桜の花も散り始めた、小雨まじりの寒い朝。小学3年のシンくんが、祖母に連れられてフリースペースにやってきた。小さな手に、シシャモの入った袋を握りしめている。「うわぁ、おいしそう。これ、どうするの」と聞くと、外で焼きたいという。
さっそく枝を探し、プレーパークエリアのかまどで火をおこした。湿った木から白い煙がモクモクとあがる。うちわであおぎながら、シンくんは話す。今朝、「学校に行きたくない」と言ったら、親とケンカになった。家に居づらくなって、近所の祖母の家に家出してきたのだと。
毎年春は親子にとって、ハラハラ・ドキドキする季節だ。学年が変わったら、学校に行けるだろうか。担任はどんな人だろう。友だちと同じクラスになれるだろうか。
親の願いが届かず、今年も学校へ行かないことが見えてくると、親の口からは否定的な言葉が飛び出す。「このまま学校へ行かなくなったら、生きていけないよ。いま勉強しなかったら、この先たいへんなことになるぞ」
でも、将来に対して不安を抱いているのは、親だけじゃない。実は子どもたちは、ゲームをしていても、マンガを読んで笑っていても、心の中では漠然と見えない先のことを心配し、不安で押しつぶされそうになっているのだ。
不登校の子どもとかかわって四半世紀。子どもたちから教わったことは「人はいつでも変わることができる」ということ。いくつになっても、学び始めることはできる。小・中学校に行けなくても、高校や大学で学んでいる子はたくさんいる。職についた子や、結婚をし、子育て中のカップルだって何組もある。
その一方で、学校に行けないことをなじられ続け、自信を失い、動けなくなってしまった人からの相談が後を絶たない。親の発した言葉がやいばとなって子どもの心に突き刺さる。「学校に行けないならうちの子じゃない」「どこで子育てを失敗したんだろう」
失敗作のレッテルを張られ、自分の存在を否定された子が、どうして前に足を踏み出すことができるだろうか。
将来の不安を突きつけられて元気になる子なんていない。無条件に丸ごと存在を受け入れられている安心感が子どもの中に宿ると、不思議と自ら動き出す。行かせようとする親の無理なコントロールがなくなった途端に……。
焼きあがったシシャモは、みんなでおいしくいただいた。こころなしか、ちょっぴり苦い味がした。(NPO法人フリースペースたまりば理事長)=次回は5月9日
毎日新聞 2010年4月25日 東京朝刊