April 26, 2010

【4/26】休眠

Blog休眠のお知らせ

「大山倍達の遺言」の制作が何より火急の仕事です。
弊社も数名の新入社員を迎え、出版不況のなか経営改善が理想的なかたちで進んでいます。同時に種々の業務もstaff一同多忙を極めております。

以上の状況により、当Blogは本格的に休眠させていただきます。

Wikipediaへの「荒らし」及び悪質Netサイト(更に書き込み)への法的手続きは本日(2010/4/27)、正式に法定代理人に委託しました。
即刻、刑事関係は警察庁への被害届が受理された為、各サイトの管理人及び書き込み人が特定され、各々が聴取の上で立件される事になるでしょう。また民事においても幾多の法的侵害により多数の被告人に対する告訴となります。
今後は現実に刑事及び民事裁判が進行していく為、情報保護の観点から判決また和解までの間、本件に関しては一切公表いたしません。
ただし判決、和解後はmediaなど手段を選んで全ての過程を公開すると同時に罪状が認定された被告人については個人情報保護法の範囲内で名称や所属先などを公開する所存です。
その点をご了解下さい。
ただ速やかに自らの違法行為を私に告白懺悔する方には告訴を取り下げる事も厭いません。私に直接連絡下さい。


まずは「大山倍達の遺言」をお楽しみに!!







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November 17, 2009

【ファイト!!】力なき正義は無能なり=ブログのメインテーマ・コラム

ファイト! 闘う君の唄を闘わない奴らが笑うだろう
ファイト! 冷たい水のなかを震えながら昇ってゆけ

暗い水の流れに打たれながら魚たち昇ってゆく
光っているのは傷ついて剥がれかけた鱗が揺れるから
いっそ水の流れに身を任せ流れ落ちてしまえば楽なのにね
痩せこけてそんなに痩せこけて魚たち昇ってゆく
勝つか負けるかそれは分からない
それでもとにかく闘いの出場通知を抱きしめてアイツは海になりました

ファイト! 闘う君の唄を闘わない奴らが笑うだろう
ファイト! 冷たい水のなかを震えながら昇ってゆけ

あの魚たちの群れキラキラと海のなかの国境を越えていく
諦めという名の鎖を身を捩って解いていく…



中島みゆきと吉田拓郎の合作、「ファイト!」という唄の歌詞である。
この唄を聴いて私は幾度、涙を流したか分からない。実際の歌詞はもっと長い。悔しい、辛い、悲しい少年や少女の思いが、それぞれのシチュエーションで綴られている。私も歌詞に出てくる彼らのなかの1人だった…。
悔しいから反抗した。
辛いから泣いた。
悲しいから闘った。
「闘う」ということがどういう意味か? 私は自らの体験から学んだのだ。本来なら、そんなもの学ぶ必要はない。学びたくもないことだ。しかし、生き抜くためには闘うしかなかった。
そんな私を過去、多くの人間たちが嘲笑ってきた。
「ヤクザの息子が、チョーセンに何が出来るよ! 悔しかったら一人前に学校出て人並み以上に稼いでみな。どうせチンピラになるのがせいぜいだよ」
「チビが、かかってこいよ、チビの癖に生意気に! 柔道だろうがプロレスだろうがやってこいよ。いつでもフクロにしてやるわ」
「口だけ達者でとうとう逃げ出した。アイツはそうやっていつも調子いいこといって都合が悪くなると逃げ出すんだよ」
「ペンは暴力にもなる。けどオマエのペンなんか簡単に折ってやる。ペンでさえ握れないようにしてやるよ。生意気いうのは100年早いんだよ」


いまでも私を嘲笑うヤツらは絶えない。
だが、昔と違っているのは、誰も直接私の前で笑わないし、愚弄もしないということだ。笑うヤツらはいつも姿を隠し、必死になって見えないところから引きつったように笑うだけである。
そういうのを世間では「負け犬の遠吠え」と呼ぶ。
私は逃げも隠れもしない。
東京豊島区池袋の夢現舎が私の本陣だ。私を笑いたければ、悪口叩きたいならば、ケンカを売りたいならば夢現舎にくればいい。


「ファイト!」は真実を歌っている。
闘う人間の姿を、闘えない弱虫が笑うのだ。心のなかは歪んだ劣等感に溢れている。捻れたプライドにしがみつくことしか出来ない人間が自身の惨めさを隠そうと無我夢中に、闘う人間を笑うのだ。それも想像を絶するほど陰湿に、そして陰険に…。
しかし、闘う人間にとってはそんなもの痛くも痒くもない。なにせ負け犬の遠吠えだ。逆に、負け犬は闘う者から嘲笑を浴びることを知っているから、自らの卑屈さを知っているから尚更ヤツらはムキになって闘う者を笑う。
私は差別と偏見と蔑視の視線を大人たちから浴びながら今日まで闘い続けてきた。それだけは胸を張って断言出来る。


不良、少年犯罪者というレッテルを貼られた私は、T県トップの進学校に進み早稲田大学に入った。誰か悔しかったら早稲田大学に入ってみたらええ! 死ぬ気で受験勉強してみいや。ただのう、三瓶啓二や東孝が通った「夜学」は早稲田とはいわんよ。夜学は早稲田の盲腸じゃけえ、近々廃学が決定しとるんよ、念のため。
柔道も中途半端、極真空手は末席の末席のまた片隅を汚しただけの男に過ぎません。でも、私を弱者呼ばわりしてバカにするならば、とりあえず極真会館(松井派か極真館)の黒帯を取ってから吠えろや! いつでも待ってますけえ。
編集者だ、物書きといってもまだまだ出版界では「ハキダメのような格闘技界の業界人」(ちなみに私は俗に呼ばれる「格闘技界」と「格技・武道界」は別物と捉えています)としか見なされていない半端者です。物書きとしてさえ認められていない未熟者です。
けど、そんな私を笑うならば1冊でもいいから本を出版してからいえや。それも山田英司や家高康彦のように初版2000部なんちゅうのはメディア、マスコミとはいわんけえ。それはミニコミというんじゃ。小島は1回の増刷だけでもそれ以上を刷りますけん。
夢現舎、夢現舎といってもちっちゃなカスのような会社です。スタッフもせいぜい10人程度に過ぎません。デカい会社が本気になって潰そうと思えば簡単に跡形もなく消えてしまいそうな編集制作会社です。でも、誰もそれは出来ません。私たちは絶対に「筋」だけは通します。道理を無視して筋を違える相手には刺し違えても引きません。



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October 04, 2009

【改訂新版】泉谷しげるに本当の「男」を見た!

何故、こんな時代に
頑張れないのか
何故、こんな時代に
頑張らないのか

口煩いぜ
見飽きた励ましの言葉は
今更オマエの口から聞きたくない
歳を取ったかい
いつもの顔付きが優しいぜ
受け売りの言葉など
横に置けよ
何か起こせる口だけのフリは
見抜かれている
気付くのが遅いのか早いのか

何故、こんな時代に
頑張れないのか
何故、こんな時代に
頑張らないのか

口喧しく
いつまで言う事はないだろう
イラつく俺は
オマエの目を見ない
それでも止めずに
素顔に迫ってくる気かよ
俺だけが引いた
ラインを超えてくる
何もかも見棄てたフリしても
見抜かれている
気付くのが遅いのか早いのか

何故、こんな時代に
頑張れないのか
何故、こんな時代に
頑張らないのか

命を賭けて答えを出すのは
戦う相手が強いから
目覚めるのが遅いのか早いのか

何故、こんな時代に
頑張れないのか
何故、こんな時代に
頑張らないのか


【何故、こんな時代に…】
(作詞・作曲/泉谷しげる)



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泉谷しげる…。
1970年代、吉田拓郎や井上陽水と並び「フォーク御三家」などと呼ばれたソングライターである。

だが1979年、TVドラマ「戦後最大の誘拐事件 吉展ちゃん事件」でいきなり犯人役を演じ、大絶賛されたのを期に俳優としても積極的に活動するようになった。
80年代に流行したトレンディドラマでこそ剽軽な亭主役をこなしたが、以後は自ら好んで悪役や穢れ役を演じた。最近ではTVドラマ「電車男」の痴漢役で注目を浴びたのが記憶に新しい。
私は「役者に転向」した泉谷が嫌いではなかったが、やはり彼は「歌を棄ててしまった…」のかと寂しい思いを抱いていた事もまた事実である。

70年代、泉谷しげるのソングライターとしての個性は際立っていた。「春夏秋冬」「春のからっ風」「寒い国からきた手紙」などの情緒的な楽曲と共に挑戦的かつ過激な反体制的な楽曲も彼の十八番だった。
彼の歌はみな荒削りの歌詞ばかりだ。文法などどうでもいいといった感じである。しかし彼の歌を聴けば聴く程、心が激しく揺さぶられるから不思議だった。
怒鳴るように、叫ぶように唄い、ギターを打楽器の如く鳴らした。演奏中に弦が切れるのも珍しくなく、それでも泉谷は全く無視して唄い続けた。
とにかく粗野を絵に描いたような荒くれ者…それが泉谷しげるのイメージだった。
しかし、フッと見せる恥じらいや笑顔は透明感に満ちていた。

高校中退後、職を転々とし、また幼少期に患った小児麻痺の影響で足が不自由ながらも常に前向きに生き続けた結果、自分の心に燻る怒りや悲しみを表現する事が出来る「フォークソング」に辿り着いたと彼は言う。
75年には拓郎、陽水、小室等と共に「フォーライフレコード」設立のメンバーに加わったが、極めて強い個性と組織嫌いから「フォーライフ」を離れ、これを期に彼の楽曲はフォークからロック色を強めていく…。
考えてみれば、最初から泉谷の歌はロックだったのかもしれない。





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July 11, 2009

【駄文・7/11】企業が望む人材とは!?

先日、我が社で新入社員の募集を行った事は何度か書いている。
1990年代半ば迄は朝日新聞の募集広告が最も反応が大きかった。だが90年代後半になると極端に朝日新聞広告の効果は低下し、就職雑誌が主流になった。
当時は1回の募集で最低でも50名、いや100名近い応募者がいた。ところが2000年に入ると年を追う事に応募者が減り続け、また広告媒体も05年辺りから就職雑誌は全く効果を失いNet募集が主流になった。それでも応募者は極端に減り、10名がいいところだった。
一体最近の若者は、不況不況というのに何を考えているのか!? あまりにフリーター志向が強く、それは特に男性に顕著だった。
ところが今回数年振りにNet募集をしてみると、メールの問合せだけで150名を越えた。実際、履歴書を送ってきた人も軽く100名を越えた。
時代が激しく動いている事、不況の深刻さを痛切に感じざるを得なかった。100強の応募者のうち、約4分の1が30代後半から40代、50代だった。我が社は一切、学歴を重視しない。性別も関係ない。

最近、立場上常に採用側の立場でこのような募集に関する諸々を見る習慣がついてしまったが、採用も一段落した今、改めてかつて学生だった頃、つまり応募者のスタンスで考えてみた。
自分ながら驚きを隠せなかった。
学生時代、学校の成績や積極性、つまり能力と成績、アピールが合否の鍵になると思い込んでいた。成績がよく、真面目で明朗かつ積極的でさえあればいいと信じていた。
だが、それは大きな間違いだった。
結局、個人の成績や云々などよりも、その企業が求める条件に合うか合わないかが何よりも重要な現実。決して成績や実績、また学歴があればいいというものではないのである。
例えるならば、その企業が「赤」を望むならば、いくら鮮明で綺麗な「青」でも採用対象にならない。「赤」を欲するならば、せめて「朱色」や「濃いオレンジ色」でなければ如何に優秀でも合格出来ない。
今回の募集ではかなり実績のある経験者や、学校での成績が優秀で色々な勉強をしてきた人たちが多かった。つまり総体的な資質は極めて高い人材が応募してきた。
面接に於いても殆ど礼儀正しく、どんな質問にもハキハキと答える。わざわざ自己アピールの為にフリップを使ったり紙芝居調にまとめて自らを売り込む人もいた。きっと頑張り屋で向上心の強い、能力のある人間に違いない。
だが結局、彼ら彼女らは不採用になった。勿論、早稲田や慶應、北大や阪大出身である事のみをアピールする応募者は話にならなかった。きっと彼らの潜在能力は極めて秀でているのだろうが…。偏ったプライドを持つ人間ほど扱い難いものはない。
要は、そのような人材を、少なくとも我が社は求めていないという事に過ぎないのである。夢現舎が求める人間は「真っ白で何にも染まっていない人間」である。経験など関係ないのだ。面接に於いてもマニュアル通りのそつない言葉を繰り返す人間はいらない。「積極性」は重要だが、それは言葉で如何にアピールしても通用しない。
最終的に採用した2名は編集は勿論、デザインや文章の経験もなく、また面接では緊張しながら不器用で殆どまともに答えられない応募者だった。1人は大阪在住で、他社の面接も含めて約10回も深夜バスで上京を繰り返してきた女性。もう1人は面接で何もまともに答えられなかった、私が冗談混じりで「君は今回の書類選考を通過して面接に臨んだ約50名の中で一番おバカさんだね」と口にした女性だった。
採用した2人よりも経験も実績もある人材はかなり多かった。だが、繰り返すが我が社は「真っ白で未知数ながら不器用な人間」が欲しかった結果に過ぎない。




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July 08, 2009

【ショートコラム7/8】24時間一緒!?


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(愛しい愛しい黒猫のミル)


男は悲しい生き物なのです…。
歳を取り、
ガキも成長し、
バツイチで、
その上失恋したり、
仕事でトラブッたり、
スタッフに逃げられたり、
血を分けた身内に謀られたり、
体調を崩したり、
体力はみるみる衰えたり、
それなのに闘わなくてはならず、
表では裁判で争い、
裏では「アルキメデスは手を汚さない」のですが…。


疲れた私にいつも寄り添い、癒してくれるのが黒猫のミルです。
とても不思議な猫です。

腕枕をして抱いて寝れば、私が目覚めるまでそのマンマの姿勢で一緒に寝ています。キスが大好きで、両手(前足)で私の頬を抱えながら私の口に自分の口をくっつけてペロペロ舐めたり、噛んだり…。最近、ミルが一瞬人間に思えてしまう。もはや倒錯の世界です。
しかし、ミルは神様が孤独な私に授けてくれた「天使」なのだと思っています。
私がベッドに寝てる間は決して私のもとから離れません。ベッドに腹這いになってPCに向かって仕事をしている間、ずっとPCの脇に座って私を眺めています。
たまにですが、「ミルがアイツならなあ…」なんて。
誤解は禁物!!
強がりを言わせて下さい。
こんな私でも少しはモテるのです。そう、この歳になったからこそモテるのです!
恥かしい話ですが、私の場合26歳前後が唯一の「モテ期」でした。それ以前は全く女性に相手にされず、焦りと早トチリで結婚して以来、殆ど「男」を棄てて「ダンナ」と呼ばれてブクブク醜く肥るだけ…。
それが離婚を決意した辺りから、つまり35の歳を過ぎた頃から徐々にではありますが再びモテ始めました。しかし世間は甘くない。好きな相手には相手にされず、どうでもいい相手に好かれていつもすれ違い。
銭はあるんです。都内の高層マンション程度なら即買えます。
ケンカも強いです、いや強いかも。素手素足なら青水流、武器を持ったら手裏剣!
表も裏も、右も左も人脈が広く深いです。
メディア・出版業界に住み着く会社の社長です。
物書きの端くれでもあります。
50000人の読者がいます。

なんてバカらしい、嫌なヤツ!!
結局、貧弱な素の自分に沢山の俗物的「光り物」で飾り付け、モテた錯覚だけの勘違い野郎なのです。
いくらモテてたつもりになっていても「恋のカラ回り」ばかりじゃアホ丸出し。
自己嫌悪…
3日間鬱…

しかし挫けません。
2度ある事は3度ある、じゃなくて
1度ある事は2度ある!!
今度こそは国際線のCAとお近づきになって…そんな不埒な私をミルは憐れみを露に大きなマナコでキッと見つめるのです。

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(最近、気品が出てきました)






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July 03, 2009

【再掲載】「野獣死すべし」のように…戦士の休日

私は決して強い人間ではありません。どこにでもいるただの弱い男です。
何か突然、大きなトラブルやアクシデントに襲われた時、私はまずパニックに陥ります。精一杯平静を装いながら、内心では洞穴にでも隠れたいほどの逃避衝動に駆られます。それが第1段階です。
第2段階はトコトン落ち込みます。鬱(不安神経症)にでもなったかのように独りドロップするのです。それを一昼夜耐え続けなくてはなりません。
すると…、突然のように猛烈な怒りが湧き上がってきます。これが第3段階です。ただ、この怒りに任せて行動すると、大抵は失敗します。過去の私の敗北の殆どが、この怒りに任せた行動が原因でした。時に暴力事件に発展し、警察沙汰になって所轄に連行される事態にまで発展してしまいます。
ですから、自らが行動するまでは、第4段階の意識変化まで待たねばなりません。
燃え盛る怒りを心に溜め込みながら、精神力と冷静な論理的判断力を呼び戻します。そして戦略と戦術が明確になるまで静かに時を待つのです。こうして<覚悟>が宿り、私は完全に<居直り>ます。
そうなったら何も怖いものがなくなります。冷酷なまでに冴えた頭と飽和に達した怒りを胸に、卑怯なまでに緻密で徹底した反撃がやっと可能になります…。
つまり、私がトラブルやアクシデントに際して<覚悟>を持つ為には4段階の心の変化を待たねばならないのです。でも、そんな時の私は<無敵>です。

力なき正義は無能なり…

結局、<正義>だ何だと騒いでみても、勝たなくては全く意味はありません。自分にとって大切な人間や自らの尊厳は命を盾にしてでも守ります。
しかし、凡人の私と違い極真会館館長の松井章圭は、一瞬で<覚悟>を決める超人的な精神力と胆力を有しています。だから私は松井章圭には絶対に勝てないと諦めています。
かといって、命を賭けて戦う覚悟を持つ…。そんな生き方が決して格好いいとか「男」だなんて思いません。そんなヒロイズムに浸ってなどいたら、足元を掬われてしまいます。

先日も極真会館館長の松井章圭と会食しました。私は松井に言いました。
「たとえ敵が100人揃い、ダンビラを振りかざしていても、松井さんは、守るものの為に彼らに向かっていくでしょう。殺されるのが分かっていても、4、5人は道連れにして死ぬ。そんな覚悟が松井章圭にはあるんです」
松井は「どうでしょうかねえ…」と笑みを浮かべるだけでしたが、決して否定はしませんでした。
松井は<偽悪者>であり、決して自分を作るようなハッタリ屋ではありません。しかし<偽悪者>として生きられるという事は、余程の度胸と自信がなければなりません。だからこそ命を賭ける覚悟があるのです。私はそんな、何事にも臆さずに戦う意志と術を持った松井が眩しく見えました。

私も松井章圭に負けない! 絶対に物書きとして大きくなる! かつて私を見下したチンケな2流3流の活字メディアの連中をみんなひれ伏しさせてやる! アイツら全員、頭を下げて「ウチの為に本を書いてください」と言わせてみせる!
私はいつか必ず「メジャー」の世界に杭を打ち込みます。今の私には、心から応援してくれる<生涯の絆>を誓い合った「兄弟」たちがいてくれます。まさに百人力の応援団です。

怒りが、怒りが…、冷徹で緻密な怒りが! 怒りこそが最大のエネルギー源なのです。

大藪春彦の「野獣死すべし」が私の物書きとしての、更には人生の原点であり聖書でもあります。なかの一節を紹介します。この文章には、私の様々な想いが抽象化されながら散りばめられています。


(前略)弱い弱い男と女が一緒になって、慎ましい家庭の幸福を築く。これが人生の最高の逸楽であり安らぎかもしれぬ。しかし今の彼には破壊者とはなれても建設者とはなれぬのだ。
少なくとも、これから先、己の内にくすぶる凶暴な自我にはけ口を見いだし己れの才能と死を賭けて、現世の苦楽を味わい尽くしてしまうまでは。
ときがきたら、可愛い足の指を折らねば十から上を数えられぬほどの、楚々たる無垢の少女を妻として、そのあどけない海の泡を現世の女神、生きた美神にまで育て上げるのだ。
(中略)出来る奴の周りに街娼のごとく群がる女たち。馬鹿踊りを踊り続ける仮面の下からのぞく、ひやりとする冷酷なエゴイズム、こずるさ。みじめな頭には、ケチ臭い夢が相応しい。
彼の頭脳はまだ把握力を失っていない…
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H・OYABU


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May 30, 2009

こんな時だから長渕剛がいい…

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物書きの性分が染み付いちまったようだ。
自分の気持ちを誰かに伝えてえ! 「オイ、チョットでいいから俺の話を聞いてくれねえか」なんて普通の人間が突然、見知らぬ野郎に声掛けたらバカか!?って思われて、次に何か胡散臭え物売りか勧誘に間違えられるのがいいとこだ。
だが、物書きが何か書いて著書は勿論だが、最近流行りのBlogにでも載せれば少なくとも数千人が読んでくれる。自分の「声」を千単位、万単位で聞いて貰える仕事って言えば、物書きか音楽家(ミュージシャン)くらいじゃねえか!?
ある意味、俺は幸せな仕事に就いてる事になる。そんな訳で物書きの性分が染み付いた俺は…突然、何かを書かねえといられねえ気分に襲われる時がある。「休眠宣言」しながら、だからつい下らねえ戯言を書いちまう。すみません、少しだけ付き合って下さい。


落ち込んだり、自分の弱さに自己嫌悪になったりした時、さすがに音楽好きの俺でも聴く気になれねえ。俺だって、ただボーッと腑抜けになる事もある。
だが唯一、長渕剛の楽曲だけは抵抗なく聴けるから不思議だ。長渕の歌が心の芯まで綺麗に癒してくれる。
何故か!?
簡単に言やあ、俺が彼に似ているからだろう。ガキの頃は劣等感の塊だった。もがいて、もがいてドン底から這い上がってきた。ナメられちゃいけねえ! いつも片意地張って強がってきた。大学時代のメモ帳が今も残ってる。その「表2(表紙の見返し)」にマジックペンでデカく書いてある。
「負けたら終わりだ。闘い続けるのだ。そして勝ち続けなければいけない」
「強い者だけが本当の優しさを手にできる」
極真会館に入門して大山倍達総裁が道場でよく口にする、あの飾り気のねえ直載的な言葉に大きく感化された。そんな文章(格言?)の羅列だ。当Blogのタイトル「力なき正義は無能なり」もそれらのひとつだ。
だが、言い換えればそんな言葉は自分の弱さの裏返しだと言える。テメエが弱虫だから、こう生きてえ! こんな人間になりてえ!! と願い続けてきた事になる。
裸の俺は情けねえ程、弱い人間だ。だから強さに憧れた。「力」が欲しいと思った。ただ、群れるのが嫌いで自己中の鼻垂れだから三瓶啓二みてえな「権力願望」はなかった。

学歴だ、腕力だ…。それだけを望んだ。その結果か偶然か分からねえが、気が付いたら「自分を主張出来る仕事」に就いていた。多少は不特定多数の人間への影響力を手にする事も出来た。他人の何倍もの銭も稼げるようになった。
そんな職業は、先に書いたように物書きかミュージシャンぐれえだろう。TVタレントや役者は顔と名前が売れるだけでいつも事務所やTV局の規制にがんじ絡めになってる。「発言」ひとつシナリオ通りだ。
物書きやミュージシャンも「好き放題」って訳にはいかねえが、出版差し止めや放送禁止になっても、この時代だ。Netはあんまり好きじゃねえが、時にはNetが味方になってくれる事もある。このBlogが好例だ。あの松井章圭でさえ俺のBlogに接して「コジマさんの影響力を実感した」と言ってくれた。
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May 04, 2009

忌野清志郎に捧ぐ…

忌野清志郎が逝った。


RCサクセションがまだ3人組のフォークグループだった頃、「僕の好きな先生」という、ボクが大嫌いな先公を誉める歌をあの独特な声で唄っていた。
なんだアイツらと思った。
同時期、仲井戸麗市が古井戸というやはり2人組のフォークグループで「さなえちゃん」を唄っていた。

大学ノートの裏表紙に、「さなえちゃん」って書いたの〜♪

断然、古井戸の方が好きだった。あの頃から仲井戸麗市はカッコよかった。ボクがまだ小学生の頃の思い出である。
しかし…、ボクが「ガリ勉」に変身し、高校生になった頃、彼らは合体してロックバンドに変貌を遂げていた。
驚いた。


1979年の早稲田大学文化祭。
RCサクセションが大隈講堂でライブコンサートを敢行した。まだ学生運動の残滓が尾を引いていた時代、大学祭は革マル派云々といった各セクトによる抗争の場だった。
一見、華やかな大学構内の裏で殺伐とした空気が流れていた。日が暮れてコンサート開始時間が近づくと、大隈講堂前には主催側に対抗するセクトの学生たちがヘルメット姿で抗議活動を行っていた。
そんな中で行われたRCサクセションのコンサート…。

この雨にやられてエンジンいかれちまった〜いつものようにキメてブッ飛ばそうぜ〜♪

「雨上がりの夜空に」のビートにボクたちは酔った。
忌野清志郎の化粧はグラムロックの熱狂をイメージさせ、仲井戸のギターパフォーマンスはローリングストーンズのキース・リチャーズを彷彿とさせた。しかし、そこには明らかに日本人の日本語による「Rock」が存在した。


ボクは大学入学とほぼ同時に極真会館に入門した。辛い稽古に耐えて約1年が過ぎた。何とか帯に色が付いて暫くした頃、ボクは首都圏交流試合と銘打った新人戦に初出場した。しかし結果は1回戦敗退というミジメなものだった。屈辱に涙していたボクの裏から、あの名曲が流れていた。

昨日は車の中で寝た。あの娘と手を繋いで〜♪

下段蹴りのダメージで両足の大腿がズキズキと痛んだ。だが、そんな試合の悔しさや痛みを忘れるほど、忌野清志郎が唄う「スローバラード」は静かに透き通って心の中に響いた。


1983年が開けた。
4年間の大学生活が終わろうとしていた。
冬にもかかわらず妙に暖かかった小春日和のある日の事だった。ボクらゼミの仲間たち数名は商学部本館の屋上にたむろし、迫りくる別れの日を惜しんでいた。真っ昼間なのに缶ビールを飲むヤツも、ウィスキーをストレートで煽るヤツもいた。まだ就職先が決まらず焦っているヤツ、一流商社の内定を手にしどこかニヤついているヤツ…。
酒を受け付けない体になっていたボクは黙ってセブンスターを吹かしていた。すると、誰かのラジオ付きウォークマンから軽快だけど、どこか寂しげな歌が流れてきた。

ウーン、授業をサボッて陽の当たる場所に居たんだよ〜内ポケットにいつもトランジスタ・ラジオ〜♪

ざわついた空気が一瞬、凍ったように止まった。仲間たち全員が忌野清志郎が唄う「トランジスタ・ラジオ」に聴き入っていた…。


ボクの大学生活には常に音楽があった。高校時代をNSPで語れるのならば、忌野清志郎と仲井戸麗市が組んだRCサクセションは大学時代を象徴する「青春」そのものだった。


あれから25年が過ぎた。
ボクらは半世紀生きた事になる。今でも、まるで昨日のようにあの輝いた日々が甦る。熱い熱い青春の日々だ。
ボクは25年前と何にも変わってないぜ!!
今もケンカ上等!
恋もしている…。
でも、確実に「時間」は過ぎていった。それだけは受け止めなければならない。
松井章圭が言うように、100年後、今生きている人間の殆ど全てがこの世に存在せず天国か地獄にいるのだから。


58歳…あまりに早い人生を駆け抜けた忌野清志郎。
熱い青春に合掌。


(了)

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April 01, 2009

ロッド・スチュワートを観たかい!?

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(埼玉アリーナ、ロッド・スチュワート最高のステージ)



3月某日。
その日は朝から風が強く、花粉もビュンビュンと舞っていました。埼玉スーパーアリーナまでの道のりが辛くて何度、途中で帰ろうかと迷った程です。
それでも、憧れのロッド・スチュワートを観られる! 40年近く聴き続けてきた世界のスーパースターをこの眼で観られる最後のチャンスかもしれない…。
そんな想いだけを胸に秘めて私は重症の花粉症に耐えながら埼玉アリーナに向かったのです。

開演午後4時。土曜日だからか普通のコンサートより2、3時間早い開始時間に、私はまだ心の準備が出来ないまま埼玉アリーナの特等席に腰を降ろしました。これは、あるメディアの取材を兼ねていたが故の特典と言ってもいいでしょう。
シンプルな舞台。唯一、ステージ正面に大きな映像スクリーンが貼られているのが目立つ程度でした。気が付くと観客席は満員に膨れ上がっています。客層は様々です。20代の女性グループや大学生たちがいると思えば隣はどう見ても60を遥かに越えた老齢の夫婦だったりです。ただ総体的に熟年層が多いように感じました。如何にも「海外の音楽通」といった風情の人たちが目立ちました。

開演と同時に観客は全員総立ち!!
バックバンドはギター、ベース、太鼓の基本パターンではありながら、ギターはツインで1人は長身の女性。そして金髪の超美人がテナーサックス。スタイルも歌唱力も抜群の黒人女性3人組のコーラス…。サポートバンドがいる訳でもなく、女性メンバーが目立つ程度のオーソドックスな構成です。
しかし彼ら彼女らのテクニックはさすがに世界のスーパースターを支えるだけあってイントロの音から違います。ドラムスの音のキレ、ベースの張り、女性コーラスの巧さ、パワーは日本では矢沢永吉さんのコンサート以外では絶対に観られない感動のレベルと断言しても良いでしょう。
そこに真っ赤なタキシードを纏ったブロンドヘアーのロッド・スチュワートが登場しました。あの…あのロッド・スチュワートが目の前にいるというだけで私は卒倒しそうな興奮に包まれてしまいました。

私が本格的にロッド・スチュワートを聴き込んだのは上京して立教大学に入学した頃でした。私の少ない交遊関係の中で最も親しかったS先輩から「ロッド・スチュワートの歌は全部聴いた方がいい。彼こそがロックだよ」と勧められました。S先輩は高校時代から柔道だけでなくバンド活動を始め、立教時代は今で言うインディーズの世界ではかなり知られたギタリストだったのです。音楽の知識もまさに「歩く辞書」そのものでした。
ただ、私は中学生の頃からロッド・スチュワートは知っていました。ジェフベック・グループから離れてフェイセスを結成していた時代です。フェイセスのベーシストは山内テツという日本人ミュージシャンで、あんな世界一流のアーティストに混じって活躍する山内テツに私は特別、親近感を抱いていました。だから、マギーメイなどのヒット曲は日常的に聴いていました。
しかし当時の私はローリングストーンズに狂い、またT・REX、デビッド・ボウイなどのグラムロックやデイープパープルのギタリスト、リッチー・ブラックモアに夢中でした。とにかく聴きたい音楽、ミュージシャンが山ほどいて、一生掛かかっても聴き終えられないのではないか!? そんな不安になるくらいに音楽に没頭していました。洋楽だけではなく、当時はフォークと呼ばれた岡林信康、古井戸、六文銭、井上陽水…日本人ソングライターの楽曲も漏れなく聴いていました。

ちなみに、ロッド・スチュワートは正統なブリティッシュ・ロックの系譜を歩んできたアーティストです。ジェフベック・グループ→ヤードバーズ→クリームという一大潮流の中で彼は常に名ボーカリストとして活躍してきました。この潮流には伝説的なアーティストがひしめいています。
ジェフベック・グループでロッド・スチュワートの隣でベースを弾いていたのが、後にローリングストーンズに入るロン・ウッドです。ヤードバーズからエリック・クラプトンが独立して歴史的バンドと言われるクリームを結成。またジミー・ペイジがレッドツェッペリンを結成するのです。前述したようにロッド・スチュワートはフェイセスを結成し、アッという間にスーパースターの階段を駆け登ります。
こうしてアメリカのミシシッピデルタの農場で酷使される黒人奴隷たちの「叫び」として生まれたブルースが大西洋を渡り、ブリティッシュ・ロックとして確立される事になります。現在のロックは全てこのブリティッシュ・ロックが「源」と言えます。続きを読む

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January 23, 2009

僕と青春とNSP (アンコール大改訂新版)

僕が入学したT高校は実家のあるI県ではない、T県T市にある。つまり僕は内申書を重視せず試験1本で合否を決定するT高校に<越境>で入った。当時、T高は県内1、2を争う進学校で、授業もかなり厳しかった。
それでも僕にとっては夢のような自由な学校だった。教師たちも、小・中学校の頃のような<馬鹿センコー>は皆無だった。


なにしろ僕の小・中学校時代は、そんな<センコー>たちへの反発の毎日だった。児童・生徒の前で偉そうな説教を垂れるクセに、職員室では達磨ストーブを囲みながら生徒たちの家庭問題を、まるでTVのワイドショーに群がる主婦のように猥雑な笑みを浮かべながら話に花を咲かせる。
「○○〜、オマエのお父さんは毎日何やってるの? お母さんはどこいったの?」(小学校時代、僕は姓が2度変わった。だから、あの頃の僕はコジマではなかった)
「梁川みたいな不良チョーセンと仲良くしちゃダメだ。オマエもチョーセンか? あれっ本当にそうだっけ? それともブラクか?」
戦後民主主義教育を唱える<日教組>が、こんなバカ教師を量産していったのだ…などと今になれば断言するしケンカも出来る。しかし、まだ小学生のガキには「何故なんだ!?」という漠然とした不条理感と怒りを心に溜め込む事しか術はなかった。
職員室に行く度、僕は<センコー>たちの好奇心の標的にされた。
殺してやる!!
何故、あの時、ヤツラ3人を殺せなかったのか…。今でも悔やんでいる。
こんな文章、何度書いたか分からない。多分、僕は一生書き続けるだろう。すると、日教組教育の申し子たちは薄っぺらな正義感をひけらかして僕を非難する。
「作家、武道家を自称する人間がそう易々と人を殺したいなんて書く気持ちが知れない。恥ずかしくないのか?」
そんなメールを何度かもらったことがある。チャンチャラ可笑しい。アナタはまだ幼いガキが人を「殺してやりたい!」とまで思い詰めた経験があるのか? 平凡なサラリーマンの親に育てられてヌクヌクと成長してオタクだかフリーターだかやってるようなお坊ちゃまには言われたくない。
それに僕は単なる編集者であり名もないチンケな物書きです。空手なんか半人前の半人前、道場の末席を汚しただけの人間ですから…。自分を<武道家>とか<空手家>だなんて自惚れた事は1度もありません。
でも何か文句があるならいつでも相手しますよ。その代わりステゴロでは終わりません。最低、ヤッパくらいは懐に忍ばせてきて下さいな。僕は東京は池袋の事務所にいます。逃げも隠れもいたしません…なんて簡単に啖呵を切るから僕はヤクザとか呼ばれるのだ。ここは<改訂部分>ですが、もう半世紀も生きて、「そろそろバカは止めろ」と先日も<神様>に戒められたので、この部分は撤回いたします。申し訳ありません。


話が早々に脇道に逸れた。
閑話休題。
T高校の教師たちは生徒の<人権>を認め、とにかく規制というものが殆どなかった。<超>のつく程の進学校ではあったが、生徒にガリ勉タイプは殆どいない。男子校だから特に何でもあり、教室にエロ本を持ち込むヤツもいれば校舎の裏でタバコを吹かすヤツ、学校帰りに制服のままでパチンコ屋に入り浸るヤツもいた。
しかしお咎めは一切なし。今はわからないが、少なくとも僕が通っていた頃のT高校は名実ともに<自由の学府>だった。僕にとってT高校での学園生活は、まるで生まれ変わったかのように平和そのものだった。
そんな温和で平穏とした高校生活の象徴ともいえるのがフォークソング・グループのNSPだった。
アコースティックギター2人にエレキベース1人という3人編成だった。リーダーは天野滋。抜群にギターが巧かった。基本的にラブソングが中心だが、<かぐや姫>のような四畳半臭さがなく、また<アリス>のような関西演歌っぽいエグさもなかった。
NSPはサラリとした水のような歌を唄うグループだった。
ちなみにNSPとは「New Sadistic Pinc」の略だというが、何の事か今でも意味が分からない。


ところで、僕は父親がギターなどの楽器が得意だった関係で(今ではとっくに博徒から足を洗って? 民謡の先生を気取っている。<関東菊水会>がいつしかヤクザから民謡団体に代わってしまったようなものだ)、中学時代からギターを覚えていた。
最初にマスターしたのが「禁じられた遊び」だった。小学校高学年の頃から洋楽を聴き始めた僕だが、中学時代はトム・ジョーンズを卒業してエルトン・ジョンやキャロル・キング、はたまたTーREXやローリングストーンズなどにはまっていた。
ところがある日、後にT高校の先輩となる放送委員の人が井上陽水のデビューアルバム、「断絶」を僕に聴かせてくれた。それ以来、僕は洋楽とともに日本のフォークソングも積極的に聴くようになった。
吉田拓郎や泉谷しげる、岡林信康なども聴いていたが、何故か僕は井上陽水が一番好きだった。
吉田拓郎は当時、若者たちのカリスマ的存在で、誰も彼もが拓郎に狂っていた。生来、反骨心の強い僕は、意地でも<拓郎ファン>とは言いたくなかったのだ。実は陰でこっそりアルバムを集めていたのだが…。
しかしT高校に入ってからは、何故か無性にNSPに惹かれていった。NSPといえばヤマハが主催する1973年第5回ポプコン(ポピュラーソング・コンテスト)での入賞を契機にプロデビューした事で知られていた。
ポプコンの入賞作「あせ」もいいが、何といっても「さようなら」は傑作だった。悲しい別れの歌ではあるが、高校生の僕は「そんな悲恋をしてみたい…」なんて、むしろ詞の世界に憧れていた。
さっそくギターで「さようなら」をコピーした。毎日のようにギターを奏でながら唄った。そうして、気がついたらいつの間にかNSPの楽曲の殆どをコピーしてしまった。
そして僕は大久保という友人と一緒にフォークソンググループを結成し、名前を「COSMO」と名付けた。僕らは週に3回放課後を利用して演奏と歌の練習をした。大久保はかぐや姫の伊勢正三のファンで、「二十二歳の別れ」や「なごり雪」を唄わせたら学校で右に出る者はいなかった。さらに僕たちは井上陽水の楽曲とNSPが持ち歌となった。
勿論、オリジナル・ソングも作った。僕もヘタクソな詞を書いてコードをたどりながら作詞・作曲に精を出した。それでも、何故か僕たちの呼吸がぴったり合うのはNSPだった。
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