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2010-02-09

皆さん、まことにあいすみませんでした

姫路で開いた「ワーキングプアを考える市民集会」や、さ来週に控えた太鼓教室の修了演奏会、そして憲法集会の準備に忙殺されて、ブログに時間を割けませんでした。

久しぶりにのぞくと、たまったコメントが200を超えています!

とてもすぐには読み切れないし、返信も書けません。

本当に、本当にすみませんです<(_ _)>

今日は仕事を終えてから、憲法集会の案内を郵送する作業をしていました。

案内とチラシ10枚を封筒に詰めて、タックシールと切手を貼って出すだけなんですが、面倒くさいんですよねえ、こういう作業って。

チラシ10枚を数えるのは手間なので、重さを計りました。

10枚で64g。案内文3枚と封筒を合わせて97g。

同じ作業を延々と続けていると、持っただけでチラシ1枚の差がわかるようになるもんです(笑)

チラシもね、図案を考えて、みんなでキャッチフレーズを工夫して、パソコンで版下を作り・・・というように、仕事を終えてから大勢で作りました。

出来上がったチラシを各戸配布するときには、郵便受けに入れやすいように、何百枚もチラシを折る作業があります。

そして一軒一軒、配ってくれる人がいます。

もちろん、休みの日にせっかく来ていただくのだから、感銘深いものにしようと企画内容も工夫を凝らします。

ワーキングプアを考える集会」では、映像と語りで派遣切りや貧困の深刻さを伝えました。

この集会は労組の動員をちょっとあてにしていたのにさっぱりだったので、かなりガッカリしたのですが、集会後に労組幹部から「あのスライドを組合で活用したいからシナリオを送ってくれないか」と連絡がありました。

おお、ちゃんと伝わったのだと嬉しく思いました。

憲法集会の方は市民集会だから組合動員なんかありません。

会う人ごとに憲法を語り、集会に誘う人がたくさん寄り集まらなければ、集会は成功しません。

今年は60名の市民合唱団が昨年9月から合唱組曲の練習を続けています。

たった一度の舞台のために、何十回も練習に通うのです。

お金がなくて指揮者を雇えないから、指導はピアノの先生や地元の声楽家が交代で担当しています。

もちろんノーギャラです。

会場を確保したり、会のニュースを作ったり、数え切れない奉仕の精神が傾注されています。

その気持ちは、憲法を守ろうというただ一つのことに向けられています。

日本中で、今夜もそうやって無数の人がコツコツと活動しているでしょう。

この力が、憲法を守ってきたのだと思います。

保守派にとっては目障りな憲法なのに、強大な権力と財力を持ってしても、今日に至るまで指一本触れることができなかったのは、こういう活動があったからだと思います。

一人一人だとちっぽけな市民の力ですが、じつは大きな力を発揮しているのです。

そう考えると、小さな作業もおろそかにできませんよね。

とは言ってもやっぱり面倒くさいけど(笑)

憲法集会まであと三ヶ月。

やることはまだまだあります。

そういうことでブログの更新が止まっていましたが、やや落ち着いたので再開しようと思います。

今日からまたよろしく御願いします。

村野瀬玲奈村野瀬玲奈 2010/02/09 23:33 どろさん、おつかれさまです。
>数え切れない奉仕の精神
考えてみればその通りです。とっても励まされる記事でした。

たかひろたかひろ 2010/02/10 09:19 しばらくブログの更新がなかったので、インフルエンザにでもかかっておられるのではないかと心配しておりました。
憲法集会への無償のご尽力ご苦労様でした、本当に頭が下がります。

フリスキーフリスキー 2010/02/10 12:59 >どろさん、とめはねさんへ

12月18日のエントリーのコメント欄での議論ですが、

http://d.hatena.ne.jp/dondoko9876/20091218/1261064148#c

長くなりすぎたので、こちらのコメント欄に移行させてください。
ちょうどどろさんも憲法について語っておられますので、
エントリーの趣旨にも沿ったものだと思われますので。

とめはねさんへ

では、夕べの私の投稿の続きを書きます。
まずそちらを読まれてからこちらをどうぞ

>これは、矛盾していませんよ。
>例えば、「AさんとBさんの行動は独立した事象です。
>(飲み食いするということは、人によらず共通)」
>というのと同じです。

>人権というものをどうとらえるかによって、
>あなたの指摘が是となったり、
>私の指摘が是となったりするような気がします。
>ですから、ここが矛盾するとかしないとか
>という議論そのものが、
>実はあまり意味がないような気がします。

意味が無いどころか
重要なところです。

AさんとBさんが、例えば自動車を所有するという事象は、
事象としては別々です。
Aさんの自動車所有であり、Bさんの自動車所有です。
しかし、AさんとBさんの自動車所有を保障する権利は、
別々の事象ではなく、普遍的な財産権および所有権の保障です。
とめはねさんは、個人の具体的な事象と、その事象を保障する
権利を混同しているようですね。
権利の普遍性が分からないと、
法の下の平等の概念も理解できません。
Aさんが日本人であり、Bさんが在日コリアンであったとします。
この場合、Aさんの財産権とBさんの財産権が
別々な事象である訳がありません。
憲法29条及び民法で保障された同じ財産権、所有権です。

ただし、権利の性質上、外国人に同じ保障が及んでいるとは
されないものに関しては、この限りではなく、
制約を受けるというわけですが、
これは日本人の権利と外国人の権利を独立した事象として
捉えているのではなくて、“同じ権利”についての制約として
問題とされるのです。
蔵人さんの表現を借りると、
日本人の人権保障が100パーセントでずらっと並んでいると
すると、外国人の人権保障については、権利の性質によっては、
制約を受けるものがある。
国政選挙権のように認められないものもある。
繰り返しますが、
この場合、制約を受ける権利は、
日本人と同じ権利についての、
外国人であることに起因する制約を指しているのです。
決して日本人の権利と外国人の権利を独立した事象として
取り上げているのではありません。

独立した事象だという間違えた捉え方をすると、
それこそ、
外国人への差別、排外主義に与しやすくなりますよ。
たぶんにその危険があります。

次に、
人権と権利についてですけど、
憲法の条文を見ても分かるとおり、
文言上も明確な区別がないのです。
人権保障がまとめられた第三章のタイトルの文言は、
“国民の権利と義務”とあります。
基本的人権の保障の中核的な条文である13条の文言は、
人権ではなく、“権利”という言葉で規定されています。
13条の包括的基本権を基本的人権として、14条以下の
各規定をこの包括的基本権を具体化した権利と捉え
られていますが、
憲法上保障された権利はすべて人権と捉えることも出来ます。

ですから、
とめはねさんのおっしゃるような、
基本的人権と権利を分けた上で、

“基本的人権は、当然国籍不問”
いっぽう
“日本人の権利と外国人の権利は、独立した事象です。”

この捉え方と解釈は明白に間違えているのです。

フリスキーフリスキー 2010/02/10 19:17 とめはねさんへ

続きます。

>歴史的な話は、良くわかりませんが、
>世界人権宣言以前、権利という言葉もない時代に人権って
>あったのでしょうか?公平も愛も思いやりもあったでしょう。
>でも人権ってあったのでしょうか?
>私はなかったような気がしてなりません。
>そして、ある時から、
>人権という言葉が言われるようになって
>人権が存在するようになったと思います。
>そうすると、生まれながらにある権利と言えるのでしょうか?
>世界中の憲法に「人権は、その存在を認めない」と
>書いてあっても人権は存在するのでしょうか

>人権がないというなら、じゃあ、
>いじわるしたり迫害してよいということか?
>というと全くそうではありません。

>私のこの話は、政治と言うよりもおそらく哲学の話で、
>やはり結論が出ない話のような気がします。

この人権の淵源というものについて、
つまり人権の歴史というものについては、
私も勉強不足ですし、また様々な解釈が
成り立つので立ち入りつもりはありません。

しかし、
ではなぜ憲法において人権が保障されているのか?
その意義は、はっきりしています。
まず、立憲主義における憲法の定義をしておきます。
それは、
憲法とは、

“国家権力の濫用を抑制して、国民の権利を保障するための
最高法規である”

ということです。
これは、私の主観ではありません。人によっては
細かいところで語句の違い、
長短の違いはありますが、
意味するところは同じで普遍的な定義です。
以前他のブログのコメント欄で人にWebsterに載っている
定義を教わったのですが、
以下のようにあるそうです。

constitution:(5a) the basic principles
and laws of a nation, state,
or social group that
determine the powers and duties
of the government
and guarantee certain rights
to the people in it

このように
立憲主義に基づく憲法の定義は世界的な
普遍性を持っています。

その意味するところは、
この法規の体系は、一義的に
“国家vs国民”の関係において、
国家権力に向けられた制約原理であり、
人権保障のための体系なんです。
縛られるのは、国家権力の側であり、
国民の権利ではありません。

そこでなぜ憲法において人権保障をする必要があったのか?

それは、まず中世までは人権という概念はありませんでした。
君主は王権に基づいて、思うままに人民を支配していました。
恣意的に人民に義務を課し、権利を制限し、また罰を与える
ことができました。
そして教会が“王権神授説”という考え方のもと、
つまり王権の正当性のよりどころを神に求めて
お墨付きを与えていたのです。
ところが、17世紀に至りジョン・ロックをはじめとする
思想家たちが、王権神授説を否定して、前国家的な、
そして人が生まれながらに持っている権利として
人権というものがあるということを主張しはじめました。
それが潮流となり、啓蒙時代を経て
18世紀のフランス革命が起こり、近代立憲主義に基づく
フランス人権宣言が作られ、これがアメリカ独立宣言と共に、
現代の憲法の淵源とされています。
現代の日本国憲法もこの系譜にあります。

人権を保障しておくということ、
そのために
国家権力が濫用されないように、権力が出来ること、
出来ないことを予め規定しておいて、
権力が好き勝手に出来ないように縛りをかけておくことが、
いかに大事なことであるか。
これが現実的に極めて重要性が高いことは、
歴史的に見ても間違いありません。
現代においても、
お隣の北朝鮮を想起してください。
人権保障がおろそかにされていること、
国家が意のままに国民を支配できるということが
どういうことになるのかお分かりになると思います。
非民主国家において、言論の自由が弾圧され、
容易に心身が拘束され、苦役が課されたり、
命を奪われたりするのは、
人権が保障された最高法規が無いか、
あっても極めて限定されたものしか無いからです。

>権利という言葉もない時代に人権って
>あったのでしょうか?
>公平も愛も思いやりもあったでしょう。

ですから、
個々人のレベルで、公平や愛や思いやりを持っていても、
人権を保障しておかないと、
そのために公権力の権限を縛っておかないと、
どうなるかは、もはや説明を要しないでしょう。

そこを理解できれば、

>人権がないというなら、じゃあ、
>いじわるしたり迫害してよいということか?
>というと全くそうではありません。

こういう著しくピントのずれた
発言は出てこないですよ。
私が、以前から憲法の基礎を知るべきだ、
専門家の書いた本を読むべきだと言うのは、
そういう前提の理解が欠けていると思われる
からです。

本に学ぶ以前に
民主主義国家の構成員として常識的に
備わっているべき認識だと思うんですけどね。

アランポーアランポー 2010/02/11 00:35 >>フリスキー氏

最高裁の判決文に「論理矛盾」なんて珍妙で的外れなイチャモンつけるしか能がないとめはね風情にそんな高尚な内容の、しかも長い文章は理解できんと思われw

蔵人蔵人 2010/02/11 01:16 >アランポーさん

 まったくですな。他人の権利を不当に制限しようとすることは、自分の権利もまた不当に制限されて当  
然ということを認めてはじめて成り立つ論理ということが分かってないのでしょう。
 それとも自分は常に強者・権力者側に立っていられるという自信があるのでしょうか。もしかしてその根拠は「自分は日本人だから」?
いくら顔が見えないとは言え、こうも無茶苦茶なことを堂々と言うのには、呆れるのを通り越して笑うしかありませんな(笑)。

どろどろ 2010/02/11 01:48 村野瀬さん
有り難うございます。
姫路のような田舎町でさえ、憲法を守ろうという趣旨の集会が一年に何度も開かれています。
その規模は30人ばかりのもあれば、何百人も集まるものまで様々ですが、誰に指示されたわけでもないのに、それぞれ工夫を凝らした催しが繰り広げられています。
日本中だと、一体どれほどの広がりなのか、ちょっと想像もつきません。
とても頼もしいことですよね。
村野瀬さんのコメントでふと思い出したので、昨年の憲法集会でやったスライドのシナリオをブログにあげます。
これはとても評判がよかったんです。
よければ感想などくださいね。

どろどろ 2010/02/11 01:51 たかひろさん
ご心配下さって有り難うございます。
そしてすみません。
当人はいたって元気ですw
ちょっと仕事も立て込んでいて、それもあってブログに手を伸ばせませんでした。
まだ予定は毎日詰まっていて、これでもかと言うぐらい毎日遅くなるんですが、毎日とはいかないまでも、ぼちぼち更新頻度をあげるつもりですので、宜しく御願いいたします。

どろどろ 2010/02/11 01:57 フリスキーさん
アランポーさん
蔵人さん
そして、もしも読んでおられるなら、観測霊さん

知らないあいだにすごく高度で真摯な議論を有り難うございます。
読ませていただいて、とても勉強になります。
まとめを別エントリーに上げたいのですが、ちょっといまはその余裕がありません。
しばらく待って下さいね。
いやー、なまけもののブログ主なのに、こんなに素晴らしい書き込みがされるなんて、なんと私は恵まれているのでしょうか。
感涙ものです!

観測霊観測霊 2010/02/12 19:46 > どろさん
改めまして、はじめまして。どろさんのお書きになる記事はいつも拝見しております。
どろさんの記事からも、そこに書き込まれる皆さんのコメントからもたくさん勉強させていただいて、
こちらこそ、どうもありがとうございます、と申し上げねばならないです。

憲法を守ろうというたくさんの活動とブログの両立は、ご苦労も多いことと思いますが、
ご無理をなさらぬようにしてください。

とめはねとめはね 2010/02/28 23:00 >フリスキーさん1

お返事が非常に遅くなってしまい、大変申し訳ありません。もうここで議論を続ける時間は当分とれそうにないので、これが最後の投稿になると思います。

まず、最初に私が主権や外国人参政権についてどのように考えているかをまとめておきます。その方が、個別に書くよりもわかりやすいと思いますので。

日本だけでなく、現在は、世界のほとんどの国々が、国民主権の原理を採用しています。それはなぜなのかを以前考えたことがあります。歴史的には、国民主権とは、フランス革命期に誕生した概念であると言われ、その目的は、革命以前の絶対王政を排除し、主権を人民に付与することであるということは知っています。
しかし、そういうことではなく、なぜ日本の主権は、外国人でもなく、すべての人類でもなく、日本人なのだろうか?ということです。なぜ韓国の主権は韓国人で、アメリカの主権はアメリカ人にあるのかということです。この点について、誰もが全く当たり前のこととして何の疑問も持たずに互いにそれを認めています。これは、なぜなのだろうかと考えたのです。その国の主権をその国の国籍保有者が持つことの根拠を考えました。

いろいろ考えた末の私の結論は、単純に「その国はその国の人のものだから」でした。その内容をもっと突き詰めてゆくと「その国はその国の人が何千年もかけて作り上げてきたものだから」という根拠があります。しかし、外国人でも国籍を取得すれば、その時から主権を得られることを考えると、主権を持つ究極的な根拠は、「その国の国籍保有者は、その国と運命共同体であるから」でしょう。「その国の国籍保有者は、その国の未来に責任を持つと言えるから」とも換言できます。
国と国民が運命共同体であるということは、国家と国民が強く結び付いているということですが、何によって結びついているかというと大きく2つ挙げられます。

まず、保護と被保護の関係ですが、国家の側からいうと、「国家は国民を第一義的に保護する義務を負っている」こと。国民の側から言うと「国籍国によって保護される権利を持っている」ということです。もうひとつは、アイデンティティによるものです。「自分は日本人である」「自分は韓国人である」「自分はアメリカ人である」という自己認識ですが、帰属意識といってもよいでしょう。この保護・被保護の関係とアイデンティティによって、国家と国民は強く結び付き、運命共同体になっていると言えます。

一番良い例は、敗戦直後の日本でしょう。日本全体が焼け野原になった時、多くの外国人は母国に帰りました。そういう選択肢があるのですから当然のことです。しかし、日本人は、ほとんどが、その焼け野原に留まり、復興に取り組みました。これが運命共同体ということであり、日本の未来に責任を持つということだと思います。

在日韓国・朝鮮人のご先祖たちの中には、終戦時に日本に留まった方も多いわけですが、そういう方々と日本人の決定的な違いは、在日の方は、母国に帰るという選択肢があったが、日本人には、日本しかなかったということです。運命共同体ということは、他に選択肢がないということです。
日本が沈めば日本人は一緒に沈みます。しかし、外国人は、日本が沈んでも帰る母国があります。自分がアイデンティティを持つ母国、自分を保護する義務を負ってくれる母国があるのです。ここが、日本人と外国人の決定的な違いです。ですから、日本丸という船が沈没するのか順調に航海を続けることができるかを左右する日本丸のかじ取りの権限、つまり、日本の主権は当然日本人にあるべきだということになります。

こういう話をすると必ず「日本人も国籍離脱の自由があるのだか外国人と同じ条件ではないか」とい言う人がいますが、それは全く的外れです。日本が沈没した時(どん底状態二になった時)、ただ、母国に帰ればよい外国人と、アイデンティティを持つ日本国籍を放棄し、言葉も基本的な習慣も違い、見知らぬ人ばかりの外国で暮らさなくてはならない日本人とでは、その苦労も心の痛みもケタ違いであり、同列に論じることは全く不適切です。

以下に述べることは、人によっては冷たく突き放されたように感じる方もいるかと思いますが、決してそのような趣旨ではなく、 私が思う道理をのべたものですのでその点ご理解下さい。

国籍は変更できるものですから、国籍を維持し続けるということは、絶え間なく、その国籍を選択し続けているということでもあります。つまり、私は、日本国籍を選択し続け、在日朝鮮人の方々は、韓国籍や北朝鮮籍を選択し続けているということです。それぞれに当然の権利です。そして私は日本以外の国と運命共同体になることを拒否し続け、在日の方々は、祖国以外の日本をはじめとした他国と運命共同体となることを拒否し続けているということでもあります。従って、私が日本以外の主権を持たないことも在日の方が日本の主権を持たないのも、当然の帰結です。

ですから、日本国籍を取得せずに、つまり、日本の未来に責任を持たずに主権の根幹である参政権を要求するというのは、責任を取らずに権利だけ要求するということであり、率直に申し上げて、やはり、身勝手ということになるのではないでしょうか。これは、日本人が外国に移住して何代にもわたってそこで生活しても、日本国籍を保持する限りその国での参政権をもらえないことも当然のこととするということでもあります。

よく「参政権を欲しいなら帰化すればいい」と言いますが、以前はこれは、外国人参政権問題の本質からそれた主張だと思っていたのですが、ここで述べたような結論に至った今は、非常に本質をついた主張なのだと思うようになりました。

また、古代ギリシャ哲学の大家であった田中美知太郎氏が、古代アテネでは「市民権」を得るには国境における兵役など様々な厳しい条件を満たさなければならなかったことを紹介した後、こう言っています。 「(古代のアテネでは)市民の資格の大切な一事は、国を守るということであったわけで、武器をとって祖国の防衛に当たるということが、国政に参与する権利を得るための条件だったと言うこともできる。ギリシャ人にとっては、外敵がきたら逃げ出すなどと言っている人間が選挙権を持っているなどということは、とうてい理解できなかったろう」

この話は、参政権という権利の本質をよく示しています。
元々参政権は、命をかけて祖国を守る覚悟がある者に初めてあたえられるものだということです。どのような政治を行うかは、どの国と戦火を交えるかあるいは友好的な関係を結ぶかと直結しますから当然と言えば当然です。しかし、日本は兵役がないということと、平和な時代が長いので、このような初歩的なこともわからなくなってしまったのだと思います。こう考えると、祖国の国防の義務を負っている在日外国人に日本の参政権を付与するということは、非常におかしなことですし、危機管理という面からも非常に問題だと思います。(続きます)

とめはねとめはね 2010/02/28 23:02 >フリスキーさん2

>永住外国人に地方選挙権を与えることも、日本国民の代表者が、審議し法律を制定するプロセスを踏むことによって国民主権が担保されている。


あなたの主張は、「意思決定のプロセスで国民主権の原理が守られていれば、決定された内容にかかわりなく、国民主権が担保される」ということですが、それでは、国民主権が担保されているとは言えません。

なぜか。 例えば、民主主義も含めた例を考えてみます。仮に国民投票という民主主義的かつ国民主権を担保したプロセスによって全ての国民は参政権も主権も放棄し、私「とめはね」が天皇代理としてすべての権限を一身に集めたとします。公務員を選定・罷免する権利も法律を制定する権利も全て私が持つことになったとします。とめはね独裁の完成です。

さて、これでも民主主義や国民主権は担保されていると言えるでしょうか?言えませんよね。
仮に100年後も世襲制によってとめはね独裁が続いているとします。そのころ生まれた子供が、父親に「おとうさん、民主主義ってみんなの意見で決めることって習ったし、日本は民主主義の国だって習ったんだけど、どうしてとめはね天皇代理がみんな勝手に決めちゃうの?日本は本当に民主主義なの?」と聞かれたとします。この時、父親が「100年前に民主主義的なプロセスでこう決まったのだから、とめはね天皇代理が一人で全部決めることが民主主義なんだよ」と言ったらそれは詭弁以外の何物でもないでしょう。国民主権も同様です。

要するに国民主権を担保するには、その意思決定のプロセスが国民主権に則っていることはもちろん、その結果もまた国民主権の理念に照らし合わせ、それに適合している必要があります。換言すれば、民主主義的なプロセスによっても民主主義を否定することは許されないし、国民主権的なプロセスによっても国民主権を否定することは許されないということです。なぜならば、憲法が国民主権を謳っているのですから。つまり、もし、国民主権に反する決定をするのであれば、その前に憲法を改正することが必要です。

>とめはねさんは、外国人地方選挙権についての許容説の論理構成を矛盾があるとおっしゃっていますが、だとすると、このように外国人には保障が及ばない社会権や出入国の自由という人権と、立法によって外国人に権利を付与するという関係においても矛盾をきたすことになります。

いえ、矛盾しません。前述したように、参政権は主権の根幹の権利であり、フリスキーさんが例に挙げたような他の社会権とは全く性質が異なるので別に扱わなければならないものだからです。


>地方参政権が憲法上保障が及んでいるのではない永住外国人にも、地方自治の制度趣旨に鑑みてそれを付与することは、これに選挙権を与えるべく立法措置を取ることは、憲法上禁止されているものではないと解されるとされたわけです。
>その地方自治の趣旨とは、民主主義においては本質的には、住民自治となります。いわば住民主権です。


この部分には大きな論理的飛躍があります。つぎは、以前私が書いたもののコピペです。

>【理由】憲法第八章の規定は、住民の公共的事務は、その地方の住民(日本国籍者)の意思に基づき、地方公共団体が処理するという政治形態を憲法上の制度として保障しようとする趣旨に出たものと解されるから、
>【結論】我が国に在留する外国人のうち地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、法律をもって、地方公共団体の選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではないと解するのが相当である

>こうしてみると(原文でも同じですが)【理由】部分では、「日本国籍者に対する制度の保証」について述べています。それに対して【結論】部分では、「外国人への権利の付与」について述べています。日本人に保障されていることで外国人に保障されていないことは当然あるわけで、日本人に何かが保障されているからと言って、それが外国人に何かを保障したり許可したりする根拠にはなりえません。


ここでの指摘は、生きたままです。この理由と結論の間には明らかに論理的断絶があり、その断絶を埋めるためにあなたが「地方自治の原理」を持ち出してきました。しかし、それでもなお論理的飛躍があります。次は、最高裁判決の一部です。(続きます)

とめはねとめはね 2010/02/28 23:09 >フリスキーさん3


>そこで、憲法一五条一項にいう公務員を選定罷免する権利の保障が我が国に在留する外国人に対しても及ぶものと解すべきか否かについて考えると、憲法の右規定は、国民主権の原理に基づき、公務員の終局的任免権が国民に存することを表明したものにほかならないところ、主権が「日本国民」に存するものとする憲法前文及び一条の規定に照らせば、憲法の国民主権の原理における国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味することは明らかである。そうとすれば、公務員を選定罷免する権利を保障した憲法一五条一項の規定は、権利の性質上日本国民のみをその対象とし、右規定による権利の保障は、我が国に在留する外国人には及ばないものと解するのが相当である。


これを見ても明らかなように、国民主権とは、日本国民に「のみ」主権が存することを意味します。そうでなければ「憲法の国民主権の原理における国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味することは明らかである。」の部分を導けません。また、この判決文を持ち出すまでもなく、例えば全人類が日本の主権を持っていたら人類主権であって国民主権とは言わないでしょうから、日本人限定であることは明らかです。また、判決では次のように言っています。

>前記の国民主権の原理及びこれに基づく憲法一五条一項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることをも併せ考えると、憲法九三条二項にいう「住民」とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であり


つまり、国民主権の原理は、地方参政権にも及ぶと言っている訳です。したがって、選挙権の保障は、外国人には及ばないと結論づけている訳ですが、国民主権の原理に従えば、地方参政権も「日本国民のみ」となるはずです。なぜなら、国民主権の原理は、主権に関しては、外国人を排するのですから。判決では、それを超えて、地方自治の原理を持ち出して、地方参政権は立法措置によって永住外国人に付与することまで憲法は禁じていないとしている訳です。しかし、なぜ、地方自治の原理が、国民主権の原理よりも優先するのかという根拠が全く示されていません。ここに大きな論理の断絶があります。

そもそも、地方自治の原理は住民主権だからというのであれば、地方の大きさの定義がない以上、同じ論理が国家全体についても言えてしまいます。つまり、民主主義の原理は住民主権であるということになり、そもそも国民主権の原理が最初から成り立ちません。それでもなお、国民主権の原理を憲法が掲げているのは、日本国憲法においては、住民主権よりも国民主権の方が優先されているからです。従って、地方参政権においても、国民主権の原理よりも住民主権の原理を優先させることは、不適切です。

今まで述べてきたことを短く換言すれば、地方参政権において立法措置によって外国人の参政権を認めることが可能ならば、国政においても外国人参政権を認めることが可能になってしまう。しかし、それは国民主権の原理に反する、ということです。


>人権と権利についてですけど、憲法の条文を見ても分かるとおり、文言上も明確な区別がないのです。・・・・・・・・・・・・・・・・・ですから、とめはねさんのおっしゃるような、基本的人権と権利を分けた上で、“基本的人権は、当然国籍不問”いっぽう“日本人の権利と外国人の権利は、独立した事象です。”

この捉え方と解釈は明白に間違えているのです。


憲法における「権利」と「基本的人権」という言葉の使い方を基準にすると確かにそうですね。でも、一般的には「権利」と「基本的人権」という言葉は別の意味で使われていませんか?たとえば、自分の所有しているペンを使う権利を言うときに「このペンを使う基本的人権は私にある」とはいいませんよね。私は「基本的人権」というのは「人ならば、誰でも生まれながらに持っている権利」という意味で使いました。そういう意味で良く使われていると思うからです。

もし、憲法で扱っている権利については、その用語の使い方は憲法の用法に従うべきだというのであれば、そもそも「権利」や「自本的人権」の区別がないのですから、憲法における「権利」や「自本的人権」などの用語の使い方について論じることもできなくなってしまいます。

>Aさんの自動車所有であり、Bさんの自動車所有です。しかし、AさんとBさんの・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・これは日本人の権利と外国人の権利を独立した事象として捉えているのではなくて、“同じ権利”についての制約として問題とされるのです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・決して日本人の権利と外国人の権利を独立した事象として取り上げているのではありません。
ここであなたがおっしゃりたいことは、「外国人には権利の制約があるにしても、日本人にも外国人にも同じ権利が適用されている」ということですよね。それには、異論はありません。

次が問題の個所です。
≪こうしてみると(原文でも同じですが)【理由】部分では、「日本国籍者に対する制度の保証」について述べています。それに対して【結論】部分では、「外国人への権利の付与」について述べています。日本人に保障されていることで外国人に保障されていないことは当然あるわけで、日本人に何かが保障されているからと言って、それが外国人に何かを保障したり許可したりする根拠にはなりえません。簡単に言えば、日本人の権利と外国人の権利は、独立した事象です。つまり、この部分は、論理的な整合性がまるでありません。(基本的人権は、当然国籍不問)。≫

この中の「日本人に保障されていることで外国人に保障されていないことは当然あるわけで、」という部分を保障の有無に注目して、私は「日本人の権利と外国人の権利は、独立した事象です。」と表現(強調)したのです。しかし、確かに「独立した事象です」と言えば、権利自体が別々のものと解釈されても仕方がないかなと思います。「簡単に言えば」と前置きしましたが、簡単に言いすぎたようですので、混乱を避けるために次のように訂正します。

「日本人の権利と外国人の権利は、独立した事象です。」
      ↓
「同じ権利でも日本人への保障の度合いと外国人への保障の度合いは、独立した事象です。」
(続きます)

とめはねとめはね 2010/02/28 23:17 >フリスキーさん4

長くなってすみません。これが最後です。

>>人権がないというなら、じゃあ、いじわるしたり迫害してよいということか?というと全くそうではありません。

>こういう著しくピントのずれた発言は出てこないですよ。
私が、以前から憲法の基礎を知るべきだ、専門家の書いた本を読むべきだと言うのは、
そういう前提の理解が欠けていると思われるからです。

この部分は、こういう誤解をされるかもなあと思っていました。
私が、ここで言おうとしたことは、おそらくフリスキーさんが受け取った意味と全く違います。

フリスキーさんが言いたいことは、「人権はないということにしたら、いじめることはいけないことだとか、思いやりを持てとか、そういうことを言っても人権侵害は防げない。憲法をもって、国家による人民への人権侵害を防止しないと人権は守れない」ということではありませんか?
少なくとも現時点での世界に対して、それには全く異論はありません。でも、私が言いたかったことは、そういうことではなく、人権以前のことで、人権という概念に頼らなくとも、元々人という存在は、いじめたり迫害したりしてはいけない存在だということを言いたかっただけです。たぶん、あなたは、それを人権と言うのだとおっしゃると思います。でも、私が思っていることは、ちょっと違います。ここをうまく言葉で表現するのはすごく難しいです。

人権とは何かということは、人間とは何かという問いと密接不可分に関係します。そして、わたしの人間観や世界観は、自分の個人的な体験からきているので、人に理解してもらうのに非常な困難さを覚えます。それは結局私の「人権観」を理解してもらうのはなかなか難しいということです。この部分は、下手をすると説明すればするほど誤解を招きかねません。だから、「疑問を表明するに留める」と言ったのです。しかし、ツッコミを入れられてしまったので一応説明をしておきます。

私は特定の宗教を信奉しているわけではないのですが、誤解を恐れず言うと、わたしは人間と言う存在は、”究極的には”とても神聖なものだと思っています。人権云々と言う前に当然神聖不可侵なのです。

もし、あなたがクリスチャンに「イエスキリストにも人権があるから彼をいじめてはいけない」と言ったら、たぶんあなたは馬鹿にされるでしょう。それと同じです。そういうところから見ると、人権と言う概念はとても皮相的にみえます。

もっと卑近な例でいうと、仲が良い家族は、子供に人権があるからかわいがるのではないですよね。親子だから、かわいいからかわいがります。そこに人権という概念など全く不要です。しかし、悲しいことに子供を虐待する親もいます。その時子供を守るために子供の人権という概念が役に立ちます。でも、これはあくまでも便宜的なものです。現在の世界に人権と言う概念が必要なのも人類の進化段階に応じた便宜的なものだと思います。ただ、念のために言うと、わたしにとっては、車も冷蔵庫も便宜的なものなので、便宜的と言っても決して軽んじてよいということではありません。それどころか、現在の世界に於いては必要不可欠だと思います。

人間は神聖なものと言いながら、なぜこんなにも混乱に満ちた世界かと言うと、わたしも含めてたくさんの人々が、仏教でいえば無明の中にいるからだと私は思っています。言い方を変えると、本当は、生存を目的としたエゴというロボットの操縦者が自分なのに、自分とロボットがシンクロしすぎて区別ができなくなってしまい、まるでエゴが自分だと思い込んでいる状態だと思います。
おそらく、あなたと私の人権観はかなり違うと思います。しかし、人間観に正解がないように人権観にも正解はないと思います。

それから、外国人の生活保護は違憲と思うかどうかということですが、「たぶん合憲」と思いますが、勉強不足で何とも言えません。しかし、どの国も互いに定住外国人に生活保護を与える相互保障になっているならば、それが、お互いにとって一番よいのではないでしょうか。ただ、外国人の居住許可の条件として、たしか「独立で生計を営むことができる」という条件があったと思いますが、それには違反していますね。この条件ももっともな条件だと思います。

そんなことも考え合わせると、生活保護は相互保障でok。しかし、制限期間付きで、それ以上は、母国に帰って生活保護を受けるべし、くらいが妥当な所でしょうか。そうしないと、考えすぎかもしれませんが、巨大な人口を抱えた国が、戦略的に国民を外国に大量に送り出し、そこで生活保護を受けさせるという危険もあります。それに近いことが海外で起きているようですし。結論を言えばこの件に関しては、よくわかりません。

最後に、わたしのようなど素人相手に辛抱強く誠実におつきあいくださいましてありがとうございました。おかげさまで大変勉強になり、フリスキーさんにはとても感謝しています。ありがとうございました。

フリスキーフリスキー 2010/03/01 10:00 >とめはねさんへ1

まずですね、あなたのおっしゃる以下の箇所に
ついてです。

『一番良い例は、敗戦直後の日本でしょう。
日本全体が焼け野原になった時、
多くの外国人は母国に帰りました。
そういう選択肢があるのですから当然のことです。
しかし、日本人は、ほとんどが、その焼け野原に留まり、
復興に取り組みました。
これが運命共同体ということであり、
日本の未来に責任を持つということだと思います。』

『在日韓国・朝鮮人のご先祖たちの中には、
終戦時に日本に留まった方も多いわけですが、
そういう方々と日本人の決定的な違いは、
在日の方は、母国に帰るという選択肢があったが、
日本人には、日本しかなかったということです。
運命共同体ということは、
他に選択肢がないということです。』

『母国に帰ればよい外国人と、
アイデンティティを持つ日本国籍を放棄し、
言葉も基本的な習慣も違い、
見知らぬ人ばかりの外国で暮らさなくてはならない日本人とでは、
その苦労も心の痛みもケタ違いであり、
同列に論じることは全く不適切です。』

『つまり、私は、日本国籍を選択し続け、
在日朝鮮人の方々は、
韓国籍や北朝鮮籍を選択し続けているということです。
それぞれに当然の権利です。
そして私は日本以外の国と運命共同体になることを
拒否し続け、在日の方々は、
祖国以外の日本をはじめとした他国と運命共同体と
なることを拒否し続けているということでもあります。』

ここですが、

1910年の日韓併合によって、
半島は日本の領土とされ、韓国の人民は日本国の
領民つまり日本国籍者とされました。
今まで乗っていた韓国丸から
日本丸という船の乗組員とされました。
これによって少なくとも体裁上は、日本人と同じ権利を
有し、選挙権も被選挙権も与えられたわけですよね。
ですから、
焼け野原になった時、コリアンは、
外国人ではなくてまだ日本国籍者でした。
そして
日本の敗戦によって半島が日本の領土ではなくなり、
半島の領民が日本国籍者ではなくなりました。
つまり、元の領土と国籍を回復したわけですが、
国家の都合により、日本人とされたり、韓国人に戻されたりした。
これは自分の意思ではなくて、自分の選択ではなくて、
支配者に翻弄されてきた経緯があります。
そして、
既に日本に渡っていた元日本人(併合期間は日本の臣民)
であるコリアンの多くは、社会人として、職業人として、
家庭人として、住民として既に生活の基盤を日本の本土に
築いていたわけです。
敗戦によって、日本国籍者ではなくなりましたが、
物理的には、日本丸という船の乗組員という
状況が続いていたのです。

ですから、

>ただ、母国に帰ればよい外国人と、
>アイデンティティを持つ日本国籍を放棄し、
>言葉も基本的な習慣も違い、
>見知らぬ人ばかりの外国で
>暮らさなくてはならない日本人とでは、
>その苦労も心の痛みもケタ違いであり、
>同列に論じることは全く不適切です。

在日コリアンの場合、
“ただ母国に帰ればよい外国人”とは、
歴史的経緯が大きく異なります。

また、

>国籍は変更できるものですから、
>国籍を維持し続けるということは、
>絶え間なく、
>その国籍を選択し続けているということでもあります。
>つまり、私は、日本国籍を選択し続け、
>在日朝鮮人の方々は、
>韓国籍や北朝鮮籍を選択し続けているということです。
>それぞれに当然の権利です。

あなたは本当に、
日本国籍を絶え間なく選択し続けて
これを維持しているという意識をもっているんですか?
だとしたら、あなたは相当な変わり者ですよ。
国籍とは父祖から代々に渡って受け継いだものであって、
これを変えるということは、
“絶え間なく選択し続ける”ことなどという
表現は不適切で、
大きな決断を迫られることであって、
これは父祖から連綿と受け継いできたアイデンティティの
大きな変更を意味します。

>ですから、日本国籍を取得せずに、
>つまり、日本の未来に責任を持たずに
>主権の根幹である参政権を要求するというのは、
>責任を取らずに権利だけ要求するということであり、
>率直に申し上げて、やはり、
>身勝手ということになるのではないでしょうか。

責任とはなんですか?
そもそも、
私が先の投稿でご説明したように、
憲法とは、

『国家権力の濫用を抑制して、国民の権利を保障するための
最高法規』

です。憲法は人権保障を国家に約束させるための規定であって、
憲法で保障された権利は義務の対価ではないのです。
あなたは、古代アテネの“市民権”を引き合いに出されて
いますが、それは“近代立憲主義における人権”の説明には
妥当性を欠きます。
“市民権”の対価として“市民の国防の義務”を
あげて、
これを、

“参政権という権利の本質をよく示しています。 ”

として、参政権のよりどころとするのは、
近代立憲主義を無視するものです。

>元々参政権は、命をかけて祖国を守る覚悟が
>ある者に初めてあたえられるものだということです。

古代ギリシャにおける“市民権”と、
近代立憲主義における人権は別物ですので、
そこは認識しておいてください。
市民権を有する住民よりも奴隷の数がはるかに多く、
極めて限定された条件で義務の対価として
付与されたのが市民権です。
ロックやルソーなど啓蒙時代以降の人権思想とは
異なるものです。

また、田中美知太郎氏のこの下りですが、

>外敵がきたら逃げ出すなどと言っている人間が
>選挙権を持っているなどということは、
>とうてい理解できなかったろう

徴兵制が無い限り、また移動の自由、
出入国の自由が人権として
保障されている以上、
日本国籍者であっても、逃げ出すことは可能です。
また既に外国に永住している日本人も多数います。
逃げ出しちゃうような日本人には、
参政権を認めるべきではないですか?
国防の義務を果たさない日本人には、
参政権を与えるべきではないですか?

参考までに、
近代立憲主義における参政権の根拠を
市民の国防の義務に求めている
憲法学者がいらっしゃるのならば、
その方のお名前を教えていただけますでしょうか?

>しかし、日本は兵役がないということと、
>平和な時代が長いので、
>このような初歩的なことも
>わからなくなってしまったのだと思います。

いえいえ、
参政権のよりどころとして、
国民の義務とくに国防の義務を持ち出してくる
ことこそ、初歩的なところが
分かっていない証左です。

ここは極めて大事なところなので繰り返しますが、
憲法上の人権は義務の対価ではありません。
ある義務を遂行しないばかりに
奪われる人権がどこにありますか?

フリスキーフリスキー 2010/03/01 10:01 >とめはねさんへ2

次に、

>あなたの主張は、
>「意思決定のプロセスで国民主権の原理が守られていれば、
>決定された内容にかかわりなく、国民主権が担保される」
>ということですが、
>それでは、国民主権が担保されているとは言えません。

国民主権の保障とは、
すなわち、国民主権をプロセスにおいて保障することに
他なりません。
逆に質問しますが、
意思決定のプロセスの保障以外に、
保障する手段がどこにありますか?

>仮に国民投票という民主主義的かつ
>国民主権を担保したプロセスによって全ての国民は
>参政権も主権も放棄し、私「とめはね」が
>天皇代理としてすべての権限を一身に集めたとします。
>公務員を選定・罷免する権利も法律を
>制定する権利も全て私が持つことになったとします。
>とめはね独裁の完成です。
>さて、
>これでも民主主義や国民主権は
>担保されていると言えるでしょうか?

これを読んだとき、
あなたは憲法98条1項によって
憲法が最高法規とされていることを
ご存じないのかと思っていました。

98条1『この憲法は、国の最高法規であつて、
その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に
関するその他の行為の全部又は一部は、
その効力を有しない。』

ところが、その後の下りでこうおっしゃる。

>要するに国民主権を担保するには、
>その意思決定のプロセスが国民主権に
>則っていることはもちろん、
>その結果もまた国民主権の理念に照らし合わせ、
>それに適合している必要があります。
>換言すれば、民主主義的なプロセスによっても
>民主主義を否定することは許されないし、
>国民主権的なプロセスによっても
>国民主権を否定することは許されないということです。
>なぜならば、
>憲法が国民主権を謳っているのですから。
>つまり、もし、国民主権に反する決定をするのであれば、
>その前に憲法を改正することが必要です。

>その結果もまた国民主権の理念に照らし合わせ、
>それに適合している必要があります。

まず、違憲な立法に関しては、
裁判所が、これを判断する権限を有しています。

81条『最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は
処分が憲法に適合するかしないかを
決定する権限を有する終審裁判所である。』

これは、裁判所が一方的に介入するのではなくて、
裁判つまり民の側の訴えがあって始めて
審査できるものです。

そして、
憲法を改正する場合には最終的には国民投票にかけられます。
つまり、
国民主権を保障するということは、
すなわち国民主権のプロセスつまり制度を保障する
ということに他なりません。

憲法改正について結論で述べておられますが、
憲法の改正のプロセスとはすなわち、
国民の意思決定のプロセスに他なりません。
もう一度お聞きします。
国民主権を保障するにあたって、
意思決定のプロセスの保障以外の手段で
どうやってこれを保障するのですか??

あなたの文章をもう一度
読み返してください。
問題提起と結論が、自家撞着を
起こしてしまっています。
論理がループしてしまっています。
これは初歩的な思考ミスです。

そもそもが、
憲法における人権というものは、
近代立憲主義の下、
一貫した理念と論理に貫かれています。
憲法前文で謳われた三つの原則である。
1、国民主権
2、人権保障
3、平和主義

ですが、
1と2は、手段と目的の関係にあります。

『明らかに、国民主権およびそれに基づく代表民主制
の原理が基本的人権の尊重と確立を目的とし、それを達成する
ための手段として、不可分の関係にあることを示している。』
   (芦部信喜「憲法」p37より)

したがって、
憲法における人権の中核は自由権です。
表現の自由、信教の自由、経済的自由、移動の自由
などです。
それに対して、参政権はこれら自由権を保障するために
これに仕える権利とされています。

『(自由権は)「国家からの自由」とも言われ、
 人権保障の確立期から人権体系の中心をなしている
 重要な権利である』
   (芦部信喜「憲法」p81より)
『(参政権は)「国家への自由」とも言われ、
 自由権の確保に仕える。」
   (同p82より)

このように、
参政権というものは、
国民の義務や責任の対価として保障されているもの
なのではなくて、
自由を保障するために、
その手段として与えられているものなのです。
ここは極めて重要なところなので
認識しておいてください。
あなたのおっしゃるような
参政権を他の人権と全く性質の異なるものとして
別に扱わなければならないなどという
憲法解釈など初めて聞きました。
憲法の人権保障の体系は一貫した理念と論理で
貫かれています。
ある部分だけを異質なものとして
別個に取り扱うなど
支離滅裂の、トンデモ憲法論と
言い切って差し支えありません。

フリスキーフリスキー 2010/03/01 10:02 とめはねさんへ3

次に、
あなたが再三おっしゃる、
判決文の矛盾についてですけど、
私は以下のように既述しました。

(コピー開始)
『判例で示されてる見解は、
第一段落において、
93条2項における住民は、
日本国籍を有する住民と解される。したがって、
外国人には地方参政権の保障は及ばない。
と示されています。

しかしながら、
第二段落では、憲法の住民自治に関する規定の制度趣旨まで
遡って斟酌していくと、
その本質は、
地方自治の重要性のもと、住民の日常生活に密接に
関わる公共的事務については、その地方の住民の
意思に基づいて処理されるための統治形態を保障したもの
であるから、その趣旨に鑑みれば、
日本国籍は無くても、住民としてその地域の自治体と密接な
関係を有するに至った永住資格を有する定住外国人については
これに選挙権を与えるべく立法措置を取ることは、
憲法上禁止されているものではないと解される。
ただし、この立法措置を取るか否かは立法過程において
判断されるべきことであって、この措置を取らないからといって
違憲性は生じない。
というものです。

ここで、立法措置によってつまり立法府(国会)の判断によって、
その可否を委ねているところに、国民主権に基づく参政権が
担保されているのです。
つまり、
永住外国人に地方選挙権を与えるのは、
日本国民のみによって選挙され、
日本国民の代表者で構成される国会において審議され制定された
法律によって永住外国人に地方選挙権を与えるか否かというプロセスを
踏むことによって国民主権が担保されているのです。
そのうえで、
地方参政権が憲法上保障が及んでいるのではない永住外国人にも、
地方自治の制度趣旨に鑑みてそれを付与することは、
制度趣旨の理念をより実体化するものとする意味でも、
つまり、
日本国籍は無くても、住民としてその地域の自治体と密接な
関係を有するに至った永住資格を有する定住外国人については
これに選挙権を与えるべく立法措置を取ることは、
憲法上禁止されているものではないと解されるとされたわけです。
あくまでその立法の是非の判断は、
日本国民の代表者によって構成される国会の判断に委ねると。
こういう見解だと理解しています。』

こう書きましたが、
さらに補足しておくと、
その地方自治の趣旨とは、民主主義においては本質的には、
住民自治となります。いわば住民主権です。
ここで、93条2項において、地方参政権について外国人が
保障されていないからといって、
国会による立法措置によって、国籍は有さないけれども、
日本人と同じように住民としてこの日本において生活の基盤を持って、
生きてきて、自分の属する地方自治体と密接な関係を有するに至った
永住資格を有する定住外国人に地方参政権の一内容である
地方選挙権を与えることまでも禁じられているとは言えないと
解されます。

(コピー終了)

私がこう書いたとおりですけど、
再三申し上げている通り、

“憲法で保障されていない=憲法で禁止されている”

とはなりません。
あなたは何度も許容説に立つ判例を矛盾があるとか、
論理的に大きな飛躍があるとか
指摘し続けていますが、

憲法で保障されていないのだから、憲法で禁止されている
とする結論こそが、論理の飛躍があるのです。
いったいどう憲法を読めば、
憲法で保障されていない制度なのだから、
憲法で禁止されている制度だと結論することができる
のでしょうか。

>そもそも、地方自治の原理は住民主権だから
>というのであれば、地方の大きさの定義がない以上、
>同じ論理が国家全体についても言えてしまいます。
>つまり、民主主義の原理は住民主権であるということになり、
>そもそも国民主権の原理が最初から成り立ちません。

憲法92条にはこうあります。

『地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、
地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。』

“法律”は、日本国民のみによって選ばれ、
日本国民のみによって構成される国会で制定されます。
地方選挙権を付与するのは、国会で制定される法律に
よるのです。
ここで国民主権が担保されているのです。
国民主権において制定された法律によって
地方選挙権を付与するというのです。
この立法プロセスに、
一切の外国人は関わりません。
立法をするにせよ、
あるいは、
法律を廃止するにせよ、
日本国籍者のみによって選ばれ、
日本国籍者のみによって構成される国会議員によって
審議、議決されます。
ですから、国民主権が担保されることになるのです。

>従って、地方参政権においても、
>国民主権の原理よりも住民主権の原理を
>優先させることは、不適切です。

ですから、どこをどう読んだら、
国民主権の原理が下位に置かれていますか。
誤読もいいところです。

それと、
>というのであれば、地方の大きさの定義がない以上、
>同じ論理が国家全体についても言えてしまいます。

地方の大きさの定義もなにも、
地方とは地方自治体のことです。
地方自治体とは、都道府県、市町村のことです。
それぞれの自治体に議会が設けられ、
それぞれの自治体で制定される条例は、
その自治体でのみ適用されます。
たとえば
町田市の条例が八王子市で適用されることは
絶対にありません。
あるいは
町田市の条例制定に関して
八王子市は一切の権限を有しません。
地方自治体の自治に関して権利を有しているのは、
その自治体に住む住人です。
住民自治とはそういうことです。

>今まで述べてきたことを短く換言すれば、
>地方参政権において立法措置によって
>外国人の参政権を認めることが可能ならば、
>国政においても外国人参政権を認めることが
>可能になってしまう。
>しかし、それは国民主権の原理に反する、
>ということです。

だから、
国民主権の保障がプロセスの保障だけでは
保障されないなどという
頓珍漢なことを言うからこういう結論が
出てくるのです。
法律の制定権を有する国政についてまで選挙権を
認めることと
地方自治体とでは、上記のように
国民主権の担保という点で、
過程が異なるのです。
判例通説において、定住外国人の国政選挙権は
明確に否定されています。

>憲法における「権利」と「基本的人権」という
>言葉の使い方を基準にすると確かにそうですね。
>でも、一般的には「権利」と「基本的人権」
>という言葉は別の意味で使われていませんか?

今まで憲法論の話をしてきたのですよ。
また、あなたのおっしゃる“一般的”の内容が
不明なのですが、
いずれにせよ、
「基本的人権」と「権利」が切り離したものとは
なりえません。

「基本的人権」を憲法上の権利とし、
「権利」を法令上の権利と定義しても、

後者は前者の具体化であって
前者は後者の根拠となるものです。
法律用語で言うところの、
“一般法”と“特別法”の関係にあります。
先ほど、芦部先生の著書からの引用をしましたが
参政権は、自由権を保障するための手段であると
説明されていたこともこの趣旨に沿ったものです。

>フリスキーさんが言いたいことは、
>「人権はないということにしたら、
>いじめることはいけないことだとか、
>思いやりを持てとか、そういうことを
>言っても人権侵害は防げない。
>憲法をもって、国家による人民への人権侵害を
>防止しないと人権は守れない」
>ということではありませんか?

理解不足です。
人権保障をそのようなパーソナルな次元の
倫理、ヒューマニズムとしてだけで捉えていると
本質を見誤ります。
あなたは、この国のシステムとして民主主義、
自由主義を支持されるのならば、
そのためには人権保障が必要なんです。

人権保障の進んだ先進国は、
人権保障を制度として実効化させていることで、
民主主義と自由主義という社会システムが
保たれているのです。
もし、
ピンとこないならば、北朝鮮を想起してください。
かの国の人権と先進国の人権を比較してください。
そこから、
民主主義、自由主義へと関連させてみてください。

>私が言いたかったことは、
>そういうことではなく、人権以前のことで、
>人権という概念に頼らなくとも、
>元々人という存在は、
>いじめたり迫害したりしてはいけない
>存在だということを言いたかっただけです

ですから、それは
“個人vs個人”の関係で求められる倫理です。
また、人としての当たり前のモラルであり、
思いやりであり、人情です。

しかし、人権という概念が生まれたのは、
社会変革、社会革命と結びついています。
絶対王政、君主制、王権神授説、を否定して、
民主主義、自由主義という社会をあたらに作り出すには、
人権という概念と憲法による保障が必要不可欠で、
人権以前の、
思いやりとか、倫理、道徳観では、民主主義社会、
自由主義社会を作り出し、
またこれからもこれを維持していくことは不可能なのです。

人権保障以外のどんな手段で、民主主義、自由主義を守る
ことが出来ますか??

あなた個人の人権論を語るのはご自由ですが、
率直に申し上げさせていただくと、
人権と民主主義、人権と自由主義、人権の成り立ちと
その歴史的および現実的な意義についての見識が
ずいぶんと未熟であると言わざるを得ません。

フリスキーフリスキー 2010/03/01 10:03
>とめはねさんへ4

追伸

それと、
あなたが、田中美知太郎氏の言葉を引用されていますが、
出典が書いていないので、それを知りたくて
その言葉を検索してみました。
すると、
日本政策研究センターという右派のシンクタンクのサイトに
この言葉が紹介されていました。
ここの所長の岡田邦宏さんという方のエッセーの中での
ものです。
題は、『日本の運命に責任を持つのは誰か?』

http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=675

ここを読みますと、
あなたと同じく、
参政権と国防の義務をリンクさせ、
田中美知太郎氏のまったく同じセンテンスを引用しています。

特に以下の箇所ですが、

岡田邦宏さんのエッセーの中では、

『古代ギリシャ哲学の大家であった田中美知太郎先生が、
古代アテネでは「市民権」を得るには国境における
兵役など様々な厳しい条件を満たさなければ
ならなかったことを紹介された後、
こう書いておられる。』

とありますが、

一方とめはねさんの文章では、

『古代ギリシャ哲学の大家であった田中美知太郎氏が、
古代アテネでは「市民権」を得るには国境における
兵役など、様々な厳しい条件を満たさなければ
ならなかったことを紹介した後、
こう言っています。 』

となっていますね。

細かいところの語句は違いますが、
この両者は、
偶然の一致とは言いがたいほどに酷似しています。

そしてその後、
田中美知太郎氏の言葉として、
まったく同じセンテンスが続いています。

もしあなたが岡田邦弘さんではないのでしたら、
これって、剽窃に当たるんじゃないですか??

文章全体としても、
ずいぶん論旨が酷似していますね。

言葉は悪いですけど、
はっきり言って、
ぱくりましたね?

人権以前のモラルだの思いやりだのを説くあなたが、
あっさりとこういうことして
良いんですか?

フリスキーフリスキー 2010/03/01 12:52 ネット検索で済ませて
門外漢の人のエッセーから
パクリをする時間があるのでしたら、
一冊でもスタンダードな憲法の本にでも
目を通して、
基礎を知ることからはじめてはいかがでしょうか。
安易にパクリをしちゃったら、
それこそ
人間の崇高さを説くあなたの名が廃るというものです。
私はこういうあっけらかんとした欺瞞をもっとも
軽蔑します。

宮本浩樹宮本浩樹 2010/03/02 10:49 横レス(って言うのかな?)失礼します。

外国人地方参政権付与問題について憲法上の疑義があるというとめはね氏の主張は「立法措置によってつまり立法府(国会)の判断によって、その可否を委ねている」最高裁判決によって無効である。
フリスキー氏の主張されるのはもっともで、外国人地方参政権付与に反対する人たちは憲法をその根拠に出来ない事を認識していただきたいと思います。

ただ、フリスキー氏は町田市と八王子市という現行の自治体を例にとってわかりやすく説明されていますが、「地域主権への移行」という国家と地方との関係を大胆に組み替え国のかたちを根本から変えてしまうような与党民主党の公約と結びつけて「外国人地方参政権付与問題」を考えると、ゼノフォビア的反応が出てくるのも仕方ないかなとも思います。

政治家の「説明責任」もあるとは思いますが、我々市民のレベルでも建設的な、意味のある議論をもっとしなければ、とも思うのです。

とめはねとめはね 2010/03/09 00:18 >フリスキーさんへ

前回の投稿で、たとえ見解の相違があっても、もう最後にしようと思っていたのですが、議論の根幹部分で見解の相違ではなく、あなたのおっしゃることで全く理解できないことが出てきたために少なくとも1回は議論を続けることにしました。
どうしてもわからないと言うのは次の部分です。

>あなたの文章をもう一度読み返してください。問題提起と結論が、自家撞着を起こしてしまっています。論理がループしてしまっています。これは初歩的な思考ミスです。

自分の文章を読み直してみました。しかし、どこが自家撞着でどこがどうループしているのかさっぱりわかりません。具体的に指摘していただければありがたいです。
私が展開した論理をまとめておきます。

まず、あなたが次のように言いました。

>>永住外国人に地方選挙権を与えることも、日本国民の代表者が、審議し法律を制定するプロセスを踏むことによって国民主権が担保されている。

それに対して私が言ったことは、要するに次のことです。

>要するに国民主権を担保するには、その意思決定のプロセスが国民主権に則っていることはもちろん、その結果もまた国民主権の理念に照らし合わせ、それに適合している必要があります。

そして、例としてとめはね独裁政治の成立過程をあげました。簡単に言うと次のようになります。「国民投票という国民主権が担保された意思決定方法によって、とめはね独裁という国民主権が担保されない政治体制を作ることができる。」
これは、あなたの主張に対する反例なので、これであなたの主張への反論は完了しています。この後に私が続けた話は、「とめはね独裁政治は、憲法の国民主権に反するので現憲法の下では否定される。従って、とめはね独裁政治をするのであれば、憲法を改正する必要がある。」ということです。

この論理のいったいどこが自家撞着でどこがどうループしているのでしょうか?
ちなみに、とめはね独裁法案を作る過程でそれが否定されるか、あるいは誰も最高裁に訴えず否定されずに実行され、200年後にようやく否定されるはわかりません。しかし、否定するにしても、「国民主権を担保するには、その意思決定のプロセスが国民主権に則っていることはもちろん、その結果もまた国民主権の理念に照らし合わせ、それに適合している必要がある」という前提の必要がありますから、私の主張と矛盾はありません。


せっかくですから、他のことも少し書きます。

>国民主権の保障とは、すなわち、国民主権をプロセスにおいて保障することに他なりません。逆に質問しますが、意思決定のプロセスの保障以外に、保障する手段がどこにありますか?

通常は、たぶんあなたのおっしゃるとおりです。ただし、意思決定の方法自体を決めようとする時は、意思決定の結果そのものも国民主権の原理にかなっているかどうかを審議する必要があるということです。そうしなければ、意思決定のプロセスを保障できません。
外国人参政権法案は、意思決定方法ですから、外国人参政権を決めるプロセスだけなく、この法案自体が国民主権の原理に則っているかどうかを審議する必要があります。


>ある部分だけを異質なものとして別個に取り扱うなど支離滅裂の、トンデモ憲法論と言い切って差し支えありません。

では、なぜ、外国人参政権は、事実として国会でも最高裁でも別個に取り扱われているのですか?国民保険や生活保護などは、外国人も日本人も区別なく保障されているのになぜ、参政権はそれらとは別個に「権利の性質上」と言う理由で外国人には保障されていないのですか?私が別個に扱われるべきだと言ったのはそういう意味ですけど。

>、参政権のよりどころとして、国民の義務とくに国防の義務を持ち出してくることこそ、初歩的なところが分かっていない証左です。


さすがに私も国防の義務の対価として現在の参政権を位置付けてはいません。だから「元々参政権は、命をかけて・・・・。」と「元々」をつけたのです。
私が、そこでやろうとしたことは、参政権が持っている性質を明らかにすることです。その性質とは、「参政権によってどのような政治を行うかは、どの国と戦火を交えるかあるいは友好的な関係を結ぶかと直結する」ということです。これは、古代ギリシャの市民権のなかの参政権であろうが、立憲主義のなかの参政権であろうが不変です。

>ある義務を遂行しないばかりに奪われる人権がどこにありますか?

義務ではないですが、参政権は国籍を維持することを遂行し続けなければ奪われますね。


>あなたは本当に、日本国と籍を絶え間なく選択し続けてこれを維持しているという意識をもっているんですか?だとしたら、あなたは相当な変わり者ですよ。

そう思うのは、ご自分の選択に無意識だからです。選択が可能なときには、人は常に選択し続けています。ただし、それは「自分は〜を選択する」と絶え間なく思い続けるという意味ではありません。どの瞬間でもあなたは「よし、国籍を変えよう!」と選択することは可能ですよね。しかし、それをしないということは、常にそれをしないことを選択しているという意味です。
このことがピンとかなければ、次のように言ってもよいです。たとえば、「自分は、今の国籍を変えることはしない」とある時決断したとします。するとそれ以降は、国籍の選択についてあまり考えなくなりますが、選択の結果を実行し続けているとも言えます。
あなたも私も国籍離脱に関する話題になった時、ほんのコンマ1〜2秒で「国籍は変えない」と選択していると思います。ただ、あまりに電光石火なので、自分でもその選択の過程が見えないだけなのです。最近の心理学では、感情さえ選択しているという説もあります。それが、やはり選択しているように思えないのは、あまりにも素早く感情を選択するので、自分でもその過程が自覚できないからだそうです。
選択には必ず「自分でそれを選択した」という責任が伴います。従って選択に無意識だと自分の責任にも無意識になります。

>国籍とは父祖から代々に渡って受け継いだものであって、これを変えるということは、・・・これは父祖から連綿と受け継いできたアイデンティティの大きな変更を意味します。

だからこそ、われわれはあたりまえのように、現在の国籍でいることを選択しつづけているのです。

>憲法で保障されていないのだから、憲法で禁止されているとする結論こそが、論理の飛躍があるのです。いったいどう憲法を読めば、憲法で保障されていない制度なのだから、憲法で禁止されている制度だと結論することができるのでしょうか。

私は、憲法で保障されていないのだから、憲法で禁止されている、なんてことを言っていませんよ。たぶん、あなたの読み違いだと思います。

>>というのであれば、地方の大きさの定義がない以上、同じ論理が国家全体についても言えてしまいます。

>地方の大きさの定義もなにも、地方とは地方自治体のことです。地方自治体とは、都道府県、市町村のことです。

さすがにそれはわかっています(笑)
言葉たらずで申し訳ありませんでしたが、私が言いたかったことは、最高裁判決で「国民主権の原理が地方参政権にも及ぶ」とした以上、国民主権に関する限り、国も地方も違いはなく、従って判決の中の「地方自治体」を「国」と置き換えても同じ論理が成立してしまうということです。


ところで、フリスキーさんは、ほとんどの国で国民主権が採用されているのはなぜだと思いますか?A国の主権は、B国人でも全人類でもなくA国人である根拠です。

フリスキーフリスキー 2010/03/09 08:42 とめはねさんへ

>自分の文章を読み直してみました。
>しかし、どこが自家撞着でどこがどうループしているのか
>さっぱりわかりません。
>具体的に指摘していただければありがたいです。

では、再度ご説明しましょう。
あなたは、こういう例を挙げられたわけです。

>仮に国民投票という民主主義的かつ
>国民主権を担保したプロセスによって全ての国民は
>参政権も主権も放棄し、私「とめはね」が
>天皇代理としてすべての権限を一身に集めたとします。
>公務員を選定・罷免する権利も法律を
>制定する権利も全て私が持つことになったとします。
>とめはね独裁の完成です。
>さて、
>これでも民主主義や国民主権は
>担保されていると言えるでしょうか?
>さて、
>これでも民主主義や国民主権は担保されていると
>言えるでしょうか?言えませんよね。
>仮に100年後も世襲制によってとめはね独裁が
>続いているとします。そのころ生まれた子供が、
>父親に「おとうさん、民主主義ってみんなの意見で
>決めることって習ったし、日本は民主主義の国だって習ったんだけど、
>どうしてとめはね天皇代理がみんな勝手に決めちゃうの?
>日本は本当に民主主義なの?」と聞かれたとします。
>この時、父親が「100年前に民主主義的なプロセスで
>こう決まったのだから、
>とめはね天皇代理が一人で全部決めることが民主主義なんだよ」と
>言ったらそれは詭弁以外の何物でもないでしょう。
>国民主権も同様です。

ここですけれども、
民主主義的プロセスによって、
民主主義、国民主権を奪ってしまったら、
結果的に、民主主義的なプロセスが
保障されないことになります。
結果的に、国民主権が奪われて、とめはね代理天皇主権と
なってしまいます。
これは、
憲法の中核である人権保障が奪われる
ことを意味して、明白に違憲となります。
この点はあなたと私は同意できていますね。

次に、
私は、
国民主権の保障とは、国民による意思決定のプロセスの保障だと
言いましたが、
あなたの事例ですと、国民による意思決定のプロセスの保障が
奪われるわけですから、
これは、民主主義、国民主権が否定されることになります。

これについては、通説は、憲法改正は無制限に認められるもの
ではないとしています。
つまり、
立憲主義における憲法では、憲法制定権力が国民にあるものとして、
国民が憲法を制定する権力を有しているのであり、
改正についても、これは国民が有する憲法制定権力により
認められるものであるから、これにより国民の憲法制定権力を
奪ってしまうことは、自殺行為となっていまいこれを
認めることは出来ないというものです。
言い換えれば、
憲法制定権力が親であり、改正権は前者が養う子という
ことになります。
したがって、子によって親の命を奪うことは許されない
ということです。
子の存立基盤が無くなるからです。

改正権によって、国民の憲法制定権力を奪って独裁制を
許してしまったら、
国民による意思決定のプロセスが奪われ、
国民主権は保障されなくなります。

ですから、再三、

“国民主権の保障とは、
すなわち、国民主権をプロセスにおいて保障することに
他なりません。”

と申し上げているのです。
つまり、
国民の意思決定のプロセスの保障に他なりません。


そもそも、あなたの挙げた例ですが、

>仮に国民投票という民主主義的かつ
>国民主権を担保したプロセスによって全ての国民は
>参政権も主権も放棄し、私「とめはね」が
>天皇代理としてすべての権限を一身に集めたとします。

そういう国民投票自体が、制度上存在していません。

>もし、国民主権に反する決定をするのであれば、
>その前に憲法を改正することが必要です。

ですから、通説によって、
そのような憲法改正は認められないとされて
いるのです。

民主主義とは、治者と被治者の自同性をもたらす原理であると、
昔、政治学の授業で教わりましたが、
つまり、支配者と被支配者がおのずと同じになる原理だと
教わりましたが、
選挙制度をみれば分かるように、
制度的には多数決の原理が採用されます。
しかしながら、
憲法における中核は人権保障なんです。
つまり、自由主義の保障なのです。
そして、民主制はこれに対する手段とされています。
芦部信喜先生も以下のように説明されています。

『(自由権は)「国家からの自由」とも言われ、
 人権保障の確立期から人権体系の中心をなしている
 重要な権利である』

『明らかに、国民主権およびそれに基づく代表民主制
の原理が基本的人権の尊重と確立を目的とし、
それを達成する
ための手段として、
不可分の関係にあることを示している。』

『(参政権は)「国家への自由」とも言われ、
 自由権の確保に仕える。」

ですから、
先ほどの、憲法改正には限界があるという通説は、
人権保障の手段である民主主義的制度において、
つまり国民による多数決において、
“自殺行為”をしてしまうと、
結果として、
目的であるところの、
人権保障が奪われることになります。
ですから、
国民主権を否定する改正は認められないということに
なるのです。
そもそもが、
憲法前文において、
国民主権を、人類普遍の原理とした上で、

“これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。”

と明記されています。
また憲法改正の発議を出せる立法府の構成員には、
憲法尊重擁護義務(99条)が課せられているため、
憲法の理念に反する改正は禁じられていると
解されるます。

大事なところなので繰り返しますが、

国民主権(民主主義)は、人権保障(自由主義)という
目的のための手段であるという関係にあることは、
よく留意しておくべきでしょう。

さて、
そもそもあなたは、

>あなたの主張は、
>「意思決定のプロセスで国民主権の原理が守られていれば、
>決定された内容にかかわりなく、国民主権が担保される」
>ということですが、
>それでは、国民主権が担保されているとは言えません。

こうおっしゃっていますが、

「意思決定のプロセスで国民主権の原理が守られていれば、
決定された内容にかかわりなく、国民主権が担保される」

私がどこで
そんなことを言いましたか?
それはあなたの記憶違いか、
誤読です。
この箇所は
3つのセンテンスに分けられます。
私が言ってもいない事を、言ったという
大前提を立てた上で、

1 存在してもいない、ありえない国民投票制度を持ち出して、
 国民主権を捨て去って、とめはね代理天皇主権による独裁政治を
 国民の多数決で決められたという想定をした。

2 1の場合に、民主主義的なプロセスで
 これが決められたのだから、
 これでも民主主義や国民主権は担保されていると
 言えるでしょうか?
 と問いかけ、これを否定する。

3『要するに国民主権を担保するには、
 その意思決定のプロセスが国民主権に
 則っていることはもちろん、
 その結果もまた国民主権の理念に照らし合わせ、
 それに適合している必要があります』

 とおっしゃっていながら、
 『もし、国民主権に反する決定をするのであれば、
  その前に憲法を改正することが必要です。』


1において、存在していない、また、
頓珍漢な国民投票制度を持ち出してきて、
このような国民による主権放棄は
許されるのかと問いかける。
この時点で既におかしいです。

2においては、いいとしても、

3において、前段で国民主権を担保するには、
意思決定の結果についても、国民主権に適合している
必要があるとしているわけですが、

後段では、そのためには憲法改正が必要だと
おっしゃっている。

ということは、あなたの発言によれば
憲法を改正すれば、国民主権に反する決定も
可能と言うことになります。

私が既述したとおり、
憲法前文において、
国民主権を、人類普遍の原理とした上で、
“これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。”
と明記されていますし、国会議員には
憲法尊重擁護義務(99条)が課せられているため、
憲法の理念に反する改正は禁じられていると
解されます。
通説においても、人権保障、国民主権のような憲法の
基本原理に反する改正は出来ないとされているのです。

あなたは、
私の
国民主権の保障するということは、
国民主権をプロセスにおいて保障することに
他ならない、つまり国民の意思決定のプロセスを
保障することに他ならないという主張に対して、

あなたは、
それだけでは、保障したことにならないと
反論した訳です。
ところが、
憲法改正によって、国民主権に反する内容も認められて
しまったら、
国民主権の保障どころか、
国民主権を奪うことを、
憲法改正によって可能とする結論となってしまう。
憲法改正は、ご存知の通り、衆参両院の3分の2以上の
賛成で議決され、発議され、国民投票にかけられ、
国民の過半数の賛成が得られれば憲法は改正されます。
あなたは、
国民の意思決定のプロセスを保障するだけでは、
国民主権を担保したことにはならないといい、
さらに、

>民主主義的なプロセスによっても
>民主主義を否定することは許されないし、
>国民主権的なプロセスによっても国民主権を
>否定することは許されないということです。

こう主張していながら
最後には、
憲法改正という、
民主主義的なプロセス、国民主権的なプロセスによって
国民主権に反する決定を可能とする結論を導いてしまっている
わけです。
これは明々白々な自家撞着です。
明瞭なループした議論です。
ですから、
初歩的な思考ミスだと言っているのです。

憲法改正によっても国民主権に反する改正をすることは
認められないと結論づけないとあなたの主張の
論理が通りません。

そもそも、
あなたは、
参政権を憲法の中核の権利だと勘違い
されていませんか?
私が芦部先生の「憲法」から紹介したとおり、
参政権とは、自由権を保障するための手段に
すぎません。
参政権は手段であり、自由権が目的です。
ですから、
参政権は、目的ではありません。
国民主権つまり民主主義は手段であり、
基本的人権つまり自由主義は目的です。
近代憲法はこういう構造によって
各条文が規定されているのです。

>さすがに私も国防の義務の対価として
>現在の参政権を位置付けてはいません。
>だから「元々参政権は、命をかけて・・・・。」と
>「元々」をつけたのです。

ですから、
あなたの剽窃された元のエッセーそのものが
立憲主義に対する見識を欠いているのです。
立憲主義における参政権とは、
国防の義務と連関されるようなものではありません。
そもそもが、
私が再三申し上げているように
参政権を含む憲法上の権利と言うものは、
義務の対価ではないし、義務によって根拠づけられる
ものではないし、義務に由来するものでもないのです。
そこがギリシャ時代における市民権とは決定的に
違うのです。
ルソーやロックに代表される啓蒙期の人権思想が
きわめて革命的なのはその点にあり、
それが現に市民革命へとつながったのです。
参考までに、
近代立憲主義における参政権の由来を、
国防の義務に求めている憲法学者の名前を
教えていただけますか。

>>ある義務を遂行しないばかりに
>>奪われる人権がどこにありますか?

>義務ではないですが、
>参政権は国籍を維持することを
>遂行し続けなければ奪われますね。

国籍を維持することを遂行し続けなければ
参政権が奪われる??
遂行も何も、
本人の意思で国籍離脱の手続きをとらない限りは、
国籍は失われませんし、奪われることもありません。
したがって参政権も奪われるものではありません。
ずいぶんと間の抜けたことをおっしゃいますね。

国籍選択云々に関する、あなたのお考えについては、
どうぞご自由にとしか言えません。
私にはついていけません。

>私は、憲法で保障されていないのだから、
>憲法で禁止されている、なんてことを言っていませんよ。
>たぶん、あなたの読み違いだと思います。

いえいえ、
あなたの判例批判の論理を、
突き詰めるとそういうことになりますよ。

>ところで、フリスキーさんは、
>ほとんどの国で国民主権が採用されているのは
>なぜだと思いますか?A国の主権は、
>B国人でも全人類でもなくA国人である根拠です。

まず前提ですけど、
国民主権は、絶対王政の時代に主権が君主のみに存在していたところから
市民革命によって、国民が主権を勝ち取り、国民が政治の主役となった
わけです。国の最高決定権が国民に属すとされたのです。
ですから、絶対王政との比較で定義されます。
さて、

>A国の主権は、
>B国人でも全人類でもなくA国人である根拠です。

それは、“国民国家”だからです。
A国の主権がB国民にあったのならば、それは
A国ではなくてB国になります。
全人類が主権者となると、国民国家としてのA国は
成り立ちません。
日本の主権がイタリア人にあったら
日本はイタリア国になります。
韓国の主権がドイツ人にあったら韓国は
ドイツになります。
韓国併合時代においては、朝鮮半島の統治権は
日本にあり、半島の領土と領民は日本国に属していたので、
韓国は日本国の一部であり、コリアンは日本人でした。
ベルリンオリンピックのマラソン金メダリストの
孫 基禎はコリアンですが、併合時代でしたので、
日本人の選手として日本国民の代表として参加し、
日の丸をつけて走り、日本人として金メダルを取りましたが、
戦後の敗戦により日本は半島に対する統治権を失い
孫は韓国籍に戻りました。
国家が独立国家である限り、
国家には自国の領土への統治権があり、
“国の意思を決定する最高決定権が自国の国民にある”
国民主権においては、主権者はその国の国民
ということになります。
これによって、国民国家が成り立ちます。
ですから、国民主権をとる国民国家においては
A国の主権者はA国人でなければならず、
B国の主権者はB国人でなければなりません。

とめはねとめはね 2010/03/27 00:05 >フリスキーさんへ

だいぶ、間があいてしまってすみませんでした。

ところで、論点が次々と発生し、いくつかの論点が並行しており、なおかついくつかの論点が置き去りになってしまっています。すべてを並行して進めることは今の私には無理なのでテーマと論点を絞っていこうと思いますのでご了承ください。

それから、お互いに自分が言おうとしたことと相手が受け取ったことが食い違っているということが起きているようなので、今回は、反論というより、確認・質問と簡単な指摘のみをします。


>こう主張していながら最後には、憲法改正という、民主主義的なプロセス、国民主権的なプロセスによって国民主権に反する決定を可能とする結論を導いてしまっているわけです。
これは明々白々な自家撞着です。明瞭なループした議論です。

まず、この部分ですが、あなたのおっしゃることはわかりました。
しかし、やはり私の論理は矛盾もループもしていないですね。その論証は後でします。


では、確認のための質問をいくつかします。
さて、問題は次の部分です。問題と言うよりも、
これも私がさっぱり理解できないということですが(笑)。

>>「意思決定のプロセスで国民主権の原理が守られていれば、決定された内容にかかわりなく、国民主権が担保される」

>私がどこでそんなことを言いましたか?それはあなたの記憶違いか、誤読です。

確かに、ご指摘の文は、あなたがそう言ったのではなく、私の解釈です。
あなたが実際に言ったことは次のことです。

フリ:>ここで、立法措置によってつまり立法府(国会)の判断によって、その可否を委ねているところに、国民主権に基づく参政権が担保されているのです。
つまり、永住外国人に地方選挙権を与えるのは、日本国民のみによって選挙され、日本国民の代表者で構成される国会において審議され制定された法律によって永住外国人に地方選挙権を与えるか否かというプロセスを踏むことによって国民主権が担保されているのです。

この部分をご指摘のように私が解釈し、私は次のように言いました。

とめ:>あなたの主張は、「意思決定のプロセスで国民主権の原理が守られていれば、決定された内容にかかわりなく、国民主権が担保される」ということですが、・・・。


しかし、いま読み返してみても私の誤読とは思いません。あなたは、国民主権が担保されるかどうかは、そのプロセスで決まると言っていますよね。だったら、あなたの発言に対する私の解釈は正しいと思うのですがいかがでしょう。

Q1: 「意思決定のプロセスで国民主権の原理が守られていれば、決定された内容にかかわりなく、国民主権が担保される」という私の解釈のどこがどのように違うのか指摘してください。

念のためにその後のやり取りも確認してみました。

フリ:>国民主権の保障とは、すなわち、国民主権をプロセスにおいて保障することに他なりません。逆に質問しますが、意思決定のプロセスの保障以外に、保障する手段がどこにありますか?

とめ:>通常は、たぶんあなたのおっしゃるとおりです。ただし、意思決定の方法自体を決めようとする時は、意思決定の結果そのものも国民主権の原理にかなっているかどうかを審議する必要があるということです。そうしなければ、意思決定のプロセスを保障できません。
外国人参政権法案は、意思決定方法ですから、外国人参政権を決めるプロセスだけなく、この法案自体が国民主権の原理に則っているかどうかを審議する必要があります。


とめ:>要するに国民主権を担保するには、その意思決定のプロセスが国民主権に則っていることはもちろん、その結果もまた国民主権の理念に照らし合わせ、それに適合している必要があります。

これ(↑)に対して更にあなたは次のように言いました。

フリ:>憲法を改正する場合には最終的には国民投票にかけられます。つまり、国民主権を保障するということは、すなわち国民主権のプロセスつまり制度を保障するということに他なりません。
憲法改正について結論で述べておられますが、憲法の改正のプロセスとはすなわち、国民の意思決定のプロセスに他なりません。もう一度お聞きします。国民主権を保障するにあたって、意思決定のプロセスの保障以外の手段でどうやってこれを保障するのですか??


フリ:>法律”は、日本国民のみによって選ばれ、日本国民のみによって構成される国会で制定されます。地方選挙権を付与するのは、国会で制定される法律によるのです。
ここで国民主権が担保されているのです。国民主権において制定された法律によって地方選挙権を付与するというのです。
この立法プロセスに、一切の外国人は関わりません。立法をするにせよ、あるいは、法律を廃止するにせよ、日本国籍者のみによって選ばれ、日本国籍者のみによって構成される国会議員によって審議、議決されます。ですから、国民主権が担保されることになるのです。


やはり、あなたは一貫して「国民主権の保障とは、すなわち、国民主権をプロセスにおいて保障することに他ならない。」という趣旨のことを繰り返し言っています。そして、それ以外に何かが必要であるとは一言も言っていません。だったら、私の解釈が間違いであるとはやはり思えません。


>参考までに、近代立憲主義における参政権の由来を、国防の義務に求めている憲法学者の名前を教えていただけますか。

私は知りません。


>いえいえ、あなたの判例批判の論理を、突き詰めるとそういうことになりますよ。

では、そうなるという論証をお願いします。


>国の意思を決定する最高決定権が自国の国民にある”国民主権においては、

Q2:「国の意思を決定する最高決定権が自国の国民にある」とは、国民が国政の参政権を持っている事かつ国民以外の人間は、国政の参政権を持っていないと理解して良いですか。もし、そうではないのであれば、最高決定権が国民にあるということは、具体的にはどのようなことなのかを教えてください。

>A国の主権がB国民にあったのならば、それはA国ではなくてB国になります。

Q3:では、ある人がB国民であるかどうかは、どのようにして区別されますか?

Q4:日本の国政への参政権を在日外国人が持ったとして、それでも国民主権が成り立つということは可能だと思いますか。もし、可能だと思うのであれば、それはどのような場合ですか。また、それはは、なぜですか。

以上です。

フリスキーフリスキー 2010/03/27 08:25 やはり、スタンダードな教科書に学ぶべきだと
思います。
持論を批判的に展開されるのでも、
まずは基礎を踏まえたものであるべきです。

フリスキーフリスキー 2010/03/27 08:26 とめはねさんへ

>Q1: 「意思決定のプロセスで国民主権の原理が守られていれば、
>決定された内容にかかわりなく、
>国民主権が担保される」という
>私の解釈のどこがどのように違うのか指摘してください。

“決定された内容にかかわりなく”ということは、
憲法改正について、
『無制限説』に立つことを意味します。
つまり、憲法改正の手続きによれば、
どんな憲法も作ることが出来るので、
人権保障、国民主権、平和主義という憲法の
基本理念を破棄することも出来るという
ことになります。

例えば、国民主権を破棄して、とめはね君主主権とする
憲法改正案を与党が提出して可決されて、
国民投票にかけられ過半数の賛成を得て成立したとします。
これをやってしまうと、
私が既述したように、

『立憲主義における憲法では、憲法制定権力が国民にあるものとして、
国民が憲法を制定する権力を有しているのであり、
改正についても、これは国民が有する憲法制定権力により
認められるものであるから、これにより国民の憲法制定権力を
奪ってしまうことは、自殺行為となっていまいこれを
認めることは出来ないというものです。
言い換えれば、
憲法制定権力が親であり、改正権は前者が養う子という
ことになります。
したがって、子によって親の命を奪うことは許されない
ということです。
子の存立基盤が無くなるからです。

改正権によって、国民の憲法制定権力を奪って独裁制を
許してしまったら、
国民による意思決定のプロセスが奪われ、
国民主権は保障されなくなります。』

ということです。
人権保障と国民主権を奪う憲法案自体が既に
違憲となり認められないことになります。
既述してあるとおりです。

『憲法改正の発議を出せる立法府の構成員には、
憲法尊重擁護義務(99条)が課せられているため、
憲法の理念に反する改正は禁じられていると
解されるます。』

このように、
主権を有するのは国民であり、
つまり憲法制定権力を有するのは国民であり
これを奪う改正案を、
国会において発議すること自体が既に違憲となり
認められないということです。
国政の最終決定権を有する国民から
それを奪うことは許されないということです。
国民が国のあり方を最終的に決定するプロセス及び、
国家権力の正当性のよりどころが国民にあるという
根拠が奪われるからです。

繰り返しますが、
私は、一言も、憲法改正が無制限に認められるなどとは
言っておりませんので、誤認されています。

一方あなたは、

『要するに国民主権を担保するには、
 その意思決定のプロセスが国民主権に
 則っていることはもちろん、
 その結果もまた国民主権の理念に照らし合わせ、
 それに適合している必要があります』

 とおっしゃっていながら、

『もし、国民主権に反する決定をするのであれば、
 その前に憲法を改正することが必要です。』

こうおっしゃっていたわけです。
いきなり
後段で無制限説に立っちゃってる。
制限説は後段が認められないのです。
ですから、
矛盾しているし、
話の筋が自家撞着しているのです。

そもそもが、

>仮に国民投票という民主主義的かつ
>国民主権を担保したプロセスによって全ての国民は
>参政権も主権も放棄し、私「とめはね」が
>天皇代理としてすべての権限を一身に集めたとします。

こういう想定をしていますが、
この国民投票自体が、憲法上まったく
認められないもので、
こういうたとえ話自体が、
憲法を無視しています。

このように、
Q1については、既に回答が以前の投稿に
示されています。

>Q2:「国の意思を決定する最高決定権が自国の国民にある」とは、
>国民が国政の参政権を持っている事かつ国民以外の人間は、
>国政の参政権を持っていないと理解して良いですか。
>もし、そうではないのであれば、
>最高決定権が国民にあるということは、
>具体的にはどのようなことなのかを教えてください。

国政選挙権、被選挙権について、定住外国人に
認めることは違憲であると解しています。
憲法15条1項
『公務員を選定し、及びこれを罷免することは、
国民固有の権利である』
及び公職選挙法の規定により明瞭です。

次に、
憲法改正によってこれを定住外国人に付与することは、
可能であるか?
この点ですが、
既述したように、
憲法改正について限界説に立つ以上、
憲法の人権保障、国民主権、平和主義という基本原則を
捨てることは認められません。
国民主権については、主権(国政の最終決定権)を
国民から奪うことは許されません。
そのような憲法改正は認められません。(限界説)
さて、国民主権つまり国政の最終決定権が国民にある
ということは、どういうことかというと、
国の理念と政治のあり方を最終的に決めるのは国民である
ということです。
国の理念と政治のあり方とは、すなわち国の土台と屋台骨です。
国の土台と屋台骨は何によって規定されていますか?
憲法です。
立憲国家は、憲法を最高法規として憲法によって国が作られます。
そして、
その憲法を制定(改定)する力が国民にあるということ、
これがそもそもの国民主権の由来なのです。

『もともと国民主権の原理は、国民の憲法制定権力の
思想に由来する。』(芦部「憲法」p41より)

芦部の師匠に当たる宮沢俊義も、
国民主権における主権とは、

『国家の政治のあり方を最終的に決める権力あるいは権威』
としたうえで、
(主権を)『憲法制定権力といっていいかも知れない』
と述べています。

そしてその憲法によって制度化されて具体化されていきます。
参政権もその憲法によって保障された権利の一つです。
憲法と特別法によって、選挙権、被選挙権が規定されます。

芦部「憲法」によると、

『近代憲法は、本来、「人間は生まれながらにして
 自由であり、平等である」という自然権の思想を、
 国民に「憲法を作る力」(憲法制定権力)が存する
 という考え方に基づいて、成文化した法である』
      (p357)

であるとした上で、

『憲法改正権は、このような憲法の中の「根本規範」
 とも言うべき人権宣言の基本原則を改変することは、
 許されない。もっとも(人権宣言の)基本原則が
 維持されるかぎり、個々の人権規定に補正を施すなど
 改正を加えることは、当然に認められる。』

このように説明されています。
ここで、
“人権宣言の基本原則”とは、
上で引用した箇所、
『近代憲法は、本来、「人間は生まれながらにして
 自由であり、平等である」という自然権の思想を、
 国民に「憲法を作る力」(憲法制定権力)が存する
 という考え方に基づいて、成文化した法である』

ということです。

さて、
国政参政権については、定住外国人に認めることは、
違憲であるという私の認識は既述した通りです。
そこで、
憲法を改正して国政参政権を外国人に認めることは
可能かどうかですが、
これは、憲法改正の限界を超えるものであるかどうかが
判断されるところとなります。
この場合、
上記の“人権宣言の基本原則”に照らし合わせてみるに、
国政選挙権を定住外国人にも付与することが、すなわち
この基本原則を改変するとまでは理論的には言えないと
理解しています。
人間は生まれながらにして自由であり、平等であるという
自然権の思想を国民の憲法制定権力によって
成文化した法が
憲法であるからです。
ただし、
憲法制定権力とは、憲法という
国の土台と屋台骨を
最終的に決定する力ですが、
これが国民にあるのが定義に沿うわけで
憲法改正の国民投票権については、
日本国民に限定されなければ、
上記の基本原則に抵触するのではないか
と考えています。

芦部「憲法」には、
国民主権における権力性の説明として、

『主権の権力性とは、具体的には、憲法改正を
 決定する(これこそ国の政治のあり方を最終的に
 決定することである)機能を言う。』

『憲法96条において憲法改正の是非を最終的に
 決定する制度として定められている国民投票制は、
 国民主権の原理と不可分に結合するものと解されよう。』

とあるとおりです。

Q4については、
Q2に対する上記の回答の中に含まれています。

>Q3:では、ある人がB国民であるかどうかは、
>どのようにして区別されますか?

その国の国籍をもっていることが
その国の国民であるということです。

以上です。

P.S

率直に申し上げて、
私は、とめはねさんの憲法論、人権論をこれ以上
拝聴することに意義を見出せません。
要するに、
とめはねさんは、
日本国憲法が立脚している立憲主義というものが
どういうものであり、
それに基づく憲法とはどういう規範であり、
どういう構造のものなのか、
その基本がわかっていないようです。
参政権の由来を国防の義務に求めちゃってる
憲法に無知な人のエッセーに学んでいる限りは、
永遠にそこは理解できませんよ。
やはり、
スタンダードな憲法学の教科書に学ぶべきだと
思います。
持論を批判的に展開されるのでも、
まずは基礎を踏まえたものであるべきです。

まず
森について知ってから、木を見ていくべきです。

フリスキーフリスキー 2010/03/27 08:28 二つ上の投稿はミス投稿です。削除できないもので、失礼します。

フリスキーフリスキー 2010/03/27 08:57 追伸

国民主権は、目的ではありません。
国民主権は、手段です。
目的は何か?
それは、、
「人間は生まれながらにして
 自由であり、平等である」という自然権の思想を
成文化した法
つまり人権保障です。

人権を保障するという目的のために
それを達成するための手段として
国民主権があるのです。
君主主権では、これが適わないからです。
適わないどころか人権が侵害されるからです。
そもそもが、
国民主権とは君主主権の反対概念です。
絶対王政における君主から主権を奪い取るために
生まれた概念なのです。
そして革命によって奪い取ったのです。
これによって人権保障を獲得したのです。
ですから、
国民主権は、
外国人の人権を制限するために生まれた概念では
ありません。

この構造は日本国憲法に限らず
立憲主義による憲法をいただく国なら
普遍的に当てはまるものです。
そこは頭に入れておいてください。

フリスキーフリスキー 2010/03/27 22:11 どろさん

沢田研二の「我が窮状」という曲は
ご存知ですか?
たしか去年出た曲だったかな?
今まで政治的なメッセージを発することを
控えてきた沢田さんが、還暦を迎えるに当たって
秘めていた思いを曲にしたものです。
窮状という言葉を9条にかけていて、
歌詞とメロディがすごくいいんですよね。
今度、どろさんが関わっている憲法の集会で
この曲をみなさんで歌うのはいかがでしょうか?(^.^)

http://www.dailymotion.com/video/x6ws77__news

特に歌詞のこの下りが好きです。

『老いたるは無力を気骨に変えて 礎石となろうぜ
諦めは取り返せない 過ちを招くだけ
この窮状 救いたいよ 声に集め歌おう
我が窮状 守れないなら 真の平和ありえない

この窮状 救えるのは静かに通る言葉
我が窮状 守りきりたい 許し合い 信じよう 』

P.S

沢田さんは、ボリス・ヴィアンが若い頃から好きだそうで、
反戦歌「脱走兵」の日本語版を歌っているのですが、
これがまたいいんです!

http://www.youtube.com/watch?v=wkn8mbTju7U

とめはねとめはね 2010/04/04 23:50 フリスキーさんへ

Q2〜Q4への回答は了解しました。しかし、Q1への回答は、論点をずらしていて、結局私の質問に答えていないですね。あなたの回答の論点がどのようにずれているかを示しますから、次回はQ1の質問にまっすぐに答えてください。

ところで、あなたは再三私の論理が自家撞着・ループしているといいますが、前回も言ったように自家撞着していません。それどころか、仮に矛盾しているとしても私の主張には全く影響がありません。それは、あなたの反論そのものが丸ごと的外れであるからです。論点が丸ごとずれているからです。

「反論そのものが丸ごと的外れ」ということに関しては、単純に論理の問題なので、この件に関しては「立憲主義や憲法がわかっていない」というあなたの批判はまったく当てはまりません。これらのことの論証の第一歩がQ1の質問です。

さて、Q1へのあなたの回答の論点がずれていることを示します。
最初にここまでの流れを示します。

フリ:>>>>>ここで、立法措置によってつまり立法府(国会)の判断によって、その可否を委ねているところに、国民主権に基づく参政権が担保されているのです。
つまり、永住外国人に地方選挙権を与えるのは、日本国民のみによって選挙され、日本国民の代表者で構成される国会において審議され制定された法律によって永住外国人に地方選挙権を与えるか否かというプロセスを踏むことによって国民主権が担保されているのです。
(この主張を仮に「主張A」と呼ぶことにします)

とめ:>>>>あなたの主張は、「意思決定のプロセスで国民主権の原理が守られていれば、決定された内容にかかわりなく、国民主権が担保される」ということですが、・・・。
(あなたの「主張A」対して行なった私のこの解釈を仮に「解釈A΄」とします。) 

フリ:>>>私がどこでそんなことを言いましたか?それはあなたの記憶違いか、誤読です。

とめ;>>Q1: 「意思決定のプロセスで国民主権の原理が守られていれば、決定された内容にかかわりなく、国民主権が担保される」という私の解釈のどこがどのように違うのか指摘してください。

フリ:>“決定された内容にかかわりなく”ということは、憲法改正について、『無制限説』に立つことを意味します。
(これは、私の「解釈A΄」に対してあなたが行った解釈です。このあなたの解釈を仮に「解釈A"」とします。)

フリ:>私は、一言も、憲法改正が無制限に認められるなどとは言っておりませんので、誤認されています。

ここで論点がずれています。
あなたの「主張A」から私の「解釈A΄」が導かれるということが私の主張です。そして、あなたは私の「解釈A΄」が間違いであると言ったので、私はQ1で『「解釈A΄」のどこがどう違っているのかを指摘してください』と言ったのです。このQ1が論点です。

ところが、あなたは、私の「解釈A΄」から更にあなたの「解釈A"」を勝手に導き、『私は「解釈A"」とは言っていない。』と言っているわけです。論点がずれているのがわかりますよね。

私の「解釈A΄」からあなたの「解釈A"」を導けるかどうかも、あなたが「解釈A"」と言ったかどうかも関係ありません。

もっと、端的に言うと、私の「どこがどう違っているのかを指摘してください」と言う質問に対してあなたは「私は、一言も、憲法改正が無制限に認められるなどとは言っておりません」と答えているのです。この頓珍漢さは明らかでしょう。

「どこがどう間違っているのか?」という問いに対しての答えは「ここがこう間違っている」という答えになるはずです。きちんと質問に答えるならば。

もう一度まとめます。全体の流れは次の通りです。
「主張A」→「解釈A΄」→「解釈A"」

そして、私の主張は、あなたの「主張A」から私の「解釈A΄」を導くことができる、ということです。そして、あなたはこの私の主張を否定したので、私はQ1で、そのどこがどのように違うのかを教えてください、と言いました。それに対するあなたの答えは、「私は「解釈A"」とは言っていない」というものでした。明らかに質問に答えていませんよね。

ここまでの説明を踏まえて、同じ質問に補足をしてもう一度します。

Q1: あなたの「主張A」に対して私が行った「意思決定のプロセスで国民主権の原理が守られていれば、決定された内容にかかわりなく、国民主権が担保される」という解釈のどこがどのように違うのか指摘してください。

とめはねとめはね 2010/04/04 23:55
>フリスキーさんへ

今度は、話は変わって国民主権の話です。
問題のやりとりに適当に記号をふって再掲します。

[とめq1]:>>>>フリスキーさんは、ほとんどの国で国民主権が採用されているのはなぜだと思いますか?A国の主権は、B国人でも全人類でもなくA国人である根拠です。

[フリa1]:>>>それは、“国民国家”だからです。A国の主権がB国民にあったのならば、それはA国ではなくてB国になります。(A国民が主権を持っているからそこはA国)

[とめq2]:>>では、ある人がB国民であるかどうかは、どのようにして区別されますか?

[フリa2]:>その国の国籍をもっていることがその国の国民であるということです。


さて、あなたの[フリa1]の答えは、とても奇妙です。
その奇妙さは、たとえ話にした方がわかりやすいので、次のように置き換えてたとえ話をします。

・国→家庭    
・国民→各家庭に所属する家族   
・主権→献立権(家庭の献立を決める権利とします)

このようにたとえると問題のやりとりの前半部分は次のようになります。

[とめq΄1]:「ほとんどの家庭でその家の献立権をその家の家族が持っているのはなぜだと思いますか?田中家の献立権は、となりの鈴木家でも全人類でもなく田中家の家族にある根拠です。」

[フリa΄1]:それは、“家族家庭”だからです。田中家の献立権が鈴木家にあったのならば、それは田中家ではなくて鈴木家になります。(田中家の家族が献立権を持っているからそこは田中家)

こう書くと、奇妙な回答だということがよくわかります。
何が奇妙になっているかというと、実は、因果関係が逆転しているのでおかしくなっています。本当は「ある家庭は田中家である。故に田中家の家族がその家庭の献立権を持っている」であるのに、あなたの回答は、「田中家の家族がその家庭の献立権を持っている。故にその家庭は田中家である」となっているのです。本当は「X故にYである」が正しいものをあなたは「Y故にXである」としています。
かなり大胆不敵な論理展開ですね。

話を最初に戻すと、本当は「A国だからA国民が主権を持っている」であるものを因果関係を逆にして「A国民が主権を持っているからそこはA国」としています。

因果関係を逆転させる詭弁は、以前小泉総理が、自衛隊をイラクの非武装地帯に派遣する時に使いました。自衛隊は非武装地帯に派遣すると決まっていたのですが、イラクのどこが非武装地帯なのかわからない状況でした。そこを野党が「いったいどこが非武装地帯なのか?」と追及したのです。
それに対する小泉首相の答えが傑作でした。
彼は、「自衛隊が派遣された所が非武装地帯だ」と言ったのです。
国民を愚弄した一言として今でも鮮明に覚えています。

この小泉理論に従えば、自衛隊が武装地帯にいることは、「理論的に」あり得なくなります。つまり、非武装地帯に自衛隊を派遣するという決まりは、100%遵守されます。

同様に、あなたの理論にしたがえば、A国民がA国の主権を持たないことは「理論的に」あり得なくなります。何しろ、A国民が主権を持っているところがA国になるのですから、A国の主権をA国民が持つということは、100%保証されます。

では、小泉理論は、「いったいどこが非武装地帯なのか?」という質問に答えているのでしょうか?
整理してみます。
「いったいどこが非武装地帯なのか?」

「自衛隊が派遣された所」

「では、自衛隊はどこに派遣されるのか?」

「非武装地帯」

最初の質問に戻る。以下無限に循環。

論理がループするとはまさにこのことです。結局小泉理論は、最初の説明に答えていません。
このように無限にループする論理をトートロジーといいます。
相手の質問にトートロジーで答えるというのは詭弁です。

簡単なトートロジーの例としては、次のようなものがあります。

「A君の家はどこにあるの?」→「B君の家の前」→「B君の家はどこにあるの?」→「A君の家の後ろ」

これらの例では、結局非武装地帯がどこかということもA君の家がどこにあるかもわかりません。つまり、トートロジーで言っている命題は仮に真であったとしても、一見質問に答えているかのようで、実は質問に答えていません。
この種のトートロジーは、Bを用いてAの説明をし、Aを用いてBの説明をする時にしばしば発生します。あなたの答えも同じ構造を持っています。
整理します。

[とめq1]: ほとんどの国で国民主権が採用されているのはなぜか?つまり、
A国の主権は、B国人でも全人類でもなくA国人である根拠は何か?

[フリa1]:A国の主権がB国人にあったのならば、それはA国ではなくてB国になるから。
★(B国人が主権を持っているところがB国)

では、ある人がB国人だということはどのように区別されるか?
☆(B国人とは何か?)

B国の国籍をもっているかどうか。

では、B国とは何か?         
↓                  
[フリa1]★B国人が主権を持っているところがB国

☆にもどり、以下無限に繰り返し

お分かりでしょうか?あなたの論理もループして無限循環します。
つまりトートロジーに陥っています。

あなたの答えは、国民主権を採用している国家とその主権を持つ国民の関係について語ってはいても最初の「A国の主権はA国民が持っているのはなぜ?」という質問には答えていないのです。


この件に関して更に別の観点で見てみます。
私の最初の質問[とめq1]をもう少し詳しく言うと、

「A国の主権を、B国民が持つことも、全人類が持つことも可能であるのに、国民が主権をもつという政治制度を採用している国では、世界中でA国の主権はA国民が持ち、B国の主権はB国民が持っている。その根拠は何か?」ということです。

それに対するあなたの答えが「B国人が主権を持っているところがB国だから」というものです。

質問を簡潔化して答えと並べてみます。

私の質問:「B国の主権はB国民が持っている。その根拠は何か?」
あなたの答:「B国人が主権を持っているところがB国だから」です。

これは、「X氏がそのペンを持っているのはなぜ?」という問いに
「そのペンを持っている者がX氏だから」と答えるのと同じです。
そのペンが別人の手に渡れば、その別人がX氏になることになります。

結局、質問に答えていません。

ついでに[とめq΄1]の質問に対してまじめに答えるとどうなるかを考えます。

[とめq΄1]:「ほとんどの家庭でその家の献立権をその家の家族が持っているのはなぜだと思いますか?田中家の献立権は、となりの鈴木家でも全人類でもなく田中家の家族にある根拠です。」

普通に考えれば、その答えは、「献立を立てたその人達が食べるものだから」ですよね。換言すれば、「田中家の献立で作った料理は全て田中家の人間が食べる。よい献立も悪い献立もその結果はすべて田中家の人間が引き受けるから田中家の献立は田中家の人間に作る権利がある」と言えます。これは、いわゆる自分で責任を取るということです。

同様に、日本の政策という献立は、それが良くとも悪くとも日本人がその結果を引き受けることになります。私は、そのことを「日本人は、日本の未来に責任を取るとも言える」と表現しました。日本の政策という献立が悪ければ、日本は、沈没します。そして、日本人は、日本と一緒に沈みまず。そのことを「日本と日本人は運命共同体である」と表現しました。

だから、田中家の献立権は、その食事を食べる田中家の家族にあるべきであるのと同様に、日本の主権は、日本と運命共同体であり、その主権を用いて決めた政策の結果を引き受けざるを得ない日本人にのみにあるべきであり、主権の根幹である参政権は、日本人限定であるべきだと主張したのです。

日本人であっても、日本国籍を離脱した瞬間に主権を失い、外国人であっても、日本国籍を取得した瞬間に主権を与えられる。このことをきちんと説明できるのは、私が言った運命共同体論とでもいうべきもの以外にはないのではないですか?もし、あるのなら、私の論への反論として詭弁など用いず、あなたがすでに言っていると思うので。

それから、もう一点指摘します。
あなたの言うように「A国の主権がB国人にあったのならば、それはA国ではなくてB国になる」のであれば、全ての侵略が正当化されることになるでしょう。

例えばロシアが韓国を武力で攻めて制圧し、主権を奪ったとします。
そうすると、そこはロシアになるわけです。そうすると、韓国人は、ロシアの中の外国人ということになります。いったんロシアになってしまえば、ロシアをロシア人が統治するのは、100%当然ですから、韓国人は、一切文句を言う資格がなくなるはずです。
そういうことになりませんか?

アランポーアランポー 2010/04/05 00:04 献立権?ギャグ?
比喩とかたとえ話の類ってのは論理的思考ができない頭の悪い奴の専売特許ってかw

フリスキーフリスキー 2010/04/05 08:38 とめはねさんへ

先の私の投稿に書いたとおり、
これ以上の議論はしたくありません。
なぜなら、
とめはねさんが、立憲主義の基礎を理解しようとせず、
学ぼうとせず、我流による憲法解釈で延々と
議論を上滑りさせているだけだからです。
私は、日本国憲法が立脚している立憲主義の立場を肯定し、
これを守ろうという立場です。
また、とめはねさんがこの基礎を理解せず、
延々と不毛な議論が続くことに、
私としては意義を見出せません。
これは他の方との議論でも述べたことですが、
お互いに相手に対して自分の議論に拘束する
ことは出来ません。
お互いの自由意志により議論をしているだけであって、
どちらかが意義を見出せなくなっていった時、
もはや議論を続ける意義は希薄になっていくからです。
その上で、今回も端的にポイントを示して、
あえてレスをつけさせていただくことに
しました。

>Q1: 「意思決定のプロセスで国民主権の
>原理が守られていれば、
>決定された内容にかかわりなく、
>国民主権が担保される」という
>私の解釈のどこがどのように違うのか指摘してください。

まず、憲法改正に伴う、
無制限説とは、要するに憲法改正の手続きにより、
どんな憲法でも作れるという立場です。

一方、限界説とは、憲法の基本理念である、
人権保障、国民主権、平和主義の三つの理念を
奪う改正は出来ないという立場です。

なぜ限界説に妥当性があるのかという
根拠を前回の投稿において既述したとおりです。
無限界説に立って国民主権を奪うことは、
国民による意思決定のプロセスが
奪われることになり、この保障が出来なくなるという
ことを詳述したとおりです。
国民主権とは、治者と被治者の自同性をもたらすための
概念であり、国民主権を保障するということは、
国民の意思決定のプロセスを保障するということに
他なりません。
同じことを再度延々と書く手間は省かせていただきます。
読み返してくださいとしか言えません。

何度も申し上げている通り、
私は、一度も無制限説を肯定はしていません。
私の主張を無制限説だと解釈されたのならば、
それはとめはねさんの甚だしい誤解です。
繰り返しますが、

>あなたの主張は、
>「意思決定のプロセスで国民主権の
>原理が守られていれば、
>決定された内容にかかわりなく、
>国民主権が担保される」
>ということですが、

私の主張をこのように解釈したこと
自体が間違っているのです。
私はどこにおいても
そのような主張は一切しておりません。

次に、国民主権について。

>同様に、日本の政策という献立は、
>それが良くとも悪くとも日本人が
>その結果を引き受けることになります。
>私は、そのことを「日本人は、
>日本の未来に責任を取るとも言える」と表現しました。
>日本の政策という献立が悪ければ、
>日本は、沈没します。
>そして、日本人は、日本と一緒に沈みまず。
>そのことを「日本と日本人は運命共同体である」
>と表現しました。

要するに、
とめはねさんは、国民主権を、他国の国民にではなくて、
その国の国民が持っているその根本的な
根拠を言っているわけですね。

まず、その国の主権はその国の国民が有しています。

憲法10条
「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」

国籍法という法律でこれを定めています。
法律ということは、国民の代表者で構成される
国会で制定されたものです。
つまり、国民の代表者によって
誰が日本国民であり、誰が日本国民となるのかという
要件を定めているのです。
つまり、
日本国民自らが日本国民となるための要件(法律)を
決めるということです。
そしてその法に基づいて、日本人が
日本人であることを認定するのです。
つまり日本国の構成員となることを法に基づいて
認定するのは日本人です。
これによって民主主義に基づく国民国家が成立
しているのです。

さて、その上で、以下、指摘したい点があります。
ここはとても重要なところです。
(というか既に書いたことなんで、説明を繰り返す
 ことになりますが・・・)

とめはねさんは、国民主権および参政権の
究極的な根拠を、
“国と国民が運命共同体”であるということに
求めているわけです。
これは、とめはねさんが文章を剽窃された
どっかの右派のシンクタンクの人の主張でしたね。

それに対して、
その根拠の求め方がそもそも立憲主義に対する
無知だと私は指摘したのです。

国民主権とは、そもそも君主主権の反対概念です。
啓蒙思想を土台とした市民革命により
君主から主権を奪い取るための概念です。
そして、国民主権は、自然権(自然法思想)に
基づいています。
自然法思想とは、すべての人は生まれながらにして自由で
平等であり、人権を有しているのだという
考え方です。
その人権を保障することが憲法の目的です。
立憲主義における憲法の定義は、

『国家権力の濫用を抑制し、国民の権利自由を
 保障するための最高法規」

となります。これは私の定義ではなく、
普遍的な定義です。
自然権である人権を保障するためには、
君主に主権があってはこれを果たすことは出来ません。
出来ないどころか、侵害を受ける。
したがって、
人権を有する国民自身が主権を手にすることで、
人権保障を果たすことが出来るのです。
ですから、
国民主権は、人権保障のための手段なのです。
国民主権は手段で、人権保障が目的です。

ですから、
国民主権および参政権というものの根拠は、

“人権保障にとっては主権者を君主ではなくて、
 国民にしておかなければ人権保障が果たせない”

ということです。
義務の対価ではありません。

とめはねさんのおっしゃる“運命共同体論”は、

“国民は国民である限りその属する
 国家と運命を共にする責任を負う”

これを前提にしています。

ところが、
憲法上そんな責務は無いのです。
あるというのならその根拠を示してください。
とめはねさんの脳内からではなくて、
日本国憲法からその根拠を示してください。

例えば、Aさんという日本人がいます。
Aさんは、日本という国にこれ以上住むことに嫌気がさし、
この国において生活していくことに希望が見出せないと
思ったとします。
海外に移住することを決意してそうした。
そうして海外において経済的基盤を築いて、
そこを居住地とした。
または、
もし日本が戦争の危機を迎えたとき、
Bさんは、日本人としてこの戦争に関わりたくないと思い、
戦時体制の日本から逃げ出して、
海外に移住し、そこの住民となった。
あるいは、
Cさんは、日本の現在及び将来には無関心であり続け、
一度も参政権を行使したことはないし、
日本がいよいよ住み難くなったら、日本は棄てても良いと
思うし、現にそうするつもりだ。
この場合、
AさんBさんCさんは、日本国と一時的であれ、永久にであれ、
運命共同体となることを拒んだと言えますし、
またそうする自由もあるのです。
しかし、このAさんBさんCさんが日本国籍を有している限りは、
なおAさんBさんCさんは日本国の主権者なのです。
一方、
定住外国人には、この国を愛し、
現在及び将来の日本国のために
職業や社会的活動を通して
献身的に尽くしている人たちもいます。
現に教育や医療、福祉、芸能、芸術、スポーツ、ビジネスなどを
通してこの国に腰をすえて、日本に骨を埋めるべく
本当に日本のために貢献してきた外国人たちが多くいます。
しかし、
日本国籍を有していない以上、彼らは主権者ではありません。

憲法は人権保障のためにあります。
違法性を有しない限り、日本国民は自由を束縛されません。
表現の自由、思想の自由、職業選択の自由、移転の自由
などです。
これらは、義務の対価ではありません。
そしてこれらの人権を保障するための“手段”として
国民主権という制度があるのです。
日本国民であるということそのものに義務は伴いません。
そして、
日本国民であるというだけでそこに主権者としての
資格が発生します。
責務の対価ではありません。
国籍法に基づいて日本国籍を有した時点で、
無条件に認められるものです。

1、憲法における精神的自由権および経済的自由権は、
  その性質から
  “国家からの自由”と言われています。

2、この自由権を保障するためには国民自身が国の政治のあり方を
 決める権利を有している必要があるわけで、この権利が参政権で
 “国家への自由”と言われています。

3、もう一つ社会権については“国家による自由”と言われています。

そして、
1が憲法の目的であり、2,3は1に対する手段なのです。
“国家からの自由”の保障が啓蒙思想と市民革命に
由来する憲法の趣旨であり目的なのです。
日本国憲法はそこに立脚しています。

日本国籍を有するということは、
会員制スポーツクラブでたとえれば、
正会員になるということです。
全ての権利をフルに享受するための資格と
いえます。
永住外国人は正会員に準ずる会員として
その権利が一部制限を受けながら
認められる存在と言えます。
国籍法についてたとえると、
正会員になるための要件と認定は
正会員自身が決めるということです。
そして、今まで何度も繰り返して申し上げたとおり、
その正会員である日本国民に認められた
憲法上の権利は、義務の対価ではないのです。
これが立憲主義の考え方であり、
構造なのです。

国民主権の歴史的経緯を、ロックやルソーに代表される
啓蒙思想とこれを土台とした市民革命に遡って
理解すれば、そこは理解できます。
自然権に基づいた国民主権です。

人権というものは国家が与えてくれるものでは
ないのです。
国民が国家に保障させているに過ぎません。
人権を保障せよと国民が国家に対して憲法を通して
“命じている”とするのが立憲主義の考え方なのです。

結局はね、
とめはねさんは、
こうした日本国憲法が立脚している
近代立憲主義自体に批判的なのです。
違う憲法思想によって、あるいはこれをデフォルメして
この国と国民のあり方を問い直しましょう
という立場なんですよ。
つまり、
近代立憲主義批判論者、見直し論者と
いっていいのでしょう。
だって、
とめはねさんのいう運命共同体論は、
日本国憲法が立脚している
近代立憲主義には無い考え方なのです。
よって、
とめはねさんは、日本国憲法というもの自体に
懐疑的で批判的なんだと思います。
(9条の問題を除外しても。)
日本国憲法を変えて、国家主義的で復古的な要素を加えた
憲法に作り変えるべきだというお考えなのでは
ないでしょうか。
そのように考えないと、
日本国憲法をどのように
解釈しようとも“運命共同体論”などは、
導き出せませんから。

しつこいようですが、

1、憲法における精神的自由権および経済的自由権は、
  その性質から
  “国家からの自由”と言われています。

2、この自由権を保障するためには国民自身が国の政治のあり方を
 決める権利を有している必要があるわけで、この権利が参政権で
 “国家への自由”と言われています。

3、もう一つ社会権については“国家による自由”と言われています。

そして、
1が憲法の目的であり、2,3は1に対する手段なのです。

“国家からの自由”が啓蒙思想と市民革命に
由来する憲法の趣旨であり目的なのです。

要するに、
とめはねさんはそういう憲法を変えたいと思っている
ということだと思いますよ。
現行憲法の解釈論としては、
運命共同体論は導けませんので。
運命共同体論を導きたいなら、憲法を
変えないといけません。
右派から憲法試案がいろいろ出てるでしょ。
とめはねさんはそういう立場に与している
ということでしょう。

P.S

とめはねさん、
近代立憲主義とはどういうものか?
日本国憲法が立脚している憲法思想が
どういうものなのか?
これをまず知ってみませんか?
芦部信喜や佐藤幸治のような代表的な憲法学者による
教科書を読んでみませんか?
芦部の「憲法」(岩波書店)は、
読みやすい内容になっています。
私は今まで
日本国憲法の立脚する立憲主義の基本を話してきたに
過ぎないのです。
とめはねさんは、森が分からないで、
森を分かろうとしないで、
枝葉の部分だけを見ているから、
その枝葉がなぜそこにそのように
伸びているのかが理解できないのです。
まず立憲主義という森のことを知りましょう。
その上で、
日本国憲法批判、、
近代立憲主義見直し論に与したいのであれば
どうぞご自由にとしか言えません。

率直に申し上げて、
私としては、とめはねさんとの
これ以上の議論は不毛の一言です。
もう上辺でループにループを重ね
続けるだけです。
既に議論の体をなさなくなっています。
他人様のブログですので、
あとはとめはねさんのほうで基礎を勉強してその上で、
議論を展開したいのであれば、
ご自分のブログを作られてこちらにトラックバックするなり
するべきでしょう。

フリスキーフリスキー 2010/04/05 08:50 “国家からの自由”という点に対して、
とめはねさんからの更なるつっこみが
私には予想できます。
国家の存在意義など聞かれたいかと
予想できますが、
私は手取り足取りとめはねさんの質問に
付き合うつもりはありません。
あとは自分で勉強してくださいとしか
言えませんので、あらかじめ
釘を刺させていただきます。

よこちんよこちん 2010/04/05 09:51 フリスキーさんって仕事は何してる人なんですか?よくこんなにネットに書き込みする時間あるんですね。定年退職した方ですか?

フリスキーフリスキー 2010/04/05 13:00 よこちんさんへ

こちらのエントリー及び議論の流れから逸脱した
質問ですので、本来はお相手しませんが、
せっかくですので一度だけレスをつけさせて
いただきます。
私は昭和40年代生まれの現役世代です。
世の中には様々な職種と形態で仕事をしている人がいます。
私は、先ほどの投稿は自宅からでしたが、
現在は職場から書き込みをしています。
自宅でも職場でも一日中ネットに接続している
環境なのですが、書き込むのも適宜時間を取れる
ので書き込んでいます。
それ以上の私のプライバシーに関する情報は
一切控えさせていただきます。

よこちんよこちん 2010/04/05 14:23 そうだったんですか。
フリスキーさんのレスはかなり緻密で奥が深いですね。
ひとつひとつレス読んで、レスに対する返答をするために精密に読むのってかなり時間かかりますよね。さらに返答して書き込みしたらもっと時間かかりますよね。
そう思うとレスのやりとりもなかなか根気のいるしんどい作業ですな。

どろどろ 2010/04/05 18:02 フリスキーさん、とめはねさん
対話の途中ですが、横レス失礼します。

とめはねさん
とめはね家の献立権が、とめはね一家にある根拠は、とめはね家の献立で作った料理は全てとめはね家の人間が食べるからなのですか。
よい献立も悪い献立もその結果はすべてとめはね家の人間が引き受けるから、とめはね家の献立はとめはね家の人間に作る権利があるんですか。

とめはね家はお客さんが来られても食事を共にしないようですね。
我が家では親しいお客と一緒に食事をします。
そのとき、献立の決定権は、基本的に我が家にあります。
お客さんに食事を供するかどうかも、最終的には我が家に決定権があります。
我が家が「食べていきなさいよ」と言うと、お客は楽しく食事を共にします。
しかし「腹減ったから晩飯食わせろよ」とか、「どろさんのもつの煮込みがおいしいから食べたい」などと言われると、私はいそいそともつの煮込みを仕込み始めます。
私や家族が納得のうえでそうするのだから、これを「献立権の侵害だ」と言われる筋合いはありません。
とめはねさんの喩えをもってしても、「日本国民のみによって選挙され、日本国民の代表者で構成される国会において審議され制定された法律によって永住外国人に地方選挙権を与えるのだから、国民主権が担保されている」というフリスキーさんの考えが正しいと思います。

とめはねさんは、しかしつぎのようなことを言い始めるのです。
「どろ家が決めれば何でもいいことになるのなら、どろ家の家族会議で一家心中を決めたら家族は文句が言えないことになるのですね。」
いえいえ、いかに家族会議の決定であっても、家族の一員に一家心中を強制する権利が他の家族にあろうはずがありません。
とめはねさんみたいな極論を面と向かって言ったら、たいていの人は「誰がそんなこと言うてるねん!」とあきれるでしょう。
フリスキーさんも、静かに読んでいた私もあきれています。

とめはねさん
「A国の主権がB国人にあったのならば、それはA国ではなくてB国になるのであれば、全ての侵略が正当化されることになる」でしょうか。
なりません。
例えばロシアが韓国を武力で攻めて制圧し、主権を奪ったと主張したとします。
そうすると、そこはロシアになったとロシア人はいうでしょう。そうすると、ロシア人の言い分では、韓国人は、ロシアの中の外国人ということになります。いったんロシアになってしまえば、ロシアをロシア人が統治するのは、100%当然だとロシア人は言うかも知れませんし、韓国人は、一切文句を言う資格がなくなったというでしょう。
しかしこれらは侵略した側の一方的な言い分に過ぎませんね。
韓国人は主権を奪われたと認めないでしょう。

こう考えてはいかがですか。
とめはねさんの家の所有権が、はらいさんにあるのなら、それはとめはね邸ではなくてはらい邸になります。
ですから「A国の主権がB国人にあったのならば、それはA国ではなくてB国になる」というフリスキーさんのコメントはごく当たり前の話です。
しかし、はらいさんが、とめはね一家を力ずくで追い出して、今日からここの主人は自分だと主張しても、所有権が移ったことになりません。

あなたが理屈っぽい人だと言うことは、よくわかりました。
しかし内容がないので対話が深まりません。
この当たりでお開きにしませんか。

フリスキーさん
コメントはとてもわかりやすく、勉強になりました。
コメント欄ではもったいなくて、エントリーに上げたいぐらいです。
有り難うございました。

とめはねとめはね 2010/04/25 00:50 >どろさんへ

基本的に今回の投稿で終わりにしようと思います。また、フリスキーさんの言うことで、さっぱりわからないことが出てきたらまたその時考えますけど。
もし議論が続くようでしたらどこかにブログを開設してそこに移動しますので、今回だけご容赦ください。
それから、新たな人と丁寧な議論をする余裕はないので、反論は、省エネにさせて頂きます。どろさんならそれで通じると思いますし。


>私や家族が納得のうえでそうするのだから、これを「献立権の侵害だ」と言われる筋合いはありません。

私は次のように既述しています。

>通常は、たぶんあなたのおっしゃるとおりです。ただし、意思決定の方法自体を決めようとする時は、意思決定の結果そのものも国民主権の原理にかなっているかどうかを審議する必要があるということです。そうしなければ、意思決定のプロセスを保障できません。
外国人参政権法案は、意思決定方法ですから、外国人参政権を決めるプロセスだけなく、この法案自体が国民主権の原理に則っているかどうかを審議する必要があります。

外国人参政権は、国家の意思決定に参加する権利ですから、料理でもなく料理を要望する権利でもなく、献立権に相当します。あとはわかりますよね。

一家心中の例は、何を言いたいかわかりませんが、もし、とめはね独裁の喩えを否定しようとしているのなら、そのたとえでは否定できないとだけ言っておきます。


>とめはねさんみたいな極論を面と向かって言ったら、たいていの人は「誰がそんなこと言うてるねん!」とあきれるでしょう。

そう思うのは、おそらくあなたもフリスキーさんの論点ずらしに騙されているからですよ。彼は論点ずらしの名手ですからね。これについても、フリスキーさんへの反論の中で触れます。


>しかしこれらは侵略した側の一方的な言い分に過ぎませんね。
韓国人は主権を奪われたと認めないでしょう。

それは、同時に韓国人の一方的な言い分でもありますね。フリスキーさんによれば、主権とは憲法制定権です。ロシアは勝手に新たな憲法を制定し、それに従って実力で韓国を統治できるのですから、その時点で韓国はロシアになります。それでも認めないと言うのは、牢獄に閉じ込められた人が、「俺は自由に移動する権利を奪われていない!」と主張するのと同じです。

さらに言えば、韓国人がロシア人に主権を譲ることに同意するようにすることもできるでしょう。
アメリカが日本にしたようにすれば大丈夫です。連日無差別空襲をして都市を焼き払い、原爆を2〜3個落とし、主権を渡さなければ、民族全体を抹殺すると脅せば、韓国人は主権を渡すことになるでしょう。そして、フリスキー理論によると、その瞬間そこはロシアになり、韓国人はロシアの中の外国人になります。

ちなみに、日本が戦争に負けて占領された時には、憲法制定権を失っていたわけですが、フリスキー理論によると、そのとき現日本はどこの国だったのでしょうね?GHQ国?

>ですから「A国の主権がB国人にあったのならば、それはA国ではなくてB国になる」というフリスキーさんのコメントはごく当たり前の話です。

私が既述したことを再掲して反論に代えます。

>あなたの答えは、国民主権を採用している国家とその主権を持つ国民の関係について語ってはいても最初の「A国の主権はA国民が持っているのはなぜ?」という質問には答えていないのです。


>しかし内容がないので対話が深まりません。

対話が深まらないのは、フリスキーさんの見事なすり替えのためです。
私が「リンゴは丸い」というと、彼は「いやいや、リンゴは赤です。もっと勉強して下さい。」というのです(笑) 詳しくは、彼への反論を見てください。

とめはねとめはね 2010/04/25 00:52 >フリスキーさんへ、(?)★

議論をやめるということに関しては、どうぞご自由にとしか言えませんし、文句もありません。その点は、ご心配なく。ただ、私は、あなたが答えるかどうかは別にして、以前「詳しくは後で反論します」といった所までは反論します。

それから、あなたとの議論で感じていた違和感の正体がようやくはっきりとしました。
勘違いで論点がずれていたのではなく、あなたは意図的に論点をずらしていましたね。
他の人は、あなたの巧妙なすり替えと印象操作に気づかず、すっかり私が頓珍漢な事を言っていると思いこまされたようです(笑) 

実は、あなたと人権の議論をし始めて私はすぐに違和感を感じ始めました。あなたが、私の主張や質問に対して微妙に論点をずらして反論してきたり、答えたりすることがしばしばあったからです。でも、議論の最初にあなたの巨大で純粋な勘違いがあったので、私はあなたを「早とちりしやすい人」と判断しました。だから、その後の議論で論点がずれているのも単なる勘違いのためだと解釈し、特に指摘しませんでした。

しかし、どうもおかしいと思ったのは、私の質問や主張にまともに答えると、外国人参政権賛成派として都合が悪くなるところで、あなたの論点のずれが多発すると気付いたからです。
次の例が良い例です。


私>ところで、すごく素朴な疑問なのですが、傍論かどうかを決める権限は、判事にあるのですか?・・・・・・・・・・・傍論に関す学問的定義がないのであれば、何を傍論というか言わないかは、人によって異なってよいのではないかと思いましたので。

あなた>園部氏はこう言っています。
>「日本の裁判所の判決では、判決要旨とそれ以外の部分に分けて構成したり理解することはあるが、先例法理と傍論という分け方はしない。最高裁判所の判決では、私の経験では、傍論的意見は裁判官の個別意見か調査官解説に譲るのが原則である」
件のくだりは、個別意見でも反対意見でもなく、裁判官全員一致のものであって、また、結論を導くための理由付けであると明言されています。


私の質問は、「傍論かどうかを決める権限は、判事にあるのですか?」ですが、それに対するあなたの回答は、「最高裁判所での傍論の扱いについて最高裁判事の園部氏は、このように言っている」ということを紹介しています。

結局、ここでもあなたは論点をずらして私の質問に答えていません。そのことにはすぐに気付いたのですが、別にあなたを追い詰めるのが目的ではないので、「まあ、いいか」と思って追求はしませんでした。

推測するに、結局「傍論に関する学問的定義がないのであれば、何を傍論というか言わないかは、人によって異なってよいのではないかと思いましたので。」という私の指摘は図星だったのではないでしょうか。
それに対して、Yesと言ってしまうと、例の最高裁判決の第二段落部分を「傍論だから拘束力なし」という反対論に対して「そもそも、それを傍論だということがおかしい」という反論ができなくなってしまうからとてもまずいことになります。だから、話をそらしたのではないかと思います。

前回と今回のあなたの回答も論点ずらし・すりかえのオンパレードですね。
実は、前回のあなたの投稿が、詭弁まで駆使した論点ずらしのオンパレードであるのを見た時、論点ずらしが意図的に行われていることを99%確信しました。でも、念を入れてもう一度だけ確認のためにQ1の質問を繰り返したのです。どう答えるかなと思って。そして、なぜ、あなたの回答が、私の質問の答えになっていないかを勘違いがないように丁寧に解説しました。

あなたの答えは、それまでに言ったすり替えを繰り返したにすぎませんでした。
あなたは、意図的に論点ずらしをしていた、というのが私の結論です。

あなたの論点ずらしは非常に巧妙です。はっきり言って手慣れていますね。ざっと読み流しただけでは、気づかないと思います。でも、論理をしっかり追える人が、論点に注目して丁寧に読めば、あなたが随所で論点をずらしていることが分かるでしょう。

Q1に対して「無制限説は言っていない」というあなたの反論を見て、すり替えのうまさに舌を巻きました。そして、一番びっくりしたのは「B国人が主権をもっている所がB国」という詭弁です。詭弁を駆使するそのうまさに、正直感心しました。その種の詭弁について知ってはいましたが、実際の議論の中で駆使する人ははじめて見ました。
この種の議論にも、論点ずらしにも、詭弁にも相当手慣れているとお見受けしました。

あなたは、すり替えや印象操作で遠慮なく私を騙す気のようですので、私も遠慮なくあなたのネタばらしをさせて頂きます。

>フリスキーさんへ、(?)★★

さて、あなたが意図的に論点をすり替えていると結論を下すにいたった最後のひと押しの部分を指摘します。それは、私のQ1に対してあなたが2度にわたってすり替えを行った部分です。
関係部分をコピペします。
今回は、第3者が見ても論理を追いやすくするためにコピペ部分が多くなり長くなりました。

・・・・・・・・・コピペ開始・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、Q1へのあなたの回答の論点がずれていることを示します。
最初にここまでの流れを示します。

フリ:>>>>>ここで、立法措置によってつまり立法府(国会)の判断によって、その可否を委ねているところに、国民主権に基づく参政権が担保されているのです。
つまり、永住外国人に地方選挙権を与えるのは、日本国民のみによって選挙され、日本国民の代表者で構成される国会において審議され制定された法律によって永住外国人に地方選挙権を与えるか否かというプロセスを踏むことによって国民主権が担保されているのです。
(この主張を仮に「主張A」と呼ぶことにします)

とめ:>>>>あなたの主張は、「意思決定のプロセスで国民主権の原理が守られていれば、決定された内容にかかわりなく、国民主権が担保される」ということですが、・・・。
(あなたの「主張A」対して行なった私のこの解釈を仮に「解釈A΄」とします。) 

フリ:>>>私がどこでそんなことを言いましたか?それはあなたの記憶違いか、誤読です。

とめ;>>Q1: 「意思決定のプロセスで国民主権の原理が守られていれば、決定された内容にかかわりなく、国民主権が担保される」という私の解釈のどこがどのように違うのか指摘してください。

フリ:>“決定された内容にかかわりなく”ということは、憲法改正について、『無制限説』に立つことを意味します。
(これは、私の「解釈A΄」に対してあなたが行った解釈です。このあなたの解釈を仮に「解釈A"」とします。)

フリ:>私は、一言も、憲法改正が無制限に認められるなどとは言っておりませんので、誤認されています。

ここで論点がずれています。
あなたの「主張A」から私の「解釈A΄」が導かれるということが私の主張です。そして、あなたは私の「解釈A΄」が間違いであると言ったので、私はQ1で『「解釈A΄」のどこがどう違っているのかを指摘してください』と言ったのです。このQ1が論点です。

ところが、あなたは、私の「解釈A΄」から更にあなたの「解釈A"」を勝手に導き、『私は「解釈A"」とは言っていない。』と言っているわけです。論点がずれているのがわかりますよね。

私の「解釈A΄」からあなたの「解釈A"」を導けるかどうかも、あなたが「解釈A"」と言ったかどうかも関係ありません。

もっと、端的に言うと、私の「どこがどう違っているのかを指摘してください」と言う質問に対してあなたは「私は、一言も、憲法改正が無制限に認められるなどとは言っておりません」と答えているのです。この頓珍漢さは明らかでしょう。

「どこがどう間違っているのか?」という問いに対しての答えは「ここがこう間違っている」という答えになるはずです。きちんと質問に答えるならば。

もう一度まとめます。全体の流れは次の通りです。
「主張A」→「解釈A΄」→「解釈A"」

そして、私の主張は、あなたの「主張A」から私の「解釈A΄」を導くことができる、ということです。そして、あなたはこの私の主張を否定したので、私はQ1で、そのどこがどのように違うのかを教えてください、と言いました。それに対するあなたの答えは、「私は「解釈A"」とは言っていない」というものでした。明らかに質問に答えていませんよね。

ここまでの説明を踏まえて、同じ質問に補足をしてもう一度します。

Q1: あなたの「主張A」に対して私が行った「意思決定のプロセスで国民主権の原理が守られていれば、決定された内容にかかわりなく、国民主権が担保される」という解釈のどこがどのように違うのか指摘してください。
・・・・・・・・・コピペ終了・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このようにして再度行ったQ1に対してあなたは今回次のように答えました。

フリ>何度も申し上げている通り、私は、一度も無制限説を肯定はしていません。私の主張を無制限説だと解釈されたのならば、それはとめはねさんの甚だしい誤解です。


とめ>>あなたの主張は、「意思決定のプロセスで国民主権の原理が守られていれば、決定された内容にかかわりなく、国民主権が担保される」ということですが、

フリ>私の主張をこのように解釈したこと自体が間違っているのです。
私はどこにおいてもそのような主張は一切しておりません。


ところで、あなたは、前回すでに次のように答えています。

フリ:>私は、一言も、憲法改正が無制限に認められるなどとは言っておりませんので、誤認されています。

そして、私は、その答えはすり替えで、質問に答えていないことをすでに示しています。つまりあなたは、すでに否定されたすり替えを繰り返したにすぎません。


私の質問とあなたの回答を極端に短くすると次のようになります。
あなた:「主張Aである。」
私:「あなたは、解釈A΄と言いました」
あなた「いえ、それは誤解です」
私: 「解釈A΄のどこがどう違うのか教えてください」
あなた:「私は解釈A"と言っていません。」
私:「あなたは話をそらしました。もう一度質問します。
解釈A΄のどこがどう違うのか教えてください」
あなた:「私は解釈A΄と言っていません。解釈A΄としたこと自体が間違っているのです。」


だから、どうして解釈A΄としたことが間違いなのか?どこが間違いなのかを2回も質問しているのです。結局あなたは、「私は解釈A"と言っていません。」と繰り返すのみで、「解釈A΄のどこがどう違うのか」ということを全く説明していません。
結局あなたは、私のQ1に対して論点すり替えを2回繰り返しただけで答えようとしていません。

■フリスキーさんは、意図的に論点のすり替えを行ってきた。そして、相手を騙してでも自分に有利な意見を通そうとする。

これが、あなたに関する私の結論です。
これから行うあなたへの反論が、さらにこの結論を補強することになるでしょう。

とめはねとめはね 2010/04/25 00:54
>フリスキーさんへ、(?)★★★

さて、本題です。
あなたは、国政の参政権については、外国人にこれを付与することは違憲であることは認めています。
また、人権や憲法について膨大な言を費やして述べました。その全てではありませんが、ほとんどは私も正しいと思っています。

国民主権が、君主主権に対置されるものとして、人権を守るために採用されたということも、立憲主義やその中で参政権が占める位置付け、参政権が自由権に仕えるという関係も特に異論はありません。それらの論は、なぜ、君主ではなく国民が主権を持つようにしたのかということは説明できます。

しかし、結局、なぜ国家の意思を決定する参政権が、他の社会権と違って外国人には認められていないのかということは全く説明されていません。あなたの言うように「参政権は自由権に仕える」だけでは、なぜ外国人には参政権が認められないのかが説明できません。これでは、まるで、外国人には自由権を認めないみたいに見えるではありませんか。もしかして、そう思わせる意図ですか?

例の最高裁判決で「憲法一五条一項の規定は、権利の性質上日本国民のみをその対象とし、」と言っていますが、「権利の性質上」の性質とはどのような性質なのかが、あなたの説明では全く説明されていないのを気づいていますよね?あなたは、意図的にその性質に触れないようにしてきたと今は思っています。

私はその性質とは何なのかということを説明するために、古代ギリシャにおける参政権の話も紹介しました。運命共同体論もそのために持ちだしました。参政権が、国会に於いても最高裁に於いても他の権利と別個に扱われているので、なぜ別個の扱いなのかを私は説明しようとしてきたわけです。
その私の説明に対して、あなたは3/1の投稿で次のように言いました。

>ここは極めて重要なところなので認識しておいてください。あなたのおっしゃるような参政権を他の人権と全く性質の異なるものとして別に扱わなければならないなどという憲法解釈など初めて聞きました。憲法の人権保障の体系は一貫した理念と論理で貫かれています。
ある部分だけを異質なものとして別個に取り扱うなど支離滅裂の、トンデモ憲法論と言い切って差し支えありません。


ぼろくそに言ってますね(笑) 参政権が、他の社会権とは別に考えるべきだという私の指摘が、よほど具合が悪かったのではないですか?そのために、私がど素人であることを利用して、まるで、どうしようもない支離滅裂な主張だと思い込ませたかったのではないですか?私に対しても他の読者に対しても。

しかし、この発言に対して、参政権が国会に於いても最高裁に於いても実際に他の権利と別個に扱われている、という事実を指摘したら、あなたはそれ以上追及するのはやめました。そんなことは、私に指摘されるまでもなくわかっていたはずです。

結局、私が「参政権が他の権利と異なる側面」を指摘したのに対して、あなたは「参政権が他の権利と共通している側面」を指摘して私の意見を否定しようとしたわけです。論点をすりかえたわけです。
私が「リンゴは丸い」というと、あなたは「いやいや、リンゴは赤ですよ。あなたは支離滅裂ですね。まず、基本的な教科書で勉強して下さい」と言うわけです。
私が勉強不足であることは事実なので、極めて自然な印象操作であり、丁寧な威圧でもあります。


それから、次の部分ですが、

>とめはねさんのおっしゃる“運命共同体論”は、
“国民は国民である限りその属する国家と運命を共にする責任を負う”
これを前提にしています。
ところが、憲法上そんな責務は無いのです。あるというのならその根拠を示してください。
とめはねさんの脳内からではなくて、日本国憲法からその根拠を示してください。


この指摘は、2つの意味で的外れです。
まず、1つ目ですが、私は、そもそも

>“国民は国民である限りその属する国家と運命を共にする責任を負う”

とは言っていませんし、これを前提としてもいません。
ここでもすり替えが行われています。

私が言ったのは、「その国の国籍保有者は、その国と運命共同体である」ということです。これが本旨です。また、それを「その国の国籍保有者は、その国の未来に責任を持つと言える」と換言できるといいました。これは、ほとんどの国民は、結果的に国と運命を共にすることになるということであって、別に「運命を共にするという責務を負っている」訳ではありません。
私の発言とあなたの解釈を並べてみましょう。

とめ:「その国の国籍保有者は、その国と運命共同体である」
とめ:「その国の国籍保有者は、その国の未来に責任を持つ」
フリ:“国民は国民である限りその属する国家と運命を共にする責任を負う”(前提)

あなたの解釈は、実際の私の2つの発言を合成しているので「国家と運命を共にする」も「責任を負う」も違和感がありません。しかし、合成すると私の発言とは別の意味になります。
実に良くできたすり替えです。

さらに短くして並べてみると、その違いがさらにはっきりします。

私:「国と運命共同体である」
私:「国の未来に責任を持つ」
あなた:「国家と運命を共にする責任を負う」

このように、私の発言の意味をすり替えた上で、あなたは

>ところが、憲法上そんな責務は無いのです。あるというのならその根拠を示してください。とめはねさんの脳内からではなくて、日本国憲法からその根拠を示してください。

とたたみかけるわけです。私が言ってもいないことを言ったかのように言って、非難しているわけです。読み流した人の100人中99人は、ころりと騙されるのではないでしょうか。

「ある解釈のどこがどのように間違っているかを指摘する」とは、こういうことですよ、フリスキーさん。あなたのように、ただ、「私の主張をこのように解釈したこと自体が間違っているのです。」と言うだけでは、何の説明にもならないのです。


>フリスキーさんへ、(?)★★★★

的外れである2つ目の理由を示します。

>ところが、憲法上そんな責務は無いのです。あるというのならその根拠を示してください。
とめはねさんの脳内からではなくて、日本国憲法からその根拠を示してください。

の部分ですが、日本国憲法上には私の「運命共同体論」の根拠は記されていません。なくて当たり前なのです。
なぜかというと、日本国憲法に於いて、国民主権は、大前提になっており、なぜそれが採用されたのかは触れていないからです。その大前提の上に憲法が構築されています。そして、私の“運命共同体論”は、その国民主権の正当性を説明するための説だからです。

ただし、この場合は正当性といっても、主権が君主ではなく国民にある正当性(仮に「垂直方向の正当性」とします)ではなく、A国の主権がB国民にではなく、A国民にあることの正当性(仮に「水平方向の正当性」とします)です。

「垂直方向の正当性」は、あなたが延々と説明してきましたが、あなたが引用した次の言葉が代表的でしょう。
『明らかに、国民主権およびそれに基づく代表民主制の原理が基本的人権の尊重と確立を目的とし、それを達成するための手段として、不可分の関係にあることを示している。』

私はこれには特に異論はないのです。しかし、これだけでは、なぜ参政権がA国民にのみ認められていて外国人(B国民)に認められないのか説明がつきません。それどころか、これだけでは、外国人参政権を認めないのは、外国人の基本的人権を尊重しないことであって、まるで差別のようです。しかし、当然のことながら区別であって差別ではありません。
これを差別でなく区別であることを示す正当性が「水平方向の正当性」であり、その根拠が運命共同体論です。そして、「水平方向の正当性」をいかに説明するかが、この議論の出発点ですから、「垂直方向の正当性」を強調することはすり替え以外の何物でもありません。

>結局はね、とめはねさんは、こうした日本国憲法が立脚している近代立憲主義自体に批判的なのです。

いえ、違います。
あなたは、私の運命共同体論を「立憲主義がわかっていない」などと散々批判してきましたが、それは、丸ごと的外れです。なぜなら、立憲主義は国民主権なしには成り立たず、運命共同体論は、先ほど述べたように国民主権を補強するものだからです。

どこの教科書にも運命共同体論が出て来ないのは、「A国の主権がB国民にではなく、A国民にある」などということは、あまりにも当たり前すぎてその根拠を改めて示す必要があるとはだれも考えないからでしょう。もし、運命共同体論よりも適切に「A国の主権がB国民にではなく、A国民にある」ことの根拠をきちんと示せる論があるならば、その論を採用することにやぶさかではありません。しかし、たぶんないと思います。


それから、例の最高裁判決の中の第2段落で、永住外国人に地方参政権を付与することは、憲法によって禁止されていないという事を導く理由として次のことが挙げられています。

>我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と
特段に緊密な関係を持つに至ったと認められる

また、在日の方が、参政権を要求する根拠にも同様なことがしばしば挙げられます。
あなたも実際に参政権を付与されることの正当性を次のように述べています。

>そして、既に日本に渡っていた元日本人(併合期間は日本の臣民)であるコリアンの多くは、社会人として、職業人として、家庭人として、住民として既に生活の基盤を日本の本土に築いていたわけです。敗戦によって、日本国籍者ではなくなりましたが、物理的には、日本丸という船の乗組員という状況が続いていたのです。

しかし、「特段に緊密な関係を持つに至った」ということも「コリアンの多くは、社会人として、職業人として、家庭人として、住民として既に生活の基盤を日本の本土に築いていた」ということも、どちらもまさに、「運命を共にする度合いが強くなった」ということであり、まさに運命共同体論に沿った見解です。

そして、どの程度国と運命共同体になっているかは、当然人によって様々なレベルがあるのですが、国籍を保有していることをもって、十分運命共同体となっていると「みなし」、主権を認めている、と考えるのが最も理にかなっています。

とめはねとめはね 2010/04/25 00:56 >フリスキーさんへ、(?)★★★★★

次に進みます。

>とめはねさんは、国民主権および参政権の究極的な根拠を、“国と国民が運命共同体”であるということに求めているわけです。これは、とめはねさんが文章を剽窃されたどっかの右派のシンクタンクの人の主張でしたね。
それに対して、その根拠の求め方がそもそも立憲主義に対する無知だと私は指摘したのです。
国民主権とは、そもそも君主主権の反対概念です。啓蒙思想を土台とした市民革命により君主から主権を奪い取るための概念です。そして、国民主権は、自然権(自然法思想)に基づいています。
自然法思想とは、すべての人は生まれながらにして自由で平等であり、人権を有しているのだという考え方です。


今まで延々と行われたすり替えがここでも行われています。
私は、運命共同体論に最初に触れた 2010/02/28 の投稿で次のように記述しています。
・・・・・・・コピペ開始・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>日本だけでなく、現在は、世界のほとんどの国々が、国民主権の原理を採用しています。それはなぜなのかを以前考えたことがあります。歴史的には、国民主権とは、フランス革命期に誕生した概念であると言われ、その目的は、革命以前の絶対王政を排除し、主権を人民に付与することであるということは知っています。
しかし、そういうことではなく、なぜ日本の主権は、外国人でもなく、すべての人類でもなく、日本人なのだろうか?ということです。なぜ韓国の主権は韓国人で、アメリカの主権はアメリカ人にあるのかということです。この点について、誰もが全く当たり前のこととして何の疑問も持たずに互いにそれを認めています。これは、なぜなのだろうかと考えたのです。その国の主権をその国の国籍保有者が持つことの根拠を考えました。

いろいろ考えた末の私の結論は、単純に「その国はその国の人のものだから」でした。その内容をもっと突き詰めてゆくと「その国はその国の人が何千年もかけて作り上げてきたものだから」という根拠があります。しかし、外国人でも国籍を取得すれば、その時から主権を得られることを考えると、主権を持つ究極的な根拠は、「その国の国籍保有者は、その国と運命共同体であるから」でしょう。「その国の国籍保有者は、その国の未来に責任を持つと言えるから」とも換言できます。

・・・・・・・コピペ終了・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

つまり、私が運命共同体論を持ち出したのは、「国民主権および参政権の究極的な根拠を、“国と国民が運命共同体”であるということに求めている。」わけではありません。そうではなく、「なぜ韓国の主権は韓国人で、アメリカの主権はアメリカ人にあるのかということ」を説明するためです。

私は「A国の主権はなぜB国民ではなく、A国民にあるのか?」を問題にしました。ですから、≪主権が君主ではなく国民にあるということは、論点ではなく、前提なのです。≫ それをあなたは「なぜ主権が君主ではなく国民にあるのか」にすり替えています。運命共同体論についての議論の冒頭から現在まで延々とすり替えづづけています。
繰り返しになりますが、運命共同体論は「垂直方向の正当性」ではなく、「水平方向の正当性」を説明するためです。

そして、あらかじめ

>歴史的には、国民主権とは、フランス革命期に誕生した概念であると言われ、その目的は、革命以前の絶対王政を排除し、主権を人民に付与することであるということは知っています。
しかし、そういうことではなく、

と言っています。「国民主権の目的は、絶対王政を排除し、主権を人民に付与することである」と最初に言っています。にもかかわらず、あなたは次のように主張します。まるで、私がそのことをわかっていないかのように。

>国民主権とは、そもそも君主主権の反対概念です。啓蒙思想を土台とした市民革命により君主から主権を奪い取るための概念です。

そして、次のように私をなじります。

>それに対して、その根拠の求め方がそもそも立憲主義に対する無知だと私は指摘したのです。

よくこういうことが言えますね。ある意味感心しますよ、本当に。
私は法のど素人であるのは事実なので、そのように扱われることは何の不満もありません。しかし、今回のような「理不尽な無知扱い」を見ると、あなたは、自分が正しく、とめはねは間違っているという「印象を創り出すために」私をど素人扱いしていると今は思っています。特に人権の話題になってからです。それ以前のど素人扱いは、適切でお説ごもっともだと思います。


>フリスキーさんへ、(?)★★★★★★

さて、次の部分です。
・・・・・・・・・コピペ開始・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>例えば、Aさんという日本人がいます。Aさんは、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・この場合、AさんBさんCさんは、日本国と一時的であれ、永久にであれ、運命共同体となることを拒んだと言えますし、またそうする自由もあるのです。しかし、このAさんBさんCさんが日本国籍を有している限りは、なおAさんBさんCさんは日本国の主権者なのです。

>一方、定住外国人には、この国を愛し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・この国に腰をすえて、日本に骨を埋めるべく本当に日本のために貢献してきた外国人たちが多くいます。しかし、日本国籍を有していない以上、彼らは主権者ではありません。

>憲法は人権保障のためにあります。違法性を有しない限り、日本国民は自由を束縛されません。表現の自由、思想の自由、職業選択の自由、移転の自由などです。これらは、義務の対価ではありません。そしてこれらの人権を保障するための“手段”として国民主権という制度があるのです。日本国民であるということそのものに義務は伴いません。
そして、日本国民であるというだけでそこに主権者としての資格が発生します。責務の対価ではありません。国籍法に基づいて日本国籍を有した時点で、無条件に認められるものです。

・・・・・・・・・コピペ終了・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まず、反論を加える前に1つ確認しておくことがあります。それは、

■「A国の主権は、B国民ではなくA国民であることの根拠を、あなたは結局1つも示せなかった」

ということです。結局、この「水平方向の正当性」を説明できるのは、運命共同体論しかなさそうですね。

さて、あなたのこの主張は、またしても極めてよくできた巧妙なすり替えです。私のようにあなたの論理に疑いの目を向け、反論するつもりの者は別にして、読み流した人やあなたを応援する人の大半は騙されると思います。
すり替えである理由を解説します。

>例えば、Aさんという日本人がいます。Aさんは、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>一方、定住外国人には、この国を愛し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・しかし、日本国籍を有していない以上、彼らは主権者ではありません。


この部分でフリスキーさんは「国籍の有無と運命共同体であるかどうかは必ずしも一致しない。にもかかわらず、主権者かどうかは、国籍の有無で決まる。」ということを例示しています。
ですから、ほとんどの読者は「そうか、やはり運命共同体論は成り立たない。」と思うでしょう。
しかし、それは読者が「勝手に勘違いした」ことです。なぜなら、フリスキーさんは、どこにも運命共同体論は成り立たないと書いていないからです。

このように、運命共同体論は成り立たないという「印象を与え、」あなたは次のように続けます。

>>憲法は人権保障のためにあります。違法性を有しない限り、日本国民は自由を束縛されません。表現の自由、思想の自由、職業選択の自由、移転の自由などです。これらは、義務の対価ではありません。
そしてこれらの人権を保障するための“手段”として国民主権という制度があるのです。日本国民であるということそのものに義務は伴いません。
そして、日本国民であるというだけでそこに主権者としての資格が発生します。責務の対価ではありません。国籍法に基づいて日本国籍を有した時点で、無条件に認められるものです。


ここであなたが述べたことは完璧です。反論のしようがありません。
前段の例示の部分も、「このような人もいる」と例示しているだけで何かを主張している訳ではありませんから反論は不能です。

しかし、あなたが言っていることは、本題である「A国の主権はB国民ではなく、A国民が持つ」ことは何も説明できません。
つまり、論点とは全く関係がない事を言っています。
本当に巧妙な論点すり替えです。


>国籍法に基づいて日本国籍を有した時点で、無条件に認められるものです。

だから、それがなぜなのかを問うているのです。
その問いに答えているのが運命共同体論なのです。
≪あなたの論は、この問いにただの一行も答えていないのです。≫

あなたは、人が「ごもっとも」と思うことしか書いていません。
正しい事しか書いていません。そしてそれを使って人を騙しています。
関係ない事を言いながら、まるで、相手の主張が否定され、論破されたかのような印象を創り出します。でも、それは、相手が勝手に勘違いしただけであり、あなたは、厳密に論理的に見ると正しい「別のこと」を言っただけです。嘘は言っていないのです。

あなたは怖い人ですね。

私も騙されましたし、第3者の読者もほとんど騙されたでしょう。
これは、もう、単なるすり替えというレベルを遥かに超えています。
人を騙す匠の技と言ってよいでしょう。

とめはねとめはね 2010/04/25 00:57 >フリスキーさんへ、(?)★★★★★★★

ところで、あなたが印象操作したように、例外があるからその論は成り立たない、と言うのであれば、20歳で成人と認めることも運転免許証制度も成り立たなくなります。しかし、実際は、例外はあっても20歳になったら成人と「見なす」、運転免許を持っていたらペーパードライバーでも安全に運転できると「見なす」ことによってこれらの制度が成り立っています。
国籍と運命共同体の関係も同じで、例外はあるものの、国籍を保有していれば国と運命共同体となっていると「見なす」、外国籍ならば、なっていないと「見なす」のです。だから、国籍の有無で、主権を認めるかどうかを決定していると言えます。

それから、あなたは、主権は義務の対価ではないと強調していますが、私は、主権は義務の対価であるとはいっていません。あなたはいったい誰に反論しているのでしょう。
そもそも以前に次のようなやり取りがありました。

とめ:>>さすがに私も国防の義務の対価として現在の参政権を位置付けてはいません。だから「元々参政権は、命をかけて・・・・。」と「元々」をつけたのです。

フリ:>立憲主義における参政権とは、国防の義務と連関されるようなものではありません。そもそもが、私が再三申し上げているように参政権を含む憲法上の権利と言うものは、義務の対価ではないし、義務によって根拠づけられるものではないし、義務に由来するものでもないのです。


不思議なやりとりですよね。
私は「国防の義務の対価として現在の参政権を位置付けてはいません。」と明言しているにもかかわらず、あなたは、参政権は義務の対価ではないことを強調しています。

私は当時あなたを「誠実だけど早とちりしやすい人」と思っていました。だから、このような頓珍漢な回答もすべて早とちりのせいにしていました。あなたの回答の論点がしばしばずれていることに気づいていましたが、それも早とちりのせいにしていました。だから、いちいち突っ込まなかったのです。

そして、今回の回答でもまた、あなたは、参政権は義務の対価ではないことを強調しています。まるで、私が参政権は、義務の対価であると言っているように聞こえますね。事情を知らない第3者はあなたにそう<思わされる>でしょう。

そう<思わせて>おいて、あなたは次のように続けます。

>結局はね、とめはねさんは、こうした日本国憲法が立脚している近代立憲主義自体に批判的なのです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そのように考えないと、日本国憲法をどのように解釈しようとも“運命共同体論”などは、導き出せませんから。


本当に巧妙ですよね。あまりのうまさに舌を巻きます。
たぶん、第三者の読者100人中99人までが、あなたの誘導に乗せられて「とめはねは近代立憲主義に批判的なんだ。」と<思わされる>でしょう。
しかし、あなたのこの主張についてはすでに反論済みです。
どうしても、運命共同体論を日本国憲法と相いれないものと言いたいのであれば、外国人参政権を要求する理由として「地域や国と密接に結びついている」系の理由は挙げないでくださいね。



>フリスキーさんへ、(?)★★★★★★★★

さて、いよいよとめはね独裁政権の話に入ります。
まず、この話の出発点をコピペします。

・・・・・・・・・・コピペ開始・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
フリ:>ここで、立法措置によってつまり立法府(国会)の判断によって、その可否を委ねているところに、国民主権に基づく参政権が担保されているのです。
つまり、永住外国人に地方選挙権を与えるのは、日本国民のみによって選挙され、日本国民の代表者で構成される国会において審議され制定された法律によって永住外国人に地方選挙権を与えるか否かというプロセスを踏むことによって国民主権が担保されているのです。


とめ:>あなたの主張は、「意思決定のプロセスで国民主権の原理が守られていれば、決定された内容にかかわりなく、国民主権が担保される」ということですが、それでは、国民主権が担保されているとは言えません。

なぜか。 例えば、民主主義も含めた例を考えてみます。仮に国民投票という民主主義的かつ国民主権を担保したプロセスによって全ての国民は参政権も主権も放棄し、私「とめはね」が天皇代理としてすべての権限を一身に集めたとします。公務員を選定・罷免する権利も法律を制定する権利も全て私が持つことになったとします。とめはね独裁の完成です。

さて、これでも民主主義や国民主権は担保されていると言えるでしょうか?言えませんよね。
仮に100年後も世襲制によってとめはね独裁が続いているとします。そのころ生まれた子供が、父親に「おとうさん、民主主義ってみんなの意見で決めることって習ったし、日本は民主主義の国だって習ったんだけど、どうしてとめはね天皇代理がみんな勝手に決めちゃうの?日本は本当に民主主義なの?」と聞かれたとします。この時、父親が「100年前に民主主義的なプロセスでこう決まったのだから、とめはね天皇代理が一人で全部決めることが民主主義なんだよ」と言ったらそれは詭弁以外の何物でもないでしょう。国民主権も同様です。

要するに国民主権を担保するには、その意思決定のプロセスが国民主権に則っていることはもちろん、その結果もまた国民主権の理念に照らし合わせ、それに適合している必要があります。換言すれば、民主主義的なプロセスによっても民主主義を否定することは許されないし、国民主権的なプロセスによっても国民主権を否定することは許されないということです。なぜならば、憲法が国民主権を謳っているのですから。つまり、もし、国民主権に反する決定をするのであれば、その前に憲法を改正することが必要です。

・・・・・・・・・・コピペ終了・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

話を進める前に過去のやり取りを少し確認しておきます。

とめ:>(要するに国民主権を担保するには、その意思決定のプロセスが国民主権に則っていることはもちろん、)その結果もまた国民主権の理念に照らし合わせ、それに適合している必要があります。

これ(↑)に対してあなたは03/01の投稿で次のように反論しました。

フリ:>憲法を改正する場合には最終的には国民投票にかけられます。つまり、国民主権を保障するということは、すなわち国民主権のプロセスつまり制度を保障するということに他なりません。
憲法改正について結論で述べておられますが、憲法の改正のプロセスとはすなわち、国民の意思決定のプロセスに他なりません。もう一度お聞きします。国民主権を保障するにあたって、意思決定のプロセスの保障以外の手段でどうやってこれを保障するのですか??


つまり、あなたは「国民の意思決定(国会審議)の結果を国民主権の理念に照らし合わせ、それに適合している必要がある」という事を否定しています。
それとも、「いや、『国民の意思決定(国会審議)の結果を国民主権の理念に照らし合わせ、それに適合している必要がある』ということを否定するなんてどこにも書いてないじゃないか。」と言い張りますか?いくらあなたでもそこまでは言わないと思いますが、もし、そう言うのであれば、それはそれで構いません。その場合は再反論します。

私はさらに次のように念を押していますが、あなたは認めようとしていません。

とめ:>通常は、たぶんあなたのおっしゃるとおりです。ただし、意思決定の方法自体を決めようとする時は、意思決定の結果そのものも国民主権の原理にかなっているかどうかを審議する必要があるということです。そうしなければ、意思決定のプロセスを保障できません。
外国人参政権法案は、意思決定方法ですから、外国人参政権を決めるプロセスだけなく、この法案自体が国民主権の原理に則っているかどうかを審議する必要があります。


ここで私が述べたことは誰が考えても当たり前のことでしょう。あなたもわかっているはずです。

では、あなたと私が言っていることを比較整理してみましょう。

あなたは、「国民主権を担保するには、意思決定のプロセスを保障する以外にない」といいます。そして、私は、それに加えて「意思決定のプロセスを保障するためには、意思決定の結果そのものも国民主権の原理にかなっている必要がある」ということを言っているわけです。

あなたの主張に従えば、売国議員が多数派になって、国民主権を侵害する売国法案を通そうとした時にそれを止めることができません。売国法案は「国民主権侵害法」と銘打っているわけではないのですから。あなたの言うように国会で制定されたことが国民主権を担保することになる、というのであれば、どんな国民主権侵害法も多数派であることを利用して国会さえ通せば国民主権を担保していることになってしまいます。

国会を通過すれば国民主権を担保しているということになるのですから、後で「国民主権を侵害している。違憲だ!」という批判は封殺されてしまいます。

結局あなたは「国民主権を担保するには、意思決定のプロセスを保障する以外にない」と言いながら、国民主権を侵害する抜け穴を残しておこうとしています。私はその穴を塞ごうとしているわけです。

とめはねとめはね 2010/04/25 01:01 >フリスキーさんへ、(9)★★★★★★★★★


ところで、とめはね法案には次のように書いてあります。
「主権は国民にあるのは自明である。しかし、この未曽有の危機を乗り切るために、公務員を選定す一時的に預ける。」


さて、あなたは「国民の意思決定(国会審議)の結果を国民主権の理念に照らし合わせ、それに適合している必要がある」という事を否定し、さらに次のように言っているので、これに従ってこれに沿って話を進めます。

フリ:>立法府(国会)の判断によって、その可否を委ねているところに、国民主権に基づく参政権が担保されているのです。

フリ:>法律”は、日本国民のみによって選ばれ、日本国民のみによって構成される国会で制定されます。地方選挙権を付与するのは、国会で制定される法律によるのです。
ここで国民主権が担保されているのです。


まず、国会にとめはね法案を提出します。国会議員は、その法案が国民主権に反するかどうかについては心配する必要がありません。なぜなら、あなたの言によると、立法府(国会)の判断によって、可決されればそれで国民主権が担保されるのですから。従って、可決された法案が国民主権に反することは、理論上あり得ません。私が、議員を買収しまくれば可決できるでしょうから、それでとめはね法案でも国民主権は担保されます。
そして国民投票にかけます。それで過半数を得られれば、めでたくとめはね独裁政権の完成です。
日本国民のみによって選ばれ、日本国民のみによって構成される国会で制定された法案なので、あなたの言う通り国民主権が担保されているはずです。

あなたの主張に従って話を進めればこのように国民主権を保障するプロセスで実際には国民主権に反する法案を国民主権は担保されているとして通すことができます。

しかし、あなたは、「現憲法下では国民主権に反する法案を通すことはできない。あり得ない話だ、バカバカしい。」と言いますよね。では、とめはね法案が国民主権に反するかどうかは、どのようにしてわかるのでしょうか?
それは、とめはね法案という「意思決定方法を国民主権の理念に照らし合わせ、それに適合しているかどうかを審議する」ことによって初めてわかります。これは、私が主張し続けてきたことそのものです。

反論があるなら、すり替えではなく、この私の主張の「どこがどのように」おかしいのかを指摘して下さい。


さて、とめはね独裁法案に対するあなたの反論を整理しておきます。
まず、あなたが次のように言いました。

>立法措置によってつまり立法府(国会)の判断によって、その可否を委ねているところに、国民主権に基づく参政権が担保されているのです。(「主張A」)

それを私が次のように解釈しました。

>「意思決定のプロセスで国民主権の原理が守られていれば、決定された内容にかかわりなく、国民主権が担保される」(「解釈A΄」)


そして、私の主張は、「意思決定の方法自体を決めようとする時は、意思決定のプロセスだけでなく、意思決定の結果そのものも国民主権の原理にかなっているかどうかを審議する必要がある。(これを「主張B」とします。)」です。

そして、私は「解釈A΄」に基づいてとめはね独裁の例を挙げました。

私の論の基本構造は、
≪「主張B」が正しい。「主張A」は間違っている。なぜなら、「主張A」→「解釈A΄」であり、もし、そうであるならば、例えば、とめはね独裁政権ができてしまう。従って、「主張A」は間違いである。≫
となっています。それに対するあなたの反論は、2つあります。
1つ目は『「解釈A΄」が間違っている』というものです。しかし、どこが違っているのかという私の投げかけた2回の問いに対して、2回ともすり替えただけで答えていません。ですから、答えられないと見なし、「解釈A΄」は正しいと見なします。

2つ目の反論は、≪現憲法下ではとめはね独裁政権を作ることはできない。従って、とめはね説は、成り立たない。≫というものです。

もっと簡潔に表現してみましょう。
私の主張:≪「主張B」が正しい。もし「主張A」ならば、とめはね独裁政権ができてしまう。≫
あなたの主張:≪現憲法下ではとめはね独裁政権を作ることはできない。≫

さて、一見あなたは、私の「主張B」に反論しているように見えますが、良く見ると実はあなたの「主張A」を正しいと言っているだけだということがわかります。「主張B」は否定されておらず、ただ、否定されたかのような印象を創り出しているだけです。

また、私の主張は“もし「主張A」ならば”という前提(仮定)の話なのに、あなたは、“現憲法下では”と前提条件をすり替えています。「もし、ここが宇宙空間だったら、真空である」と誰かが言った時に「ここは地表なのに、宇宙だったらというあり得ない仮定すること自体がおかしい」と反論するようなものです。反論になっていません。
このようにあなたの反論は、論点ずらしのオンパレードです。

そうしておいて、あなたは私の論を

>あなたの文章をもう一度読み返してください。問題提起と結論が、自家撞着を起こしてしまっています。論理がループしてしまっています。これは初歩的な思考ミスです

と批判します。 


>フリスキーさんへ、(10)★★★★★★★★★★

ここまで書いて、「もしや?」と思い、過去にあなたが、運命共同体論への反論した部分を読み返してみました。
あなたは3月1日の投稿で初めて運命共同体論に集中的に反論しています。その日から今日まで、驚くべきことにというか やっぱりというかわかりませんが、次のことがわかりました。

≪あなたは、運命共同体論をただの一度も正面から否定していない。≫

これには愕然としましたよ。
あなたは、私の運命共同体論の枝葉の一部を取り上げて、それを否定することはしています。また、すり替えで運命共同体論を否定しているかのような印象を創り出してはいます。
例えば、次のやりとりのように。

とめ>>ですから、日本国籍を取得せずに、つまり、日本の未来に責任を持たずに主権の根幹である参政権を要求するというのは、責任を取らずに権利だけ要求するということであり、率直に申し上げて、やはり、身勝手ということになるのではないでしょうか。

フリ>責任とはなんですか?そもそも、私が先の投稿でご説明したように、憲法とは、『国家権力の濫用を抑制して、国民の権利を保障するための最高法規』です。憲法は人権保障を国家に約束させるための規定であって、憲法で保障された権利は義務の対価ではないのです。


ここでは、「責任」を「義務」にすり替えて「憲法で保障された権利は義務の対価ではない」と否定しています。だれも「義務の対価」などと言っていないのに。

このようにしてあなたは、運命共同体論を否定したかのような印象を与えてはいます。しかし、運命共同体論そのものは否定していません。否定されたよう思うのは、ただ、相手が勝手に勘違いしているだけです(笑)。私も、今の今まですっかりあなたは運命共同体論を否定しているものとばかり思っていましたよ(笑)

馬鹿みたいですね(笑)
あなたは私のことを「馬鹿だな」と思っていたでしょう(笑)

つまり、私はあなたに運命共同体論に関してあなたに反論などする必要はなかったということです。あなたは否定していないのだから。私が最初にするべきだったことは、あなたに次のことを確認する事でした。

■「あなたは運命共同体論を間違っていると思いますか?」

遅まきながら、今、確認します。もし、議論を続ける意思がおありならば、この質問にきっちりと答えてください。

このように1つ1つ不明確な事を確認されると、あなたのまやかしは通用しなくなりますね。私が、3/27にQ1〜Q4で不明点を確認したら、とたんにその次のレスで次のように言ってきた時、実は「やっぱりねw」と思いました。

>率直に申し上げて、私は、とめはねさんの憲法論、人権論をこれ以上拝聴することに意義を見出せません。

あなたは、危機察知能力も発達しているようです。

では、運命共同体論へのあなたの反論について整理してみます。

(1) A国の主権はB国民でなくA国民にあることの根拠(水平方向の正当性)が論点であるのに、議論当初から論点をA国の主権がA国君主ではなくA国民にある根拠(垂直方向の正当性)にすり替え続けている。
(2) とめはねが、参政権を義務の対価と考えていないと明言しているにも関わらず、参政権は義務の対価ではないことを繰り返し強調し続け、とめはねを無知・勉強不足と批判している。
(3) 論点をすり替えることによって、運命共同体論を否定しているような印象操作を繰り返しているが、一度も運命共同体論を正面から否定していない。
(4) A国の主権はB国民でなくA国民にあることの根拠を求められると詭弁を用いて質問に答えなかった。そして、結局何一つその根拠を提示できなかった。


一度も運命共同体論を正面から否定していないということは、あなたは、運命共同体論は正しいということがわかっていたのではないですか?だから、水平方向の正当性の根拠を求められた時に因果関係を逆転させる詭弁を用いたのではないですか?

あなたは「A国の主権はB国でも全人類でもない理由」を求められた時に自分でもいろいろ考えたはずです。でも結局運命共同体論に代わるものは1つも示せませんでした。少なくともその時にあなたは、運命共同体論は否定できないと認識したはずです。だって、他の論では説明できないのですから。

でも、あなたはそれでも、運命共同体論を否定しようとしました。そのことと、最初から一度も正面から運命共同体論を否定していないことを考えると、やはり最初からわかっていた可能性が非常に高いということです。

あなたは論点をすり替え続け、議論が平行線のような状態にしておいて、次のように言います。

>率直に申し上げて、私としては、とめはねさんとのこれ以上の議論は不毛の一言です。
もう上辺でループにループを重ね続けるだけです。既に議論の体をなさなくなっています。


あなたは本当に怖い人ですね。


>フリスキーさんへ、(11)★★★★★★★★★★★

ようやく最後です。

あなたの詭弁と論点すり替えと印象操作のスキルは、際立っています。
今まで私がネット上で見た中でも白眉と言ってよいほど他の追随を許しません。
正直言って、一種の感動を覚えましたよ。
これは、絶対に一朝一夕には到達できない境地です。

私はあなたを誠実な人だと思っていたのです。でも、全く違いました。
はっきりと言わせていただきますが、あなたのマヤカシには、
ためらいとか良心の痛みのようなものを全く感じません。
躊躇なく相手をだましにかかっている、という感じです。
あまりにも自然なので完全に騙されていましたよ(笑)。

それから、あなたが他のところでどういう発言をしているのかを調べてみました。
ちょっと都合の悪いところでかわいい程度のすり替えを多少使ってはいますが、基本的に堂々と反論可能なところは、すり替えなど使わずに、きっちりと正面から反論していますね。とても論理的思考能力は高いと思います。
そのことを考えれば、私との議論に於いて、人権の話題になって以降、特に運命共同体論の話になってからのすり替えの多さは、やはり、異常です。


それから、次のような発言もしているのですね。
「感情論」と「幼児性」というところを除き、「差別者」を「詭弁者」とすれば、
ほとんどあなたにあてはまるのではありませんか?

在特会の主張を検証する 6 【通名編】
http://d.hatena.ne.jp/dondoko9876/20100110/1263124178

フリスキー
>肝心なことに一切答えられず、感情論と印象操作で
他人を攻撃することで自身を正当化する幼児性を
余すことなく発揮してくれた返答だと思います。
踏み絵論法、ゴロツキ論法の典型でしたね。
xtcさんは言わばネット上のチンピラ差別主義者
の典型だと思うんですけどね。
・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・
それと、予想しておきますと、
このxtcという人はご自分の投稿をもって
このコメント欄を締めくくらないと気がすまない人でしょうね。
自分への反論にはすべて どんなに論点をごまかした、
筋の通らない文面であっても強圧的な論調を相手に返しつづけて、
ご自身の主張をごり押しし続けるタイプの人でしょうね。
そうすれば相手が萎縮するとでも思っているんでしょう。


それから、最後に余談ですが、園部元判事が次のように言っています。

「外国人参政権判決は金科玉条ではない」園部元判事の証言要旨
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100219/plc1002190026002-n1.htm
>韓国や朝鮮から強制連行してきた人たちの恨み辛みが非常にきつい時代ではあった。なだめる意味があった。日本の最高裁は韓国のことを全く考えていないのか、といわれても困る。そこは政治的配慮があった。
>最高裁大法廷で判決を見直すこともできる。それは時代が変わってきているからだ。判決が金科玉条で一切動かせないとは私たちは考えてない。その時その時の最高裁が、日本国民の風潮を十分考えて、見直すことはできる。


あの判決は、強制連行説を考慮した結果なのですね。やはり、判決は見直すべきでしょう。

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