Georg von Schönborn.
1642-1673 Fürsterzbischof von Würzburg
1647-1673 Kurfürst-Erzbischof von Mainz
1663-1673 Fürsterzbischof von Worms


Johann Philipp von Schönborn
seit 1663

【マインツ大司教兼選帝侯】ヨハン・フィリップ(1663年以降)

1663年にヴォルムス司教にも就任したため、同司教領の紋章が組み込まれました。

Zweimal gespalten und einmal geteilt mit Herzschild.
Herzschild : Familienwappen Schönborn.
Hauptschild : 1. Hzm. Franken, 2 u. 5. Erzbm. Mainz, 3 u. 4. Bm. Worms, 6. Bm. Würzburg.

Lothar Friedrich von Metternich-Burscheid (1673-1675)

【マインツ大司教兼選帝侯】ロタール・フリードリヒ(在位1673−75)

中央の小盾は選帝侯の実家メッテルニヒ=ブルシャイト。背後の盾はヴォルムス、マインツ、シュパイアー、ヴァイセンブルク修道院。

シュパイアー司教(在位1652−75)、ヴォルムス司教(在位1673−75)などを兼ねました。このうち、ヴォルムス司教は前選帝侯ヨハン・フィリップの後継としてマインツ選帝侯と同時に就任しました。

Lothar Friedrich Reichsfreiherr von Metternich-Burscheid (1617-1675)
Der zweite Sohn des Freiherrn Johann Gerhard von Metternich.
1652-1675 Fürsterzbischof von Speyer und Fürstpropst von Weissenburg
1671-1673 Koadjutor des Erzbischofs Mainz
1673-1675 Kurfürst-Erzbischof von Mainz
1674-1675 Fürsterzbischof von Worms


Damian Hartard von der Leyen-Hohengeroldseck (1676-1678)

【マインツ大司教兼選帝侯】ダミアン・ハルトラルト(在位1676−78)

選帝侯の実家デア・レイエンの紋章を小盾におさめ、背後の盾には兼務したマインツとヴォルムス司教の紋章を組みました。

トリーア選帝侯カール・カスパル(在位1652−76)の実弟です。

Damian Hartard Reichsfreiherr von der Leyen-Hohengeroldseck (1624-1678)
Der vierte Sohn des Damian von der Leyen. Damian Hartard war kleiner Bruder des Erzbischofs Karl Kaspar von Trier.
1676-1678 Kurfürst-Erzbischof von Mainz und Fürsterzbischof von Worms

Herzschild : Familienwappen von der Leyen.

Karl Heinrich von Metternich-Winneburg (1679)

【マインツ大司教兼選帝侯】カール・ハインリヒ(在位1679)

兼務したマインツ大司教とヴォルムス司教の紋章を組み合わせ、その中央に実家メッテルニヒ=ヴィンネブルクの紋章を置きました。

前任者の後継としてマインツとヴォルムスの司教に就任しました。教育制度改革に着手するも、直後に没しました。

Karl Heinrich Reichsfreiherr von Metternich-Winneburg (1622-1679)

1.9.1679-28.9.1679 Kurfürst-Erzbischof von Mainz und Fürsterzbischof von Worms

Anselm Franz von Ingelheim (1679-1695)

【マインツ大司教兼選帝侯】アンセルム・フランツ(在位1679−95)

選帝侯の実家、インゲルハイム男爵家の紋章との組み合わせ。

在位中の1688年、マインツはフランス王ルイ14世の軍隊に占領されました。翌年の10月にマインツは奪還されますが、この戦闘を緒戦として、プファルツ戦争(オルレアン戦争、9年戦争とも)が開始されました。

Anselm Franz Reichsfreiherr von Ingelheim (1634-1695)
Der erste Sohn des Georg Hans von Ingelheim.
1679-1695 Kurfürst-Erzbischof von Mainz

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Ingelheim.

Lothar Franz von Schönborn (1695-1729)

【マインツ大司教兼選帝侯】ロタール・フランツ(在位1695−1729)

中央の小盾は選帝侯の実家シェーンボルン。背後の盾は、バンベルク司教、マインツ、ヴァインスベルク、ヘッペンハイム。ヴァインスベルクとヘッペンハイムはシェーンボルン家の紋章です。実家シェーンボルン家は1701年に伯の称号と帝国等族の身分(神聖ローマ帝国議会での議決権を持つ身分)を得ました。

バンベルク司教を兼ねました(バンベルク司教1693−1729)。在任中、多くの宮殿、教会、学校などの建設に携わったため、「建設者」のあだ名で呼ばれました。

Lothar Franz Reichsgraf von Schönborn (1655-1729)
Der letzte Sohn des Freiherrn Philipp Erwein von Schönborn.
1693-1729 Fürsterzbischof von Bamberg
1694-1695 Koadjutor des Erzbischofs von Mainz
1695-1729 Kurfürst-Erzbischof von Mainz


Franz Ludwig von Pfalz-Neuburg (1729-1732)

【マインツ大司教兼選帝侯】フランツ・ルートヴィヒ(在位1729−32)

中央の小盾はマインツ。中間の盾との間の十字と黒鷲はドイツ騎士団長。中間の盾は、ヴォルムス司教、エルヴァンゲン修道院長、ブレスラウ司教(シュレージェンの鷲と司教の百合花紋)。背後の盾は、選帝侯の実家プファルツ=ノイブルクの紋章で、プファルツ、バイエルン、ユーリヒ、クレーヴェ、ベルク、メールズ、フェルデンツ、マルク、ラーヴェンズベルク。

1683年にブレスラウ司教、1694年にヴォルムス司教とドイツ騎士団長に就任しました。1712年からはマインツ選帝侯の代理を務め、前任者ロタール・フランツの死去によって、選帝侯に就任しました。
なお、1716年から1729年まではトリーア選帝侯でした。

Franz Ludwig Pfalzgraf am Rhein zu Neuburg (1664-1732)
Der sechste Sohn des Kurfürsten Philipp Wilhelm von der Pfalz.
1683-1732 Fürstbischof von Breslau
1694-1732 Fürstbischof von Worms, Hoch- und Deutschmeister und Fürstabt von Ellwangen
1716-1729 Kurfürst-Erzbischof von Trier und Fürstabt von Prüm
1729-1732 Kurfürst-Erzbischof von Mainz (1712-1729 Koadjutor)


Philipp Karl von Eltz (1732-1743)

【マインツ大司教兼選帝侯】フィリップ・カール(在位1732−43)

選帝侯の実家エルツ男爵家の紋章との組み合わせ。

在位中にオーストリア継承戦争が勃発。神聖ローマ皇帝位が約300年ぶりにハプスブルク家以外に移る選挙を執り行います。

Philipp Karl Reichsgraf von Eltz (1665-1743)
Der erste Sohn des Freiherrn Johann Jacob von und zu Eltz.
1732-1743 Kurfürst-Erzbischof von Mainz

Herzschild : Familienwappen Eltz.

Johann Friedrich Karl von Ostein (1743-1763)

【マインツ大司教兼選帝侯】ヨハン・フリードリヒ・カール(在位1743−63)

選帝侯の実家オーシュタイン家の紋章との組み合わせ。オーシュタイン家は1712年に伯位を得ました。

母アンナ・カロリーナはシェーンボルン家の出身で、彼女の弟にはトリーア選帝侯フランツ・ゲオルク、バンベルク兼ヴュルツブルク司教フリードリヒ・カールなどがいます。また、マインツ選帝侯ロタール・フランツは大叔父にあたります。。

Johann Friedrich Karl Reichsgraf von Ostein (1689-1763)
Der Aelteste Sohn des spaeteren Grafen Johann Franz Sebastian von Ostein.
1743-1763 Kurfürst-Erzbischof von Mainz
1749-1756 Koadjutor des Bischofs von Worms
1756-1763 Fürstbischof von Worms


Johann Friedrich Karl von Ostein
ab 1756

【マインツ大司教兼選帝侯】ヨハン・フリードリヒ・カール(1756年以降)

1756年に叔父フランツ・ゲオルクの後任としてヴォルムス司教に就任すると、ヴォルムスの紋章が組み込まれ、実家の紋章は小盾に収められました。オーシュタインの紋章の犬は、通常とは逆向きに描かれました。

Friedrich Karl Josef von Erthal (1774-1802)

【マインツ大司教兼選帝侯】フリードリヒ・カール・ヨーゼフ(在位1774−1802)

黒地に銀色の鍵の紋章はヴォルムス司教領の紋章で、中央の小盾の青の無地と赤と銀に分割された盾を組み合わせた紋章は選帝侯の実家エルタール男爵家の紋章です。

中央に置かれた金地に黒鷲の紋章と、金の錫を置いた銀色の縁取りのある黒十字はドイツ騎士団長の紋章ですが、由来がちょっとわかりませんでした。

Friedrich Karl Josef Reichsfreiherr von Erthal (1719-1802)
Der zweite Sohn des Philipp Christoph von Erthal.
1774-1802 Kurfürst-Erzbischof von Mainz und Fürstbischof von Worms


Friedrich Karl Josef von Erthal
(Variante)

【マインツ大司教兼選帝侯】フリードリヒ・カール・ヨーゼフ(2)。

上の紋章のヴァリエーションです。選帝侯の実家エルタール家の紋章を強調しています。

Karl Theodor von Dalberg (1802)

【マインツ大司教兼選帝侯】カール・テーオドール(在位1802)

中央の小盾は選帝侯の実家ダールベルク男爵家。背後の盾は、兼任したマインツ、ヴォルムス、コンスタンツ(上段の赤十字=コンスタンツ司教、中段の赤十字=ライヒェナウ修道院、下段=エーニンゲン修道院)。

最後のマインツ選帝侯です。就任した年に行われた帝国再編によって聖職諸侯領が世俗化される中、ただ一人の聖職君主として存続、ナポレオン体制下ではライン同盟首席君主、次いでフランクフルト大公となりました。

Karl Theodor Reichsfreiherr Kämmerer von Worms gen. von Dalberg (1744-1817)
Der erste Sohn des Freiherrn Franz Heinrich Kämmerer von Worms gen. von Dalberg.
1788-1802 Koadjutor des Erzbischofs von Mainz und Bischofs von Worms
1788-1800 Koadjutor des Bischofs von Konstanz
1800-1817 Fürstbischof von Konstanz
1802 Kurfürst-Erzbischof von Mainz und Elzkanzler des H. R. R.
1802-1817 Fürstbischof von Worms
1803-1805 Administrator von Regensburg
1805-1817 Erzbischof von Regensburg

Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Familienwappen Dalberg.
Hauptschild : 1 u. 4. Erzbm. Mainz, 2. Bm. Worms, 3. Bm. Konstanz, Abtei Reichenau und Propstei Öhningen.


【首座司教国】 Fürstprimatische Staaten (1806-1810)


Wappen des Fuerstentums Aschaffenburg.

マインツ大司教領の後身です。1802年にマインツ選帝侯に即位したカール・テーオドールは自由主義的思想の持ち主だったため、ナポレオンの恩顧を受け、帝国再編後も唯一の聖職諸侯国として存続が認められました。次いでライン同盟が結成されると、その筆頭君主の地位を与えられました。彼の領国は1810年にフランクフルト大公国へ移行します。


Karl Theodor von Dalberg

ドイツ騎士団長の紋章の中央に最後のマインツ選帝侯カール・テーオドールの実家ダールベルク男爵家の紋章が置かれています。
背後の盾は、マインツ(=新首都となったアシャッフェンブルク)、レーゲンスブルク(帝国議会所在地)、ヴェッツェラー伯領(旧帝国都市、帝国最高法院所在地)。ヴェッツラーの紋章の鷲は本来は黒色ですが、変更されたようです。


Durch ein schwarzes mit goldenen Lilienstäben belegtes Kreuz in vier geteilt. Auf dem Kreuz ein Mittelschild, belegt mit einem Herzschild.
Herzschild : geviert 1 u. 4. Kämmerer von Worms, 2 u. 3. Dalberg.
Mittelschild : In gold ein schwarzer Adler (Deutscher Orden).
Hauptschild : 1 u. 4. Fürstentum Aschaffenburg (Mainz) , 2. Bistum Regensburg, 3. Grafschaft Wetzlar - in Rot ein schwarzer, hier siberner, gold bewehrter und gekrönter Adler mit einem schwarzen (hier silbernen) Kreuz, das zwischen Hals und rechtem Flügel schwebt.



帝国西部(N-Z)

帝国中部(N-Z)

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