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日暮れて道遠し:30年目の中国残留孤児/1 帰国後も「私は誰?」 /埼玉

 ◇平穏な暮らし、残る苦しみ

 「ちょっと待っていなさい。これから頑張るのよ」。森川栄太郎さん(73)=所沢市=は、母にそう言われたと記憶する。終戦の年、8歳。中国・長春市の精肉店の前だった。

 母はいつまで待っても現れなかった。少し日本語のできる精肉店の店主から「もうお母さんは帰ってこない。今日から私たちをお父さん、お母さんと呼びなさい」と声をかけられた。養父母との出会いだった。

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 2月下旬、帰国者らが月に2回集まる所沢市内の交流会。中国語の歌を歌う仲間たち。拍手と歓声--。そのにぎやかさにしばらく背を向けて、森川さんは話を続けた。通訳の女性が、日本語に換えてくれた。

 13歳で、養父母は離婚した。養母と暮らし、中学卒業後は長春の映画会社に就職した。

 31歳の時、養母が死去した。養父が病気になると、43歳だった森川さんが引き取った。

 「戦争が終わったころの話を少しずつ聞きました」。実の父が戦死したことや、母から「たろう」と呼ばれていたことを、養父は明かした。精肉店の前での「別れ」が、実母と、子供のいない養父母との間で了承されていたことは想像がついた。

 「でも、実の母の名前は聞き出せないまま養父も亡くなった」

 96年に40年働いた映画会社を定年退職した。その翌年、妻(71)、次男(41)と一緒に帰国したが、身元判明にはつながらなかった。戦後50年が過ぎ、訪日調査の身元判明率は10%を切るようになっていた。日本名を名乗り暮らし始めた。

 「もう少し早ければ状況は違っていたのでは、という気持ちもあった。でも、育ててくれた養父母を責める気にはなれない」

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 中村恵子さん(67)は延吉市で育った。養父母は実の子のように愛情を注いでくれた。師範学校を卒業して小学校の教師になった。

 周囲も日本人の恵子さんに配慮し、60年代の文化大革命にも巻き込まれず、教育委員会や児童館の仕事に従事した。一男一女は独立した。

 97年に帰国した。

 入間市で、夫(67)と平穏な暮らし。帰国者同士で話も弾む。しかし、自身の身元は分からないままだ。「せめて、親の墓参りだけでもしたいが、それもかなわない」。こらえていた涙が一筋流れた。「私が誰なのかが分からない。それが苦しい」

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 森川さんも、中村さんも日本語での細かなやりとりはできない。帰国者以外の友達は多くはない。

 森川さんは言う。「近所の人とは筆談で時々話せるし、年金と支援給付でなんとか暮らしていける」。日本人と結婚した次男は、旧正月の2月になると食事に招き、お年玉までくれる。

 「帰国して本当に良かったですか」と記者は問うた。しばらく黙った後、森川さんは「周囲の人たちには良くしてもらっています」と笑顔を見せた。「本当に良かった」という答えではなかった。

     *

 中国残留孤児の存在は、81年3月に厚生省(当時)が実施した初の訪日肉親調査で広く知られるようになった。涙の対面や未判明の悔しさ、そして、名乗り出られない肉親の声にならない声が日本人の魂を揺さぶった。しかし、次第に薄れていく関心。失った時間と言葉を取り戻せないまま、老境を迎えた元孤児にとって、「帰国」とは何だったのか。【内田達也】=つづく

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 ◇訪日肉親調査

 厚生省(当時)の訪日調査には、99年度までに2116人の孤児が参加し、672人の身元が判明した。00年度からは孤児の高齢化に伴い、中国で日中共同の調査を行い、肉親情報がない場合は訪日調査を経ずに直接、一時帰国や永住帰国ができるようになった。家族を含む永住帰国者は3月末現在で2万786人。このうち、残留孤児は2544人、残留婦人は4102人。

毎日新聞 2010年4月17日 地方版

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