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「テロップに名前が出たら終わりだから…」尼崎JR脱線事故
「今でも息子に会えるんじゃないかという気がする」。4月中旬。尼崎JR脱線事故で亡くなった大阪市立大生平郡恭介さん=当時(19)=の神戸市の自宅。中学時代からの親友で、2年前に記者になったわたし(24)は、この5年間マスコミの取材をほとんど受けてこなかった平郡さんの父親(49)と向き合っていた。
「平郡君と連絡が取れないらしい」
2005年4月25日夜。わたしは母から一報を受けた。携帯電話に何度かけても、つながらない。身近な友人の死は、頭では理解できても実感がわかなかった。
「出来過ぎた息子だった」。父親の言葉どおり、平郡さんは誰からも好かれる存在だった。
出会ったのは神戸市の中学校。野球部で二遊間を組み、父親を交え3人でよくキャッチボールをした。その後、別々の高校に進学し、交流は途絶えたが、事故前年の冬、平郡さんから届いたメールをきっかけに、再び互いの家を行き来する日々が始まった。
事故2日前。野球一筋だった平郡さんは自宅で「大学ではさっさと彼女つくるわ」と始まったばかりの大学生活に胸を膨らませていた。それが最後の姿だった。
取材の日、平郡さんの部屋を見せてもらうと、机やベッドが以前のまま残されていた。父親は「暗くなるのが嫌だから、いつもの明るい感じでやろう」と切り出した。
「犠牲者を伝えるテレビのテロップを見るのはめちゃ怖いんだよ。名前が出たら終わりだから」。心の底にある苦しみを聞いたのは初めてだった。
平郡さんの自宅には事故後も多くの友人が訪れ、家族には少しずつ“日常”が戻り始めたように見えた。しかし父親は「今でも家に来てくれた人が思い出を話すと、みんな泣きだしちゃうんだよ」と明かした。抱え続ける悲しみに、気付かないだけだった。
これまで「家族を世間の目にさらしたくない」と取材を避けてきた父親は「おまえが書いてくれるなら恭介も協力するだろうと思った」と話してくれた。
「今の心境は」。記者として当たり前の質問が、親しい人を前にするとどうしても出てこない。見かねた父親が、自ら口を開いた。
「JR西日本への怒りよりも、恭介に会いたいという気持ちの方が強いんだよ」
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