韓国併合100年を考える(下)
日韓民衆の草の根からの連帯で差別と排外主義に立ち向かおう |
戦後補償要求と村山談話
一九九一年八月、元日本軍「軍隊慰安婦」だった金学順さんのカミング・アウトは、日本軍性奴隷制の被害当事者からの初の告発として、大きな衝撃を与えた。「従軍慰安婦」は民間業者の「商行為」だと居直ってきた日本政府も、「慰安所の設置」、「慰安婦の募集」、「監督」などに日本軍が直接関与していたことが資料的にも明らかになったことにより、一九九三年八月の河野官房長官談話で「慰安婦」問題に関して「総じて本人たちの意思に反し」「女性の名誉と尊厳を傷つけた問題」として、「お詫びと反省の気持ち」を表明した(河野談話)。中国人強制連行による被害の「戦後補償」問題も提訴され、戦争責任とならぶ戦後責任、そして「戦後補償」の課題が大きく取り上げられることになった。
冷戦構造の崩壊をついて噴出した、「軍隊慰安婦」の尊厳と正義、自己回復への訴えである「戦後補償」の要求は、アジア民衆への戦争犯罪・植民地支配の責任を果たさないまま、「復興と繁栄」を遂げた戦後日本の在り方を鋭く問うものだった。これは日韓会談の中で露わになった朝鮮植民地支配正当化の論理を根本的に克服する機会でもあった。
しかし戦後五十年の一九九五年にあたって村山社会党委員長を首班とする自・社・さきがけ政権の下で採択された「戦後五十年国会決議」(6月)は、「大東亜戦争は自存自衛の戦争」だったという自民党内の天皇主義極右派の巻き返しによって「侵略戦争」という言葉も被害者への「謝罪」も「補償」もない無意味なものにさせられた。
八月十五日に閣議決定の上で発表された村山首相談話には確かに「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」という一節がある。
しかしこの談話には、いかなる事実に対して「反省とお詫び」するのか、という具体性が全くない。「過去の一時期」とはいつのことか、どのように「国策を過った」のかという指摘もない。従って、韓国併合と植民地支配を一貫して正当化してきた歴史観の転換もないのである。それは、日本軍「慰安婦」への謝罪と補償が「アジア女性基金」に換骨奪胎されてしまったことと表裏一体をなすものだった。
日本は朝鮮独立を支援した?
「戦後五十年」は、日本の侵略戦争と植民地支配を正当化する極右の政治潮流が新たなレベルで結晶化する契機となった。自民党に設置された「歴史検討委員会」は「大東亜戦争はアジア解放の戦争」だったという視点から一九九五年に『大東亜戦争の総括』を刊行した。安倍晋三、中川昭一などの極右派が「若手議員」として登場したのもこの時である。それは後の「新しい歴史教科書をつくる会」などの「歴史修正主義潮流」の活性化、「主権回復をめざす会」、「在日特権を許さない市民の会」など「行動する保守」を自称する公然たるレイシストたちが、旧来の「街宣車右翼」とは一線を画す装いで登場する水路を切り開いた。
日本の韓国併合・植民地支配に関する彼らの歴史観は、前述した戦後の日本政府・支配階級・多数派世論の認識をほぼ忠実に継承したものだ。彼らの一貫した立場は、「明治政府は朝鮮の独立を一貫して支えようとした」とするものだった。
たとえば「歴史修正主義」の旗手として一九九五年に「自由主義史観研究会」を立ち上げた藤岡正勝は『坂の上の雲』に代表される司馬遼太郎の明治国家についての認識に依拠しつつ「日本政府が望んでいたのは、李氏朝鮮がロシアや清国の言いなりにならない、自前の独立した近代国家としての歩みを始めてほしいということでした」と述べた(藤岡『汚辱の近現代史』徳間書店刊、1996年)。ただこの段階(1996年)での藤岡・「自由主義史観研究会」の立場は「日露戦争後、アメリカの日本敵視政策が始動するとともに、日本は戦略的な選択の誤りをおかした。朝鮮半島に対する対応は別の選択肢がなかったかどうか、十分な検討の余地がある」という、いまだ「中間的」なものであった。
他方「新しい歴史教科書をつくる会」の会長になった西尾幹二は『国民の歴史』(扶桑社刊、1999年)の中で次のように書いている。
「朝鮮半島は北からの脅威のいわば吹き抜けの通路であった。明治日本は自衛のためにも朝鮮の清からの独立と近代化を願い、事実そのために手を貸したが、朝鮮半島の人々はいつまでたっても目が覚めない。自国さえ維持できない清に、朝鮮半島を牛耳ったままにさせ、放置しておけば、半島はロシアのものになるか、欧米諸国の草刈り場になるだけであったろう。つぎに起こるのは日本の独立喪失と分割統治である。/日本は黙って座視すべきだったろうか。近代日本の選んだ道以外のどんな可能性が他にあったであろう」。
西尾は日清戦争における日本の勝利によって、「朝鮮は初めてこれで中国から解放され『独立国』となった」と語るとともに、当時の東アジアをめぐる国際環境の中で「一九一〇年の日韓併合は、ここまでくると当時としてむしろそうならなかったら不思議と言われそうな世界からは当然と見られた措置であった」とまで主張している。
つまり、明治の天皇制日本国家は、日露戦争まで一貫して「善意に満ちた隣国」として朝鮮を「独立近代国家」とするための支援を行ってきたが、朝鮮の頑迷固陋のためにやむを得ず併合することになったと主張するのであり、また日本の朝鮮併合は朝鮮の「近代化・経済発展」のための「出血サービス」だというのである。
『嫌韓流』や「在特会」に代表される極端なレイシズムの論理は、行動・コミュニケーション形態における「新しさ」はありながら、基本的には戦後も一貫して世論の主流派だった朝鮮人蔑視に根ざした、こうした韓国併合・植民地支配正当化の伝統的主張に依拠したものと言えるだろう。
東学農民軍「せん滅」作戦
「日本が朝鮮の独立国化」を目指したという右派勢力の主張は、たとえば日清戦争後の講和条約(下関条約、1895年4月)の第一条が「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。因(よ)って右独立自主を損害すべき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全くこれを廃止すべし」とされていることなどを論拠としている。しかしこの朝鮮の「独立自主」化とは、清国との「宗属関係」を断ち切って日本の「保護国」化――事実上の植民地支配の下に組み入れるという宣言だった。
日露戦争においてはもはや「韓国の独立自主」支援という名分は言葉としても出てこなくなる。実際、開戦前年(1903年)の日露協商にむけて日本側が閣議決定した骨格は「日露両国は互に其韓国又は満州に於いて現に保有する正当の利益を認め、之が保護上必要の措置を執りうること」だった。つまり満州と韓国の日露両国による分割・植民地化の提案である。さらに同年八月に小村外相が駐露日本公使宛に送った訓令は「韓国における改革及善政の為め助言及援助(但し必要なる軍事上の援助を包含すること)を与うるは日本の専権に属することを露国に於て承認すること」という規定を盛り込んだものだった。
日清・日露戦争は、いずれも右派の主張するような日本の「自衛戦争」などではありえない。それはまさしく朝鮮の従属化・植民地支配をめぐる侵略戦争であり、韓国の独立を奪い、併合する力学を内包したものだった。さらにそれは中国を中心とした東アジアの旧秩序の崩壊過程の中で、欧米帝国主義の侵略・植民地化の体制に新興帝国主義としてその一翼を担った日本が、中国・アジア侵略戦争に突入していく水路を形成するものだった。
こうした日本の侵略に対して朝鮮半島の民衆は決然と抵抗し、日本軍はその抵抗闘争に残虐な弾圧を加えた。一八九四年の日清戦争では朝鮮を占領した日本軍に対し東学農民軍が蜂起した(甲午農民戦争)。この農民蜂起に対し日本軍は「ことごとく殺戮すべし」との方針で包囲殲滅作戦を強行した。殺された東学農民軍は優に三万人を超えたとされる。この数は日清戦争での両国戦死者数(戦病死をふくむ)をはるかに上回る(井上勝生「東学農民軍包囲殲滅作戦と日本政府・大本営」、『思想』10年1月号)。
また日露戦争下の日本軍占領に対しても各所で抗日運動が展開され、そうした流れの中で一九〇六年から一九一〇年の併合後も「義兵」の日本軍に対する戦闘が展開された。とりわけ一九〇七年の韓国軍の解散以後、旧韓国軍兵士たちの義兵戦闘参加が増大し、最盛期の一九〇八年には、交戦回数が約二千回、戦闘に参加した義兵の数は八万人以上に達した(海野福寿『韓国併合』に転載された韓国の「国史編纂委員会」編『韓国独立運動史』から作成した表による)。
こうした植民地支配への抵抗の闘いの水脈は韓国併合以後も、厳しい弾圧を受けながら、時として大きく噴出し(1919年の3・1独立運動など)、連綿として継続したのである。
東北アジアの平和のために
「韓国併合」百年の今年、八月二十二日の「併合条約」の日を中心に、さまざまな企画が進行している。一月三十一日には八月の「日韓市民共同宣言大会」開催に向けた日本側実行委員会も発足した。二月二十七日に開催された「2010年運動」主催の「韓国併合100年―3・1独立運動91周年集会」では日韓両国で同時発表される「東北アジアの真の和解と平和のための2010年日韓(韓日)民衆共同宣言」が読み上げられた。
「東アジア共同体」構想をうたう鳩山政権は、自ら「歴史を直視する政権」と語り、十一月十五日のシンガポールでの講演で「日本は多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に多大の損害と損失を与えた後、六十年以上がたった今も、真の和解が達成されたとは必ずしも考えられていない」と述べている。もっともこの講演は「アジアでの米国のプレゼンスはアジアの平和と繁栄に重要な役割を果たし、今後も果たすだろう」という「日米同盟」基軸論とセットであり、また「自衛艦を『友愛ボート』として民間人を乗せ、太平洋・東南アジア地域で医療・文化活動を行う」といった自衛隊を活用した「東アジア共同体」論なのであるが。鳩山政権が真に「歴史を直視」することができるかどうかは、何よりも政権の実績によってこそ検証される。高校授業料の「無償化」対象から、当面朝鮮学校を排除し、外国人参政権法案を先送りしようとしている鳩山政権に侵略と植民地支配の歴史を「直視」する姿勢があるのだろうか。
他方、極右レイシスト勢力は「韓国併合百年」の今年を、日本の侵略・植民地支配の歴史を正当化するために「日韓併合百年集会」を八月二十二日に日比谷公会堂で開催するとしている。
日本の労働者・市民運動にとって、「韓国併合」百年の課題は、第一に、日本帝国主義による韓国の独立を奪った「韓国併合」・朝鮮植民地支配の歴史を認識・総括し、同時に、そうした支配者の政策を支持したばかりか、むしろその先兵になっていった民衆の歴史的な朝鮮蔑視・差別意識を真に克服することである。
韓国併合・植民地支配への謝罪、軍隊「慰安婦」をはじめとした戦争被害者への謝罪と補償を行い、被害者の尊厳・正義を国会決議を通して実現することは、その第一歩である。朝鮮人学校の無償化除外を阻止し、外国人参政権法案を成立させることも、そうした運動の一環をなすものだ。
帝国主義的民族主義・国家主義意識は、「戦後民主主義」の下でも繰り返し再生産されてきた。今日、資本主義の危機の深まりと、東アジアにおける日本の位置の急速な衰退の中で、若い世代の間にも公然たる排外主義・レイシズムに同調する気分が少なからず広がりを見せている。レイシスト勢力は「嫌中・嫌韓」意識をなんのためらいもなく暴発させ、朝鮮学校、中国人商店、彼らが「反日勢力」と規定する労働者・市民運動に対しても直接的暴力行使をエスカレートさせつつある。萌芽的ファシズム運動としての性格を持つこうしたレイシスト勢力を社会的にはねかえす運動を強化しなければならない。
第二は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への経済制裁を解除し、日朝国交正常化にむけた交渉を前進させるとともに、東北アジアの非核化と平和保障の枠組みを構築するプロセスを前進させることである。一九九二年の小泉・金正日の「ピョンヤン宣言」では、「植民地支配によって朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め痛切に反省する」と小泉が述べ、国交正常化交渉の再開を確認するとともに、賠償ではない「経済協力方式」による支援を北朝鮮指導部が受け入れた。
しかし、北朝鮮による拉致犯罪と、核実験の強行、そして北朝鮮への国際的経済制裁の強化を背景に、国交交渉は完全に行き詰っている。われわれは北朝鮮・金正日軍事独裁体制の拉致犯罪・民衆への人権弾圧を糾弾し、冒険主義的「核開発」計画の放棄を要求する。しかしそのことは、日本政府が「制裁」を解除し、国交交渉の誠実な再開と進展に向けて歩を進めるための努力と並行したものでなければならない。
何よりも「北朝鮮の核の脅威」という自分たちも全く信じていない理由で、「ミサイル防衛」という名の先制攻撃体制の強化をふくむ「日米同盟の深化」に固執することから転換し、軍事力によらない「平和」の基盤を構築するためのイニシアティブを「東北アジア」の地から構築することが必要なのである。その意味でも沖縄の米軍基地撤去、米軍再編戦略の撤回、安保条約の廃棄は、朝鮮半島の平和にとって決定的な意味を持っている。
朝鮮半島に今日も続く戦争状態に終止符を打つことは、朝鮮半島の南北分断に責任を有する天皇制日本帝国主義の植民地支配の清算にとって不可欠の課題なのである。
われわれは、東アジアにおける持続的な平和の実現を保障する地域的な政治構造をめざし、その下での民主主義・人権・社会的公正を貫く交流と連帯を通じて、「民衆自身の東アジア共同体」をめざそうとする。このような闘いこそが、北朝鮮や中国の官僚独裁体制を民衆自身のパワーで一掃する条件を作りあげるのだということを確認しよう。
そうした運動にとって、「天皇・皇后が高宗と閔妃の墓に詣でる」ことを求める和田春樹の意見(「対談 朝鮮植民地支配とは何だったのか」における発言、「世界」10年1月号)は、まさに阻害的な役割しか果たさないことを付言したい。
(平井純一)
追記:明治以後の政治思想、民衆や政治運動にとっての朝鮮・韓国認識が抱える諸問題、あるいは天皇制と朝鮮に関係する課題の検討については、時間の関係でできなかった。出来るだけ早く、掲載の機会を作りたいと考えている。
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