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日暮れて道遠し:30年目の中国残留孤児/5止 人生の最後、祖国で幸せを /埼玉

 ◇続く「戦後」支える人願う

 やはりそうなのか、と納得した。

 所沢市にある「中国帰国者定着促進センター」で今月、小林悦夫所長(59)が「これから帰国する高齢の残留孤児たちは」に続け、こう言い切ったからだ。

 「日本語習得をめざしてはいけない」

 センターができた84年から、日本語学習を担当してきた小林所長だから言えるのか。

 「最初のころ、40歳代で帰国した人たちでさえ、いまだに日本語が片言程度の人が多い」。厚生労働省の05年の調査では、日常会話に不自由しない元孤児は16・2%だった。

 「孤児の平均年齢が70歳を超える今後、日本語の会話をマスターするのはほぼ不可能です」

 年齢に加え、残留時の厳しい環境も、言葉の習得を阻む一因だ。

 中国では当時、学校教育を受けた人は少なく、農家の働き手として過ごした孤児の中には、中国語の読み書きさえできない人もいる。「学習」そのものが初めてなのだ。

 小林所長らは、半年間の研修中に何とか習得してほしい、と熱意を込めてきた。「お前ら、ちゃんと教えているのか」と、政治家から文句を言われることもあった。しかし、現実として、6カ月の研修で身に着くことは、はるかに少ない。

 「日本に行けばなんとかなる。本来の自分の言葉を取り戻す」。そんな孤児たちの切実な思いが空回りする。

     □

 訪日肉親調査が始まった81年度に帰国した残留孤児・婦人(家族を除く)は193人。95年度には399人に上った。その後は下降線となり、昨年度は15人になった。

 帰国者の減少に伴い、センターは今年度から予算を20%削減された。活動を手助けしてきた市民団体「中国帰国者定着促進友の会」は今年、会員の高齢化などで25年の歴史に幕を下ろす。取り巻く環境は厳しい。

 「学習どころか、要介護の帰国者も今後入所するだろう。一方で、3、4世を中心に日中の懸け橋となる人材の育成にも力を入れていかなければ」。小林所長は、センターの新たな役割を掲げる。

     □

 3月末まで、センターの所長を務めた小林佑一郎さん(63)は、かつて厚労省の職員として、引き揚げ援護業務に従事した。「自分はどこのだれなのか。肉親に巡り合いたい」、第1回訪日肉親調査から多くの残留孤児の叫びを聞いた。

 地道な調査の末、本当の肉親と確認され、対面が実現。抱き合う姿を見て、「やっていて良かった」と実感した。一方で、長年世話になった養父母を置いて、日本に帰国する孤児たちを見て「親子って何だろう」と思ったこともある。

 日本国民が涙した「親子の再会」の後ろには、中国で人知れずに繰り返された「親子の別離」があった。

 小林前所長の原点は北海道の高校生だった45年前、「サハリン墓参団」の新聞記事を読んだことだ。「戦後20年もたったのに、戦争ってまだ終わっていないのか」と少し驚き、戦後処理をする仕事に就きたいと思った。

 今年8月15日。65回目の終戦記念日が巡ってくる。戦争体験の「風化」が言われて久しいが、中国残留孤児たちの「戦後」はこれからも続く。

     □

 「せめて、人生の最後を祖国で楽しんで、幸せを感じてほしい」

 失われた時間と言葉に戸惑う孤児を支える人たちは、そう願う。【内田達也】=おわり

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 ◇中国帰国者定着促進センター

 旧厚生省の外郭団体「中国残留孤児援護基金」が84年2月に永住帰国直後から日本語教育や生活指導を行う「中国帰国孤児定着促進センター」として設立した。大阪など全国各地にもあったが、現在は所沢だけ。94年から現在の名称に変更、04年から研修期間も4カ月から6カ月に延長された。所沢センターの今年度の予算は2億7000万円(昨年度3億5000万円)、常勤職員は33人(同35人)。残留婦人や樺太(ロシア・サハリン)からの帰国者も入所している。

毎日新聞 2010年4月22日 地方版

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