シンプルSANO
シンプルSANOに初めて会ったのは、確かワイルドサイドの『女体クラッシュ2 巨乳破壊』の撮影のときだった。98年、セルビデオがもの凄い勢いで拡大 を始め、毎月のようになにか新しいものが生まれていた時期で、あの頃はこの数年間で、一番面白かった時代かもしれない。濃いドキュメントやガチナンパを 撮っていたシンプルSANOは目立つ存在で、なんの経験もないままフリーのAV監督になってメーカーに営業して仕事をとり、本当に注目されるAV監督に なって、話題作を残していた。まだ編集プロにいた僕は、彼を取材しなければならないと思って、撮影現場に行ったのだった。そこに美濃屋長作や観念絵夢、石 橋電子レンジらがいた。彼らは暴言や暴力で元レディースの気の短い巨乳女優を切れさせ、発狂した女優に頭を割られた石橋電子レンジが救急車で運ばれ、母親 同伴で来ていた美濃屋長作はシンプルSANOにぶっ飛ばされて、何メートルも飛んでいた。アダルトビデオの撮影とは思えない殺伐とした戦場のようなの雰囲 気で、僕はレンジの返り血を浴び、異常な狂気の沙汰に震えた。彼の第一印象は、過剰なことでしか自分を表現できない人。狂気の沙汰はシンプルSANOの荒 廃した心の中、自己投影としか思えなかった悲惨な現場を眺めて、異常な人だなと思った。
その後、雑誌編集者の女性と結婚して、一作に情念を注ぎ込むような作品をたまにしか撮らなくなり、凄まじい量のセルビデオを作っていた。一日に何本撮り もする量産体制を続けて、口癖のように原点に帰って「じっくりナンパ物を撮りたい」とは言っていたが、忙殺されいつも追い詰められていた。撮りたい作品よ り、日銭を優先する大人になってしまった彼を眺めて、少し哀しかった。99年、セルメーカー・ハッピーマンを立ち上げ、素人ハメ撮り物や人妻物をリリース していたが、サエない内容で状況が好転する気配はなく、ハッピーマンはそこら辺のB級メーカーと同じく低予算のサエない作品ばかりで売れず、メーカー社長 となっても下請け仕事から離れられていなかった。今思うと、この頃からバランスを崩して、オカしくなっていたのかもしれない。
悩みや不安を顔にださない彼の状態が、明らかにオカしくなったのは、ハッピーマン立ち上げてしばらく経ってからである。深夜、飲みに誘われて「家庭がう まくいってないんだ」とボヤきを聞くようになり、奥さんにドメスティックバイオレンスで訴えられてから「もうなにもしたくない」「する気がおきない」と、 憔悴しきったらしくない姿になっていた。
「ハッピーマンが売れてるんだ。やっと、ここまで来れたよ。もうくだらない下請け仕事しないでいいし、好きなことだけして生きていくことができそうだよ」
売れてる。観てくれてる人がいる。そんなポジティブで明るい言葉を最近、シンプルSANOから聞くようになった。初めてのことである。売れてる作品と は、ハッピーマンの『実録ナンパ中出し』シリーズ。長年、彼とは無縁だった「売れる」「ヒット」「楽しい」「苦労して、やってきたよかった」という、言葉 が連発する。そして今日に至ることになった。まさかヒットシリーズのディレクターインタビューを、シンプルSANOにすることになろうとは。
01年。中野の家に帰ると、鍵穴に鍵が入らない。奥さんに鍵を返られていた。結婚して3年、もう別れたいと言っている。シンプルSANOは結婚してか ら、寝る暇もなく身を粉にして働いていた。働くこと、それが家族を守ることだと思っていた。作りたいもの表現したいものは封印して、とにかく依頼があるも のを量産する。娘に会いたい。けど、忙しくて会う時間がない。奥さんとはぎくしゃくしていたが、家を買えば家庭が円満になるのではと思って、都内に一軒家 を買った。なにをしても家族にはわかってもらえなかった。
「あれは二年前かな、家を守るために一生懸命、ひたすら撮影と編集を繰り返してたんだけど、全否定されたってことだよね。いったいなんのために俺は仕事し てるんだろう、生きてるんだろうってなって、なにもしたくなくなって、引きこもりみたいになってた。家庭で揉め事があっていったんこの仕事を辞めて、なに か他の仕事をすれば上手くいくかなって考えてた時期で、一年間くらいなにもしてなかったね。メーカ
ーへの営業はヤメテ、もう引退するからとか言ってて、家庭を持ったことで、なんでも割り切ってやるようになったからね。自分の価値を落としてまで頑張ったのに、この二〜三年はなんだったんだろうって落ち込んだよね」
AVを撮影するモチベーションを失って、家庭が崩壊したこの頃のシンプルSANOは、まさに抜け殻のようだった。
「しばらく別居してて、ずっと寝泊まりしてたのね。精神的に完全に参ってて、布団もない事務所で寝て、しばらくして着替えを取りに帰ったら、自分の荷物が 段ボールに入れられて外にでてたんだ。電話で喧嘩したとき、そんなに言うなら、俺の荷物段ボールにまとめておけ、みたいなこと言ったら、本当にまとめられ てね。愕然としたね。そのときは別居してても、奥さんと娘には俺が必要だろうって信用してたんだけど、勘違いしてたんだね。本当になにもする気がなくなっ て、完全に仕事を辞めた。電話もでないで、ずっとボーっとしてた。今までなにやってたんだろうって自分を責めて、生きる気力を失って。でも、やっぱAVを 撮ることしかないんだよね。なにもかも嫌になってゼロどころか、マイナスになったとき、原点に戻ろうと思って『実録ナンパ中出し』の撮影を始めたんだ。 ハッピーマンで撮りたいモノだけ撮って、何か別の仕事しながら生きていこうって考えてたんだよね。家庭とか子供とかすべて失って、ようやく好きなことだけ して生きいこうって思えるようになったんだ」
たった一人で知らない街に行って、なにもないままカメラだけを持って一歩を踏みだす。出演してくれる女の子を自分で見つけて、自分でセックスする。仕込み一切無しの本物の素人娘が登場するロードムービーは、シンプルSANOの原点である。
シンプルSANOは沖縄人である。十五年前、十八歳のとき上京した。沖縄時代のことは本人は話したがらない。長い付き合いだが、聞いたことがない。いい機会なので、沖縄時代のことを訊いてみた。
「父親はフリーの大工で貧乏だったよ。俺は不良でも優等生でもない、ちょっと変わった奴で、今と同じようにみんなに嫌われてたね。学校行かないで、たまに 来たと思えば教室で暴れたりとか、協調性がなくて人生にいつも悩んででて、なんでつまらないんだろう、なんで暴れちゃうんだろうって悩んでたな。ずっと孤 立してたから、とりあえず沖縄をでたかった。最初はミュージシャンになりたかったんだよね。プリンスみたいな感じ。一人で黙々と詩を書いて、ラップみたい なことをやってた。高校二年のときに一人で作ったデモテープ持って家出して、東京にレコード会社をまわったんだけど、門前払いくらったよ」
東京に来て新聞奨学生しながら、音楽の専門学校に通った。厳しい生活である。ミュージシャンどころか、生きていくのがやっとであり、ビッグになるという若きナルシズムはだんだんと消えていく。
「営業マンみたいなことして、食っていくので精一杯だったんだけど、とにかくなにか表現したい、面白いことしたい、みたいなキモチはずっとあって、スポー ツ新聞でスカウトマン募集って広告を見つけたの。そこが惑星共同体でナンパ男優の募集だったのね。ビデオにでて女の子を引っかけて、チンポを出す役。その ときはとんでもないって、帰ってきたんだけど」
「アクションビデオ」「シンデレラ」などリリースしていた近松はじめ率いる惑星共同体は、素人娘にこだわったレンタルメーカーである。残念ながら昨年消滅してしまったが、彼らは最後の最後まで路上にでて女の子に声をかけていた。
「アクションビデオに出てるルパン仲村っていう人が仕込みの男優を募集してて、カメラ持ってやってみるかって話しになったんだよね。とりあえず二十万円渡 すから、女を調達して何人か撮って来てっていわれて、小さいカメラ買ってもらってやってみたんだけど、これじゃあダメだって一回で干されてね。撮れますと か、出来もしないのにウソついて始めたんだけど、すぐに素人のハッタリ野郎だって見抜かれたよ。アダルトビデオで一番好きだったのがナンパ系だったし、業 界に関わるキッカケもナンパビデオで、たまたまそういう巡り合わせだったのかな。近松さんに君は全然むいてないから、ヤメタ方がいいよって、はっきり言わ れた。ギャラはでなくて、その代わりカメラあげるからって、小さなビデオカメラをギャラもらって、それから経験者ですって営業してまわったんだよね。一本 も作品を世にださないまま名刺作って、フリーの監督になっちゃった。それが、十年前。近松さんには向いてないって追いだされたけど、拾われたって感じはあ るよね。あのとき、カメラをもらってなかったら続けてなかっただろうし、あの一番最初の素材がそのまま使われてたら、満足して辞めちゃってたかもしれない から」
このまま終わるのは、悔しい。AV監督になろうと思ったキッカケは、それだけだった。宇宙企画から九鬼、ジャパンホーム……あらゆるメーカーをまわって 「経験者です」と嘘をついた。何度も追い返されながら、一本一本撮影をした。メーカーに持ち込んだ企画は、向いてないとハッキリ言われた「素人ナンパ物」 である。
「自分の中では、なにしても最低限は食えるっていうのがあって、最初から堕ちてるからこれ以上堕ちることはないだろうって思ってたから、撮りたいモノは譲 らなかったね。撮りたかったのは、やっぱり本物の素人。当時も今もそうだけど、素人は仕込み使ってっていうのがアタリマエで、絶対に本物っていうのは譲ら なかった。だから干されたり、出入り禁止になったり、苦労したよね」
シンプルSANOは、本物にこだわっていた。ナンパ物ならば絶対に素人、レイプならば女が気が狂うまで追い込んだ。本物は作りモノより、時間や労力がか かる。とにかく要領が悪かった。まわりのフリーの監督たちは仕込みを使って、半日で撮影を終わらせるところ、本物にこだわって一週間も十日もかけて撮影し て、挙げ句に担当者を怒らせて干されるみたいなことを繰り返していたのである。すぐにクビ、レギュラー仕事が一切ないのに撮りたいという情熱だけで生き続 ける。到底、真似できない凄いことである。当時、まだ自分になにができるのかまったくわかってなかった僕は、信念を曲げないで撮り続けるシンプルSANO に惹かれていた。
ゼロからカメラ一つだけもって、路上からなにかを発信したい。それがシンプルSANOの原点である。
それから結婚して、制作会社としてなんでも撮るようになり、彼は「本物」にこだわる初心はすっかり忘れていた。単体でも嘘の素人物でも、なんでも撮影し て、なんとか生き残っている状態だった。もう一度、なにもなかったあの頃のように路上に戻りたい。そう思ったのは家庭を失って従業員にも逃げられ、すべて を失って孤独になったときだった。
「すべて失ったとき、死のうかなとも思ったんだよね。でも親がいるから、死ねないだろ。なんだかんだいって頭がオカしくならないのは、東京でてきて新聞奨 学生やってたせいもあるんだけど、鍛えられてるんだよね。ナンパ撮影も、そう。一人で知らない街でナンパするってのは、想像以上にツラいことなんだ。一人 で声をかけ続けるって、すごい気力や精神力が必要だからね。女の子に声かけて無視されるのって、全否定でしょ。全否定されることには慣れてるから、傷つく ことに慣れてるから、誰かに出会うまで声をかけ続けることができるってのはある。金とか関係なしに生きるため、もう一度原点に戻りたいってキモチだけで始 めた中出しナンパが、だんだん売れるようになったんだ。雑誌にも広告もだしてなかったのに口コミでお客さんが増えてるって聞いたとき、本当に嬉しかった ね。わかってくれる人には、わかってもらえるって、単純なことに気付くのに十年もかかったよ。営業行ったメーカーにボロクソ言われて、要領のいい奴だけが 生き残るこの世界を斜めに見すぎて曲がってたのかもしれないね。観てくれる奴がいるから頑張ろう、そんな風に思って撮影するようになったのは初めてのこと かもしれない」
女の子たちはSANOに声をかけられ、迷ったり悩んだり、葛藤しながら最終的に中出しまで許してしまう。『実録中出しナンパ』は素人の女を記録したドキュメントであり、シンプルSANOの旅の記録である。
「誰でもいいなら、今は割り切って裸になる奴は増えたかもしれない。でもそういうお金だけの売春婦みたいな奴は、なるべくハズしてるんだよね。俺が撮りた い、出会いたい女の子はフツーのコだからさ。普通の女の子の恥じらいを撮りたいから頑張ってるわけで、元風俗嬢とか、援交女とか、金金って奴はパスしてる んだ。だから何日も何日もひたすら声かけてる。今まであまり楽っていう作品はないよね」
自宅から着替えや荷物を全部放りだされて、事務所で一人眠れない夜を過ごしたとき。耐えられない孤独感で、涙を流してしまった。泣きながら思った。今まで出演者たちに酷いことをしたから、バチがあたったのかもしれない、と。
「女体クラッシュで、追い込みすぎて気が狂った女とか。エクソシストみたいに発狂しちゃったんだよね。可哀想だった。あと生き返ったけど、インドで金子 (観念絵夢)を殺しちゃったりとか。アイツ三十分間、息しないで死んだと思ったけど、生き返ったんだよね。生き返らなかったら金子とテープを、インドのど こかに埋めて逃げようと思ってたから。生き返ったときは、ホッとしたよ。金子はアイツだけは許さないって、今でも言ってるけど、しょうがないよね。家族を 失ったとき、悪いことはしちゃイケナイんだな、自分に返ってくるんだなって思ったよ。もう、自分の道が見つかったから、そういうのは封印するよ」
『実録ナンパ中出し』を成功させたお金で、沖縄の両親に土地と家をプレゼントした。両親は「ありがとう」と喜んでくれた。まだまだ、辞められない。路上に立ち続けたい。年老いた両親を眺めて、そう心に決めた。(オレンジ通信 04年5月号)