空中キャンプ

2010-04-22

なんでだめだったの

英作家ニック・ホーンビィの小説で、後に映画化もされた『ハイ・フィデリティ』は、主人公の三十代男性ロブが、かつて交際し、自分を捨てた五人の女性のもとを順番にたずね、「どうして自分を捨てたのか」「自分のなにがだめだったのか」を確認しようとするというストーリーである。こうして、あらためてあらすじを説明してみると、その往生際のわるさ、みっともなさにおいて、『ハイ・フィデリティ』にはなかなかの味わいがある。小説の世界では、現実にはできない経験ができるというたのしみがあるが、かつての恋人にふられた理由を確認しにいくというのは、そのなかでも結構きわめつけで、自分がそれをするのはいやだが、人のようすであればぜひ見てみたいことのひとつだ。

誰しも経験はあるだろうが、えてして恋人というのはいきなり姿を消すものだから、なおさら「どうしてなのだ」という疑問はふくらむし、今後の愛情生活において同じあやまちを繰りかえさないためにも、自分のどのような点が問題だったのか、どういった部分を改善することによって関係性がより持続するのかについて、せめてひとこと教えてくれてから去ってほしいのである。主人公ロブにとっては、どこをどうすれば女性関係は自分の望む有意義なものになるのか、そのためにはなにから手をつければいいのか、およそ見当がつかずにいて、だからこそ「なんでだめだったの」という気まずい質問をしに、かつての恋人たちへ会いにでかけてしまう。

なんでだめだったのか。僕なんでだめだったの。この切実な問いに、答えはあるような気もするし、ないのかもしれないともおもう。なぜなら、かつての恋人Aにとって破局の原因となった問題Xが、異性一般の問題にまで敷衍できるかどうかはわからないからだ。また、かつての恋人Aが自分を捨てた理由Xを学び、そこを修正したとして、この世界には恋人に捨てられる理由などおそらく無限に存在しているのであり、無限に存在する理由のうちのひとつを修正したところで、次の失敗はおもいもよらないところから訪れるような気がしてならない。米小説家リディア・デイヴィスは、『ほとんど記憶のない女』という短編集のなかでこう書いている。

失敗から学べるのならそうしたいが、世の中には二度めがないことが多すぎる。じっさい、いちばん大切なことは二度ないことだから、二度目にうまくやることは不可能だ。何か失敗をして、どうすればよかったのかを学習する。そして次こそうまくやろうと心構えをしていると、次の出来事は前のとはまるでちがっていて、また判断をまちがえる。そして今回のことについては心構えができるが、同じことが繰りかえされることは二度となく、けっきょく何の心構えもできないまま、また次の出来事が起こる。

まさしく。ここでは、失敗の分母がほぼ無限であることへの苛立ちが書かれている。まとめれば、失敗に対する二種類のとらえ方の差があり、つまり「失敗にはなんらかの傾向がある(ゆえに修正は可能である)」とするニック・ホーンビィ式と、「傾向がないからこそやっかいなのだ(ゆえに修正は困難である)」というリディア・デイヴィス式が存在することになる。わたしはどちらの考え方に近いだろうか。しかしこれとはべつに、「なにがだめなのかは自分がいちばんよく承知している、でも修正はできないし、するつもりもない」というややこしい失敗のかたちも存在しているような気がする。

スティーブン・ソダーバーグの映画『インフォーマント!』は、病的なまでの欠点を抱え、それをみずから認識しながらも、かかる致命的な欠点を直すことができず、最終的にはその欠点によって自分自身が危うい立場へと追い込まれてしまうという、あるひとりの男について描いている。男は無意識のうちで理解しているのだ。なにが問題かは自分がよくわかっている。その欠点が自分をのっぴきならない状況へと運んでいくことも了解している。しかしこの欠点はあまりにも自分になじみすぎていて、その欠点こそが自分自身なのであり、それを直すか直さないかなどといったことはそもそも問うに値しない━━ここで描かれるのは、欠点がむしろ必然として要請される、といった類の失敗である。

そして考えてみると、「なんでだめだったの」という虚しい問いの答えはおそらく、ニック・ホーンビィ式、リディア・デイヴィス式、スティーブン・ソダーバーグ式のみっつがややこしく絡みあったところにしか見つからないような気がしてならず、その複雑さに頭を抱え、いつか自分がするであろう失敗を想像しては暗い気持ちになる。それでもわたしはつい、「なんで僕だめだったの」と自分自身に問わずにはいられないのだった。