そこで切り取られる労働の過酷さ、対価というにはあまりにふつり合いな報酬形態は見る者の胸を悪くするのに十分ではあったが、一方である素朴な疑問が起こるのである。
「これを取材しているADはどうなのだろうか。このカワイソウな工員並か、もしかしたらもっと酷いとも言えるのではないか」
私も映像業界の端くれにいるので、そこで見聞きする、あるいは私自身が体験してきた撮影現場の労働環境は、ときに冗談のように劣悪なものである。
一方で、昔々の映画の世界、例えば成瀬巳喜男監督の現場では、朝9時から夜の5時までと撮影時間がかっちり決まっていたという逸話に衝撃を受けたりもする。私が関わってきた、そして常識として受け入れてきた映画撮影の現場とはあまりにもかけ離れているからだ。
〇映画を作る
9年前、まだ21歳であった私が装飾助手として参加した映画の、ある一日の流れを参考までに記したい。
明け方。朝4時半に起床。慌ただしく準備をして家を出る。街は暗い。6時半に映像業界待ち合わせのメッカである渋谷パンテオン(今はもうない)裏に到着。車でロケ現場に移動し、先輩、同僚らと共にセットを飾る。
「ヨーイ、ハイ!」と撮影開始。
働き働き怒られ飯食い働き働き殴られて、深夜の1時にようやく撮影終了。
セットをばらしてタクシーに乗り込み、家に帰り着く頃には2時半を回っている。ささっと風呂を浴び、深夜番組のニュースを眺めながらぼーっとする30分弱の時間だけが、安らげる唯一の時間である。先輩の怒号や拳骨が頭に浮かび、ついで「いびられ役」を担わされスタッフ陣から小突きまわされるサード助監督の力ない笑顔が頭に浮かぶ。
3時半に眠りに落ちて、2時間眠り、また出勤。
例えばこういう一日が、1カ月は続くのである。ときには朝遅いときも夜早く終わるときもあるが(早い、と言っても22時とかである。撮影開始から1週間も過ぎる頃には、ダマし絵のように、この時間で「早い」と感じてしまうようになっている)、休みはない。美術部は、撮影が休みの日にも、次のセットの準備をしなくてはならないからだ。
この現場は、制作費5億円規模の商業映画で、私が手にしたギャラは、1カ月と約10日で20万円であった。これは、私のそのときの年齢を考えると、業界的には「比較的」悪くない金額だったと思う。美術部で働く友人Aはよく連続ドラマ、いわゆる昼帯の現場につくのであるが、4カ月間ほとんど休みなしの重労働で、彼が手にする給料は、月額にして12万円程であった。
映画に関わっていると、「俺のギャラ、時給にしたらヤバイよ」という軽口をよく耳にするが、では私が受け取った「比較的悪くない」方の20万円で時給を割り出してみるとどうなるか。準備から含め平均して、少なく見積もっても1日平均15時間は働き、休みなしで40日。すると、日給5,000円、時給にすると約333円である。
交通費もギャラに含まれていた(ただし終電後のタクシー代は制作費から出る)ので、純粋に報酬として残る金額はもっと減ることになる。
野暮を承知でクソ真面目に指摘してみるが、これは立派な労働基準法違反である。厚生労働省が定める東京都における最低賃金は、時給791円である(2010年現在)。これは、例えばコンビニやファーストフードで働く高校生にさえ適用される数字である。
こういう話になると、映画スタッフは請負だから問題ない、という指摘が出てくることがある。
確かに、成果物の納入を約する請負契約の場合、最低賃金法は適用外である。しかし、その条件として、雇用主と労働者が指揮命令関係にないことが条件となる。つまり、どのように働いても自由、受けた仕事を下請けに出すのも自由だからこそ最低賃金が適用されないのであって、映画の撮影予定に合わせて、働く時間も場所も厳しく拘束される映画スタッフは、当然これに当たらない(注1)。
また、労働法においては、週に一日は休日を設けること、一日8時間以上の労働には残業代をつけなくてはならないことが定められているが、このような基本的なことを順守することも適わないのが映像業界の現状である。
仕事が100種あれば100通りの働き方があるように、映画の現場も部署によってそれぞれのやりがいと苦労があるので、単純な比較はできないが、印象として美術部並かそれ以上に休みを取れないのが、制作部と演出部である。一日の終わりに、スタッフを最後まで見送り、翌朝一番で現場に来ている彼らを見ていると、いつ寝ているのかと不思議になるが、実際、寝ていないのである。
〇人が死ぬ職場
以前、ある低予算映画の助監督をしていたときのこと、やはりその現場も低予算ゆえに余裕のあるスケジュールを組むことが適わず、早朝から深夜までの撮影が連日続いていた。
撮影開始1週間目。そろそろスタッフの疲労も限界まできている。その日は朝から野外での撮影で、昼過ぎにひとつのシーンが終わり次の現場に移動することになった。専門のドライバーを雇う余裕はないので、移動の際の運転は制作部の人間が行っていた。俳優を乗せた制作車両と、スタッフの車、2台に分かれて移動したのであるが、私たちを乗せたスタッフ車両が目的地に着いても、俳優を乗せた車両がこない。
しばらく待ち、だいぶ遅れて制作車両が姿を見せた。しかし様子がおかしい。運転がふらついているのである。
なんとか現場に到着した車輛から出てきた俳優は、顔面蒼白である。聞いてみると、運転手である制作のBさんが、運転中何度も疲労と眠気で意識が落ちて前後不覚となり、ありえないぐらいの蛇行運転を繰り返してきたのだと言う。
この笑えない状況は、映像の制作現場では驚くほど日常的に目撃される。先述した美術部の友人Aは、連日2、3時間しか眠れない激務のなかで美術車両を運転し、バンパーをぶつけてしまったことがあると言う(しかも、そのことで上司に怒られた挙句、月13万のギャラから車の修理代を引かれたのである)。
このような映画の現場における過労による不注意運転は、時に事故になり、実際死に至るケースも起きている。当たり前のことだがこれは映画人だけの問題ではない。被害者は広く一般にまで及ぶのだ。
重要なことなので繰り返すが、現在の映画業界は、過重労働の末に人が死ぬ場所なのである。
〇やりがいの搾取
「演劇は青春に頼らざるを得ないところがあるわけですよ。要するに、劇団はそれ単体では原理的に金にならないから、若い人たちをだまさない限り絶対に存続しない。いつもずーっと文化大革命しているようなもんだから。「毛沢東だ!」って言って若者をついてこさせないといけない」(出所:wonderland http://www.wonderlands.jp/interview/010/05.html)
これは劇作家平田オリザがこれまでの演劇界における労使の実情を言い表した言葉であるが、映像業界も結局はこれに近い状態にある。
1960年頃から、テレビの普及や娯楽の多様化から映画産業、すなわち大手撮影所の斜陽が始まったと言われるが、それを端的に示すのが、観客動員数である。
キネマ旬報社から出ている『映画・ビデオイヤーブック1999』によると、1960年において10億人超であったのが、2007年の段階では約1億6000万人にまで落ち込んでいる。当然、この50年の間に日本の総人口は増えているので、相対的な市場規模は、この数字以上に縮小していることになる。
撮影所システムの衰退に伴い、専属契約を結んでいたスタッフの多くは解雇されフリーになっていった。
1960年に10億を越えていた観客動員数は、そのわずか5年後の65年には3億7300万人にまで落ちている(注2)。一方で象徴的なのが、それまでわずか2本しかなかった独立系のプロダクションによる映画が、65年には218本に増えていることだ。
それはつまり、映画の現場に携わるスタッフの多くが保証のない不安定な立場に置かれたことを意味するわけだが、一方で産業としての衰退から映画製作費は縮小を続け、映画業界では悲惨な貧困労働が常態化していったのである。
そういった産業構造の変化に映画人ははたして対応出来てきたのだろうか。
「国際映画祭でも高く評価されているC監督の映画は、監督の作品を慕うスタッフたちがみんなボランティア同然の状態で情熱だけで頑張って作っている。結局それが理想の映画の作り方なんだよね」と言い放ったプロデューサーが現にいる。
数年前、そのプロデューサーの管轄するとある映画の撮影で、助監督がもらっていたギャラは準備から撮影まで1カ月以上の拘束で、7万である。そこには、携帯代、交通費もすべて含まれるので、彼の手元に残ったのは実質わずか1、2万だった。ちなみに、私もその現場にメイキングカメラマンとして呼ばれ、参加していた。一週間ほど、朝から晩までビデオで記録を残し、8本ほどのテープを納めたのだが、クランクアップの日にノーギャラであることを告げられらた(注3)。
はたして、これが理想なのだろうか? 時給400円に満たない現場、30日間休みがない現場、ときに過労による運転ミスで人が死ぬような現場が。
もちろん、否、である。
無駄をなくし、予算を抑える努力は賞揚されるべきであるが、低予算を誇ってみせるのは、まずはスタッフ、キャストに最低限のギャラとまっとうな労働環境を提供できてからのことではないか。
映画の製作環境の改善を願うなら、まずはその小さな第一歩として、プロデューサーはもちろんのこと、映画作家にしても、低予算でこんなにいい映画ができた、などと誇るのをやめるべきだ。スタッフの善意に甘え、その情熱とやりがいを搾取するかたちでしか映画を成立させられない現状を申し訳ないと思わなければならない。
映画の神様は気まぐれなので、粗野な技師に助手が殴られたり、安い賃金で新人が使い捨てられるたりするような劣悪な現場から、面白い映画が出来てしまったりもする。作品の質と労働問題は一端は切り離して考えないことには、搾取の問題を永遠に見失うことになるだろう。
〇撮影所の不在
では、どうすればいいのか? どこかに悪徳資本家がいて、労働者が団結してそいつを打ち倒せば、みんなが幸せになれるのだろうか。残念ながらそんな単純な話ではない。スタッフを低賃金で酷使する制作会社、プロデューサーにだって金がない場合がほとんどなのである。
繰り返しになるが、やはり大きなポイントとなるのは「日本にはかつて撮影所という高度な映画製作システムが存在した。そして今はない」、そこに尽きるのだ。
かつて産業として成功していた大手撮影スタジオ、その緊密なコミュニティの中で長い時間を掛けて合理的に選択され確立された大小様々なシステムが、撮影所の解体後は形骸化した慣習として残り、半世紀過ぎた今でも映画に纏わる様々な制度から柔軟さを奪っているとは言えないだろうか。
では、私たちは撮影所の復活を願えばいいのか? それも違うだろう。もう、時代は変わってしまったのだ。
今必要なのは、かつての帝国に思いを馳せることではなく、その美点を受け継ぎつつ、今の時代に即した新しいシステムを模索し、構築することである。
これは、映画を作ることだけではなく、「配給」「興行」にまでわたる複合的相関的な問題で、あるひとつの画期的なアイディアをもって快刀乱麻を断つというわけにはいかないだろう。しかし、かつての撮影所には何があり、今は何が欠けているのか、愚直に精査してみることは無駄なことではないはずだ。
例えばそのひとつに「経験の継承」という問題がある。
スタッフが基本的に撮影所の社員だった頃と違い、現在のように、フリーの人間が現場ごとに寄せ集められ解散していく体制だと、世代間の断絶という問題が不可避的に起きてくる。つまり、ベテランから新人への技術・慣習の継承がスムーズに行われないのだ。
これは、私見では、比較的徒弟制度が残っている撮影部、照明部などの技術部よりも、縦の連帯の薄い演出部・制作部においてより深刻な事態であるように感じる。それはつまり、現場でのチームワークの欠落を意味し、結果として撮影時間の長大化と無用なコストの増大につながっていくことになる。
ここでは、撮影所が担っていた「教育」という役割を今の時代にどういう形で代替えしていくかが問われることになるのだ。この件についての詳細は、また今後の回に記したいと思う。
〇諦観を越えて
映画とは関係のない業種に進んだ友人からよくこう言われることがある。
「好きなことやっているんだから我慢しろよ。嫌なら他の仕事を探せば?」
本来、仕事に対する個人的な嗜好と労働環境は別次元の問題であるはずだが、しかし確かにその通りである。我々には映画業界で働く自由も、転職する自由も与えられている。愚痴を言うぐらいなら辞めればいいのだ。下手に映画業界で働くより、時給も待遇もいい仕事はいくらでもあるのだから。
それでもなお映画と関係し続ける道を選ぶのならば、働き易い仕事の場は自分たちの手で作っていくしかない。いつまでも、映画が好きな、映画の現場が好きな人間が人生を棒に振る覚悟で飛び込むような業界ではなく、茫漠とした未来を思い描く10代20代の若者が、進路のひとつとして普通に考え選択できるようなレベルにまで労働環境の整備を進めていかなくては、文化産業として今のまま衰退していくに任せることになるだろう。
結局、我々の最大の敵は、業界を覆う「諦観」である。仕事がキツイのもお金がないのも、これが常識だから、みんなそうなのだから、所詮は浮草稼業だから、仕方がない、という諦めをまずは取り払わねばならない。
今回のシリーズでは、各国の助成金制度や労働組合の活動、あるいはシネマコンプレックスの在り方などを考え、紹介することで、まずは日本の映画業界の現場と、製作から配給までの構造をできる限り相対化していきたいと思う。
「業界の常識」は必ずしも「世界の常識」ではない、ということを知るだけでも、今の自分(たち)の置かれた場所を見る目は変わってくるはずだ。
まずは、安易に現状を肯定せず、何が出来るかを考えていかなくてはならない。我々は、今現在も、「非常識」の只中で映画を作り、作らせ、作らされているのである。
最後に、なぜ私のような映画スタッフとしても監督としても経験の浅い人間が、このような問題提起をしようと思い立ったのかだが、白状すると、結局私自身もこれまで多くの友人や俳優たちの好意と情熱に甘え、彼らを搾取するかたちで映画を作ってきたのである。その贖罪と言ってしまうといかにも大袈裟であるが、今後、私と映画作りを共にしてくれる人たちを搾取するようなことができるだけないようにしていきたいからに過ぎない。
映画を愛し、その製作や上映に携わる人たちが、アルバイトに時間と情熱を摩耗されることなく、ごく最低限の生活費と社会保証をもとに文化的な生活が送れるようになる日を夢見るが、それは一朝一夕にできることではないだろう。10年か、20年か、50年かかることかも知れない。とにかく私たちは色々な意味において貧しいこの現状の中で、ギリギリの選択を繰り返しながら良質な映画を作り続けることと、一方で労働の場を改善していくための小さな努力を並行して進めていかなくてはならない。今回の「映画と労働を考える」シリーズがその一助になればと願う。
映画という産業の抱える問題は複雑で、私自身知らないことも多く、また間違った認識を書いてしまうことも正直あると思う。今回のシリーズは、私としてはこれを読んでくれた人と広く問題意識を共有し、今後の議論に繋げていくための「叩き台」と位置づけている。意見や反論、賛同などあれば教えて頂きたい。
次回は、各国の文化助成の取り組みを見つつ、日本における映画助成の在り方を考えてみたい。
注1)
もちろん、最低賃金は「労働者が健康的で文化的な最低限度の生活を営むことができる」金額として設定されている以上、請負だからといって道義的にはこれを下回っていいわけではない。
注2)
不思議なことに60年から65年の間に観客動員数がこれだけ落ちているにも関わらず、興行収入は720億から750億に増加している。これはつまり、入場料が値上がりした結果である。60年の平均入場料が71.77円であるのに対し、65年には202.61円まで増えている。当時の円の価値の変動と比較しても、大幅な値上げである。その後、観客数の減少に反比例するように入場料は上がり続けている。
注3)
この件について、本来、事前にギャラの話をしなかったのは仕事を受注する側である私の落ち度である。鍵を掛けずにまんまと自転車を失敬されるようなものだ。
ギャラの話をしなかった理由は、ひとつは単純に私の気が弱く、友人である制作担当者に聞きづらかったということもあるが、そもそも「金がない」という悲鳴は彼からずっと聞いていたので、格安であるだろうことは予測がついていたからである(それでも、まがりなりにも「商業映画」でノーギャラというのは想定外であったが)。
しかし自分の落ち度を棚に上げることになるが、労働法においては最低賃金を下回る場合、たとえ両者の間に合意があったとしてもそれは「無効」であり、労働者は後からでも正当な給与を雇用主に請求することもできるのである。
それはつまり、雇用される側はどうしても雇用主より弱い立場になり易く、低い賃金に文句を言えば「君の代わりは他にもいるよ」の一言で仕事がこなくなる不安に常に晒されているので、雇用主は契約以前の義務として最低限の労働環境を準備しなくてはならないのである。
また、日本の映像業界において「最初にギャラの話が出ない」というのは、必ずしも珍しい話ではない。そして、最後になって予想以下の金額を提示されることもよくある話で、つまりは「業界的慣習」も労働環境の改善のためには問題にしておく必要がある。
労働契約法においては、労働前の契約内容の明示は雇用側の「義務」である。
なお、これは業界最底辺の話であることは間違いないが、最底辺の底上げを考えないことには労働問題は解決し得ないだろう。
text by 深田晃司(映画監督)
※本連載に関するご意見などは下記アドレスまでお願いします。
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【参考資料】
時事映画通信社『映画年鑑1955』
時事映画通信社『映画年鑑2008』
キネマ旬報社『映画・ビデオイヤーブック1999』
村川英著 ワイズ出版『成瀬巳喜男の演出術』
【映画と労働を考えるシリーズ 今後の予定 ※変更の可能性あり】
第2回 各国の文化助成比較
第3回 助成金に頼らないシステム作り 資本の循環
第4回 ユニオンの意義と可能性 日映演とアンテルミトン
第5回 シネコンの在り方
タグ:深田晃司