「ニュー・メタフィジックス」(new Meta-Physics)
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第3章 創造性(Creativity)
第1節
第1章と第2章で、皆さんの社会における宗教と科学という根本的な二極性について話し、
更に、これらの二つの概念を二極性という観点(信念と科学的証明)と、統合された観点(すなわち、
信念と科学的証明が共に同じものを探求し表現しているという、統合された全体的理解の観点)から、
皆さんが哲学と呼ぶ包括的な考え方を通して見てきました。
この章では、皆さんが創造性と呼ぶ概念について話します。
二つの極の間に存在するものについてはすでに話をしました。物理次元に表現された二極性はたくさんあります。
すでに述べたように、二極性とは、物理的現実そのものに真実味を加えるような定義づけの概念、
パラメーター、または境界を創り出すもののひとつです。そして、皆さんが、物理的または肉体的に
自分自身を表現することを可能にするために創り出した、性格の構造の基礎となる概念のひとつです。
この「性格のプリズム」と呼ばれるメカニズムは、創造性が皆さんの存在の中に湧き出で、
そしてイマジネーションを通して出て行く際、最後の出口となるものです。
夢の現実つと物理次元の現実は両方とも、本当の現実であると述べたことを思い出してください。
*夢の現実は、より気づいている状態であり、その意味では、皆さんが真に目覚めている状態です。
*物理的現実とは、皆さんがその中でたんん級したいと望んでいる制限の結果であり、夢より
深い眠りについている状態です。どちらかと言えば、本当は、この物理次元のほうがより夢に近い状態
だと言うことができます。なぜならば、皆さんが普段使っている夢の定義付けに、より近いものになるからです。
分離された観点から観た時とこの現実世界の中では湯のほうがより制限される状態と思います。
そして、現実世界の方が、夢の世界よりももっと現実的だと思い込んでいます。
皆さんのイマジネーションが、皆さんの夢の世界と物理的世界をつなぐ架け橋なのです。
イマジネーションは、皆さんの意識の中の物理的そして非物理的な両方の方の見方を引き出し、
融合することを可能にする道具のメカニズムなのです。イマジネーションは科学と宗教における
二極性にも当てはまり、特定の性格構造のタイプによって科学的な証明もしくは信念のどちらかを通して、
創造性を表現していると言えます。
イマジネーションのメカニズムは、科学的または宗教的な一方的な味方をする人達にとって、
両方からのものの見方が可能であることを教えてくれます。簡単に言えば、宗教的な人も科学的なマインドを
持つことができるということです。そして、どんな科学的な頭をもった人でも、宗教的な考えを
もつことができるということです。多くの場合は、概念そのものの中に、信念の源に対して
膨大な研究を必要とする多くの分析や定義付けが含まれています。同様に、科学的な功績には、
イマジネーションのひらめきや、集合意識の部分から来る分析ではない、啓示などが含まれています。
そして多くの方法論は(皆さんの多くが長い間これを認めるのを渋ってきましたが)科学と宗教という
両極に様々な形で応用できるのです。どちらにせよ、この両者は同じ意識から見た「ものの見方」
からの派生物です。
さて、皆さんのイマジネーションは、意識の中の創造的な部分を表現する道具です。そして、
この人生において表現することを選択した「自分」という人工的な性格の波動に常に完璧に同調されます。
ですから、皆さんがイマジネーションの中で見せるもの、感じるものは、常にその瞬間に皆さんが
探求しようと望んでいるもの、または必要としてている自己の意識の一部を代表して見せてくれているわけです。
多くの人が、イマジネーションは現実なのか非現実なのかということに関して非常に混乱します。
ここで、二つの考え方を説明するために、イマジネーション(想像)と空想という言葉を使い分けさせてください。
別に私達は、イマジネーションが現実であり、空想が非現実であると考えているのではありません。
イマジネーションも空想も両方とも現実だと考えています。しかし、ここで皆さんの物理的次元の
生活に何が応用できるのか、この物理的次元の人生において 皆さんが探求している目的を表現するために、
自分自身に創り出したある特定の性格構造に対していかに創造的応用ができるかということについて
話をしたいのです。
ですから、ここで私達が「イマジネーション」と呼ぶ概念は、皆さんの言葉で言えば「物理的現実の
中である程度できる目標を示し、また、その目標と共鳴できる波動」のことを言います。
なぜなら、これらは皆さんが肉体を持つことを選択した理由と調和し、共鳴するからです。
空想も現実ですが、この物理的次元の生活には応用できないということだけです。
皆さんの言葉で言えば、空想はこの次元の現実、または平行次元の現実、もしくは意識の密度レベルの
中では応用できないということです。
皆さんが住んでいると思っている宇宙とその周辺の物理次元においては、皆さんは創造のエキスパートです。
皆さんは常に創造してきました。肯定的な創造も否定的な創造も、どちらも創造には代わりありません。
これは誰にでも当てはまります。皆さんは常に創造し続けています。否定的な創造をしていたとしても、
それは決して皆さんが劣っている存在だということではありません。皆さんは好みを元に(判断からではなく、
ただ単に、好みの問題なのです)この物理次元で望むもの、そして自分がより調和し共鳴できるものに対して、
子怒涛する機械を自分自身に与えるだけなのです。
皆さんは現在の人生で肉体を持つことを選択した目的に向かっていくために、次のものを
自ら体験することを選択をしました。
*皆さんの現実の中のすべての考え
*すべての状況
*すべての関係
*すべての物質
*すべての考え
*すべての出会い
*すべての日
*すべての夜
*すべての思考、フィーリングそして観念
これを認めることが、皆さんが創造的に創り出した人生の障害を取り除く最初のステップです。
皆さんは、自分の歩むべき道から外れたり、妨げられたりすることが可能だと思っているかもしれません。
でも、それは、皆さんの本来の姿である大いなる全てからの分離を探求してみる機会を自分自身に
様々な手段を用いて、とても創造的に与えられるだけなのです。前に述べたように、
ここ過去2万5千年間は地球は分離のサイクルの中にいました。ですから、そのような状態に
置いてしまうのも皆さんの創造性の中で創り上げられたクセなのです。
しかしここで理解してほしいのは、皇帝的な創造性も否定的な創造性も同じメカニズムに基いていることです。
日常生活中で何か否定的な出来事が起きた時、自分が創造的でないと感じるのも
ひとつの見方に過ぎません。皆さん自身である大いなる全てからの分離と判断と考え方を、
皆さんの方程式の中に当てはめただけなのです。
ここで大切なのは、皆さんに降りかかるものは何もないということです。すべては皆さんが
創り出しているのです。二極化された観点ではなく統合された観点から自分自身の行動を見てみる時、
皆さんの創造性は、否定的なものより皇帝的な現実をより好み、そして選択ができるとがわかるでしょう。
だからといって、肯定的な現実がより良いものであり、否定的な現実が悪いものであると言っているのではありません。
ただ単に、みなさんん自身の創造性の中で、すべてが平等であることを認識できるというだけです。
意識的なものを創造していく上で大切な考え方のひとつは「あなたの現実に存在する巣へ手が平等」
ということです。これを踏まえて初めて、皆さんは自由な意識をもった創造主となることができるのです。
創造性において「好み」はヒ上に大きな役割を果たします。なぜなら、皆さんは自分が表現したいと
望んでいる特定の見方や概念に、常に自分自身を合わせてしまうからです。これは、別に判断ではなく、
単に好みからくるものです。
社会の中での二極性を伴った全ての行動を融合すると共に、皆さんの創造性にこの「対等性」と
「選択の自由」を加えた時(観なさにの一部の人は、時々これを自分自身に許していますが)、
皆さんはあらゆる分野で創造的に活動できることを知るでしょう。時には、物事がうまく運ぶために、
必ずしも決まった方法がなくても可能なのです。
別の言い方をすれば、皆さんは多角的な機能を持った存在になれるということです。
本来の姿である多面的そして多次元的な存としての自分を表現することができるのです。
信念と科学的な証明の両方を実践することができることがわかるでしょう。皆さんは哲学者にも
科学者にもなれるのです。医者、数学者、農学者、先生、生徒、探求者など、何にでもなれるのです。
人の上に立つ人にもなれます。技術者にもなれます。想像の対等性の中で、皆さんはこの人生で
自分が望むどのようなものをも自己の内に見つけることができるのです。
重ねて言いますが、皆さんの創造性は、このように皆さんから分離したものではありません。
創造性はどのような次元においても、単なる道具ではないのです。単なる才能ではありません。
創造性はまさに皆さんの本質そのものなのです。皆さんは創造物であると同時に、創造主でもあるのです。
どのような現実においても、皆さんが想像していない状態はありえないことを知ってください。
皆さんがなすことすべてが創造なのです。
このように創造は(それ自体の内に、創造可能なすべての創造物が含まれているという意味で)
完結していると言えます。それにも関わらず、更に新しいものも創造できるのです。なぜなら、
この「新たな物を創り出せる」ということ自体、想像の中にすでに含まれているひとつの概念だからです。
「新たなものを創造できる」ということは、単に皆さんの中にすでに創造性があることであり、
皆さん自身が創造性そのものだということです。それと同時に皆さんの完全性を表現しているのです。
皆さんが、自分自身の完全性のどの部分を探求したにせよ、それは自分自身を創造する行為、
創造を創造する行為、そして創造性を拡張する行為となります。このように、創造はすでに
完結しているにもかかわらず、終わることなく続くのです。
「(物事が)おきることを許す」、これが皆さんと皆さん自身である宇宙を創造性で満たす要素となります。
創造的になるために何かをしなければならないとか自分ら無理に強いる必要はありません。
一歩下がって客観的に見れば「自噴に何かを強いる」行為自体が、芸術的で創造的なアイディアであり
発明であることがわかるでしょう。自分自身に何かを無理にさせなければならないという概念すら、
それ自体がとても創造的だと言えます。このように、皆さんは常に創造し続けるのです。
皆さんが、創造的に表現し探求している中で、壁にぶっかったと思う時、皆さんが期待していたのとは
違う形で創造的な機会を自分自身に与えていると気づいてください(通常、期待とは自分自身に対する
判断であり、制限を作ります)。壁すら、そこに存在することを「許す」ことによって、
自分に役立つような創造的な目的を持った壁となることを「許す」ことが゛できるのです。
皆さんが、これらの創造的な壁を見ることに多くの時間を費やしているとしたら、本当は皆さんが
心から探求したいと望んでいるものは(そして、多分その時に一番役に立つのは)壁そのものだと
いうことに遠慮なく気づいてください。その壁自体を研究すること自体が創造的な探求となり、
それによって、鎖から解き放たれたり、その壁を取り除くことができるでしょう。
不思議なことに、その壁が意味を持つことを許してあげるや否や、壁ではなくなります。
皆さんの前に立場かっていると感じていたくらい壁、障害物、空虚さなどに光が射してきます。
光が射し、その新の性質が現れ始めます。やがて、それがひとつのメッセージやひとつの目的に変化し、
皆さんが物理次元で探求したいと望んでいたものに姿を変えます。
ここで、繰り返し言いたいのは、どのような障害も、皆さんがそれを障壁だとみなすことを選択するまでは
障壁ではあり得ないことです。皆さんの物理次元で起きることすべてが、完璧なタイミングで
花開いているだけだという見方ができれば、皆さんの創造性はスムーズに邪魔されることなく
流れていきます。なぜならば、皆さんの皆さんに対する新しい見方と波動になるからです。
ここで覚えてほしいのは、皆さんが自分自身をどう見ているかによって、創造性が大きく制限
されてしまうことです。セルフ・イメージ、自分自身をどう思っているか、どんな自分になりたいか
という観点と、そして、なりたい自分をどれだけ表現していこうかという信念の強さが、
皆さんの意識の上で感じられる創造性の加速を決定します。
このように、ひとりひとりがすべての二極性の統合を許し始め、そして、すべての出来事が
大いなる全てへの奉仕であり、それより自動的に自己に対する奉仕になるという見方をし始めるに
従って、それぞれの個人の創造性の流れは増します。この創造性の流れの波動が、その人の魅力やが
輝きだすような波動まで達すると、周りの人々にもそれが感じられるようになります。
これがすでに創造性を自由に表現している人々を引き付けます。そして、はじめに創造的な表現をした人が、
必要な状況、人、人間関係、情報やものなどを、完璧なタイミングで無尽蔵な源から引き出すことを
可能にし、その人の目的をも充たすと同時に、他の周りに 集まって来た創造的な人々の持つ目的や
奉仕に対する鏡の役割を果たします。
これは常に、起きていることです。今までは、単に、大いなる全てへの奉仕と人の鏡となることを
あらゆる分離の方法を通して探究していただけです。そして変革期に入った地球上で、
探求が肯定的実現化、許可、統合などを通しても可能だと言うことを理解し始め、これらの新しい方法を
意識し統合していくことを決めました。こうして、地球における一種の創造的な推進力、
私たちが「偶然の恍惚的爆発」と呼んでいる楽しい偶然の連鎖反応を各個人が体験できるでしょう。
自分の外に対して奉仕を行っている人は、その人が選んだ目的や奉仕に必要な全ての情報を
自動的に引き付け始めるでしょう。
可能な限り意識的に感じるままの自分になることを許すこと自体が、他の全ての人にとっても
自動的に奉仕となります。
皆さんはただ存在するだけで、そのユニークな物理次元化した性格を通して自分と言うものを
表現することにより、単に自ら自分自身の道となることができます。すなわち、他人の尺度で
計った自分ではなく真実の自分に忠実で、ありのままの自分をただ受け入れ自由に表現することにより、
周りの人すべてに対しても、もっと偉大な奉仕ができるのです。見なさなの文明全体を多くの面を持った
水晶に例えれば、その時初めて、その中のあなたである面を完全に表現することができるのです。
可能な限りの表現に満ちた「面」となることによって、その他のすべての面(実はこれもあなた自身なのですが)
に対しても、真実より明確に反映する鏡となることを許していることになります。
あなたは完全な自己を体験し、周りの人々はあなたと言うもうひとつの面を知ることができます。
これにより、他のすべての面とつながっている自分を見、そして体験することができるのです。
もうこれからは自分が他の面とつながっていないと感じて孤独になったり、非難されていると感じて、
ひとり引き込もらなくていいのです。この孤独な状態は、ちょうどひとつの水晶でありながら、
れぞれの面が隙間を持っていて互いに触れ合っていないようなものです。
自由で創造的な表現ができるようになると、ひとつの完全な表現力をもった面となることを
自らに許すだけでなく(こができれば、皆さんの社会のすべての知的側面を自動的にサポート
することができるのですが)、あなた自身も完全な多面的水晶そのものとなることができます。
あなたの統合が進めば進むほど、他の面があなたの中にも反映されるからです。そして、その多面性の中に、
あなた自身の多次元的な完全性のすべての木月が含まれているのです。
このようにして、ホログラフィー的に見れば皆さんひとりひとりは、創造の中のすべての面の完全性
そのものなのです。その水晶全体が皆さんであると同時に、皆さんはひとつの面であり、全体であり、
そして同時に他のすべての面に向かって光を反射します。皆さんを含むすべての面が、
様々な反映やアイディアを無限に引き出す源となることができるのです。創造性と創造は常に前進します。
それには始まりも終わりもありません。終わりのない球体の水晶のようなものです。
常に、内にそして外に向かって反射を続けているのです。無限に、そして永遠に。
これで、この章の第1節を終わります。
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