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【芸能・社会】

元祖昭和の爆笑王 三遊亭歌笑甦る 初めての本格評伝22日発売

2010年4月22日 紙面から

 戦後一世を風靡(ふうび)しながら、進駐軍のジープにひかれて33歳で亡くなった落語家、三遊亭歌笑の評伝が22日、新潮社から出版される。後に渥美清さんが映画で、風間杜夫がテレビドラマで演じたこともある伝説の落語家の生涯がこと細かに描かれるのは、初めて。これを機に、歌笑の芸そのものが見直されることにもなりそうだ。

 本のタイトルは、「昭和の爆笑王 三遊亭歌笑」(岡本和明著)。“昭和の爆笑王”と言えば、だれもが思い浮かべるのは、林家三平(先代)だろう。が、若き日の三平があこがれ、実際に弟子入りを志願したこともあったのが歌笑だった。破天荒と称された三平の芸の原点は、時流をとらえた新作にこだわった歌笑の芸にあるとも言われる。

 歌笑の人気ぶりは、すさまじかった。1948(昭和23)年ごろから、落語家として初めて浅草国際劇場、日劇に出演し始める。日劇では観客の列が何重にも取り巻き、美空ひばりと並ぶほどの集客力をみせた。

 49年当時の歌笑の年収は80万円。師匠の金馬や俳優辰巳柳太郎の50万円、プロ野球の大下弘の46万円を軽く上回った。

 高座には白いスーツや軍服姿で登場、自作の「純情詩集」「妻を語る」「ジャズ息子」などを立ち姿で演じ、大衆を爆笑の渦に包んだ。それは、不遇な人生体験と研究から生み出された独特の芸だった。

 そもそも歌笑は、東京・五日市町(現あきる野市)の製糸工場を営む家に生まれたが、生まれつきの弱視と斜視、エラの張った特徴的な顔立ちで、親が親類の披露宴にも出席させないほどだった。いじめられるのは日常茶飯事で、いつしかラジオで聴く落語が唯一の楽しみとなり、落語家を志す。

 紆余(うよ)曲折を経て金馬に弟子入りして修業を積み前座、二ツ目、真打ちと登り詰める。落語界でもいじめや嫉妬(しっと)に悩まされながらも芸の力で時代の寵児となるが、50年5月30日、銀座で進駐軍のジープにひかれ即死した。

 歌笑の甥で長らく名古屋・大須演芸場で看板を張った4代目歌笑(70)は、「亡くなった時は、本当にショックでした。これからの時代に向けてタップダンスも習い始めてましたから、どんな芸を見せてくれるのか楽しみにしてましたから。こういう形で、世の中の皆さんに知られるのは身内としてうれしい。若い方や落語家の皆さんにも読んでいただきたい」と話している。

 フジテレビのポッドキャスティング「お台場寄席」で解説をするなど落語に造詣の深い同局の塚越孝アナウンサーの話 私は40年前に、立川談志の「現代落語論」で「他人の死でこんなに悲しかったことはない」という愛情あふれる表現を読んで歌笑の存在を知りましたが、今落語ブームだとするなら、歌笑を知らずして落語を語るなかれと言いたい。これまで、歌笑に関する記述はほんのわずかでしたが、大事な宝物を見落とすところだった。著者の尊崇とも言える人間の描き方に、歌笑の価値を思い知った。

 

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