甲野善紀-吉峯康雄論争から
切際先生の質問に至るまでの覚書


一刀流は崩壊しているか!?
「越境する知」における甲野善紀師範の問題発言を斬る!」  吉峯康雄
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 えてして物を書く立場の者には筆禍はつきものであり、後から考えれば書くべきではなかったと思うようなことでも、つい筆が滑って書いてしまうことが多々あるものです。これは私自身も決して例外ではありません。また、マンガや小説、映画のような虚構の世界でも、表現の範囲は年々窮屈になる一方であり、優れた作品にもかかわらず、上映やオンエア、ビデオ化が困難な映画やテレビドラマも少なくありません。「マンガ史とは、差別との戦いとの戦いの歴史だった」とさえ言われていますが、極論としてはそうかも知れません。

 私の携わっている武道マスコミでは、何事によらず批判的と目される文章を書くことを良しとしない体質があります。私自身は全てのマスコミは言論機関であると見ていますから、批判を必ずしも悪しきものだとは思っていません。しかし、それはその批判が正当な場合に限られます。批判そのものが的外れであったり、明らかに無知であったりする場合は、その批判自体も批判の対象となるのは当然のことです。

 最近、東京大学出版会より発行された「越境する知[1] 身体:よみがえる」の中で「身体の武術的転換のために」と題して甲野善紀師範が新陰流の前田英樹師範と対談を行っていますが、その中で一刀流に関して次のような非常に無知な意見があり、一刀流に対して著しいマイナスイメージを植え付けると思われます。



甲野 たとえば一刀流なんて、江戸初期で崩壊していると思いますよ。一刀流は完全に新陰流を仮想的として考えて、新陰流の一重身に対して向身でいくということから何かを得たと思うんですけど、それがあまりに難しくて、ほとんど重要なところは失伝したのではないかと思うんです。(原文のまま)



 もちろん、これが大変な間違いであることは言うまでもありません。無知蒙昧な意見だと一笑に付せばそれでいいのかもしれませんが、問題はこれが名のある人の意見であり、しかも活字となって本に収められている事の社会的な影響なのです。このような当て推量による誤謬によって不当に一刀流を貶め、それによって新陰流や前田師範に媚を売ろうとする甲野師範の姿勢に対しては、やはり何らかの形で批判や糾弾が行われてしかるべきと確信しておりますが、賛同者がいなければ孤独にでも実行する所存でおります。先ずは甲野師範に次のような質問状を送りました。



甲野善紀師範への質問状(原文のまま)

 前略、ご無沙汰いたしております。卒爾にて恐縮ながら、甲野様の「越境する知」における対談記事を読んで思うところあり、一筆啓上仕った次第です。

 甲野様は文中にて「一刀流は江戸時代初期において崩壊している」との所論を明らかにされていますが、これは一体どのような資料に基づく説なのでしょうか。そしてその理由と思しき部分では「一刀流の向身の身勢は新陰流の一重身の身勢に対抗して出来た」と唱えられていますが、果たして本当にそうでしょうか?

 少なくとも現在伝えられている一刀流の技術をすべて見る限り、新陰流における一重身の身勢や45度の太刀筋に対抗するような技は一つもありません。そして一刀流における向身の身勢は、実はその母胎となった中条流に既に存在していたものなのです。これは現在も群馬県で行われている馬庭念流の技術を見れば一目瞭然です。念流の型と、一刀流の原初となった五点(および払捨刀)を見比べれば、いかにして一刀流の術理が醸成されていったかがよくおわかりのことと存じます。

 また一刀流の体系が最終的に出来上がったのは、小野次郎右衛門忠明より2代下る忠於の代になってからですが、忠於は正徳2年(1712)に73歳で没したということですから、単純に計算すれば寛永から元禄を経て正徳にかけて、つまり江戸時代の中期に一刀流は実質的に出来上がった(つまり、教伝システムが完成した)ことになります。つまり、甲野様が言われる江戸初期には、まだ一刀流は流派として完全に確立していなかったことになります。また江戸中期以降も小野派一刀流のみならず、そこから派生した一刀流中西派、北辰一刀流、一刀正伝無刀流等でも多くの使い手を生み出してきたことを考えれば、江戸初期で崩壊したとは考えにくいのではないでしょうか。

 これらの事をもってしても甲野様の御説は当て推量による誤謬としか思い当たらないのですが、この点いかがでしょうか。そして重要なことは、たとえ対談の中ではずみで出てしまったにしても、このような言辞が活字化されることは一刀流を学んでいる者にとっては看過出来ないことなのです。活字の影響力は計り知れないものであり、これによって無用のマイナス・イメージが出来上がることは誰でも想像出来るでしょう。これは甲野様のような名のある方の発言ならば、尚更といえましょう。

 もちろん私は過渡期の誤りは誰にでもあると思っています。それは何かの機会に訂正すればいいことです。しかし、そこから目を背けてしまえば、社会的な信用も失うことになります。少なくとも甲野様は、自身の誤謬を認めることの出来るだけの良心を持ち合わせておられると思うからこそ、敢えてこのような手紙を差し上げた次第です。もしも実体的に一刀流が崩壊していない証拠をお望みでしたら、私はいつでも我と我が身を以てそれを証明するだけの用意はあります。

 ともあれ、甲野様の誠意ある態度を期待致します。

 乱文にて失礼仕ります。

                        吉峯康雄拝





 ざっとこのようなことを書いて、甲野師範宛てに送付したのですが、現在のところ返事はありません。「そんなことで目くじらを立てるのか」と言う人もいるかもしれませんが、問題は甲野師範が武道マスコミの世界で、それなりの人気を得ている人物であることです。甲野師範の技術に憧れを抱く人も多いことでしょう。そして世間一般には古武道に対する認識は深いとはとても言えないのが現状なのです。そんな現状にあって、このような無知な意見が活字になれば、「あの有名な甲野先生が言うのだから、本当だろう」ということになってしまいます。そういう意味では危険であり、また犯罪的であると言えます。

 もちろん、このような抗議を行うことは、ある意味では危険な試みかもしれません。金持ち喧嘩せずの例え通り、世間には見て見ぬ振りをすることで成り立っている平和もあるのは事実でしょう。それをかき乱して何が面白いのか、という声も聞こえてきそうです。しかし私は何も好き好んで、その平和とやらを乱すわけではありません。言うべきでないこと、明らかに間違っていることが活字になって、それに対して何も言わないことが、果たして礼儀に叶っているのでしょうか。言論とは、たとえそれが微力であろうとも、一つの立場の表明、一つの意思表示、一つの問題提起としての意義も持っているのです。



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徹底考証!「一刀流は崩壊しているか!!」吉峯康雄


 さて、甲野氏と私との対決は、おおむね前回の通りですが、ここで誤解のないよう、一刀流がどのようにして成立したのか、もう一度まとめることにしましょう。これは以前私が秘伝に書いた、一刀流の特集記事を読んで頂くのが手っ取り早いのですが、何しろこれは現在ではBABにはバックナンバーがごくわずかしか残っていないらしく、入手困難な一冊になってしまっているので、ここで改めて書くことにします。

 先ず基本的なことですが、一刀流は鐘捲自斎より中条流を学んだ伊藤弥五郎(後に号を一刀斎)によって創始された流派ですが、以前も書いたように、一刀斎の時代には師の自斎より学んだ五点と、自ら制定した払捨刀(1)があるのみでしたが、ここで重要なのが五点の内容です。五点(正式名称は高上極意五点。なお系統によっては、五天、五典、五行の太刀などとも言う)は妙剣、絶妙剣、真剣、金翅鳥王剣、独妙剣の5本ですが(金翅鳥王とは法華経に登場するガルーダのこと)、この五本の中に、一刀流の根本原理が含まれており、それぞれ5種類の原理によってまとめられていますが、これらは元来が中条流の奥伝の型だっただけあって、いわば術理を高密度に圧縮した構成になっており、そのままではかなり難解かつ習得困難な技術になっています。そこでここから技術を分解し、初学における基礎作りと、基本的術理の習得を眼目とした組太刀を制定していったわけです。それが大太刀五十本であり、更にこれを基にして小太刀九本、合小太刀八本、三重三本、刃引、他流勝之太刀、詰座抜刀(2)が出来上がったのです。これらは一刀斎の伝を受けた小野次郎右衛門忠明によって制定されたものであり、これによって一刀流の基本構造が出来上がったわけですが、更にそこから三代下った忠於の代になって、一刀流の教伝体系は完成されます。

 このことをやや詳しくに述べますと、先ず忠明の息子の忠常によって、一刀流の中核である大太刀五十本に二つの切り落とし、寄身、越身の四本が追加され、五点の用法を創意工夫した新真之五点(後ろに斬り抜けるのが特徴)が制定されています。そしてその子の忠於によって、更に大太刀に合刃三本、張合刃三本が追加されており、また十二点巻返(五点を解釈したもの。別名をハキリ合)九個之太刀(払捨刀から編み出されたもの)もこの時期に制定されています。それがどうして一刀流の教伝体系の完成なのかと言いますと、まず合刃と張合刃が加わったことによって、大太刀の型が体系的に完結したことがあげられます。というのも、最初に学ぶ大太刀五十本では一刀流の基本であり核心である切り落としの技術の養成が眼目ですが、これは先ず一本目の「一つ勝」によって、先ずは大きい動作で正確に機を捉えて切り落とすことを学びます。それから型が進むに連れて、様々な形態での切り落としを学ぶことになります。ある時には直線的に、ある時は空間で切り落とし、またある時は角度を変えて打ち落としたり、あるいは逆の動きで下から摺上げたりと、様々な方法を学んでゆくのですが、大太刀五十本は実は五本ずつ十組になっていて、一組ずつ学んでゆくのですが、これらはそれぞれ、様々な切り落としの方法がテーマになって編成されています。そしてこれらに共通するのが、相手の中心を制することによる中央突破であり、全てはそれによって成り立っていることがわかってきます。そして合刃、張合刃は切り落としを螺旋状の動きで行うのが特徴で、ほとんど振りかぶる動作がなく、構えた状態から小さく鋭く切り落とすこと、そしてそれぞれ打太刀の構えとモーションの大小、そして間合いの遠近によって使い分けるのであり、ここに到って組太刀における真・行・草三様を具体的な形で学ぶことになります。

また十二点巻返、九個之太刀も技は比較的小さく、細密な技術を多用するのですが、これらはどちらかと言えば、それまでの組太刀の稽古によって体得してきた間積り、位取り、刃筋などを土台として、更に実用に向けて技を研ぎ澄ます方法論として制定されたと考えられます。全ての武道に体と用の二つの要素があると仮定すれば、さしずめ十二点巻返と九個之太刀は、一刀流における用の部分と言うことが出来ます。つまりこれによって、一刀流は基礎の養成から、それを小さく鋭くまとめてゆく教伝段階が出来上がったことになるのです。

 さて、江戸中期に到って一刀流中西派が登場し、宝暦13年には中西忠蔵子武によって四つ割りの竹刀や袍(面や胴などの防具)が発明され、これより試合稽古が盛んに行われるようになったことは御存知の通りです。しかしそれによって一刀流の技術が風化してしまったのかと言えば、決してそうではないのです。なぜなら竹刀による試合稽古の位置が、現代の剣道とは根本的に異なっているからです。というのも、そもそも四つ割りの竹刀の原型になったのは、初期の一刀流で使われていた十六割の袋撓であり、組太刀の補助として使われていた稽古方法が発達したものなのです。従って中西派に於いても稽古の中心はあくまでも木刀や刃引きを使った組太刀であり、このことは中西忠蔵子武が山鹿八郎左衛門に宛てた手紙にも明記されています。

 また、後年になって千葉周作が中西忠蔵より2代下がる中西忠兵衛子正に師事し、北辰一刀流を創始したことは知られていますが、その組太刀の手順を記した「北辰一刀流組遣様口伝書」には、表組(大太刀五十本とほとんど同じ)、切り落とし(二つの切り落とし、寄身、越身に相当する)、合刃、張(張合刃に相当する。ちなみに中西派では破裏と言っていた)、小太刀、相小太刀、刃引き、払捨刀などの組太刀の手順が列記されています。それを読むと、千葉周作が師より学んだ方法と、それをどのように改変したかが事細かに記されており、千葉周作が学んだ技術が、現在行われている一刀流とほとんど変わらないことがわかります。北辰一刀流では元来の一刀流の技術の中から、習得困難な部分を思い切って簡略化しているところに特徴があります。たとえば即位付、下段付といった技術ですが、これらは理合いがむずかしい上に習得が困難なことは確かです。その代わりに追加されたのが鍔迫り合いであり、組太刀における即位付の部分は、この時に鍔迫り合いに代替になっています。今日の剣道に於ける鍔迫り合いの技術は、ここで初めて生まれたと言っても、基本的に間違いではないでしょう。そして竹刀に於ける試合稽古の方法論として、組太刀の技術を分解して単体とした、竹刀剣術六十八手を考案しています。これは現在も北辰一刀流で行われていますが、それを見れば、剣道に於ける試合の技術の大半は、実はこの時に醸成されたことがわかります。

 また、これより後に山岡鉄舟によって創始された一刀正伝無刀流では、組太刀における所作が小さくまとまっており、おそらくは禅の影響と、山岡鉄舟自身の剣腕が非凡なレベルに達していたことが反映されているように思えます。稽古では位攻めを得意とし、鉄舟が正眼に構えたまま前進してゆくと、相手は何も出来ずに壁際まで追い詰められてしまうのが常であったということです。技術的には北辰一刀流が下敷きになっていることは、組太刀の内容から察することが出来ます(3)。

 以上のことから、竹刀稽古が行われるようになってから刃引きや木刀は使われなくなったのかといえば、そんなことはなく、また、創流初期の一刀流があまりに高度であったため、その後、受け継げなくなったので、防具付で打ち合うようになったというわけでは決してないことがこれでおわかりのことと存じます。現在でも五点や刃引十一本、立合抜刀等は刃引きを使っていますし、現在の北辰一刀流でも木刀による組太刀を充分に積んだ後に竹刀稽古を行うことになっています。試合稽古の方法論が生まれるのが自然の勢いであることは、別な所でも詳しく述べたので、ここでは重複を避けますが、剣道の高段者でも一刀流を修行している人は多く、それによって多くのことを得たと、皆さん異口同音に語っています。それも含めて、一刀流の優れた点は、創生期から現代に到るまでの時代のニーズに応えられるだけの内容を持っているところにあるのであって、だからこそ、今日に到っても学ぼうとする人が絶えないのではないでしょうか。

〈註〉

(1)払捨刀は一刀斎の実戦経験を基に作られたのですが、これは本来は多敵の位を主眼としたものであり、組太刀では打太刀は一人ですが、本来は4対1を想定した動きになっています。他の組太刀がほとんどの場合に縦一直線に動くのに対して、払捨刀が目まぐるしく動く理由がそこにあります。

(2)小太刀、詰座抜刀、刃引、他流勝之太刀は小野次郎右衛門忠明の実弟である小野忠也の伝えた一刀流忠也派にも伝えられていることから、忠明の代には存在したと考えて、ほぼ間違いないでしょう。但し、現在行われている一刀流の刃引と他流勝之太刀はそれぞれ十一本であるのに対して、忠也派ではそれぞれ五本になっていることから、おそらくはそれが忠明の時代の本数であり、残り六本は後代になって追加されたと思われます。

(3)これに関してなぜかと言いますと、組太刀の中で北辰一刀流が改変した部分をそのまま受け継いでいるからです。たとえば即位付を鍔迫り合いに改めた部分や、組太刀の二本目で中段突きを乗り突きで返す部分が上段突きに変わっています。また古伝の一刀流では正眼は柄頭を鳩尾の高さ、切っ先を目の高さにして、懐深く構えるのですが、北辰一刀流では柄頭を丹田の高さ、切っ先を咽喉の高さに構えよと教えており、現代の剣道の正眼も、ここから生まれたと思われます。無刀流でもこれを使っており、自分の眼と丹田、切っ先を結ぶ三角形を三角矩(みすみのかね)と呼んで重要な教伝としています。しかしこの正眼が北辰一刀流に於いて考案されたというよりは、当時の一刀流の中で醸成されていたと考えるべきかもしれません。と言うのも、後に武田惣角の創始した大東流に於いて、無刀流に於ける三角矩の教伝に相当する部分が合気の核心であり、これを惣角が一刀流から学んだと仮定するならば、当時の一刀流の中には、そのような教伝があったと見ることも出来るからです。



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■ 吉峯先生へ:「徹底考証! 一刀流は崩壊しているか!!」について(その1)
Date :2002/02/28(Thu) 14:14  切際
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はじめまして。切際と申します。
一刀正傳無刀流、直心影流(法定のみ:加藤完治伝)、[通称]小野派一刀流(笹森順造->松元貞清伝)、一心流薙刀(旧制一高撃剣部伝)、寶蔵院流高田派槍術(旧制一高撃剣部伝)を修行中です。
武藝之網羅集(http://www.hoops.ne.jp/~izayohi/bugei.html)にてこの論文を知りました。史料にあたっているのに時間をとられ、すでに亀レスですが、御容赦ください。
本論文は一刀流に関しまして口伝にあたる部分もありご研究の苦労が伺えますが、吉峯先生の推測ならびに他資料との比較検討が行われないまま「一刀流極意」からの引用が多いように思われました。
単なる勘違い(例えば伊藤弥五郎->前原弥五郎)は除き、おかしいと思われるところにレスを付けました。下に示した文献にもあたっていただき、間違いがあればご指摘ください。また、先生がご存知の文献・資史料等がございましたら教えていただければ有り難いです。
なお、私の意図は、多くの一般の方に一刀流の本来の姿を知っていただきたい、一刀流に関する誤解を解いていただきたいということで吉峯先生への批判ではありません。文章では微妙なニュアンスの表現が難しく、非礼に感じられる所がございましても何卒ご寛恕願います。
また、甲野善紀先生には一面識もなく全く関係がないことを付記しておきます。

<用語ならびに参考文献>
本傳:小野家で行われていたと思われる組太刀の所作(遣い方)
   ・忠於先生の時代と思われる津輕公の「剣術組遣形覚書・一刀流剣術組」「(仮名)割目録口伝手控」(両者公開不得許可)
   ・忠方先生の一子相伝の秘書 地之巻 (一刀正傳無刀流開祖山岡鐡舟先生遺存剣法書 乾の巻:村上康正:自刊:国会図書館)
   ・一刀流兵法組数目録(「剣道日本」創刊号および1985年3月号:スキージャーナル社)
   #残念ながら山岡先生が中西家の組太刀が伝書と違うと言われたその伝書は見たことがありません。

笹森傳:笹森順造先生が書かれた組太刀の所作(遣い方)
   ・「一刀流極意」:体育とスポーツ出版社、「剣道」:旺文社

小館傳:小館俊雄先生が書かれた組太刀の所作(遣い方)
   ・「日本古來武道藝術集」:自刊

津軽傳:笹森傳および小館傳より推測される津軽藩で行われていた組太刀の所作(遣い方)を仮にこう呼ぶ。
   ・組太刀写真(「剣道時代」1986年11月号:体育とスポーツ出版社)

無刀流組太刀
   ・剣道教範:柳多元治郎:宝文社(近代剣道名著体系第二巻収容)
   ・史談無刀流:浅野サタ子:宝文館
   ・剣法無刀流:塚本常雄:自刊:国会図書館
   ・「剣道日本」1976年8月号、1977年3月号、1978年8月号、1982年2月号:スキージャーナル社
   ・「秘伝」1999年10月号:BABジャパン

中西派&北辰一刀流
   ・一刀正傳無刀流開祖山岡鐡舟先生遺存剣法書 坤の巻:村上康正:自刊:国会図書館
   ・北辰一刀流組遣様口傳書:櫻田櫻麿
   ・千葉周作遺稿:千葉栄一郎編:体育とスポーツ出版社
   ・一刀流関係史料:筑波大学武道文化研究会
   ・兵法一刀流:高野弘正:講談社
   ・「剣道日本」1982年8月号:スキージャーナル社
   ・「剣道時代」1986年2月号:体育とスポーツ出版社

小野家伝書&山岡先生著述
   ・一刀正傳無刀流開祖山岡鐡舟先生遺存剣法書 乾の巻:村上康正:自刊:国会図書館

忠也派、溝口派&甲源一刀流
   ・一刀正傳無刀流開祖山岡鐡舟先生遺存剣法書 坤の巻:村上康正:自刊:国会図書館
   ・一刀流関係史料:筑波大学武道文化研究会
   ・甲源一刀流:酒井塩太:自刊:国会図書館
   ・一刀流兵法目録 :鵜殿長快‖〔著〕光田福一‖編著 :国会図書館
   ・「剣道日本」1995年5月号:スキージャーナル社
   ・「秘伝古流武術」1993年春季号:BABジャパン


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■ 吉峯先生へ:「徹底考証! 一刀流は崩壊しているか!!」について(その2)
Date :2002/02/28(Thu) 14:13  切際
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>先ず基本的なことですが、一刀流は鐘捲自斎より中条流を学んだ伊藤弥五郎(後に号を一刀斎)によって創始された流派ですが、以前も書いたように、一刀斎の時代には師の自斎より学んだ五点と、自ら制定した払捨刀(1)があるのみでしたが、ここで重要なのが五点の内容です。五点(正式名称は高上極意五点。なお系統によっては、五天、五典、五行の太刀などとも言う)は妙剣、絶妙剣、真

小野家伝書では単に「五點」です(眞行草の区別は有)。高上極意五点という記述は全くでてきません。
高上極意は、正しくは向上極意で、強いて上げればは五點のうちの眞劍の一つの遣い方。(津輕公手控、小野家伝書より)
小館傳では極意向上とあり津輕傳での独特の言い回しと思われます。

>剣、金翅鳥王剣、独妙剣の5本ですが(金翅鳥王とは法華経に登場するガルーダのこと)、この五本の中に、一刀流の根本原理が含まれており、それぞれ5種類の原理によってまとめられていますが、これらは元来が中条流の奥伝の型だっただけあって、いわば術理を高密度に圧縮した構成になっており、そのままではかなり難解かつ習得困難な技術になっています。そこでここから技術を分解し、初学における基礎作りと、基本的術理の習得を眼目とした組太刀を制定していったわけです。それが大太刀五十本であり、更にこれを基にして小太刀九本、合小太刀八本、三重三本、刃引、他流勝之太刀、詰座抜刀(2)が出来上がったのです。これらは一刀斎の伝を受けた小野次郎右衛門忠明によって制定されたものであり、これによって一刀流の基本構造が出来上がったわけですが、更にそこから三

忠明の代には大太刀二十五本との傳えあり(小野家伝書)。三重(古くは三從)は一本。笹森傳もそのはずです。
五點は大太刀と別にあるのではありません。組太刀であり既に組み込まれているのです。「一刀流極意」では指摘がありませんが、高野佐三郎先生はご存知だったようですね(本目録聞書の記述より推測)。つまり折身の組が五點です(小野家伝書より)
他流勝之太刀、詰座抜刀は本傳には無いです。私自身、笹森傳での十二點巻返以降の太刀は遣っていて違和感が有ります。小館傳にもなく津輕公の覚書にも無。忠也派には他流極意勝とあり、一部名称が笹森傳と一致します。また元々一刀流には抜刀・居合はないはず(忠也派の伝書に記述有。忠也派にて後世に追加とのこと)。一刀流本目録では詰座刀抜とあります。抜刀ではありません。

>代下った忠於の代になって、一刀流の教伝体系は完成されます。
>
>このことをやや詳しくに述べますと、先ず忠明の息子の忠常によって、一刀流の中核である大太刀五十本に二つの切り落とし、寄身、越身の四本が追加され、五点の用法を創意工夫した新真之五点(後ろに斬り抜けるのが特徴)が制定されています。そしてその子


一刀流で四本追加というのは無いです。切り落しの組として五本追加。(津輕公覚書)
新眞之五點は津輕公手控には「新の字は忠常の撰」となっており、「これほしゃとう也」とありますが、小野家伝書では「割目録は一刀斎のときの假名字目録」とあります。新真之五点の眞劍は地生の四番目(巻カスミの最初)とあり、忠常が創意工夫したかは疑問です。

>の忠於によって、更に大太刀に合刃三本、張合刃三本が追加されており、また十二点巻返(五点を解釈したもの。別名をハキリ合)九個之太刀(払捨刀から編み出されたもの)もこの時期に制定されています。それがどうして一刀流の教伝体系の完成なのかと言います

合刃は先の切り落しの五本目を三回行うようにしたもので、言わば忠常、忠於の合作、張合刃(正しくは張)は忠於の作。それで合刃の前、張の前に礼を行います。
十二點巻返とは言いません。ましてハキリ合は忠也派の組名称です。小野家伝書では第一、第二は表のマキカエシのことだと書いてありそれが訛ったのでしょうか。九個之太刀(笹森傳ではクカノタチですよね)は九ツノ太刀と小野家伝書にありますが、十二點と共に笹森傳とは遣い方が異なります。また、忠常が小野助四郎宛に出した目録にすでに十二點、九ツノ太刀ともあり、忠於の時期に制定されたわけではありません。

>と、まず合刃と張合刃が加わったことによって、大太刀の型が体系的に完結したことがあげられます。というのも、最初に学ぶ大太刀五十本では一刀流の基本であり核心である切り落としの技術の養成が眼目ですが、これは先ず一本目の「一つ勝」によって、先ずは大きい動作で正確に機を捉えて切り落とすことを学びます。それから型が進むに連れて、様々な形態での切り落としを学ぶことになりま

「一つ勝」の一本目についてです。向身について吉峯先生も馬庭念流との比較を述べられていましたが、この馬庭念流の表の一本目(上略)は頭上に振りかぶらず(体中剣)で切り割ります(見学しただけですが)。この遣い方が一刀流の源流とすれば笹森傳の切り落しはかなり相違してきていると思います。私見ですが、本来堅固なせいがんを大きく崩して振りかぶり、相手の太刀筋の変化にも対応が難しい技法で対応し、しかも振りかぶっていながらも敵を切るのではなく最後は突く形になるのは真剣での勝負を考えたときにどう考えても不自然です。
本傳では切り落しに関して刀法の詳しい説明はなく解明はできませんが、一部に「遣方せいかんに出 打懸るとき不動して下段にさけ云々」(乗身)とか「打太刀陰ヨリ打 遣方清眼ニテ下ケ左ノ手ヲ切云々」(二ツ勝)とあったり、小野家伝書に車輪前転とは打太刀の動作として説明(「一刀流極意」では遣方の動作となっている)されていることから少なくとも振りかぶらず最後は下段に取る技法と思われます。ちなみに中西派や北辰一刀流の五行の形の切り落し突きは振りかぶりませんね。
「一ツカチノ事。セイガンニテ切ヲトシヲツカイ候モ、我ガ面ノヒタイニアツル心ナリ。然者、ヲノヅカラ我ガ面ヲカコウモノナリ。勿論、打太刀ノ面ニハ印置、聞キカケノ通リナリ。尤、ヨロシキ所迄行、打太刀打不出時ハ、ヂキニセイガンニテ勝ナリ。ヨロシキ所マデ行候ハ、早ク左ノカタニ心ヲ可付カンヤウナリ。口傳有。尤セイガン斗ニカギラズ。一サイノワザ皆左ノカタナリ。」(小野家伝書より引用)


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■ 吉峯先生へ:「徹底考証! 一刀流は崩壊しているか!!」について(その3)
Date :2002/02/28(Thu) 14:13  切際
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>す。ある時には直線的に、ある時は空間で切り落とし、またある時は角度を変えて打ち落としたり、あるいは逆の動きで下から摺上げ

直線的とは一つ勝の二本目(向突、突き返し)のことを言われていると思いますが、本傳ではこの遣い方はありません。甲源一刀流にあります。(名称は體當ですね)
空間で切り落としとは一つ勝の三本目(鍔割)のことを言われているのでしょうか。本傳、中西家、北辰一刀流でもこのように遣いません。津輕傳独特の遣い方です。無拍子の切り落しは一つ勝の下段ノカスミです。
打ち落としは切り落しとは明らかに異なる技法です。組太刀の名称も違います。技法的には切り落しとは(打太刀の)「上にある太刀が切り出し、落ちる」もしくは「上にある太刀を切り出させ、落とす」で遣方の太刀に觸れた處、カチッという處に勝ちがあることです。つまり摺り上げも確かに切り落しです。よくご存知ですね。

>たりと、様々な方法を学んでゆくのですが、大太刀五十本は実は五本ずつ十組になっていて、一組ずつ学んでゆくのですが、これらはそれぞれ、様々な切り落としの方法がテーマになって編成されています。そしてこれらに共通するのが、相手の中心を制することによる中央突破であり、全てはそれによって成り立っていることがわかってきます。そして合刃、張合刃は切り落としを螺旋状の動きで行うのが特徴で、ほとんど振りかぶる動作がなく、構えた状態から小さく鋭く切り落とすこと、そしてそれぞれ打太刀の構えとモーショ

合刃、張は卍の所を学ぶもので決して切り落しではありません。(合刃はもともとは切り落しでしたが)「一刀流極意」でも切り落しとは書いてないはずです。

>ンの大小、そして間合いの遠近によって使い分けるのであり、ここに到って組太刀における真・行・草三様を具体的な形で学ぶことになります。
>
>また十二点巻返、九個之太刀も技は比較的小さく、細密な技術を多用するのですが、これらはどちらかと言えば、それまでの組太刀の稽古によって体得してきた間積り、位取り、刃筋などを土台として、更に実用に向けて技を研ぎ澄ます方法論として制定されたと考えられます。全ての武道に体と用の二つの要素があると仮定すれば、さしずめ十二点巻返と九個之太刀は、一刀流における用の部分と言うことが出来ます。つまりこれによって、一刀流は基礎の養成から、それを小さく鋭くまとめてゆく教伝段階が出来上がったことになるのです。


前にも書きましたが、本傳には十二点巻返、九個之太刀はありません。小野家傳書にあるように十二點、九ツノ太刀は表五十本や拂捨刀、小撓などの中に組み入れられています。

>さて、江戸中期に到って一刀流中西派が登場し、宝暦13年には中西忠蔵子武によって四つ割りの竹刀や袍(面や胴などの防具)が発明され、これより試合稽古が盛んに行われるようになったことは御存知の通りです。しかしそれによって一刀流の技術が風化してしまったのかと言えば、決してそうではないのです。なぜなら竹刀による試合稽古の位置が、現代の剣道とは根本的に異なっているからです。というのも、そもそも四つ割りの竹刀の原型になったのは、初期の一刀流で使われていた十六割の袋撓であり、組太刀の補助として使われていた稽古方法が発達したものなのです。従って中西派に於いても稽古の中心はあくまでも木刀や刃引きを使った組太刀であり、このことは中西忠蔵子武が山鹿八郎左衛門に宛てた手紙にも明記されています。
>
>また、後年になって千葉周作が中西忠蔵より2代下がる中西忠兵衛子正に師事し、北辰一刀流を創始したことは知られていますが、その組太刀の手順を記した「北辰一刀流組遣様口伝書」には、表組(大太刀五十本とほとんど同じ)、切り落とし(二つの切り落とし、寄身、越身に相当する)、合刃、張(張合刃に相当する。ちなみに中西派では破裏と言っていた)、小太刀、相小太刀、刃引き、払捨刀などの組太刀の手順が列記されています。それを読むと、千葉周作が師より学んだ方法と、それをどのように改変したかが事細かに記されており、千葉周作が学んだ技術が、現在行われている一刀流とほとんど変わらないことがわかります。北辰一刀流では元来の一刀


つまり、現在行われている一刀流(とは小野派一刀流津輕傳)が中西道場で行われていたものとほとんど同じということです。小野家傳書では中西家にて組が亂れている・崩れていること(もはや當流のわかれニ相成、伊藤先生よりの傳來ハ不存云々)を嘆いています。この時点で本傳の遣い方と相違が出てきたと考えます。
つまり竹刀打ちや御前での演武(こういう言葉ななかったと思いますが)に合わせて変化していったのではないかと考えています。
ただ、根本(おっしゃられている五點の意味)をなすものは変わっていないし、求める先がムソウ劍であることも変わっていません。ここが一刀流のいいところで、非常に盛んになった要因の一つと思います。

>流の技術の中から、習得困難な部分を思い切って簡略化しているところに特徴があります。たとえば即位付、下段付といった技術ですが、これらは理合いがむずかしい上に習得が困難なことは確かです。その代わりに追加されたのが鍔迫り合いであり、組太刀における即位付の部分は、この時に鍔迫り合いに代替になっています。今日の剣道に於ける鍔迫り合いの技術は、ここで初めて生まれたと言っても、基本的に間違いではないでしょう。そして竹刀に於ける試合稽古の方法論として、組太刀の技術を分解して単体とした、竹刀剣術六十八手を考案しています。これは現在も北辰一刀流で行われていますが、それを見れば、剣道に於ける試合の技術の大半は、実はこの時に醸成されたことがわかります。
>
>また、これより後に山岡鉄舟によって創始された一刀正伝無刀流では、組太刀における所作が小さくまとまっており、おそらくは禅の影響と、山岡鉄舟自身の剣腕が非凡なレベルに達していたことが反映されているように思えます。稽古では位攻めを得意とし、鉄舟が正眼に構えたまま前進してゆくと、相手は何も出来ずに壁際まで追い詰められてしまうのが常であったということです。技術的には北辰一刀流が下敷きになっていることは、組太刀の内容から察することが出来ます(3)。


簡単に。
山岡先生は大悟の後、無刀流を創始されたが、ご自身が習われた組太刀が傳書と一致しないことに惱まれ、千葉縣東金に隱居なされていた小野業雄忠政先生(九代次郎右衛門)を迎えたところその組太刀が傳書と一致したという。修業後業雄先生より一刀流十世と甕割刀・朱引太刀や傳書類を譲られ、一刀正傳無刀流と称した。無刀流組太刀は山岡先生の工夫ではなく一刀流なのです。

なぜ、小野派一刀正傳と言わなかったのか? これも山岡先生の著述にありますが、何々派というのは門人ということなのだそうです。
だから、中西道場の看板は小野派一刀流なのです(小野家の門人だったから)。本家(小野家)は一刀流と言い、傳書も全て一刀流○○目録と成る譯です。閑話休題。

私見:全く山岡先生の工夫が無いとは思わない(特に正五典)し、北辰一刀流の影響がないとは言いません。ただ、打太刀と遣方の構えが逆の場合も散見されますが、忠於・忠方・忠喜の時代の組太刀手控・覚書や傳書と非常にマッチします。これは「千葉周作が学んだ技術が、現在行われている一刀流とほとんど変わらないことがわかります」と同じくらい相似しています。

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■ 吉峯先生へ:「徹底考証! 一刀流は崩壊しているか!!」について(その4)
Date :2002/02/28(Thu) 14:12  切際
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>以上のことから、竹刀稽古が行われるようになってから刃引きや木刀は使われなくなったのかといえば、そんなことはなく、また、創流初期の一刀流があまりに高度であったため、その後、受け継げなくなったので、防具付で打ち合うようになったというわけでは決してないことがこれでおわかりのことと存じます。現在でも五点や刃引十一本、立合抜刀等は刃引きを使っていますし、現在の北辰一

立合抜刀は本傳にはありません。私自身も使っているのですが、なぜ、笹森傳では一刀流定寸の刀(刃引)ではなく、長い刀を使うのでしょう。ご存知ですか。(「一刀流極意」、「剣道」の写真では定寸のようですが) 

> 刀流でも木刀による組太刀を充分に積んだ後に竹刀稽古を行うことになっています。試合稽古の方法論が生まれるのが自然の勢いであることは、別な所でも詳しく述べたので、ここでは重複を避けますが、剣道の高段者でも一刀流を修行している人は多く、それによって多くのことを得たと、皆さん異口同音に語っています。それも含めて、一刀流の優れた点は、創生期から現代に到るまでの時代のニーズに応えられるだけの内容を持っているところにあるのであって、だからこそ、今日に到っても学ぼうとする人が絶えないのでは
> ないでしょうか。

> 〈註〉
>(1)払捨刀は一刀斎の実戦経験を基に作られたのですが、これは本来は多敵の位を主眼としたものであり、組太刀では打太刀は一人ですが、本来は4対1を想定した動きになっています。他の組太刀がほとんどの場合に縦一直線に動くのに対して、払捨刀が目まぐるしく動く理由がそこにあります。
>
>(2)小太刀、詰座抜刀、刃引、他流勝之太刀は小野次郎右衛門忠明の実弟である小野忠也の伝えた一刀流忠也派にも伝えられていることから、忠明の代には存在したと考えて、ほぼ間違いないでしょう。但し、現在行われている一刀流の刃引と他流勝之太刀はそれぞれ十一本であるのに対して、忠也派ではそれぞれ五本になっていることから、おそらくはそれが忠明の時代の本数であり、残り六本は後代になって追加されたと思われます。
>
>(3)これに関してなぜかと言いますと、組太刀の中で北辰一刀流が改変した部分をそのまま受け継いでいるからです。たとえば即位付を鍔迫り合いに改めた部分や、組太刀の二本目で中段突きを乗り突きで返す部分が上段突きに変わっています。また古伝の一刀流で


脇構の付(ワキカマエノツキ)は鍔迫り合いではありません。小野家傳書にも「付くに上段、中段、下段に筋有り」とあり遣い方を見誤ったのではありませんか。それとも北辰一刀流組遣様口傳書を参考にされましたか。他の北辰一刀流伝書には鍔迫り合いという言葉はみあたりません。より鍔迫り合いに近いのは笹森傳の十二点巻返にある「三つあたり」でしょう。
また、無刀流組太刀の二本目はまさしく本傳です。古來突きは面を突くのが本筋にて、一刀流兵法組数目録にも「打太刀面へ突込」とあります。ともに北辰一刀流の遣い方とは異なります。

>は正眼は柄頭を鳩尾の高さ、切っ先を目の高さにして、懐深く構えるのですが、北辰一刀流では柄頭を丹田の高さ、切っ先を咽喉の高

一刀流に正眼という構えはありません。清眼、清岸、西岸などです。
大正眼のことを言われているのかもしれませんが、これは上段清岸と言われます。無刀流でも柳多先生の「劍道教範」ではこの構えですね。このほか中清眼というのもあります。せいがんの構えは一杯あります。
笹森傳の大正眼は初心者においてはどうしても小さく構えてしまうため、そのように構えさせると教わりました。おっしゃられているように「基礎の養成」ですね。熟してくれば左手は納まってくるものです。津輕での中畑英五郎先生(打太刀)・高野佐三郎先生(遣方)の組太刀の写真をみても、また「一刀流極意」の高野佐三郎先生(打太刀)・笹森先生(遣方)の写真をみてもそうなっていますね。ちなみに木刀も共に細くまた反りがなく、今の一刀流より無刀流の木刀に近いです。

>さに構えよと教えており、現代の剣道の正眼も、ここから生まれたと思われます。無刀流でもこれを使っており、自分の眼と丹田、切っ先を結ぶ三角形を三角矩(みすみのかね)と呼んで重要な教伝としています。しかしこの正眼が北辰一刀流に於いて考案されたと

三角矩(さんかくのり)と読みます。

> いうよりは、当時の一刀流の中で醸成されていたと考えるべきかもしれません。と言うのも、後に武田惣角の創始した大東流に於いて、無刀流に於ける三角矩の教伝に相当する部分が合気の核心であり、これを惣角が一刀流から学んだと仮定するならば、当時の一刀流の中には、そのような教伝があったと見ることも出来るからです。


天真正傳のところでしょうか?大東流に関しましては全く素人なのですが、合気とどのような関係があるか、差し支えなければ教えていただけますでしょうか。

<結論>
一刀流の正統は山岡鐡舟先生が引き継がれ、その組太刀は一刀正傳無刀流組太刀の中にあります。(決して「北辰一刀流が下敷きになっている」わけでありません)その意味において「一刀流は崩壊していない」のです。
「山岡鐵舟斯道を研究すること四十年、一々傳書と比較して此れを試みるに中西派の刀法は之れと符合せざる所ありしも、小野派に傳はるものは傳書と一々一致して世運の太平無事外見的華法に流るヽ弊少しもなかりきと云ふ」
妄言多謝。

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■ 切際様へ  大変遅くなりました。
Date :2002/06/10(Mon) 20:06  吉峯康雄
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拝復
 返事が大変遅れてしまい、面目次第もございません。
 ご丁寧な返書、誠に有難うございます。私の拙い論説に対しての数々の貴重な御教示、有難くお受け致します。
ところで、以前に書いた文章に関しては、少々言葉が足りないところもあり、無用の誤解の元にもなりかねないと思われるので、若干補足させて頂きますが、私は何も伝書が取るに足らないと言うつもりはありません。ただ、その流派にとっては伝書よりも実伝の方が本質的な存在ではないか、ということを言いたかったまでなのです。これをより詳しく言いますと、古流の稽古は御存知のように型稽古が中心ですが、型が教えている内容こそが流派の命であり、それを自分のものにすることこそが古流の型稽古の本質だと思うからです。
 人間は個人によって顔貌は違っていても、目が横に二つ、鼻は縦に一つついているという原則は変わりません。
一刀流もまたしかりであり、一本目の一つ勝ちが系統によって若干の形式の相違はあっても全く違う技になっているわけではなく、切り落しであることには代わりはないのです。なぜなら、本質的な部分の教伝は同一であり、表現方法が違っただけだからです。これがもしも、目は三つ必要だとか、鼻は横につけるべきだとか、基本的な構造の違う化け物を作ってしまったら、それはもう一刀流ではなく、三刀流なり四刀流なり、勝手にやればよかろうということになります。開祖と直通する部分の教伝とはこういうものだと私は思います。
 なお、組太刀の内容につきましては、私はここではあえて書いてはならないことも書いています。もちろん本来ならば許されないことですが、やはりそれを外しては、一刀流の本質的な部分に触れることが出来ないと思ったからです。結論を並べるだけなら誰でも出来ますが、少なくとも技術的な部分で納得して頂くためには致し方ないと思っています。従って、一切の文責は吉峯にあり、師匠筋の方々とは一切何のかかわりもないことを念のために明記しておきます。師匠の名前をあえて明かさないのもそのためだと思って下さい。但し、技術的な説明を読まれれば、おそらくは切際様なら想像はつくのではないかと思います。因みに一刀流に限らず私の師伝は周囲の人には明かしており、ネット上でのみ伏せてあるだけですが、これは無用の迷惑を及ぼすことを避けるためと思し召し下さい。
 色々と書きましたが、おっしゃるように私の論にも誤謬があることは重々承知であり、これもまた筆禍であり、不徳の致すところであると自認しております。これからもお気づきの点は指摘して頂ければ幸いです。

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■ Jhon Boy様へ
Date :2002/06/12(Wed) 02:14  イカ入りお好み焼き
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私こそ横から失礼させていただきます。

切際様のご指摘を丹念に読んだ訳でもなく、
一刀流に詳しい訳でもないのですが、
たまたま前後の流れを読まして頂きましたので、少し感想を書かせていただきます。

踏み入った話なり議論というものは、「密度」というか「尺度」と
いった、地図で言う「縮尺」を擦り合わせる作業というものが
必要な時があると思います。
切際様がご指摘された内容に対して、どのように話を受けていくかは、
こう言った場では、いろんな選択肢があるんじゃないでしょうか。
「マジなもの」に対して頭を撫でるようであったり、お茶を濁すような
対応は、私も好きではありません。
甲野氏がよく取られるスタンス、煙に巻くやり方は私も納得が行きません。

だからといって、いきなり専門的な内容で、話の尺度を合わさずに、
議論に入り、少し横に置くと「逃げる」と解釈するのは、
無理があるように思います。
甲野氏の一刀流崩壊発言の異常性と吉峯氏の一刀流もしくは、
武術に対する距離の取り方を、同レベルな話には出来ないと私は
思います。

何か、質問を突きつけられれば、人間は誰彼構わず、
答えなければいけない、ようなニュアンスを少し感じます。
だからと言って甲野氏の問題発言に、質問を突きつけなくても
いいとは、私はぜんぜん思いませんが。

議論・意味合いというものは、解りやすい方に流れがちですが、
それはそれで問題で、決して専門的でマニアックな議論が悪いとは
思いません。話なんてものは、一歩踏み入れば得たいの知れない世界が
広がっているものだとは思っています。
そう言った意味では、長野氏の展開される議論に、
そう言った問題点を感じることが多いのも事実です。
武術界が最低でもこの位はハッキリさせてもいいのではないかと言った
解りやすい議論が別の意味で問題を生むことはあると思います。

少し、話が逸れてしまいましたが、
個人的感想では、たとえ吉峯氏の一刀流が崩壊していても、
ちっとも構わないと思いますし、まあそれをご指摘になっても
構わないとも思います。
個人的に真摯な観光ガイドに私は感じましたし、それは地図である必要はないと思います。ましてここの場では航空写真である必要はぜんぜんないと思います。

航空写真では花鳥風月があまり写っていないように思えるんです。

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■ Re: Jhon Boy様へ
Date :2002/06/12(Wed) 10:02  Jhon Boy
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これは吉峯様ご本人とお見受けします。

> だからといって、いきなり専門的な内容で、話の尺度を合わさずに、
> 議論に入り、少し横に置くと「逃げる」と解釈するのは、
> 無理があるように思います。


専門的な内容を最初にアップしたのは吉峯様でしょう。
崩壊の論拠を示せと、甲野氏に詰め寄ったのもあなたでしょう。
しかしそれが「一刀流極意」からの間違いを含めた受け売りであったことは、切際氏が明らかにしてしまった。
それ以来逃げていたのではなく、「少し横に置いて」おいたのですか。
では元に戻って、まともな応答をして頂きたい。

> 甲野氏の一刀流崩壊発言の異常性と吉峯氏の一刀流もしくは、
> 武術に対する距離の取り方を、同レベルな話には出来ないと私は
> 思います。


レベルがどうかは知らないが、あなたの論拠はなっていないです。

> 何か、質問を突きつけられれば、人間は誰彼構わず、
> 答えなければいけない、ようなニュアンスを少し感じます。


この掲示板であなたのために書き込んだ切際氏に対しては、応える義務があるでしょう。

> 議論・意味合いというものは、解りやすい方に流れがちですが、
> それはそれで問題で、決して専門的でマニアックな議論が悪いとは
> 思いません。話なんてものは、一歩踏み入れば得たいの知れない世界が
> 広がっているものだとは思っています。


その辺が都合よすぎる。
マニアックな展開を最初にはじめたのはあなたです。

この掲示板で切際氏の書き込みほどエキサイティングでためになるものはありませんでした。
こういうやり取りがしょっちゅう読めるなら、この掲示板に率先して立ち寄りたいとも思っていましたが、中途半端に途切れさせたのは吉峯様ではありませんか。
掲示板のレベルを落としているのは、ほかならぬあなたです。

切際氏の論文内容をを一刀流関係者に尋ねれば、皆が恐らく認めるでしょう。
あなたの意見を同じように聞いて回ったら、誰が賛同するでしょうか。
あなたの師匠に尋ねたら、「吉峯の言うことに間違いはない」と言いますか。
その自信がないから師伝を隠すのでしょう。自説だと強調するのでしょう。

議論を都合よく弄ぶのは止めてほしい。
切際氏の質問に応えなさい。

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■ 本人ではありません。
Date :2002/06/12(Wed) 13:14  イカ入りお好み焼き
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ちょっとこの掲示板を拝見して、乱入してみただけで、
私は吉峯氏ではありませんよ。
そんな嘘言ってみたところで、バカバカしいだけでしょ。

ところで基本的には、この掲示板自体はかなりマニアックですし、
専門的な内容を吉峯氏もアップしてますよね。
しかし、最終的に事の是非を専門的に詰めていくことがここで
可能なのかどうかと申し上げている訳ですね。
一刀流と大きなククリで歴史的に崩壊していると根拠を示さず発言する
研究者に、異議を唱えることと、一刀流という一つの流儀に対する個人的解釈・ビジョンを唱えることは、別の次元の話ではないかと申し上げているのです。どこかで線を引いて語らないと誰も何もしゃべれなくなるじゃないですか。そういう世界だから、甲野氏のようなまったく根拠のない発言が飛び出して来るんじゃないですか。

切際氏の書き込みはある意味エキサイティングだったと私も思いますよ。
そして切際氏の書き込みを一番喜んでいるかもしれないのが、
吉峯氏じゃないでしょうか。
解釈も含めマニアック世界だから、なんでも白黒つけられるものでもないでしょう。また、見様によっては白黒はしっかりつく世界でもあると
思います。つけたい方がつければ良いのはないでしょうか。
何度も同じことになりますが、流儀の個人の解釈と相手を傷つけ否定する
歴史的解釈とは違うということになりませんか。

ただ、チョウー簡単に言えばJhon様は、吉峯氏のあやふやな知識で
一刀流を紹介することも、解説することも、崩壊していないと論を張ることも
出来るに足る人物に、思えない。基本的なことを知らなさ過ぎると
おっしゃりたのなら、それはそれで傾聴すべき一つの貴重なご意見ということになるんじゃないですか。

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■ Re: 本人ではありません。
Date :2002/06/12(Wed) 17:50  Jhon Boy
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> ちょっとこの掲示板を拝見して、乱入してみただけで、
> 私は吉峯氏ではありませんよ。
> そんな嘘言ってみたところで、バカバカしいだけでしょ。


それは失礼しました(ほんとかな)

> 一刀流と大きなククリで歴史的に崩壊していると根拠を示さず発言する研究者に、異議を唱えることと、一刀流という一つの流儀に対する個人的解釈・ビジョンを唱えることは、別の次元の話ではないかと申し上げているのです。

前者が甲野氏、後者が吉峰氏ですね。
では切際氏の書き込みはどうなるのでしょうか。

> そして切際氏の書き込みを一番喜んでいるかもしれないのが、
> 吉峯氏じゃないでしょうか。


違うでしょう。
その後の取り繕い方を読めば分かります。
最後の書き込みも周りの人に忠告されて、仕方なく書いたように思えてなりません。

> 解釈も含めマニアック世界だから、なんでも白黒つけられるものでもないでしょう。また、見様によっては白黒はしっかりつく世界でもあると思います。つけたい方がつければ良いのはないでしょうか。何度も同じことになりますが、流儀の個人の解釈と相手を傷つけ否定する歴史的解釈とは違うということになりませんか。

吉峯vs甲野の争いなら、本人同士にしか決着できないでしょうし、私も興味はありません。
歴史的解釈が相手を傷つけ否定する、とはこの場合何をさしているのか分かりません。
伝書を読まない吉峯氏を私は否定しませんよ。考現学なんだから。
しかし切際氏のような正当な研究をしている人に対して、あの答弁は屁理屈以外の何物でもないと思います。


> ただ、チョウー簡単に言えばJhon様は、吉峯氏のあやふやな知識で
> 一刀流を紹介することも、解説することも、崩壊していないと論を張ることも
> 出来るに足る人物に、思えない。基本的なことを知らなさ過ぎると
> おっしゃりたのなら、それはそれで傾聴すべき一つの貴重なご意見ということになるんじゃないですか。


掲示板の主催者として、切際氏の質問に誠意を持って回答せよと言っているのです。
お互い吉峯氏の書き込みを期待しようではありませんか。


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■ はじめまして・一刀流についての質問
Date :2002/06/15(Sat) 07:18  惟住
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こちらの掲示板には初めて投稿させて頂きます。

切際さん、吉峯さんのお二方の討論を楽しく読ませて頂いております。

若輩者が失礼な質問をする事をお許し下さい。

以前に読んだ本にて一刀流の嫡流は初代小野次郎右衛門から小野忠也の忠也派一刀流に伝承された流れが一刀流の嫡流であると読んだ記憶があるのですが、これは私の思い違いなのでしょうか?お教え頂けると幸いです。

また世間一般に言われる、小野派一刀流と中西派一刀流の違いと言うものをご教示頂けないものかと愚考致します。著名な一刀流剣士であらせられる高野佐三郎師範は紹介される本によっては中西派一刀流とも小野派一刀流とも言われる事があり、現在のご子孫の方の流名の名乗りは中西派一刀流を名乗られているようですが、両者がごっちゃになっていて素人には、ほとほと困り果てる事が多いので、一刀流にお詳しいお二方に解説をして頂けると大変に嬉しく思います。

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■ お詫び
Date :2002/06/23(Sun) 11:18  切際
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投稿の削除に関しまして、関係者ならびに閲覧者の皆様に多大なご迷惑をかけ、申し訳ございませんでした。
惟住様、管理人様には別途ご連絡申し上げましたが、掲示板をご覧の方々には何のことかわからないと思いますので、経緯をご説明致します。
経緯(言い訳?):
最後の投稿記事につきまして不穏当な表現があったため、私自身で削除致しました。書き直し再投稿しようと思いましたが、ADSL&無線LAN導入時にTCPのWindowサイズ等レジストリをいじってからマシンの調子がおかしく、このときも運悪くインターネットへの接続が不安定になり投稿不可能となりました。試行錯誤の過程で唯一残っておりました以前の私の投稿も消えてしまいました。
本日、OSと無線LANドライバの再インストールを行いなんとか復旧いたしました。

惟住様、管理人様、私の不手際にていろいろとご迷惑をお掛け致しました。あらためてお詫び申し上げますとともに、再投稿させていただきます。

-------------------ここから------------------------

惟住様への回答は事情により下記HPの掲示板に掲載致しました。ご覧になった方感想、意見・反論などいただければ有り難いです。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~mutoryu/

>吉峯様
ご返答ありがとうございました。私の最も強くお願いしました「一刀正傳無刀流の伝系・組太刀に関しての記述ならびにその元となる小野家の一刀流組太刀の成り立ちをきちんと訂正していただきたい」という点については全く言及されていないのが残念ですが、貴殿の立場もいろいろありますでしょうから、もうこの件に関して物申すことは控えましょう。ただ、私の方でも反論をしておきたいので論文やこの掲示板でのやりとりの引用をご許可ください。
師伝に関しましてはご指摘通りほぼ想像がつきますが、あくまで想像です。礼楽堂に土曜日通われているかだけでも教えていただきたかったのですが、無理ですね。惟住様への回答楽しみにしております。

>Jhon Boy様
はじめまして。
書き込みに対して評価いただいているようでありがとうございます。こういうご意見の方がお一人でもいらっしゃっただけで投稿した甲斐がありました。上記、HPも覗いてみてください。

>イカ入りお好み焼き様
はじめまして。少し補足させてください。
私の最初の投稿は「徹底考証! 一刀流は崩壊しているか!!」の論文に関して知人と吉峯氏がmailでのやりとりの末、「吉峯氏が本掲示板にての討論を希望している」ということでお鉢が回ってきたものです。(書き込みをするかどうかずいぶん悩んだのも亀レスの一因です)

>いきなり専門的な内容で、話の尺度を合わさずに、議論に入り
(中略)
>何か、質問を突きつけられれば、人間は誰彼構わず、答えなければいけない、
>ようなニュアンスを少し感じます。


と書かれていらっしゃいますが、吉峯氏とは話の尺度、密度は最初から合っているし、いきなり質問を突きつけているわけではないのです。ご了解ください。


【削除された文】 ※切際氏が自分で削除された。
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惟住様
あらためて、ご挨拶いたします。金山切際と申します。切際(せっさい)はHNではなく頂いた居士号です。ご質問に関する回答を以下に述べます。この場を提供してくれました管理人様、ありがとうございます。

>以前に読んだ本にて一刀流の嫡流は初代小野次郎右衛門から
>小野忠也の忠也派一刀流に伝承された流れが一刀流の嫡流であると
>読んだ記憶があるのですが、これは私の思い違いなのでしょうか?
>お教え頂けると幸いです


「一刀流の嫡流」とは具体的に何をおっしゃられているかわかりませんが、六代目村上先生がまとめられました「一刀正傳無刀流開祖山岡鐡舟先生遺存剣法書」の記述を基に私の意見を述べてみたいと思います。(以下、特に示さない場合は本書からの引用です。)

まず山岡先生の書かれたものには小野次郎右衛門忠明の
長男:忠也->伊藤一刀斎の家名を継ぎ伊藤典膳忠也と云う
次男:日忠->日蓮宗の僧(小野家菩提寺浅草慶印寺[現四谷常楽寺]開基)
三男:忠常->忠明の家督を相続す
とあり、それぞれ家名ならびに家督(含幕府師範)をついでいるわけです。「一刀流極意」P79には三代小野次郎右衛門忠於が伊藤一刀斎を曾祖父と記述していますし、実際は何らかの血縁関係があったのかもしれません。ということはどちらも一刀流本元ですね。

余談:忠也に関しましては武藝小傳、一刀流三祖傳には忠明の子とあり、また小野次郎右衛門忠喜・忠孝のときの先祖書他には忠明の弟とあります。(もっとも忠也派鵜殿長快が当時の小野次郎右衛門に系譜を尋ねたときは忠明の子とも弟とも知れざるとの話あり。年代的には忠喜・忠孝と思われる)また、忠明は甥(姉の子)にも伊藤姓を名乗ることを指示し、伊藤孫兵衛忠一(号遊閑)と云います(一刀流水戸派)。山岡先生ご自身も、先祖の小野朝右衛門高寛の娘が小野次郎右衛門忠於に嫁いでおり、遠いが小野家とは縁戚関係になります。

組太刀に関しては忠也派伝書では表の形五十として五點、循彼、殘心、風柳、清岸業、葉切合、亂曲、分身、進術、水月とあり溝口派にてもほぼ同様の名称、順序で、忠也派の流れを汲む甲源一刀流もよく似ています。忠也派では他には拂捨刀、左右轉化、眞妙剣など。溝口派には小前(小太刀?)、同後(小太刀?)、刃引、眞ノ刃引、責、立身五點というのもあります。順序は年代で相違がありますが、風柳・亂曲・分身は忠也作(殘心は、忠也命名)、進術は溝口新五右衛門尉作、葉切合(破切
合)は先師閑夕老切組の記述があります。
私が思うに一刀斎は五點を持って伝授(一刀斎流假字目録いわゆる割目録より類推)しておりその方式を踏襲したのが忠也、将軍師範として忠明が切組を再編した教授法を継いだのが忠常ではないでしょうか。ただ誤解の無いように付け加えれば両者で組の名称が同じであったり、遣い方がよく似ているものがあります。特に五點、循彼、小前(小太刀?)、刃引、拂捨刀は一刀斎・忠明に直結する古い太刀だと思います。どちらが本元とは言い難いような。

もう一つ。一刀流では流儀を継ぐ場合、刀を一緒に渡す慣例があるようで、忠明も一刀斎から瓶割刀(ならびに朱引太刀)を渡されたようです。この瓶割刀が問題で、釈迦の袈裟ではありませんが、この刀を所有するものが一刀流の正統であるとの見方があります。(時代小説受けする題材ですね) 瓶割刀に関しては詳しく調べられた方がいらっしゃるようで本として出版されているそうです。(管理人さんが詳しい?)
瓶割刀の行方は私自身は存じません。伝承では以下のようになっています。
先の武藝小傳、一刀流三祖傳では瓶割刀(一文字)は忠也に与えられとあり、さらに武藝小傳では弟子の亀井平右衛門忠雄に伊藤姓(後井藤)とともに一文字の刀を授けたとあります。話の流れからは亀井平右衛門忠雄に渡ったのは瓶割刀と読めますが、何故忠也の場合と違って瓶割刀とはっきり書かなかったのか疑問の残るところです。
また、亀井平右衛門忠雄が師匠忠也が話したままを書き留めたという一刀流三祖傳には自身の瓶割刀授受のことはでてきません。後年先の鵜殿長快が亀井の子孫に尋ねたところ、紀州公がこの刀を好み終には紀州の御宝蔵に納まったとのことです。
小野家伝書では先の先祖書以外にこの瓶割刀のことは出てきませんが、山岡先生が小野業雄忠政先生(九代次郎右衛門)より瓶割と称する小野家伝来の一文字刀を伝授されたことは確かなことです。私は瓶割刀は確かに忠也に伝えられたが、後忠也より親族の小野家に戻されたと考えています。忠也派は忠也没後も弟子により形が追加されたり(居合も含む)、小太刀が一度失伝したりしているようですし、分派も多いです。一刀流本元とは思いますが、正傳かどうかは疑問です。

さてこれも余談ですが、この瓶割刀がその後どうなったかです。鐡舟没後日光東照宮に納められたと言う説(高橋泥舟記)と鐡舟没後全生庵に納められたが火災で焼失したという説(山岡先生御子息直紀氏談:史談無刀流より)、六代目村上先生に伝わる銘家吉という刀が瓶割刀だと言う説を知っています。村上先生は日光まで足を運ばれ東照宮には無いということをはっきりさせられました。また、家吉も瓶割刀では無いとおっしゃられています。やはり火災説が有力と思われますが、忠明が小幡勘兵衛尉景憲に出した一刀流兵法免状や小野家から伝わった卍の印章や一刀斎作と云われる梵字の印章が伝わっているのですから、家吉が瓶割刀だとロマンがありますね。
なお、朱引太刀(木刀です)は鐡舟先生より篭手田安定->柳多元治郎へと伝わり、ご親族の甲田家(仙台)に袋竹刀とともにあるはずです。(十五年前の話ですから現在はわかりません)

>また世間一般に言われる、小野派一刀流と中西派一刀流の違いと言うものをご教示頂け
>ないものかと愚考致します。著名な一刀流剣士であらせられる高野佐三郎師範は紹介さ
>れる本によっては中西派一刀流とも小野派一刀流とも言われる事があり、現在のご子孫
>の方の流名の名乗りは中西派一刀流を名乗られているようですが、両者がごっちゃにな
>っていて素人には、ほとほと困り果てる事が多いので、一刀流にお詳しいお二方に解説
>をして頂けると大変に嬉しく思います。


以前の投稿でも少し書きましたが、確かに混乱しています。山岡先生も「此訳世間ニ誤リ多シ」と書かれています。
本来何々派というのは門人が唱えることなのだそうです。
小野本家は「一刀流」であり、中西家は事情があり(多分竹刀打ちを始めたため)自分の流派を小野家からの流れ・門人として「小野派一刀流」を名乗りました。よって中西家で修業した人は全て「小野派一刀流」を称し、高野佐三郎先生の祖父である高野佐吉郎苗正や津軽の人達も例外ではありませんし、その弟子筋の人達も「小野派一刀流」を名乗ります(中西家では弟子が中西派という名称を使うことは許さなかったと考えています)。当然両者での教えるものには差が出てきていますから、なにも知らない世間一般の人は小野家の一刀流を「小野派一刀流」、中西家の一刀流を「中西派一刀流」と呼び区別した訳です。(「一刀流極意」P64にも同様の「世人はこれを中西派一刀流という」記述があります。)つまり「小野派一刀流」には二つの意味があり、注意していないとよくわからなくなります。

忠也派も同様です。忠也や後を継いだ亀井平右衛門忠雄は「一刀流」、忠也の弟子の溝口新五右衛門尉正勝は「忠也派」またその弟子の和田與兵衛重郷は「溝口派」です。ただ同じように溝口の弟子でも森善右衛門正治のように「忠也派」を名乗る人もいます。中西家の門人と同じですね。仮に私が派を名乗るとなると「金山派」ではなく「山崎派」となります。ただこれは勝手に名乗る訳には行かず師匠から許しがないとダメですが。(中西忠太子定は本目録免許)

高野佐三郎先生がご自身で中西派を名乗られたことがあるとは寡聞にして私には記憶がありません。現在、ご系統の方が世人の通称「中西派」を名乗られているのは何か事情があるものと推察しております。

#全剣連発行「剣窓」今月号での寄稿では世間での通称が使われていますね。また、中西家の出自を「足軽程度の身分」と推測記述していますが、実際は津和野藩主亀井家の出であることはほぼ間違いないです。(菩提寺は日暮里善性寺)
ところで、本HPの「山岡鐡舟と無刀流」の系譜に関する一刀流の名称もどちらかに統一していただけると有り難いです。>管理人様



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