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日暮れて道遠し:30年目の中国残留孤児/3 「敵国」の子、育てた愛情 /埼玉

 ◇養父母の恩に報いたい

 ♪あのふるさとへ、帰ろかな~

 揚琴や笛、チェロなどの澄んだ音色に合わせ、ステージ前で全員が合唱を始めた。

 中国でも人気の「北国の春」。朗々と歌い上げる男性や、つえをつきながら歌詞カードに目を落とす老婦人たち。昨年9月、ハルビン市内のホテルの宴会場で歌声が重なった。

 東京中国歌舞団(東京都北区)が、93年から毎年行っている「中国養父母・残留邦人慰問」。劉錦程団長(61)と、副団長で歌手の陽二蓮さん(53)ら12人は、5泊6日で養父母や孤児の慰問、墓参などをした。懇親会を兼ねたディナーショーには、5人の養母らと8人の残留孤児が参加し、歌で心を通わせた。

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 劉団長の母、水田末子さんは、北海道生まれ。一家は満蒙開拓団として牡丹江市に移住した。12歳だった1945(昭和20)年8月、満州に侵攻したソ連機の空襲を受け、学校の校舎は炎を上げた。

 「母は、家族ともはぐれ、同級生たちと南の方角を目指して逃げたが、最後は1人になったそうです」と、劉団長が振り返る。

 水田さんはある農家に飛び込み、2年ほど養ってもらった後、大都会の長春市に出たという。飲食店でアルバイトをしていた時に夫と知り合い結婚。17歳で、劉団長が生まれた。

 1972年、日中国交正常化。歴史の大きなうねりが、残留していた日本人たちにも影響を与えたのだろう。水田さんは、領事館を通じて、東京に母が生きてることを知る。75年、1人で帰国した。劉団長ら家族は81年に合流した。

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 劉団長は日本語を勉強しながら「中国で学んだ音楽を日本でもやりたい」と翌年、在日中国人音楽家で歌舞団を結成した。

 水田さんは92年に亡くなった。まだ59歳だった。最期まで、こんな感謝の言葉を繰り返したという。「助けを求めた農家の養父母がいなかったら、私は生きられなかった」

 「母はその後、養父母に会うことはなかったようです」と、劉団長。60年代の文化大革命に巻き込まれた水田さんは、地方の寒村に配属された。その「傷」が、恩人に影響を与えることを心配したからだ。

 劉団長も、養父母の行方は知らないままだ。

 「母の命を救ってくれた養父母のおかげで、私が生きている。会ったことはないが、私にとっても恩人です。孤児が日本に帰国して、寂しい思いをしている養父母も多いに違いない。その人たちの思いに報いたい。私にできるのは、音楽を届けることだと思った」

 水田さんの死去の翌年、慰問を始めた。

     □

 副団長の陽さんは、上海出身。日本人男性と結婚、来日した83年当初は「満州」のこともよく知らなかった。その後、劉団長に出会い、歌舞団に参加。養父母たちが孤児たちに注いだ愛情の深さを知るようになった。

 残留孤児問題の風化は急速に進む。慰問団が始まったころ60代後半だった養父母の平均年齢は、80代半ば。慰問する相手がいなくなる日も遠くない。

 陽副団長は「前の年に元気だったおばあちゃんが、去年訪れた時には亡くなっていた」と話す。「でも……」

 「養父母が一人もいなくなっても訪問は続けたい。かつての敵国の孤児を育てたという養父母たちの存在を、日中の若い世代に忘れてほしくないから」【内田達也】=つづく

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 ◇残留孤児と残留婦人

 45年8月9日のソ連の満州侵攻以降の混乱で、肉親とはぐれ中国人養父母に引き取られ、身元も知らないまま育った人を残留孤児、生活の手段を失い中国人の妻となるなどして中国に残った人を残留婦人と呼ぶ。肉親調査の対象となる孤児は、日中両国政府が、両親が日本人、当時の年齢がおよそ13歳未満などと定義している。

毎日新聞 2010年4月20日 地方版

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