中国の帰国者やその家族が日本語などを学ぶために過ごす「中国帰国者定着促進センター」(所沢市)。記者が通うようになって4年になる。
今月中旬に会ったのは、スマートな若い女性だった。
「将来は旅行会社での仕事を考えているけど、まずは日本語をマスターしたい」。流ちょうな英語で話す唐〓さん(28)は、2月に大連市から来日した。髪は軽くウエーブし、赤いパーカーを着こなしている。
夫の金〓さん(28)とは留学先のニュージーランドで知り合った。長男、軒毅くん(2)を連れての日本行きにも積極的だった。
若い2、3世を対象にした「大人3コース」に入り、速いペースで日本語と日本事情を学ぶ。祖国の言葉を取り戻そうと、もがく高齢の残留孤児とは違い、電子辞書片手に新しい単語を次々にマスターする。
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そんな若い家族の傍らにいたのが、金さんの父で残留孤児だった、山口勝利さん(64)=中国名・金恒偉=だ。
山口さんが、日本人であることをはっきり知ったのは、1967年に養父が亡くなる直前。「お前は日本人だ」と打ち明けられた。20歳を過ぎたころだった。
32歳の時、兵庫県伊丹市に帰国していた兄から手紙をもらい、身元が分かった。一時帰国し、長崎県佐世保市にいる父母に会った。
すぐに永住帰国はしなかった。「結婚したばかりで生活も仕事も充実していました。言葉のできない自分が日本で、同じような暮らしを望めるはずがない」
子どものころ、「小日本」とからかわれたことはあった。が、職場でも地域でも日本人というだけの理由で不当な仕打ちは受けなかった。会社は無事に勤め上げた。
「やることもないし、老後は日本で過ごすのもいいか」。若い世代の熱意に押されるように永住帰国を決めた。「日本での生活がうまくいくか、もちろん不安もあるが、家族みんなで帰国したので、大連にいた時と同じようだ」。淡々とした口ぶりで語る。
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センターで研修中の三浦喜代志さん(66)=中国名・王洪江=も「ずっと中国にいるつもりだった。日本に定着する気持ちはなかった」と明かす。
大連市内の工場で働いていた37歳の時、自分が日本人だと分かった。81年には一時帰国し、静岡県磐田市に住んでいた母との面会も果たした。
09年2月に3度目の集団一時帰国を終えて家に戻ると、運転手をしていた長男、王暁巍さん(38)に言われた。「日本で仕事をしたい。みんなで永住しよう」。迷ったが、妻の張延さん(63)も前向きだった。「みんながそう言うのなら」
センターでは孫娘の王日さん(11)も懸命に日本語の勉強中。新天地を決めた一家の表情は明るい。
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肉親が判明せず、永住帰国しても悔しさを抱える残留孤児とは違い、山口さんも、三浦さんも、気持ちに余裕がある。
日本語こそ流ちょうではないが、何度かの一時帰国を経験し、日本の事情にも明るい。自分の立場を冷静に見つめてもいる。
経済発展著しい中国から不況の日本へ。一体、なぜ? 「中国の経済発展なんてまだまだ。日本にはたくさんのチャンスがある」。二人はそろって笑った。【内田達也】=つづく
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残留邦人の円滑な帰国促進と永住帰国者の自立支援のため、公営住宅の優先入居や国民年金の3分の1支給などを盛り込んで94年に施行された。しかし、帰国者は言葉が不自由で安定した職を得られず、生活保護に頼るケースが多いため、老後の生活安定を図るため、07年に議員立法で改正支援法が成立。老齢基礎年金の満額支給に加え、補完する支援給付を実施するなど、経済的支援を厚くした。
毎日新聞 2010年4月21日 地方版