そんなとき、ビッグ・ニュースが村に飛び込んで来ました。
人形峠でウランが発見された、というのです。村びとたちは、びっくりしました。 「ほんまかえ」
日本は昭和二十九年(1954年)から「原子力ブーム」
に見舞われていました。原子爆弾のあの巨大なエネルギーを平和目的に使うのだ、というので、
みんなが、少しばかり浮かれていました。全国のあちこちで「原子力平和利用博覧会」が開かれ、
多くの人が見に行きました。まさに「ネコもシャクシも原子力」といった状況でした。
「日本も早く原子力をやらないと、バスに乗り遅れてしまうぞ」と、えらい先生たちが唱え 国民の多くも「そうだ、そうだ」と、手をたたいていました。
原子力といえば、なにはさておき、まずウランです。ウランなしでは、
「火のないコタツ」も同然です。「原子力だ、原子力だ」と騒いでみても、火種のウランがなくては、 どうしようもありません。
というわけで、通産省の地質調査所が、さっそくウラン探しを始めま
した。調査所が最初に目をつけたのは、中国地方の山地でした。
ウランは花こう岩のなかに多く含まれている、というのが常識でした。
中国の山は、大部分が花こう岩で出来ています。だから有望なのです。
昭和二十九年(1954年)八月に、岡山大学の逸見助教授たちが、
倉敷市郊外のタングステン廃鉱・三吉鉱山を調べて、ウラン鉱石があることを明らかにしていまし
たし、昭和三十年 (1955年)八月には地質調査所自身が鳥取県倉吉市の小鴨鉱山でウランを
発見していました。それで、同調査所は、日本ヘリコプター輸送会社の双発飛行機をチャーターし、
放射線を調べるシンチレーション・カウンターという測定器を積んで、昭和三十年(1955年)
九月、まず、空からウランを探すため、鳥取県と岡山県北部の上空を飛び回ったのです。
しかし、飛行機では、日本のように山と谷の連続からなる地形では
高度が一定でなく、どこにウランの鉱脈があるのか、くわしいことは、わかりません。
そのため「ジープで走り回って調べよう」ということになりました。
ジープにシンチレーション・カウンターを積み込み、山のなかを走り回ろう、というのです。 |