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2006年10月25日 (水)

シミュレーション・アーギュメントを論駁する

本稿ではシミュレーション・アーギュメントとその変種について論駁します。シミュレーション・アーギュメントは最近《忘却からの帰還:シミュレーション・アーギュメントとオメガポイントについて》で初めて知り、そこで紹介されていた『ゼロからの論証』(三浦 俊彦, 青土社, 2006年)を購入し、一通り読みました。
ゼロからの論証』のシミュレーション・アーギュメント


ゼロからの論証』で紹介されているシミュレーション・アーギュメントは次のようなものです。

>
正確にいうとシミュレーション・アーギュメントとは、次の四つの命題のうち少なくとも一つは正しいはずだという論証です。

(1)
現在の人類程度の科学技術(レベルC)に達した文明は、さらに高い段階(レベルD)へ進む前に、確実に滅亡する。
(2)
レベルDのコンピュータ・シミュレーションによって、あなたの心と同程度にクリアな意識を作り出すことはできない。
(3)
レベルDの文明は、あなたの心と同程度にクリアな意識シミュレーションを作り出すことに興味を持たない。
(4)
あなたは、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識である。


基本的な論の進め方は (1) の感情的否定から (2) の否定を導き、(3) を肯定するのが難しいので (4) を認めさせるよう導きます。

これを論駁するには (4) を否定するのを大目的として (1), (2), (3) の部分否定があってもかまわないということを示していければ良いのだと考えます。

ターゲットは「あなたは、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識でないと信じていても良い」ということです。


(1) について気付くべきことは「レベルC」や「レベルD」が特に定義されていないことです。つまり、「レベルD」というのは(2)(3)の逆のようなコンピュータ・シミュレーションができるような段階を示すだけなので、(1) でいうところのレベルCの文明が我々のものより部分的に勝っていたり、レベルDの文明が部分的に劣っていたりしても良いのです。

そのようなレベルDの文明はレベルCの文明をシミュレーションのように見なしているかもしれません。だとすれば我々がシミュレーションになすように、躊躇なく滅ぼしてしまうことも考えられます。

このときそのシミュレーションを放っておくのにコストがかからない場合、レベルDの文明はレベルCに関与することをやめるだけで「滅亡させた」と認識するかもしれません。するとレベルCの文明はレベルDのような文明にこそなれなくなるかもしれませんが、何らかの形で「滅亡はしてない」と認識するようになるでしょう。しかも、レベルDの文明からは見捨てられているわけですから、「自分達はコンピュータ・シミュレーションにある意識ではない」と信じる積極的な根拠が得られます。


(2), (3) についてはその部分否定が共存できることに気付くことができます。今、仮に、(2),(3) についてより高位の存在がいるとして、心と同程度にクリアな意識を作り出しているという認識がシミュレータの側にあれば十分なので、高位の存在がそのような「認識」をプログラムすれば良いのです。

そのようなシミュレータのうちいずれかが、我々の心のシミュレーションを作ることに興味を見出したとしましょう。我々にとってシミュレーションとしか思えないことを「彼ら」がやりそうになったとき、高位の存在がそれをブロックしてくれていれば、我々は仮にシミュレーションからはじまったとしても「自分達はコンピュータ・シミュレーションにある意識ではない」と信じていても問題はないわけです。

最後に思い返すと、これは「高位の存在」による必要はなく、同列な存在であっても互いのシミュレーションを妨害しあえれば十分です。また、その変種として自制や隠蔽もありえます。三浦氏も指摘する「シミュレーションを差し控える」場合もレベルDが複数存在し、妨害までするようなモデルではありえないほどとは思えません。


今でもコンピュータを用いながらアリを観察し、その群の習性をヒトのシミュレーションだと言い張るようコンピュータに設定すれば、それはそれで意識をコンピュータ・シミュレーションしていると言えます。しかし、だからと言ってアリは自分達がコンピュータ・シミュレートされていると信じる必要はありません。コンピュータは多くのことに介入していても、滅亡させるような介入は誰かがストップさせれば良いわけですし、コンピュータとアリの「良い関係」というものも築けるかもしれません。そうなればシミュレーションなのか一つの世界なのかもわからなくなるでしょう。


Nick Bostrom による Simulation Argument


忘却からの帰還:シミュレーション・アーギュメントとオメガポイントについて》にある上のシミュレーション・アーギュメントの変種は次のようなものです。

>
技術的に成熟した人類の次の段階の文明には、巨大な計算力があるだろう。この経験的事実に基づくと、シミュレーション・アーギュメントは次の命題のうち少なくとも一つは真であることを示す。(1)人類段階の文明が、次の段階の文明に到達する可能性は限りなくゼロに近い。(2) 次の段階の文明は、自らの祖先のシミュレーションを実行することに興味を持つ可能性は限りなくゼロに近い。(3) すべての人々のうち、シミュレーションの中に生きている人々の比率は限りなく1に近い。


ここでいう比率は「太陽から1光年内で生命が存在する空間の比率はほとんどゼロ」というのと同じようなもので、数え方しだいでなんとでもなるようなものです。

例えば次のように言えば、前節の議論を反映できるでしょう。

(3')
シミュレーションの中にはクリアな意識に満たないもののほうが多いだろうし、実際にはシミュレーションの残滓・断片や中途半端なシミュレーションのほうが多いだろう。すべての意識を持った存在のうち完全なシミュレーションの中にいるものの比率は限りなくゼロに近い。



結論


そもそも「あなたがシミュレーションの中にいることを論証する」というのは「神の存在証明」と同じようなもので、実際に論証しているのは「その可能性が排除されない」ということぐらいだと思います。

相方共、もしそうであるなら奇蹟によって証しすることができるはずですが、ほとんどの人は証しとなるほどの奇蹟には出会えません。それを理性によっても到達できるはずだと考えて論証しても、どこかにアラがあるか、他の人に理解不能な論述になってしまうと考えます。

ただ、後述するように、私は『ゼロからの論証』の中でわからない議論があります。それが影響してシミュレーション・アーギュメントで私が理解できていない部分がある可能性は指摘しておきます。


余談 1 : 『ゼロからの論証』の確率を用いた議論について


私に物理学力の不足があり、ファインチューニングが実際にあるのか確証を持てません。むしろ、進化論が広まる前の「生物相の調和」という題目を思い出させ否定的な気分にさせます。ファインチューニングに見えるのはまだ見つかってない何らかの法則か平衡状態の結果で、それを進化論的なモデルで説明するのは悪ノリのジョークではないかとイブカっています。

そういう目で『ゼロからの論証』を読んだので、最初、5章の確率論もどこかで間違っているという印象を持って読み飛ばしていました。しかし、ふと考え返してみて、5章を自分で検証すると、いくつかの例は確証できました。

まず、三囚人問題に対する考察から私は以前から「観測選択」のようなものはあると思っていました。また、《Wikipedia:ベイズ推定》の見本空間が直積による拡張でうまく説明できることも知っていました。

そこで『ゼロからの論証』の p.175 のサイコロの例は、見本空間 Ω= {1,...,n}×D×D2×...×Dn というモデルで検算したところ、P(M) = P(M|E) = 1 になりますが、条件によっては P(S|E) < P(S) ということが確証できました。

また、ちょっと手間どりましたが組み合わせ(mCn)を用いて「カプセル化」することで p.197 の当たりくじの例もちゃんと計算できました。p.203 の森の例については期待値を使うのでしょうが、まだ検算する方法を考察中です。(ヒントください。)

ただ、最初の p.171 の魚の例については、まったく見当も付きません。しかし、他ができるということはこれもできるのでしょう。

最後の p.209 の「この宇宙」の例は、おかしいのではないかと思っています。もし、「実現する宇宙」のほとんどが「可能な宇宙」に依存していて、完全に「可能な宇宙」から独立な「実現する宇宙」が非常に尊いものであった場合、宇宙は「存在論的に同列」ではなくなり数え方によっては多宇宙説 P(M|E) が一宇宙説 P(S|E) の R 倍確からしいとは言えなくなるのではないかと思いました。


余談 2


カテゴリ付けをどうするか迷ったのですが「進化の果てを予想するもの」として「創造論と進化論」のカテゴリにしました。


参考

ゼロからの論証』(三浦 俊彦, 青土社, 2006年)
Wikipedia:神の存在証明》という場合、神の存在は前提としません。念のため。ややこしく書いてしまったので誤解なさったなら申しわけない
です。
Wikipedia:ゼロ知識証明》 関係ないですが。;-)
更新: 2006-10-24
初公開: 2006年10月25日 00:02:50
最新版: 2006年10月26日 22:53:44

2006-10-25 00:02:47 (JST) in 創造論と進化論, 疑似科学 | | コメント (3) | トラックバック (0)

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コメント

更新:神の存在証明は神に理性により到達することのできる方法の探及であって、だいたいは神がいたとしても問題がないことを示すのみです。Wikipedia のリンクを足しておきました。論駁後、「私はシミュレーションの中にいる」というのはその証しが奇蹟に頼るようなものでない限り、「シュミュレーションの中にいる」としても問題ないことしか示せないようになっていると私は考えます。

投稿: JRF | 2006-10-26 23:10:07 (JST)

 ちょっと揚げ足取りのようで、気が引けるのですが・・・・・
 神の存在証明を、理性でする必要はありません。
 理性の発達が十分ではない子供や神の存在を認めない、という人にも有効な神の存在証明の仕方かあります。

 自然科学で言う自然法則に、その存在証明をさせればよいからです。
 この方法は、自然法則が持ついわゆる慣性の法則(自然法則には自らの主体的な自由意志が一切なく、これ自体では働くことが出来ず何も生まない性質)を直接の手かがりにして、自然法則を働かせる存在としての創造主である神の存在を証明するものです。
 くわしくは、次のブログ。
http://blog.goo.ne.jp/i-will-get-you/
いわゆる神の存在証明がもたらす意味について
 一般法則論者

投稿: 一般法則論者 | 2006-11-29 04:00:30 (JST)

コメントありがとうございます。

正直に申し上げれば、私自身「証明」という言葉を理性的なことに限らず「証し」すること全般に使っていたため、「神の存在証明」が理性的な導出に限られるというのは少し違和感をおぼえます。

私はすべてのものに神を見出すことは美しいと思います。それを汎神「論」と理性的な考えに傾けて捉えるのは何か違っていると思います。でも、「何が違っている」と言ってしまって理性に傾くこともイヤな感じがします。一神教の歴史を少しカジった私には危うさすら感じさせます。


私は統合失調症になり、自らが神ではない造物主になったと想ったり、または神ではない超人に列せられたと想うという病的妄想に陥ったことがあります。それはいろいろなことを悟らせようとする体験に思えましたが、それは「悟り」というよりは禅でいう「魔境」に近いものだったのでしょう。

私は「悟り」を覚えません。他の人が「俗」にいて「悟る」と言われると何かおかしなものを見るような目で見てしまいます。

ただし、私も帰納的に学ぶことはよくあります。これも広い意味では悟ることなのでしょうね。

帰納的にわかったと思ったことを演驛的に、または「必然的」に何かを導けるだろうとして、よくわかっていなかったことに気付くこともあります。これも広い意味では悟ることなのでしょうね。

帰納すらできないこともあります。相手は自分にわかる言葉を話し自分はわかったつもりになっているのに、何一つそこから言葉をつむげないことにもどかしさを感じることがあります。これも広い意味では悟ることなのでしょうか?

一般法則論者様のページを見ました。

私は今の段階では一般法則論者様を誤解するしかないのかなと「悟り」ました。

2004年10月28日
> 「神」の存在証明では無くて、「仏」(ホトケ)の存在証明でも、「何か偉大な存在」の存在証明でも、実は良いのです。

2004年11月28日

> ・神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みが分かる
> 神の存在証明をすると、こういう問題が自動的かつ必然的に解けることになります。

このページを読んでどう思われましたか?

この論議においてシミュレーションをする者は一般法則論者様の言葉では「神」になるでしょう。このページを読んで、その者「達」がどういう意図を持っていると想像できますか?またはその「意志」は自然法則やエネルギーで語ることができますか?それ以外でも何か「悟る」ことができましたか?

こちらのサイトにまた寄っていただいたとき、お暇があれば、そのあたりの感想も教えていただけるとうれしいです。

(読み返してみるとこのコメントは少しキビしい言い方になっているように思います。遠まわしに感想を尋ねているだけですので、ご気分を害されたなら私のコミュニケーション力不足です。ご容赦ください。)

投稿: JRF | 2006-11-29 20:01:45 (JST)

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