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日暮れて道遠し:30年目の中国残留孤児/2 残された仲間に衝撃 /埼玉

 ◇引き揚げた自分重ね

 所沢市に住む木村孝さん(83)が大切にしているものがある。1通の戸籍謄本だ。

 <昭和2年7月20日南満州鉄道付属地、蓋平駅前警来22号地で出生、同月26日牛荘領事館受付>

 とある。

 少年、青年期を過ごした「満州」の記憶は、喜びと悲しみが入り交じる。

 「父の仕事の都合と一帯の治安がよくなかったことから、城壁で囲まれた古い町に引っ越しました。幼児期をそこで過ごした。友達は中国人の子ばかりでした」

 駅前にあった日本人小学校には、馬車で通学した。中学校は寄宿舎で過ごした。一転、激化する戦争。新京(長春)にあった航空機乗員養成所で訓練を受けていた1945年8月、戦争が終わった。18歳だった。

    □

 生まれ故郷の蓋平に戻った。しかし、終戦の直前に、ソ連軍が日ソ不可侵条約を破棄して満州に侵攻していた。日本人社会は大混乱に陥っていた。略奪、暴行、強姦(ごうかん)。「治安を維持するため、自警団をつくった」

 ソ連撤退後は、八路軍(中国人民解放軍の前身の一つ)の支配地域になった。人民裁判で、在郷軍人分会長や小学校長らが銃殺された。

 引き揚げ船をめざした。「大けがで動けなくなった母を背負って歩いた。上陸を前に、船の中で命を落とす人もいた。明日の命も分からない。祖国に帰るのはこんなにも大変なのかと思った」。博多の港に着いたのは、46年11月末だった。

 81年から始まった訪日肉親調査の報道を食い入るように見守った。「親と離れ、中国に残されたあの人たちの中に私がいても、少しも不思議はなかった」からだ。

 その3年後、自宅のある所沢市内に、残留孤児たちが日本語や慣習を学ぶ「中国帰国孤児定着促進センター」ができると聞くと、居ても立ってもいられなかった。活動を支える市民団体「中国帰国孤児定着促進友の会」の結成にかかわり、事務局長に。花見、盆踊りといった行事を通して、「日本」を伝えた。

 しばらくたって、古里の蓋州市から6人の残留孤児と2人の残留婦人が帰国した。喜びとともに感じたのは、激しい動揺だった。「生き残った人は一人残らず一緒に帰ってきたと思っていた。仲間を8人も残していたことがショックだった」

    □

 吉林市近くに住んでいた女性(73)=志木市=の一家がソ連軍の略奪にあったのは終戦直後の9月ごろ。近所ではソ連兵に強姦された日本人女性もいて、当時のことを話すと声が震える。

 両親は銃剣を突きつけられ身動きができず、ソ連兵は家財道具を次々に運び出し、軍用トラックに積み込む。「そのコートは、私のものよ。持っていかないで」。少女の哀願も薄ら笑いを浮かべた兵士は無視した。

 「幼い子どもを中国人に託した若い母親が、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた」。親と子が引き裂かれる場面を何度も見た。翌年9月、博多港にたどり着くまでに、祖母や姉ら多くの人が命を落とした。

 女性も今、帰国者と交流する市民団体の運営に携わる。満州から無事に引き揚げられた自分と、残された人々。そこにどのような違いがあったのだろう。そんな自問を繰り返す。【内田達也】=つづく

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 ◇満州国

 1931年の満州事変で日本の関東軍が満州全土(中国東北部)を占領。中華民国からの独立を宣言し、32年に清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀が元首の満州国が建国された。日本政府は国内の貧困農村住民などから「満蒙開拓移民団」を募集し、多数を満州に移住させた。満州国の人口は40年時点で4200万人、日本人は最大時で100万人いたと推測される。45年、日本敗戦で崩壊した。

毎日新聞 2010年4月18日 地方版

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