April 25, 2010
【4/25】Wikipediaにおける事実誤認について
Wikipediaへの悪意に満ちた事実誤認の記事について
Netにおいての私に対する誹謗中傷が多いなかで、「小島一志」に関するWikipediaにて極めて重要な事実誤認が掲載されております。
本来、Netでの誹謗などについては関知しない姿勢を取って参りました。しかし、Wikipediaは多くの方々が閲覧するものであり、そこでの事実誤認は容易に見過ごせるものではありません。
そこで、唯一私の空手歴について正確に記しておきます。
私が早稲田大学に入学と同時期に早大極真空手同好会に入部したのが1979年の春です。
1981年の春、私は稽古で腰を傷めたわけですが、それでもその年の初夏の総本部昇級審査にて2級を許されました。
しかし腰痛の悪化や種々の事情により、審査後稽古から離れ、夏に退部しました。暫く静養した後、記憶では1981年の暮れか翌年の初春に盧山師範の埼玉支部に移籍。
初心に戻り白帯からの修行が始まりました。それから約2年後、1983年もしくは1984年の昇段審査において初段を允許される事になります。ただ何らかの手続き上の不備から私の昇段は総本部事務局への登録がなされないという事態になりました。
このようなトラブルは当時、極めて多く、早大極真空手同好会で同期だった人間や他道場の友人たちにも名前の誤植、二重掲載、名前の掲載漏れが頻発していました。
当然のように雑誌「パワー空手」誌上にも昇段者としての私の名前は抜けております。私の勝手な推測で、暫く私に似た名前である「小島久志」氏の表記間違いであると認識していた時期もあります。
年が過ぎて1990年前後、起業家や経営者などなかなか稽古時間が取れない生徒に対し、壮年部とは別に大山総裁自らの指導による稽古が定期的に行われていました。私は大山総裁直々の勧めで稽古に通う事になりました。1年弱だったと記憶しております。
ある時、この稽古に参加している茶帯(私は前記した理由から茶帯を締めておりました)に対して、大山総裁自らが審査し昇段を允許する事になりました。私も当然、初段を允許される事になったのですが、その際に実は1984年の3月、埼玉支部における昇段審査で既に初段を頂いている事が判明したのです。
最近、改めて確認いたしました。この事実は現在の極真館事務局、並びに盧山師範が証明してくれるでしょう。残念ながら当時の昇段状は紛失しています。ただ再発行を要請すれば改めて頂けるはずです。
またこれら一連の事実は極真会館最高顧問である郷田勇三師範も認識しております。
さて、更に年が過ぎて1993年の春。大山総裁を中心に新会館ビルの建設に向けて本格的に極真会館全体が動き始めました。資金調達の一貫として茶帯以上の生徒またはOBから寄付(金額は支部毎に若干異なっていました)を募り、その代償としてワンランク上の段位を頂けるという「特別昇段」が実施されました。
既に道場から離れていた私は、当然特別昇段には興味を抱いておりませんでした。ただ極真会館と付き合いの深い企業経営者たちが純粋に寄付をしており、私はビデオ制作販売会社・メディア8の前田社長の勧めで確か30万円の寄付を大山総裁に申し出ました。
当時の総裁室で前田社長と共に封筒に入れた現金を大山総裁に差し出しました。しかし総裁は「小島からは貰えない」と突き返しました。かといって私も後には引けません。何度かの押し問答の末、前田社長が仲介役となり「小島さんは初段だから特別昇段という形で2段を頂けばいいじゃないか」と妥協案を提案しました。
結局、大山総裁はそれを受け入れたのですが、私は「少し時間を下さい」と返答を避け、総本部を辞しました。その後、事の経緯を親しくしていた黒澤浩樹さんに報告すると同時に相談しました。黒澤さんは笑いながら言いました。
「僕も初段ですよ。増田や田村が昇段していっても極真空手家としての価値は初段で十分ですから。でも今回は極真全体の方針なので寄付して2段を貰うつもりだし、茶帯の弟子たちにもみんなが一緒に上がるだけで序列は変わらないからと勧めています。小島さんも堂々と貰って一緒に2段になりましょうよ」
黒澤さんの言葉で気持ちが楽になった私は後日、特別昇段を受ける事を直接、大山総裁に伝えました。
数日後、総本部事務局から特別昇段についての説明を受けました。現在、道場に籍がある人は普通の昇段になりますが、私のように道場から離れている人間は「名誉段」の扱いになると言うのです。
私は既に埼玉支部で初段を允許されていたので、名誉段であろうが構わないと答えました。
極真会館関係の媒体に私が「名誉2段」と記載されているとしたならば、以上の理由によるものです。
ですから私が早大極真空手同好会時代に6級で退会した云々は極めて遺憾な事実誤認であり、仮にそう断言する方は逆にカタリ屋だと言わせて頂きます。そうでないならば是非とも名前を明かして私に連絡下さい。
Netにおいての私に対する誹謗中傷が多いなかで、「小島一志」に関するWikipediaにて極めて重要な事実誤認が掲載されております。
本来、Netでの誹謗などについては関知しない姿勢を取って参りました。しかし、Wikipediaは多くの方々が閲覧するものであり、そこでの事実誤認は容易に見過ごせるものではありません。
そこで、唯一私の空手歴について正確に記しておきます。
私が早稲田大学に入学と同時期に早大極真空手同好会に入部したのが1979年の春です。
1981年の春、私は稽古で腰を傷めたわけですが、それでもその年の初夏の総本部昇級審査にて2級を許されました。
しかし腰痛の悪化や種々の事情により、審査後稽古から離れ、夏に退部しました。暫く静養した後、記憶では1981年の暮れか翌年の初春に盧山師範の埼玉支部に移籍。
初心に戻り白帯からの修行が始まりました。それから約2年後、1983年もしくは1984年の昇段審査において初段を允許される事になります。ただ何らかの手続き上の不備から私の昇段は総本部事務局への登録がなされないという事態になりました。
このようなトラブルは当時、極めて多く、早大極真空手同好会で同期だった人間や他道場の友人たちにも名前の誤植、二重掲載、名前の掲載漏れが頻発していました。
当然のように雑誌「パワー空手」誌上にも昇段者としての私の名前は抜けております。私の勝手な推測で、暫く私に似た名前である「小島久志」氏の表記間違いであると認識していた時期もあります。
年が過ぎて1990年前後、起業家や経営者などなかなか稽古時間が取れない生徒に対し、壮年部とは別に大山総裁自らの指導による稽古が定期的に行われていました。私は大山総裁直々の勧めで稽古に通う事になりました。1年弱だったと記憶しております。
ある時、この稽古に参加している茶帯(私は前記した理由から茶帯を締めておりました)に対して、大山総裁自らが審査し昇段を允許する事になりました。私も当然、初段を允許される事になったのですが、その際に実は1984年の3月、埼玉支部における昇段審査で既に初段を頂いている事が判明したのです。
最近、改めて確認いたしました。この事実は現在の極真館事務局、並びに盧山師範が証明してくれるでしょう。残念ながら当時の昇段状は紛失しています。ただ再発行を要請すれば改めて頂けるはずです。
またこれら一連の事実は極真会館最高顧問である郷田勇三師範も認識しております。
さて、更に年が過ぎて1993年の春。大山総裁を中心に新会館ビルの建設に向けて本格的に極真会館全体が動き始めました。資金調達の一貫として茶帯以上の生徒またはOBから寄付(金額は支部毎に若干異なっていました)を募り、その代償としてワンランク上の段位を頂けるという「特別昇段」が実施されました。
既に道場から離れていた私は、当然特別昇段には興味を抱いておりませんでした。ただ極真会館と付き合いの深い企業経営者たちが純粋に寄付をしており、私はビデオ制作販売会社・メディア8の前田社長の勧めで確か30万円の寄付を大山総裁に申し出ました。
当時の総裁室で前田社長と共に封筒に入れた現金を大山総裁に差し出しました。しかし総裁は「小島からは貰えない」と突き返しました。かといって私も後には引けません。何度かの押し問答の末、前田社長が仲介役となり「小島さんは初段だから特別昇段という形で2段を頂けばいいじゃないか」と妥協案を提案しました。
結局、大山総裁はそれを受け入れたのですが、私は「少し時間を下さい」と返答を避け、総本部を辞しました。その後、事の経緯を親しくしていた黒澤浩樹さんに報告すると同時に相談しました。黒澤さんは笑いながら言いました。
「僕も初段ですよ。増田や田村が昇段していっても極真空手家としての価値は初段で十分ですから。でも今回は極真全体の方針なので寄付して2段を貰うつもりだし、茶帯の弟子たちにもみんなが一緒に上がるだけで序列は変わらないからと勧めています。小島さんも堂々と貰って一緒に2段になりましょうよ」
黒澤さんの言葉で気持ちが楽になった私は後日、特別昇段を受ける事を直接、大山総裁に伝えました。
数日後、総本部事務局から特別昇段についての説明を受けました。現在、道場に籍がある人は普通の昇段になりますが、私のように道場から離れている人間は「名誉段」の扱いになると言うのです。
私は既に埼玉支部で初段を允許されていたので、名誉段であろうが構わないと答えました。
極真会館関係の媒体に私が「名誉2段」と記載されているとしたならば、以上の理由によるものです。
ですから私が早大極真空手同好会時代に6級で退会した云々は極めて遺憾な事実誤認であり、仮にそう断言する方は逆にカタリ屋だと言わせて頂きます。そうでないならば是非とも名前を明かして私に連絡下さい。
ちなみに私の倅は小学4年で全日本少年大会などの実績と10人組手を経て少年部初段を国分寺江口道場にて允許されました。
ただ大学入学時に城西新宿支部に再入門する際、緑帯もしくは茶帯から始めさせて頂きたいと山田師範にお願いしました。
しかし、中高と柔道とボクシングを学び、週1回でも空手の親子稽古を続けてきた事などを鑑み、山田師範の推薦という形で一般部初段を許されました。
ある面、特異な例であった事は否めません。
以上の点について質問等がある方は電話を下さい。
【付記】
本日も一撃会の定例稽古会が行われました。
サバキ柔術または青水流はあくまで便宜上の名称です。私なりに筋の通った系譜を有していると主張してきました。勿論、合気道ではなく(私は合気道を学んだ経験はありません)、大日本武徳会時代の柔術(当時、武徳会には講道館以外の各柔術も参加していました)の系統である事実は揺るぎません。
しかし百歩譲ってサバキ柔術が私による「創作」であると解釈するのは個人の自由でしょう。そしてサバキ柔術が格技として本物か偽物かは自らの目で判断して頂ければ幸いです。
実践なくして証明なし…。
時間が許せば一撃会稽古会以外の場でも実演する事もやぶさかではありません。敵対的な勝負云々でなく、純粋な意味で要請があれば赴いて技術を披露します。
百聞は一見にしかず!!
机上の空論では何の生産性もありません。興味のある方は連絡ください。
ちなみに私は組織の「総裁」でも「総帥」でもなく、ただの「小島さん」ですのでお間違いのないように。
宮田玲欧氏との関係は極めて良好です。宮田氏は一撃会のオブザーバーであり、宮田氏著による書籍も必ず形にしたいと思っております。
ただ昨年の総会稽古の感想文は遥か以前に宮田から頂いていたのですが、掲載するタイミングを逃してしまいました。宮田には大変申し訳なく思っております。
ただ大学入学時に城西新宿支部に再入門する際、緑帯もしくは茶帯から始めさせて頂きたいと山田師範にお願いしました。
しかし、中高と柔道とボクシングを学び、週1回でも空手の親子稽古を続けてきた事などを鑑み、山田師範の推薦という形で一般部初段を許されました。
ある面、特異な例であった事は否めません。
以上の点について質問等がある方は電話を下さい。
【付記】
本日も一撃会の定例稽古会が行われました。
サバキ柔術または青水流はあくまで便宜上の名称です。私なりに筋の通った系譜を有していると主張してきました。勿論、合気道ではなく(私は合気道を学んだ経験はありません)、大日本武徳会時代の柔術(当時、武徳会には講道館以外の各柔術も参加していました)の系統である事実は揺るぎません。
しかし百歩譲ってサバキ柔術が私による「創作」であると解釈するのは個人の自由でしょう。そしてサバキ柔術が格技として本物か偽物かは自らの目で判断して頂ければ幸いです。
実践なくして証明なし…。
時間が許せば一撃会稽古会以外の場でも実演する事もやぶさかではありません。敵対的な勝負云々でなく、純粋な意味で要請があれば赴いて技術を披露します。
百聞は一見にしかず!!
机上の空論では何の生産性もありません。興味のある方は連絡ください。
ちなみに私は組織の「総裁」でも「総帥」でもなく、ただの「小島さん」ですのでお間違いのないように。
宮田玲欧氏との関係は極めて良好です。宮田氏は一撃会のオブザーバーであり、宮田氏著による書籍も必ず形にしたいと思っております。
ただ昨年の総会稽古の感想文は遥か以前に宮田から頂いていたのですが、掲載するタイミングを逃してしまいました。宮田には大変申し訳なく思っております。
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