2010年04月28日

国内外からの反日テロに抗戦せよ! その3

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前エントリーより続く


街宣禁止仮処分を強行突破!!

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 加藤邸付近と碑文谷警察署前での行動を終えた後、一行は目黒区内にある映画ザ・コーヴの配給会社・株式会社アンプラグド前で抗議行動を展開すべく向かった。
 和歌山県太地町でイルカを大量虐殺し、日本の沿海が水銀に汚染されているなどと捏造した反日映画の上映を目論む同社サイドはそのような情報テロへの片棒担ぎを反省するどころか、抗議行動を繰り返す『主権回復を目指す会』(西村修平代表)に対する会社周辺での街宣禁止仮処分を裁判所に申し立ててきたのだ。

 代表取締役・加藤武史とアンプラグドは自ら日本の食文化を破壊し、日本人を貶める情報テロに加担しておきながら、それを反省するどころか抗議する者の口を封じようとは何たる悪辣さと確信犯的行為であることか。
 街宣開始の前にも警察からその旨の指摘があったが、西村代表は「警察は民事不介入である」として断固として抗議行動を強行開催したものだ。仮禁止処分ごときにここで安易に退くようなことがあっては日本人の名誉は到底取り戻せない−。

外国メディアも取材に訪れていた
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言論弾圧に屈せず、アンプラグドの精神テロを糾弾するぞー!
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演説する筆者
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ドキュメンタリー映画とプロパガンダ映画の違いについて述べた多摩川
ザ・コーヴのような日本人への贖罪意識の洗脳を狙った映画はドキュメント映画と言える代物ではない!
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ザ・コーヴは単なる映画ではなく、悪しき情報として刷り込まれる「猛毒」だ!
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アンプラグドは街宣禁止の仮処分を申し立てる前に、インターネットに流出している映画の内容を削除するように努めてみろよ! 商売あがったりじゃねぇか!

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抗議文朗読!!
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外国メディアも不審に思う…

日本国の名誉を守る行動への「警察」による監視強化

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 外国メディアによる西村代表へのインタビューでは「何故こんなに警察官の数が多いのでしょうか?」という項目があった。
 常識的に考えて日本をバッシングする欧米製作の映画上映に抗議することは、日本人の尊厳を守るための行動であり、これに日本の国家権力がさも威圧・弾圧を加えるかのように監視体制を強化している光景は異様に映ったのだろう。
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 西村代表の回答は実に明快なものだった。
「悲しきことに、これが今の日本が置かれた現状です。
 イルカ殺戮などと日本人を貶める反日映画の上映に奔走する情報テロリストを野放しにする一方、それに抗議する国民が不当弾圧を受けるという本末転倒さ。
 情報・メディアを駆使した外敵の侵略から国民精神を守ることが出来ない…ここに日本という国の弱さが露呈されているんです。

 国家権力が持てるチカラを良識ある国民に向けている…警察官は我々のほうに鋭い視線を向けるのではなく、反日テロリストの動向を監視するのが本来的な使命! 
 向く方向がアサッテなんだよ!」

だから私は排外思想を説く!

 この警察の姿勢に関する西村代表へのインタビュー内容こそは、日本が置かれた危機的な状況全てを物語っている。現在の首相・鳩山由紀夫が就任直前、「日本列島は日本人だけのものではない」旨を明言したことはインターネット上で広く話題となった。

 つまり朝鮮人のための日本列島でもあり、支那人(中国人)のための日本列島でもあることを述べたのだ。現在の日本は政権政党からして下はこざっぱ役人まで、外国の文化を崇めて受け入れる拝外(はいがい)思想に冒されている。排外とは正反対の拝外(はいがい)である。
 鳩山が述べたこの「日本列島は…」の部分は日本政府あるいは民主党政権、法務省にでも何省にでも警察にでも自衛隊にでも置き換えることが出来よう。全て日本の公的機関であるのだから。

 即ち「日本の警察は日本人だけのものではない」と置き換えてみたら、驚愕の未来像が到来するのは自明ではないか。日本はダメで、それ以外は良いとする拝外思想に基づいてこのような発想が出て来ているのだから、それ以外…つまり外国人の中で最多を占める支那人のための警察でもある、という結論に至る。
 日本列島で日本人と支那人が争っても、どちらのものとしても存在する警察は常に中立にある…これを聞いて日本の警察は何と公正な存在なのか、と思う人もいるだろう。

 ところが「日本の警察は日本人だけのものではない」社会がいかに歪で、恐ろしいものであるかに気付かない時点で既に精神を侵されている。日本の内閣・各官庁から各自治体、警察、自衛隊に至るまで日本人だけのものではないとしたら、国そのものが存立意義を失ってしまう。
 支那人であろうが朝鮮人であろうが誰でも出入りが可能でいかなる権利も容易に取得可能なら「日本国」として存在する理由もないわけで、無法地帯になって支那の自治区に収められてしまうのが末路だろう。

 そのような恐るべき事態にさせないとして良識ある国民が行動に立ち上がる「行動する保守」運動(後に「行動する運動」そして「行動する社会運動」へ)が台頭してきたわけだが、現に政府・警察と一般国民が対峙する状況が生じているではないか!

 アンプラグドへの抗議行動にせよ、一般国民が警察署へ抗議に赴くまで飛び火することが頻発している。抗議するほうもやりたくてやっているわけではないし、署の正門玄関前で抗議を受ける警察官個々にとっても快いものではない。
 
 現行の国ぐるみが侵された拝外思想の下では官と民の双方が不幸になっている。だから私は国を挙げた「排外主義」を説くものである!
 
 日本が至上のものであるとして他の一切を排斥する「排外」。官職に就く者であれ一般国民であれ、日本人である以上、日本人らしい価値観・生活観を否定する者はいないだろう。

 そうした排外的ナショナリズムを「自国や自国民の幸福しか考えない思想」であるとして否定する愚か者どもに告ぐ。

 何で日本国民の幸福達成に責務を負っている日本が外国人まして他国や他民族の幸福まで考えてやらなきゃならんのか? 
 そんなものは自分たちで考えて自分たちで追求せよ!

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 奈良行き応募は締め切らせて頂きました。
 皆さまのからのご協力に感謝申し上げます。8人前後で奈良にレンタカーを手配して行くことになりました。観光バスのチャーターはかなりの金額負担となるので取り止めました。小規模の遠征となりますことをご報告申し上げます。



Posted by samuraiari at 23:05│Comments(3)TrackBack(0)この記事をクリップ!

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この記事へのコメント
>外国メディアによる西村代表へのインタビューでは「何故こんなに警察官の数が多いのでしょうか?」という項目があった。

上から下までざっと目を通したときに、ふと止まったのがこの一文。
外国メディアのほうがよっぽど常識があるな、と感銘を受けました。

つまり、今の日本国民には、「あれ、なぜだろうか?」と疑問に思うという習慣がないように見えます。

これは非常に根が深い問題で、いろんな問題に有機的に結びついているのではないでしょうか?

少し、この具体例をあげます。

中国は、南京大虐殺がどうのこうのというが、本当にあったのか?
在日がよく引用する、強制連行というのは、本当にあったのか?

など例を挙げればきりがない。こしたデマが浸透したのも、今の日本国民に疑問に思うという習慣に乏しいからと考えると説明がつく。

なんというか、物事を掘り下げて考えることが苦手。

あと、こうなったのも、やたら記憶力を重視する日教組教育に問題があるといわざるをえません。

Posted by 神奈川県民 at 2010年04月28日 23:42
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>神奈川県民さん
ご意見を有り難うございました。
仰せの通り疑問を持たない…必然的に社会で起きていることへの反応や自身の身の回りで起きていることに対する実際的な対応力も鈍化します。
近所で悲鳴を聞きつけても誰も駆けつけない。よしんば何らかの被害に遭った人が助けられることがあっても、警察に行って被害届を出すのに時間がかかるので被害に遭った身であるにも関わらず被害届の提出に協力しない。
凶悪犯を見事取り押さえた人々に対して「暴力はやめなさいよ」と本末転倒な叱責をしてしまう…。
ざっと挙げただけでも、これが現在の日本社会で現実に起きたことなんです。「行動する社会運動」はそうした風潮に対して一貫して警鐘を鳴らし続けてきました。街頭でまず声を出す。それが理解されなくても良い。気付かない者、考えられない者は死ぬまでそのまま。少数であっても問題意識を持った人が次々行動に出るようになる。思えば戦後日本はごく少数の在日や左翼によって振り回された半世紀でした。逆のベクトルでごく少数の賢者が愚衆を導く社会になります。我々より後の世代であると見据えていますが。
Posted by 管理人 侍蟻 at 2010年04月29日 03:17
結局、一般民衆には国家統治を行う能力などない、という事です!

「国民主権の民主主義」など、しょせんは幻想の産物。

ズバリ言えば、政治とはエリートが行うもの!
かつての日本が高い道義と精神性を持っていたのも、国家統治を行ってきた「支配階級」であった侍・武士という人々の道義と精神性が高かった故。
その人口比では極少数の侍という一部日本人の価値観、生き様が、まさに日本人総体の道義と精神性となっていたからこそ、日本人総体としての道義と精神性が高く保たれていた、というのが実態でしょう。

考えてみれば、かつての「まともな時代の日本」とは「独裁政治」体制であったわけで、それがいわゆる「民主政治」体制になってからいかに堕落し、ダメになった事か!

義を重んじ、名誉を重んじ、公を重んじる、とはまさに侍・武士の価値観・倫理観。
実は、この侍とは当時の日本人総体の人口比でみれば、たかだか5%にも満たない数の人々だった。
しかし、このわずかに5%の人々の価値観・倫理観が日本人総体の価値観・倫理観となっていたからこそ、まさに日本人は高い道義性と精神性を保っていられたのです。

「独裁政治」そのものが悪なのではなく、要は国家の統治を担うエリート層の精神性こそが、まさにその国・民族のレベルを決定するのです!
同じ「独裁政治」でも、支那・朝鮮のろくでもない私利私欲の独裁政治と、高い精神性を持ち、公を何よりも重んじたかつての日本の独裁政治とでは、まるでそのレベルが違うのです!
その意味で、かつてのまっとうであった日本(人)は、その国家エリートたちの精神レベルが高かったからこそ、国民総体のレベルも高かったのである。

「国民主権の民主主義」なる幻想は、そろそろ捨てるべき時にきているのでは?
Posted by 松本英志 at 2010年04月29日 04:05

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