プロレス記者の独り言
取材歴25年の大ベテラン・川野辺記者のブログです。豊富な知識・経験をもとにプロレスの醍醐味を書き尽くします。
ラッシャー木村が語った〝今晩は事件〟
2010年04月22日 12:20 | フォルダ : ラッシャー木村
”マイクの鬼”とファンに親しまれ、愛されたラッシャー木村。そのルーツは”金網の鬼”にある。1970年(昭和45年)10月8日、日本で初めて金網デスマッチが国際プロレスで行われた。戦ったのは当然、ラッシャー木村と覆面レスラーのドクター・デス(ムース・モロウスキー)だった。それ以降、ラッシャー木村は”金網の鬼”の名を欲しいままにした。当時、国際プロレスを放送していたテレビ東京ではあまりの残虐シーンに金網デスマッチをオンエアしなかった。
そのラッシャー木村は前回でも紹介したとおり口数が異常なまでに少ない。「オレが、オレが」と人の前に出て自己アピールするタイプがほとんどのプロレスラーの中でダンマリを決め込む。取材記者泣かせである。「木村さん、取材お願いします」と声を掛けると「オレはいいよ。若い人の話しを聞いて原稿にしてよ」と話しの輪から消えて行ってしまう。
1975年(昭和50年)、IWA世界ヘビー級王者に君臨、国際プロレスのエースとなったラッシャー木村。当時の国際プロの代表吉原功がラッシャー木村にエースとしての心得を説こうとした。二人は国際プロ事務所近くの高田馬場の「相撲茶屋浜力」で食事となった。
吉原氏は「エースはこうあるべきだ」「新聞記者と話しをするように」と諭すつもりだった。ところが交わした言葉は「お疲れさん」の一言であとは黙々と酒を酌み交わすだけ。気がつけば二人で一升瓶4本を空けていたという。
そんな無口な男・ラッシャー木村が”マイクの鬼”となるのだから人間分からないものだ。初めてリング上でマイクを握ったのは国際プロレスが崩壊した直後の1981年(昭和56年)9月、アニマル浜口、寺西勇を引き連れてあがった新日プロのリング(田園コロシアム)。有名な「今晩は」事件を引き起こした。
「初めての所に行ってきちんと挨拶するのは当然のことだよ。オレは人に笑われるようなことはしていない」とラッシャー木村は”今晩は事件”を振り返りぶ然としていたものだ。
それから第一次UWF、全日プロと渡り歩き、ジャイアント馬場と抗争を繰り広げ「アニキ発言」からマイクを握るようになり、ファンの「マイク、マイク」の大コールに後押しされて”マイクの鬼”となり、ファンに最も親しまれ、愛されるプロレスラーとなっていくのだ。
「おい、東スポ、あんまりオレのことを書くなヨ。オレ恥ずかしいじゃないか」とのラッシャー木村のマイクを通したしわがれ声が聞こえてきそうだ。
そのラッシャー木村は前回でも紹介したとおり口数が異常なまでに少ない。「オレが、オレが」と人の前に出て自己アピールするタイプがほとんどのプロレスラーの中でダンマリを決め込む。取材記者泣かせである。「木村さん、取材お願いします」と声を掛けると「オレはいいよ。若い人の話しを聞いて原稿にしてよ」と話しの輪から消えて行ってしまう。
1975年(昭和50年)、IWA世界ヘビー級王者に君臨、国際プロレスのエースとなったラッシャー木村。当時の国際プロの代表吉原功がラッシャー木村にエースとしての心得を説こうとした。二人は国際プロ事務所近くの高田馬場の「相撲茶屋浜力」で食事となった。
吉原氏は「エースはこうあるべきだ」「新聞記者と話しをするように」と諭すつもりだった。ところが交わした言葉は「お疲れさん」の一言であとは黙々と酒を酌み交わすだけ。気がつけば二人で一升瓶4本を空けていたという。
そんな無口な男・ラッシャー木村が”マイクの鬼”となるのだから人間分からないものだ。初めてリング上でマイクを握ったのは国際プロレスが崩壊した直後の1981年(昭和56年)9月、アニマル浜口、寺西勇を引き連れてあがった新日プロのリング(田園コロシアム)。有名な「今晩は」事件を引き起こした。
「初めての所に行ってきちんと挨拶するのは当然のことだよ。オレは人に笑われるようなことはしていない」とラッシャー木村は”今晩は事件”を振り返りぶ然としていたものだ。
それから第一次UWF、全日プロと渡り歩き、ジャイアント馬場と抗争を繰り広げ「アニキ発言」からマイクを握るようになり、ファンの「マイク、マイク」の大コールに後押しされて”マイクの鬼”となり、ファンに最も親しまれ、愛されるプロレスラーとなっていくのだ。
「おい、東スポ、あんまりオレのことを書くなヨ。オレ恥ずかしいじゃないか」とのラッシャー木村のマイクを通したしわがれ声が聞こえてきそうだ。
本日の見出し 全日プロ激震!小島が退団
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