沖縄教科書検定撤回県民大会11万人のウソ
テイケイ株式会社が実数を計測
18,179人
大会写真を104のコマに分けて拡大、大会参加人数を18,179人と算出した。
建物、木陰、写真外等を推計しても19,000〜20,000人が実数の上限と分析。(テイケイ株式会社提供)
沖縄戦による集団自決は「軍による命令」説が定着し、援護法が適用され年金も受給されてきた。ところが、近年、風向きが変わってきた。とりわけ、命令を出したとされる赤松元大尉や梅沢少佐の遺族が岩波書店とノーベル文学賞を受賞した大江健三郎氏を相手に損害賠償を大阪地裁に起こしたことで、衆目を浴びるようになっていた。教科書会社でもこの裁判を重くみたのか、「軍による命令」という記述をしている教科書は皆無だったと聞く。焦った沖縄の関係者は大々的な集会を画策し、あらゆる団体に動員を呼びかけた。そして行われたのが九月二十九日の教科書検定撤回県民大会だ。
沖縄の地元新聞は当然申し合わせていたのだろう。十一万人という数字を強調し、全国紙の雄、朝日新聞も一面トップで十一万人という数字を踊らせていた。この報道に腰を抜かしたのが町村官房長官と渡海文科大臣だった。渡海大臣に至っては、大会前から「どういう大会になるのか、見極めて対応させていただきたい」というコメントを出し、はなから腰が引けていた。
ところが、この数字に反論する声が上がってきた。まず、産経が会場の広さから推定して四万人がやっと、写真には隙間も多く見られる旨の疑問を表明した。
実数を調べたのは、日本会議熊本理事長の多久善郎氏。琉球新報に掲載された会場写真に写っている人数を熊本大学の学生にカウントを依頼、一週間かけた結果、一万三千三十七人という数字を発表した。
さらに都内の警備会社、テイケイ株式会社(旧帝国警備保障)も会長の肝いりで、実数のカウント作業を行った。大会写真をタテ八、横十三に分割して、それぞれの升目の人数を数えた結果は、視認可能部分の合計は一万八千百七十九人だった。建物、木陰、写真外等を推定しても総数は一万九千人から二万人と分析している。
高花会長は、「参加者十一万人は真っ赤なウソ。産経新聞発表の四万三千人をも下回り実数は一万八千百七十九人。その根拠をご覧ください」と、参考資料として全体写真と部分写真二十四枚(いずれもA3サイズ)のカラーコピー、それに高花会長の「訴え」ともいえるコメントを当社にも送ってくれた。
集会を主催者が発表すれば、警察発表の数倍というのが相場だ。しかし、今回は警察発表はなかった。実数を発表すれば地元住民が警察に協力しなくなるという脅迫観念が警察にはあったようだ。それにしても、情けないのは町村官房長官と渡海文科大臣の腰の砕けたコメントだ。町村官房長官は早速、「訂正や修正ができるかどうかは、関係者の工夫と努力と智恵というものがあり得るかもしれない」と訂正の可能性を匂わせる発言をしている。「教科書にウソの記載をしてもいいよ」と読みとれるし、十一万人という数字をバックに教科書会社に「書き換えろ」と圧力をかけているようにも読みとれる発言である。これは事実上検定への政治介入と言っていいだろう。さっそく、教科書会社から訂正申請が出された。
しかし、十一万は虚偽の数字であることが分かった。「軍の命令」も無かったことが明らかになりつつある。真実に前には如何なる圧力も通用しなくなるだろう。そのことを沖縄の関係者、為政者は知るべきだろう。
ところで、朝日新聞は例によってほっかぶりだ。それを産経に指摘されると、お前だって十一万人と書いたじゃないか、と言わんばかりに開き直っている。
その朝日新聞、大阪地裁の沖縄戦集団自決訴訟で、大江健三郎氏が出廷したが、そのバランス感覚は見事としか言い様がない。一見、対等・公平な取り上げ方だが、第三社会面では見事に大江氏側に立った記事となっている。
ここでも産経新聞は切り込んでいる。牧野克也記者は、「記述の真実性について、大江健三郎氏は『元守備隊長には集団自決の責任があった』と論点をすり替えた抽象論に終始した」と指摘している。
巨大メディアと言えどもウソは通用しない時代に入っている。朝日新聞が一日も早く、イデオロギーという呪縛から解放されるよう願うばかりである。
うろたえるな!渡海大臣
集団自決の軍命令はなかった
テイケイ株式会社
会長 高花 豊
米軍が沖縄の座間味島と渡嘉敷島に攻め込んできたときに追い詰められた住民数百人が集団自決するという痛ましい出来事があった。これをそれぞれの島の部隊長梅沢少佐、赤松大尉の命令によるものであるという記述が昭和25年に沖縄タイムス刊行の『沖縄戦記 鉄の暴風』に載って以来、事実であるかのように広がっていった。さらに両島では遺族が援護法によって年金を受けるための理由としてこれがとりあげられたこともあって、定説化していったのである。教科書に軍命令説が載るようになったのにはこのような背景があった。
しかし、「集団自決軍命令説」は虚構性がその後明らかになってきた。座間味村では、村の助役の指示に従って「住民は隊長命令で自決した」とうその証言をしていた元女子青年団長(宮城初枝さん)が良心の呵責に耐えかね、事実は梅沢隊長のもとに自決用の弾薬をもらいに行ったが追い返されたと告白した。実際に集団自決の命令を下したのは、村の助役だった(実弟で座間味遺族会会長を務めた宮村幸延氏の自筆証言書あり)。渡嘉敷島の隊長赤松大尉は住民の自決を知って「何と早まったことをしてくれたんだ」と嘆き悔やんだ。ここでも命令したのは村長だった。しかし戦後赤松氏は後任の村長に懇願されて自決命令を出したとするニセの証明書を厚生省に出していた(年金受給の為)。その間の事実については、元琉球政府職員で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わっていた照屋昇雄氏の勇気ある最近の証言によって、赤松大尉の無実が証明されている。
『鉄の暴風』に書かれていることは荒唐無稽のものも含め極めて歪曲されたものであることが今では明らかになっているが、この記述をそのまま事実とし、両部隊長の人格を全否定するような論をしつこく書いているのが大江健三郎著『沖縄ノート』(岩波書店)である。冤罪を晴らすべく、梅沢裕元少佐と赤松元大尉の実弟赤松秀一氏はついに平成十七年八月五日、大江健三郎氏と岩波書店に対し、名誉毀損と損害賠償の訴訟を起こした。現在大阪地方裁判所で審理が行われている。
この集団自決に関しては、曽野綾子氏が直接当事者に取材して『ある神話の背景』(文藝春秋)というノンフィクションを書かれているが、真実は圧倒的に原告側にあることはいうまでもない。
現在沖縄などの検定見直しを要求する人達は、もともと虚構の隊長命令に基づいて軍命令による集団自決を主張し、教科書もそのように記述していた。ところが最近虚構が明らかになってきたため、「軍の関与」ということを言い出し、それを論拠として、軍命令の削除の取り消しを要求するようになってきている。その証拠の一つに自爆用の手榴弾が配られた、ということを言っているが、これは住民による防衛隊と陸軍部隊とを混同した話である。したがって隊長が住民に自決命令を出したりする権限は持っていなかった。住民を指揮する権限を持っていたのは村長・助役など村の行政であり、それが防衛隊を組織していたのである。防衛隊から配られた手榴弾を、軍から支給されたと証言する人がいるが、これは日本軍とは直接関係はないのである。責任をたどれば住民の長に行き着くことになりかねない。いずれにしても住民感情と事実とを混同してはならない。
イスラームと日本(42)
イスラームの奥義に「生長の家」の
「神想観」によって参入することが出来る!
CDP代表 ハージ 澤田 沙葉
本紙前々月号において、現在のイラク情勢は、イスラームの奥義が明らかにされるための「産みの苦しみ」であると述べた。それを乗り越えるためには先ずイスラームの基礎であるクルアーン(コーラン)には明らかな意味と秘められた意味である七つの意味があることを知らなければならない。
現在は一般にクルアーンの七つの意味の内の一つだけが知らされている。七つの意味の幾つかだけを知る時、イスラームは普通考えられていることとはまったく違うことが分る。時には正反対に理解されていることが分る。クルアーンの七つの意味を知っているのは予言者ムハンマド(彼と彼の子孫の上に平安あれ)の従兄弟であり娘婿であるアリーである。アリーは最初のイマーム(導師)である。
この「イマーム」というのは実に重大な意味をもっているが此処では割愛して最初のイマームであるアリーはクルアーンの七つの意味をその息子のハッサンとフセインに伝え、それよりその教えの正統な継承者であるイマームたちを経て「現在のイマーム」(導師)に伝えられた。その現在の導師を「イマーム・イ・ザマニーヤ」(普通「イマーム・ザマーン」と呼んでいる)と称するのであるが、「グアイブ」という特別な状態に入っている。この「グアイブ」の状態を普通「神隠れ」あるいは「不在」と説明し、理解されているが「超能力」あるいは「超自然」の状態というべきである。
とにかく普通の人の五官では見ることも出来ず、聞くことも出来ず触れることも出来ない……のであるが、断食あるいは祈り等によって霊的にある高さに達した人はいつでも「現在の導師」に接し、教えを受けることが出来るというのである。このことはイスラームの最も大切なことは断食あるいは祈りによって「グアイブ」の状態にある「現在の導師」と接触できるようになれということを教えている。この「イマーム・イ・ザマニーヤ」あるいは「イマーム・ザマーン」に接する方法がイスラム界に伝えられている筈であるが残念ながら現在までそのような方法が見当たらない。
ところが「灯台下暗し」で日本の生長の家の行法「神想観」によってそのイスラームの奥義に参入する糸口が開かれるのであるからまことに驚きである。生長の家の創始者・谷口雅春先生は「神想観」という行法を創案された。「神想観」というのは正座して目を閉じ合唱して生きとし生けるものを生かし給へるみ親神……≠ニいう「招神歌」を唱え、それよりわれ今五官の世界を去って実相の世界にいる、ここがこのまま実相世界である、眼路の限り十方世界ことごとく神なり、神の無限の生命の海なり、神の無限の知恵の海なり、加味の無限の供給の海なり……≠ニ念じ、実相世界を観想するのであるが、この五官の世界を去って実相の世界に入るというのが此処で問題にしているイスラームの奥義である「グアイブ」を解明することが出来る。
神想観について此処で書いた説明に間違いがあればお許しいただきたい。もちろんイスラームの奥義を知るためにはクルアーンをアラビア語の原典で読むことも必要である。
さらに驚くことがある。クルアーン五十二章に「バイトウル・マウムール」という極めて重要な言葉が述べられている。これは普通不断に詣でられる神殿」と訳され、メッカのカーバ神殿を指すとも言われる。いずれにしても七つの意味があるのであり、アリーの説明によれば<oイトウル・マウムールは常に数え切れない天使たちが神を称えて七回めぐる天上の神殿であるということであるが、驚くことには「生長の家」あるいは「生長する家」という意味もある。とにかく生長の家の神想観によってイラク問題が根本的に解決されると言えばすべての人が驚かれるであろう。
さて前号においてトリウム採用によってイランとアメリカの国交正常化を成功させるためにCDP(Communitarian Democratic Power)の名称で寄稿する≠ニ述べたので、何故そうなるのか簡単にご説明したい。CDPというのは欧米ではChristian Democratic Party:キリスト教民主党の頭文字として広く知られている。今から約百年前に大教皇と言われるローマ法王レオ十三世が「キリスト教民主主義について」という回勅を出した。当時は資本主義万能の時代で労働者の権利は見向きもされない時代であったので教皇レオ十三世は「キリスト教民主主義」に基づいて人権を擁護することを強く訴えた。これに感銘した信徒が世界各国で「キリスト教民主主義」を実現するための大運動を起こし大変な支持を受けた。CDはファッシスト、ナジズムが台頭するとともに弾圧を受けたが、第二次世界大戦で懲り懲りした人々は″ト建にはキリスト教民主主義しかないと政党を組織し多くの国で政権を担当するに至った。日本では四十五年ほど前、カトリック信徒がカトリックの政治連盟を結成しようとした。これを知った元首相の片山哲氏から共同で「キリスト教民主同盟」を結成しようという申し入れを受けたが実現するに至らなかった。とにかくカトリックの信徒により「キリスト教民主主義促進会」が結成され、筆者がその事務局長に選ばれ、ローマに世界本部をもつ「世界キリスト教民主同盟」とも連絡し、一九七三年から毎年ローマで開かれるCDの世界会議、そのほかに出席した。その頃は世界七十五カ国にキリスト教民主党あるいは民主同盟が結成され、イタリア、ドイツ、ベルギー、ベネズエラ、チリー……など十七カ国で政権を担当しており大変な勢力であった。アメリカのケネディー大統領もCDであった。
ところで当時の「世界キリスト教民主同盟」の事務総長はグアテマラのCDP総裁が務めていたが、日本の場合はCommunitarian Democratic Powerの頭文字とすべきであると強く薦めたので、それに従っている。諸宗教との協力という観点からのようであった。ノーベル賞委員会の委員にもスウェーデンのCDP代表が加わっている。
さて、いわゆる「オイル・ショック」で俄然イスラム産油国が台頭し、世界を動かすに至った。そこで「世界キリスト教民主同盟」としてもイスラム圏との関係を強める必要が起こり「イスラム局」を設けることになり、筆者がその責任者に選ばれた。丁度そのころタンザニア大統領の要請によって行政指導に同国に行っていた旧制三高の旧友がイスラムを知らなければこれからの世界を語る資格はない≠ニ強く勧めたこともあって本格的にイスラームの研究を始めたのである。最初は岩波文庫の「コーラン」を買って来て七回繰り返し熟読玩味し、当時首都圏で唯一のイスラム団体であった「日本ムスリム協会」に℃рヘ「世界キリスト教民主同盟」の日本代表であるが、お話を聞きに伺いたい」と申し入れたところ、論戦が始まると思われたのかコーランを日本語に訳された日本イスラーム界の最長老・三田先生はじめ総出で待ち構えているということもあった。それが今ではイスラーム界でチョッと知られた存在だから人生は不思議なものである。
それはともかく、クルアーン第二章には人類はもともと一つの「ウンマ」(共同体:Community)である≠ニ啓示されている。一つの共同体になれ!≠ニいうことであるが、Communitarian Democratic Powerというのは正にクルアーンのこの教えにピッタリである。湾岸戦争の時はCDPとしてサダム・フセイン大統領、サウディ国王、エジプト大統領……それにローマ法王に手紙を出したり、縦横無尽の活躍をしたものである。このような訳でCDPは「双頭の鷲」ではないが、イスラム界と同時に欧米にも強力なルートをもっている。そこでトリウム実現にはCDPの力が強力に役に立つのだから「有難い」訳である。
アルハンドリラー(神に感謝)!
風神雷神
防衛省の守屋武昌元次官の証人喚問が額賀財務大臣にまで飛び火している。この人は大臣になるたびに問題に巻き込まれてしまう。何とも不運な星の下に生まれてきたのか、とも思うが、大臣にまで登り詰めている。たぶん、神様がどこかで「君は総理の器ではないよ」とささやいているのだろう。▼それにしても、この証人喚問の方向性はこれでいいのか。突き詰めれば『山田洋行』の社長・米津佳彦と山田正志元オーナーという山田グループと同社元専務で、『日本ミライズ』社長の宮崎元伸氏との争いではないのか。山田グループが宮崎氏を検察に売り、内部抗争が表面化した。一部では逆ロッキード事件という見方のあるようだ。だとすれば、山田グループがそのように仕掛けているということだろう。検察は舐められたものだ。▼接待は宮崎だけではなく、山田も同じ穴のムジナのはず。だからこそ田村秀昭参議院議員の名前も出てきた。ところが、参院の証人喚問では誰もがこの事実を追求しない。すれば、小沢代表にまで飛び火するはずだが、自民党は恩を売っているのか、腰が引けているのか。▼二ヶ月くらい前になるだろうか。当社もこの事件に関係があるらしく、大手新聞から第三者を通して取材の申し込みがあった。あれからどうなったのだろう。竹とんぼの売買というなら話はわかるのが…。▼ま、どちらでもいいが、軍事産業の暗部をえぐるというならそれでいい。しっかりやってもらいたい。その過程での国会への証人喚問もいい。しかし、国会が最優先すべきは法案をしっかり議論することだ。それが、逆転している現状を国会議員はしっかりと認識するべきだろう。▼民主党が真に政権政党になりたいと思っているのなら、せめて国会の優先順位くらいは守って貰いたいものだ。
直言
機能不全に陥った日本国
まずは国会(参院)を動かせ!
日本国は完全に停滞してしまった。これが小泉首相が望んだことだったのだろうか。「自民党をぶっこわす」と豪語し、田中派を駆逐するまでは良かったが、その後、小泉首相は舵の切り方を間違えた。ひたすら郵政民営化、つまり、日本資本を外資の餌にすることのみに邁進してきた結果、国民経済は麻痺し、円の潤滑油としての機能は大企業やIT関連、金融界のみでしか機能しなくなった。そうして、参議院選挙の二ヶ月前、仕掛け爆弾が大爆発を起こした。定率減税の廃止だ。なぜ、参院選二ヶ月前だったのか、いまだに疑問が残る。選挙までの二回の給料日、筆者の周辺からは「今回は絶対に自民党にはいれない」という怨嗟の声しか聞こえてこなかった。また本来、自民党支持層であった年金受給者までも敵に回した結果は、選挙に働いていた国民のバランス感覚までも喪失させていた。
小泉政治のツケ
参院選は雪崩現象を起こして民主党を独り勝ちさせたが、そのツケが今、国会の停滞という形で、この国を蝕もうしている。今国会最大の焦点である、テロ特措法は期限切れ、インド洋の給油活動はストップしてしまった。敵前逃亡のようにインド洋から逃げ帰らざるを得なかった自衛艦に、最後の給油を終えたパキスタンの艦船は「君が代」で自衛艦を見送ったと、宮島茂樹カメラマンが報告している。
軍人同士、相通ずるものがあるのだろう。また、日本軍の練度の高さに瞠目したであろう。自衛艦乗組員の悔しさ、やり切れない心の憂さをも察知し、「君が代」で晴らしてくれたのだろう。おそらく自衛官たち、パキスタン艦船が見えなくなるまで微動だにせず、挙手の敬礼をしていたのではないだろうか。
国会に戻ろう。小沢民主党代表の辞任騒動が一段落するや守屋氏の証人喚問が、「額賀財務大臣を証人喚問へ」と、民主党はエスカレートするばかりである。優先順位を取り違えた国会がどれ程国益を失うか民主党の議員にはまるで見えていないようだ。
正しかった小沢氏判断
しかし、さすがに小沢代表は違っていた。大連立構想は小沢氏が言うように、民主党が政権を獲得するに最善の道である。なぜなら、政策が国民生活に直結していなければならないため、現実社会に横たわるあらゆる問題を、あらゆる角度から検証し現実化していなければならないからである。野党は、与党案に反対するために、哲学、机上論、原則、いわゆる正しいことだけを言っていればいい。そこに与党と野党の決定的な違いがある。そのことを小沢氏は十分に承知しているから、連立を組み、議員を内閣に送り込み、実戦で鍛え、国民に評価してもらおうとしたのだろう。民主党議員はそれに耐えうると判断したのだろう。しかし、管氏や、連立の行く末は崩壊以外にはないという恐ろしさを体験している社会党出身者が反対するのは分かるが、なぜ、鳩山氏まで反対したのか、それが理解できない。それほどに、鳩山氏が野党ボケしてしまったとは思いたくない。
外交も手詰まり
外交も停滞している。日米首脳会談は表敬訪問程度でしかなかったし、トンボ返りしてシンガポールでの東アジアサミット外交も踏み込んだものはなかった。ASEAN諸国には第二の福田ドクトリンを期待する声もあったが、ODA外交のオウム返しでしかなかった。
早く国会を動かせ
早く国会が動くようにしなくてはならない。そうしなければすべてに機能不全をおこし、日本国は世界の中心史から周辺史へとはじき飛ばされてしまうだろう。アジアのダイナミズムにはそれ程の力ある。
衆議院を含めてもいいが、参議院から党議拘束を外す。これ以外に国会の停滞を解消する方法はないのではないか。
これも小沢代表の手腕にかかっている。連立を全面否定された小沢氏は、党内における求心力は完全に失墜した。これを回復するため起死回生のための手が辞任表明である。小沢氏が本気で辞任する気なら、ウムも言わさず辞めただろう。それが、執行部に辞意を預けるというような表現で止まった。周りは必ず制止するとの読みからのパフォーマンスであろう。従って、当然の如く辞意を撤回し、求心力も復元したようだ。
小沢代表は国と民主党を両にらみし、大連立に踏み出そうとした。それが失敗した今度、民主党主体の舵取りか国家主体の舵取りかを選択しなければならない政治決断を迫られる立場になっていることを自覚すべきだ。
11月2日 山口二矢墓前祭
南青山 梅窓院
今年も50人以上が参列、法要が行なわれた。(南青山梅窓院)
今年も山口二矢烈士の命日が来た。十一月二日、山口烈士が東京鑑別所で自決した日である。
東京鑑別所。刑務所ではなく鑑別所。当時、山口烈士は年齢十七才という若さである。今から四十七年前、日比谷公会堂において三党首(自民党、民主党、社会党)演説会で当時の社会党委員長、浅沼稲次郎を演説中に刺殺した。そして、山口烈士は東京鑑別所で自決した。
この事件は昭和の大事件である。今の若い人達はまったくと言っていいほどこの事件のことを知らないだろうが、昭和に生まれた人達にはこの事件は語り継がれ記憶に残っているに違いない。
南青山にある梅窓院に山口烈士は眠っている。毎年十一月二日、十一時より民族派有志は山口烈士の墓前で法要を行っている。今年も五十名以上の有志が山口烈士の墓前で合掌した。
十七才という年齢で日本の将来に危機を感じ、単身で浅沼委員長に天誅をくわえた昭和の大事件。その行動に民族派有志は敬意を表し、毎年墓前祭を行っている。
法要を唱えた住職の説法の中に、「事件を起こした事はお寺としては肯定できないが、仏が選んだ行動はとても勇気がある。」と説いた。
今の時代、大人でも青年でもこんな行動を起こすことはないだろう。「時代」と一言で片付けてしまえばそれまでである。しかし、そんな言葉では片付けられない。なぜ山口烈士がこのような行動に駆り立てられたのか。沢木耕太郎著のテロルの決算を読んでみればわかる。考えに考えての行動である。
この事件に関しても賛否両論、いろんな意見があるだろうが、ホリエモンや年金など自分のことしか考えない今の世の中に、今一度この事件を思い出し、日本の行く末、世界の行く末を考える時代になってほしいものだ。
日本の『食の安全』健康食品を斬る
告発レポート 疑惑のハチミツ業界 Part32
無責任・ずさんな協議会と業者の実態
-ダメ業者よ「薬蜜本舗」を見習え-
みつバチ達には罪もなければ、国境もない
協議会の組織力の限界
前号で、(社)全国はちみつ公正取引協議会(以下、協議会)の組織的欠陥について触れたが、さらに検証を加えたい。
協議会は中央区日本橋本町にあるビル五階に事務所を構えている。五階フロアには協議会を含め三つの事務所が入り、協議会の事務所は八十平方メートルくらいの広さだろうか。
協議会の名称には「全国」という言葉が頭についている。「全国」という言葉から中央区にあるような事務所が全国に、少なくとも大都市圏や養蜂業の盛んな地域などに何ヶ所かあるのだろうと思うが、実際には中央区の事務所一ヶ所しか協議会の連絡先は存在しない。
しかも、そこで働く常勤職員は岡本光治専務理事と事務職員の二人だけだという。岡本専務理事は公正取引委員会からの天下りで、養蜂経験があるわけでも成分検査の経験があるわけでもない。養蜂、検査に関してはまったくの素人である。
さらに、協議会はハチミツの成分を分析する独自の検査・研究施設を所有していない。中央区日本橋本町の事務所には検査機器すら一つとして置かれていない。
都内に一箇所ある事務所にたった二人の職員、機材や検査施設を持たない団体がどのように全国に散らばる養蜂家、ハチミツメーカーを指導・監督するのだろうか。また、年間四万トンも輸入される外国産ハチミツに目を配るというのだろうか。
仮に養蜂場や製造工場、原産国へ足を運べばそれだけで事務所は留守になってしまう。そもそも養蜂・成分検査の素人が一人、二人で行う調査では成果など上がろうはずもないが……。
協議会はパッケージに「公正取引マーク」を貼り付けさせ、「安心・安全マーク」と謳っているが、発行元である協議会に人口甘味料の混入を見分け、偽ハチミツの流通を阻止し、消費者の食の安全を保障するだけの組織的・人的能力が備わっているとは到底思えない。
元会長・野々垣孝よ
責任を果たせ!
前号と今号で協議会の組織的欠陥を指摘してきたが、こうした問題は昭和六十二年七月の設立以来、今だ連綿と続いているものである。
八月二十八日に実施された記者会見では、追加検査の結果と合わせて八月二十七日付けで協議会の野々垣孝会長(潟Aピ・岐阜県)と秋山優男副会長(秋山養蜂・静岡県)が辞任したことも発表された。野々垣孝氏の辞任理由は、二〇〇〇年以降、協議会の実施した定期検査で違反の疑いを持たれたハチミツが多数判明していたにも関わらず、規約に沿ってこれを再調査することなく、公正取引委員会への報告も怠っていたというものであった。
しかし、こうした理由が報告された記者会見の場に野々垣氏の姿はなく、一連の問題の過程においても野々垣孝氏自身がメディアの前に現れ、謝罪や経緯の説明をすることはついになかった。
こうした対応は、食の安全に関わる法人団体のトップを務める者としては間違いなく適当でなかったはずだ。野々垣孝氏の姿勢が世間の常識といかに懸け離れたものであるかということは、その後次々と明らかになった食品偽装・偽装表示問題において、企業・団体のトップが会見に臨み、謝罪・説明していることを引き合いに出すこともないだろう。
協議会自体にハチミツの食品表示を管理する能力が欠如していることはこれまで述べてきた通りだが、自らの言葉で謝罪することなく辞任した野々垣孝氏にも協議会会長としての能力は備わっていなかったのだろう。逆に言えば、こうした人物が会長を務めていた団体だからこそ、一連の問題が起きたのだろう。
杜撰(ずさん)な輸入管理、
深まる中国産蜂蜜への不安
副会長を辞任した秋山優男氏が経営する秋山養蜂(静岡県藤枝市仮宿一一七四)は、再検査を受けた百十三社中、唯一、基準値を超える人口甘味料が検出された企業である。検査結果では、「中国から輸入しており、原因を特定できなかった」とした上で、「(秋山養蜂が)自ら混入したものではないが、ハチミツの定義に合致しない製品をハチミツとして販売した」として警告処分をうけている。
秋山養蜂は、中国から約二千八百五十キロのハチミツを輸入し、今年一月から七月にかけて「中国産れんげハチミツ」として約二千七百キログラム(約六千七百本)を販売。このすべてに重量比十二・五パーセントの割合で人口甘味料が混入していたという。二千七百キログラムといえば、国内産ハチミツの年間生産量の三分の二以上を占める膨大な量である。
秋山養蜂は「社内での混入ではなく輸入前の混入とみられる。健康被害は確認されていない」などとコメントしているが、問題は秋山養蜂に故意や過失があるかということだけに止まらない。
むしろ、検査結果と秋山養蜂のコメントから、中国産ハチミツへの不審はより強まったといえる。
あまりにも無責任だ!
国籍を問わず、外国産ハチミツを輸入する場合、輸入方法は大きく二つに分かれる。
一つは、海外に養蜂場を経営、または海外の養蜂家と直接契約し、ハチミツを輸入する方法。
もう一つは、輸入商社を通して間接的にハチミツを輸入する方法である。
秋山養蜂がどちらの方法で中国から輸入していたのか定かではない。自ら販売する商品がどこでどのように採れたハチミツであるか把握できていないにも関わらず、「純粋」な「れんげ」ハチミツとして販売することは、あまりにも無責任である。
秋山養蜂と同様に輸入商社を介して中国産ハチミツを輸入しているメーカーは少なくない。むしろ、輸入商社を通して中国産ハチミツを輸入しているメーカーの方が多いのではないだろうか。
その全てが秋山養蜂のような杜撰な管理をしているわけではないのだろうが、「中国から輸入しているため、原因が特定できない」という再検査結果を協議会が正式に発表し、「輸入前の混入と見られる」などという曖昧なコメントを秋山養蜂自身が出していることを見ると不審感は拭いきれない。
ハチミツは加工や添加をしない天然甘味料であり、蜜蜂が集めた蜜をそのまま瓶詰めした自然食品である。なればこそ、どこでどのように採れたハチミツであるかということが安心・安全に直結するのだが、それを把握しないまま、メーカーが「純粋ハチミツ」として販売することが平然とまかり通っている。
「中国産だから駄目」
ではない
ここで誤解して頂きたくないのは、中国産だから駄目だということでは決してないということである。「薬蜜」で有名な薬蜜本舗のハチミツは中国産であるが、自社のホームページや広告誌で採蜜の場所や方法、瓶詰めの流れなどを公開している。情報公開が信頼を呼び、中国産ハチミツでありながら高級ハチミツとして消費者に認知されている。他の業者も見習ってほしいものだ。
ハチミツ選びで重要なのは、原産国や「純粋」という言葉、「公正マーク」というシールではない。どこでどのように採れ、瓶詰めされたものなのか、きちんと把握できる商品であるかということなのである。
購入したハチミツに不安をお持ちの方は、販売元のホームページを見てみるとよい。「自然の恵み」、「天然」、「完熟」などと聞こえの良い言葉が並び、ハチミツのあれこれについて述べているところは多いが、採蜜場所や方法について具体的に掲載しているところは驚くほど少ない。
中にはハチミツの製造方法と言いながら、瓶詰め工場での手順を掲載しているだけのところもある。たしかに高温加熱処理を加えない瓶詰め方法も大切だが、より重要なのは現地(養蜂場)におけるハチミツの集め方と輸入されるまでの処理方法である。
独立行政法人の農林水産消費安全技術センターでは、食品表示に関する苦情や相談を受けている。お手持ちのハチミツに不安を覚えた方は管轄するセンターに問い合わせてみては如何だろう。
なお、同センターは違反企業に関する告発も受け付けている。偽ハチミツについて情報をお持ちの方は是非、連絡して欲しい。
(取材・調査・本紙ハチミツ取材班。まとめ ジャーナリスト・坂口義弘)
平和惚け未だ抜け出でぬ
共産支那の脅威を生活圏内に留まらす事なかれ
中 村 宏 樹
前号、前々号に右翼・民族派有志による反中共運動、北京オリンピックボイコット運動に関する拙稿を掲載させて頂いた。盲目的な国民に先んじて民族の前衛を担うと云う意識が右翼・民族派の一つの概念である。共産支那を語る上で友好と言った理想論に過ぎない言葉が独り歩きしてしまっている現下、共産支那は決して我が国と付き合うに辺り友好を前提とした楽観論を有しては居ないと更に語気を強くして訴えて行く必要性があるのだ。余り好んで使うべき言葉では無いと思われるが、良識の在る国民は我が国を指して自虐的に平和惚け国家と呼んでいる。しかしながら、数年の間に生じた北朝鮮のミサイル発射を筆頭に、反日を自称して止まぬ緊迫した周辺諸国の動向に国民は非常に敏感になり、僅かではあるが斯かる平和惚け国家から第一歩を踏み出したようだ。東京都知事である石原慎太郎氏が嘗て日本国民の平和ボケを治療するには国内にミサイルの一発でも投下される荒治療を以って挑まねば為す術が無いと云う意味合いの発言を行い、都知事の立場を弁えぬ問題発言云々と物議を醸し出す結果となった事は記憶に新しい。我が国に限らず何処の国家でも同様であるが、国民が未来永劫に亘って続くと信じてやまない平和が他国によって脅かされた時に、其れが必ずしも恒久的なものではなかったと初めて気付かされる。石原慎太郎氏の言う直接的な武力攻撃を基とした平和惚けからの脱出は、幸か不幸か未だ反日国家から加えられていない。だが、大新聞や週刊誌で記事にされるようなハニートラップに引っ掛かる議員など共産支那から長年に亘り培われてきた所謂対日政治工作、軍事目的を前提とした人工衛星の打ち上げ、此れら共産支那の脅威が明らかになるにつれて国民の間で漸く共産支那が、げき恐ろしき国家であるかと云う危機意識が芽生えつつある。所謂憲法改正論議が最早一般的になり、保守論壇の執筆するオピニオン紙が随分と売上を伸ばしている。従来のような反日国家を擁護し、我が国の歴史に自ら唾棄するかの如き論調が、進歩的尚且つ良識的とされていた時期に比べると、我が国の精神状態も安定して来たと云える。ナショナリズムと云う言葉は此れまで忌み嫌われ、我が国は現実から目を背けがちであった。斯様な危機意識から生じる純粋なナショナリズムの高まりには、保守文化人が脚光を浴びる事も更には共産支那の如き反日国家の存在をも大いなる貢献を果しているとも云えよう。平和惚けから第一歩を踏み出したかに見えるとやや希望的観測を先に用いたが、共産支那の脅威に対し如何に立ち向かうかについての議論が国民の間で高まっていない事はまだまだ我が国は平和惚けの途上に置かれているのである。舶来品たる個人主義の悪影響ここにも現われしと云った感ではあるが、戦後の平和惚けと云う微温湯に浸り切ってしまった日本人はどうやら自分個人の生活圏内が脅かされない限り重い腰は決して上げぬ情けない国民と成り下がったようだ。危険な中国産食材を購入する事なかれとしたチャイナフリーの台頭が目覚ましい。あろう事か米国に触発されて火が付いた形のチャイナフリーだが、日本食文化を世界に誇って恥じぬ文化であるとするならば我が国を発端に、くだんの運動が起って然るべきだったであろう。亦、中国産食材に限らず粗悪な中国産製品など一個人や家庭単位に及ぼす被害ばかりに注目するのは誤りではなかろうか。本稿を平和惚けと云う余り好ましくない言葉を多々用いて展開して来たのであるが、平和惚けからの脱却は個々人の生活圏内から、国家と云うマクロな部分まで多角的な視点を以って為し得るものである。日本独自の食文化に対する共産支那の侵略行為が、家庭の主婦の憤り程度で終わってしまえば元の木阿弥なのである。斯様な国民一個人の憤りから、国家単位の危機意識まで高めて行く事が良識在る日本人に課せられている。国民が身近に感じる中国産食材の不信感から、国民にとって縁遠く感じるであろう日中防衛交流なる共産支那の対日軍事スパイ行為も全て反日プロパガンダの範疇である。反日国家の企てる目に見えるも干渉も、目に見えぬ干渉何れも我が国を脅かす侵略行為と認識せねば平和惚け国家の恥ずべき汚名は消えぬだろう。
大東亜戦争と東京裁判史観 188
『支那事変』(七五) 汪兆銘の蹶起(11) 富山 明徳
【宜昌作戦終結】
「在支兵力削減」の基本方針もあり、なんとなく支那側に引きずられるような工作には見切りをつけるべきだ、との意見が強まったのである。だが、その持久の腰を落着けようとの覚悟も、ヨーロッパでドイツ軍がベルギー、フランスになだれ込み始めると、早速にぐらついた。
宜昌作戦の方は、支那第三十三集団軍長張自忠を斃す一方、第三十九師団第二百三十三連隊が意外な待ち伏せ攻撃を受け、連隊長神崎哲次郎大佐以下「三百数十人」が一挙に死傷するなど、苦戦の推移をたどる。
第十一軍司令官園部中将は、宜昌への進撃を中止しようとしたが、参謀たち全員の積極的意見に対面して、攻撃を続行することにした。
ドイツ軍は、いわゆる「電撃戦」でフランス軍を席巻し続けて五月末には、もはやフランスの敗北は必至と看做された。
フランスが敗北すれば、その植民地であるインドシナの制圧、すなわち援蒋ルートの遮断の機会が生まれる。宜昌の攻略は、フランスの敗勢に連動して、蒋介石の和平希求心を刺戟することは必定となろう。
参謀本部は、第十一軍の進撃に視線を集中した。
そして、この日本側の観測を裏書きするかのように、「桐工作」も進展したのであった。
宋子良たち重慶側は、しきりにアモイでの交渉を求めて六月四日、三月の会談と同じ日支代表が会見した。場所は支那側が用意したが、市街をはずれた廃屋の地下室であり、電灯もなく、四本のローソクの灯を前にして対座した。
秘密保持と安全保障のためだ、と支那側は説明したが、それにしても粗末で、粗悪な環境と言うほかない。今井大佐はむっとし、(バカにしとる……)と血が逆上しかけてたが何とか抑えた。
しかし、夜を選んでの廃屋会談は、意外な「成果」を生むことなったのである。ちょうど、混乱して戦意を失った支那軍を追撃した第十一軍が、南北から宜昌包囲態勢をとった六月六日、宋子良側は、板垣・蒋・汪会談を提案した。
六月十日、南京に帰った今井大佐が報告すると、総参謀長板垣中将は即座に承知した。
支那派遣軍司令官西尾大将は、予定通りに、第十一軍に引き揚げを指示した。これは、今井大佐が南京に帰って報告した二日後の六月十二日、ヨーロッパでドイツ軍がパリを攻略した日で、宜昌も陥落した。
これらの情勢を判断しての支那派遣軍司令部の措置であったが、東京では、おりから大詰めを迎えつつあると目される「桐工作」を側面から促進する意味でも、宜昌の確保は必要だと見做して六月十六日、宜昌の「一カ月」確保を下令した。
実はその前日、支那派遣軍の指示を受けた第十一軍は、各部隊に反転命令を示達し、それぞれに後退が開始されていたのであった。
無論、第十一軍は、東京の命令を受けるとただちに再反転を命じ、第十三師団は十七日、宜昌を再占領した。だが、再反転した第十三、第三師団にとっては、事情は迷惑なものでしかなかった。
引き揚げるので、支那軍の兵舎、橋、電柱、捕獲品の自動車、ガソリンその他を徹底的に焼却または放棄していた。おかげで、引き返した宜昌には寝場所も少く、資材不足に悩まざるを得ない。
「此ノ如キ上司ノ無方針ナル統帥……」
と、第十三師団は不満の声を記録するが、日本軍の引き揚げと見た支那軍がやってきたため、またもや激戦を重ねることとなり、ようやく支那軍部隊を駆逐したのは六月二十四日であった。五月一日の作戦発起からこの日までの第十一軍の損害は、戦死千四百三人、戦傷四千六百三十九人を数えた。
「抗日戦史」が記録する支那側の損害は、文字通り「惨重」であった。戦闘参加人員四十万二百二十八人の内、戦死三万六千九百八十三人、戦傷五万五百九人、行方不明二万三千百十八人、合計十一万六百十人の損害を記録している。
【桐工作、巨頭会談への期待】
重慶では、蒋介石は日本軍降下部隊の進攻に対する警戒を下令し、市民は、いまにも日本軍が攻撃してくるのではないか、と恐れた。
香港の鈴木中佐は、六月二十日、宋子良から板垣・蒋・汪会談を「七月中旬」頃、長沙で開きたい、との連絡を受けた。これまでのように、接近するかと思えば遠ざかって音信を絶つやり方にくらべると、異質な程の「熱意昂上」であった。
報告を受けた東京でも、大幅な譲歩を決心して六月二十四日、参謀次長沢田茂中将を南京に出張させ、なにはともあれ停戦を成就すべく、工作を推進させることにした。
蒋介石はこの頃、中国銀行董事長宋子文を米国に派遣している。
宋子文は七月二日、国務長官G・ハルと会見し、過去三年間に中国は「二百万人」を失った、と述べて、援助を要請した。
そのさい、宋子文は日本との和平の兆候はない、と述べたが、同じ日、駐中国・米大使N・ジョンソンは、別の観測を打電していた。
「……各種の要素と事態の進展により、中国政府および指導者たちは、かってなく日本との和平を心指している……」
七月十二日、支那派遣軍総司令部は、「桐工作巨頭会談ニ関スル計画」を策案した。
総参謀長板垣征四郎中将と蒋介石の長沙会談の準備計画であり、まだ重慶側からの会談日の通告はなかったが、次のような前提に立っていた。「会談期日ノ決定ハ二十日ト予想シテ、会談第一日ヲ二十八日ニ開催スルモノトス」
この予想には根拠がない。期待するだけである。
が、「桐工作」に対する成功の期待は前述した蒋介石側の「熱意」もあって、かってなく強く、裏付けもあると看做されたのである。
ヨーロッパにおけるドイツ軍の連勝、特にフランスの降伏に続いて、いまや英国の崩壊≠熾K至と見られるので、援助国を失う蒋介石の屈伏もまた、必然だ、と予想されるからである。
だがこの時期、日本は興奮し、別の方向にも顔を向け始めてもいた。
ドイツ軍のヨーロッパ制覇は、当然にフランス、英国、オランダがアジアに持つ植民地を確保する「未来永久に来ないような好機」の訪れを、感得させる。
しかも、ドイツ軍の電撃戦のスピードは、文字通りに未曾有のものである。
「欧州戦争が短期に終了する懸念があり……」
とは、参謀本部作戦課長長岡重一大佐の発言であるが、それは当時の国際的観測でもあって、とりわけ日本の一般的判断であった。
作戦部長富永恭次少将を先頭にする参謀本部作戦当局は、仏領インドシナ北部への進駐、実質的にはその武力占領を主張した。
これまでに述べたように、同地を走って昆明に通じる 越鉄道が、援蒋の動脈の一つであり、その遮断を企図して南寧を攻略した。
しかし、南寧はなお 越鉄道には遠く、約三百キロも離れている。
富永少将は、仏領インドシナ北部に進駐して完全に 越鉄道を制圧することが、蒋介石の糧道を断って「支那事変」解決を促進することにもなると主張し、その方針実現に熱中したのであった。
版図拡大のチャンス到来〓〓と考えていたのは、前述のように日本の世論であり、陸海軍部内にも同調者は多い。
だが、仏領インドシナに手を伸ばすのは、フランスはドイツに降伏してもH・ペタン元帥を首班とする政府を維持している以上、「日仏戦争」となる可能性がある。
参謀本部戦争指導班は、仏領インドシナへの進駐が、更に香港、シンガポール、オランダ領東インド諸島への進出を誘い、結局は「日英仏蘭戦争」、ひいてはこれら諸国を支援する米国の経済制裁を招き、「日米戦争」にもなりかねぬ、と想定した。そして、米国が対日経済制裁に踏み切った場合、日本の国力はどのような影響を受けるかの試算を、企画院に依頼した。
仏領インドシナへの進駐が、そのような想定を容易にするのであれば、決定は、企画院の算定を待ってから行うべきであろう。
【仏領インドシナ進駐】
だが、陸軍省、参謀本部の課長会議は、六月二十一日から二十五日まで、僅か五日間の討議であっさりと仏領インドシナ進駐を中核とし、戦争指導班が想定した各国植民地の「攻略」も予想する「対南方戦争案」を策定したのである。
この案は、七月三日、「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」として決定され、翌日、海軍側の合意を得た。正式の国策となるのは、修文ののちに七月二十七日になるが、その前に作戦部長富永少将は南支那方面軍を大本営直轄として動かしやすい態勢を作り、さらに陸軍は、新方針を推進するために、米内光政内閣の倒閣を画策する。
陸海軍大臣は、現役将官が任命される陸海軍のいずれかの大臣が辞任し、後任者が推薦されなければ、内閣は不成立となる。
陸相畑俊六大将は辞表を提出し、陸軍から後任陸相が出せない旨がつたえられると、米内首相(海軍大将)は七月十六日、即座に総辞職を決意した。
おりからヨーロッパでは、ドイツ空軍の英本土爆撃が続き、英国は七月十八日、日本側の要求に応じて援蒋ビルマ・ルートの三カ月間閉鎖を承知した。
日本にとって、ますます有利な好機が訪れた情勢であった。
七月二十二日、第二次近衛内閣が、外相松岡洋右、陸相東條英機中将、海相吉田善吾中将の顔ぶれを揃えて発足すると、同じ日、香港では鈴木卓爾中佐と宋子良の間に、「八月初旬」に長沙で板垣・蒋会談を開く旨の覚書が作成された。
近衛内閣は七月二十六日、「基本国策要綱」を発表した。
平成19年(2007年)11月30日(金曜日)
交差点
西安事変・抄
歴史を語る場合、「たら」「ねば」は禁句とされる。だが、日本の近現代史を考える場合、日中関係においては、張学良が起こした「西安事変」の影響は無視できない。
どうしても解けない謎は、張学良が「兵諫」に走った理由である。
張学良自身が言っている「反日」がすべてなのか、別の意図があったのか、「事変」解決に当った宋美齢、宋子文の姉弟も蒋介石本人も、合意内容については一切しゃべらず、書き残してもいないからである。
状況的に考えれば、父親の張作霖を日本軍に爆殺されている張学良が日本に対して恨みを持ち、反日を主張するのは理解できる。
だが、本当にそうであったのなら、関東軍が僅かな兵力で満州事変を起こした時、二十万の東北軍の将領である張学良が何の抵抗もしなかったのはなぜか。
関東軍が満州事変の総仕上げとして「熱河作戦」を行った際も、果敢な反撃を行うことなく、長城以内に駆逐されて、完全に満州から追い出されている。
張学良は、東北軍閥の領地と権益が一方的に侵害されていくのを無為に見過ごしたのだ。
「不抵抗将軍」とは、そのような張学良につけられた蔑称であるが、父親の張作霖が緑林王であったのに対し、息子の張学良は優柔不断なぼんぼん≠ナしかなかった。
父親の莫大な遺産を相続し、自家用の航空機を所有して米人パイロットを二人も雇用して、自家用の乗用車は自分で運転したと言う張学良は、おそらく当時の軍閥頭領のうち、唯一の頭領であっただろう。
そんな張学良が、よりによって共産党と手を結ぶと言うのだから、いかに「反日」のためとは言うものの、筋が違い過ぎた。
当時の中国共産党軍の状況は、ほぼ第一、第二、第四方面軍に分かれて、甘粛省北部での合流を目指していたが、総兵力は「長征」と言う名の逃避行≠開始した時の三分の一以下、約七万人に減少していた。
しかも、中央軍の追尾を受けているだけでなく、山西省の閻錫山軍も動いて、側背を脅かされていた。
仮に、いま中央軍側が総攻撃を開始すれば、全滅まではいかないものの、組織的戦力が破砕されるのは必至の状態にあった。
蒋介石の判断では、第六次剿匪作戦が共産軍を陜西、甘粛両省にまたがる地域に追い詰め、いまや一気に「叩きつぶす」好機であり、「最後の剿匪作戦」を計画していた。
それは、兵力二十個師、飛行機百機以上を投入する大規模なもので、成功は確信していた。従って軍議の場では、「剿匪の完全成功まで、いまや最後の五分間の段階に来ている。各自はこの機会をのがすことなく、勇敢迅速に行動してほしい」と説示していた。
その作戦には、西安綏靖主任の第十七路軍総指揮楊虎城や西北剿匪副司令張学良も、指揮下の旧東北軍を率いて参加することになっている。当然のことながら、国民政府軍と共産党軍の優劣は、張学良にも理解されていた。全滅は免れたい共産党の弱身を利用する形で、大義名分は「抗日」という共通の立場を訴え「連共」を蒋介石に認めさせるべく、西安来訪を要請したのである。
前述の楊虎城は、典型的な旧軍閥の将軍で、馮玉祥系であるが、その第十七路軍約五万人も、寄せ集めの頭数だけの部隊であり、「陜軍」の通称で呼ばれていたが、軍隊としては装備、素質いずれも劣悪で、いわば土匪なみの集団であった。
それだけに楊虎城としては、勢力範囲の確保とその中での「静かな利益収受」が無上の喜びであって、共産軍との戦いも国民政府中央軍の進出も好まなかったのである。
現に、楊虎城は、共産軍「紅第四方面軍」との間で「相互不可侵協定」を結んでおり、蒋介石の剿匪作戦に対しても批判的だったのである。地方の雑軍の頭領である楊虎城にすれば、共産軍を追い詰める剿共作戦は、終局的には中央軍及び中央政府の勢力拡大策であり、地方雑軍もついでに制圧する狙いも含まれているように思えるのである。
張学良には、そのような楊虎城の心理は理解できた。彼の指揮下の東北軍にしても、「陜軍」なみの「私兵性」は少なからず持っているし、そのうち中央によって整理されるのではないかとの不安は、張学良自身も捨て切れていなかった。彼は「熱河作戦」の頃、阿片中毒となって、抗日どころではなかった。
その原因たるや、戦闘で部下の将兵が死んでいくことが耐えられず、阿片に逃げた結果だと言うのである。
「私兵」である軍閥軍は、本来、損害を極端に嫌う。存在してなんぼであり、本気で戦闘したりすることは無いのである。
ところが蒋介石の剿共作戦は、敵味方ともに本気で殺し合うのであって、これまでの戦いとは違う。しかも、共産軍とは言うものの相手は同胞であり、戦闘力もあなどれない。
昭和十一年四月九日深夜、張学良は延安市東方約五キロの天主堂で周恩来と会談した。
その会談にのぞむ心境を、張学良は次のように記述している。
「あの強暴な者たちを国家に帰順させ、抗日に従わせることができるなら、国家に対しても、また領袖(蒋介石)に対しても、無上の貢献をすることになる」
実際に張学良が、このような考え方から「連共」を企てたかどうかは、疑問である。
張学良が一番恐れたのは、「最後の剿共作戦」の第一線で、配下の旧東北軍が大きな損害を被ることだったろう。
共産党軍と戦うことが嫌で、蒋介石を西安で監禁し、周恩来との間で「合作」を約束させたのである。中国共産党にとっては、最大の恩人であり、功労者と言うことになるだろう。