April 25, 2010

【4/25】Wikipediaにおける事実誤認について

Wikipediaへの悪意に満ちた事実誤認の記事について


Netにおいての私に対する誹謗中傷が多いなかで、「小島一志」に関するWikipediaにて極めて重要な事実誤認が掲載されております。
本来、Netでの誹謗などについては関知しない姿勢を取って参りました。しかし、Wikipediaは多くの方々が閲覧するものであり、そこでの事実誤認は容易に見過ごせるものではありません。
そこで、唯一私の空手歴について正確に記しておきます。

私が早稲田大学に入学と同時期に早大極真空手同好会に入部したのが1979年の春です。
1981年の春、私は稽古で腰を傷めたわけですが、それでもその年の初夏の総本部昇級審査にて2級を許されました。
しかし腰痛の悪化や種々の事情により、審査後稽古から離れ、夏に退部しました。暫く静養した後、記憶では1981年の暮れか翌年の初春に盧山師範の埼玉支部に移籍。
初心に戻り白帯からの修行が始まりました。それから約2年後、1983年もしくは1984年の昇段審査において初段を允許される事になります。ただ何らかの手続き上の不備から私の昇段は総本部事務局への登録がなされないという事態になりました。
このようなトラブルは当時、極めて多く、早大極真空手同好会で同期だった人間や他道場の友人たちにも名前の誤植、二重掲載、名前の掲載漏れが頻発していました。
当然のように雑誌「パワー空手」誌上にも昇段者としての私の名前は抜けております。私の勝手な推測で、暫く私に似た名前である「小島久志」氏の表記間違いであると認識していた時期もあります。
年が過ぎて1990年前後、起業家や経営者などなかなか稽古時間が取れない生徒に対し、壮年部とは別に大山総裁自らの指導による稽古が定期的に行われていました。私は大山総裁直々の勧めで稽古に通う事になりました。1年弱だったと記憶しております。
ある時、この稽古に参加している茶帯(私は前記した理由から茶帯を締めておりました)に対して、大山総裁自らが審査し昇段を允許する事になりました。私も当然、初段を允許される事になったのですが、その際に実は1984年の3月、埼玉支部における昇段審査で既に初段を頂いている事が判明したのです。
最近、改めて確認いたしました。この事実は現在の極真館事務局、並びに盧山師範が証明してくれるでしょう。残念ながら当時の昇段状は紛失しています。ただ再発行を要請すれば改めて頂けるはずです。
またこれら一連の事実は極真会館最高顧問である郷田勇三師範も認識しております。

さて、更に年が過ぎて1993年の春。大山総裁を中心に新会館ビルの建設に向けて本格的に極真会館全体が動き始めました。資金調達の一貫として茶帯以上の生徒またはOBから寄付(金額は支部毎に若干異なっていました)を募り、その代償としてワンランク上の段位を頂けるという「特別昇段」が実施されました。
既に道場から離れていた私は、当然特別昇段には興味を抱いておりませんでした。ただ極真会館と付き合いの深い企業経営者たちが純粋に寄付をしており、私はビデオ制作販売会社・メディア8の前田社長の勧めで確か30万円の寄付を大山総裁に申し出ました。
当時の総裁室で前田社長と共に封筒に入れた現金を大山総裁に差し出しました。しかし総裁は「小島からは貰えない」と突き返しました。かといって私も後には引けません。何度かの押し問答の末、前田社長が仲介役となり「小島さんは初段だから特別昇段という形で2段を頂けばいいじゃないか」と妥協案を提案しました。
結局、大山総裁はそれを受け入れたのですが、私は「少し時間を下さい」と返答を避け、総本部を辞しました。その後、事の経緯を親しくしていた黒澤浩樹さんに報告すると同時に相談しました。黒澤さんは笑いながら言いました。
「僕も初段ですよ。増田や田村が昇段していっても極真空手家としての価値は初段で十分ですから。でも今回は極真全体の方針なので寄付して2段を貰うつもりだし、茶帯の弟子たちにもみんなが一緒に上がるだけで序列は変わらないからと勧めています。小島さんも堂々と貰って一緒に2段になりましょうよ」
黒澤さんの言葉で気持ちが楽になった私は後日、特別昇段を受ける事を直接、大山総裁に伝えました。
数日後、総本部事務局から特別昇段についての説明を受けました。現在、道場に籍がある人は普通の昇段になりますが、私のように道場から離れている人間は「名誉段」の扱いになると言うのです。
私は既に埼玉支部で初段を允許されていたので、名誉段であろうが構わないと答えました。

極真会館関係の媒体に私が「名誉2段」と記載されているとしたならば、以上の理由によるものです。
ですから私が早大極真空手同好会時代に6級で退会した云々は極めて遺憾な事実誤認であり、仮にそう断言する方は逆にカタリ屋だと言わせて頂きます。そうでないならば是非とも名前を明かして私に連絡下さい。




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samurai_mugen at 19:16|Permalinkclip!告知・お知らせ・NEWS 

【4/25】告知・告訴する事になりました

簡略に書きます。
近年、Netにて私への誹謗中傷が限度を越えております。また私のWikipediaにおいても事実無根の記事が度々書かれております。
これらに関して当方の顧問弁護士と協議を重ねた結果、顧問弁護士を代理人として誹謗中傷の対象となるサイト及びWikipedia運営者への対策も含め、サイト管理人とコメンターに対する刑事及び民事告訴をする運びとなりました。

とりあえず、それのみを告知致します。


付記するならば、拙書「大山倍達の遺言」の制作は種々の理由(事実確認など)によって予定より遅れておりますが、発売は決定済みです。
また新潮社、講談社はじめ過去付き合いのあるクライアントとの間には一切のtroubleはありません。お疑いの方は確認して結構です。
ついでながら、私が行方を眩ましていると断言する方々に。私は自らの携帯番号を常に当Blogに掲載しております。

080ー1027ー7457

私に質問などがある方は遠慮なくお電話下さい。夕方以降ならば殆ど連絡がつきます。その際、発信番号通知にてお願いします。
また、その結果直にお会いする事もやぶさかではありません。



samurai_mugen at 07:29|Permalinkclip!告知・お知らせ・NEWS 

March 27, 2010

【3/27】本日…

本日、
晴天なれど
波高し…。
(日本海軍参謀・秋山真之)


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心、曇天なれど
士気
高し。





人間も動物も、生きとし生けるモノ全て…。
生命の尊さに差などあるはずもないのです。
ならば、
限りある生命を
精一杯!
最期の瞬間(とき)まで精一杯、
精一杯に生きなくちゃいけないんだね。

ありがとう。
ありがとう、ありがとう。
心の底から、ありがとう…。
キミにありがとう。
精一杯、精一杯、愛してきました。
一生懸命に愛してきました。
いつも、いつも一緒でした。
そして、
あっという間の15年。

俺は少し疲れたみたいです。
力のカケラさえ失ったような喪失感、虚無感…。
決して鬱なんかじゃないけれど、
耐え難い、辛い想いに襲われる事も度々あります。
でも、
これからも、永久(とわ)に…。

ありがとう。
ありがとう。
ありがとう。
感謝と愛情を忘れません。
心からありがとう…。

(愛する者への鎮魂歌)








samurai_mugen at 16:52|Permalinkclip!ショートコラム 

February 06, 2010

2/6【暫く休眠のお知らせ】

2010年に入り、私の周辺が極めて騒がしく多忙を極める日々が続いています。
物書きとして、可能な限り早く「大山倍達の遺言」を完成させなくてはなりません。この数年間、沈静化を見せていた「極真空手界」ではありますが、年を開けて再び幾つかの団体で不穏な気配が生まれています。そこで追加取材を行うと同時に一通り終わっていたはずの原稿の見直しに追われています。
この経済不況の嵐のなかにあって設立20年を迎えた(株)夢現舎も、再び活性化を図っていかなくてはなりません。
他にも某会の新展開など数々の業務、またprivateでの活動も山積みの状況です。


(株)夢現舎はこれからも精力的に編集を中心にmedia活動をしていきます。
私にとって物書きは「天職」と痛感し、命ある限り執筆活動は続けていきます。
某会のサバキ青水流はいつか必ずおおやけの流派として(極真会館との友好関係を保持した形で)組織化します。



その為にも、暫くBlogを休眠させて頂きます。
とはいえ、突然の情動に駆られてコラムを書く事もあるかもしれませんが…。
まずは「大山倍達の遺言」をお楽しみに!!

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samurai_mugen at 12:45|Permalinkclip!告知・お知らせ・NEWS 

January 11, 2010

【完全版1/12】思い出…松井章圭と容子(前編)

「100年後には、今こうして生きている我々はみんな死んでいるんですよ…」

極真会館館長・松井章圭の口癖です。
「だから精一杯、頑張って好きな人生を生きようじゃないですか!」
松井はこれを言いたかった訳ですが…。

私は1970年代末から松井という「紅顔の美少年空手家」の存在を知っていました。極真空手の世界では大先輩です。しかし何故か松井を異様に毛嫌いする三瓶啓二の影響を多大に受けた私は、まるで洗脳されたように訳もなく松井を嫌い、避けていました。
当時、三瓶は早大極真会に於いて絶大なチカラを有していました。クラブ内では「三瓶の言葉だけが絶対!」という空気に満ちていたのです。当然のように反三瓶のグループもいましたが、三瓶の高圧的なチカラに押さえられ、彼らは決して表には出ませんでした。早大極真会の絶対君主が三瓶だったのです。
そんな三瓶に影響された松井への偏見は約10年も続く事になるのです。

大学を卒業し、格技・空手専門出版社に入社。実質的に8年間の勤務の後、私は独立して(株)夢現舎を設立しました。1989年の事です。
数年後、私は池田書店編集長から松井の自叙伝の制作を依頼されました。当初は気が進まず、一度は断わりました。しかし「仕事に選り好みはよくない」という編集長の正論で、あくまで仕事と割り切る覚悟で松井と会う事にしました。
実際に言葉を交わしたのは初めてでした。池袋北口前の喫茶室・スワンでの事です。私は一瞬で過去の偏見・洗脳から解放された思いがしました。松井章圭は実に紳士でした。同時に極めて頭の斬れる人間だと思いました。更に言うならば、孤独や孤高を愛する癖に妙なユーモアを持つ好青年でした。その点では似た者同士だと感じました。
それ以来、私達は急激に親しくなりました。その親しさ故に、互いの我が儘さ故に衝突し合い、ケンカもしました。しかし紆余曲折を経ながらも、現在ではまさに組織を離れたprivateの悪友・義兄弟の如き付き合いをさせて頂いています。
松井章圭の「素の顔」を知っている人間は私以外、決して多くないと思います。とにかく2人でいる時の私達はまさに漫才コンビです。普通は私がボケで松井がツッコミですが、松井のテンションが上がってくると何故かボケとツッコミが入れ替わります。また、彼は実に自己中で甘えん坊、かつルーズでいい加減な人間です。
悪口を言っているのではありません。
男とは、「表」に出て仕事する時にどれだけ強く、豪腕であるかが大切なのです。命さえ賭けて斬った張ったの世界で勝ち続けなければならないのです。その分、privateでは如何にダサかろうがオヤジ丸出しだろうがいいのです。
松井こそは、闘うべき時に闘える、頑張るべき時に頑張れる正真正銘の「漢」なのです。それで十分なのです。

1994年4月26日、大山倍達総裁の死去当日、私は後継館長としての松井を支持する事を公言しました。一切の打算はありませんでした。ただ1980年代末から1990年代に入り、大山倍達総裁が聖路加病院に入院する直前まで、私は大山総裁から以下の言葉を繰り返し聞かされていました。
「もしもの時は松井にとって苦い薬役になってくれ。オマエらは先輩後輩を超えた親友なんだろう!? 新しい極真を背負うのは松井なのだから。万が一の時には[空手全科辞典]も松井と協力して必ず世に出してくれよ…」
私は大山総裁の言葉に忠実に従う事を覚悟しました。それは当然至極と思っていたからです(その行為が、それまで偉大な先輩として慕っていた三瓶啓二との対立に発展するとは考えもしませんでしたが…)。
media関係者の中で私が誰よりも真っ先に松井支持を旗幟鮮明にした人間だと自負しています。殆どのmedia関係者は、何か起こりそうな空気(実際、当日から遺族達は不満の声を露にしていたし、多くの支部長達も納得出来ないような複雑な表情を浮かべていました)を感じて様子見を決め込んでいました。しかし私には躊躇いなど微塵もありませんでした。私には大山総裁の言葉が全てであり、また松井への固い友情を抱いていたからです。
松井は未だにその点について私に感謝してくれています。また現在でも私が取った行動は間違っていなかったと確信しています。

偽悪者故に、私は「親友」という言葉は好きではありません。しかし「悪友」同士だからこそ、幾度もケンカしたり互いに牽制し合った時期もあります。でも、会って顔さえ見れば、無言のうちに仲直りも出来るのです。
松井は「コジマさんとはホットラインを持っているんです。何かあったら即、連絡を取り合いましょう。そうすればつまらぬ誤解など簡単に解決するんですからね」こう言ってくれました。ですから私は暇さえあると、松井がカナダにいようがブラジルにいようが平気でmailや電話をします。多忙な松井から突然、電話がくる事もあります。

芦原英幸亡き後、現在の私にとって松井章圭こそが最も身近で「目標」となる存在なのです。






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samurai_mugen at 08:18|Permalinkclip!駄文 

January 10, 2010

【1/10ショートコラム】サバキ…芦原英幸の肘打ち

肘打ちは芦原英幸の専売特許の1つでした。私もムエタイとは異なる実戦的な肘打ちや極真ルールの中でも生きる肘打ちをいくつか教えてもらいました。しかし、中々マスター出来ません。
芦原英幸直伝の肘打ちは極めて独特な技術です。一見しただけでは何でもない、ただ振りかぶるような技に思えます。実際、現在の2代目芦原会館では「見せかけだけの組手では絶対に使えない」肘打ちを稽古(?)しています。残念な限りです。
あの芦原先生の肘打ちを実戦で生かすには極めて細かいコツが必要であり、修練を要する高度な技術なのです。二宮城光さんや中山猛夫さん、更には最も芦原空手を正しく継承している中元憲義さんらは組手や試合でも実に巧く使っていました。彼らが駆使した肘打ちはまさに芦原英幸譲りの技であり、実戦は勿論、極真ルールにおいてもかなり有効でした。


昔々(1980年代半ば)、ガールフレンドだった容子は極真会館芦原道場の黒帯でした。
夜、東京の歌舞伎町や六本木、渋谷など歓楽街を2人で歩いていると(私はいつも怒られていたので殆どの場合、不貞腐れながら彼女の約3ー5メートル後ろからついていくのが日常でした)、よく酒に酔った質の悪いサラリーマンやチンピラ2、3人のグループと出くわしました。彼らは何故か必ずのように、すれ違い様、彼女に声を掛けます。
すると容子は何食わぬ顔で彼らに近づき、一瞬で鋭い肘打ちを男の顎にお見舞いするのが癖でした。実に恐ろしい女性でした。身長154センチ、体重45キロの彼女の肘打ちに、大抵の男は踞ったものです。後始末は私の役目でしたが…。あれもまた芦原英幸の肘打ちでした。
私が思うに…肘打ちはむしろ顔面殴打可の組手の方が使い難いような気がします。当たる箇所(自分の肘)が途中まで見えないので間合いが計り難いからです。ストレートパンチのフェイントから肘打ちへの変化は殆ど実戦では成功しません。また、中間間合いから飛び込んで敵の顔面に肘打ちを放とうと思っても中々当たるものではありません。
しかし、芦原英幸は私が見ている前で何人ものゴロツキを肘打ち一発で伸ばしたものです。
肘打ちもサバキのひとつです。極真ルールであろうがルールなしの実戦であろうが、あの芦原英幸の肘打ちは私にとって「夢」のひとつです。


(了)




samurai_mugen at 07:20|Permalinkclip!ショートコラム 

January 09, 2010

【1/9】 親子ブログ「正義なき力は暴力なり」〜更新情報

10年1月9日掲載
「オヤジと某会の青水流サバキについて!」
※オヤジを口だけの法螺吹きとか陰口たたいてる負け犬さんたちに、青水流サバキ柔術について某会会員の言葉で紹介してみました。
TAISHI


10年1月7日掲載
「オヤジからの教訓」
※私のBlogコラム「極真空手は宗教ではない」について、倅からのAnswer編!! かつて「チャンピオン製造工場」と異名をとった城西支部に誇りを持つ倅らしいコラムだ。私としては少し気恥ずかしいのだが…。

http://blog.m.livedoor.jp/gokuakunin15mei/?guid=ON&sso=7cf7323d5df7107db6a3e9b9f9bc12ea9dbea2e6

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January 05, 2010

【新版1/7】極真空手は宗教ではない! 芦原英幸の教え…

「最近の道場生は礼儀がなってない!」
「少年部に入門する子供は躾が悪く、何より保護者が礼儀知らずで困る…」
そんな嘆きの言葉を空手指導者(師範、師範代、指導員)が吐くのをよく聞くようになった。特に年末年始になると、「月謝を払ってるのに道場の大掃除なんか何故やらなくちゃならないの?」なんて顔を露骨にしたり、「今年も宜しくお願いします」ひとつ言えない…礼儀作法どころか謙虚さのない若者が増えたと言う。
だが、私はそんな言葉には簡単に頷けない。


少し芦原英幸の話をする。
芦原英幸というと、1980年に極真会館を永久除名(破門)になって以来、極真関係者の間からは真偽不明の悪口雑言が頻繁に発せれ(その源が大山倍達総裁であったのは明白だ)、いつしか「裏切者」のイメージが定着してしまった。あくまでも極真会館関係者の間での事ではあるが…。しかし今尚、芦原英幸という名を聞いただけで顔をしかめる人間は意外な程多い。
また芦原のもとから離れた正道会館(この離反劇も大山倍達=極真会館と無関係ではないが、ここでは触れない)関係者も、極真関係者とはまた別な角度から複雑な感情を芦原に抱いているのは否定出来ない。
以上の理由・背景から、いつしか芦原英幸という人間像が歪められ、誰よりも毀誉褒貶の激しい存在になってしまった。私にとっては極めて遺憾である。
更に、私がここで芦原英幸について書く事を潔しとしないのが芦原の嫡男及び、彼を「2代目館長」と仰ぐ現・芦原会館関係者だろう。彼らにとって、私はやはり裏切者であり、嘘八百を並べる偽者と映るに違いない。
結局、私が芦原英幸について書く事に何ひとつ得はないようだ。完全に無視するか、逆に居直って徹底批判でもした方が味方は増えるかもしれない。
だが、それは出来ない。
以前、私は松井章圭と、芦原英幸を巡って論戦になった事がある。芦原を否定的に捉える松井の主張には「正論」と言える部分が多々あった。だが「生きた芦原英幸」を知る私からすれば、それは大山倍達譲りの偏見と感じるところも少なくなかった。
議論好きな2人である。互いに主張を譲らない。しかし私たちは以心伝心で「無益な議論はいい加減止めようよ…」と確認し合い、私が「とにかく感情的に好きなんだからしょうがないでしょ!」と言うと、予定調和的な笑顔を浮かべながら松井は、「感情的に! と言うなら議論にならないですね」と終止符を打った。
私と松井のやり取りがひとつの好例だが、今の私が芦原英幸を語る事は、ある意味でタブーに近いのかもしれない。それでも私は敢えて書きたい。
2010年が私にとって人生最大の天王山になると思うからこそ、生涯の恩人であり、かつ最強最後の空手家、否、格技家であると信じる芦原英幸について書いておきたいのだ。


芦原英幸は堅苦しい儀礼や挨拶、礼儀…つまり虚礼を最も嫌った。空手を「武道」という範疇でくくる事も嫌ったし、ましてや「精神を涵養する」とか「空手は教育」云々の講釈を完全に否定していた。「精神だ! 教育だ!」なんて最初に旗を掲げたり「武道! 武道!」と騒ぐ行為に一種の軽さや胡散臭さを感じていたのかもしれない。

「武道とは生涯続けられるものではなく、生涯をかけて目指すべき道である」

これは大山倍達の言葉だが、きっと芦原にも同様の思いがあったに違いない。ただ芦原はそのようには表現しなかった。内心では「武道だ精神を涵養するなんてアピールしてる暇があれば強くなろうと努力せい! ケンカの道具にも役に立たんチャイルドゲームなんかやりおってからに…何が空手じゃ!?」と嘲笑していたのは確実だ。
私は、そんな芦原英幸の影響と根っからのひねくれ者からか「虚礼」が大嫌いである。空手や柔道の道場が「神聖」な場所だと思った事もない。単なる練習場ではないか。
形だけの虚礼ではなく、一般人の一般常識として最低限の礼儀をわきまえればいいというのが私の主義である。自分が汗を流した場所は後の人の為に綺麗に拭いたり掃除をする。それは私のような自宅リビングでもグアム・ハイアットのtrainningーgymでも同じ事だ。私や倅の汗にまみれた床やマットは拭いて乾かし、整理する…。



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samurai_mugen at 19:42|Permalinkclip!駄文 

January 04, 2010

せめて束の間の休息を!!(修正版)

早いもので新年を迎えてはや4日。もっとも私には正月も大晦日も全然関係ないのですが、世間様が勝手にそんな慣習を決めてしまったのでやはり無視する訳にもいきません。

年末から年始にかけてグアムに行ってきました。
バカンスではありません。
倅と「親子稽古」のキャンプ(合宿)が目的でした。毎日、ハイアットのトレーニングジムとプール、時にはビーチで空手とサバキ柔術の練習に明け暮れました。

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倅は減量中ですが、熱帯の異様な陽射しの下でのトレーニングは極めて厳しく、だから練習以外は腹一杯に食べてひたすら寝ていました。
今となればキャンプとは言いながらも苦しくも楽しいトレーニングの10日間でした。

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帰国したらドッと疲れが出て、2人で発熱…まる2日間、死んだように寝込みました。
そして今日。
何とか熱も下がり気味で、疲れも取れてきたかと思えば…今度は、今年1年の仕事やprivateにおけるtroubleを考え出し、またも眠れない日々が始まりました。

仕事なんてしたくないのです!!
何も苦労して会社経営などしたくないのです!!
身を削りながら本など書きたくないのです!
privateで煩わされたくなどないのです!
倅の空手も、あんな大変な思いなどさせたくないのです!!
私だって、半世紀も生きてきたのに今更サバキだ柔術だ空手だなんてやりたくないのです!
しかし、夢現舎のstaffや某会の「兄弟」など大切なfamilyだけは守りたい。
倅には人間として強く強くなって欲しい。
何より銭を稼がなくてはならないのです!!

倅は勿論、会社のstaffや某会幹部ならばご存知のようにKojimaは常に「最悪」を意識して生きてきました。かつて、ある友人が私に言いました。
「オマエな、どう足掻いても結果は同じなのだから、せめて成功する事だけ考えて生きるのが楽しいじゃん」
私は訊きました。
「それで、もし失敗したり負けたり上手くいかなかったらどうする?」
少し考えて彼は答えました。
「そん時は、まさか!? って驚いて気持ちはドン底に堕ちるけど…。そんなのは何日か経てばまた忘れて次の事を考えて夢を見ればいい。成功すればいいなあ!! 勝てればいいなあ!! ってなるから結果的にはオマエみたいに毎日最悪を考えてるより健康的じゃんか」
そんな生き方もあるのか!? つくづく幸せな性格だなあ…。
私は感心したものです。
しかし仮に山で遭難し、どうしようという時、無事に帰れると楽観視していて、突然熊に襲われたり雪崩れに遭ったらどうする!?
彼は「そん時は終わりだと諦めればいいだけよ」と一笑に付しました。
私は熊に襲われたくないし雪崩れに遭いたくないのです。

「風林火山」の如く、ケースバイケースで、辛い時には「山」のように動揺せず動かない。何とかしようと思えば「林」のように静かに情報収集に専念し、「風」のように速く手を打ったり布石を敷いたり根回ししたり…。
それで初めて「火」のように勇敢に攻撃出来ると私は信じています。
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samurai_mugen at 07:11|Permalinkclip!駄文 

December 12, 2009

不幸なる失敗作「小説ー拳王」(PHP/97年発売)に再起のチャンスを!

某月某日

最近、疲れがたまっているのか…規則正しい生活が完全に破壊しているからか、いい年して倅の稽古に付き合っているからか、睡眠障害も行くとこまで行ってしまったような感じです。
陽が昇るまでPCに向かい、寝ようとしても仕事の興奮が収まらず、もう睡眠導入剤など効きもせず、気が付くと会社の始業時間です。こうなるとMorningーmeetingの結果報告が待ち遠しく、寝るどころじゃなくなります。
11時半頃に会社から報告のmailが届きます。すると決まって会社に電話し、幾つかの確認や指示をだしたり…。気になる事があればpartnerと電話で打ち合わせ。アッという間に1時間。1時間で終わればいい方で、長引けば3時間など珍しい事ではありません。
これで一段落。
あくまでtroubleがない場合に限りますが…。
時間はとっくに午後になり、14時前後。食欲もなく、しかし何か軽くでも胃に収めないと! 家政婦さんがいる時は何かしら用意してくれるものの、独りの時には昨夜の余ったご飯をレンジで温め、フリカケでブランチ!?
寝なきゃ!!
しかし眠れない。
ところが陽が暮れる頃になって突然の睡魔に襲われます。だいたい倅に起こされると既に深夜0時。「親子稽古」の日は21時前後なので約1時間は意識朦朧状態。
だから夜は眠くて…。でも仕事しなきゃならない!!
まるで30年前の大学受験生に戻った気持ちです。実際、私は仕事を「しょうがないから勉強するか…」などと言い間違える事など日常茶飯事です。
こうして、やっと孤独な闘いに私は毎日挑むのです。


ところが昨夜は、「親子稽古」のない日でもあり、夕方というか19時頃に寝てしまいました。猫のミルを抱きながら…。
深夜0時。倅に起こされて、半分寝ながら何か食べ、半分寝ながら風呂に入り、再びベッドに崩れ落ちるように爆睡!! しかし悲しいかな習慣で、明け方5時に目覚めてしまいました。
再び、仕事しなきゃ!!
猛烈な強迫観念に襲われました。
とにかく睡魔から逃れなくては!! その為にマズい煙草を数本吸い、フッと思い出して本棚から拙書「小説ー拳王」を引っ張り出してページを繰り始めました。
私は自分の書いた本を改めて読む習慣はありません。理由は沢山あります。要は自分の下手な作品を読むに耐えられないのです。しかし、この時「小説ー拳王」を手にしたのには理由がありました。倅のBlogにこの本が触れられていたからです。
「小説ー拳王」がPHP研究所から発売になったのが1997年の夏でした。予定では1年早い96年の発売でした。初めて書く小説に、私は想定外の苦労を強いられ、結局脱稿が遅れに遅れてしまいました。
本来、PHP研究所が新書判のノベルスへの参入第1弾となる5冊の中に組み込まれていました。ところがノベルス参入が失敗に終わり、最終発売に回されてしまったのが、この作品の不幸でした。大した宣伝もされず、シリーズ最終判という不名誉な形になってしまいました。
それでも担当編集者の方は極めて協力的で、名もない無名作家であるにも拘わらず一生懸命に販売部と折衝をしてくれ、初版12000部という破格の数字を提示して下さいました。普通、ノベルスでも新人クラスでは初版6000部から7000部がいいところです(出版不況の現在は更に減っているようですが)。今でも担当の加納氏には感謝しています。

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samurai_mugen at 17:30|Permalinkclip!駄文